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吉崎庵の前にはあいかわらず行列ができていた。
ただ、ちょうど焼き上がったところらしく、どんどんお客がはけていく。
すぐに俺の順番がやってきた。
「いらっしゃいませ。おいくつですか」
あいかわらず元気のいい店員さんに俺は特別な注文を言ってみた。
「あの、尻尾にあんこの入ってない鯛焼きってできますか?」
一瞬、固まったような表情になった店員さんがあごに手をやった。
「尻尾にあんこの入ってない鯛焼きですか?」
突然変な注文を言い出す客が来て迷惑に思われているだろう。
後ろに並んでいる人がいるのも分かっていたから、俺は少し横にずれた。
別の店員さんがフォローに入ってくれて、後ろのお客さんたちの注文を受けてさばいている。
保温容器に置かれた在庫がどんどん減っていく。
非常にいたたまれない状況だった。
店員さんも困っている。
「うちの鯛焼きは分厚いじゃないですか。だから尻尾まであんこを入れないと、皮が厚くなっちゃってなかなか火が通らなくてね。難しいんですよ」
ああ、なるほど、そういうことなのか。
あんこならあらかじめ熱を通してあるから、分厚くても火の通り具合を心配する必要はないもんな。
どうしたものかと迷っていると、フードコートの中心でプラスチックのトレイと食器がひっくり返ったような派手な音がした。
みんなの視線が集中する先にはウチの探偵がいた。
どうやら、コップを運んでいた子供がすぐ横で転んでしまったらしい。
お嬢様のブラウスの袖に水がかかってしまったようだ。
「すみません。出直してきます」
俺は店員さんに頭を下げて、急いでテーブルに戻った。
状況は思ったよりも大惨事だった。
ただの水とはいえ、左衛門の姫君は右側半分がびしょ濡れだった。
テーブルの下の床に座り込んだ幼稚園の女の子が半べそで謝っている。
「おねえちゃん、ごめんなさい」
「いいのですよ。シルクはすぐに乾きますからね。それよりお膝は痛くありませんか」
「うん、だいじょうぶ」
お母さんも駆けつけてきて「急に駆け出しちゃだめじゃないの」と叱りながら頭を下げて謝っているけど、姫君は子供に手を差し伸べて立たせてやっていた。
「コップも割れなくて良かったですね」
まあ、ガラスじゃないからな。
萌乃も席に戻ってきて、「あらら、マコっちゃん。大丈夫」とタオルを差し出した。
「ええ、なんともありませんよ。今日は暖かいですからね」
泣いている子供の手前、何でもないふりをしているだけで、実際のところ濡れた服は気持ち悪いだろうし、いくら六月とはいえ、ここは冷房が効いているから、下手をすれば風邪を引くかもしれない。
萌乃みたいに半袖だったら、かえって手を拭くだけで良かったんだけどな。
「俺、ジャージ持ってるから、貸してやるよ」
いくらシルクを着慣れているとはいえ、安物のジャージでも濡れた服よりはましだろう。
お嬢様は俺の顔を見つめたまま返事をしない。
「心配するなよ。時間割間違えて鞄の中に入れてきたやつだから今日は使ってないし」
萌乃が横から口をはさむ。
「あたしの貸してあげようか」
「おまえのじゃ、小さくて入らないだろうが」
「ヘソ出しになっておなか冷えちゃうか」と萌乃がペロリと舌を出す。
姫君も笑う。
「あら、それははしたないですわね」
そう言って、俺が鞄から引っ張り出したジャージを受け取ると、子供の頭をなでてやっていた。
「では、着替えて参りますわ」
萌乃と二人でフードコートを出ていくと、入れ替わりにショッピングモールの清掃係の人がきて、モップで床を拭いてくれたりして騒動は収まっていった。
幼稚園児とお母さんも俺に頭を下げて帰っていく。
手を振りながら後ろ向きに歩いている。
おいおい、また転ぶなよ。
窓の外から差し込む光が、きれいになった床を照らしてまぶしい。
六月の夕方はまだ明るい。
「優一郎殿、どうでしょうか」
いつの間にか戻ってきていた姫君に声をかけられて振り向く。
どうと言われても何の感想もない。
うちの高校は男女同色のジャージだから、ふだんと何も変わらない。
身長だって少しだけしか違わないから、サイズもぴったりだ。
「まあ、似合うじゃないか」
他に言い方が思い浮かばなかったのでそう言っただけなんだが、お嬢様は俺の言葉がお気に召したらしく、鷹揚にうなずいた。
「それは良かったです」
いやまあ、お役に立てて何よりですよ。
「じゃあ、帰ろうか」と萌乃が俺たちの背中を押したとき、吉崎庵の方から声をかけられた。
「お兄さん、これ持っていってよ」
元気のいい店員さんが俺を呼んでいる。
レジカウンターに行くと、俺に頭を下げて鯛焼きを一つ差し出してくれた。
「これ、あのお嬢さんにお詫びの印にって渡してあげてよ」
「え、いいんですか」
べつに鯛焼き屋さんのせいじゃないんだけどな。
「ええ、ぜひまた来てくださいよ」
なんだか申し訳ないけど、ご厚意をありがたくいただくことにした。
「どうもありがとうございます」
すると、店員さんがそっと一言ささやいた。
「尻尾にあんこの入ってないやつですよ」
はあ、わざわざ作ってくれたんですか。
なんだかこっちの方が申し訳ない気分だ。
「それはどうもありがとうございます。きっと喜びます」
「変わったお嬢さんですねえ」
ええ、そうなんですよ、まったく。
ウチの探偵が本当にお騒がせしました。