武士は、はっきりしない薄曇りの空を見上げて、重いため息をつく。
どこか遠くに行きたい。このまま消えてしまいたい。
――死にたい。
これまで必死にこらえてきたが、今日という日を乗り切る自信はなかった。
三月二十六日。
それは、武士が自身のカフェをオープンさせる日――のはずだった。
『カフェ&バーBLANC』。
真っ白な壁と、アンティークなダークブラウンの床。
カウンターは白いレンガで、ペンダントライトはまろやかなラインのすりガラス。
自慢の香り豊かなコーヒーに、ヘルシーかつ華やかなプレートメニュー。
こだわりのワインに、各種カクテル。
目にも楽しいバル風の肴の数々。
居抜きの物件。立地も好条件。
腕のいいキッチンスタッフも引き抜いた。
なにもかもが順調だったはずなのに――武士は今、アパートの屋根の上にいる。
(なんで、こんなことになっちまったんだろうなぁ)
いつか自分のカフェをオープンさせる。それが中学生の頃からの夢だった。
高校入学直後にアルバイトをはじめ、開業資金をコツコツ貯めてきた。大学を出て、在学中にアルバイトをしていた大手カフェチェーンに就職。いつかくるその日のために、努力を重ねてきた。
夢に向かって、武士は一歩一歩進んでいたのだ。――あの瞬間までは。
結論だけ言えば、貯金の残額は三百二十五円になった。
(……死にたい)
やけにはっきりと、その四文字が身体に響く。もう限界だ。立ち上がり、屋根の縁まで進む。
――あとはここから飛び降りるだけだ。
木造三階建てのアパートの高さなどたかが知れているが、幸い立地がいい。真下は崖のようになっていて、相当な高さがある。
飛び降りるだけ。それだけでいい。
武士は、深呼吸しつつ目を閉じた――その時だ。
「ワンッ!!」
遠くで犬の声がした。
ふっと武士は、顔を上げる。そのせいで、気がわずかに逸れた。
(いや……でもオレ、結構丈夫なんだよなぁ)
百八十九センチの身長と、それなりに鍛えた丈夫な身体。本当に、飛び降りるだけで終われるのだろうか?
――いや、死ねない。たぶん、無理。
大怪我をして終わるのは、最悪のシナリオだ。
とっさに身体を引いた拍子に、シャツの胸ポケットに入っていたスマホが落ちた。
「あーあ……」
カシャ、と乾いた音が聞こえたが、残骸は確認しなかった。
「……ま、いっか」
どうせ死ぬ。スマホは要らない。
しかし『本当に死ねるのか?』と不安を抱えながら飛び降りるのも、いかがなものかと思う。
一生に一度のことだ。
安心して死にたい。もっと、もっと、ずっと高いところがいい。
間違いなく死ねる高さの――あった。あのマンションにしよう。
そうと決まれば善は急げ、だ。
武士は屋根から、三階にある自分の部屋のベランダに下りた。
どこか遠くに行きたい。このまま消えてしまいたい。
――死にたい。
これまで必死にこらえてきたが、今日という日を乗り切る自信はなかった。
三月二十六日。
それは、武士が自身のカフェをオープンさせる日――のはずだった。
『カフェ&バーBLANC』。
真っ白な壁と、アンティークなダークブラウンの床。
カウンターは白いレンガで、ペンダントライトはまろやかなラインのすりガラス。
自慢の香り豊かなコーヒーに、ヘルシーかつ華やかなプレートメニュー。
こだわりのワインに、各種カクテル。
目にも楽しいバル風の肴の数々。
居抜きの物件。立地も好条件。
腕のいいキッチンスタッフも引き抜いた。
なにもかもが順調だったはずなのに――武士は今、アパートの屋根の上にいる。
(なんで、こんなことになっちまったんだろうなぁ)
いつか自分のカフェをオープンさせる。それが中学生の頃からの夢だった。
高校入学直後にアルバイトをはじめ、開業資金をコツコツ貯めてきた。大学を出て、在学中にアルバイトをしていた大手カフェチェーンに就職。いつかくるその日のために、努力を重ねてきた。
夢に向かって、武士は一歩一歩進んでいたのだ。――あの瞬間までは。
結論だけ言えば、貯金の残額は三百二十五円になった。
(……死にたい)
やけにはっきりと、その四文字が身体に響く。もう限界だ。立ち上がり、屋根の縁まで進む。
――あとはここから飛び降りるだけだ。
木造三階建てのアパートの高さなどたかが知れているが、幸い立地がいい。真下は崖のようになっていて、相当な高さがある。
飛び降りるだけ。それだけでいい。
武士は、深呼吸しつつ目を閉じた――その時だ。
「ワンッ!!」
遠くで犬の声がした。
ふっと武士は、顔を上げる。そのせいで、気がわずかに逸れた。
(いや……でもオレ、結構丈夫なんだよなぁ)
百八十九センチの身長と、それなりに鍛えた丈夫な身体。本当に、飛び降りるだけで終われるのだろうか?
――いや、死ねない。たぶん、無理。
大怪我をして終わるのは、最悪のシナリオだ。
とっさに身体を引いた拍子に、シャツの胸ポケットに入っていたスマホが落ちた。
「あーあ……」
カシャ、と乾いた音が聞こえたが、残骸は確認しなかった。
「……ま、いっか」
どうせ死ぬ。スマホは要らない。
しかし『本当に死ねるのか?』と不安を抱えながら飛び降りるのも、いかがなものかと思う。
一生に一度のことだ。
安心して死にたい。もっと、もっと、ずっと高いところがいい。
間違いなく死ねる高さの――あった。あのマンションにしよう。
そうと決まれば善は急げ、だ。
武士は屋根から、三階にある自分の部屋のベランダに下りた。