「で、カツオは今なにやってんの?」
「あー……先月まで、カフェで働いてた。ベビーズスターコーヒー」
「ベビスタか。洒落てて、なんか似合ってるな。辞めたのか?」
「辞めた。今、ガチの無職」
無職なだけじゃない。預金残高三百二十五円だ。
今月二十日に入った給料は、すべてパートナーの裏切りによって失われた。
最後の給料が入るのは、来月の二十日。
開業届けはまだ出していなかったので、失業給付金はいずれ入る。
しかし、自己都合で辞めている以上、給付は遥か未来の話だ。家賃。電気代、ガス代、水道料。
唯一、スマホ代だけは最後の給料が入ったあとでも間に合うが、他は絶望的だ。
「じゃあ、実家帰んの? っていうか実家どこ? 富山か?」
「オレ、実家ないの。富山は父ちゃんの転勤でいただけ。母ちゃんはオレを産んだ時に死んでるし、父ちゃんは再婚してて、名古屋に住んでる」
「悪ぃ」
「全然平気」
ソバを湯切りする音が、小気味いいリズムを刻む。
あぁ、もうすぐだ。ごくり、と喉が鳴った。天ぷらの香りもいよいよ殺人的に濃くなっている。我慢の限界だ。
「お待たせ。美味いよ、うちの天ザル」
「あー、もう、絶対美味い。匂いからしてめっちゃ美味そうだもんなぁ」
テーブルの上に、ソバと天ぷらがのったお盆が置かれる。
待ちに待った、天ザルだ。
細めのソバには、得も言われぬ艶がある。綺麗だ。ダシの香りに、海苔の匂いが乗っかって、盛大に腹の虫が鳴った。花が咲いたようなエビ天は二本。あとはマイタケ、オクラ、カボチャ。
「確認してなかったけど、もしかして、ここ高級店?」
卓の上に広がる光景には、風格が漂っている。
「そんなことないって。老舗(しにせ)ではあるけど……これも九百五十円だし」
「え、税込みで?」
「税込み。うち、単品で千円越えるメニューないし」
「マジかよ。見た目だけで千五百円は超えるだろ。ヨユーで」
「とりあえず、食えよ」
そうだ。とにかく、食べねば。
いただきます! と手を合わせるなり、勢いよく箸をソバの山に突っ込んだ。
藍色のソバ猪口に、四分の三を突っ込んで、ゾゾッと一息にすすった。
ガツンとくる。飢えた舌に、ダシの旨味が直撃して、唾液がドバっと出た。
(ヤバい)
ソバのほどよい弾力が心地いい。ごくりと嚥下すれば、ソバとダシの余韻にめまいがしそうだ。
「んー……美味い。マジでこれ、ヤバい」
「そんな美味そうにソバ食うヤツ、初めて見た」
道久が、近くのカウンターの席に座った。
「オレ、ソバはジャブ漬け派だけど、そういうのNGとかねぇの?」
「好きに食えよ」
「天ぷらも、天つゆじゃなくて、ソバつゆにつけて食う派だけど。言語道断、とか言われねぇ?」
「好きでいいって。ちょっと天かす浮いたつゆ、美味いよな」
「……お前、いいヤツだな」
道久は笑って「天ぷら、冷めるぞ」と言った。
それはマズい。揚げたての天ぷらを逃すなど、人生の損失だ。
よく太ったエビ天を、ソバつゆに三分の一漬け、がぶりと半分かぶりつく。
サクッと軽快な音を立て、口の中で衣とエビが混じり合った。むっちりしたエビの歯ごたえがたまらない。
「ヤバい。美味い」
今度は、油の小さな輪が浮いたソバつゆに、ソバをじゃぶりと浸す。ゾゾッとすすれば、至福の瞬間が訪れた。
美味い。最高に美味い。身体中のなにもかもが、喜んでいる。
ヤバい、も、美味い、も、言葉にして発する余裕がなくなった。
ネギをザバっと入れて、ワサビをソバにのっけてすする。とにかく、美味い。
ソバのつるりとしたのど越しが、箸を止めさせてくれなかった。次、次と口に運びたくなる。
最後にマイタケの天ぷらと、ラストのソバを飲み込んだ。
ちょっと前に道久が置いてくれた、ソバ湯を猪口に注いで、〆の一杯。ソバの旨味がたっぷりつまったソバ湯が、臓腑に染み渡っていく。
「あー……美味かった! ごちそうさま!」
パン! と手を合わせて、ぺこりと一礼する。
「美味かっただろ? うちのソバ」
「めちゃくちゃ美味かった。こんな美味いもん食ったのはじめて」
「大げさだな」
「いや、ほんと。こんな美味い――」
こんな美味いもん食って死ねるなんて幸せだ。
言いかけた言葉は、口にする前に消えてしまった。
(死にたくない)
代わりに湧いてきたのは、まったく別な言葉だった。
「あー……先月まで、カフェで働いてた。ベビーズスターコーヒー」
「ベビスタか。洒落てて、なんか似合ってるな。辞めたのか?」
「辞めた。今、ガチの無職」
無職なだけじゃない。預金残高三百二十五円だ。
今月二十日に入った給料は、すべてパートナーの裏切りによって失われた。
最後の給料が入るのは、来月の二十日。
開業届けはまだ出していなかったので、失業給付金はいずれ入る。
しかし、自己都合で辞めている以上、給付は遥か未来の話だ。家賃。電気代、ガス代、水道料。
唯一、スマホ代だけは最後の給料が入ったあとでも間に合うが、他は絶望的だ。
「じゃあ、実家帰んの? っていうか実家どこ? 富山か?」
「オレ、実家ないの。富山は父ちゃんの転勤でいただけ。母ちゃんはオレを産んだ時に死んでるし、父ちゃんは再婚してて、名古屋に住んでる」
「悪ぃ」
「全然平気」
ソバを湯切りする音が、小気味いいリズムを刻む。
あぁ、もうすぐだ。ごくり、と喉が鳴った。天ぷらの香りもいよいよ殺人的に濃くなっている。我慢の限界だ。
「お待たせ。美味いよ、うちの天ザル」
「あー、もう、絶対美味い。匂いからしてめっちゃ美味そうだもんなぁ」
テーブルの上に、ソバと天ぷらがのったお盆が置かれる。
待ちに待った、天ザルだ。
細めのソバには、得も言われぬ艶がある。綺麗だ。ダシの香りに、海苔の匂いが乗っかって、盛大に腹の虫が鳴った。花が咲いたようなエビ天は二本。あとはマイタケ、オクラ、カボチャ。
「確認してなかったけど、もしかして、ここ高級店?」
卓の上に広がる光景には、風格が漂っている。
「そんなことないって。老舗(しにせ)ではあるけど……これも九百五十円だし」
「え、税込みで?」
「税込み。うち、単品で千円越えるメニューないし」
「マジかよ。見た目だけで千五百円は超えるだろ。ヨユーで」
「とりあえず、食えよ」
そうだ。とにかく、食べねば。
いただきます! と手を合わせるなり、勢いよく箸をソバの山に突っ込んだ。
藍色のソバ猪口に、四分の三を突っ込んで、ゾゾッと一息にすすった。
ガツンとくる。飢えた舌に、ダシの旨味が直撃して、唾液がドバっと出た。
(ヤバい)
ソバのほどよい弾力が心地いい。ごくりと嚥下すれば、ソバとダシの余韻にめまいがしそうだ。
「んー……美味い。マジでこれ、ヤバい」
「そんな美味そうにソバ食うヤツ、初めて見た」
道久が、近くのカウンターの席に座った。
「オレ、ソバはジャブ漬け派だけど、そういうのNGとかねぇの?」
「好きに食えよ」
「天ぷらも、天つゆじゃなくて、ソバつゆにつけて食う派だけど。言語道断、とか言われねぇ?」
「好きでいいって。ちょっと天かす浮いたつゆ、美味いよな」
「……お前、いいヤツだな」
道久は笑って「天ぷら、冷めるぞ」と言った。
それはマズい。揚げたての天ぷらを逃すなど、人生の損失だ。
よく太ったエビ天を、ソバつゆに三分の一漬け、がぶりと半分かぶりつく。
サクッと軽快な音を立て、口の中で衣とエビが混じり合った。むっちりしたエビの歯ごたえがたまらない。
「ヤバい。美味い」
今度は、油の小さな輪が浮いたソバつゆに、ソバをじゃぶりと浸す。ゾゾッとすすれば、至福の瞬間が訪れた。
美味い。最高に美味い。身体中のなにもかもが、喜んでいる。
ヤバい、も、美味い、も、言葉にして発する余裕がなくなった。
ネギをザバっと入れて、ワサビをソバにのっけてすする。とにかく、美味い。
ソバのつるりとしたのど越しが、箸を止めさせてくれなかった。次、次と口に運びたくなる。
最後にマイタケの天ぷらと、ラストのソバを飲み込んだ。
ちょっと前に道久が置いてくれた、ソバ湯を猪口に注いで、〆の一杯。ソバの旨味がたっぷりつまったソバ湯が、臓腑に染み渡っていく。
「あー……美味かった! ごちそうさま!」
パン! と手を合わせて、ぺこりと一礼する。
「美味かっただろ? うちのソバ」
「めちゃくちゃ美味かった。こんな美味いもん食ったのはじめて」
「大げさだな」
「いや、ほんと。こんな美味い――」
こんな美味いもん食って死ねるなんて幸せだ。
言いかけた言葉は、口にする前に消えてしまった。
(死にたくない)
代わりに湧いてきたのは、まったく別な言葉だった。

