放課後、部室に行った。ライヴの日程が近付いている。そろそろ本格的に練習しないとマズい。
部室に兄貴はいなかった。牛富さんが兄貴の伝言を預かっていた。
「屋上に来い、とのことだ」
「鍵、開いてるのか?」
「理仁が開けたらしい。朝、煥も理仁に会ったんだろう?」
「ああ、あの軽いやつか」
「軽いな。煥とは正反対だ。まあ、だからこそ意外と馬が合うかもしれないぜ」
「冗談じゃない」
牛富さんはしゃべりながら、手のほうはスネアドラムの張りの調整に余念がない。亜美さんはベースの弦を張り替えている。シンセの雄はヘッドフォンを付けて自主練中だ。
オレは屋上へ向かった。四階から屋上へ続くこの階段には、めったに来ない。一時期、昼休みの居場所にしようとしていた。断念したのは、鬱陶しかったからだ。
カップルがしょっちゅう来る。まわりが目に入らない様子で、告白もあればキスもあった。もっと過激なのも見たことがあった。さすがに校内であれはヤバいだろ? うんざりした。見たくないときに見せつけんなよ。
久しぶりの階段を駆け上がる。屋上に出るゴツいスチール製のドアの向こうから、声が聞こえた。
【そんなに嫌わなくてもいいじゃん?】
理仁の声は、やっぱり異様によく響く。オレはドアを開けた。
兄貴がおもしろがっていた。師央がオロオロしていた。騒ぎの元凶の理仁は、鈴蘭に手を差し伸べている。
「さわらないでください!」
「さわるっていうか、手を握るだけ」
「来ないでってば!」
鈴蘭が思いっきり、理仁の手を払いのけた。
「何やってんだ?」
「お、あっきー遅いよ~。おれ、待ちくたびれてさ。女の子成分の補給をしようかと」
鈴蘭は兄貴の後ろに逃げ込んだ。
「文徳先輩、どうにかしてください! わたし、ああいう人、苦手です!」
「とのことだぞ、理仁。無理強いはするな」
「はいはい、しないよ~。無理強いしようにも、号令《コマンド》が効かないしね~」
兄貴は肩をすくめた。
「理仁、話したいことって何だ? 早めに切り上げてくれると助かる」
「おや、文徳、忙しいの? 生徒会の仕事?」
「バンドのほうだよ。もうすぐ高体連の地区予選だろ。壮行会で演奏することになってる」
「なるほどね~。じゃ、簡単に言うけど。内緒話モードでね」
理仁の声の質が変わった。音を持たない声が直接、オレの中に鳴り響く。
【緋炎が買収されたって話だ。買収した母体が何者か、わからない。しかも、伊呂波家を探る動きがある。瑪都流を、じゃない。白虎の伊呂波家を、だ。とにかく気を付けろ】
兄貴が目を細めた。
「忠告ありがとう、理仁」
オレは理仁を見据えた。
「あんたこそ何者なんだ? どこまでオレたちのことを知ってる?」
【預かり手は交流しないって? そりゃ、そーいう伝統だよね~。でも、集まりつつあるじゃん? おれさ、文徳と出会ったころから調べてんの。運命とか信じちゃうタチだし?】
「四人の預かり手と四つの宝珠が集まる? そういう運命だと?」
【四獣珠が言う因果の天秤って、気になんない? 重要そうじゃん? てか、交流しないのが可能なのは、昔の話だよ。ネットもスマホも何でもござれの現代で、調べりゃ、あっという間に情報が出てくるのに、お互い知らんぷりなんて、むしろ難しいよ?】
埃っぽい風が、ざっと吹いた。理仁は、明るい色の髪を掻き上げた。
【でも、ま、調べて出てこないこともあるけど。伊呂波師央、だっけ? きみ、何者? 文徳の親戚なんかじゃないんでしょ?】
師央が眉根を寄せた。名乗ることを迷ってる? 未来からきた師央も、理仁のことを知らないのか?
オレは口を挟んだ。
「師央は、事情があってここにいる。素性は、話せるときに話す」
【あ、そう? ま、いーけど。だけど、あっきー、実は優しいんじゃん? 今、師央のこと、かばったでしょ?】
「うるさい」
【照れなくていいって~。そんじゃ、追々話してよ、師央】
師央は理仁の言葉にうなずきかけた。でも、途中で、かぶりを振った。
「少しだけ、話させてください。ぼくも能力者だってこと、理仁さんは見抜いたから。それに、煥さんにも鈴蘭さんにも、話さなきゃ。昨日の夜、ぼくが障壁《ガード》を出せた理由を」
鈴蘭を送って行く途中、緋炎に襲われた。そのとき、確かに師央は光の障壁《ガード》を作ってみせた。あれはオレの能力だ。
師央は自分の喉に手を触れた。口を開く。声を出す。発声練習をするように、短く区切りながら。
【あ、あ、あ……聞こえて、ますか?】
理仁が目を見開いた。愕然とした顔。
【この声質、おれの号令《コマンド》!】
師央が発したのは、音を使って言葉を相手に届ける声ではなく、相手の意識に直接命じるための声だった。
【見よう見まね、です。声の能力だから、聞きよう聞きまね、かな?】
鈴蘭が小首をかしげた。長い髪が風に遊んでいる。
「師央くんは、他人の能力をコピーできるの?」
【コピーというほど、完全じゃないです。まねするのは、難しいし。今だって、ゆっくりじゃなきゃ、しゃべれません。この能力は、習得《ラーニング》。伯父が名付けました】
預かり手の能力は、その人柄や個性に由来するらしい。だから、同じ能力が存在することのほうが珍しい。
【これで、少し、ぼくのこと、わかりました?】
師央は軽く息を切らしている。理仁が師央の肩に腕を回した。
「オッケーオッケー。無理しなくても、ちゃ~んと信用するからね。ま、師央は、文徳がかわいがってるんだし? ってことは、おれもかわいがるべきだよね~」
「あ、ありがとう、ございます」
「しかし、師央って呼びやすいんだよな。ニックネーム付ける必要がないっていうか」
「付けてもらわなくていいです」
兄貴が、ポンと手を打った。
「じゃあ、そろそろ、お開きにしようか。煥、練習に戻るぞ。師央も一緒に来るか?」
「行ってみたいです!」
「鈴蘭さんは、どうする?」
「わたしは……」
「鈴蘭ちゃんは、おれとデートしない~?」
言いながら、理仁が師央を離れた。鈴蘭に近寄ろうとする。危険を察した鈴蘭は、今度はオレを盾にした。
「お断りします!」
「照れちゃって~」
「照れてません! 煥先輩、何とかしてください!」
「何でオレが?」
「文徳先輩はおもしろがるだけなんです!」
いや、しかし、どうせよと?
「鈴蘭ちゃ~ん、一緒に帰ろう~」
「イヤです! 長江先輩よりは、煥先輩のほうがまだマシです!」
「おい、今、オレまでまとめてけなしただろ?」
いきなり、鈴蘭がオレのネクタイを引っ張った。とっさのことで面食らって、前のめりに引き寄せられる。白い小さな顔が近い。鈴蘭のまつげの長さに気付いて、ドキッとする。そのまま心臓が走り出す。
鈴蘭は早口でささやいた。
「わたし、ほんとに、ああいう人ダメなんです。絶対、二人きりとか無理です。煥先輩、バンドの練習があるんですよね? わたし、図書室で待ってます。練習が終わったら、迎えに来てください」
風が吹いた。鈴蘭の黒髪がオレの頬に触れた。甘い香りがした。
「な、何で、オレが?」
「ボディガード役、お願いします。じゃなきゃ、両親がうるさいんです」
鈴蘭は、言うだけ言って、身をひるがえした。あっという間に屋上を出ていく。
理仁が口笛を吹いた。
「見せつけてくれるじゃん。ここからだと、角度的に、チューしてるようにも見えてさ~」
ふざけんなよ。一方的に、わーっと、まくしたてられただけだ。オレは何もしてない。というか、何もできなかった。
オレは右手で、顔の下半分を覆った。息が熱い。頬が熱い。顔が赤いのが自分でわかる。鈴蘭の青い目が、あんなに近くにあった。怯えてなかった。媚びてなかった。嫌ってなかった。ただまっすぐに、オレは見つめられていた。
師央の言葉を、不意に思い出した――煥さんは、もうすぐ、必ず恋をします。
師央を拾った日から、一週間経った。相変わらず、師央はうちに居着いている。マメなやつだ。朝夕の飯はもちろん、昼の弁当まで作ってる。一昨日なんか、クッキーを焼いていた。寧々への差し入れにしたらしい。
「寧々さん、喜んでくれました。鈴蘭さんも甘いものが好きって言ってましたよ」
経過報告はけっこうだが、一言余計だ。鈴蘭は関係ないだろ。
このところ、割と平穏だ。緋炎の報復には警戒してるが、今はまだ目立った動きはない。厄介ごとといえば、むしろ内輪のほうだ。鈴蘭の送り迎えをすること。鈴蘭が理仁を避けまくること。その両方に、なぜかオレが巻き込まれている。
オレと鈴蘭との間に、会話はほとんどない。間に師央が入るから助かる。
でも、放課後。ときどき、ほんとに、ごくたまに、鈴蘭と二人だけになってしまう瞬間がある。
沈黙。
会話って、どうやるんだ? 鈴蘭はカバンから本を出して読み始める。オレは何もできずに、鈴蘭の横顔を眺める。鈴蘭は、澄ました横顔を保ったままだ。
心臓が騒ぎ出す。鈴蘭を視界に入れておけなくて、目を閉じる。うるさい鼓動をごまかすために、唄を口ずさむ。兄貴が書いた曲だ。オレがそこに詞を付ける。
ハミングの合間に、鈴蘭からバンドの曲かと訊かれて、そうだと答えた。その一往復だけ、会話が成立した。
バンドの練習に、鈴蘭は来ない。師央は毎日、来ている。もはやマネージャーと化してるレベルだ。飲み物を用意したり、仮録音の機材を調整したりしている。
兄貴の彼女の亜美さんは、バンドのベーシストだ。ベースは、基本的に指弾き。パワフルなスラップには定評がある。容姿は、イケメンって言われるくらいの、長身でショートカットの美人。その亜美さんが師央をえらく気に入っている。
「師央は、煥とそっくりな顔してるのに、こんなに表情豊かでキュートなんて。ほんっとに、おもしろい」
亜美さんと牛富さんと雄、バンドメンバーの三人は、幼なじみでもある。お互い、物心つく前から一緒だった。
その昔は、オレたちの家系は主従関係だったらしい。武人の血筋である伊呂波家が主人、亜美さんたち三人の家は従者、伊呂波の武力の背景にあったのは白獣珠だ。
安豊寺家にも長江家にも同じような歴史がある。そういう話を、理仁がしていた。オレはあまり聞かなかった。
知りたいのは、オレが生まれる前の過去じゃなくて、オレが生きていく先の未来だ。あるいは、オレが死んだ後の未来。師央は本当にオレの息子なのか? オレは近い将来、死ぬのか?
襄陽学園の軽音部には二つの部室がある。そのうち一つは、人気No.1のバンドが独占する。残りの所属バンドは一室をシェアするしかない。弱肉強食のルールが、襄陽学園軽音部の伝統だ。
今のNo.1はオレたちだ。去年の夏からずっと、人気は揺らいでいない。兄貴の影響力と、楽器勢四人の演奏力の賜物だ。楽器ができないオレは、歌うしか能がない。そんなにうまいとも思ってない。
師央はロックを聴いたことがなかった。最初の練習の日には、轟音にビクついていた。が、三日もすると慣れてきて、ギターを習得《ラーニング》し始めた。指が痛いと言いながら、楽しそうだ。
「ところで、今さらなんですけど、バンド名って何なんですか?」
確かに今さらな質問を、師央がしてきた。兄貴が答える。
「瑪都流《バァトル》だ」
「え? それ、暴走族の名前なんじゃないですか?」
「おれたちが暴走族を名乗ったこと、ないんだよな」
兄貴はおもしろそうに笑っている。
師央が説明を求める目でオレを見た。オレはぼそぼそと答えた。
「バンド名が独り歩きしたんだ。初期のファンに不良が多かったのもある。ファンが冗談で、下っ端だと名乗り出したのがきっかけだった。瑪都流の下っ端を名乗る不良が勝手に急速に増えて、気付いたら、今みたいな大集団になってた」
「それじゃ、暴走族って誤解なんですか? でも、ケンカとか、してますよね?」
シンセの雄が、のんびり笑った。おとなしいように見えて、ケンカは十分強い。
「こっちから吹っかけることはないよ。向こうから来られることは、けっこうあるけど。瑪都流を目の敵にしてるヤンキーが多くて」
「誤解されてケンカ売られるんですか?」
牛富さんは大柄で馬鹿力で、家が柔道場だから、鍛えられてる。亜美さんは剣道の有段者だ。乱戦になると、段位以上の腕を見せる。
雄も牛富さんも亜美さんもかなわない相手が、オレの兄貴だ。幼児期に叩き込まれた古武術がベースで、自分流に磨き上げた体術がとにかく強い。
そして、オレは突然変異だ。運動能力が異常なことは自覚している。筋力、瞬発力、動体視力、反射能力。何もかも、スポーツテストの数値を振り切る。
「じゃあ、バンドがカッコいいロックで、ファンに不良が多くて、バンドメンバーがたまたまケンカに強くて、だから、瑪都流が暴走族化したんですか?」
亜美さんが苦笑いでうなずいた。
「しかも、あたしたち、バイクにも乗るしね。昔さ、チラッとモトクロスやってたの。モトクロスって、わかる? サーキットでのバイク種目なんだけど。あれで走りの正確さを鍛えたのよね。やっぱり、運動能力の高い煥が最速でさ」
牛富さんが引き継ぐ。
「月に一回、夜にバイクを走らせてるよ。ただ、暴走なんかじゃねぇ。公道は、ルールを守って走ってるしな。爆音もふかしてねぇぞ」
師央が気の抜けた顔をした。ふにゃっと笑っている。
「そうなんだ。怖がって損した気分です。最初、本当に怖かったんですよ」
兄貴がニヤッとした。
「怖かったって、煥のことか?」
「はい」
「こいつは、いつでも、素で怖いだろ?」
「おい、兄貴」
「ほら、すぐにらむ」
部室が笑いに満ちる。オレはうまくそこに乗っかれない。唇を噛んで、そっぽを向いた。
兄貴は、もうちょっとだけ慎重だったら申し分ないのに。「おもしろそうだから」って一言で、全部が決まるんだ。暴走族と呼ばれて否定しなかったのも、おもしろ半分だった。なのに、オレたちは近隣で最強になってしまった。
その日の練習があらかた終わった。オレは一足先に部室を追い出された。
「楽器だけで、もう一回、合わせるから」
オレも加わると言ったが、却下された。喉を労われ、とのことだ。代わりに兄貴に宿題を出された。
「新曲の詞、そろそろ書けよ。ガレージライヴには間に合わせたい」
兄貴が書けばいいのに、と反抗を試みる。全員に却下された。オレの乱雑でひねくれた詞の、どこがいいんだ?
仕方ない。薄暗くなった校舎の中を図書室へ向かった。鈴蘭と合流するためだ。
図書室の引き戸を開ける。カウンターの連中がビクッとする。怖がられるのはいつものことだ。慣れてる。
図書室は二つのエリアに分かれている。ずらりと本棚が並ぶ書架エリア。読書や勉強をするための閲覧エリア。閲覧エリアには、八人掛けの机が八つある。鈴蘭はいつも、閲覧エリアの窓際の席にいる。
下校時刻が迫っていた。閲覧エリアには鈴蘭一人がいた。おい、と声をかけようとして、オレは息を止めた。
鈴蘭が眠っている。
読みかけの本が伏せてある。そのそばで、右の頬を下にして、左向きの横顔を表に見せながら、鈴蘭はしなやかな寝息をたてている。
襲われたらどうするんだと、とっさに思った。違うと気付いた。オレ、今、襲いそうになった?
つやつやした黒髪。白い肌。頬は、うっすら赤く色づいている。まつげが頬に影を落としている。唇が意外にふっくらしている。
触れたい。急激で唐突な衝動が起こった。手を伸ばしそうになる。細い首。小さな肩。吐息。偶然に触れたことがあって、知ってる。鈴蘭の体が、どこもかしこも柔らかいこと。
風が吹くと、鈴蘭の髪の甘い香りを感じる。肌も同じ香りがするんだろうか?
騒ぐ心臓に困惑する。触れたい。でも、触れたくない、壊したくない、汚したくない。手を伸ばせば届く。なのに、遠すぎて触れられない。
不意に、切れ切れの言葉が頭をかすめた。そうか、これだ。これを詞にしたらいい。オレはカバンからメモ帳を出した。鈴蘭の向かいの席に座る。
あぶくみたいに、湧いて消える言葉。消える寸前に、ペンでメモ帳につかまえる。今、感じたこと。目に見える距離と、見えない距離。見つめ返されないときだけ、安全。
まるで、子どもの遊びだ。だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ。振り返られないうちに。見つめられないうちに。初めて、じっと、こんなに長く誰かを見つめている。息を詰めて、胸を押さえて。
オレの髪が銀じゃなければ、オレの目が金じゃなければ、見つめ返されることも、きっと平気なのに。
殴り書きの言葉がメモ帳にあふれる。
詞を綴るときのオレは無防備だ。今まで、誰かのそばで書いたことなんかない。なのに、どうして? 鈴蘭の目の前だから、詞が浮かんできた。そのくせ、鈴蘭に贈る詞でもない。ただの、オレ自身の臆病さを歌った詞だ。
「バカか、オレ」
出て来た言葉の軟弱さに、ため息をついた。そのときだった。
「んんっ」
鈴蘭が、くぐもった声を漏らした。また、オレはドキリとする。自分の心臓に舌打ちしたくなった。まじめに仕事しろ。
オレが見ている目の前で、鈴蘭はゆっくりとまぶたを開けた。
「あっ、煥先輩。来てたんですか? お待たせしてました?」
「い、いや、別に」
鈴蘭の右の頬が赤くなっている。右を下にして寝ていたせいだ。本人も察してるんだろう。手のひらで頬を包んだ。
「わぁ、しっかり寝ちゃってた。本、読もうと思ってたのに」
読みかけの本の背表紙へと、鈴蘭は目を伏せる。口元は少し笑っている。照れ笑い、か? 見たことのない表情で、目が惹き付けられる。
「あ……」
オレは何かを言いかけて、言葉に迷う。
「何ですか?」
「……帰る」
わかり切った用件だけ告げた。オレは歌詞のメモ帳をカバンにしまった。
鈴蘭は、伏せていた本を手に取った。タイトルが目に入る。スクールカウンセラー、という言葉があった。なつかしい職業じゃねぇか。オレの胸が、すっと冷める。スクールカウンセラーって職業について、たぶん、オレは鈴蘭より詳しい。
そいつらは学校にいる。学校での悩みや親に言えないことの相談を受けるための大人で、相談内容をもとに学校と家庭をつないで、よりよい学校生活・家庭環境をつくろうとする。臨床心理士だとか必要な資格があって、数年に一度は資格の更新をして、一年ごとの契約で雇われてて、時給が高い。
「先輩も、この本、気になります?」
「ならない」
「わたし、スクールカウンセラーを目指してるんです。父の影響なんですけどね。この本、父が書いたんです。父は大学教授で、現場にも立ってて、教育の世界では、それなりに有名なんですよ」
鈴蘭は顔のそばに本を掲げた。チラッと目を走らせる。著者の苗字は、安豊寺じゃない。
「苗字が違う」
「あ、父は入り婿だから。仕事では旧姓を使い続けてるんです。安豊寺は母方で、先代の預かり手は母でした。わたしを産んだ瞬間、能力をなくしたって」
「そういう継承もあるのか。うちの場合、先代は祖父だった。オレがおふくろの腹の中で育つ間、祖父は逆に弱っていった。そして、オレが産まれた日に死んだ」
「そ、そうなんですか」
悪魔って二つ名は、意外と正確かもな。能力の継承を思うとき、自嘲したくなる。
「スクールカウンセラーか。かったるいぜ。オレみたいなクズばっかり見るんだ。何人、入れ替わったっけな? オレを更生させようと、必死で。勝手に泣いて、勝手に疲れて、勝手に辞めていく。でも、オレが追い出したみたいに言われた」
「あの、それ、いつのことですか?」
小学生のころ、両親が「事故死」した。不審点も多かったが、結局「事故死」だった。
父方の親戚はいない。伊呂波の邸宅も財産も処分した。弁護士だか税理士だか、顧問がいた。あの人だけは、当時から信用できた。今でもたまに会う。
母方の親戚も同じ町に住んでいた。順々にたらい回しにされた。オレと兄貴を、しばらく引き受ける。期間が済むと、オレたちを次の家へ任せて、自分たちは引っ越していく。
小学校時代の自分を、オレはあまり覚えていない。ほとんど教室で過ごさなかった。スクールカウンセラーの部屋に一日じゅう閉じ込められて、校庭にも教室にも行けなかった。
「煥先輩」
「話せって?」
「できれば、聞かせてください」
鈴蘭がオレを見ている。オレも鈴蘭を見下ろす。
そういう表情は、覚えてる。お節介で、勝手な責任感に満ちてて、どこか憐みを含んでいる。信用できなかった大人たちと同じ。聞くだけ聞いて、でも、どうせ他人事。オレなんか、どうしようもないだろ。
「小学生のころ、親が死んだ。葬式の日、オレはクラスメイトにケガをさせた。うっかりして、障壁《ガード》を出したんだ。それに触れたやつの手が、焼けた。一生消えないヤケドだ。みんなオレを怖がった。以来、オレは檻の中。中学に上がるまで、ずっとだ」
檻の管理者がスクールカウンセラーで、鍵を開けてほしいオレは、だからこそ何も話せなかった。
オレの能力、障壁《ガード》。光は、障壁《ガード》の形をしているが、それだけじゃない。破壊の光だ。圧倒的な高温で、触れるものを焼き焦がす。
オレは、祖父の能力と命を奪って産まれた悪魔だ。戦うために与えられたはずのチカラがある。そのくせ、両親を守れなかった無能な能力者。でも、そんなことを話したとして、大人が信じるはずもなくて、ますます自由が遠のくだけだとわかっていた。
「先輩? 詳しく聞かせてもらえませんか? わたし、まだ勉強中です。でも、少しは心理学の知識もあるし。先輩の痛みを分けてもらえませんか?」
型どおりの言葉。むしろ、信用できない。
「あんたの能力が、体の傷だけじゃないなら。痛みを引き受けて傷を治す癒傷《ナース》が、心理的なところにも使えるなら」
「治させてもらえるんですか?」
「気が狂うぞ」
「そんな」
孤独、自責、不信。悲しみを通り越して、怒りを通り越して、知ったのは絶望。
「恵まれて育ったお嬢さま。あんたじゃ、オレの傷は治せない」
だから近寄るな。
「そんな言い方、大嫌いです!」
「好かれたいとも思ってない」
「さ、最低! 見損ないました」
鈴蘭が大きな音をたてて荷物をまとめる。椅子を蹴飛ばすように立ち上がった。でも、出ていこうとしない。立ち尽くしている。
「まだ何かあるのか?」
鈴蘭はうつむいた。長い髪が顔を隠した。
「送ってくれるんでしょう?」
その約束、生きてるのか。オレは鈴蘭の手からカバンを取った。相変わらず、中身が詰まっている。オレは歩き出した。黙ったまま、鈴蘭がついて来る。
心臓の動きが静かだ。これくらいでちょうどいい。嫌われてしまうほうが気楽だ。
明日が壮行会っていう日。要するに、全校生徒の前でライヴをする前日。放課後にリハをやる予定だった。兄貴たちは張り切っていた。オレは乗れずにいる。
昼休み、バラ園のあずまやのベンチに寝転んでいた。木製の天井。花の匂い。どこか遠くから聞こえてくる、誰かの声。
調子が悪い。体調じゃなくて、精神的なほうが、どうしても。
最低、と言われた。見損なった、と言われた。鈴蘭はあれ以来、挨拶さえ寄越さなくなった。朝夕の送り迎えは続いている。だから、針の筵だ。
ふと、足音と気配がオレに近付いてきた。寝転がったままで待つ。やがて、視界にひょっこりと師央が現れた。
「やっぱり、ここにいましたね。煥さんに訊きたいことがあります」
オレはベンチの上で体を起こした。師央がオレの隣に座った。
「訊きたいこと?」
おおよその予想はついている。オレは、横顔に師央の視線を受けた。
「鈴蘭さんとケンカしたんですね?」
やっぱりな。
「ケンカじゃねぇよ」
「じゃあ、何があったんですか?」
「今度こそ徹底的に嫌われただけだ」
「どうして?」
「別に、関係ないだろ」
「関係あります!」
師央がオレのほうへ身を乗り出した。視線が痛い。そっちを向けない。
「何なんだよ?」
「恋をしてください、煥さん。自分の心に素直になって!」
「このオレが、恋?」
話の流れに、イヤな予感しかしない。こういう予感はたいてい当たる。
「そうじゃなきゃ、ぼくが生まれません。彼女がぼくのママなんですよ」
「信じられない」
「だけど、それが__するんです」
「信じたくない」
「煥さんと鈴蘭さんは__で__だから」
「は?」
「未来の__では、二人は__で……」
「伏字交えてしゃべるな! 意味深すぎる!」
師央は口をつぐんだ。ふくれっ面の上目づかいがガキっぽい。
「照れるのは、意識してるからでしょう?」
「照れてねえ」
「結婚っていうか、駆け落ちなんですよ」
「ふざけんな」
「ふざけてません。本気ですし、本当のことです。鈴蘭さん、すごく落ち込んでるんですよ? 休み時間もぼんやりしてて。寧々さんたちも心配してます」
「オレの知ったことか」
「煥さんのせいなのはわかってるんです。煥さんだって、調子がおかしいでしょ?」
「別に、オレは……」
「しょっちゅう歌詞が飛ぶのに? こんなに集中できてない煥さん、珍しい。バンドのみんなも、そう言ってたでしょ」
唄に入れなくて、歌詞のイメージが続かなくなる。逆に唄に入り込むと、感情が過敏になっていろいろ思い出してしまう。オレはあいつに嫌われたのか? オレはあいつを傷付けたのか? そんなことを考えて、結局、集中できない。
「とにかく、うるせぇよ。おまえには関係ない」
「関係あるって言ってるじゃないですか! ぼくのパパは煥さんで、ママは鈴ら……」
「黙れ」
バラ園に人が来る気配があった。オレはベンチに座ったまま振り返る。最悪だ。どうしてあいつがここへ?
うつむきがちに校舎から出て来たのは鈴蘭だ。師央も振り返って、鈴蘭に気付いた。ジト目でオレを見る。
「チャンスですよ。ここ、人通りが少ないし、話してきたら、どうですか?」
「うるさい」
「早く仲直りしてください。演奏にも支障が出てるんですよ」
「オレは、本番でトチったことはない」
「すなおじゃないですね」
「だったら何だ?」
師央がいきなり、伸び上がって手を振ろうとした。
「おーい、マ……」
呼びかけ方がおかしいだろ! オレは師央に飛びついて、口をふさいだ。
「ちょっと黙ってろ」
鈴蘭はこっちに気付いていない。校舎側に誰かがいる様子だ。そっちに気を取られている。やがて、その誰かもバラ園に出て来た。知らない男だ。
「師央、あの男を知ってるか?」
「たぶん進学科の人です」
うつむいた鈴蘭と、その向かいに立つ男。男はしきりに頭を掻いている。真剣な横顔。ぎこちない距離感。
「告白、か」
「噂、あるんです。あの人が鈴蘭さんのこと好きだ、って。鈴蘭さん、モテるんですよ」
胸がザワッとした。一瞬、いろんな男が鈴蘭に欲望をいだくところを想像してしまった。吐き気がする。鈴蘭の存在自体、けがされたくない。
じゃあ、オレ自身は? 鈴蘭に触れたいと、確かに思ったことがある。オレは自分の衝動を許せる? 許すなら、それはまるで独占欲?
鈴蘭が首を左右に振った。黒髪が揺れた。男が謝る様子で頭を下げた。
「振った、ってことか」
「安心しました?」
「バカ言うな」
男が先にいなくなって、しばらくして、鈴蘭もバラ園を立ち去った。
壮行会当日。体育館は独特の熱気に包まれていた。
普段、オレは集会なんか出ない。人の密集したところは苦手だ。ステージ袖からフロアを見下ろす。うんざりする。
師央がオレの隣で浮ついていた。
「すごいなぁ! いろんなユニフォームがあるんだ。あっ、寧々さんがいます。アーチェリー部の、旗手のすぐ後ろです。一年生だけど、エース級なんですよね。カッコいいなぁ!」
ステージ側も、それなりに混雑している。演奏を披露するのが、三組ある。オレたちと、吹奏楽部と、雅楽部、応援団とチア。全員そこいらに控えてるおかげで、うるさい。
兄貴がステージ上から戻ってきた。生徒会長としての仕事が済んだらしい。
「スタンバイするぞ、煥。本番だけは、きちっとやれよ」
「わかってる」
オレたちが演奏するのは二曲だけ。ステージ衣装は制服のまま。音響も照明も、設備はショボい。盛大でも本格的でもないライヴ環境だ。
それでも、本気でぶつかる。
円陣を組む。遠慮する師央を、兄貴が引っ張り込んだ。兄貴の笑顔が本物になっている。生徒会長の仮面じゃなくて、楽しくてたまらないときの顔だ。
「なあ、師央。瑪都流の由来を話したっけ?」
「いえ、聞いてません」
「バァトルは、古い言葉で『勇者』という意味だ。本物の勇気を持つ者に贈られる称号。勇者であれば、敵も味方も関係ない。その者をバァトルと称える」
兄貴がオレを見た。
「さっき、亜美たちと話し合った。セットリストを変更しよう。今の煥に歌える唄にする」
「は? 今の、オレ?」
「勇者シリーズ二曲で行こう。煥が詞を書いた、最初の二曲だ。歌えるだろ?」
おれが中一のころ。唐突だった。兄貴がオレを軽音部の部室に連行した。
「今日からバンドを組む。煥が歌え。詞も、おまえが書いてみろ」
亜美さんと牛富さんと雄も部室にいた。兄貴は、その前の年にギターを始めていた。亜美さんと牛富さんも、兄貴と同時だった。シンセの雄は、昔からピアノを弾けた。
オレは、何で歌わされるのか、わからなかった。小学校時代は、日中、誰ともしゃべらずに、ろくに声を出すこともない毎日だった。歌い始めたころは、すぐに声が嗄れた。兄貴たちが練習する隣でじっと黙って、ただ、思ったことを詞に書いていた。
「あの二曲でいいのか? プログラムには、別の曲名を載せてるのに」
兄貴は一笑した。
「煥が進行のことを心配するなよ。MCはおれに任せろ。おまえは、思うままに歌え。本気のおまえの声、おれは好きだからさ」
壮行会の裏方がオレたちを呼びに来た。次が出番らしい。
「よし、じゃあ行くぞ!」
円陣を組んだオレたちは、兄貴のかけ声で気合を入れる。
「っしゃぁっ!」
その瞬間、日常の雑音が消えていく。自分の内側が水になる、そんな感覚。オレはこれから、自分へと潜る。
暗いフロア。さざ波のような、期待の声。
期待? 本当に? オレは、彼らに待たれているのか?
最初にドラムの牛富さんが、次にシンセの雄が、ステージに上がった。さざ波が、歓声と拍手に変わる。シンプルなセッションが始まる。エイトビート。ループする4コード。
ベースの亜美さんが、ギターの兄貴が、ステージでのセッションに加わる。歓声が大きくなる。セッションが、ひとつの曲を形づくり始める。シンプルなギターリフ。兄貴が初めて作ったリフだ。
「おまえのイメージで作ったんだぞ」
得意そうな兄貴の顔を、よく覚えている。BPM200のアップテンポ。息がつけないくらい緊迫して、マイナーなコード展開がもどかしい。速いリズムに鼓動を持っていかれる。叫ばずにいられなくなる。
兄貴がオレに合図を送った。オレはステージへと駆け上がる。押し寄せる熱気を正面から受け止める。吹き飛ばされそうになりながら。
オレは歌い出す。
兄貴がオレのために書いた曲に、オレは、オレ自身を乗せた。水のような自分自身に潜る。息が続く限り潜ったら、ここは、冷たくて同時に温かい場所。形のない自分自身を感じた。
バァトルって響き、勇者って言葉を、兄貴はオレに与えようとした。そうなれたらいい、と願う。勇者になれたら。
世界を救うような、大それたモンじゃなくていい。守りたい人を傷付けずに生きていく。それだけでも勇者だと、傷付け続けるオレはよく知ってる。
弱音だらけのこんな唄を、兄貴や仲間たちは誉めてくれた。ヴォーカルでいる限り、オレは存在を許されるのかな、と思う。
歌うときだけは、高い声もデカい声も出る。昔、初めて録った自分の声を聴いて、驚いた。不思議な声だった。自分で感じる自分の声は、もっと、こもっている。外から入ってくる自分の声は違った。
兄貴が言っていた。
「貫かれる、だろ? 耳から入る音のはずが、まっすぐ胸に飛び込んでくる。歌詞を頭で理解するより先に、メッセージに胸を貫かれるんだ。煥の声、魔法だよ。おれは昔から知ってたけどな」
細いけれど折れない、しなうような声。尖らせて荒らしてみても、響きにまろやかさが残る声。体温より少しだけ高い温度を持つ声。そんな声で、オレは、オレ自身を歌う。
たった二曲だけのステージだった。それでも、全力で歌った。兄貴が書いた曲、仲間たちの演奏に守られて。無防備なほど、自分自身と向き合って。
歓声の中で、兄貴がオレの肩に腕を回した。
「な、おれの言ったとおり、歌えただろ? いい顔してたぜ。アンコールと言いたいとこだが、撤退だ。壮行会の進行を乱すわけにはいかないからな」
オレたちはステージ袖に引っ込んだ。裏方や出演者たちが群がってくる。
「お疲れさまです!」
「カッコよかったです!」
「握手してください!」
「生徒会長~!」
「亜美さまイケメン!」
「煥先輩、大好きぃ!」
ウザい。
オレは人混みを掻き分けて進んだ。ステージ袖を抜ける。ついでに、体育館からも出る。外の空気に、ホッとした。五月の風は心地よくて、木漏れ日がまぶしい。
「煥さん!」
呼ばれて、振り返る。師央だ。そういえば、ステージ袖にいなかった。どこ行ってたんだ? と訊こうとして、答えがわかった。師央は鈴蘭と一緒だ。鈴蘭を連れに行ってたんだろう。
「お疲れさまです、煥さん! やっぱり、すっごくカッコよかったです! ファンが多いのも納得ですね。ね、鈴蘭さん?」
鈴蘭が師央を見て、オレを見た。久しぶりに目を合わせた。でも、すぐに鈴蘭は視線をさまよわせた。怒ったような顔をしている。師央に無理やり連れて来られたせいか?
「あ、煥先輩、お疲れさま、でしたっ」
投げ付けるような口調も尖っている。どう返事すべきか、わからない。
師央はおかまいなしだった。ちょこんと敬礼する。
「それじゃ、ぼくは文徳さんたちのとこへ行きます。ごゆっくりどうぞー」
言うが早いか、きびすを返して、あっという間に師央は体育館へと消えた。
沈黙。
オレは鈴蘭から目をそらす。ごゆっくりも何もない。どうせよと? 何を話せと?
鈴蘭が何か言おうとしている。気配で、それがわかる。また小言か? 説教か? 図書室でのやり取りに対する恨み節か?
オレは身構えつつ、低い声で尋ねた。
「何かオレに言いたいことがあるのか?」
「……あ、あの……っと……」
「さっさと言え。喉が渇いてんだ。部室に戻りたい」
「え、っと……ったです……」
「は?」
鈴蘭が、パッと顔を上げた。
「カッコよかったです、って言ったんです! そ、それと、気持ちが伝わってきてっ、すごく、すごく繊細で、孤独で、強くて! わ、わたし、ご、ごめんなさいっ!」
「え?」
「歌ってる煥先輩は、強くて、なのに、弱くて泣いてるみたいで、あ、あの、ほんとに、印象的でした。だから聞かせてほしくて、カウンセリングや心理学じゃなくて、わたしは挫折とか、知らなくて、先輩から見たら、わたしなんて、た、ただの頼りない後輩だろうけど、でも、知りたいと、思って、煥先輩のこと、話して、もらいたくて」
鈴蘭の声は震えていた。泣き出すんじゃないかと思った。鈴蘭を見たら、真っ赤な顔で怒っている。
「何で怒ってるんだ?」
「お、怒ってません!」
「怒ってるだろ」
「どんな顔すればいいか、わかんないだけです!」
「普通にしてればいいだろ」
鈴蘭が、胸の前で拳を握った。子どもみたいな形の拳だった。
「先輩のバカ! ふ、普通にしてられるはず、ないでしょ!? だって、く、苦しいくらいドキドキしてるんです! ステージで、煥先輩、カッコよくてっ、カッコよすぎたんです! あんな声で歌われたら、わたしっ、と、とにかく! お疲れさまでした! この間はごめんなさい! それだけです! カッコよかったです! 失礼しました!」
鈴蘭は一瞬で体育館へ逃げ込んだ。
「マジかよ」
取り残されたオレは、加速する鼓動を数えながら、急激に熱くなる顔を右手で覆った。
壮行会からまた数日経った。鈴蘭の態度もようやく、もとに戻った。ただ、変化したのは師央だ。
「じゃ、お二人で、ごゆっくりー」
そう言って抜け出そうとすることが多々。オレは師央の首根っこをつかまえる。
「ふざけんな。おまえひとり、どうするつもりだ?」
「文徳さんと帰ります」
「兄貴のほうに行くのこそ邪魔だろ。亜美さんと二人になる時間、確保してやれ」
「それもそうですけど。でも、ぼくは、何が何でも、二人をくっつけたいんです。このままじゃ、意地を張ってばっかりでしょ? 全然、進展しない」
「くっつけるとか、進展とか。いちいちうるさい。オレの行動に口出しするな」
師央は上目づかいでふくれる。でも、うなずかない。意外に頑固なやつだ。
最近、暖かい日が続いてブレザーが暑苦しくて、今日は家に置いてきた。上はカッターシャツに、緩めたネクタイだけ。下も夏服のズボンに替えた。
その放課後、図書室で。
「煥先輩、ボタンが取れかけてます」
鈴蘭がオレの襟元を指差した。さわってみると、いちばん上のボタンがぶら下がっている。
「よく気付いたな」
「た、たまたま見えたんですっ。わたし、付けましょうか?」
「必要ない。こんなボタン、留めないし」
鈴蘭が、ムッと眉を逆立てた。
「式典のときは、ボタンを全部留める! 校則ですよ? 付けてあげます」
鈴蘭はカバンから小さな箱を出した。化粧のコンパクト? と思ったら、裁縫箱らしい。針と糸が出て来た。
「じっとしててください」
「おい、やめろ。この状態で作業するのかよ?」
「動いたら危ないです」
「動かなくても危ないだろ」
「わたし、家庭科もそこそこできますよ?」
そこそこじゃ怖い。ったく。お節介もいいとこだ。オレはネクタイを解いた。カッターシャツのボタンを外す。
「せ、先輩、何脱いでるんですかっ!?」
「下にTシャツぐらい着てる。期待すんな」
カッターシャツを脱いで、鈴蘭に押し付けた。鈴蘭は無言で受け取って、黙ったまま、ボタンを付け始める。
横目に見下ろすと、鈴蘭の手付きはぎこちない。慣れてないらしい。針で指を突きそうで、ハラハラする。
ハラハラ? 心配? そんな小さなケガを? 下らない、と胸の中で吐き捨てたとき。
「痛っ」
鈴蘭が、か細い声をあげた。左手の人差し指の先を見つめている。ぷつり、と血のしずくが膨れ上がった。
「慣れないことをするからだ」
「ボタンは付け終わりました。後は、糸を切るだけです」
鈴蘭は、傷付いた指を口にくわえた。針を裁縫箱にしまう。ふと、オレは思い付いたことを口にした。
「自分の傷を治療することはできるのか?」
「能力を使って、って意味ですか? やったことないです。原理的には、できると思います。傷の痛みを別の場所に移せれば、傷を治せるはずです。ただ、誰かに協力してもらう必要はありますよね」
なんとなく、視線が絡み合った。
「やってみるか?」
「いいんですか?」
「その程度のケガなら、たいして痛くもない」
「またそんなこと言う」
鈴蘭はため息をついて、左手をオレのほうへ差し出した。
「何だ?」
「わたしの手を握ってください。他人にさわるのが嫌いなのは知ってます。でも、実験に協力してもらえるんでしょう?」
「わかってる」
オレは鈴蘭の左手を握った。その小ささは予想ができていた。でも、柔らかさと軽さに驚く。指先が少し冷えている。
鈴蘭が、つないだ左手に、右手をかざした。右の手のひらから青い光が染み出した。
チクリと、左手の人差し指の先に、かすかな痛みが走った。意識を集中すると、わかる。チクチクと、ささやかな傷口の自己主張。
青い光が消えた。同時に痛みも消えた。
鈴蘭の左手がオレの手の中で、もがいた。オレはその手を解放した。
「治ったみたいです。痛くなかったですか?」
「別に」
鈴蘭は、裁縫箱から小さなハサミを出した。ボタンの裏に飛び出した糸を、短く切る。
「できました」
差し出されたカッターシャツを受け取る。黙って受け取って、足りないと気付く。
「ありがとう」
つぶやいてみる。胸が騒いでいる。小さな手の感触が、まだオレの手に残っている。鈴蘭がバタバタと音高く帰り支度をした。
「し、師央くんは玄関で待ってるそうです。早く行かなきゃ、待たせすぎますよねっ。先輩、シャツ着てください! 置いていきますよっ」
口調が、なんかキツい。オレのリズムが、いちいち鈴蘭をイラつかせてるのか?
師央と合流して、鈴蘭を自宅まで送る。もはや慣れた道を歩くうちに、その場面に出くわした。柄の悪いのが数人、誰かを囲んだところだった。
「よぉ、テメェ、金持ってるだろ? 大都《だいと》のお坊ちゃんだもんなぁ? おれらにちょっと貸してくれよ」
カツアゲだ。大都高校は隣町にある男子校で、全国有数の進学校。授業料がバカ高いことでも有名だ。当然というべきか、ハンパな不良たちの格好の餌食になっている。
涼しい声が不良たちに応えた。
「貸してくれ、ですか? ということは、返してもらえるんですよね?」
不良たちが爆笑する。
「誰が返すかよ! こいつ、バカじゃね? お坊ちゃんはお勉強しかできないのかなぁ?」
鈴蘭がオレの隣で憤慨した。
「何よ、あれ! 感じ悪い! 止めなきゃ!」
言うと思ったが、鈴蘭が出ていくのは無謀だ。オレは鈴蘭と師央を牽制した。
「ここから動くなよ。オレが威嚇してくる」
「先輩、暴力はダメですよ?」
「向こう次第だ」
「煥さん、カバン持っておきましょうか?」
「頼む」
オレはカツアゲの連中に近付いた。不良の輪の中心に、灰色の詰襟の男が見えた。意外に飄々《ひょうひょう》としている。
「言葉は正しく使ってくださいね。返すつもりがないなら、くれ、と言うべきです」
「正しい言葉を使えば、金くれんのか?」
「まさか」
「優等生気取りのボンボンがナメんなよ!」
「気取ってるわけじゃなく、優等生だけどね」
大都高校のそいつは、すらりと背が高い。墓石とあだ名されるグレーの詰襟なのに、こいつが着てると、違う代物みたいだ。緩く波打った髪。目は緑がかっている。彫りの深い顔立ちには笑みがある。
そいつは何気なく立っているように見えた。でも、実は両脚のバネがたわめられている。いつでも飛び出せる構えだ。鍛えてあるらしい。相当、強い。大都にもこんなやつがいるのか。背中を丸めたガリ勉ばっかりだと思っていた。
ふと、そいつがオレを見た。緑の目が、ハッキリと微笑んだ。
「ああ、やっと会えた。ぼくは彼を待ってたんですよ」
彼、と手のひらで示された先のオレへ、不良たちが振り返る。ギョッとした顔になった。それから開き直った。
「銀髪野郎じゃねぇか。おれらもテメェには会いたかったぜ? ここんとこ、やられっぱなしだからな」
その言い草に、理解する。
「緋炎の下っ端か。瑪都流のシマで、ふざけてんじゃねえ。締められてぇのか?」
返答は拳だった。下品な雄たけびをあげながら、わらわらと殴りかかってくる。
ケンカと呼べるレベルでもない。手応えのある相手は、めったにいない。無駄なく一撃ずつで沈めたのが、六人。
残るはあと一人だった。でも、オレの視線の先で、それも倒れた。倒したのは、大都高校の優等生だ。
「慣れてるみたいだな、あんた」
オレの言葉に、そいつは笑った。パタパタと両手をはたく。
「優等生も、ムシャクシャすることがあるんです。たまにはこうして息抜きしないとね」
「ふざけた野郎だ」
「型に嵌るのは苦手なんですよ」
「オレに会いたかった?」
「ええ、伊呂波煥くん。そのつもりで待っていました。でも、日を改めようかな」
そいつは、オレの肩越しに視線を投げた。鈴蘭と師央がいる。
「ここじゃ話せないことか?」
「話してもいいんだけどね。でも、もう少し情報がほしくなりました。あ、危険な取引なんかじゃないですよ。まあ、興味を持ってもらえたら嬉しいな」
そいつは、重たげなカバンを肩に引っかけて歩き出した。オレの隣を、すっと通り過ぎる。かすかな風圧。足音がしない。
オレはそいつの動きを目で追った。そいつは鈴蘭と師央に軽く会釈をする。そのまま歩いていく。
鈴蘭は怪訝そうな顔をしていた。師央の表情がおかしい。目を見張って、かすかに震えている。師央は、歩き去ろうとする背中に叫んだ。
「カイガさん!」
そいつがゆっくり師央へと向き直る。顔は微笑んでいる。体は隙なく身構えている。
「どこかで会いましたっけ?」
後ろ姿の師央が何かを叫んだ。でも、声は聞こえない。カイガと呼ばれた男が首をかしげる。師央は、かぶりを振った。黙って頭を下げる。
カイガ、というのか? 未来での知り合いか? 師央は何を話せずにいるんだ?
カイガというらしい男は手を振って、今度こそ立ち去った。時間の流れが急にもとに戻った気がした。足元のそこここで、緋炎の下っ端が呻いている。オレは鈴蘭と師央を促した。
「別の道から回って帰るぞ」
鈴蘭が、例の怒ったような顔でオレを見上げた。
「彼らはどうするつもりですか?」
「ほっとく」
「痛がってるじゃないですか!」
「殴ったからな」
「何でそんなに暴力的なんです?」
「向こうから突っかかって来た」
「確かにそうだけど、過剰防衛です!」
うるさい。面倒くさい。
「おい、師央。さっさと行くぞ」
師央は、うなずくついでにうつむいた。目に涙がたまっているのが見えた。鈴蘭も、師央の表情に気付いたらしい。師央の顔をのぞき込んだ。
「どうしたの、師央くん? さっきの人、知り合い? 何かあったの?」
師央は胸の前で拳を握った。ちょうどそのあたりに、鎖を通して首から提げた白獣珠があるはずだ。師央は言葉を選ぶように、切れ切れに告げた。
「あの人は、カイガさん。そう覚えておくように、と言っていました。ぼくは、一度だけ、会ったんです。でも、きっと、あの人のことは何も話せません。“代償”に、引っ掛かってしまうから」
師央は歩き出した。オレも鈴蘭も歩き出す。
胸騒ぎがする。何かが大きく動き始めている。今もまた、白獣珠の鼓動が速い。