玄関の鍵はかけずに部屋を出る。
これで警察のひと手間も省けることだろう。それに、盗られて困るものなどなにもない。
飛び降りる予定のマンションに向かう間、ひどく武士は落ち着いていた。
あとは、ひとつひとつ、こなしていけばいい。
ATMで下ろせない貯金額で生き続けることに比べれば、難易度はぐっと低いことばかりである。
横断歩道を渡った時、ふっと強く風が髪を躍らせた。
「あ」
武士は、マンションの入り口に注いでいた目線を、ハッと宙に浮かせた。
鼻腔に広がる、ダシの香り。鰹節と、昆布。
(……ソバ?)
少し遅れて、少し甘い――
(天ぷらだ!)
ダシの香りと、天ぷらの匂い。それも、エビ天の匂いだ。
鼻から肺に下るルートと、頭に上ってくるルートが同時に満たされる。
いや、違う。なにも満たされてなどいない。飢えている。強烈に。
この時、武士は思った。
(どうせ死ぬなら、美味いもの食ってから死にたい!)
「ワン‼」
また、うまい具合に犬が鳴いた。さっきの犬だろうか。
声がした方を見れば、飛び降り予定のマンションの一階に、ソバ屋らしき雰囲気の店がある。
(あれ? こんなところに、ソバ屋なんてあったか?)
店の前には、小さな黒い柴犬がいた。丸いしっぽが、ふりふり。
(さっき吠えてたの、ここのソバ屋の犬だったのか)
それにしても、いい匂いだ。これはダメだ。この匂いはダメだ。
食べたい。今すぐ食べたい。すっきりした喉ごしのソバに、サクッとしてプリッとしたエビ天。――そうだ。天ザルが食べたい。
暖簾は出ていなかったが、足は止まらなかった。
死にゆく男の最後の食事だ。幸い、財布には三千円ある。
三千円あれば、単品メニューの最高額であろう天ザルを食べることもできるだろう。
天ザル。ツルッと喉ごしのいいソバと、サクッとした衣とプリッとしたエビ天の、天ザルが食べたい。
ガラガラガラッと勢いよく戸を開ける。いっそう強くなった香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
店内は薄暗く、目が慣れるまでに少し時間がかかった。
「面接の方ですか?」
いらっしゃいませ、の前に、奥の厨房の方から店員が聞いてきた。
逆光で、店員が作務衣を着ていることくらいしかわからない。
「ソバ食いにきました! 天ザルお願いします!」
武士は宣言するなり、一番近くのカウンター席にどんと座った。
これで警察のひと手間も省けることだろう。それに、盗られて困るものなどなにもない。
飛び降りる予定のマンションに向かう間、ひどく武士は落ち着いていた。
あとは、ひとつひとつ、こなしていけばいい。
ATMで下ろせない貯金額で生き続けることに比べれば、難易度はぐっと低いことばかりである。
横断歩道を渡った時、ふっと強く風が髪を躍らせた。
「あ」
武士は、マンションの入り口に注いでいた目線を、ハッと宙に浮かせた。
鼻腔に広がる、ダシの香り。鰹節と、昆布。
(……ソバ?)
少し遅れて、少し甘い――
(天ぷらだ!)
ダシの香りと、天ぷらの匂い。それも、エビ天の匂いだ。
鼻から肺に下るルートと、頭に上ってくるルートが同時に満たされる。
いや、違う。なにも満たされてなどいない。飢えている。強烈に。
この時、武士は思った。
(どうせ死ぬなら、美味いもの食ってから死にたい!)
「ワン‼」
また、うまい具合に犬が鳴いた。さっきの犬だろうか。
声がした方を見れば、飛び降り予定のマンションの一階に、ソバ屋らしき雰囲気の店がある。
(あれ? こんなところに、ソバ屋なんてあったか?)
店の前には、小さな黒い柴犬がいた。丸いしっぽが、ふりふり。
(さっき吠えてたの、ここのソバ屋の犬だったのか)
それにしても、いい匂いだ。これはダメだ。この匂いはダメだ。
食べたい。今すぐ食べたい。すっきりした喉ごしのソバに、サクッとしてプリッとしたエビ天。――そうだ。天ザルが食べたい。
暖簾は出ていなかったが、足は止まらなかった。
死にゆく男の最後の食事だ。幸い、財布には三千円ある。
三千円あれば、単品メニューの最高額であろう天ザルを食べることもできるだろう。
天ザル。ツルッと喉ごしのいいソバと、サクッとした衣とプリッとしたエビ天の、天ザルが食べたい。
ガラガラガラッと勢いよく戸を開ける。いっそう強くなった香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
店内は薄暗く、目が慣れるまでに少し時間がかかった。
「面接の方ですか?」
いらっしゃいませ、の前に、奥の厨房の方から店員が聞いてきた。
逆光で、店員が作務衣を着ていることくらいしかわからない。
「ソバ食いにきました! 天ザルお願いします!」
武士は宣言するなり、一番近くのカウンター席にどんと座った。