走るうちに、完全に暗くなった。やがて、安豊寺の自宅の明かりが見え始める。そのころには、早歩き程度のスピードになっていた。
 安豊寺はせわしない呼吸をしている。一度耳につくと、ひどく気になった。色っぽいように聞こえて、焦る。そんな呼吸の仕方、するなよ。
 オレは、安豊寺と師央に訊いた。つっけんどんな口調になった。
「歩くか? もう襲撃はないと思うぞ」
 安豊寺と師央は足を緩めた。二人とも肩で息をしている。安豊寺がまた、オレに手を伸ばそうとした。見下ろすと、サッと手を引っ込めた。
「あ、あの、ケガ、大丈夫、ですか?」
 息の多いしゃべり方に、ドキッとした。安豊寺の黒い前髪が汗に濡れている。軽く開かれた唇。真剣な表情の目。
 オレはそっぽを向いた。師央と目が合いかけて、足元を見た。
「これくらい、慣れてる。安豊寺は無傷だろ?」
「はい」
「じゃあ、いい。気にするな」
「気に、しますっ。ちょっと、腕、貸してっ」
 オレの左腕に安豊寺の手が触れた。ザワッと、寒気に似たものが背筋に走る。触れてくる手を払いのけようとして、左腕がビクリとする。安豊寺が小さく首をすくめた。
 いけない。払いのけて、傷付けては、いけない。
 でも、苦手なんだ。触れられるのも、触れ合うのも、他人の体温や柔らかさも。
 安豊寺の黒髪が近い。いい匂いがした。一瞬で息が詰まった。安豊寺がオレを見上げた。夜の中に輝く青い目に射抜かれた。
「じっとして。すぐに治すから」
 安豊寺がオレの左の上腕に手のひらをかざした。しなやかな形の手だ。それが不意に、ふわりと発光する。
「この光って、安豊寺、あんたも能力者なのか?」
 安豊寺の手から淡い青色の光があふれ出して、オレの腕を包む。温かい。やわやわと、湯の中をたゆたうみたいに。
 しゅわしゅわと炭酸が弾けるような感触とともに、傷口がふさがって痛みが消えていく。
 安豊寺が歯を食いしばっていた。眉間にしわを寄せている。
「煥先輩の嘘つき。こんなに、痛いじゃないですか。傷、ズキズキして、ヒリヒリして。なのに、平気なふりしてたなんて。嘘つきです」
 青い光が、すぅっと消えた。安豊寺がオレの腕から離れた。その瞬間、ふっと吹き抜けた夜風が、思いがけず冷たい。
「傷が、治った」
「これがわたしの能力、癒傷《ナース》です。わたしも能力者で、預かり手なんです」
 安豊寺は制服のリボンをほどいた。カッターシャツのボタンを一つ外して、襟の内側に指を差し入れる。鎖がのぞいた。細い指が鎖を引くと、ペンダントトップが現れた。金でも銀でもないメタルに守られた宝珠。夜の中でも、冴え冴えと青い石。
 オレの胸で白獣珠が鼓動している。同じリズムで、青い石の内側に淡い光が脈打っている。
「青獣珠《せいじゅうしゅ》か?」
「そうです。青龍の力を秘めた宝珠、青獣珠です。わたしは青獣珠の預かり手として、傷を癒すチカラを持っています。でも、限界があります。痛みを引き受けられる範囲の傷しか治せません。致死的な傷は、痛すぎて耐えられない」
 安豊寺は右手で、自分の左の上腕をつかんだ。
「オレの傷、痛かったか?」
「痛かったです」
 うつむいた安豊寺が弱々しく見えた。ごめんと、つい謝りそうになった。オレのせいじゃないのに。
「頼んでない。大したケガでもなかった」
「大したケガです!」
「オレにとっては、日常茶飯事だ。ケンカばっかりだからな。箱入りのお嬢さまには、想像もつかないだろ」
「そういう言い方、嫌いです! わ、わたしは別に、あなたのためじゃなくてっ、自分の自己満足のために、治しただけだから! だって、わたしのせいでケガしたみたいで。そ、そんなの、見てるだけで、痛いから……」
 言葉尻がすぼんでいく。
 安豊寺の声が聞こえたんだろう。屋敷の門衛がこっちへやって来た。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
 オレは中年の門衛に安豊寺のカバンを渡した。
「物騒な連中と鬼ごっこしてきた。門を入るまで、見送らせてくれ」
 門衛がオレに軽い疑いの目を向けている。そりゃそうだろう。見るからに崩れたオレの格好。お金持ちのお嬢さまを見送るには不釣合いだ。
「失礼ですが。お名前を頂戴してよろしいでしょうか?」
 オレは、使いたくない名乗りを使った。
「伊呂波煥。白虎の伊呂波だ」
 奇跡の根源、四獣珠。人が願いをいだくとき、願いに見合う代償を差し出すならば、四獣珠は願いを聞き入れる。願いは叶えられ、奇跡が実現する。
 四獣珠には、四聖獣の力が宿っている。青は東方の青龍。白は西方の白虎。朱は南方の朱雀。玄は北方の玄武。四つの選ばれた家系が、四獣珠を預かっている。預かり手は当代に一人。その者は必ず異能を授かる。
 白虎の伊呂波というオレの名乗りに、門衛は背筋を伸ばした。予想どおりだ。こいつは四獣珠の事情に通じている。オレの家の門衛がこんなふうだった。
 門をくぐるまで、安豊寺は無言だった。さよなら、と師央が手を振った。その後になって、安豊寺はようやく声を発した。
「待って!」
 門の格子の向こうから、青い目がオレをとらえた。人形みたいに整った顔が少しこわばっている。
「煥先輩、今日、ご、ごめん、なさい。わたし、生意気ばっかりで、口ばっかりで。足手まといにしかならなくて。何も、できなくて。役に立てなくて」
 急に何を言い出すんだ? オレは左腕を掲げてみせた。
「できるだろ。役に立ってる。安豊寺のおかげで、無傷だ。兄貴に叱られなくてすむ」
 安豊寺は目を丸くした。それから、小さく微笑んだ。唇の両端が持ち上がって、頬にえくぼができた。
 オレは、息が止まる。初めて、まともに安豊寺の笑顔を見た。ただそれだけなのに、驚いて、ドキリとして、目をそらす。
「煥先輩、あともう一つ。わたしのこと、鈴蘭って呼んでください。わたしは先輩のこと、下の名前で呼ぶから。それに、安豊寺だと、青龍に縛られてるみたいで」
 同じなんだ、と気付いた。オレが白虎を名乗りたくないのと同じだ。
「わかった、鈴蘭」
 呼んでみて、また息が止まって、騒ぐ胸に戸惑って、鈴蘭に背を向ける。意味がわからない。名前を呼ぶだけで胸が苦しい。普段は、誰の名をどう呼ぼうと平気だ。亜美さんも寧々も、下の名前で呼んでる。
 鈴蘭。その名前だけ、どうして? まるで何か特別なチカラを持つみたいに。
 黙っていた師央が、口を開いた。
「ぼくは、知ってました。鈴蘭さんも能力者だってこと」
「未来で見てきたからか?」
「直接は見てません。だって、__は__、__から」
「話せないなら話すな。半端な情報は、かえってイライラする」
 オレの八つ当たりに、師央はまじめにうなずいた。そして、話のトーンを変えた。
「おなかすきましたね。夕食、何を作りましょうか?」