どこからか、思い出が佐和子の存在と重なった。
気づいていたし、わかっていた。認めたくなかっただけだ。
佐和子の作る料理は全部好きだった。こんな風に上手に作りたい。里司や父が「美味しいね」と笑顔になる。そんな料理を自分も作りたい。
子供の頃は見よう見まねで料理して失敗し、べそをかいた。
高校で調理を学ぶことを選んだのも、夢を確実にしたかったから。
たくさんの酷い言葉、態度をした。長いあいだ、ずっと。同じ屋根の下で。
わかっていたのに、どうして。
どうして、佐和子はずっと笑っていたのだろう。
どんな思いで、母からのレシピを見ていたのだろう。
乃里ちゃん。
ずっと、名前を呼んで笑っていたのだろう。
乃里は顔を洗い身支度をして帳場へ行った。すると萩がいた。今日は臙脂色の着物がよく似あっている。
「乃里さん、おはようございます。具合はいかがですか?」
「おはようございます。もう大丈夫です」
乃里の顔を見た萩が「おや」と首を傾げた。
「なにかありましたか? 目が赤いですよ」
「……自分の不甲斐なさに泣きました」
苦笑すると、萩はティッシュ箱を寄越してくれる。まだ鼻水が出るので一枚取り出してかんだ。
「あ、乃里ちゃん、もう大丈夫なの?」
そこへ姿を見せたのは牡丹。紺色の着物で涼しげな装いだった。
「おはようございます。牡丹さん、昨夜はずっとついていてくださってありがとうございました」
嫌味ではなく感謝をしているのだが、牡丹はおどけたように手を挙げた。
「乃里ちゃん寝相悪いから何回も振り落とされたよ」
「こら、乙女の寝姿をそんな風に言うものではありません。牡丹」
「はいはーい。で、乃里ちゃん、どう? 顔色は良さそうだね」
牡丹に向かって頷く。
「もう熱も下がりましたし、具合悪くもないです。牡丹さん、萩さんも、ありがとう。わたし、帰ります」
「朝ごはん、用意してあるけれど」
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。帰ってから、家で食べます」
空腹ではあったのだけれど、ここで満たすわけにはいかない。腹ごしらえは帰ってからだ。
「泣いたの。どうしたの。目も鼻も真っ赤だよ」
萩にも聞かれたが、牡丹は顔を近づけて乃里の目を覗き込んだ。近いからやめてほしい。
「不甲斐なさに情けなくなって。わたしは酷い人間です。我が儘だし」
「そんなことないでしょ」
「萩さんと牡丹さんに、迷惑ばっかりかけて、すみません」
「迷惑な子なんてこの世にいませんよ。乃里さん」
また萩がティッシュ箱を寄越す。止まったと思っていた涙がこぼれてしまった。
「……道を、車が走ってきているね」
牡丹が玄関のほうを見て、言った。遠くを見ているようで、耳に神経を集中しているようだ。客の到着だろうか。
「今日は、帰ります。すみません。萩さんと牡丹さんがいてくれてよかったです」
「うん。俺たちは、なにもしてないよ」
「……ここが、自分の居場所だと、見つけたと思ったんです。お父さんが再婚してから」
胸に抱いた、レシピ手帳が入ったポーチをぎゅっと抱きしめた。
「でも、違いました」
家に帰ったら、なにを一番に言えばいいだろう。なにをすればいいだろう。
迷ってしまった道を戻ることはできない。けれど、どうにか明るい方へ修正したい。
「乃里さん、わたしたちは猫又となり長い寿命を得ました。飼い主を渡り歩きましたが、歴代の飼い主たちはとても大事にしてくれました。愛してくれましたよ」
萩の笑顔は底なしに優しい。
思えば、彼らも、血の繋がらない家族と一緒だったのだ。長い長い寿命のあいだで。
愛してくれた。それだけで、じゅうぶんじゃないか。その愛で、自分はこうして立っている。
気づいていたし、わかっていた。認めたくなかっただけだ。
佐和子の作る料理は全部好きだった。こんな風に上手に作りたい。里司や父が「美味しいね」と笑顔になる。そんな料理を自分も作りたい。
子供の頃は見よう見まねで料理して失敗し、べそをかいた。
高校で調理を学ぶことを選んだのも、夢を確実にしたかったから。
たくさんの酷い言葉、態度をした。長いあいだ、ずっと。同じ屋根の下で。
わかっていたのに、どうして。
どうして、佐和子はずっと笑っていたのだろう。
どんな思いで、母からのレシピを見ていたのだろう。
乃里ちゃん。
ずっと、名前を呼んで笑っていたのだろう。
乃里は顔を洗い身支度をして帳場へ行った。すると萩がいた。今日は臙脂色の着物がよく似あっている。
「乃里さん、おはようございます。具合はいかがですか?」
「おはようございます。もう大丈夫です」
乃里の顔を見た萩が「おや」と首を傾げた。
「なにかありましたか? 目が赤いですよ」
「……自分の不甲斐なさに泣きました」
苦笑すると、萩はティッシュ箱を寄越してくれる。まだ鼻水が出るので一枚取り出してかんだ。
「あ、乃里ちゃん、もう大丈夫なの?」
そこへ姿を見せたのは牡丹。紺色の着物で涼しげな装いだった。
「おはようございます。牡丹さん、昨夜はずっとついていてくださってありがとうございました」
嫌味ではなく感謝をしているのだが、牡丹はおどけたように手を挙げた。
「乃里ちゃん寝相悪いから何回も振り落とされたよ」
「こら、乙女の寝姿をそんな風に言うものではありません。牡丹」
「はいはーい。で、乃里ちゃん、どう? 顔色は良さそうだね」
牡丹に向かって頷く。
「もう熱も下がりましたし、具合悪くもないです。牡丹さん、萩さんも、ありがとう。わたし、帰ります」
「朝ごはん、用意してあるけれど」
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。帰ってから、家で食べます」
空腹ではあったのだけれど、ここで満たすわけにはいかない。腹ごしらえは帰ってからだ。
「泣いたの。どうしたの。目も鼻も真っ赤だよ」
萩にも聞かれたが、牡丹は顔を近づけて乃里の目を覗き込んだ。近いからやめてほしい。
「不甲斐なさに情けなくなって。わたしは酷い人間です。我が儘だし」
「そんなことないでしょ」
「萩さんと牡丹さんに、迷惑ばっかりかけて、すみません」
「迷惑な子なんてこの世にいませんよ。乃里さん」
また萩がティッシュ箱を寄越す。止まったと思っていた涙がこぼれてしまった。
「……道を、車が走ってきているね」
牡丹が玄関のほうを見て、言った。遠くを見ているようで、耳に神経を集中しているようだ。客の到着だろうか。
「今日は、帰ります。すみません。萩さんと牡丹さんがいてくれてよかったです」
「うん。俺たちは、なにもしてないよ」
「……ここが、自分の居場所だと、見つけたと思ったんです。お父さんが再婚してから」
胸に抱いた、レシピ手帳が入ったポーチをぎゅっと抱きしめた。
「でも、違いました」
家に帰ったら、なにを一番に言えばいいだろう。なにをすればいいだろう。
迷ってしまった道を戻ることはできない。けれど、どうにか明るい方へ修正したい。
「乃里さん、わたしたちは猫又となり長い寿命を得ました。飼い主を渡り歩きましたが、歴代の飼い主たちはとても大事にしてくれました。愛してくれましたよ」
萩の笑顔は底なしに優しい。
思えば、彼らも、血の繋がらない家族と一緒だったのだ。長い長い寿命のあいだで。
愛してくれた。それだけで、じゅうぶんじゃないか。その愛で、自分はこうして立っている。