たった二曲だけのステージだった。それでも、全力で歌った。兄貴が書いた曲、仲間たちの演奏に守られて。無防備なほど、自分自身と向き合って。
歓声の中で、兄貴がオレの肩に腕を回した。
「な、おれの言ったとおり、歌えただろ? いい顔してたぜ。アンコールと言いたいとこだが、撤退だ。壮行会の進行を乱すわけにはいかないからな」
オレたちはステージ袖に引っ込んだ。裏方や出演者たちが群がってくる。
「お疲れさまです!」
「カッコよかったです!」
「握手してください!」
「生徒会長~!」
「亜美さまイケメン!」
「煥先輩、大好きぃ!」
ウザい。
オレは人混みを掻き分けて進んだ。ステージ袖を抜ける。ついでに、体育館からも出る。外の空気に、ホッとした。五月の風は心地よくて、木漏れ日がまぶしい。
「煥さん!」
呼ばれて、振り返る。師央だ。そういえば、ステージ袖にいなかった。どこ行ってたんだ? と訊こうとして、答えがわかった。師央は鈴蘭と一緒だ。鈴蘭を連れに行ってたんだろう。
「お疲れさまです、煥さん! やっぱり、すっごくカッコよかったです! ファンが多いのも納得ですね。ね、鈴蘭さん?」
鈴蘭が師央を見て、オレを見た。久しぶりに目を合わせた。でも、すぐに鈴蘭は視線をさまよわせた。怒ったような顔をしている。師央に無理やり連れて来られたせいか?
「あ、煥先輩、お疲れさま、でしたっ」
投げ付けるような口調も尖っている。どう返事すべきか、わからない。
師央はおかまいなしだった。ちょこんと敬礼する。
「それじゃ、ぼくは文徳さんたちのとこへ行きます。ごゆっくりどうぞー」
言うが早いか、きびすを返して、あっという間に師央は体育館へと消えた。
沈黙。
オレは鈴蘭から目をそらす。ごゆっくりも何もない。どうせよと? 何を話せと?
鈴蘭が何か言おうとしている。気配で、それがわかる。また小言か? 説教か? 図書室でのやり取りに対する恨み節か?
オレは身構えつつ、低い声で尋ねた。
「何かオレに言いたいことがあるのか?」
「……あ、あの……っと……」
「さっさと言え。喉が渇いてんだ。部室に戻りたい」
「え、っと……ったです……」
「は?」
鈴蘭が、パッと顔を上げた。
「カッコよかったです、って言ったんです! そ、それと、気持ちが伝わってきてっ、すごく、すごく繊細で、孤独で、強くて! わ、わたし、ご、ごめんなさいっ!」
「え?」
「歌ってる煥先輩は、強くて、なのに、弱くて泣いてるみたいで、あ、あの、ほんとに、印象的でした。だから聞かせてほしくて、カウンセリングや心理学じゃなくて、わたしは挫折とか、知らなくて、先輩から見たら、わたしなんて、た、ただの頼りない後輩だろうけど、でも、知りたいと、思って、煥先輩のこと、話して、もらいたくて」
鈴蘭の声は震えていた。泣き出すんじゃないかと思った。鈴蘭を見たら、真っ赤な顔で怒っている。
「何で怒ってるんだ?」
「お、怒ってません!」
「怒ってるだろ」
「どんな顔すればいいか、わかんないだけです!」
「普通にしてればいいだろ」
鈴蘭が、胸の前で拳を握った。子どもみたいな形の拳だった。
「先輩のバカ! ふ、普通にしてられるはず、ないでしょ!? だって、く、苦しいくらいドキドキしてるんです! ステージで、煥先輩、カッコよくてっ、カッコよすぎたんです! あんな声で歌われたら、わたしっ、と、とにかく! お疲れさまでした! この間はごめんなさい! それだけです! カッコよかったです! 失礼しました!」
鈴蘭は一瞬で体育館へ逃げ込んだ。
「マジかよ」
取り残されたオレは、加速する鼓動を数えながら、急激に熱くなる顔を右手で覆った。
壮行会からまた数日経った。鈴蘭の態度もようやく、もとに戻った。ただ、変化したのは師央だ。
「じゃ、お二人で、ごゆっくりー」
そう言って抜け出そうとすることが多々。オレは師央の首根っこをつかまえる。
「ふざけんな。おまえひとり、どうするつもりだ?」
「文徳さんと帰ります」
「兄貴のほうに行くのこそ邪魔だろ。亜美さんと二人になる時間、確保してやれ」
「それもそうですけど。でも、ぼくは、何が何でも、二人をくっつけたいんです。このままじゃ、意地を張ってばっかりでしょ? 全然、進展しない」
「くっつけるとか、進展とか。いちいちうるさい。オレの行動に口出しするな」
師央は上目づかいでふくれる。でも、うなずかない。意外に頑固なやつだ。
最近、暖かい日が続いてブレザーが暑苦しくて、今日は家に置いてきた。上はカッターシャツに、緩めたネクタイだけ。下も夏服のズボンに替えた。
その放課後、図書室で。
「煥先輩、ボタンが取れかけてます」
鈴蘭がオレの襟元を指差した。さわってみると、いちばん上のボタンがぶら下がっている。
「よく気付いたな」
「た、たまたま見えたんですっ。わたし、付けましょうか?」
「必要ない。こんなボタン、留めないし」
鈴蘭が、ムッと眉を逆立てた。
「式典のときは、ボタンを全部留める! 校則ですよ? 付けてあげます」
鈴蘭はカバンから小さな箱を出した。化粧のコンパクト? と思ったら、裁縫箱らしい。針と糸が出て来た。
「じっとしててください」
「おい、やめろ。この状態で作業するのかよ?」
「動いたら危ないです」
「動かなくても危ないだろ」
「わたし、家庭科もそこそこできますよ?」
そこそこじゃ怖い。ったく。お節介もいいとこだ。オレはネクタイを解いた。カッターシャツのボタンを外す。
「せ、先輩、何脱いでるんですかっ!?」
「下にTシャツぐらい着てる。期待すんな」
カッターシャツを脱いで、鈴蘭に押し付けた。鈴蘭は無言で受け取って、黙ったまま、ボタンを付け始める。
横目に見下ろすと、鈴蘭の手付きはぎこちない。慣れてないらしい。針で指を突きそうで、ハラハラする。
ハラハラ? 心配? そんな小さなケガを? 下らない、と胸の中で吐き捨てたとき。
「痛っ」
鈴蘭が、か細い声をあげた。左手の人差し指の先を見つめている。ぷつり、と血のしずくが膨れ上がった。
「慣れないことをするからだ」
「ボタンは付け終わりました。後は、糸を切るだけです」
鈴蘭は、傷付いた指を口にくわえた。針を裁縫箱にしまう。ふと、オレは思い付いたことを口にした。
「自分の傷を治療することはできるのか?」
「能力を使って、って意味ですか? やったことないです。原理的には、できると思います。傷の痛みを別の場所に移せれば、傷を治せるはずです。ただ、誰かに協力してもらう必要はありますよね」
なんとなく、視線が絡み合った。
「やってみるか?」
「いいんですか?」
「その程度のケガなら、たいして痛くもない」
「またそんなこと言う」
鈴蘭はため息をついて、左手をオレのほうへ差し出した。
「何だ?」
「わたしの手を握ってください。他人にさわるのが嫌いなのは知ってます。でも、実験に協力してもらえるんでしょう?」
「わかってる」
オレは鈴蘭の左手を握った。その小ささは予想ができていた。でも、柔らかさと軽さに驚く。指先が少し冷えている。
鈴蘭が、つないだ左手に、右手をかざした。右の手のひらから青い光が染み出した。
チクリと、左手の人差し指の先に、かすかな痛みが走った。意識を集中すると、わかる。チクチクと、ささやかな傷口の自己主張。
青い光が消えた。同時に痛みも消えた。
鈴蘭の左手がオレの手の中で、もがいた。オレはその手を解放した。
「治ったみたいです。痛くなかったですか?」
「別に」
鈴蘭は、裁縫箱から小さなハサミを出した。ボタンの裏に飛び出した糸を、短く切る。
「できました」
差し出されたカッターシャツを受け取る。黙って受け取って、足りないと気付く。
「ありがとう」
つぶやいてみる。胸が騒いでいる。小さな手の感触が、まだオレの手に残っている。鈴蘭がバタバタと音高く帰り支度をした。
「し、師央くんは玄関で待ってるそうです。早く行かなきゃ、待たせすぎますよねっ。先輩、シャツ着てください! 置いていきますよっ」
口調が、なんかキツい。オレのリズムが、いちいち鈴蘭をイラつかせてるのか?
師央と合流して、鈴蘭を自宅まで送る。もはや慣れた道を歩くうちに、その場面に出くわした。柄の悪いのが数人、誰かを囲んだところだった。
「よぉ、テメェ、金持ってるだろ? 大都《だいと》のお坊ちゃんだもんなぁ? おれらにちょっと貸してくれよ」
カツアゲだ。大都高校は隣町にある男子校で、全国有数の進学校。授業料がバカ高いことでも有名だ。当然というべきか、ハンパな不良たちの格好の餌食になっている。
涼しい声が不良たちに応えた。
「貸してくれ、ですか? ということは、返してもらえるんですよね?」
不良たちが爆笑する。
「誰が返すかよ! こいつ、バカじゃね? お坊ちゃんはお勉強しかできないのかなぁ?」
鈴蘭がオレの隣で憤慨した。
「何よ、あれ! 感じ悪い! 止めなきゃ!」
言うと思ったが、鈴蘭が出ていくのは無謀だ。オレは鈴蘭と師央を牽制した。
「ここから動くなよ。オレが威嚇してくる」
「先輩、暴力はダメですよ?」
「向こう次第だ」
「煥さん、カバン持っておきましょうか?」
「頼む」
オレはカツアゲの連中に近付いた。不良の輪の中心に、灰色の詰襟の男が見えた。意外に飄々《ひょうひょう》としている。
「言葉は正しく使ってくださいね。返すつもりがないなら、くれ、と言うべきです」
「正しい言葉を使えば、金くれんのか?」
「まさか」
「優等生気取りのボンボンがナメんなよ!」
「気取ってるわけじゃなく、優等生だけどね」
大都高校のそいつは、すらりと背が高い。墓石とあだ名されるグレーの詰襟なのに、こいつが着てると、違う代物みたいだ。緩く波打った髪。目は緑がかっている。彫りの深い顔立ちには笑みがある。
そいつは何気なく立っているように見えた。でも、実は両脚のバネがたわめられている。いつでも飛び出せる構えだ。鍛えてあるらしい。相当、強い。大都にもこんなやつがいるのか。背中を丸めたガリ勉ばっかりだと思っていた。
ふと、そいつがオレを見た。緑の目が、ハッキリと微笑んだ。
「ああ、やっと会えた。ぼくは彼を待ってたんですよ」
彼、と手のひらで示された先のオレへ、不良たちが振り返る。ギョッとした顔になった。それから開き直った。
「銀髪野郎じゃねぇか。おれらもテメェには会いたかったぜ? ここんとこ、やられっぱなしだからな」
その言い草に、理解する。
「緋炎の下っ端か。瑪都流のシマで、ふざけてんじゃねえ。締められてぇのか?」
返答は拳だった。下品な雄たけびをあげながら、わらわらと殴りかかってくる。
ケンカと呼べるレベルでもない。手応えのある相手は、めったにいない。無駄なく一撃ずつで沈めたのが、六人。
残るはあと一人だった。でも、オレの視線の先で、それも倒れた。倒したのは、大都高校の優等生だ。
「慣れてるみたいだな、あんた」
オレの言葉に、そいつは笑った。パタパタと両手をはたく。
「優等生も、ムシャクシャすることがあるんです。たまにはこうして息抜きしないとね」
「ふざけた野郎だ」
「型に嵌るのは苦手なんですよ」
「オレに会いたかった?」
「ええ、伊呂波煥くん。そのつもりで待っていました。でも、日を改めようかな」
そいつは、オレの肩越しに視線を投げた。鈴蘭と師央がいる。
「ここじゃ話せないことか?」
「話してもいいんだけどね。でも、もう少し情報がほしくなりました。あ、危険な取引なんかじゃないですよ。まあ、興味を持ってもらえたら嬉しいな」
そいつは、重たげなカバンを肩に引っかけて歩き出した。オレの隣を、すっと通り過ぎる。かすかな風圧。足音がしない。
オレはそいつの動きを目で追った。そいつは鈴蘭と師央に軽く会釈をする。そのまま歩いていく。
鈴蘭は怪訝そうな顔をしていた。師央の表情がおかしい。目を見張って、かすかに震えている。師央は、歩き去ろうとする背中に叫んだ。
「カイガさん!」
そいつがゆっくり師央へと向き直る。顔は微笑んでいる。体は隙なく身構えている。
「どこかで会いましたっけ?」
後ろ姿の師央が何かを叫んだ。でも、声は聞こえない。カイガと呼ばれた男が首をかしげる。師央は、かぶりを振った。黙って頭を下げる。
カイガ、というのか? 未来での知り合いか? 師央は何を話せずにいるんだ?
カイガというらしい男は手を振って、今度こそ立ち去った。時間の流れが急にもとに戻った気がした。足元のそこここで、緋炎の下っ端が呻いている。オレは鈴蘭と師央を促した。
「別の道から回って帰るぞ」
鈴蘭が、例の怒ったような顔でオレを見上げた。
「彼らはどうするつもりですか?」
「ほっとく」
「痛がってるじゃないですか!」
「殴ったからな」
「何でそんなに暴力的なんです?」
「向こうから突っかかって来た」
「確かにそうだけど、過剰防衛です!」
うるさい。面倒くさい。
「おい、師央。さっさと行くぞ」
師央は、うなずくついでにうつむいた。目に涙がたまっているのが見えた。鈴蘭も、師央の表情に気付いたらしい。師央の顔をのぞき込んだ。
「どうしたの、師央くん? さっきの人、知り合い? 何かあったの?」
師央は胸の前で拳を握った。ちょうどそのあたりに、鎖を通して首から提げた白獣珠があるはずだ。師央は言葉を選ぶように、切れ切れに告げた。
「あの人は、カイガさん。そう覚えておくように、と言っていました。ぼくは、一度だけ、会ったんです。でも、きっと、あの人のことは何も話せません。“代償”に、引っ掛かってしまうから」
師央は歩き出した。オレも鈴蘭も歩き出す。
胸騒ぎがする。何かが大きく動き始めている。今もまた、白獣珠の鼓動が速い。
下弦の月が昇った。月に一度の特別な夜だ。
革のライダースジャケット、手袋、ブーツ。色はすべて、メットも含めて、黒。
同じ格好の兄貴と二人、ガレージへ降りる。マンションの半地下の片隅で、眠ったような愛車たちのソフトカバーを外す。大型バイクが姿を現す。オレのは外車で、黒いベースにシルバー。兄貴のは日本車で、ボルドーに黒がアクセント。
ふと、足音がガレージに反響した。師央が、明かりを背にして立っている。
「どこに行くんですか?」
細い声が少し震えていた。兄貴が笑顔をつくった。
「起きてたのか、師央?」
「二人が起き出す音が聞こえました。それで、目が覚めました。こんな時間に、どこに行くんですか? その格好は?」
兄貴が肩をすくめて、オレを見る。オレはメットをかぶった。
「走るための格好に決まってるだろ」
師央が近寄ってきた。視線は、オレたちの愛車に向けられている。
「両方とも、リッターバイクですよね? ライトもマフラーも、ずいぶんレトロだ。ボディ、細かい傷がけっこうありますね。古い車体? でも、リッターってことは、免許は?」
排気量一〇〇〇cc級のバイクをリッターと呼ぶ。四〇〇cc以上が大型バイクだ。大型の免許は、満十八歳以上じゃなきゃ取れない。
兄貴が笑いながらメットをかぶった。
「免許? さあ、何のことだろう?」
月に一度の今日は、特別。
「じゃあ、あの、それって……」
「兄貴も今日だけは目をつぶる。いつからだっけな? オレたちの習慣なんだ」
「今日だけ? 習慣って、どういうことですか?」
兄貴が師央の肩をポンと叩いた。口調は平然としている。いや、むしろ、普段よりも生き生きと、楽しそうだ。
「師央、バイク、好きなのか?」
「はい。カッコいいって思います。このバイクは、文徳さんと煥《あきら》さんのですか?」
「シルバーが煥、赤がおれのだよ。もとは、両方とも、おれたちの親父のだった」
「二人のおとうさんのバイク、ですか。道理で、ずいぶんレトロな車体なんですね」
レトロって言い方は大げさだろ。せいぜい十年前の型だ。と言おうとして、思い至る。師央が本当に未来からきたオレの息子だというのなら、師央の時代は二十年くらい後か? それじゃ確かに親父のバイクは、師央にとっては骨董品だ。
師央がオレのバイクに顔を寄せる。メンテは欠かしていない。古い車体でも、ちゃんと磨いてある。
「乗ってみたいか?」
無意識のうちに訊いていた。師央が振り返った。
「乗せてもらえるんですか?」
目が輝いている。師央は部屋着のままだった。防寒できる服に着替えるよう指示した。ついでに、予備のメットも取って来させた。
戻って来た師央に、兄貴が言った。
「師央は、煥の後ろに乗せてもらえ」
「オレかよ?」
「煥のマシンのほうがパワーあるだろ。リミットまで外してある」
「オレが外したわけじゃない。親父の趣味だ」
「何にせよ、乗りこなせるのは煥だけだ。おれでさえ、そいつの性能は出し切れない」
兄貴は、サラッと流すふりをした。正直な悔しさが、言葉の裏ににじんでいる。何度か、兄貴を後ろに乗せたことがある。オレをうらやましがる顔が本気だった。
小柄な師央を、オレの後ろに乗せる。遠慮してるのがわかる。さわるなと、いつも言うせいだろう。
「しっかりつかまってろ」
「いいんですか?」
「振り落とされたいか?」
「イヤです」
「じゃあ、つかまれ。それと、習得《ラーニング》しろ。乗り慣れてるやつを乗せるほうが楽だ」
兄貴がメットのシールドを上げた。底光りするような目で笑う。
「そろそろ行くぞ。あいつらも待ち兼ねてるはずだ」
品行方正な生徒会長の仮面の下に、ギラギラしたリーダーの素顔。兄貴の野性的な本当の目。
二つのエンジン音が高らかに吠える。オレたちは夜の町を疾走する。
師央には、バイクに乗せる前に軽く話した。今日がオレたちの両親の月命日だ、と。
親父のバイクを飛ばして墓参りに行く。それだけだ。極端なマフラー音を轟かせるわけじゃない。窮屈なくらいまともなスピードで走る。
本当は、風になってみたい。轟音をあげて吹き去る風に。
ほとんど開くことができないアクセルを、思うまま、全開に回してみたい。重いフルカウルのボディが弾むほど強く、風圧に打ち勝って、重力から解き放たれて、スピードを支配したい。オレは、もっと走りたい。
途中から、マフラー音が増える。亜美さんが、牛富さんが、雄が、それぞれのマシンを繰って加わる。信号のない道を選んで大通りへ出る。警察が匙を投げた荒れたエリアを突っ切って、一群の狼のように疾駆する。
港の埋立地へと出る。埠頭をよぎる。下手な連中が追いすがってきて、勝手に後れを取って消えていく。
街灯のない海沿いの県道を走る。曲がりくねって登る道。ガードレールの向こうは断崖。落ちれば、白波立つ海。
オレたちの両親は車ごと海に落ちた。“事故死”だと言われた。そうじゃなかったとしても、理由がわからない。
例えば、親父が本当は危険な仕事をしていたとして、オレは別に驚かない。伊呂波家は、軍人・武人の家系だ。大昔からずっと、罪深い商売をしてきた。
親父は自覚があったんじゃないかと思う。遺産の相続も財産の処分も用意周到だった。愛車の世話を雄の親父に頼んでたとこまで完璧だった。
じゃあ、親父は案外、後悔してないのか? オレと兄貴を遺して、この世から退場したことを。
いや、それでも、むなしい。ときどき無性にむなしくなる。親父が好きだったバイクもロックも、今のオレならわかるのに。酒はまだ飲めなくても、語り合うことならできるのに。
おふくろは優しい人で、料理が上手だったらしい。早熟だった亜美さんは、おふくろに料理を教わっていて、今でもその味を作りに来てくれる。煮物とか卵焼きとか味噌汁とか。
呆れた話なんだが、師央の料理は、亜美さんのと味が似ている。
「伯母から料理を教わりました」
信じられるか? 伯父である兄貴の奥さんから、料理を教わった。それはつまり、亜美さんから教わったって意味だ。亜美さんは、おふくろの味を習得《ラーニング》していて、師央もその味を再現できる。
おふくろが生きていたら、師央の味が本物なのかどうか、本当におふくろの味なのかどうか、確かめられたのに。
断崖絶壁の突端にある伊呂波家の墓は、いつ来ても、潮風が吹き荒れている。三代前の墓なんて、もうボロボロだ。すぐ真下には白い灯台があって、規則正しい光を夜の海に投げかけている。
墓参りといっても、オレも兄貴も、何をすればいいか知らない。線香を上げようにも花を活けようにも、風が強すぎる。ただ墓石の文字を見つめながら、胸の中で挨拶する。
今月も、生きてここへ来られたよ。
来月も同じ日に、またここへ来る。兄貴と二人、親父のバイクで。両親を慕ってくれてた仲間たちと一緒に。
「ちょっと、師央、どうしたの? 何で泣いてるのよ?」
亜美さんの声で、オレは振り返った。呆然とした顔の師央が、自分の頬に触れていた。涙が流れていることに、今、気付いたらしい。師央がきつく目を閉じた。涙のしずくが、いくつか風に飛ばされた。
「ごめん、なさい。自分の両親のこと、思い出して」
オレと兄貴は顔を見合わせた。そして確信する。この胸騒ぎを、兄貴も感じている。オレは、息子が十五歳になる前に死ぬ?
亜美さんが少し膝をかがめた。師央の顔をのぞき込む。頭を、そっと撫でる。
「寂しい思いしてきたの? 怖がんなくていいよ。泣きたいときは泣きな。あたしは、あんたの味方だからね」
亜美さんには、師央の素性は話していない。牛富さんにも雄にも言っていない。師央が親戚でないことくらい、わかってる。でも、みんな訊いてはこない。
「味方なんて、どうして? ぼく、怪しいでしょ? 詳しいこと、何も言えなくて」
「怪しくなんかないよ。文徳と煥が、あんたを信用してる。あたしたちにとっては、それで十分、あんたを守る理由になるんだよ」
師央が嗚咽混じりに言った。潮風に消されそうな声に、オレは耳を澄ます。
「話せないんです。なぜ、ぼくがここにいるのか。何が起こったから、ここへ来たのか。話そうとすると、声が消える。書こうとすると、手が動かない。伝えられないんです」
亜美さんが、母親が子どもにするみたいなやり方で、ふわりと師央を抱き寄せた。ライダースーツ姿なのに、ひどく優しげだ。
「師央って不思議だな。守らなきゃいけないって思うんだ。親のことで泣くの? あたしね、なんか思ったの。あんたの親代わりに守らなきゃ、って。無理しないでいいよ、師央」
師央はそのまま、すすり泣いていた。兄貴が師央と亜美さんに近寄って、二人まとめて腕の中に抱いた。
もどかしい。本当はオレがそこにいなきゃいけない。そんな気がするのに、体が動かない。頭の芯が痺れて思考が止まる。
代わりに流れ込んでくる、何か。情念のような、後悔のような。
――バイクのこと、唄のこと――
語り合いたかった。
――高校時代のこと、恋のこと――
話して聞かせたかった。
オレは、ハッとして、墓石を振り返る。
――これは記憶――
誰の?
――父としての――
オレ?
オレが、そこに眠る未来?
いつの間にか信じている、あるいは理解している。師央は未来からきた。師央はオレの息子だ。
ならば、なぜ? 師央は未来を変えたい? 師央は事情を話せない? 何があった? これから何が起こる?
――守りたい――
命に代えても。
そう願ったのは、願うのは、いつ? 現在? 未来?
いや、今だ。現在だ。オレと同じ思いをさせたくない。両親の月命日にバイクを飛ばす、このむなしさと寂しさ。繰り返すべきじゃないんだ。
――守りたい――
息子の未来を。
潮風が逆巻いた。海鳴りが放つ潮の匂いに、不意に。
「誰だっ!」
気配が混じった。何者かが闇に潜んで、動いたんだ。
「へぇ。気付いたんですか。さすが、最強と言われるだけのことはある」
風にあおられながらも、その声はよく聞こえた。若い男の声だ。
瑪都流の全員が同時に動いた。正確に同じほうをにらんで身構える。中心に師央を守る陣形。オレが先頭へ飛び出した。
兄貴が静かな問いを放った。
「きさま、誰だ?」
「初めましてのかたが、四名。ほか二名には挨拶させてもらったけどね。そうか。名乗るのは、忘れていたかな」
軽やかに笑う声。オレたちの視界に映る闇が、ひとつ、ほろりと剥がれる。
背の高い男が、そこに立っている。黒よりも夜に紛れる暗色の服。波打つ髪と、彫りの深い顔立ち。微笑む目は、緑がかっているはずだ。
そいつが歩いてくる。足取りは体重を感じさせない。
オレは目を細めてみせた。
「カイガ、だったか?」
「ええ。そのとおり。後ろの彼が、ぼくの名前を知ってたんでしたね。海の牙と書いて、海牙《かいが》です。改めて、名乗らせてもらいますね。大都高校三年、阿里海牙《あさと・かいが》。得意科目は物理。能力は、力学《フィジックス》」
「能力者か!」
「そんなに驚かないでください、煥くん。きみだって、能力者じゃないですか。それに、後ろの彼もね。一応、調べましたよ。謎の少年、伊呂波師央くん。現れたのは、半月前。以来、襄陽学園に潜り込んでいる」
海牙が、すっと近付いてくる。ゆっくり歩いているように見える。でも、近付き方が速すぎる。
考えるより先に体が動いた。みんなに接触させたくない。海牙は強すぎる。こいつが危険な存在なら、オレが止めるしかない。
拳が、かすかに鳴った。海牙の手が、繰り出したオレの拳を受け流した。鮮やかなくらい完璧に、勢いを殺がれた。
「やるじゃねぇか」
「お手柔らかに」
オレと海牙は同時に跳び離れた。オレは腰を沈める。海牙は突っ立っているだけだ。
「何しにここへ来た?」
「煥くんたちと話をするために」
「どうやって来た?」
「ぼくは二輪車の免許を持ってないんです。この二本の脚で十分だからね」
海牙は、にっこりと笑った。そして跳躍した。予備動作なしで、身長の倍以上の高さまで。高すぎる。あり得ない。
空中で海牙が身を縮める。落下が始まる。左脚を蹴り出しながら、オレのほうへと。
オレは、よけない。勢いを受け流しながら、海牙の体を絡め取る。巻き込んで倒れる。
「つかまえたぜ」
馬乗りになる。
「なるほどね。能力を使わなくても、この強さ。度胸もある。きみが特別な人間なのが、よくわかるな」
「何だと?」
「話というのはね、能力者同士で手を組みたいっていう相談ですよ。ぼくと一緒に、ある場所へ来てほしい。話をさせてもらえますか?」
オレは海牙の襟首をつかんだ。
「あんたの話なんか聞かねえ。と言ったら?」
「そう言うと思ってたんです。だから、ちょっと脅迫してみようかと」
「脅迫?」
「ぼくには強いチカラがある。無理やり誘拐して協力させることもできる。それを理解してもらいたくてね」
海牙が再び、にっこりと笑った。その瞬間、オレの体は宙に放り投げられていた。
オレは受け身を取って跳ね起きた。
海牙は、すでに兄貴に打ち掛かっている。繰り出す拳が速い。上腕でガードした兄貴が体勢を崩す。
牛富さんが背後から海牙につかみかかる。海牙はそっちを見もしない。ただ、正確な回し蹴り。かすめただけで、大柄な牛富さんが吹っ飛ぶ。
オレは舌打ちと同時に地面を蹴った。兄貴と雄をまとめて相手する海牙の足元を狙う。
「おっと」
海牙はオレの足払いをかわした。また、あの高すぎる跳躍だ。雄の頭上を楽々と越えた。海牙の着地点に亜美さんがいる。
亜美さんは伸縮式の警棒を伸ばした。一瞬、上段の構え。繰り出される警棒は、剣道の技じゃない。乱戦向きの、軌道の読みづらい動きだ。
パシッ。
軽く鋭い音が、風にまぎれつつ響いた。海牙が亜美さんの手首をつかんでいる。
「女性とは思えない腕前です」
「ナメんなッ!」
手首をつかむ手をさらにつかんで、体当たりからの崩し技をかけようとして、亜美さんの体が逆に宙に浮く。突っ込んでいく兄貴のほうへ投げ飛ばされる。
「乱暴をして、すみませんね」
海牙が笑った。
オレが仕掛ける。短い助走。跳躍しつつハイキック。海牙は体を沈めて攻撃をさばいた。そのまま右手を軸に、両脚を蹴り上げる。直線的な軌道。クロスさせた上腕に受ける。
一瞬、止まったように感じた。
ふわっと重心が消えた。体が宙に投げ出された。蹴り飛ばされたわけじゃない。持ち上げられて放られた気がした。空中で、自分の重心を取り戻す。宙返りして着地する。
海牙もまた、跳んで着地したところだ。師央の真後ろだった。海牙は左腕で、後ろから師央を抱えた。右手の人差し指を、師央のこめかみに当てる。
「チェックメイト」
呆然としていた師央が、ハッとした。
「ど、どうして、こんな……」
海牙が歯を見せて笑った。優男の皮をかぶった猛獣だ。
「こんな状況になってるのか、ちょっと理解が追いつきませんか? 荒っぽいことをして、ごめんなさい。たまにこういうことをしたくなるもので」
兄貴が進み出る。オレと並んだ。
「わかった、おれたちの負けだ」
「兄貴!」
「まあ、正直なところ、本気ではないよ。本気を出す前に度肝を抜かれている。それに、ここは場所がよくない。親の墓をぶっ壊しそうで、暴れる気が起きない」
海牙がチラッと墓石を振り返った。
「なるほど、そうですね。墓前をけがしてしまって、申し訳ない。でも、ワクワクしましたよ。あなたたちの後を尾けるのも。こうして一戦交えるのも」
胸くそ悪い言い方だ。オレは吐き捨てた。
「いい迷惑だ。あんた、その体術は何なんだ? 人間として、あり得ない」
海牙は師央をとらえたまま笑っている。
「あり得るんですよ? もともと人間は、体の使い方が下手なんです。無駄が多くてね。物理学的に分析して無駄を省いて、潜在能力を限界まで引き出す。それだけで、見てのとおり。平均レベルの筋力のぼくが、超人になれるんです」
「物理学的に、分析?」
「種明かししましょうか? これがぼくの能力なんですよ。力学《フィジックス》と名付けてます。例えて言えば、ぼくの視界は数値と数式だらけなんです。対象物の質量、温度、動作、何もかも、ぼくは数値的に分析しながら見ています。分析をもとに自分から無駄を省くことも、トレーニングで可能になりました」
だから、なのか。足音がない。あの跳躍力を出せる。完璧に攻撃を受け流せる。人ひとり、軽く放り投げられる。
師央が海牙の左腕をつかんだ。
「その能力は、こういうこと、ですよね?」
「はい?」
師央が大きく動いたようには見えなかった。ただ、師央の左肩を中心に、海牙の体が弧を描いて投げ飛ばされた。
さすがにというべきか、海牙は、地面に叩きつけられはしなかった。寸前で衝撃を受け流している。
「ああ、びっくりしました」
海牙は身軽に立ち上がった。いつの間にか、師央の腕が振りほどかれている。師央が海牙を見上げた。
「ぼくは習得《ラーニング》できるから、あなたの言葉をもとに、あなたの体感を想像して、今のチカラを使いました」
「おもしろい能力ですね。きみみたいな能力者がいるなんて、初めて知りましたよ」
「知らなくて当然です。ぼくは、この時代の人間じゃないから」
「へぇ? じゃあ、未来からきた、とでも?」
師央がうなずいた。そのとたん、オレの胸に不安が差した。いや、不安以上の不吉な何か、だ。問題の核心に触れようとしている。触れれば、否応なしに危機に近付くことになる。そんな気がする。
「師央、そいつに話すのか?」
「はい」
「信用できるのか?」
「海牙さんは、敵ではないはずです。だって、__してまで、ぼくを__のは……」
師央が口をつぐんだ。悔しげに唇を噛む。海牙が、くすりと笑った。
「へえ、『自分を犠牲にしてまで、ぼくを過去へ送ったのは』ですか? 続きを話してもらえませんか?」
師央が目を見張った。
「どうして、ぼくの言葉を?」
「繰り返しになるんだけどね、ぼくの視界は、数値で満たされています。露出した部分の筋肉の動きも読める。唇と舌の動きも、もちろん、その範疇ですよ」
師央がまくし立てた。声はない。海牙は師央を見つめていた。師央が口を閉ざしたとき、ひとつうなずいた。
「つまり、こういうことですね。きみは未来から、運命を変えるために来た。二度、時間をさかのぼった。そのどちらにも、白獣珠を使った。一度目は、伯父の命を代償にした。二度目は、きみの声を代償にした。時間跳躍《タイムリープ》の理由を話すとき、きみは声を失う。その代償を命じたのは、未来のぼくだ」
するすると、謎が紐解かれていく。時間を超えることができた理由。師央が唐突に声を失う理由。
兄貴が小さく笑った。
「余命宣告、か。おれは師央が十五歳のときに死ぬんだな? 師央を過去へ送るために」
師央が目を伏せた。唇が動いた。その言葉はオレにも読めた。ごめんなさい、と。
海牙が、波打つ髪を掻き上げて、襟元からペンダントを取り出した。トップに付けられたのは、黒い宝珠だ。
「ぼくの玄獣珠です。同じように師央くん、きみも白獣珠を身に付けてますよね?」
「はい」
「そして、煥くんも」
海牙がオレを見た。
「四獣珠のチカラも、数値で見えるのか?」
「いいえ、分析不能ですよ。三次元での物理学では、奇跡や運命は論じられない。でも、そこにチカラが存在することは感じられます」
「両方、本物だと?」
「ええ。まったく同じ白獣珠が二つ、確かに存在している。その謎は、師央くんの言葉を信じるなら、解ける」
オレは胸に手を当てた。チカラの存在を感じるっていう表現は、わかる。オレとよく似た、でもオレとは別の鼓動。わずかにひんやりとした、体温のような熱がここにある。
白獣珠は生きている。快と不快とを感じる本能のようなものを持っている。そして、その本能がオレに繰り返し告げる――因果の天秤に、均衡を。
師央も胸に手を当てていた。きっと同じ存在を感じている。
海牙が大きく伸びをした。
「やれやれ。また考える材料が増えちゃったな。まあ、思考実験が進むのは、悪いことじゃない。検証できるかとうかは別だけどね。さて、帰ろうかな」
あっさりとした口ぶりに拍子抜けした。
「帰る?」
「課題がまだ片付いてなくてね。進学校の三年生は、休む暇もないんですよ」
「課題って、おい、あんた結局、何しに来たんだ?」
「何しに、って、ああ、そうか。また忘れるところだった」
海牙は、すっと背筋を伸ばした。頬に浮かんだ笑みは隙がない。チカラを見せつけられたばかりだ。反射的に、ゾクリとする。
「煥くんと師央くんに伝えておかないとね。ぼくは、ある組織に所属しています。そして、ぼくは総統のご命令で、ここにいます」
「組織? 総統の命令?」
「総統があなたたちをお呼びです。ぼくと一緒に来てもらえませんか? あと二人の能力者の友達も、一緒にね」
柔らかい物腰で放たれた言葉。しかし。
「逆らっても無駄なんだろ? あんたは相当な使い手だ。強引に事を運ぶのも簡単だ」
海牙は、パタパタと手を振った。一見、邪気のない笑顔。真意は読めない。
「そんな物騒な話じゃないんですよ? 預かり手が集まった理由や因果の天秤の意味、知りたくありませんか? まあ、詳しくは、明日、話します。ああ、明日じゃないか。もう日付が変わってしまってる。何にせよ、放課後、校門の前で待ってます。能力者の皆さんに、お揃いで来てもらいたい。考えておいてくださいね」
海牙は歩き出した。音もたてず、オレたちの間を抜けていく。
信用していいのか? 師央は、海牙を信用すると言った。オレもそうすべきなのか?
ふと、海牙が振り返った。
「帰り道、どっちでしたっけ?」
「は?」
海牙は悪びれずに笑った。
「実は、ちょっと方向音痴でね。大都高校のあたりまで送ってもらえません?」
こいつ、頭いいのか悪いのか、どっちだ?
結局、昨夜は、兄貴が海牙を後ろに乗せて走った。メットは牛富さんが予備を持っていた。大都高校前で降ろしてやると、海牙は上機嫌だった。
「初めてバイクに乗りましたよ。爽快なんですね。それにしても、皆さん運転がお上手で。無免許なのにね」
兄貴が苦い顔をした。
「その点だけは他言無用で頼む。おれはこれでも生徒会長なんでな」
「わかってますよ。また機会があったら乗せてくださいね」
海牙は普通に歩いて帰っていった。飄々《ひょうひょう》とした後ろ姿だけ見てれば、ただの高校生なのに。
師央は黙りっぱなしだった。疲れたんだろう。無理にしゃべらせるつもりはない。
翌朝、鈴蘭を迎えに行った。昨夜の件を手短に話すと、鈴蘭は眉をひそめた。
「放課後に会った人、そんなに強かったんですか。能力を見せつけて行ったのは……」
「逆らうな、って意味だろう。師央は、あいつは敵じゃないと言ってる」
「そうなの、師央くん?」
師央はうなずいた。
「未来で会いました。そのときは助けてくれました」
唇は続けて動いた。声が出ないから、何を言ったかわからない。
「海牙は師央の唇を読める。師央が声に出せない未来の事情も、あいつは理解できる」
師央の真実を知りたい。その目的のためなら、海牙と話す価値はある。
「煥先輩と師央くんは行くんですね? じゃあ、わたしも行きます。置いてけぼりはイヤです」
鈴蘭のピシャッとした口調は、どうも不機嫌に聞こえる。
「おい、もしかして、昨日、置いてけぼりにされたと思ってるのか?」
「べ、別に、そうじゃないですけどっ。ただ、えっと」
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言え」
「あ、煥先輩、バイク乗れるんですね」
うつむいた鈴蘭に、少し呆れる。
「瑪都流《バァトル》は暴走族と呼ばれてるんだ。乗れて当然だろ?」
「知りません、そんなの! 実際に走ってるとこ、見たことないし。って、べ、別に興味あるわけじゃないけどっ」
オレはため息をついた。女ってのはよくわからない。いや、女全般っていうより、鈴蘭だからなのか? 鈴蘭の扱いは、本当に、まったくわからない。
「どうして急に怒り出すんだ?」
「怒ってません!」
「じゃあキンキンした声で怒鳴るな」
やっぱり昨夜の件か? オレと師央だけが海牙と接触した。話の核心に近付いた気がする。鈴蘭は、その場にいられなかったことを怒ってるのか?
黙りがちな師央が、ようやく少し笑った。
「バイク、迫力ありましたよ。最初はちょっと怖かったけど。今度、鈴蘭さんも乗せてもらってください」
師央の言葉に、鈴蘭がピタッと足を止めた。何やってるんだ? 振り返ると、鈴蘭は真っ赤になっていた。色白だからか、赤面しやすいらしい。
「バ、バイクの後ろなんて、そんなの興味ないってば! 師央くん、変なこと言わないで!」
「鈴蘭さん、わかりやすいです」
「なな何笑ってるのっ!」
「煥さん、すごく運転がうまいから、しっかりつかまってたら怖くないですよ」
「し、しっかり、つかまる?」
師央のせいで、オレも想像してしまった。鈴蘭をオレの後ろに乗せて走るところを。オレの腰にしがみつく鈴蘭を。
言葉より先に手が出た。オレは師央の額を指で弾いた。
「ふざけたこと言ってねぇで、さっさと行くぞ。鈴蘭も、突っ立ってんじゃねえ」
鈴蘭のカバンを肩に引っかけて、大股で歩き出す。朝の風の涼しさを、急に感じた。不覚にも顔が熱いせいだ。
師央が小走りで追いついてきた。
「煥さん、歩くの速いですよ。照れ屋ですよね」
「黙れ」
「やっぱり鈴蘭さんのことを意識……」
「してねぇよ」
鈴蘭も追いついてきた。師央は満面に笑みを浮かべたまま黙る。鈴蘭は、うわずりがちな声で話題を変えた。
「し、師央くん、昨日の化学の課題、解けた?」
学校に着いたら、まずは理仁を探さなきゃいけないよな。あいつ、一応三年だっけ。面倒だな。そう考えていたのは、取り越し苦労だった。
通学路の途中に、理仁がいた。こっちを見るなり、軽く片手を挙げる。
「よっ、あっきー! 師央と鈴蘭ちゃんも、おはよ~」
鈴蘭が思いっきり不愉快そうな顔をした。理仁の左右に女がくっついてるせいだろう。襄陽と、もう片方は近所の女子高。両方とも鈴蘭とは正反対の派手なタイプだ。着崩した制服は、目のやり場に困る。よくこんなの連れて歩けるよな。
「ん? どしたの、あっきー? な~んか視線そらしてない? おねーさんらの色気に当てられちゃってる? 二人とも色っぽいもんね~」
理仁が軽く笑った。女二人が、鼻にかかった声で応じる。
「やだぁ、理仁くんてばぁ」
「色気とか、そんなんじゃないしぃ」
鬱陶しい。理仁にくっつくのは勝手だ。でも、オレにまで色目使うな。
「知り合いなのか?」
「んー、さっき道で知り合った。声かけてくれたの。二人、中学時代からの友達なんだって。学校行く前に、チラッと会ってて、そこに、きみら待ってるおれが現れて。で、ちょっと話すー? 的な感じで」
登校中に逆ナンかよ?
【ちなみに】
理仁の声が変わった。有無を言わせず聞かせる声だ。ピシリと張り詰めた響きだった。
「何だ?」
【今日はチカラを使ってないぜ。使わなくても、このとおりでね】
「どうでもいい」
マジな話かと思って聞いたのに。損した気分になる。
「ちょっと~、あっきー冷たい」
「オレはいつもこのとおりだ」
「シャイなチェリーくんのくせに~。おや、表情変わったけど、図星~?」
「ふざけんな」
「いやいや、いいと思うよ。イケメンでシャイでピュアで不良で最強。それこそ最強コンボじゃん」
疲れる。オレはすでにうんざりしているのに、理仁はおかまいなしのマイペースだ。
「今朝、文徳からのモーニングコールで早起きさせられたよ。軽~く話は聞いてあるんだよね。もっかい、ゆっくり聞かせてもらえる?」
話のリズムが独特すぎる。ふざけたと思ったら本題に入っていて、でも緊迫感のない口調。顔を見ても、へらへらしている。
「ここで話せと?」
「まっさか~。昼休みでどう? 鍵なら、おれが借りとくからさ」
屋上を開けておく、という意味だろう。
「わかった。昼休み、直接行けばいいんだな?」
「そーいうこと。師央と鈴蘭ちゃんも、オッケー?」
オレの両隣で、二人がうなずいた。
昼休み。約束どおり、屋上への階段を駆け上がった。手には、師央が作った弁当。ここ半月は食生活がまともだ。あいつが帰ったら、どうなるんだろう?
屋上の鍵は、もう開いていた。オレが最後だった。
「あっきー、鍵、閉めといて~」
理仁に言われるまでもない。鍵を閉めてから、三人のほうへ行く。
「レジャーシート? 用意がいいな」
「理事長室からかっぱらってきたよ。毎年、教職員らで花見してるんだよね~」
ボンボンのくせに、意外にも理仁はコンビニ弁当だった。師央の弁当をのぞき込んで、うらやましがる。
「えっと、交換します?」
「マジ? いいの?」
「どうぞ」
「やった~! 師央、ありがと~!」
鈴蘭の弁当はずいぶん小さい。小柄だから、そんなもんなんだろうか?
「何ですか、煥先輩?」
「その弁当で足りるのか、と思って」
「足りますっ」
どうしてこう、いちいちにらまれるんだ?
オレはレジャーシートに腰を下ろした。弁当の包みを広げて、食べ始める。おにぎりとか、卵焼きとか、野菜を肉で巻いたのとか、豪華でも特別でもないのに、食べ物ってうまいんだなと気付いたりする。師央が作るから、そう感じるのか。
理仁が一口ごとに声をあげてて、うるさい。
「うまい! 師央、料理上手だね~」
「ありがとうございます」
「嫁に来ない?」
「遠慮します」
何気なく目を上げると、鈴蘭と視線がぶつかった。慌てた様子で下を向いた鈴蘭が、せかせかと手を動かす。オレのほうを見てた? 視線の意味はわからない。でも、見られていた。その事実は、微妙に気まずい。
師央とじゃれてた理仁が、ちゃっかり口出ししてきた。
「なになに~? 二人は目と目で会話する仲なの?」
「ち、違いますっ」
「見惚れてた?」
「何言ってるんですか、長江先輩!」
「ふぅん、おれのことは苗字なのね。で、あっきーのことは名前なのね」
「だって、文徳先輩と混ざるじゃないですか! 変な言い方しないでください!」
「でも、さっきの熱~い視線は何? あっきーのこと、じーっと見つめて……」
「見つめてませんっ! 煥先輩が食事するところ、初めて見たから、意外な気がして」
「で、見つめてたわけね?」
「見つめてないですってば!」
「見つめてたよね、あっきー?」
水を向けられて、リアクションに困る。
「は?」
「否定してください、先輩!」
「え?」
「え、って……もう!」
鈴蘭が顔を覆った。理仁が、けらけらと笑った。そして爆弾を投下した。
「この様子だと、やっぱ、そーなの? ね、師央。師央のママって、鈴蘭ちゃん?」
「な、長江先輩、何それっ?」
「だって、師央のパパは、あっきーでしょ」
「はぁぁぁああっ?」
鈴蘭は、叫んだ後、口を押さえて固まった。視界の隅でそんな様子を察しながら、オレはそっちを向けない。
頭痛がする、ふりをする。手のひらで額を覆って下を向く。頭痛はしてない。ほてる顔を上げられないだけ。
師央がおずおずと理仁に訊いた。
「今の話、文徳さんから聞いたんですか?」
「うん、師央の伯父さんから聞いた」
「理仁さんは、信じたんですか? ぼくが未来からきたって話を?」
「信じちゃうほうがよくない? おもしろいし。だって、今の状況、あれだよ? 親子団欒、プラス、おれ。おもしろいじゃん?」
オレはとっさに口走った。
「おもしろくねぇよ。付き合ってもいない女と夫婦扱い? しかもガキまでセットで? 冗談じゃねえ」
一瞬、間があった。
ふわっと何かが飛んできた。反射的にキャッチする。布だ。弁当を包んでいたピンク色のハンカチ。投げたのは、鈴蘭だ。
「バカ、無神経っ」
罵られて、気付く。オレ自身、自分の言葉に傷付いた。
――オレの宝物――
守るべきもの。
――妻と息子――
約束された未来。
思い出に似た情景が、胸にひらめく。
戸惑う。
知らないはずの感情が、経験済みの日常として、オレの中に広がっていく。
――愛してる――
愛?
理仁が、ポンと手を叩いた。
「ま、何にせよ、放課後は忙しくなるね。海牙ってやつの誘いには乗るんでしょ?」
オレはうなずく。師央が理仁に応える。
「あの人はいろいろ知ってるみたいでした。ぼくは、あの人の知ってることを、知りたい」
「預かり手が集まっちゃった理由とか? 因果の天秤や運命ってやつの正体とか?」
オレは胸を押さえた。首から提げた白獣珠が、そこにある。直径二センチくらいの小さな存在がオレにチカラを与えて、オレの行く末を翻弄する。自分が何のためにここにいてチカラを持っているのか、ときどき真剣に考えてしまう。
理仁が、ふと声をひそめた。
「なあ、師央。一つ、どうしても知りたい」
「何ですか?」
「師央って、パパとママがいくつのときの子ども? やっぱ、でき婚?」
鈴蘭が、今度は上履きを、理仁に投げつけた。