そば処ななせ庵の奇妙な日常


死にたくない。

まだ、もっと、美味いものが食いたい。もっと。

涙が込み上げてきた。鼻の奥が痛い。こらえきれず、涙がぼろぼろっとこぼれる。

――死にたくなんかない。死んでたまるか。

武士は、下を向いたまま、肩を震わせて泣いた。
コト、とテーブルに、ソバ茶の入った湯飲みが置かれ、顔を上げる。

「悪ぃ」
「今、人いないし。大丈夫」
「美味いもん食って泣いたら、なんかすっきりした」
「そりゃよかった」

道久は自分の分の湯飲みに口をつけた。

「……そう言えばさ、オレが入ってきた時、ミッチー、面接かって聞いたじゃん。予定入ってたんじゃねぇの?」

ゴシゴシと白いシャツの袖で目元をぬぐう。
そういえば、シャツの色など気にせずにソバを勢いよくすすって食べてしまった。シミのひとつやふたつ、できているだろう。このまま死ぬならどうでもいいが、生きていくならシミ抜きが必要だ。

ふぅ、と一息ついて、ソバ茶を飲む。

「いや、全然。表に張り紙出してたから、それ見て面接に来てくれたのかと思った。急に店長の――っていうか、俺の叔父さんの奥さんの、まぁ、要するに俺の叔母さんが、ケガしたんだ。で、人手が足りなくてさ。一週間くらいバタバタ」
「マジか」
「とにかくよく動くし、気が利くし、ホールの達人みたいな人なもんだからさ。抜けたら、ガチでキツくて参ってる」
「あー。いるよなぁ。三人分くらい働くベテラン。それはたしかにキツいわ」

はぁ、と道久はため息と一緒に肩を落とした。ちょっと肩の位置が下がったくらいで、図体のサイズ感は変わらなかったが。

「悪いな、愚痴って。お前も大変そうなのに」
「キツいもんはキツいだろ。早くスタッフさん見つかるといいな。……オレも仕事探さねぇと」

死なない、という選択をするためには、金が要る。生きるためには、働くしかない。

「カフェで探すのか?」
「あー……いや、カフェじゃないのがいい。でも、やっぱり飲食店かなぁ。賄(まかな)いがあって、当座のとこだけ、日払いか、週払いでオッケーみたいなとこ」

とりあえず、死なずに済むように。大事なのはまずそこだ。
まだ若い。体力もある。仕事もえり好みさえしなければ、なんとかなるだろう。

「……あのさ、カツオ」
「ん?」
「週払い、最初の一ヶ月なら対応できる。賄いは二時半に一回。ラストまでいれば、飯とか余ることあるから、好きに持ってっていい。勤務時間は、昼が十時から二時半と、夜が五時から八時半。通しでもOK。待遇(たいぐう)はこれ見てくれ」

壁に貼ってあった求人の紙を、道久は手で示した。
じっくり見る。全然、悪くない。というか、かなりいい。

(あれ? ちょい待てよ)

スマホで計算しようと思ったが、胸ポケットをさぐる手は、自分の胸板を叩いただけだった。そうだ。スマホは屋根から落として、拾いもしていない。

「ミッチー、電卓貸してくれる?」

道久がレジ前から持ってきたレトロな電卓を受け取り、キーを叩く。
叩いているうちに、武士の縮まりきった眉間は、ゆるゆると開いていった。

(間に合う)

表示された数字に、希望が見える。
食費の捻出(ねんしゅつ)は厳しいが、週払いならば、十五日の各種支払いにぎりぎり間に合う。
いや、賄いという命綱があれば、飢える心配も要らない。
二十日になれば、最後の給料も入るのだ。

「……もしかして、今日の夜から賄い食える?」
「あぁ。今の天ザルも、賄いってことで、お代は結構」

――生きろ。
頭の中で声がした。

「履歴書とか……」
「明日でいい」
「マジで。もしかして、これ、採用?」

「採用。是非、さっそくで悪いけどお願いします」
道久は、頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」
武士も、頭を下げた。

顔を上げ、笑顔で握手をしあった時に「ワン‼」と犬の声が聞こえる。

諸々の説明を受けながら、武士は思った。
――あの柴犬は、カミサマかなにかなのではなかったか、と。