鈴蘭は、伏せていた本を手に取った。タイトルが目に入る。スクールカウンセラー、という言葉があった。なつかしい職業じゃねぇか。オレの胸が、すっと冷める。スクールカウンセラーって職業について、たぶん、オレは鈴蘭より詳しい。
 そいつらは学校にいる。学校での悩みや親に言えないことの相談を受けるための大人で、相談内容をもとに学校と家庭をつないで、よりよい学校生活・家庭環境をつくろうとする。臨床心理士だとか必要な資格があって、数年に一度は資格の更新をして、一年ごとの契約で雇われてて、時給が高い。
「先輩も、この本、気になります?」
「ならない」
「わたし、スクールカウンセラーを目指してるんです。父の影響なんですけどね。この本、父が書いたんです。父は大学教授で、現場にも立ってて、教育の世界では、それなりに有名なんですよ」
 鈴蘭は顔のそばに本を掲げた。チラッと目を走らせる。著者の苗字は、安豊寺じゃない。
「苗字が違う」
「あ、父は入り婿だから。仕事では旧姓を使い続けてるんです。安豊寺は母方で、先代の預かり手は母でした。わたしを産んだ瞬間、能力をなくしたって」
「そういう継承もあるのか。うちの場合、先代は祖父だった。オレがおふくろの腹の中で育つ間、祖父は逆に弱っていった。そして、オレが産まれた日に死んだ」
「そ、そうなんですか」
 悪魔って二つ名は、意外と正確かもな。能力の継承を思うとき、自嘲したくなる。
「スクールカウンセラーか。かったるいぜ。オレみたいなクズばっかり見るんだ。何人、入れ替わったっけな? オレを更生させようと、必死で。勝手に泣いて、勝手に疲れて、勝手に辞めていく。でも、オレが追い出したみたいに言われた」
「あの、それ、いつのことですか?」
 小学生のころ、両親が「事故死」した。不審点も多かったが、結局「事故死」だった。
 父方の親戚はいない。伊呂波の邸宅も財産も処分した。弁護士だか税理士だか、顧問がいた。あの人だけは、当時から信用できた。今でもたまに会う。
 母方の親戚も同じ町に住んでいた。順々にたらい回しにされた。オレと兄貴を、しばらく引き受ける。期間が済むと、オレたちを次の家へ任せて、自分たちは引っ越していく。
 小学校時代の自分を、オレはあまり覚えていない。ほとんど教室で過ごさなかった。スクールカウンセラーの部屋に一日じゅう閉じ込められて、校庭にも教室にも行けなかった。
「煥先輩」
「話せって?」
「できれば、聞かせてください」
 鈴蘭がオレを見ている。オレも鈴蘭を見下ろす。
 そういう表情は、覚えてる。お節介で、勝手な責任感に満ちてて、どこか憐みを含んでいる。信用できなかった大人たちと同じ。聞くだけ聞いて、でも、どうせ他人事。オレなんか、どうしようもないだろ。
「小学生のころ、親が死んだ。葬式の日、オレはクラスメイトにケガをさせた。うっかりして、障壁《ガード》を出したんだ。それに触れたやつの手が、焼けた。一生消えないヤケドだ。みんなオレを怖がった。以来、オレは檻の中。中学に上がるまで、ずっとだ」
 檻の管理者がスクールカウンセラーで、鍵を開けてほしいオレは、だからこそ何も話せなかった。
 オレの能力、障壁《ガード》。光は、障壁《ガード》の形をしているが、それだけじゃない。破壊の光だ。圧倒的な高温で、触れるものを焼き焦がす。
 オレは、祖父の能力と命を奪って産まれた悪魔だ。戦うために与えられたはずのチカラがある。そのくせ、両親を守れなかった無能な能力者。でも、そんなことを話したとして、大人が信じるはずもなくて、ますます自由が遠のくだけだとわかっていた。
「先輩? 詳しく聞かせてもらえませんか? わたし、まだ勉強中です。でも、少しは心理学の知識もあるし。先輩の痛みを分けてもらえませんか?」
 型どおりの言葉。むしろ、信用できない。
「あんたの能力が、体の傷だけじゃないなら。痛みを引き受けて傷を治す癒傷《ナース》が、心理的なところにも使えるなら」
「治させてもらえるんですか?」
「気が狂うぞ」
「そんな」
 孤独、自責、不信。悲しみを通り越して、怒りを通り越して、知ったのは絶望。
「恵まれて育ったお嬢さま。あんたじゃ、オレの傷は治せない」
 だから近寄るな。
「そんな言い方、大嫌いです!」
「好かれたいとも思ってない」
「さ、最低! 見損ないました」
 鈴蘭が大きな音をたてて荷物をまとめる。椅子を蹴飛ばすように立ち上がった。でも、出ていこうとしない。立ち尽くしている。
「まだ何かあるのか?」
 鈴蘭はうつむいた。長い髪が顔を隠した。
「送ってくれるんでしょう?」
 その約束、生きてるのか。オレは鈴蘭の手からカバンを取った。相変わらず、中身が詰まっている。オレは歩き出した。黙ったまま、鈴蘭がついて来る。
 心臓の動きが静かだ。これくらいでちょうどいい。嫌われてしまうほうが気楽だ。