下弦の月が昇った。月に一度の特別な夜だ。
革のライダースジャケット、手袋、ブーツ。色はすべて、メットも含めて、黒。
同じ格好の兄貴と二人、ガレージへ降りる。マンションの半地下の片隅で、眠ったような愛車たちのソフトカバーを外す。大型バイクが姿を現す。オレのは外車で、黒いベースにシルバー。兄貴のは日本車で、ボルドーに黒がアクセント。
ふと、足音がガレージに反響した。師央が、明かりを背にして立っている。
「どこに行くんですか?」
細い声が少し震えていた。兄貴が笑顔をつくった。
「起きてたのか、師央?」
「二人が起き出す音が聞こえました。それで、目が覚めました。こんな時間に、どこに行くんですか? その格好は?」
兄貴が肩をすくめて、オレを見る。オレはメットをかぶった。
「走るための格好に決まってるだろ」
師央が近寄ってきた。視線は、オレたちの愛車に向けられている。
「両方とも、リッターバイクですよね? ライトもマフラーも、ずいぶんレトロだ。ボディ、細かい傷がけっこうありますね。古い車体? でも、リッターってことは、免許は?」
排気量一〇〇〇cc級のバイクをリッターと呼ぶ。四〇〇cc以上が大型バイクだ。大型の免許は、満十八歳以上じゃなきゃ取れない。
兄貴が笑いながらメットをかぶった。
「免許? さあ、何のことだろう?」
月に一度の今日は、特別。
「じゃあ、あの、それって……」
「兄貴も今日だけは目をつぶる。いつからだっけな? オレたちの習慣なんだ」
「今日だけ? 習慣って、どういうことですか?」
兄貴が師央の肩をポンと叩いた。口調は平然としている。いや、むしろ、普段よりも生き生きと、楽しそうだ。
「師央、バイク、好きなのか?」
「はい。カッコいいって思います。このバイクは、文徳さんと煥《あきら》さんのですか?」
「シルバーが煥、赤がおれのだよ。もとは、両方とも、おれたちの親父のだった」
「二人のおとうさんのバイク、ですか。道理で、ずいぶんレトロな車体なんですね」
レトロって言い方は大げさだろ。せいぜい十年前の型だ。と言おうとして、思い至る。師央が本当に未来からきたオレの息子だというのなら、師央の時代は二十年くらい後か? それじゃ確かに親父のバイクは、師央にとっては骨董品だ。
師央がオレのバイクに顔を寄せる。メンテは欠かしていない。古い車体でも、ちゃんと磨いてある。
「乗ってみたいか?」
無意識のうちに訊いていた。師央が振り返った。
「乗せてもらえるんですか?」
目が輝いている。師央は部屋着のままだった。防寒できる服に着替えるよう指示した。ついでに、予備のメットも取って来させた。
戻って来た師央に、兄貴が言った。
「師央は、煥の後ろに乗せてもらえ」
「オレかよ?」
「煥のマシンのほうがパワーあるだろ。リミットまで外してある」
「オレが外したわけじゃない。親父の趣味だ」
「何にせよ、乗りこなせるのは煥だけだ。おれでさえ、そいつの性能は出し切れない」
兄貴は、サラッと流すふりをした。正直な悔しさが、言葉の裏ににじんでいる。何度か、兄貴を後ろに乗せたことがある。オレをうらやましがる顔が本気だった。
小柄な師央を、オレの後ろに乗せる。遠慮してるのがわかる。さわるなと、いつも言うせいだろう。
「しっかりつかまってろ」
「いいんですか?」
「振り落とされたいか?」
「イヤです」
「じゃあ、つかまれ。それと、習得《ラーニング》しろ。乗り慣れてるやつを乗せるほうが楽だ」
兄貴がメットのシールドを上げた。底光りするような目で笑う。
「そろそろ行くぞ。あいつらも待ち兼ねてるはずだ」
品行方正な生徒会長の仮面の下に、ギラギラしたリーダーの素顔。兄貴の野性的な本当の目。
二つのエンジン音が高らかに吠える。オレたちは夜の町を疾走する。
師央には、バイクに乗せる前に軽く話した。今日がオレたちの両親の月命日だ、と。
親父のバイクを飛ばして墓参りに行く。それだけだ。極端なマフラー音を轟かせるわけじゃない。窮屈なくらいまともなスピードで走る。
本当は、風になってみたい。轟音をあげて吹き去る風に。
ほとんど開くことができないアクセルを、思うまま、全開に回してみたい。重いフルカウルのボディが弾むほど強く、風圧に打ち勝って、重力から解き放たれて、スピードを支配したい。オレは、もっと走りたい。
途中から、マフラー音が増える。亜美さんが、牛富さんが、雄が、それぞれのマシンを繰って加わる。信号のない道を選んで大通りへ出る。警察が匙を投げた荒れたエリアを突っ切って、一群の狼のように疾駆する。
港の埋立地へと出る。埠頭をよぎる。下手な連中が追いすがってきて、勝手に後れを取って消えていく。
街灯のない海沿いの県道を走る。曲がりくねって登る道。ガードレールの向こうは断崖。落ちれば、白波立つ海。
オレたちの両親は車ごと海に落ちた。“事故死”だと言われた。そうじゃなかったとしても、理由がわからない。
例えば、親父が本当は危険な仕事をしていたとして、オレは別に驚かない。伊呂波家は、軍人・武人の家系だ。大昔からずっと、罪深い商売をしてきた。
親父は自覚があったんじゃないかと思う。遺産の相続も財産の処分も用意周到だった。愛車の世話を雄の親父に頼んでたとこまで完璧だった。
じゃあ、親父は案外、後悔してないのか? オレと兄貴を遺して、この世から退場したことを。
いや、それでも、むなしい。ときどき無性にむなしくなる。親父が好きだったバイクもロックも、今のオレならわかるのに。酒はまだ飲めなくても、語り合うことならできるのに。
おふくろは優しい人で、料理が上手だったらしい。早熟だった亜美さんは、おふくろに料理を教わっていて、今でもその味を作りに来てくれる。煮物とか卵焼きとか味噌汁とか。
呆れた話なんだが、師央の料理は、亜美さんのと味が似ている。
「伯母から料理を教わりました」
信じられるか? 伯父である兄貴の奥さんから、料理を教わった。それはつまり、亜美さんから教わったって意味だ。亜美さんは、おふくろの味を習得《ラーニング》していて、師央もその味を再現できる。
おふくろが生きていたら、師央の味が本物なのかどうか、本当におふくろの味なのかどうか、確かめられたのに。
革のライダースジャケット、手袋、ブーツ。色はすべて、メットも含めて、黒。
同じ格好の兄貴と二人、ガレージへ降りる。マンションの半地下の片隅で、眠ったような愛車たちのソフトカバーを外す。大型バイクが姿を現す。オレのは外車で、黒いベースにシルバー。兄貴のは日本車で、ボルドーに黒がアクセント。
ふと、足音がガレージに反響した。師央が、明かりを背にして立っている。
「どこに行くんですか?」
細い声が少し震えていた。兄貴が笑顔をつくった。
「起きてたのか、師央?」
「二人が起き出す音が聞こえました。それで、目が覚めました。こんな時間に、どこに行くんですか? その格好は?」
兄貴が肩をすくめて、オレを見る。オレはメットをかぶった。
「走るための格好に決まってるだろ」
師央が近寄ってきた。視線は、オレたちの愛車に向けられている。
「両方とも、リッターバイクですよね? ライトもマフラーも、ずいぶんレトロだ。ボディ、細かい傷がけっこうありますね。古い車体? でも、リッターってことは、免許は?」
排気量一〇〇〇cc級のバイクをリッターと呼ぶ。四〇〇cc以上が大型バイクだ。大型の免許は、満十八歳以上じゃなきゃ取れない。
兄貴が笑いながらメットをかぶった。
「免許? さあ、何のことだろう?」
月に一度の今日は、特別。
「じゃあ、あの、それって……」
「兄貴も今日だけは目をつぶる。いつからだっけな? オレたちの習慣なんだ」
「今日だけ? 習慣って、どういうことですか?」
兄貴が師央の肩をポンと叩いた。口調は平然としている。いや、むしろ、普段よりも生き生きと、楽しそうだ。
「師央、バイク、好きなのか?」
「はい。カッコいいって思います。このバイクは、文徳さんと煥《あきら》さんのですか?」
「シルバーが煥、赤がおれのだよ。もとは、両方とも、おれたちの親父のだった」
「二人のおとうさんのバイク、ですか。道理で、ずいぶんレトロな車体なんですね」
レトロって言い方は大げさだろ。せいぜい十年前の型だ。と言おうとして、思い至る。師央が本当に未来からきたオレの息子だというのなら、師央の時代は二十年くらい後か? それじゃ確かに親父のバイクは、師央にとっては骨董品だ。
師央がオレのバイクに顔を寄せる。メンテは欠かしていない。古い車体でも、ちゃんと磨いてある。
「乗ってみたいか?」
無意識のうちに訊いていた。師央が振り返った。
「乗せてもらえるんですか?」
目が輝いている。師央は部屋着のままだった。防寒できる服に着替えるよう指示した。ついでに、予備のメットも取って来させた。
戻って来た師央に、兄貴が言った。
「師央は、煥の後ろに乗せてもらえ」
「オレかよ?」
「煥のマシンのほうがパワーあるだろ。リミットまで外してある」
「オレが外したわけじゃない。親父の趣味だ」
「何にせよ、乗りこなせるのは煥だけだ。おれでさえ、そいつの性能は出し切れない」
兄貴は、サラッと流すふりをした。正直な悔しさが、言葉の裏ににじんでいる。何度か、兄貴を後ろに乗せたことがある。オレをうらやましがる顔が本気だった。
小柄な師央を、オレの後ろに乗せる。遠慮してるのがわかる。さわるなと、いつも言うせいだろう。
「しっかりつかまってろ」
「いいんですか?」
「振り落とされたいか?」
「イヤです」
「じゃあ、つかまれ。それと、習得《ラーニング》しろ。乗り慣れてるやつを乗せるほうが楽だ」
兄貴がメットのシールドを上げた。底光りするような目で笑う。
「そろそろ行くぞ。あいつらも待ち兼ねてるはずだ」
品行方正な生徒会長の仮面の下に、ギラギラしたリーダーの素顔。兄貴の野性的な本当の目。
二つのエンジン音が高らかに吠える。オレたちは夜の町を疾走する。
師央には、バイクに乗せる前に軽く話した。今日がオレたちの両親の月命日だ、と。
親父のバイクを飛ばして墓参りに行く。それだけだ。極端なマフラー音を轟かせるわけじゃない。窮屈なくらいまともなスピードで走る。
本当は、風になってみたい。轟音をあげて吹き去る風に。
ほとんど開くことができないアクセルを、思うまま、全開に回してみたい。重いフルカウルのボディが弾むほど強く、風圧に打ち勝って、重力から解き放たれて、スピードを支配したい。オレは、もっと走りたい。
途中から、マフラー音が増える。亜美さんが、牛富さんが、雄が、それぞれのマシンを繰って加わる。信号のない道を選んで大通りへ出る。警察が匙を投げた荒れたエリアを突っ切って、一群の狼のように疾駆する。
港の埋立地へと出る。埠頭をよぎる。下手な連中が追いすがってきて、勝手に後れを取って消えていく。
街灯のない海沿いの県道を走る。曲がりくねって登る道。ガードレールの向こうは断崖。落ちれば、白波立つ海。
オレたちの両親は車ごと海に落ちた。“事故死”だと言われた。そうじゃなかったとしても、理由がわからない。
例えば、親父が本当は危険な仕事をしていたとして、オレは別に驚かない。伊呂波家は、軍人・武人の家系だ。大昔からずっと、罪深い商売をしてきた。
親父は自覚があったんじゃないかと思う。遺産の相続も財産の処分も用意周到だった。愛車の世話を雄の親父に頼んでたとこまで完璧だった。
じゃあ、親父は案外、後悔してないのか? オレと兄貴を遺して、この世から退場したことを。
いや、それでも、むなしい。ときどき無性にむなしくなる。親父が好きだったバイクもロックも、今のオレならわかるのに。酒はまだ飲めなくても、語り合うことならできるのに。
おふくろは優しい人で、料理が上手だったらしい。早熟だった亜美さんは、おふくろに料理を教わっていて、今でもその味を作りに来てくれる。煮物とか卵焼きとか味噌汁とか。
呆れた話なんだが、師央の料理は、亜美さんのと味が似ている。
「伯母から料理を教わりました」
信じられるか? 伯父である兄貴の奥さんから、料理を教わった。それはつまり、亜美さんから教わったって意味だ。亜美さんは、おふくろの味を習得《ラーニング》していて、師央もその味を再現できる。
おふくろが生きていたら、師央の味が本物なのかどうか、本当におふくろの味なのかどうか、確かめられたのに。