海牙が髪を掻き上げた。眉をひそめて口を開く。
「今、運命のこの一枝に、白獣珠はいくつあるんでしょう?」
「海ちゃん、それ、おれも考えてた」
二人のやり取りに、師央が、ひとつ身震いした。
「どういう意味ですか? 白獣珠は、二つじゃないんですか? 煥さんのと、ぼくの」
「ループしているかもしれないんですよ。この一枝、延々とループし続けてるかもしれない。その可能性に、さっき気付いたんです」
「ループって?」
海牙は理仁に目配せした。理仁は、海牙に「どうぞ」とジェスチャーする。海牙が話を続けた。
「煥くんが持っている白獣珠をA《エー》とします。やがて生まれる師央くんが、Aを引き継ぐ。Aを持った師央くんが時間をさかのぼる。過去で出会う煥くんも、白獣珠を持っている。これをA’《エー・ダッシュ》とする。Aのほうは、過去の時点で紛失する。でも、やがて生まれてくる師央くんはA’を引き継ぐ。今度はA’が時代をさかのぼる。Aがどこかに紛失したままでね」
師央が、ふらりとよろけた。
「それが繰り返されてるって言うんですか? ぼくが、時間をさかのぼり続けて、Aの’《ダッシュ》の数が増え続けて、つまり、白獣珠の数が、増え続けていて? でも、おかしいですよ。それじゃ、どこに、そんなたくさんの白獣珠が?」
海牙が、かぶりを振った。
「わからない。曖昧な仮説ですよ。物理的には成立し得ないように思える。でも、原理的に想定することもできる。ただし、もしこの仮説が正しいのなら、危険ですね。この一枝の質量が増え続けているんだから」
師央が、へたり込んだ。
「じゃあ、ぼくは? ぼく自身は、何人?」
海牙が口ごもった。理仁が代わりに言った。
「どこかにいるのかもしれないね。ドッペルゲンガー的に。でもさ、一般的に平和な感じで生きてはいない。だって、師央は未来、見てきてるよね? 自分そっくりの親戚なんて、いないでしょ?」
師央がうなずく。理仁が顔から笑みを消した。
「考えられるシナリオとしてはさ、次はたぶん、師央が死ぬ」
ガン、と頭を内側から殴られたような衝撃。
「ちょっと、待てよ、おい」
自分が死ぬ未来を見たときよりショックだ。師央が、この時代で死ぬ?
「あっきー、おれは今から残酷なこと言うよ。もし、この一枝が師央を軸にループしてるなら、その要因は、あっきーと鈴蘭ちゃんにもある。師央って存在を生まないって選択肢もあるんだよ? でも、二人はそれを選ばない。だから、師央が生まれる。ループが続く。どうしてかな?」
理仁がオレを見る。朱い光を宿す、冷たいほど真剣な目。オレは答えられない。理仁は鈴蘭に視線を移した。鈴蘭が理仁に答えた。
「挑戦するため。今度こそ必ず運命を変えたい、って。だって、わたしは二人を愛するから。その未来が訪れないなんて悲しすぎるから」
理仁は冷静に言った。
「でも、それがループを引き起こす。師央に何度もつらい思いをさせる」
「やめろ、理仁」
「あっきーにも、わかってるはずだ。この一枝は、そろそろマジで異常だよ。最近、しょっちゅう未来が見えるんだ。予知夢ってやつ。昔から、軽~い予知はできてたけどね。勘がいいって程度で。なのに、師央が来てからこっち、本気で変だ。本気でヤバいと思う」
未来が見えるという言葉に、オレの胸に痛みがよみがえる。大切なものを守れない悲しみと、目的を遂げられないまま死ぬ悔しさがよみがえる。
「あっきーも見えてんだ? さっきの言い方からすると、鈴蘭ちゃんもね。わかってんでしょ? これから起こること。師央が確かに経験するはずの不幸。それでもこのまま進もうって思う?」
海牙が静かに言った。
「師央くん、話してくれませんか? いつ、どうして煥くんたちが死ぬのか。なぜきみが時間をさかのぼろうと決心したのか。ぼくがみんなに伝えますから」
師央は力なくうなずいた。唇が動き始める。声はない。海牙は師央の口元を、じっと見ている。
オレは壁にもたれて目を閉じた。しんとしていた。自分の呼吸の音が、ひどく大きく聞こえた。遠くから、人のざわめきが聞こえる。瑪都流の面々が声をあげているんだろう。
長い時間はかからなかった。師央の弱々しい声が、話の終わりを告げた。
「……これで全部です」
海牙が額を押さえた。
「考え付く限り最悪のシナリオですね。だからこそ質量が大きい。あるいは、ループしながら、より大きく成長しているのかな」
「おい、海牙?」
海牙は目元の表情を隠したまま語った。
「師央くんが産まれるのは、今から四年後、煥くんが二十歳のときです。そして、それから約一年後、師央くんの両親とその友人が死ぬ。つまり、煥くん、鈴蘭さん、ぼくが死ぬ。青獣珠と玄獣珠も奪われる。そこで生き残るのは、師央くんと文徳くん、それと白獣珠」
オレは師央を見た。師央はうなずいて、目を閉じた。目尻に涙がある。海牙は続ける。
「師央くんは文徳くんに引き取られて、襲撃者から隠れながら暮らす。でも、三度、見付かった。一度目は、師央くんが物心つく前。そのとき、文徳くんの親友が死んだ。同時に、朱獣珠が奪われた」
理仁が唇を噛んだ。兄貴の親友ってのは、理仁だ。
「二度目は、師央くんが十歳のとき。この襲撃は、師央くんも記憶している。銃を乱射されて、文徳くんの仲間たちが死んだ」
仲間たちってのは、瑪都流だ。牛富さんや雄が、争いに巻き込まれて死ぬんだ。
「そのとき聞いた言葉がある。襲撃者のリーダーが、文徳くんに言った。古巣からはとっくに離れた、と」
理仁が師央に訊いた。
「その古巣ってのは、KHANって意味?」
師央の唇が動く。声が出ない。もどかしそうに、首筋に爪を立てる。海牙が、かぶりを振った。相変わらず表情を見せない。
「師央くんは、十歳のころにはわからなかった。襲撃者の正体も、なぜ白獣珠が狙われるのかも。今回、やっとわかったんですよ。正木さんの顔を見て、襲撃者のリーダーが正木さんであることを思い出した。そして、襲撃の要因が今この現在にあることもわかった」
理仁が鼻を鳴らした。
「やっぱ、正木ってやつ、ハマっちゃうわけね。白獣珠で願いを叶えて、それが癖になる」
正木はさっき、白獣珠を使った。理仁の号令《コマンド》を解除するために、自分の身が傷付くことを代償にして。
海牙は師央の物語を続ける。
「師央くんが十五歳の春。最後の襲撃があった。文徳くんの一家が殺された。文徳くんは、最期に白獣珠に願った。師央くんと白獣珠を過去に送って、運命を修正する。代償は、文徳くんの命。時間跳躍《タイムリープ》した先もまた襲撃の場で、師央くんは両親と伯父が死ぬところを目撃した」
オレは思わず口を挟んだ。
「兄貴が死ぬ? でも、兄貴はそこで生き延びるはずだろう? 師央は、そういう未来を生きてきた」
「たぶん、ぼくの仕業ですよ。師央くんの声を代償に、師央くんをさらに過去へ送る。師央くんが目撃したのは、そこまでだけどね。ぼくは、論理のつじつま合わせをするはずです。力学《フィジックス》がぼくの行動原理だから。力学、物理学は、論理の学問なんですよ。師央くんを育てるのは、文徳くんです。その結果を成立させるために、ぼくは自分の命を代償に、文徳くんを蘇生する」
そして十五歳の師央が、因果を背負った白獣珠を携えて、オレたちの高校時代に現れた。
オレは頭が回っていない。思考が止まっている。でも、口が勝手に動いた。
「どう思った? 顔も知らなかった父親の若いころを知って、何を感じた?」
栗色の髪と赤っぽい茶色の目の、伊呂波家の血筋の色をした師央を初めて見たとき、オレに似た顔だと、自分でも思った。
師央が、くしゃりと顔じゅうで笑った。そんな表情、オレはしない。師央だけの表情だ。
「嬉しかった。煥さんを初めて見たとき、銀色の髪、金色の目で、伯父さんから聞いていたとおりで。顔、覚えてないのに、なつかしくて」
笑った師央の両目から涙がこぼれた。
最初は信じられなかった。いきなりパパと呼ばれて、意味がわからなくて、苛立った。だけど、今はわかっている。オレのやりたいこと。
「オレが師央の運命を変えてやる」
海牙が、額を押さえる手を下ろした。緑色の目は陰っている。
「運命を変える、か。できれば、ぼくもそうしたいと思いますよ。歴史に名を残す物理学者は長寿の傾向があってね。ぼくも彼らにあやかりたいところなんですが」
鈴蘭が自分自身を抱きしめた。力を込めているのがわかる。それでも、小柄な体の震えが収まらない。
「わたしも、どうにかしたい。何度目のループでも、同じように思ったはず。だけど、師央くんはこうしてここにいる。わたしにできることがあるの?」
師央が涙を拭いた。オレは拳を固める。考えなきゃいけない。手がないなんて、信じたくない。
理仁が椅子から立った。服の内側から、朱獣珠を取り出す。朱い輝きの宝珠を指先で弾いた。
「どのループでも試してないこと、あるよ。一か八かだけどさ、案外うまくいく気がする」
全員、ハッとして理仁を見た。オレは理仁に詰め寄った。
「試してないこと? そんなのがわかるのか?」
「ま、これだけは確実にね。その前に一つ、身の上話、していい? おれが朱獣珠を嫌ってるって話。嫌ってる理由をね、聞いてほしくて」
理仁はもう一度、朱獣珠を指先で弾いた。師央が首をかしげた。
「朱獣珠そのものを、ですか? 能力を持ってることを、ですか?」
「朱獣珠のほうだね。こいつのせいで、おれの家族、悲惨だし。といっても、師央よりは平和だよ? 師央のシナリオはひどすぎる」
理仁は天井を仰いだ。言葉を探してるように見えた。少し間があって、理仁は再び口を開いた。
「おれの親父はさ、普通の人なんだ。能力がないって意味でね。でも、朱獣珠のチカラは、もちろんよく知ってて。若いころから、何度も頼ってたらしい。そういや、師央以外のみんなは見たことある? 四獣珠のチカラが発動するとこ?」
オレは、ない。鈴蘭も海牙も、首を横に振った。
「そーだよね。たぶん、それが正常なんだ。預かってるだけで、使わない」
師央が理仁に確認した。
「理仁さんは、見たことがあるんですね。おとうさんが朱獣珠を使うところを」
「何度もね。そのたびに、ペットが死んじゃって、親父の財産はガバガバ増えてった」
「ペットの命を代償に?」
オレは合点がいった。
「正木が四獣珠を狙うようになるって話に、さっき理仁は、やっぱりと言った。それは父親を見てきたからなのか」
「正解だよ、あっきー。ハマっちゃうんだな、あのチカラに。そりゃ、便利だもんね。おれだって使いたくなったことがあるよ。親父を消してくれ、ってね」
鈴蘭が眉を曇らせた。
「長江先輩のおとうさんって、襄陽学園の理事長ですよね? そういうかたなんですか?」
理仁がため息をつく。
「そーいうかた、なんだよね~。朱獣珠があるからって、後先考えてなくてさ。おれが中学のとき、一時期マジでヤバかった。経営全部がドミノ倒しになりかけてたの。家政婦に給料払えなくなったりしてさぁ、姉貴と二人でファミレスに世話になったね」
海牙が腕組みをした。
「でも、全面的に立て直しましたよね。今はむしろ以前より経営状況がいいはずです」
「海ちゃん、知ってんだ? 預かり手の家系を調べたって言ってたっけ? 不自然だと思ったっしょ?」
「運がよすぎる、と思いましたよ」
理仁が鼻で笑った。歪んだ口元が、普段の理仁と違う。両目に暗い怒りが燃えている。
「運じゃなかったんだよ。朱獣珠が起こした奇跡でね。でも、親父が願ったんじゃないんだ。そのときだけはさ、おふくろだった。経営が破綻ギリギリまでいったとき、おふくろがさ、何て言ったと思う?」
ぐるりと、理仁がオレたちを見渡す。海牙が答えを知っていた。
「だから、植物状態なんですね。リヒちゃんのおかあさんは」
オレも鈴蘭も師央も、息を呑んだ。理仁は淡々とうなずいた。
「自分の身はどうなってもいいから、って言ったんだよね。そしたら、経営が奇跡的に回復した。おふくろは倒れて、それっきり。なのに、親父、平然としてやがんの。怖いよ~、マジで。次は誰が代償に使われるか、わかんないもん」
口調だけは軽いふりをしている。笑いを保とうとする理仁の顔に、憎しみが透けて見える。
鈴蘭が口元を覆った。
「だから、長江先輩は朱獣珠が嫌いなんですか」
「うん、大っ嫌いだね。こんなもん預かってるって、マジで最悪。あっきーと鈴蘭ちゃんと海ちゃんがうらやましい。四獣珠の怖さ、見ずに済んでてさ。でも、おれは見てるわけでね。だから余計に、おれは師央を助けたいって思うわけ」
理仁は師央に笑いかけた。ちゃんとした笑顔だ。普段の理仁に戻っている。
「おふくろのことがあって、わかった。命の質量って重いんだよ。生命保険とか、ふざけんなってくらい安い。だって、うちの財産、一億じゃ利かないよ。それをおふくろ一人の正常な命ひとつで全部、あがなった。すげぇ話じゃん? だから、殺されちゃダメだよ、おれら。じーちゃんばーちゃんになるまで生きてようぜ」
オレはうなずいた。命の重さは、オレも知っている。両親が死んでからの日々。ねじ曲がりかけた心。あんな思いを、師央にさせたくない。
海牙が、冷静な目を理仁に向けた。
「きみの具体的な考えは? どうやって運命を変えようというんですか?」
理仁が朱獣珠を拳に握り込んだ。そのまま握り潰してしまいたいかのように。関節が白く浮き出すくらい、力を込めて。
「朱獣珠が大っ嫌いなおれだから思い付いたんだ。こいつに願うんだ。運命を変えるための時間跳躍《タイムリープ》をしたい、ってね。代償は、それ相応の質量を持った存在。つまり、こいつだよ」
理仁が拳を掲げた。拳の内側に、朱獣珠がある。
師央が、あっと声をあげた。
「四獣珠を代償にする。つまり、四獣珠を破壊するんですね? 確かに、それだけは、どのループでも試してません。四獣珠を巡る争いが繰り返されてるんですから」
鈴蘭が胸に手を当てた。首から提げた青獣珠が、服の内側にあるはずだ。
「でも、四獣珠を失ったら、わたしたち預かり手の能力も失われますよ? このチカラは、四獣珠を守るためなんだから」
理仁は笑い飛ばした。
「いらねーよ、こんなチカラ。あのね、意外と不便なの。本気になったらさ、勝手に出んだよ。好きな子とキスしたいとか、おれは思うだけ。相手のほうから勝手にしてくるの。おれが無意識に号令《コマンド》しちゃってるの。むなしーんだよ、こんなの。おれはマジで恋がしたい。マジの友達がほしい。文徳しかいなかった。寂しかったんだよ!」
いつの間にか、理仁の顔に笑いはない。
海牙が、軽く右手を挙げた。
「ぼくも、それに乗った。玄獣珠と能力、手放します。同感ですからね。ぼくは、物理も数学も、誰よりも得意です。視界を埋め尽くす数値と数式のおかげでね。でも、それじゃ、つまらない。チカラはなくていい。本当の自力で、ぼくは世界最高の物理学者になりたい」
鈴蘭がうつむいて、うなずいた。
「わたしは、わかりません。青獣珠を守るように言われてきたのに、それを失くしてしまうなんて。でも、未来を救うことができるなら、運命のこの一枝をループから解放できるなら、わたしもやります。力になりたい」
オレは左の手のひらに、右の拳を叩きつけた。パシン、と小気味いい音が鳴る。
「決まりだな。理仁の案でいこう。一か八かだ。でも、可能性がある。やってやろうぜ」
師央が泣き笑いの顔をした。
「皆さん、ありがとうございます!」
オレは師央の栗色の髪をくしゃくしゃにした。
「全員の命が懸かってるんだ。おまえだけじゃない。全員を救うんだ」
でも、オレがいちばん守りたい命は、おまえだ。師央。おまえの命を守るために、おまえの幸せを救うために、オレは、みんなで生きたいと思う。
理仁が拳を開いた。朱獣珠がきらめいた。
「んじゃ、最初はおれの朱獣珠でいい? 能力もセットで消えるわけじゃん? 時間跳躍《タイムリープ》先、たぶんバトルだよね。ってことは、おれがいちばん役立たずなわけで。だって、敵は正木と世良だもんね」
鈴蘭が、ぶんぶんと首を左右に振った。
「わたしがいちばん役立たずです! わたしがみんなを時間跳躍《タイムリープ》させ……」
「スト~ップ、鈴蘭ちゃん。きみがいなきゃ、話にならないって」
「どうしてですか? わたし、足手まといですよ」
海牙が理仁の肩に手を載せた。
「ぼくも、リヒちゃんに賛成です。時間を跳んだ先に、鈴蘭さんは不可欠ですよ。傷を癒してもらわないといけないからね」
「傷を、癒す?」
「おそらく跳ぶ先は、ぼくらが死ぬ地点です。未来からきた師央くんも、一度立ち寄ってる。あの地点が運命の改変に重要なのは確実です」
鈴蘭が、かぶりを振った。
「でも、それなら、わたしじゃなくても。師央くんは何でもできるし、四獣珠に願えば、どんな傷も治せるし」
「師央くんのコピーは完璧じゃありません。四獣珠は、できる限り残しておきたい。代償としていくつ必要か、わからないんですから」
鈴蘭が青い目を見張った。
「わたしが、役に立てる。わたしにも、できることがあるんだ」
理仁がニヤニヤした。オレと鈴蘭を交互に見る。
「ま、もう一つ、大仕事があるけどね~。無事に運命を変えて帰って来る。そんでもって、元気な男の子を産む。あっきーとの愛の結晶をね」
鈴蘭がみるみるうちに赤くなるのが、薄暗い中でもよくわかった。オレ自身、一瞬で顔が熱くなったから。
「バ、バカ、ふざけんなよ、理仁!」
「ふざけてないよ~? 至って真剣な話じゃん。ねえ、師央?」
師央が笑いながらうなずいた。
「ほんとです。理仁さん、二人をくっつけてくださいね」
「もちろん!」
「ぼくも陰ながら応援しようかな」
「海牙さんも、ありがとうございます」
勝手なこと言いやがって! オレが理仁を締め上げようと思ったとき、理仁が師央の肩を抱いた。
「元気でな、師央」
「理仁さんも、ぼくのこと、忘れないでくださいね」
「襄陽に入学してこいよ。おれ、親父を追い落として理事長になるから」
そうだ。運命の改変がうまくいったら、十五歳の師央は、オレたちの高校生活に戻ってこない。
理仁は、師央の頭をわしわし撫でた。それから、朱獣珠をつまんだ。
「聞け、朱獣珠。おれの声に応えろ」
朱い宝珠の中心に、光が宿る。光は鼓動する。
理仁が、祈るように目を閉じた。
「おれの願いを聞け。運命の一枝を変えるために、ループする不幸を取り去るために、おれたちが笑って過ごせる未来のために、四獣珠の預かり手を跳躍させろ。時間跳躍《タイムリープ》して、未来へ。願いの代償は、朱獣珠!」
朱獣珠の光が一瞬、収縮した。そして、圧倒的な勢いで弾けた。朱獣珠が四散する。
オレは、存在そのものを吹き飛ばされた。
オレは、ひび割れたコンクリートに膝をついた。
赤ん坊の声が聞こえている。銀髪の男と黒髪の女が倒れ伏している。
女が、赤ん坊を胸にかばっていた。男は、女と赤ん坊とをまとめて抱きかかえていた。二人の体の下に血だまりが広がっていく。
「これが未来か」
オレのそばに、鈴蘭と師央と海牙がいる。黒服の男が二人、オレたちに銃口を向けた。
「き、きさまら、どこから現れた!」
うろたえた顔の正木。隣の世良も、目を見張っている。
正木と世良の向こうに、男が二人、倒れている。背格好でわかる。兄貴と海牙だ。血と硝煙の匂いがする。正木たちと同じ黒服の男が数人、横たわって動かない。
正木と世良が同時に発砲した。オレの障壁《ガード》が銃弾を焼き焦がす。正木の顔に怯えが走る。
「バカな! なぜ、伊呂波煥が二人!」
「何人いようが、オレの勝手だろ。オレは悪魔と呼ばれる男だからな!」
ケンカの基礎はハッタリだ。正木も世良も案外、本気でビビってるじゃねぇか。
鈴蘭と師央が、倒れた男と女に駆け寄った。男の髪の色も、女の横顔も、見覚えがありすぎる。オレと鈴蘭だ。
「パパ、ママ!」
「大丈夫、まだ息があるよ。傷、治せるから」
「でも、痛みを引き受けないといけないでしょう?」
「我慢する」
「一人じゃ無茶です! ぼくも手伝います」
オレは正木たちを正面に見据えて、鈴蘭と師央に背を向けたまま言った。
「鈴蘭、先に自分のほうを治せ。オレは後でいい。師央、障壁《ガード》を張っておけ。鈴蘭の痛みを、半分、引き受けるんだぞ」
「はい!」
痛みに弱い鈴蘭のことだ。瀕死の傷の痛みを引き受けるなんて、到底できない。師央と二人で分けたとしても、きっと苦しい。でも、やり遂げないと、未来を変えられない。オレたちは、師央のループの要因をすべて、必ず取り除くんだ。
オレと海牙は、目の前の敵と対峙する。
「煥くん、どっちをやりますか?」
「さっきと一緒でいいだろ」
「了解」
オレは正木に、海牙は世良に、正面から突っ込んでいく。
泡を食った銃撃。ピストルなんか無意味だ。海牙がオレの後ろに下がって、オレは障壁《ガード》で全部の銃弾を防ぐ。
「ぅるぁああっ!」
オレは障壁《ガード》ごと、正木に殴りかかる。海牙はオレの肩を踏み台に跳躍した。
正木がギリギリでオレの拳をかわす。かわした先を、オレは回し蹴りで狙う。落下の勢いに乗った海牙が、世良を蹴る。攻撃を受けた世良が、強引な体勢でダメージをしのぐ。
至近距離での連続攻撃。撃たせない。肉弾戦で仕留める。正木の動きがスムーズじゃない。右脚にケガを負ってる。未来のオレがやったのか? 上出来だ。
肘を叩き込む。かわされる。手刀の反撃が来る。上腕でガードする。オレの膝蹴りが正木の腹に入った。ダメだ。防弾チョッキを着てやがる。ダメージが浅い。正木の拳がオレの頬をかすめた。
「このガキがっ! 白獣珠を寄越せ!」
血走った眼球。狂気を映した瞳。正木は、もう正常じゃない。師央から白獣珠を奪って、奇跡のチカラに中毒を起こしている。
「誰が渡すかよ!」
視線で誘導する。高い軌道のパンチのフェイント。正木がだまされて身構える。足元に隙ができる。
オレのかかとが、正木の軸足をとらえる。あっさりと正木が重心を手放して、オレの胸倉をつかんだ。ニヤリ、と歪んだ笑み。
もんどりうって転ぶ。体勢を入れ替えられる。地面に背中を着けたのは、オレだ。正木がオレに馬乗りになる。
「つかまえたぞ、伊呂波煥」
正木が手のひらをオレにかざす。黒々とした銃弾が凝り固まっていく。
「つかまえたは、こっちのセリフだ」
右の手のひらが熱い。白い光が凝縮する。光の障壁《ガード》が生じる。
正木が目を見開いた。オレの意図に気付いている。でも、遅い。
オレは、障壁《ガード》を正木の胸に叩き付けた。純白の正六角形が黒服を焼き焦がす。煙と異臭があがる。正木が絶叫する。
左の手のひらに熱を、白い光を集める。正木の腹を突き上げる。衝撃波が起こった。正木が吹っ飛んだ。
オレは跳ね起きた。仰向けに倒れた正木を見やる。防弾チョッキの胸と腹が破れていた。ヤケドを負った皮膚。呼吸してるのが見て取れる。白目を剥いて気絶している。
パンッ!
銃声が響いた。ハッとして振り返る。
「海牙!」
「まだ無事ですよ!」
逃げ回る海牙に、世良が銃口を向けている。
オレは世良のサイドに回り込んだ。二丁目の銃がオレを狙う。オレは避けない。障壁《ガード》を繰り出して、まっすぐ突っ込む。
世良が飛びのく。海牙が世良の背後を突こうとする。世良が後ろざまに蹴り上げた。ブーツのかかとから、スパイクが飛び出す。ギリギリでかわす海牙を、世良が軸足を替えて追撃する。海牙が跳び離れる。
入れ違いで、オレが世良に殴りかかる。よけられる。二発、三発。拳を繰り出しても、当たらない。体術だけなら、世良のほうが正木より強い。ムチのようにしなう世良の蹴りをかわす。速い。隙がない。
オレと海牙が、少し離れる。世良が銃を構える。狙撃を回避して、連携して近付く。ダメージを与えられない。オレと海牙にピタリと狙いを定めて、世良がひっそりと笑った。
「KHANにいたころ、阿里くんのことが、ずっと目障りでした。単なるひがみですがね。力学《フィジックス》の使い手で、情報分析と身体能力に優れる。それだけじゃなく、容姿端麗。総統にも特別に気に入られている。ひがまないほうがおかしいでしょう?」
憎しみと殺気が、世良の全身から噴き出している。海牙が目を細めた。
「それで? ぼくがパーフェクトなイケメンだから、ひがんで、どうしようというんです?」
世良が海牙へと踏み出した。銃口の狙いはブレない。
「私は運がいい。チャンスに恵まれた。憎い相手を二度も殺すチャンスに!」
正面からぶつけられる膨大な殺気に、海牙でさえ息を呑む。一瞬、確かに、海牙は怯んだ。
刹那、空白。
そして、銃声。
世良が目を見開いた。その両手から銃が落ちた。右の太ももを押さえて、よろける。
再び、銃声。
世良の右肩が被弾した。ぐらりと崩れ落ちる。
オレも海牙も唖然として、世良を撃った男を見つめた。
「まったく。勝手に殺さないでもらいたいですね。ぼくはこのとおり、まだ生きている」
軽やかに憎まれ口を叩くのは、腹這いの体勢で銃を撃った男だ。緩く波打った髪と、緑の目の。
「さすがは阿里海牙ですね。いいところを持っていくんですから」
海牙が、五年後の自分に駆け寄った。
「ぼくも文徳くんも満身創痍なんですよ。さっさと治してもらえますか?」
「へぇ。こういう声としゃべり方なのか。意外と鬱陶しいですね、ぼくって」
二人の海牙が笑い合う。大人のほうの海牙が、玄獣珠を差し出した。
「二つもあったら、オーバーキルするかもね。でも、足りないよりはいいでしょう」
「何をするか、わかってるんですか?」
「この一枝のループを終わらせるんでしょ」
「想像がついてましたか」
「五年前、師央くんを亡くしたときにね」
海牙が、二つ目の玄獣珠を受け取った。首から提げたほうも、服の上に引っ張り出す。
「オーバーキルってことはないでしょう。本当はここで死ぬはずの大ケガです。人の命の質量が懸かってるんですよ。石二つ砕けるくらいで、ちょうどいいはず。鈴蘭さんのチカラは偉大ですよ。こっちもお願いしたいところだけど」
「時間がないんです。生きてるうちに治してください」
海牙は目を閉じた。玄獣珠が、チカリと光る。
「ぼくの声に応えよ、二つの玄獣珠。願いを叶えてほしい。阿里海牙と伊呂波文徳の傷を癒せ。代償は、玄獣珠!」
二つの玄獣珠が粉々になった。その小さな二点から、爆発的なチカラが起こる。吹き散らす光と風を、肌で感じた。
見慣れたほうの海牙が、オレを振り返った。顔いっぱいで微笑んでいる。
「やってやりましたよ。数値がなくなった視界って、ずいぶんシンプルですね。後は……」
海牙の視線に導かれて、オレは、鈴蘭と師央と未来のオレたちに向き直った。赤ん坊は、いつの間にか泣き止んでいる。師央はもう障壁《ガード》を消している。鈴蘭の全身から、青い光が噴き出している。
「鈴蘭! 師央!」
オレは駆け寄った。一瞬、ギョッとする。銀髪の男が仰向けに寝かされて、目を閉じていた。血に汚れた服の胸の上に赤ん坊がいて、キョトンとオレを見上げている。
銀髪の男はオレで、赤ん坊は師央だ。横たわるオレの唇が、かすかに動いた。鈴蘭と師央の名を呼んでいる。
「鈴蘭、バカか? 自分のほうを先に治せって言っただろ!」
大人の姿の鈴蘭は、目を閉じて動かない。腹に血の染みが広がっている。治療する鈴蘭は、その傷口に右手をかざしたまま、オレの声に顔を上げた。痛みに顔をしかめて、涙で頬が濡れている。唇の色がなくなってるのがわかる。せわしない息をしている。
「あ、煥先輩の、傷のほうが、深かったの。だから、先に」
鈴蘭の声がわなないている。鈴蘭の左手を両手で握った師央も、苦痛の声を漏らしながら顔を伏せている。
横たわる、大人の鈴蘭。力なく目を閉じた顔。胸を殴り付けられたように感じる。悲しい。自分自身が打ち砕かれそうなほど強く、悲しくて悲しくて悲しい。失いたくない。
「バカ。オレなんかより、おまえ……」
「煥先輩、わたしだって煥先輩を助けたい。やっと、力になれたの」
無理して微笑んだ頬に、また涙が落ちる。
「痛かっただろ、オレのぶん。今だって、痛いくせに」
「平気、です。女は、強いんですよ? 赤ちゃん産むとき、絶対、もっともっと、痛いはず、だから。でも、頑張れるんだから!」
気が付いたら、体が動いていた。鈴蘭と師央を抱きしめていた。
――オレの大切な――
家族で、宝物。
痛みが流れ込んでくる。撃たれた腹が、焼け付くように痛い。ろくに呼吸も保てないほど痛い。脳が痛みを拒絶する。意識がブラックアウトしそうだ。
歯を食いしばる。痛みに耐える。
だって、耐えてくれたんだ。鈴蘭も師央も、オレを癒すために。痛くて、苦しかったはずだ。こんな役目を二人に押し付けるなんて、オレは悪魔だな。
「ごめんな、鈴蘭、師央。痛い思いを、させてる」
オレの腕の中で、二人が、そっと笑った。
「煥先輩って、頑固ですね。わたし、大丈夫、って言ってるのに」
「パパは、ぼくを、守ってくれ、たんです。ぼくも、守り、たいんですよ」
涙が出そうなのは痛みのせい? 情けなさのせい? それとも、愛しさのせい?
鈴蘭と師央は、本当は全部わかってんだろ? オレの弱さも、独りよがりなところも。肩肘張ってるくせに、ひとりじゃ生きられなくて、ずっと誰かのぬくもりに飢えていて、支えがほしくて助けがほしくて、愛されたくて。
オレを救ってくれるのは、鈴蘭と師央だ。
鈴蘭と師央を、オレは、ギュッと両腕に抱きしめていた。痛みに耐えながら。痛みを分け合いながら。
オレたちは一緒に生きていく。そのかけがえのない未来を、絶対に失いたくない。決して滅ぼされたくない。必ず手に入れてみせる。
腕の中の、呼吸の音。壊れそうなくらい温かい。人の命の柔らかさと触れ合うことに、ずっと怯えてきた。変わりたい。大切なものを守れる男になりたい。
青い、青い光。
ある瞬間に、ふと、オレの胸の中に青い光が現れた。傷の痛みが引いていく。
鈴蘭がささやいた。
「終わりました。うまく、いきました」
オレは、閉じていた目を開いた。大人の鈴蘭が、静かな寝息をたてていた。
鈴蘭と師央が立ち上がった。ふらつきながらも、自力で立って歩いた。海牙と合流する。未来の自分たちから、ちょっと離れた場所だ。
数年後の姿を見るのは気恥ずかしい。それは全員、同じみたいだ。
「未来のことは、未来の彼らに任せましょう」
海牙がそう言った。未来の海牙が、笑ってうなずいた。
オレは、みんなの顔を順繰りに見た。鈴蘭、師央、海牙。バトル続きで汚れて疲れて、緊迫感はまだ続いている。
「次は、白獣珠と青獣珠だな。何を願う必要がある?」
海牙がポケットから何かを取り出した。白獣珠と青獣珠だ。
「正木が持ってたんですよ。これで、最低でも四つの四獣珠がここに揃っている。割と何でも叶うかもしれませんね。運命の一枝さえ、ブチ抜けるんじゃないですか?」
鈴蘭が、胸元から青獣珠を引き出した。
「わたしたちは、この一枝に影響を与えた。師央くんのループを止めることを願って、四獣珠のチカラに頼らないことを選んだ。だから、わたしたちの望む一枝には二種類あるんじゃないかってって思うんです。このままこの地点から進む一枝と、まったく違う、四獣珠のない一枝。四獣珠があってもループがない一枝も、あるかもしれないけど」
海牙が肩をすくめた。
「仮説に仮説を重ねて、どうなることやら。何ひとつ、確証はつかめないけどね。ただ、願うことだけはできますよね。この一枝が分かれるにせよ、分かれないにせよ、別々の一枝が並走しているにせよ、どんな一枝であっても、未来がうまくいきますように」
鈴蘭が、師央が、うなずいた。
オレは深く息を吸い込んだ。その名に呼びかける。
「白獣珠、応えろ」
胸元で、小さな熱が脈打った。オレのペンダントの白獣珠だ。海牙の手の中の白獣珠も、チカチカ輝き出す。
鈴蘭が、祈るように目を閉じた。
「青獣珠も、お願い。わたしたちの声に応えて」
二つの青獣珠が光を放つ。鈴蘭の声に応えて鼓動する。
「オレたちがやりたいこと、聞こえてるか? 未来を変えたい。どんな一枝になってもいい。望むのは、争いのない日常。生きたい道を進める未来。必要な代償の数は、いくつだ?」
すぅっと、白獣珠が、オレの胸元の鎖を簡単に断ち切って浮き上がる。同じように、鈴蘭の青獣珠が、海牙の手のひらの上の二つが、ふわりと宙に浮かぶ。どこからともなく、もう一つ。白い輝きは、五年後のオレの白獣珠だ。
海牙が苦笑いした。
「あるだけ全部、持っていかれるんですか」
師央が、やっぱり苦笑いしながら、かぶりを振る。
「白獣珠が、足りないって言ってます。そんな願いは欲張りすぎて、五つじゃ足りないって。完全な幸せなんて編み出せないって」
白獣珠のぼやきは、オレにも感じ取れた。鼻を鳴らしてやる。
「お膳立ては最低限でいい。オレたちは自分の力で幸せになる。完全な幸せなんて、かえって不幸だ。必要なんだよ。悩んだことも、迷ったことも、立ち止まってたことも、今のオレを創るために、絶対に必要だった」
孤独だった。絶望していた。苛立っていた。信じられるものなんて、ほとんどなくて。
だからこそ、なおさら、心の通じ合う人たちと出会えたこと、その偶然みたいな必然が大切に思える。
師央が突然、下を向いた。
「会えなくなるんですよね。ここから新しい未来が始まって、それぞれの時代に戻ったら、同じ高校に通うことは、もうできないんですよね」
オレたちの前から、師央がいなくなる。当然のことだ。四獣珠が願いを叶えたら、オレたちは過去へ戻される。師央は未来へ戻される。
うつむいた師央の嗚咽が聞こえた。オレは師央の肩を抱いた。
「泣くな、師央。そうすぐに泣くもんじゃないだろ?」
「あ、煥さんたちの、せいですっ。ぼく、泣いたこと、なかったのに。過去に戻って、なぜか涙もろくなって」
泣けないのは、気を張って生きてきたからだ。両親もなく、襲撃から隠れて、きっとあまりにも必死だった。
――すまなかった――
でも、その未来は消滅したから。
「戻ったら、両親や伯父貴に甘えろ。おまえが頑張ったから、そいつらも生きてるんだ」
師央が、ごしごしと顔を拭った。オレは師央の肩を軽く叩いて、体を離した。
「煥さんも、心配ですよ。朝ごはん、ちゃんと食べてくださいね。栄養が偏らないように、野菜も食べて。ケンカばっかりしないでください。バンド、頑張ってください。もっとたくさんの人の聴いてもらって、ほんとの煥さんを知ってもらってください。歌ってるときがいちばんカッコいいんだから。それと、文徳さんとも、仲良くしてください」
「ああ。兄貴にも伝えとく」
師央が顔をくしゃくしゃにして笑った。
「それと、すなおになってくださいね。恋、してください。ぼくのママのこと、絶対に離さないで」
オレは一瞬、頭が止まった。ぼくのママ? 一拍遅れて、意味がわかる。鈴蘭が、さっと顔を伏せた。黒髪からのぞく耳が、あっという間に赤い。オレは右手を差し伸べて、鈴蘭の小さな左手を握った。
鈴蘭がパッと顔を上げる。見張った目が、オレをとらえた。その青い瞳を一度しっかり見つめて、それから再び師央に視線を向ける。
「これでいいんだろ?」
師央がうなずいた。
「初めて見ました。煥さんがにっこり笑うところ」
鈴蘭と海牙のまなざしを感じた。二人とも微笑むのがわかった。オレは左手で、自分の頬に触れた。どんな顔、してるんだろう?
宙に浮いた白獣珠と青獣珠が、チカチカと、せわしなくまたたいた。さっさとしろ、と。
わかってる。白獣珠、あんたとの付き合いも長かったよな。そばにあって当然の存在だった。そう考えると、少し寂しい。まあ、ろくに言葉を交わしたこともなかったが。
因果の天秤に、均衡を、か。狂った均衡を戻すのが、あんたの役割で本能なんだろ? オレたちの選ぶ未来を、あんたは今のところ、嫌がってねぇみたいだ。
オレたちなら大丈夫。これから先も、あんたの嫌がる天秤の揺らし方はしねぇよ。
海牙がオレの肩に手を載せた。
「どの地点まで戻されるんでしょうか?」
「やってみないことには、わからないな。海牙は敵に回したくない」
「同じくです。友達くらいがちょうどいいかな」
鈴蘭が少し伸び上がって、師央の栗色の髪を撫でた。
「元気で、また会おうね」
「はい。寧々さんたちにも、よろしく」
オレは、鈴蘭と師央と海牙と、うなずき交わした。そして告げた。
「オレたちは願う。オレたちらしく生きられる、新しい未来を。代償は、白獣珠と青獣珠!」
澄んだ五つの輝きが、爆発した。
白獣珠が最後に、まるで朗らかに微笑むみたいに、解放されたと言った。因果の天秤を知り、因果の天秤を体現し、その均衡を崩す者を憎み、あるいは排除する。願わぬ戦いのさだめ、人間の欲に惑わされる存在であることから解放された。
ご苦労さん。もう休め。ここから先は、オレたちがどうにかやるさ。じゃあな。
そして、すべてが光に呑まれた――。
――ときどき、妙な夢を見る。
夢の中のオレは、現実のオレにそっくりだ。銀髪の悪魔と呼ばれているし、ひねくれ者で、バンドマンで、兄貴にだけは、どうもかなわなくて。
でも、一つだけ違ってる。夢の中のオレは超能力者だ。光のバリアを張って、銃弾を防いだりする。
ガキっぽい夢だ。でも、実は相当、気に入ってるのかもしれない。しょっちゅう見てるんだ、その夢。一度や二度じゃなくて、数えきれないくらい何度も。
何の映画の影響なんだろう? バリア、か。本当に使えれば、ケンカの役に立つか?
そんなもんなくても、オレは強いんだが。
夕暮れどきを川沿いで過ごすのが好きだ。五月に入って、気候も温かくなった。
川沿いは、芝生敷きの広場だ。平日の昼は、年寄りや主婦の散歩コース。休日になれば、子どもらの遊び場。
でも、昼間だけだ。西日が差し始めると、変わる。すっと、ひとけがなくなる。
左耳のイヤフォンが鋭いギターを鳴らした。フィニッシュを待たずに、オレは音楽プレイヤーの電源を切る。
感じる。気配と音を。
バイクのマフラー音は、まだ遠い。足音が近い。オレは振り返った。赤い特攻服の連中がいた。ざっと数える。十三人。
オレの背後から忍び寄る予定だったらしい。それより先に、オレが気付いた。連中は開き直った。走って距離を詰めてくる。手に手に武器を持っている。
あの悪趣味な赤は、隣の町のやつらだ。
「煥、あいつら面倒だぜ! 気を付けろ!」
背の高い男がオレに注意を促しながら、駆けてくる。少し遅れて、二人。全員、襄陽の生徒だ。オレは背の高い男に向き直った。顔を見たことある気がする。
「キョトンとするなよ、煥。去年も今年も同じクラスだろうが! 順一だよ、尾張順一」
「あ、そう」
「クールだな、相変わらず。後ろのは、妹分の寧々と弟の貴宏だ」
赤服の連中が、間合いを挟んで立ち止まった。真ん中の男がリーダー格らしい。ニヤニヤしながら口を開いた。
「瑪都流の銀髪野郎に、烈花の残党! 締めてぇやつらが揃ってやがる! ラッキーだな、おい!」
順一がニヤリとして、ささやいた。
「共同戦線ってことで、いいか?」
「信用できるんだな?」
河原の土手の上に、見慣れたシルエットが現れた。けっこうな人数だ。先頭の男がオレに声をかける。
「読みが当たったよ。煥と元・烈花の三人の四人が集まるところに緋炎が来るはず。それも、多勢に無勢を狙った総力戦でな」
ああ、そういえば、赤服の連中は緋炎とかいう名前だった。緋炎のリーダー格がわめき散らす。
「瑪都流の生徒会長さまは姑息だよな! つねに罠を仕掛けてやがる! しかも、自分の弟を餌にするか?」
そのツッコミは、オレも入れたい。今回、オレは何も知らされてなかったぞ。
バイクのマフラー音が近付いてくる。姿が見えた。川沿いを、下流のほうから走ってくる。土煙が凄まじい。さいわい、こっちが風上だ。
ふと、別の方角から、一台近付いてくる音。オレは土手の上を仰いだ。バイクが止まった。ひょいとバイクから降りる男に、兄貴が片手を挙げる。
「援軍か?」
「そういうことだ」
一人きりの援軍がオレたちと合流した。明るい色の髪に、垂れ目の男だ。瞳は朱い。
「初めましてだね~。おれ、長江理仁。文徳のタメで、親友だよ。よろしく~」
軽いノリのしゃべり方が、なんか疲れる。
緋炎の大量の増援も、バイクを止めた。わらわらと、陣を組み始める。人数だけは、そこそこいる。ザコばっかりみたいだが。
土手から身軽に近付いてくる男がいる。グレーの詰襟。緩く波打った髪。目は緑がかっている。彫りの深い顔立ちには笑みがある。
「ずいぶん戦力差があるみたいですね。加勢しましょうか、瑪都流の皆さん?」
兄貴が首をかしげた。
「きみ、確か大都の阿里海牙くん?」
「あれ、知ってました?」
「全国模試で一桁順位だろ」
「そう言う伊呂波文徳くんこそ。このへんでは、有名人ですよね」
次々と現れる、わけのわからないやつ。オレはうんざりしてきた。
「その大都の優等生が、今ここに何の用だ?」
「だから、手伝いたいんですよ。緋炎には迷惑してましてね。大都の生徒と見れば、カツアゲしてくるんです。ぼくは、よく反撃して遊んでるけどね」
「遊んでる?」
大都の優等生は飄々《ひょうひょう》と笑った。
「優等生も、ムシャクシャすることがあるんです。たまにはこうして息抜きしないとね」
瑪都流と、奇妙な援軍たち。一定の間合いを挟んで、隣町の族、赤い特攻服の緋炎。にらみ合いが始まる。さあ、どこから攻めようか。
そのときだった。横合いから声が割り込んだ。
「あなたたち、何をしているの!」
女の声。よく通る声だった。キレイな響きに、一瞬、気をそがれた。姿を見た。襄陽の制服を着ている。着方がまじめだから、進学科か?
「って、おい、こっちに来るな!」
女が、すたすたと近寄ってくる。オレたちと連中の間に割り込むみたいに。
兄貴と、チラッと目配せした。兄貴がオレに無言でうなずいた。オレは女のほうへ駆け出す。緋炎のほうからも男が三人、陣を外れて、その女に向かっていく。
「危ねぇだろうが! 下がってろ!」
オレは女を背中にかばって、緋炎の連中を、まとめて蹴り飛ばした。
オレの背中に、手が触れようとした。迫る気配にとっさに反応して、払いのけた。軽すぎるような手応え。
「痛っ」
女の声。しまった、と気付く。小柄な女がまっすぐにオレをにらんだ。
「いきなり暴力的なことをするなんて。あなた、ちょっと失礼ですよ!」
「今のは、すまん。ただ、オレに触ろうとするな。苦手なんだ」
にらんだ目が、くるっと表情を変えた。驚いた、みたいな。
まともに、その女の顔を見た。オレも驚いた。
黒くて長い髪、白くて小さな顔。作り物かよ? と思うくらい完璧な顔立ち。でも、違う。生き生きと輝く、大きな青色の目。まっすぐな怒りの表情。ふと視線を惹きつけられた唇は柔らかそうで、オレは思わず息を呑んだ。
なつかしい。
いや、違う。会ったことはない。名前も知らない。
なのに、なぜ?
見つめ合ったのは一瞬だった。オレは女の手を握る。迷いはなかった。瑪都流の陣のほうへと、女を連れていく。
「こっちだ。じっとしてろ。守ってやるから」
守る――その響きも、なぜか、なつかしい。
運命というものがあるのなら、それは、多数の枝を持つ大樹のような姿をしているに違いない。何かの本で、そんなふうに読んだ。
少年は夢想する。
「例えば、ぼくに超能力があって、大切な人を守るために戦う運命だったら?」
苦しくても、悲しくても、寂しくても、守り抜くことができるだろうか?
でも、そんなのは子どもっぽいおとぎ話にすぎず、少年の日常は、至って普通に流れている。