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 今日の俺は肉まんでできている。

 なにしろ朝食が肉まん五個だったのだ。

 とはいえ、今は冬でもなんでもなく、六月だ。

「ちょっと、優一郎、特売の肉まん、今日で期限切れだから食べてってよ」

 いくら安かったとしても、十五個も買ってきて、しかも冷蔵庫の奥に押し込んだまま忘れてるなんて、うちの母親の計画性のなさには呆れるばかりだ。

『ホタテ貝柱のコクとうまみの本格中華街肉まん』と言われても、寝起きで詰め込まされたら味なんか分からない。

 しかし、高橋家で母親に逆らえる男はいないから、もそもそとおとなしく口に押し込むしかなかった。

 職場に電子レンジがあるでしょうと残りを弁当に持たされたオヤジに比べればまだましだが、育ち盛りの高校生だからといって、いくらなんでも五個は食べ過ぎだ。

 朝イチの英語の授業が始まったばかりというのに、ふくらんだ腹のせいでもう眠くなってきてしまった。

 衣替えで夏服になったけど、エアコンはまだ使用許可が出ていない。

 教室にたまったぬるい空気が俺を眠りの底へと誘っていく。

 うつらうつらとしかけたとき、いつもの乾いた音が耳に入ってきた。

 まただよ。

 俺が惰眠をむさぼろうとすると必ずこの音が邪魔をするのだ。

 目を開けると、机の下には消しゴムが落ちていた。

 それは俺のものではない。

 右隣の席の女子の消しゴムだ。

 左利きのくせに消しゴムを左側に置くから、字を書くときに手が当たって下に落ちるのだ。

 まったく不器用で困る。

 彼女は左衛門真琴。

 この街の実力者の娘だ。

 左衛門家は古くからの地主で、駅前周辺のマンションやら、ショッピングモールの土地も左衛門一族の所有物件だと聞いたことがある。

 市役所のお偉いさんから商工会の顔役など、この街のいたるところにサエモンの手が及んでいて、高速道路沿いの工業団地にある有名企業の巨大工場を誘致したのも彼女の大伯父なんだそうだ。

 ここは衰退する一方の地方都市なので、そこに就職するのが勝ち組と言われていて、うちの高校の先輩達もたくさん働いている。

 だからこのお嬢様には誰も逆らえないし、姫君が白といえばカラスも白になる。

 俺は手を伸ばして、落ちた消しゴムを拾い上げ、隣の机に置いてやる。

 左衛門のお嬢様は鷹揚にうなずくと、ノートの隅になにやら字を書き始めた。

 彼女は左利きだから、左隣の俺の方からは左手に隠れて何を書いているのか分からない。

 ただ、シャーペンの軸の動きから、英単語らしいことは分かる。

 何かを書き終えた彼女はそれを左手で隠して俺にあごを向ける。

 偉そうな態度のようだが、生まれついた高貴な資質なのか、決して嫌味には感じられないところがさすがお嬢様だ。

 何を書いたか当ててみろと言うことらしい。

 もちろんさっぱり分からないし、興味もない。

 このお嬢様は先日どういうわけか突然、『今日から私は名探偵になります』と宣言なさって、助手として俺まで巻きこもうとしているのだ。

 助手になどなったつもりはないし、どうぞクビにして欲しいものだ。

 だが、こうした遊びにもちゃんとつきあってやらないと姫君の御機嫌が悪くなる。

 平穏な高校生活を維持するためのちょっとした努力は惜しまない方がいい。

 俺は自分のノートの右隅に『English?』と書いた。

 彼女は単語を隠す手を右手に変えて、左手で別のところに文字を書いて俺に示した。

『Yes. And what?』

 授業中に何をやってるんだか。

 俺はまたノートの右隅に書いた。

『Sorry, I don't know.』

 左利きのお嬢様との文通が続く。

『当て推量は認めませんよ』

 英語で書けなかったのか、面倒になったのか、日本語だ。

 あらためて俺が首をかしげると、彼女は欧米みたいなジェスチャーで肩をすくめながら右手をひらりと返した。

 その下に現れた文字は『poisoned』だった。

 毒殺、……ですか。

 これまた物騒な。

 そしてその前後にまた左手で文章を書き足していった。

『She was poisoned by her assistant.』

 (彼女は助手に毒殺された)

 はあ、そうですか。

 できれば俺もそうしたいくらいですよ。

 まったくその犯人に同情しますよ。

 俺もこれ以上つまらない遊びに関わりたくないんだけどな。

 だが、名探偵殿はそんな俺の気持ちをくみとるつもりもないのか、さらに落書きを続けた。

『How?』

 方法、つまり、トリックをたずねているらしい。

 俺はより深く首をかしげるしかない。

 推理小説マニアでもないし、誰かを殺したいと思ったこともないから、急に言われても思いつくわけがない。

 世の中のほとんどの人間がそうだろう。

 だが、自称名探偵の姫君は違うらしい。

 左手の人差し指を立てて、いきなりとんでもないことを言い出した。

「実際に私を毒殺してみなさい」

 何で急に声に出して言うんだよ。

 気まぐれなお嬢様のつぶやきに教室中がざわつく。

 英語の五文型について板書していた先生まで手を止めて振り向いた。

「おい、高橋、何か言ったか」

 いや、俺じゃなくて右隣の女子なんですけど。

 だが、誰も左衛門のお嬢様には触れたくないから、全部俺のせいになるのだ。

「すみません。なんでもありません」

 俺が右の方に視線を向けながら答えると、先生は「そうか」とつぶやいてまた黒板の方を向いてしまった。

 カッカッと勢いの増したチョークの音でみんなのざわつきも収まって、また教室が落ち着きを取り戻す。

 俺の右隣の姫君も何事もなかったかのように黒板に書かれた英文をノートに書き写しはじめた。

 机の左端には、断崖に追いつめられた犯人のように消しゴムが置いてある。

 右側に置けばいいのに。

 まったく不器用なお嬢様で困るよ。

 だいたい、俺の右隣の席がいつも左衛門のお嬢様なのはどうしてなんだろうか。

 うちのクラスでは毎月始めに席替えがおこなわれることになっている。

 五月から六月へとカレンダーが変わり、衣替えと同時に席替えもおこなわれたんだが、位置は廊下側に移ったにもかかわらず、やはり右隣は左衛門真琴だったのだ。

『これは席替えですか? はい、そうです』

 中学の英語教科書に出てくる役に立たない例文みたいに意味のない席替えだ。

 しかし、俺としても、左衛門のお嬢様には頭が上がらないところもある。

 ごく平凡でなんの取り柄もない男子生徒の俺がクラスのカーストやらヒエラルキーなんてものから排除されずに済んでいるのは、この姫君の付き人だとみんなに認知されているからだ。

 消しゴムを拾い上げることくらい、おやすい御用というものだ。