「すみません。ランチ、二時までなんです」
壁掛けの時計を見る。午後二時――三十五分。どおりで店の中が薄暗いはずだ。
「あー……そっか。夜は何時からですか?」
「五時半からです」
三時間。この飢えに苛まれながら待つには、あまりに長い時間だ。
それに、武士には予定がある。
「……五時半かぁ……」
「もしかして、飛行機とかの時間ですか?」
「いや、そうじゃないんですが……」
――これから自殺するんです。その前に天ザルが、どうしても食べておきたくて。
(シュールだな)
抜き差しならない状況ながら、口にするのははばかられる。
思わず、ため息がこぼれた。なにもかも、思い通りにいかない。ツイてない時というのは、とことんツイていないものだ。
食べたかった。天ザルを食べたかった。今死んだら、きっとソバ屋の地縛霊になってしまう。
「じゃあ、よかったら作りますよ」
ハッと武士は顔を上げた。
「いいんですか!?」
「せっかく遠方から来ていただいたんですし」
全然、遠方ではない。自宅はここから徒歩一分。信号ひとつ。だが、話がややこしくなるので、誤解をとく手間は省いた。
「ありがとう! マジでありがとう! 恩に着るよ、お兄さん!」
武士は立ち上がって、店員に近づいた。
藍色の作務衣を着た店員は、武士が差し出した手を取って、握手に応じる。
デカい。ふだん、武士は人と視線がぶつかることがほとんどないので、思わず「デカいですね」と感想を述べていた。
「お客さんも」
店員はそう言って、手を放した後「……ん?」と武士の顔をまじまじと見た。
武士も店員の顔を、改めてよく見た。――見たことがある。
この太い眉。ぎょろっとした目。やたら長い睫毛と、ちょっと鷲鼻になった高い鼻。そしてこの頬骨。――人のことは言えないが。一言で言えば、顔が濃い。
絶対に、見たことがある。こんな濃い顔、そうそういない。
「もしかして、どこかでお会いしてますよね?」
思い切って、武士は尋ねてみた。
「失礼ですが……ご出身は?」
この店員も、武士に見覚えがあるようだ。ほぼ同時に聞いてきた。
ビジュアルの話をすれば、自分もインパクトでは負けないだろう。喋らなければ、日本人とは認識してもらえない外見だ。目も髪の色も、遠目にわかる程度に明るい。
「富山。……呉羽の……あ! 思い出した! 戦国武将みたいな名前の!」
「いや、武将はそっちだろ」
「朝倉! 朝倉ミッチー!」
「カツオかよ! 佐藤カツオ!」
朝倉道久。小学校の、高学年で同じクラスだった少年だ。
ちなみに『カツオ』というのは、武士が『ブシ』と呼ばれるようになった直後に派生したあだ名である。
「嘘! マジで? ミッチー、今ソバ屋なの?」
「ここ、じいちゃんの店なんだ。今は『七瀬』」
道久は、胸のプレートを指さした。たしかに『七瀬』と書いてある。
「七瀬道久か……まだ結構、武将感あるな。強そう」
「だいぶマシだろ? 朝倉よりは」
はは、とお互いに笑った。
「めちゃくちゃびっくりした。ミッチーがソバ屋になってて、飛び込んだ店で働いてるとか、すげぇ偶然!」
「だよなぁ。カツオ、今どこ住んでんの?」
「すぐそこ。横断歩道渡って二軒目のアパート」
「え? マジで? お前、近所でメシ食うのに、あのテンションが通常?」
ぐっと武士は言葉につまった。
死ぬ前に、美味いものが食いたい――と思ってここに来たのだ。
「いや、腹減って死にそうでさ。で、めちゃくちゃいい匂いしたから、飛び込んだ」
とっさに、武士は五十パーセント程度の嘘をついた。
「すげぇ顔で飛び込んできたから、強盗かなんかかと思ったし」
「悪い」
「ほんと、偶然だよなぁ。いつもなら、この時間、鍵かけてんだ。今はスタッフ募集してるから、鍵開けてて。――あぁ、座ってろよ。天ザル、今作るから」
道久は、厨房に戻るついでに照明をつけた。
店の中を見渡せば、なかなかに年期が入った様子だ。
「マジありがと。ここ、じいちゃんの店って言ったよな? ずっとここでソバ屋やってんの? 全然知らなかった」
「そこの商店街で……サンサン商店街ってわかる?」
「駅の向こう側の商店街だろ? 一回だけ行ったことある」
「そこで戦前からやってる店。今、再開発で商店街が取り壊されることになってさ。ここ、仮店舗なんだ。潰れてそのまんまになってたソバ屋を、そのまま借りてる。で、二週間くらい前に移ってきたばっかり。すげぇ偶然だな」
「すげー確率。こんなことってあるんだな、マジで」
武士はカウンターではなく、厨房がよく見えるふたりがけの席に移る。
しばらくすると、ジャーッと天ぷらをあげる音が聞こえてきた。
いい音だ。
人生の幸せが、あの音に凝縮されていると言っても過言ではない。

