次の日、早朝に目覚めると腹の上にいた牡丹はいなくなっていた。
 自分で熱を測ってみると、平熱まで下がっていた。ぶり返していたら笑えない。ほっとしつつも、寝起きの気分はあまりよくはない。
 勢いもあり、昨日はあんなふうになってしまったが、後悔はしていない。けれど、重苦しい気持ちは胸に張り付いている。
 家に帰らなければ。父から小言を言われそうだし、なにかまた反発してくるのではないかとピリピリし様子を伺う佐和子を感じながらの日々が始まるのか。そう思うとこのまましろがねに残りたくなる。
 流石に今日は帰宅しないとだめだろう。

 布団から抜け出る。ふと、なにかが視界に入った。よく見ると、和柄のポーチが畳の上に転がっている。なんだろう。長財布のような形のポーチを手に取って、ファスナーを開けてみた。
 薬用リップ、頭痛薬。そこで、これは佐和子のものだと気付いた。
小さい手帳が入っている。ポーチは手帳に合わせた形で、どうやら手作りのようだ。
 乃里は、見てはいけないと思いながら、手帳を開いた。真ん中あたりをパラパラとめくってみると、どうやら料理のレシピ。
 佐和子が作ったものだろうか。真面目な性格であることはわかっているので、日々のメニューを書き留めているのかもしれない。
 父の再婚相手として、乃里の継母として、レシピ集を作成したのかもしれない。
 ハンバーグ、カレー、シチュー。白玉団子や、バナナケーキなど、簡単に作れて、子供の好きそうなものばかり。
 持って帰り、渡そう。昨日来て、忘れて帰ったのだろう。
 何気なく開いた1ページ目。目に入ったのは、綺麗な文字で書かれた自分の名前。

「将来、乃里のお母さんになる方へ」

 目を疑った。
 これを書いたのは、誰だ。佐和子ではないのか。文字を追いかける。衝撃が強すぎて、ひとつずつ文字を拾うようにして読んで、理解しないといけなかった。

「乃里の好きなものです。参考にしてください。苦手なのはあまりなくて、なんでもよく食べる女の子です」

 これは、母の文字だ。母が、このレシピ書いたのだ。

「おかあ、さん」

 自然と声が出た。出ていたのは声だけではなかった。
 手帳を持つ手にポタポタと、涙が落ちる。
 懐かしい。大好きだった。会いたい。会えない。もういない。父、里司、佐和子の顔。
 全部の感情が一気に押し寄せてきて、乃里は目眩がした。
 ああ、母がここにいる。いまはいない母がここで笑っている。
 レシピには、乃里の好きな食材と、好きなメニューばかり。そしてそれらはいままで食卓に何度も出てきた。
 そして、よく見ると、レシピのあちこちに、タイトルと違う筆跡でメモがある。「幼稚園のお弁当に入れたら、残しました。残念。改良します」「猫舌なので注意しますね」など。
 プリンのところに、ハートマークと一緒に書いてあったメモ。「乃里ちゃんが一番好きなもの。美味しいと笑ってくれました」
 これは、佐和子が書いたものだ。
 笑ってくれました。嬉しそうな、躍るような文字。
 将来、乃里の母親になる人物に向けて書いたレシピ、それが母の願い通り届き、佐和子が受け取った。
 まるで交換日記をしているような、佐和子のメモ書き。
 口から出る嗚咽を隠そうと、手で口をおさえた。けれど、だめだった。
 何もかもが、自分を作っていた。
 死んだ母の思い、佐和子の思い。小さい手が大きくなるまで、走るようになるまで。
 それなのに、わたしは。
 涙を拭い、手帳を胸に抱いた。
 自分が料理を将来の夢として定めたのは、記憶の中にある母の姿と、料理。朧げな思い出を繋ぎ合わせていた。