「騒がしい弟ですみませんね」
「い、いいえ……あの、ご兄弟でここを切り盛りしているのですか?」
「そうです。あとは湯守がひとりおります。アルバイトさんを時々お願いしているのです。全八室の小さな旅館ですのでそう大勢の人手もいらないものですから」
「いま、忙しいのですか?」
「夏場はちょっと忙しいですね。だから繁忙期といってもいいかもしれません。まぁ、のんびり営業しているので構える必要はありません。気まぐれで旅館のほうを休館、日帰り温泉のみにすることもあります」
「日帰り温泉のみ……ですか」
「そうです。日帰り温泉にお食事の提供。実はいま、まだ縮小へ向けて準備段階なのですが、宿泊をなくして日帰り温泉とお食事だけにシフトしていってるんです」
なるほど、経営方針が変化するのだな。
ふふ、と笑う萩の笑顔は安心する。兄弟は雰囲気が違い、元気いっぱいの牡丹はきっと元気をもらえるのだと思うと、しろがねで働けることが嬉しくなった。
「あの、がんばりますのでよろしくお願いいたします!」
「はい。こちらこそ」
萩のあとをついていき、厨房に入った。あまり広くないが清潔で、銀色のシンクはピカピカに磨き上げられていた。
片付け上手は料理上手。学校の先生にもよく言われることである。
「高校生で調理科に通うなんて余程料理が好きなんだね」
「はい。食べるのも好きです。手に職をつけて、自立を」
「しっかりしているね。偉いです。はい、これ」
萩は大根の入った籠を出して乃里の前に置いた。おろし金とまな板と包丁も用意されている。
「乃里さんには大根おろしをお願いします。このボウルいっぱいになったら声かけてくださいね」
まさかこんなことになるとは思っていなかったので、学校で入学と同時に購入した学校指定の包丁セットを持ってくればよかったと後悔する。普段持ち歩くわけにもいかないものだけれど。
大きな大根なので、おろすならば適当なサイズに切らねばならないのだが、家と学校の包丁しか使ったことがないので緊張する。
「あまり肩肘張らないでやっていいのですよ。怪我をしたのではよくありません」
「は、はい」
「うちの畑で収穫した春大根なんです。水分量が多くてサラダやおろしに向いています」
萩は、まさに庭で野菜を育てていそうな雰囲気だし、期待を裏切らない人だ。
萩の柔らかい笑顔のおかげで、少しだけ肩の力を抜くことができた。
もちろん失敗をしたら叱られるかもしれないが、怒鳴り散らしたりはしない気がする。ここに採用になり、とてもラッキーだと思う乃里だった。
「包丁もですが、指を一緒におろさないように気をつけてくださいね」
「はい!」
萩さん、優しくていい人だな。不思議な雰囲気でいいなと思った。
深呼吸をしてから包丁を持ち、大根を適当なサイズに切り、ゴリゴリと大根をすりおろし始めた。
自立って、どうしたら自立なのかな。
家を出て一人暮らしをすることだろうか。あるいはそうなのかもしれないけれど。
自立を、などと言ったけれど、実際はなにをどうしていきたいという細かいことは分からないし決めていない。子供の頃から料理が好きでいつからか将来の仕事にしたいと思うようになった。高校は調理課のあるところへ進学したかったから勉強して晴れて合格。これからきちんと専門的に学び、調理師免許を取得したい。
目下それが目標であり、目標達成しないと前に進まない気がしていた。
考えながらも、ひたすら大根をおろした。
その間に萩は、手際よく切ったり焼いたり頃がしたり並べたりしており、やがてとてもいい香りが漂ってくる。
萩は紺色の着物の上に緑色の割烹着、そしてひとつに結んだ髪をくるくるとまとめており、後ろから見ると背の高い女性に見える。
動きに無駄がないし、包丁の音もリズミカル。どこかで修行経験もあるのかもしれない。
今夜の献立は大根おろしが終了したら教えてもらおう。修行のことや、色々聞いてみたい。そう考えただけで、ここでのアルバイト生活がわくわくと楽しいものになる予感がした。
大根おろし作業は着々と進み、ボウルがいっぱいになる頃には両腕がパンパンになる。
「萩さん、終わりましたぁ~!」
「ああ、ご苦労様。ありがとう」
ずしりと重くなった大根おろし入りのボウルを渡すと、萩はラップをかけて業務用冷蔵庫に入れた。
「うん。丁寧におろしてくれました」
どんな料理に使うのだろう。天ぷらかな、お鍋かな。想像するのもたのしい。
「萩さん、今夜の献立はなんですか?」
「イサキの塩焼き、ワカメの酢の物。甘味は自家製プリンに果物を添えてお出しします」
思わず「ふわぁ」と口に出した。聞いただけで口の中に涎が湧き出る。
「四人家族のお客様がお蕎麦を食べたいとおっしゃっていて、大根おろしそばをご用意するのです。今日はその一組だけですので。新蕎麦の時期ではないのですが……」
萩が残念そうに言うのも分かる。乃里も新蕎麦の時期が十月あたりであることは知っているから、できれば新蕎麦で作りたいと思ったことだろう。
「い、いいえ……あの、ご兄弟でここを切り盛りしているのですか?」
「そうです。あとは湯守がひとりおります。アルバイトさんを時々お願いしているのです。全八室の小さな旅館ですのでそう大勢の人手もいらないものですから」
「いま、忙しいのですか?」
「夏場はちょっと忙しいですね。だから繁忙期といってもいいかもしれません。まぁ、のんびり営業しているので構える必要はありません。気まぐれで旅館のほうを休館、日帰り温泉のみにすることもあります」
「日帰り温泉のみ……ですか」
「そうです。日帰り温泉にお食事の提供。実はいま、まだ縮小へ向けて準備段階なのですが、宿泊をなくして日帰り温泉とお食事だけにシフトしていってるんです」
なるほど、経営方針が変化するのだな。
ふふ、と笑う萩の笑顔は安心する。兄弟は雰囲気が違い、元気いっぱいの牡丹はきっと元気をもらえるのだと思うと、しろがねで働けることが嬉しくなった。
「あの、がんばりますのでよろしくお願いいたします!」
「はい。こちらこそ」
萩のあとをついていき、厨房に入った。あまり広くないが清潔で、銀色のシンクはピカピカに磨き上げられていた。
片付け上手は料理上手。学校の先生にもよく言われることである。
「高校生で調理科に通うなんて余程料理が好きなんだね」
「はい。食べるのも好きです。手に職をつけて、自立を」
「しっかりしているね。偉いです。はい、これ」
萩は大根の入った籠を出して乃里の前に置いた。おろし金とまな板と包丁も用意されている。
「乃里さんには大根おろしをお願いします。このボウルいっぱいになったら声かけてくださいね」
まさかこんなことになるとは思っていなかったので、学校で入学と同時に購入した学校指定の包丁セットを持ってくればよかったと後悔する。普段持ち歩くわけにもいかないものだけれど。
大きな大根なので、おろすならば適当なサイズに切らねばならないのだが、家と学校の包丁しか使ったことがないので緊張する。
「あまり肩肘張らないでやっていいのですよ。怪我をしたのではよくありません」
「は、はい」
「うちの畑で収穫した春大根なんです。水分量が多くてサラダやおろしに向いています」
萩は、まさに庭で野菜を育てていそうな雰囲気だし、期待を裏切らない人だ。
萩の柔らかい笑顔のおかげで、少しだけ肩の力を抜くことができた。
もちろん失敗をしたら叱られるかもしれないが、怒鳴り散らしたりはしない気がする。ここに採用になり、とてもラッキーだと思う乃里だった。
「包丁もですが、指を一緒におろさないように気をつけてくださいね」
「はい!」
萩さん、優しくていい人だな。不思議な雰囲気でいいなと思った。
深呼吸をしてから包丁を持ち、大根を適当なサイズに切り、ゴリゴリと大根をすりおろし始めた。
自立って、どうしたら自立なのかな。
家を出て一人暮らしをすることだろうか。あるいはそうなのかもしれないけれど。
自立を、などと言ったけれど、実際はなにをどうしていきたいという細かいことは分からないし決めていない。子供の頃から料理が好きでいつからか将来の仕事にしたいと思うようになった。高校は調理課のあるところへ進学したかったから勉強して晴れて合格。これからきちんと専門的に学び、調理師免許を取得したい。
目下それが目標であり、目標達成しないと前に進まない気がしていた。
考えながらも、ひたすら大根をおろした。
その間に萩は、手際よく切ったり焼いたり頃がしたり並べたりしており、やがてとてもいい香りが漂ってくる。
萩は紺色の着物の上に緑色の割烹着、そしてひとつに結んだ髪をくるくるとまとめており、後ろから見ると背の高い女性に見える。
動きに無駄がないし、包丁の音もリズミカル。どこかで修行経験もあるのかもしれない。
今夜の献立は大根おろしが終了したら教えてもらおう。修行のことや、色々聞いてみたい。そう考えただけで、ここでのアルバイト生活がわくわくと楽しいものになる予感がした。
大根おろし作業は着々と進み、ボウルがいっぱいになる頃には両腕がパンパンになる。
「萩さん、終わりましたぁ~!」
「ああ、ご苦労様。ありがとう」
ずしりと重くなった大根おろし入りのボウルを渡すと、萩はラップをかけて業務用冷蔵庫に入れた。
「うん。丁寧におろしてくれました」
どんな料理に使うのだろう。天ぷらかな、お鍋かな。想像するのもたのしい。
「萩さん、今夜の献立はなんですか?」
「イサキの塩焼き、ワカメの酢の物。甘味は自家製プリンに果物を添えてお出しします」
思わず「ふわぁ」と口に出した。聞いただけで口の中に涎が湧き出る。
「四人家族のお客様がお蕎麦を食べたいとおっしゃっていて、大根おろしそばをご用意するのです。今日はその一組だけですので。新蕎麦の時期ではないのですが……」
萩が残念そうに言うのも分かる。乃里も新蕎麦の時期が十月あたりであることは知っているから、できれば新蕎麦で作りたいと思ったことだろう。