あれは確か、一週間前の事だった。

 競りの仕事が片付き、露店の酒を引っかけた帰り道。

 仲間達と長話していた為、辺りはすっかり日が落ちていた。昨晩の強風による影響でこの地区には停電が起きており、商店街を抜けた頃には果てしない暗闇が広がっている。

 「暗え。懐中電灯でも、無いよりましだなあこりゃ」

 2月の凍てつく寒さに身を震わせながら、永松は不安げに周囲を見渡す。

 鈴虫の音もこの季節では聞こえない。用水路に流れる水だけが世界に音を与えていた。一寸先まで見通せぬ闇とはこの事か。

 「えれえ事に巻き込まれる前に、とっとと帰ろ」

 この所、経済格差の影響ですりや窃盗が横行している。何かに巻き込まれる前に早く帰ろうと早足で自分の家を目指した。その時だった。

 「・・・・・・・・・あ、ん?」

 永松の少し前方、完全な闇の中から、一つの光がぼうっと浮かんだのだ。

 最初は、誰か前方から来たのかと思った。永松は警戒を露わにしながらその場に立ち止まる。何せこんな夜だ、先程脳裏に過ぎった強盗かもしれない。おまけにこんな時代に灯りが提灯とは、明らかに普通ではない。

 一体どんな浮浪者だ。永松はそいつの顔を見ようとぐっと目をこらし、

 ぽとりと、土産の甘味の包みを落とした。

 
 ――――顔が、無かったのだ。

 
 「・・・・・・・・・・・・は」

 魂を抜かれたかのように、体中の血液が冷える。

 顔どころではない。首も、肩も、手も足も指も胸も肌も腹も臍も腰も肘も膝も関節も太股も骨も肉も血も、その人を成す何もかもが、無い。

 ただ何も無い空間に、提灯が浮いているだけだ。冗談のような光景だった。周囲の音がやけに清んで聞こえる。自分の目が可笑しくなってしまったのだろうか。

 ・・・・・・・・・・・・目。

 今度こそ永松は擦れた声を出し、その場に跪く。

 あろうことか目が、提灯に付いていた。

 薄汚れた和紙の上に、ぎょろりと血生臭い目玉が一つ、爛々と光っていたのだ。それはぱちぱちと人間のように瞬きをし、真っ直ぐ永松を見る。

 「・・・・・・あ」 

 沈黙と混乱は、一瞬だけだった。

 「あ、ああああああああああああああああっ!」

 静かな闇夜に、永松の悲鳴がこだました。

 永松はあらん限りの悲鳴を上げながらその場から転げ落ちるように逃げる。

 それは、永松が初めて遭遇した『妖怪』という類のものだった。

 「――――と、いう訳なんですが」

 話し終えた永松は、半眼で茜に目配せする。何故か先程から茜は笑いを堪えるように背中を丸め、クククと小さく背中を震わせていた。

 「ど、どうしたんです?」

 そんな笑えるような話をしたつもりはなかったが。おっかなびっくりの永松に、茜は「そりゃあ笑っちまうよっ」と瞳に涙を貯めながら机を叩く。

 「おどろおどろしく語るもんだから、どんなのが出てくるかと思って聞いてりゃ提灯お化けってっ、役者だねえ永松さんっ。一瞬寄席かと思っちまったよっ」

 「ぐっ」

 太陽のようにけたけたと笑う茜を余所に、永松は頬を紅潮させながら拳を握り辱めに耐えた。こちらの味方だろうと思っていた雑賀さえも口元に手を当てながら可愛らしく笑っている。その笑顔は大層可憐であったが、今は羞恥が上回っていた。

 「と、ともかくです」永松は咳払いする。「あれからおちおち外も出歩けないんです。先生なら何とかしてくれるって来たんですが、どうなんです?」

 縋るように尋ねた永松に、茜は先程とは違う、意味深な表情で笑った。

 「勿論、造作も無いことだよ。永松さんがそれを望むなら、ね」

 茜は戸棚から本を取り出すと、卓上におざなりに重ね、その一冊を読み始める。表紙や文字から舶来のものである事が窺えるが、彼は顔色一つ変えず頁を捲り始めた。

 「火、光、人魂、そういう『闇の怖さ』から生まれた怪異ってのは、いつの時代も、どの国でも、どんな場所でも在るもんだよ」

 よく見ると、本棚に並んでいる図や絵は全て妖怪や怪異に関わるものだ。

 「外海では『ウィルオウィスプ』という、日本の鬼火に似た怪異が存在する。地域によって呼び方は多少の差があれど、死後も未練を残しこの世を彷徨ったり、時には人に害をもたらしたり。様々ないわれがあるが、どれも一つ一つは厄災までとはいかない、些細な怪異といった書かれ方が多いみたいだよ。今回もそんなもんだと思ってくれれば」

 そこまで来て、茜は本を捲る手を止めた。

 その猫のような瞳を爛々と輝かせながら、頁を捲る手を進める。

 「・・・・・・へえ、『ジャックオーランタン』。これは面白いねえ。愛蘭の伝承のようだけれど、先程のウィルオウィスプが憑依したという説があるみたいだ。米国ではカブではなく、かぼちゃを使っているのもお国事情が出て興味深いねえ。形骸化しちまってる辺りうちの提灯お化けに近いもんかも知れないね。なになに・・・・・・」

 「・・・・・・」

 何だろう、どんどん話が脱線していっているような気がする。

 複雑な表情を浮かべる永松を余所に、茜は次々と本を取り出して読みふける。

 「・・・・・・ふむ、今世界ではハロウィーンという祭りでこのジャックオーランタンを家の玄関や店に飾っているのか。米国ではもう宗教的な意味合いも殆ど持たないみたいだねえ。となるともうこれらはあっちの人にとっては怪異でも何でもなくなっちまってるって事か。こりゃあまいった」

 まいったと言っている割には、その表情は嬉しそうであったが。

 「あ、あの、先生?」

 「ほお、これがジャックオーランタンかい? 想像と違って随分可愛いじゃないか。三越とかで売り出せば子供達は喜びそうだねえ。何なら祭りにしても――――」

 「茜さん、茜さん」

 たまりかねたのか、隣の雑賀が小さく咳払いした。

 「『お勉強』はほどほどに。永松さんが困ってますよ」

 雑賀の声に、茜はようやく我に返ったように「おっと」と苦笑しながら本を閉じた。雑賀の制止が無ければ一晩中放置されそうな勢いだった。

 「すまないねえ、いつもの良い癖が出ちまった。お前さんの怪異の話だったね」

 茜は再び椅子に座ると、学生帽を深く被り直した。

 「先も言った通り、提灯お化けは具体的な伝承も強い念も持たない程度の低い怪異だよ。一説には付喪神の一種ともされてるが、それさえも定かじゃ無い曖昧な存在さ。今日にでも全て終わるだろうよ。ただそれだけだと少し詰まらないから――――」

 茜は襟元を正しながら、にこりと気っ風の良い表情で笑った。

 「永松さん。お前さん、お酒は強いかい?」

 「へ?」

 呆気にとられる永松を余所に、茜は人なつっこい笑みを見せた。