授業に出たり出なかったり、寝ていたり起きていたり。普段どおりだ。間延びした時間が過ぎていった。
放課後になった。教室に、瑪都流《バァトル》の中心メンバーで三年の牛富《うしとみ》さんが来た。
「文徳から頼まれた。部室に煥を連れて来いってさ」
わざわざ牛富さんを寄越すってことは、絶対逃げるなよって意味だ。面倒なやつが部室にいるのか。たぶん、あの口うるさい安豊寺だ。師央の保護者気取りでもしてるんだろう。
しぶしぶ牛富さんについていったら、案の定、部室はにぎやかだった。安豊寺はオレを見るなり、キッとにらんできた。
師央が、ぴょんと飛んできた。尻尾を振ってるのが見える気がした。
「煥さん、お疲れさまです!」
「別に疲れてない」
「今日、楽しかったんですよ!」
あれやこれやと報告が始まる。聞きたいわけじゃない。適当に聞き流しながら、オレは部室を見やった。この軽音部の部室は校舎の東の隅にある。
オレは兄貴のバンドでヴォーカルをしている。中学時代から、メンバーは変わっていない。兄貴はギターと作曲で、バンマスでもある。ちなみに、ドラムは牛富さんだ。
「……って感じで、数学ではヒヤッとしたんです。でも、寧々さんがフォローしてくれて。やっぱり普通に学校に通えるって、いいなぁ」
師央の笑顔が、不意に少し陰った。
「どういう意味だ、それは? 普通に学校に通ってないのか?」
「__のせいで、__の危険があるから」
師央の口が動いた。声が出ない。昨日と同じ状況だ。事情を説明しようとすると、できない? 暗示でもかけられてるのか? マインドコントロール? 師央はうつむいて、首を左右に振った。オレの胸がざわついた。気付けば、口走っている。
「楽しかったなら、よかったな」
師央の顔に微笑みが戻った。
「すごく普通で、楽しいです!」
瑪都流が集まる場所は、いくつかある。中心メンバーだけなら、軽音部室。それ以外もいるときは学外になるわけだが、いちばん大きな拠点は港の倉庫だ。
ここは港町だ。飛行機が発達するより前は栄えていて、世界じゅうの外国船が行き交っていたらしい。今は、昔ほどの活気はなくなってて、使われなくなった倉庫がたくさん放置されている。その一つを瑪都流が占拠しているわけだ。
そういう簡単な説明を、兄貴が、順一と貴宏と寧々に聞かせてやった。三人はまじめにうなずいた。その後すぐ、寧々は部室を出ていった。部活の大会が近いとのこと。不良とつるんでるくせに、部活やってるのかよ?
兄貴が順一と貴宏に言った。
「寧々さんを一人にするのは怖いな。繰り返しになるけど、いつ緋炎の報復があるか、わからない。三人は、一緒に行動してほしい」
貴宏が、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「了解っす。まあ、もともとそのつもりですよ。じゃ、寧々んとこ行ってきます」
「よろしく頼む。ところで、彼女は何部なんだ?」
「アーチェリーっすよ。あいつ、スポーツ推薦いけるレベルなんです。てか、全国級なんすよ。なのに、おれらとつるんでるから」
貴宏が眉の両端を下げた。不良とつるんでるから、何だ? 内申が悪くてスポーツ科に落ちた?
いずれにしても納得だ。エアガンでの狙いの正確さは、アーチェリーで鍛えたってわけか。髪を派手に染めてなくて、前髪に一筋だけのオレンジ色を入れてるだけなのも、すぐに隠せる工夫だろう。スポーツの大会では、黒髪が有利だ。審査員や観客の心象がいい。
不愉快な記憶がよみがえる。銀色の髪が生む偏見。染めてやろうかと、何度も思った。髪の色なんかじゃなく、オレ自身を見てほしかったから。
でも、兄貴がオレを止めた。煥はそのままでいい、おれがどうにかしてやると言って、確かに、どうにかしてくれた。校則を変えたんだ。髪の色が自由化した。染めてるやつが増えたおかげで、オレの奇抜な地毛も目立たなくなった。少しだけ気楽になった。
寧々と尾張兄弟がいなくなって、安豊寺が立ち上がった。
「わたしも、お暇します。軽音部の練習を邪魔しちゃいけないし」
兄貴が機材をいじる手を止めた。オレを見る。イヤな予感しかしない。
「煥、鈴蘭さんを送ってやれ」
やっぱりな。一応、オレは無駄な抵抗を試みる。
「兄貴が行けよ」
「煥がエフェクトの調整をするか? 固まってないアレンジを固めて、今度のライヴの契約書作って、パンフの原案を起こす? バンド関係の用事もろもろと、送るのと、どっちが煥の仕事かな?」
オレは、薄いカバンを肩に引っかけた。
「来い、安豊寺。家まで送る」
「いいえ、けっこうです! わたし、一人で帰れますから!」
青い目が、にらみ上げてくる。刺さる敵意に、オレはため息しかない。勝手にしろよ。って言えりゃ楽なのに。
兄貴は笑顔で肩をすくめた。瑪都流メンバーも、ニヤニヤしてる。ドラムの牛富さん。ベースで、兄貴の彼女の亜美さん。シンセサイザーで、オレとタメの雄《ゆう》。
師央がおずおずと手を挙げた。
「ぼくが、送りましょうか? 皆さんは練習があるでしょうし」
「師央くん、ありがとう。お願いしてもいい?」
いや、弱い師央じゃ意味がない。
結局、安豊寺と師央が並んで歩いている。その後ろを、オレが歩いている。歩くの遅いな、こいつら。安豊寺が小柄なせいか。
襄陽学園は町の真ん中あたりにある。学園より港寄りは繁華街。反対側は、そこそこ裕福な住宅地。特に、港からいちばん遠い山手のエリアは高級だ。安豊寺の家は山手エリアにある。徒歩通学の圏内だ。
昨日、成り行きで家の前まで送った。庭の広い大きな家だった。記憶の中にあるオレの実家に似ていた。門衛の雰囲気とか、芝生の庭の感じとか。寧々は安豊寺を“お嬢”と呼ぶ。中学時代のあだ名らしい。確かに安豊寺はお嬢さま育ちだ。
逢魔が時、っていう時間帯だ。日が沈んで、でも、ぼんやり明るい。
「煥さん」
振り返った師央に呼ばれた。安豊寺は前を向いたままだ。オレの顔なんか見たくない、ってとこか。
「何だ?」
「煥さんと文徳さん、どっちがモテますか? 今日、教室でそんな話になってて」
下らねぇ。
「見てわかれ。兄貴に決まってるだろ」
「見てても、わかりませんでした。煥さんのクールなとこがいいって人も多いし」
「遠巻きに見物するのと、モテるのと、全然違うだろうが。兄貴は普通にモテるんだよ。誰とでも平等に接するし、モテるくせに彼女一筋だし」
安豊寺が勢いよく振り返った。
「か、彼女っ?」
「さっき、部室にいただろ。三年の亜美さん。兄貴は昔から、亜美さんしかいないって言ってる。親同士も認めてたしな。許嫁って言っていい」
安豊寺は立ち止まって、ポカンとしている。師央が恐る恐る声をかける。
「あの、鈴蘭さん?」
「……えーっと……びっくりした……ごめん、うん、平気。そ、そっか、そうなんだ。文徳先輩、許嫁がいるんだ」
兄貴のこと、気になってたのか?
「残念だったな。さっさと歩け。暗くならないうちに帰るほうがいい」
ポカンとしてた安豊寺が、怒り顔になった。
「デリカシーないですよね、煥先輩」
勝手に言ってろ。
オレたちは再び歩き出した。足音高く進む安豊寺は、さっきより歩くスピードが速い。師央がオレを見た。
「煥さんは、彼女いますか?」
「いない。つくるつもりもない」
安豊寺が口を挟む。
「彼女、できないと思うよ。失礼だし、暴力的だし、デリカシーないし」
安豊寺もたいがい、口調がキツいけどな。オレに対してここまで言うやつも珍しい。兄貴を除けば、前代未聞だ。
「でも、煥さん、もうすぐ彼女できますよ。結婚も早いんです。高校を出て二年目だから」
「ふざけんな」
「だけど、ぼくが__未来なんです」
師央のセリフが不自然に途切れる。安豊寺がまた足を止めた。今度は体ごと師央に向き直る。
「昨日も未来の話をしてたね。白獣珠を見せながら。わたしが同席してもいい話なの?」
確かに昨日、師央は安豊寺の前で白獣珠の名を言った。でも、今の安豊寺の口振りは、あまりに迷いがない。
「白獣珠を知ってたのか?」
安豊寺は静かな目をオレに向けた。温度のない視線。嫌われてるな、と感じる。
「わたしは師央くんと話したいんです。割り込まないでください。でも、仕方ないですよね。四獣珠は大切なものだから。煥先輩が目の色を変えるのも、仕方ない」
髪がザワッと逆立つような気がした。こいつ、なぜ知ってる? 何を、知ってるんだ? 思わず、拳を固めた。手のひらに爪が突き立って、チリッと痛む。
「鈴蘭さんには、聞いてもらいたいです。鈴蘭さんは、全部を知る権利が、あります」
師央が言った。安豊寺は師央を見つめた。
「権利の根拠は? わたしの血筋? それとも、わたしの未来に関係があるの?」
ひとつ、沈黙。師央が言葉を選ぶための、空白。選ばれた言葉たちが紡がれる。
「ぼくは、鈴蘭さんの未来や運命を知っています。それが、ぼくがここにいる理由です」
「わたしの未来に、何が……」
その瞬間、まばたきひとつぶんの間に、いくつものことが連鎖的に起こった。
敵意の飛来を感じた。飛び道具だ。
カバンを捨てた。右の手のひらにチカラを集める。地面を蹴って飛び出す。左腕で安豊寺を抱える。右手を肩の高さに掲げた。光の障壁《ガード》を展開する。
バシッ!
障壁《ガード》に何かが衝突して燃え尽きた。粉砕したモノの破片がパラパラと落ちる。それが何かに気付いて、ゾッとした。
銃弾。
もちろん実弾だ。順一たちが使ってたエアガンのBB弾とはわけが違う。
「師央、走るぞ。銃で狙われてる」
突っ立ってる師央の正面に、オレは踏み込んだ。師央を背中にかばう。
バシッ!
二度目の銃弾が飛来して、消滅する。これは緋炎の仕業なのか? あいつら、銃にまで手を出してるのか?
「ちょ、下ろして!」
オレの左腕の中で安豊寺が暴れた。黙っててくれないと抱えにくい。
「じっとしてろ」
「へ、変なとこ、さわらないでっ!」
言われて初めて気付いた。手のひらに当たる感触の柔らかさ。ヤベぇ、気持ちい……じゃなくて! オレは慌てて安豊寺を突き放した。
「オ、オレは、別に、さわるつもりはっ」
「ムッツリスケベ!」
「ち、違うっ」
「最低!」
「誤解だ!」
三度目。空気の裂ける音。展開したままの障壁《ガード》に、手応え。
バシッ!
安豊寺が息を呑む。師央が震える声を絞り出す。
「銃声、聞こえないのに」
「サイレンサー付きの遠距離ライフルだろうな。狙われたのがオレじゃなきゃ、死んでる。でも、たぶん狙撃は終わりだ。直接攻撃の連中が来た」
オレが言い終わるより先に、マフラー音が聞こえ始めた。閑静な住宅地をバイクの集団が爆走してくる。
安豊寺が吐き捨てるように言った。
「暴走族って、騒々しい。あんな音させて、どこがカッコいいの?」
「同感だな。下手くそが改造すると、あんな音にしかならない。無駄に重くなって、走行の性能も落ちる」
思わず本音を口にした。安豊寺は無視。おい、この嫌われ方は、さすがに不本意だぞ。
住宅地を巡る坂道の下のほうから、ヘッドライトが現れた。五台、か。突っ込んでこられたら厄介だが。
「おまえら、下がってろ」
言いながら、師央と安豊寺を追いやる。どこかの邸宅を囲う塀に背中を預ける形だ。
あっという間に、五台のバイクに囲まれた。五台とも全部、真っ赤に塗りたくられたハーレー。ボディに緋炎のロゴがスプレーされている。
いかつい体格の男が五人、ハーレーを降りた。メットを脱いだやつが一人いる。顔を知ってる。幹部だ。
「よぉ、銀髪。昨日はうちの下っ端どもが世話になったな。あんなレベルじゃ退屈だっただろ? ってことで、骨のあるのを連れて来たぜ」
無駄に律儀な男だ。報復しに来たんだろう? バイクで突っ込んでくれば話は早いのに、わざわざ挨拶付きの決闘とは。
「どけ、邪魔だ」
「邪魔だってんなら、どかしてみな?」
「痛い目を見るぜ」
「そりゃこっちのセリフだ」
「忠告するが、銃はやめとけ。足が付きやすい」
「何言ってやがんだ、あぁ? ダラダラおしゃべりしてる時間はねぇんだよ。やれ」
幹部が顎をしゃくった。三人の男が飛びかかってきた。遅い。そして、バラバラだ。
一人目のナイフをかいくぐって、そのみぞおちに肘を叩き込む。体勢を沈めた流れに乗せて、回し蹴り。二人目の脚を払う。三人目の拳の軌道を上腕でそらす。前のめりの敵の体に、膝をぶち込む。ダメージの浅い二人目の腰を踏む。
これで三人とも、しばらく起き上がれない。あと二人。
前進して、幹部との距離を詰める。跳躍。かかとを頭上に落とす。ヒットする直前、勢いを殺した。でなきゃ、こいつの命がない。幹部は声もなく沈んだ。あと一人。
振り返って、舌打ちする。刃渡りの長いナイフが光っていた。安豊寺を狙っている。オレは飛び込んだ。角度が悪い。敵へのカウンターは望めない。ナイフの正面に、左腕を差し出した。
焼け付く痛みが上腕に走った。体勢を崩しながらも、敵を突き飛ばす。
「煥先輩!」
背中の後ろで安豊寺が叫んだ。敵が視線を動かした。オレから、師央へと。
「危ねぇっ!」
敵がナイフを振りかざして、師央に突っ込む。師央は右手を突き出して、目を見開いて立ち尽くしている。
瞬間、オレは目を疑った。師央の手のひらの正面、何もない空間に、光が集まる。
敵が師央に襲い掛かった。その瞬間、障壁《ガード》を形作る光がクッキリと見えた。敵が弾き飛ばされながら悲鳴をあげる。ヘルメットが煙を上げて焼け焦げた。異臭が混じる。たぶん、髪が焼けた匂いだ。
師央が、へたり込みそうになった。オレは駆け寄って、その腕をつかんだ。
「おまえ、今、何をした!?」
「障壁《ガード》を、出しました」
「オレの能力を、どうして?」
「見よう見まね、です」
オレは唇を噛んだ。師央には謎が多すぎる。考えがまとまらない。考えても仕方がない。今は、現実だけを見るほうがいい。
「まずはここを離れる。走れ。とりあえず、安豊寺の家を目指す」
危険を感じたら、進路を変えればいい。勘だが、今日の襲撃はこいつらだけだと思う。
そもそも、良識ある住宅地で仕掛けること自体、失策だ。今ごろ、誰かが通報してるだろう。伸びてるこいつらは、警察に回収される。
オレは、自分と安豊寺のカバンを拾った。安豊寺の足に合わせて、坂を駆け上がる。
傷の痛みが拍動している。でも、たいした深さの傷じゃない。このくらいなら、すぐにふさがる。
走るうちに、完全に暗くなった。やがて、安豊寺の自宅の明かりが見え始める。そのころには、早歩き程度のスピードになっていた。
安豊寺はせわしない呼吸をしている。一度耳につくと、ひどく気になった。色っぽいように聞こえて、焦る。そんな呼吸の仕方、するなよ。
オレは、安豊寺と師央に訊いた。つっけんどんな口調になった。
「歩くか? もう襲撃はないと思うぞ」
安豊寺と師央は足を緩めた。二人とも肩で息をしている。安豊寺がまた、オレに手を伸ばそうとした。見下ろすと、サッと手を引っ込めた。
「あ、あの、ケガ、大丈夫、ですか?」
息の多いしゃべり方に、ドキッとした。安豊寺の黒い前髪が汗に濡れている。軽く開かれた唇。真剣な表情の目。
オレはそっぽを向いた。師央と目が合いかけて、足元を見た。
「これくらい、慣れてる。安豊寺は無傷だろ?」
「はい」
「じゃあ、いい。気にするな」
「気に、しますっ。ちょっと、腕、貸してっ」
オレの左腕に安豊寺の手が触れた。ザワッと、寒気に似たものが背筋に走る。触れてくる手を払いのけようとして、左腕がビクリとする。安豊寺が小さく首をすくめた。
いけない。払いのけて、傷付けては、いけない。
でも、苦手なんだ。触れられるのも、触れ合うのも、他人の体温や柔らかさも。
安豊寺の黒髪が近い。いい匂いがした。一瞬で息が詰まった。安豊寺がオレを見上げた。夜の中に輝く青い目に射抜かれた。
「じっとして。すぐに治すから」
安豊寺がオレの左の上腕に手のひらをかざした。しなやかな形の手だ。それが不意に、ふわりと発光する。
「この光って、安豊寺、あんたも能力者なのか?」
安豊寺の手から淡い青色の光があふれ出して、オレの腕を包む。温かい。やわやわと、湯の中をたゆたうみたいに。
しゅわしゅわと炭酸が弾けるような感触とともに、傷口がふさがって痛みが消えていく。
安豊寺が歯を食いしばっていた。眉間にしわを寄せている。
「煥先輩の嘘つき。こんなに、痛いじゃないですか。傷、ズキズキして、ヒリヒリして。なのに、平気なふりしてたなんて。嘘つきです」
青い光が、すぅっと消えた。安豊寺がオレの腕から離れた。その瞬間、ふっと吹き抜けた夜風が、思いがけず冷たい。
「傷が、治った」
「これがわたしの能力、癒傷《ナース》です。わたしも能力者で、預かり手なんです」
安豊寺は制服のリボンをほどいた。カッターシャツのボタンを一つ外して、襟の内側に指を差し入れる。鎖がのぞいた。細い指が鎖を引くと、ペンダントトップが現れた。金でも銀でもないメタルに守られた宝珠。夜の中でも、冴え冴えと青い石。
オレの胸で白獣珠が鼓動している。同じリズムで、青い石の内側に淡い光が脈打っている。
「青獣珠《せいじゅうしゅ》か?」
「そうです。青龍の力を秘めた宝珠、青獣珠です。わたしは青獣珠の預かり手として、傷を癒すチカラを持っています。でも、限界があります。痛みを引き受けられる範囲の傷しか治せません。致死的な傷は、痛すぎて耐えられない」
安豊寺は右手で、自分の左の上腕をつかんだ。
「オレの傷、痛かったか?」
「痛かったです」
うつむいた安豊寺が弱々しく見えた。ごめんと、つい謝りそうになった。オレのせいじゃないのに。
「頼んでない。大したケガでもなかった」
「大したケガです!」
「オレにとっては、日常茶飯事だ。ケンカばっかりだからな。箱入りのお嬢さまには、想像もつかないだろ」
「そういう言い方、嫌いです! わ、わたしは別に、あなたのためじゃなくてっ、自分の自己満足のために、治しただけだから! だって、わたしのせいでケガしたみたいで。そ、そんなの、見てるだけで、痛いから……」
言葉尻がすぼんでいく。
安豊寺の声が聞こえたんだろう。屋敷の門衛がこっちへやって来た。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
オレは中年の門衛に安豊寺のカバンを渡した。
「物騒な連中と鬼ごっこしてきた。門を入るまで、見送らせてくれ」
門衛がオレに軽い疑いの目を向けている。そりゃそうだろう。見るからに崩れたオレの格好。お金持ちのお嬢さまを見送るには不釣合いだ。
「失礼ですが。お名前を頂戴してよろしいでしょうか?」
オレは、使いたくない名乗りを使った。
「伊呂波煥。白虎の伊呂波だ」
奇跡の根源、四獣珠。人が願いをいだくとき、願いに見合う代償を差し出すならば、四獣珠は願いを聞き入れる。願いは叶えられ、奇跡が実現する。
四獣珠には、四聖獣の力が宿っている。青は東方の青龍。白は西方の白虎。朱は南方の朱雀。玄は北方の玄武。四つの選ばれた家系が、四獣珠を預かっている。預かり手は当代に一人。その者は必ず異能を授かる。
白虎の伊呂波というオレの名乗りに、門衛は背筋を伸ばした。予想どおりだ。こいつは四獣珠の事情に通じている。オレの家の門衛がこんなふうだった。
門をくぐるまで、安豊寺は無言だった。さよなら、と師央が手を振った。その後になって、安豊寺はようやく声を発した。
「待って!」
門の格子の向こうから、青い目がオレをとらえた。人形みたいに整った顔が少しこわばっている。
「煥先輩、今日、ご、ごめん、なさい。わたし、生意気ばっかりで、口ばっかりで。足手まといにしかならなくて。何も、できなくて。役に立てなくて」
急に何を言い出すんだ? オレは左腕を掲げてみせた。
「できるだろ。役に立ってる。安豊寺のおかげで、無傷だ。兄貴に叱られなくてすむ」
安豊寺は目を丸くした。それから、小さく微笑んだ。唇の両端が持ち上がって、頬にえくぼができた。
オレは、息が止まる。初めて、まともに安豊寺の笑顔を見た。ただそれだけなのに、驚いて、ドキリとして、目をそらす。
「煥先輩、あともう一つ。わたしのこと、鈴蘭って呼んでください。わたしは先輩のこと、下の名前で呼ぶから。それに、安豊寺だと、青龍に縛られてるみたいで」
同じなんだ、と気付いた。オレが白虎を名乗りたくないのと同じだ。
「わかった、鈴蘭」
呼んでみて、また息が止まって、騒ぐ胸に戸惑って、鈴蘭に背を向ける。意味がわからない。名前を呼ぶだけで胸が苦しい。普段は、誰の名をどう呼ぼうと平気だ。亜美さんも寧々も、下の名前で呼んでる。
鈴蘭。その名前だけ、どうして? まるで何か特別なチカラを持つみたいに。
黙っていた師央が、口を開いた。
「ぼくは、知ってました。鈴蘭さんも能力者だってこと」
「未来で見てきたからか?」
「直接は見てません。だって、__は__、__から」
「話せないなら話すな。半端な情報は、かえってイライラする」
オレの八つ当たりに、師央はまじめにうなずいた。そして、話のトーンを変えた。
「おなかすきましたね。夕食、何を作りましょうか?」
朝一番から、兄貴は横暴だった。
「鈴蘭さんを迎えに行ってやれ」
「は? 何で?」
「昨日、通い慣れた通学路で襲撃されたんだぞ。不安な思いをしてるかもしれない。実際に危険があるかもしれない」
「だからって、どうしてオレが?」
「三年の進学科は今日、必修の朝補習だ。生徒会長のおれがサボれるはずもないだろ?」
嘘つけ。普段は要領よくサボってるくせに。
朝飯を作る手を止めて、師央が振り返った。いつの間にエプロンなんか用意した?
「ぼくも一緒に行きましょうか?」
「頼む」
師央がいるほうがまだマシだ。女と二人きりなんて、冗談じゃない。
そういうわけで、オレと師央は安豊寺家の門の前に立った。昨日と同じ門衛がオレたちに敬礼する。
ちょうどタイミングよく、鈴蘭が家から出て来るところだった。広い庭を小走りで突っ切る鈴蘭の後ろに、黒服の男が二人。あれは何なんだ?
疑問はすぐに解けた。
「おはよう、師央くん。煥先輩もおはようございます。一緒に登校してくれるんですよね?」
「兄貴にそれを命じられた」
鈴蘭は、黒服二人を振り返ってにらんだ。
「というわけだから! ボディガードは必要ないから! 煥先輩は一人であなたたち二人より強いの! 学校にまでついて来ないで!」
黒服たちが顔を見合わせた。鈴蘭が、すがるような目をオレに向けた。面倒くせえ。
「もう聞いてるかもしれないが、オレは白虎の伊呂波、当代の預かり手だ。青龍の護衛なら引き受ける。昨日、傷を治療してもらった借りがあるしな」
鈴蘭が門を飛び出してきた。一瞬、オレのほうへ手を伸ばそうとして、でもすぐに引っ込めた。代わりに師央の制服の袖をつかんだ。
「さ、早く学校に行こう! あなたたち、おとうさまに伝えておいて。煥先輩がわたしを守るから平気だ、って。じゃあ、行ってきまーす!」
鈴蘭は師央を引っ張って駆け出した。
オレは、鈴蘭に訊いておきたいことがあった。それは鈴蘭も同じだったらしい。オレより先に切り出してきた。
「煥先輩は、わたしのこと知ってました? 安豊寺家が青龍の家系だってこと」
「知らなかった」
「ですよね。わたしも、一昨日、師央くんの白獣珠を見るまで、伊呂波家のことは知りませんでした。あの日、初めて、両親から具体的な話を聞きました。四獣珠を守る四つの家系の名前。それぞれの家の間に交流がないこと。そして、交流を持たない理由」
いつの間にか、オレの隣に鈴蘭がいた。師央が一人、少し先を歩く形だ。鈴蘭は前を見つめている。横顔が真剣だった。
オレは、師央の栗色の頭を見ながら言った。
「四獣珠に関すること、話してくれ。オレの家系には、話をできる人間がいない両親は他界したし、祖父母もいない。伊呂波の苗字を持ってるのは、オレと兄貴だけなんだ」
伊呂波家は父方の血筋だ。両親が死んだ後、オレと兄貴は母方の親戚に育てられた。兄貴が高校に上がるとき、一緒にそこを出た。
鈴蘭がカバンを持つ手を替えた。オレの膝のあたりで、重そうなカバンが揺れる。置き勉しないのかよ、この優等生は。オレは呆れつつ、鈴蘭のカバンを持った。
「続き、話せ」
「は、はい。四獣珠の預かり手は交流しない。それは昔からの取り決めだったそうです。今から八百年くらい前、十三世紀に、獣珠は中国大陸から日本に渡って来た。それ以来ずっと、預かり手たちは、進んで交流することはなかった。なぜだか、わかりますか?」
師央が、そっと振り返った。
「争いの種になるから。四獣珠は、人の願いを叶えます。代償さえ差し出せば、誰の願いでも、どんな願いでも叶えてしまう。四獣珠は、一つでも大きな力を持っているんです。それが四つも集まると……」
師央が口をつぐむ。オレが続きを引き継いだ。
「争う人間が出てくる」
鈴蘭の目が、オレと師央へ、順に向けられる。
「煥先輩、師央くん。運命って信じますか?」
「さぁな」
「ぼくは、信じてます。運命の存在と、運命の可変性を」
鈴蘭は話の筋を戻した。
「自分から交流しない預かり手たちだけど、何代かに一度、集ってしまうときがある。母がそう言ってました。その要因は、母にもわからないみたいですけど」
「その交流のときが今、ということか? 因果の天秤に、均衡を、だったか?」
「煥先輩の白獣珠も、それを言っていたんですね? 青獣珠も同じで、しゃべるなんて思ってなかったから、びっくりして。どういう意味なんでしょう? 集まりたがらない性質をくつがえすくらい、大事な意味があるんでしょうか?」
オレは師央を見た。師央もオレを見ていた。
「ぼくも聞いています。因果の天秤に均衡を取り戻すのが役割だって。ぼくは、四獣珠が争いの種になると知っています。でも、ぼくにチャンスをくれたのも四獣珠です。ぼくの__を__……ダメか。未来を救う……この言葉ならいいんだ……未来を救うきっかけを見付けるために、ぼくはここへ来ました。この時代、この場所へ」
白獣珠を持つ師央が、オレの前に現れた。それとほぼ同時に、青獣珠の鈴蘭に出会った。この筋書きが運命だというのなら、四獣珠が集う争いの物語は始まったばかりだ。
しかも今、四獣珠は四つじゃない。預かり手は四人じゃない。五つ目の四獣珠があって、五人目の預かり手がいる。これから何が起こるのか?
「これは何が起こってるんだ?」
校庭で、女子が二人の男に群がっている。普段の登校中の挨拶攻めなんて、比じゃない。比喩でも何でもなく、本当に群がっている。
「どうしちゃったの、この人たち? ボーっとして、顔が真っ赤」
群がった女子たちは、中心に立つ二人の背の高い男に見惚れてるらしい。
男の片方は、知らない。明るい色の髪で、女にモテそうな顔をしてる。事実、両腕に女を抱き寄せている。
もう片方は、言わずと知れた兄貴だ。しかも、兄貴の背中に抱き付いてるのは亜美さんだ。二人とも、人前でイチャつくキャラじゃないんだが。
何百人いるんだろう? ってくらいの女子の群れだ。教職員も交じってる。男子の姿もちらほらある。
師央がリュックサックを胸に抱いた。
「先に進めませんね。しかも、どんどん数が膨らんでいくし」
登校してきた連中が、わらわらと、兄貴たちに見惚れる群れに加わる。集団催眠にでもかかったみたいだ。
ふと、兄貴がオレを見た。右手を挙げる。兄貴の隣の男が、兄貴に話しかけた。
【ん? あれが噂の弟くん?】
嘘だろ。どうして声がここまで届く? そんなにハッキリと。百メートルは離れてるし、間は人だらけなのに。受け答えする兄貴の声は、まったく聞こえない。
【弟くん、困ってるっぽいね~。前に進めませんって感じ? みんな聞いて~!】
異様に響き渡る声が呼びかけた。その瞬間、水を打ったように、世界が静まり返った。
【道、開けてやって~!】
音、じゃなかった。そいつの声は、音じゃない何かが本体だ。だから、異様に遠くまで聞こえてくる。声なのに音じゃないって意味では、白獣珠の声と似てる。
人の群れが割れた。そいつの命令に、完璧に従うみたいに。
【ほらほら、弟くん、おいでよ~。一緒に女の子たちに囲まれようぜ。弟くんファンも多いって聞いてるよ~】
そのとたん、そこここで声があがる。
「煥先輩、今日もクール!」
「カッコいいよね、煥先輩!」
また何だか面倒くさいことになってきてる。オレはうんざりして、ため息をついた。
「とりあえず、行くか」
歩き出すオレの後ろに、鈴蘭と師央がついて来る。人垣の中にできた道は、熱気がすごい。小声のつぶやきが、ときどき聞こえてくる。
「超カッコいい」
「イケメンすぎる」
「暴走族で近寄りがたくて」
「でも、生徒会長のほうが」
「彼女さん、うらやましい」
「生徒会、入ろうかな」
不気味だ。無防備すぎる。好意だか好奇心だかが、駄々漏れになっている。ここまで本心をむき出しにするなんて異常だ。
ようやく中心部までたどり着いた。兄貴は「よう」と片手を挙げた。もう片方の手は、亜美さんの髪を撫でている。
「よう、じゃないだろ。どうなってんだよ、これは?」
「学校じゅうの女子に囲まれる体験ってさ、たまにはおもしろいだろ?」
「オレはごめんだな。どういう手品だ?」
兄貴は肩をすくめて、隣の男を見た。異様に声の響くその男は、朱い色の瞳をしている。そいつはオレに笑いかけた。
「初めましてだね~。おれ、長江理仁《ながえ・りひと》。文徳のタメで、親友だよ。よろしく~」
軽いノリのしゃべり方が、なんか疲れる。
「どうも。兄貴が世話になってるみたいで」
「いやいやいや、こちらこそ。文徳には世話かけっぱなしなんだよね。あ、そうそう。去年、おれ、フランス留学してたの。だから、弟くんへの挨拶も遅れちゃってさ~。ま、先月には戻ってたんだけどね。時差ボケが抜けるのに一ヶ月かかっちゃって」
要するにサボりまくってたんだろ。五月に入ってようやく初登校って、出席日数、大丈夫なのかよ? いや、こいつの出席日数はどうでもいい。知りたいのは別のことだ。
「この意味不明な状況は何なんだ? あんたが原因なんだろ?」
「年上にあんたはよくないよ~。ま、呼び捨てでいいけどね。弟くんは、煥だよね? あっきーでいい?」
「よくない」
「じゃ、あきらん」
「普通に呼べ!」
「だったら、やっぱ、あっきーかな~」
意味わかんねぇ。ほっとくか。
「とにかく。この状況とあんたの声のこと、説明しろ」
「理仁。おれのこと、理仁って呼んでってば」
「……理仁」
「オッケー! あっきーって、けっこうすなおじゃん。文徳の教育が行き届いてるね~」
教育じゃねぇよ。兄貴の横暴が身に染み付いてるだけだ。どうでもいい場面では意地を張らない。それがいちばんいい。
理仁の朱い目が、急に、ギラリとした。顔は笑ったままだ。目だけが、強い光を放っている。理仁は唐突な言葉を吐いた。
「あっきーも、気軽に恋してみない?」
「は?」
理仁の声の質が変わった。さっきも聞いた声。いや、感じた声、というべきか。直接、脳と心と本能の真ん中に響いてくる声だ。
【かわいいなー、って感じる子、いるでしょ? その子の手を握っちゃうとか。やってみたいと思わない?】
「なるほど。これが、この校庭の状況の正体か」
理仁のまなざしが、すっと軽くなる。
「うすうす勘付いてはいたんだけどさ、能力者相手だと、おれのチカラ、無能なのね」
理仁も能力者、ってわけか。でも、うすうす勘付いてた? 口を開きかけるオレを、理仁が制した。
【タンマ! あっきーがしゃべると、まわりに聞こえるからね~。おれは自分の声を調整できるから、内緒話できるけど。あっきーは、黙って聞いてなよ? 文徳もね。それと、あっきーの後ろのお二人さん。きみらも能力者? おれの声に従ってくれてないけど?】
鈴蘭と師央がうなずく気配があった。
【オッケー。今から話す内容は六人だけの秘密ね? おれ、長江理仁は、朱雀の預かり手だ。宝珠の名前は、朱獣珠《しゅじゅうしゅ》っての。たまに噛むんだよね、この名前】
やっぱり、預かり手と四獣珠が集まるのか。白獣珠の鼓動が、近くにある三つの宝珠と同期してるのを感じる。これから何かが起こるんだ? いや、すでに起こり始めてるのか?
理仁が兄貴を見た。
【一年のとき、文徳に出会って、驚いたよ。文徳はおれの声にほとんど従わない。そんなやつ、初めてでさ~。ちょっと調べてみたんだよね。そしたら、白虎の家系じゃん? だから、おれの手に負えないんだな。マインドコントロール系は一般人相手じゃなきゃムズいの。ってことで、文徳のこと気に入ってさ~。だって、おれと対等なんだよ?】
兄貴が苦笑した。
「少しは従ってしまうけどな。今、亜美に触れたくて仕方ない」
「全校生徒の前で、彼女を押し倒してみる?」
「さすがにそれは遠慮したい」
「上品だよね~、暴走族の総長のくせに。てか、ハイスペックすぎるっしょ、文徳は。不良の元締め、生徒会長、学年トップクラスの成績で、バンドマン。できないこと、ある? 能力者じゃないってことくらいじゃないの?」
理仁は、へらへらと笑った。その笑いをオレに向ける。
「あっきーは、銀髪の悪魔だっけ? 銀色の髪と金色の目の超絶イケメンで? ケンカは最強、バイクは最速、しかも歌うまいし? 女の子は、ほっとかないよね~」
「からかうな」
「おぉ、すっげー眼光! カッコいいじゃん」
こいつの話のリズム、ウザい。そろそろ本気でイライラしてきた。
「要点だけ話せ」
【はいは~い。ま、要点だけ言うとね。おれの能力は、号令《コマンド》。おれが放った号令《コマンド》、命令《オーダー》は、人を従わせる。効果の強さ弱さのバラつきは出るけどね】
「能力が及ぶ範囲、広いみたいだな」
「そーでもないよ? 今ここでは、すっげー緩い号令《コマンド》だけ出してんの。こーんなふうにね」
理仁が短く深く息を吸った。改めて号令《コマンド》が発せられる。
【カッコいいから好きーって気持ちに、正直に行動して。ただし、人をケガさせちゃいけないからね~】
「はーい!」
女子たちの声が一斉に答えた。
【こーいうのは簡単なんだよね~。人の本心を後押しするだけの簡単なお仕事。本心と違うことをさせるときはキツいよ? 疲れちゃうから、めったにやらないんだ。ってことで、説明終わりでいい? 何か質問は~?】
鈴蘭が進み出て口を開いた。顔を見下ろしたら、案の定、怒っている。
「学校じゅうの女の子に、変な命令するなんて。何が目的なんですか?」
「そりゃー、モテモテって楽しいし? 女の子たちも、正直になるほうが楽しいだろうし? 需要と供給の見合った、すてきな計らいだと……」
「思えません! すぐ元に戻してあげてください! あなたのしてること、道徳に反してます!」
ご立腹の鈴蘭を前に、理仁はへらへらしている。
「美少女な上に、気が強いんだな~。すてきだね」
「からかわないでください!」
「お、今のリアクション、あっきーとかぶってる」
「知りません!」
理仁は緩い雰囲気のまま、朱い眼光だけ鋭くした。
【そうカリカリしないでよ~。預かり手同士、協力したいじゃん? てか、調べたから知ってるんだよね。青獣珠の預かり手、安豊寺鈴蘭ちゃん。進学科の一年生、文系。将来の夢は、スクールカウンセラー】
鈴蘭が、ハッと息を呑む。理仁の目が師央へと動いた。
【でも、そっちの彼は知らないな。能力者なのにね】
漂いかけた緊迫感を打ち破るように、予鈴が鳴った。兄貴が理仁を促した。
「さすがに、遊びはここまでにしよう。補習をサボれたし、おれは満足だ」
兄貴、やっぱり補習サボってんじゃねぇか。オレに鈴蘭の迎えを押し付けやがって。
理仁は兄貴にうなずいてみせた。
「りょーかい。でもさ~、文徳。おれ、ちょっと話し足りないんだよね」
「そうだな、放課後、部室にでも来い。それとも、屋上を開けてもらえるか?」
「お、いいね。親父んとこから鍵かっぱらってくる」
兄貴が理仁を指して言った。
「付け加えておくと、理仁は、襄陽学園理事長の息子だ」
マジかよ。典型的な放蕩息子だな。
昼休みに偶然、師央を見付けた。寧々が一緒だった。
裏庭のバラ園だ。虫が出るからって、案外ひとけがない場所。オレはここを気に入ってる。ってことは、そっか。虫じゃなくて、バラ園に人が寄り付かない理由はオレか。
師央と寧々は並んで座っていた。弁当を食べた後らしい。話し込んでる様子で、オレに気付かない。寧々が師央に手のひらを見せている。
「すっごいザラザラでしょ? 左手は弓のグリップでこすれるし。ほら、親指と人差し指の間とか、硬くなってて。右手も、タブでこすれた跡がタコになってるの。タブって、弦から指を守るプロテクターなんだけど」
「寧々さんが努力してる証拠、ですね」
「んー、努力かなぁ? 好きなことやってるだけ。で、好きなことで負けたくないだけ。あのね、タカも昔はやってたんだよ」
「アーチェリーを?」
「うん。けっこううまかった。いいライバルだったんだけどなぁ」
「どうして辞めたんですか?」
寧々は、前髪のオレンジ色を指に巻き取った。
「お金かかるから。アーチェリーって、道具代、すごいんだ。中学のころだったし、バイトもできないし。結局、タカはアーチェリーをあきらめて。で、グレたんだよね。一時期、ほんと、声かけらんないくらいで。だって、あたしは続けてたし」
恐る恐る、師央が訊いた。
「寧々さんも、不良、なんですか? 暴走族?」
寧々が明るい声で笑った。
「不良と言われれば不良だし、暴走族なんて時代遅れなモノが気に入ってるのも確かだし。でも、部活はまじめにしてるよ? 大会のときは、エクステ外すしね。何て言うかさぁ、あたし、どっちなんだろうね? てか、不良とか普通とか、境界線、どこ?」
師央もつられて笑っている。
「文徳さんも、似たようなこと言ってました。瑪都流《バァトル》は、噂が派手だから誤解される。実は意外に校則も法律も守ってるんだ、って」
「あ、それ、あたしも言われた。最低限の校則と法律は守れ、って」
微妙に誤解がある気がする。兄貴は確かに、校則を守らせたがる。その一方で、過激なポリシーも持ってる。大多数が守れない校則なら、いっそのこと改めるほうがいい、と。
襄陽学園の校風はけっこう自由だ。おかげで、兄貴は受け入れられてる。こんなめちゃくちゃな生徒会長、普通いないだろう。
ふと、足音が聞こえてきた。オレはとっさに校舎の陰に隠れた。バラ園にやって来たのは、貴宏だ。師央と寧々のほうへ走っていく。
「すまん、遅くなった! 購買も自販機も、やっぱ混みまくってて」
貴宏が師央と寧々にジュースを投げる。寧々が貴宏のオレンジ頭を小突いた。
「待たせすぎだよ? 昼休み、もうすぐ終わっちゃうじゃん」
「悪ぃっつってんだろ?」
「ねぇ、タカ。次、体育だよね。師央が潜り込むのは厳しいよね?」
「あー、ちょい厳しいかな。すまん、師央」
師央がパタパタと手を振った。
「大丈夫ですよ。次の時間は、適当に過ごしますね」
「おう。そん次の授業はどうすんだ?」
「進学科の物理に潜り込みます」
「りょーかい。んじゃ、おれら、そろそろ行くから」
「行ってらっしゃい」
寧々と貴宏は師央に手を振って、小突き合いながらバラ園を出て行った。オレは師央のほうへ近寄った。寧々と貴宏を見送る背中に、声をかける。
「気に入ってるのか、寧々のこと?」
師央は飛び上がった。振り返ったとき、目が真ん丸に見開かれている。
「び、びっくりした! 煥さん、いたんですか? 足音たてずに近付かないでください」
「驚きすぎだろ。寧々のこと、図星か?」
「な、何言ってるんですか!」
師央の顔が、みるみるうちに赤くなる。へぇ、おもしろい。オレや兄貴に似た顔立ちなのに、こんなに幼くて正直な表情をつくるとは。
師央は赤い顔のまま、口を尖らせた。
「そ、そうですね。寧々さんは、すてきです。元気で、努力家で、明るくて。だけど、寧々さんには好きな人がいるし」
「貴宏のことか?」
「お似合い、ですよね」
師央は、ふぅ、と息をついた。貴宏が買ってきたジュースに目を落とす。紙パックのいちごミルクだった。
「当たって砕けてみないのか?」
「本気で言ってます?」
「いや、別に」
「できませんよ。そもそも、ぼくは未来の__……ぼくと彼女では、時代が違います。一緒にいること自体、異常なんです。それは自分でもわかってるから」
師央は未来の人間。仮にそれが事実とするなら、恋なんて、確かにあり得ない。
「おまえは未来の人間で、目的があって現代に来ていて、未来に帰るのか?」
オレの言葉に、師央の表情が変わる。赤っぽい茶色の目に真剣な光が宿った。
「信じてくれるんですか? ぼくが未来からきたことを?」
「さぁな? オレの悪い頭で考えても仕方ない。目の前に起こること、自分が体験することだけを信じるつもりだ」
師央は目を伏せた。
「早く目的を遂げて、帰りたいです。だけど、まだ少し先だと思います。ぼく自身、わからないことが多すぎます。今は、パズルのピースが足りてない状態で」
「協力は、してやる。オレにできることなんて、戦うことだけだろうが」
言葉を放った後で、自分で自分に驚いた。協力? 師央のために戦う? でも、直感的な言葉だった。必ずそうしなきゃいけない気がして。
――守りたい――
保護欲?
――命に代えても――
何よりも大切?
――すまない――
先に逝くから?
「煥さん?」
「何でもない」
胸騒ぎがする。師央が生きる未来、という時代。それに触れようとすると、なぜだろう? 不吉な予感に叫び出したくなる。
師央が突然、拳を固めた。
「心配しないでくださいね、煥さん。ぼくはこの時代で恋ができないけど、煥さんの恋は絶対、実らせますから!」
「は?」
「応援します! キューピッドになってみせますよ!」
「だから、何なんだ、それは?」
「キューピッドは、恋の仲立ちってことです」
「知ってる。そういう意味じゃなくてだな」
オレは髪を掻きむしった。師央は力説を続ける。
「煥さんは、高校を出て一年後に結婚します。子どもができるんです。それがぼくってことになるんですけど。で、ぼくが産まれるのは、煥さんが二十歳のときです」
「意味わかんねぇ」
「事実です。煥さんは、もうすぐ、必ず恋をします。一人の女の子を愛するんです。誓っていいです。その人と結ばれることは、絶対に幸せです」
「あり得ねえ」
「幸せになりますから、煥さんは。結ばれて幸せになるんです。そこから先の幸せは、ぼくが守る。未来を救ってみせます」
思わず、師央の目を見た。微笑みが切なそうだった。不吉な予感が膨れ上がる。
「幸せが続かないって言いたいのか? オレが結婚して、子どもが産まれて、その後の幸せが続かない?」
師央の唇が動いた。声はなかった。オレは師央に訊いた。
「オレは死ぬのか?」
師央がうなずいた。
長生きできない気はしている。暴走族なんて呼ばれてケンカばかりで、バイクもバンドも銀色の髪も、危険なやつっていうレッテルを貼られるのに十分な条件。しかも、オレには白獣珠がある。戦うことを運命づけるかのような能力もある。
だけど、実際に命の長さを予言されるのは。
「不気味で、不愉快で、不吉だな」
師央が不安そうな目をした。オレは師央の頭に手を載せた。栗色の髪を、くしゃくしゃにする。
「そんな顔するな。おまえが悪いんじゃない」
運命ってものがあるなら、それに逆らうことは可能なのか?
放課後、部室に行った。ライヴの日程が近付いている。そろそろ本格的に練習しないとマズい。
部室に兄貴はいなかった。牛富さんが兄貴の伝言を預かっていた。
「屋上に来い、とのことだ」
「鍵、開いてるのか?」
「理仁が開けたらしい。朝、煥も理仁に会ったんだろう?」
「ああ、あの軽いやつか」
「軽いな。煥とは正反対だ。まあ、だからこそ意外と馬が合うかもしれないぜ」
「冗談じゃない」
牛富さんはしゃべりながら、手のほうはスネアドラムの張りの調整に余念がない。亜美さんはベースの弦を張り替えている。シンセの雄はヘッドフォンを付けて自主練中だ。
オレは屋上へ向かった。四階から屋上へ続くこの階段には、めったに来ない。一時期、昼休みの居場所にしようとしていた。断念したのは、鬱陶しかったからだ。
カップルがしょっちゅう来る。まわりが目に入らない様子で、告白もあればキスもあった。もっと過激なのも見たことがあった。さすがに校内であれはヤバいだろ? うんざりした。見たくないときに見せつけんなよ。
久しぶりの階段を駆け上がる。屋上に出るゴツいスチール製のドアの向こうから、声が聞こえた。
【そんなに嫌わなくてもいいじゃん?】
理仁の声は、やっぱり異様によく響く。オレはドアを開けた。
兄貴がおもしろがっていた。師央がオロオロしていた。騒ぎの元凶の理仁は、鈴蘭に手を差し伸べている。
「さわらないでください!」
「さわるっていうか、手を握るだけ」
「来ないでってば!」
鈴蘭が思いっきり、理仁の手を払いのけた。
「何やってんだ?」
「お、あっきー遅いよ~。おれ、待ちくたびれてさ。女の子成分の補給をしようかと」
鈴蘭は兄貴の後ろに逃げ込んだ。
「文徳先輩、どうにかしてください! わたし、ああいう人、苦手です!」
「とのことだぞ、理仁。無理強いはするな」
「はいはい、しないよ~。無理強いしようにも、号令《コマンド》が効かないしね~」
兄貴は肩をすくめた。
「理仁、話したいことって何だ? 早めに切り上げてくれると助かる」
「おや、文徳、忙しいの? 生徒会の仕事?」
「バンドのほうだよ。もうすぐ高体連の地区予選だろ。壮行会で演奏することになってる」
「なるほどね~。じゃ、簡単に言うけど。内緒話モードでね」
理仁の声の質が変わった。音を持たない声が直接、オレの中に鳴り響く。
【緋炎が買収されたって話だ。買収した母体が何者か、わからない。しかも、伊呂波家を探る動きがある。瑪都流を、じゃない。白虎の伊呂波家を、だ。とにかく気を付けろ】
兄貴が目を細めた。
「忠告ありがとう、理仁」
オレは理仁を見据えた。
「あんたこそ何者なんだ? どこまでオレたちのことを知ってる?」
【預かり手は交流しないって? そりゃ、そーいう伝統だよね~。でも、集まりつつあるじゃん? おれさ、文徳と出会ったころから調べてんの。運命とか信じちゃうタチだし?】
「四人の預かり手と四つの宝珠が集まる? そういう運命だと?」
【四獣珠が言う因果の天秤って、気になんない? 重要そうじゃん? てか、交流しないのが可能なのは、昔の話だよ。ネットもスマホも何でもござれの現代で、調べりゃ、あっという間に情報が出てくるのに、お互い知らんぷりなんて、むしろ難しいよ?】
埃っぽい風が、ざっと吹いた。理仁は、明るい色の髪を掻き上げた。
【でも、ま、調べて出てこないこともあるけど。伊呂波師央、だっけ? きみ、何者? 文徳の親戚なんかじゃないんでしょ?】
師央が眉根を寄せた。名乗ることを迷ってる? 未来からきた師央も、理仁のことを知らないのか?
オレは口を挟んだ。
「師央は、事情があってここにいる。素性は、話せるときに話す」
【あ、そう? ま、いーけど。だけど、あっきー、実は優しいんじゃん? 今、師央のこと、かばったでしょ?】
「うるさい」
【照れなくていいって~。そんじゃ、追々話してよ、師央】
師央は理仁の言葉にうなずきかけた。でも、途中で、かぶりを振った。
「少しだけ、話させてください。ぼくも能力者だってこと、理仁さんは見抜いたから。それに、煥さんにも鈴蘭さんにも、話さなきゃ。昨日の夜、ぼくが障壁《ガード》を出せた理由を」
鈴蘭を送って行く途中、緋炎に襲われた。そのとき、確かに師央は光の障壁《ガード》を作ってみせた。あれはオレの能力だ。
師央は自分の喉に手を触れた。口を開く。声を出す。発声練習をするように、短く区切りながら。
【あ、あ、あ……聞こえて、ますか?】
理仁が目を見開いた。愕然とした顔。
【この声質、おれの号令《コマンド》!】
師央が発したのは、音を使って言葉を相手に届ける声ではなく、相手の意識に直接命じるための声だった。
【見よう見まね、です。声の能力だから、聞きよう聞きまね、かな?】
鈴蘭が小首をかしげた。長い髪が風に遊んでいる。
「師央くんは、他人の能力をコピーできるの?」
【コピーというほど、完全じゃないです。まねするのは、難しいし。今だって、ゆっくりじゃなきゃ、しゃべれません。この能力は、習得《ラーニング》。伯父が名付けました】
預かり手の能力は、その人柄や個性に由来するらしい。だから、同じ能力が存在することのほうが珍しい。
【これで、少し、ぼくのこと、わかりました?】
師央は軽く息を切らしている。理仁が師央の肩に腕を回した。
「オッケーオッケー。無理しなくても、ちゃ~んと信用するからね。ま、師央は、文徳がかわいがってるんだし? ってことは、おれもかわいがるべきだよね~」
「あ、ありがとう、ございます」
「しかし、師央って呼びやすいんだよな。ニックネーム付ける必要がないっていうか」
「付けてもらわなくていいです」
兄貴が、ポンと手を打った。
「じゃあ、そろそろ、お開きにしようか。煥、練習に戻るぞ。師央も一緒に来るか?」
「行ってみたいです!」
「鈴蘭さんは、どうする?」
「わたしは……」
「鈴蘭ちゃんは、おれとデートしない~?」
言いながら、理仁が師央を離れた。鈴蘭に近寄ろうとする。危険を察した鈴蘭は、今度はオレを盾にした。
「お断りします!」
「照れちゃって~」
「照れてません! 煥先輩、何とかしてください!」
「何でオレが?」
「文徳先輩はおもしろがるだけなんです!」
いや、しかし、どうせよと?
「鈴蘭ちゃ~ん、一緒に帰ろう~」
「イヤです! 長江先輩よりは、煥先輩のほうがまだマシです!」
「おい、今、オレまでまとめてけなしただろ?」
いきなり、鈴蘭がオレのネクタイを引っ張った。とっさのことで面食らって、前のめりに引き寄せられる。白い小さな顔が近い。鈴蘭のまつげの長さに気付いて、ドキッとする。そのまま心臓が走り出す。
鈴蘭は早口でささやいた。
「わたし、ほんとに、ああいう人ダメなんです。絶対、二人きりとか無理です。煥先輩、バンドの練習があるんですよね? わたし、図書室で待ってます。練習が終わったら、迎えに来てください」
風が吹いた。鈴蘭の黒髪がオレの頬に触れた。甘い香りがした。
「な、何で、オレが?」
「ボディガード役、お願いします。じゃなきゃ、両親がうるさいんです」
鈴蘭は、言うだけ言って、身をひるがえした。あっという間に屋上を出ていく。
理仁が口笛を吹いた。
「見せつけてくれるじゃん。ここからだと、角度的に、チューしてるようにも見えてさ~」
ふざけんなよ。一方的に、わーっと、まくしたてられただけだ。オレは何もしてない。というか、何もできなかった。
オレは右手で、顔の下半分を覆った。息が熱い。頬が熱い。顔が赤いのが自分でわかる。鈴蘭の青い目が、あんなに近くにあった。怯えてなかった。媚びてなかった。嫌ってなかった。ただまっすぐに、オレは見つめられていた。
師央の言葉を、不意に思い出した――煥さんは、もうすぐ、必ず恋をします。