とある部屋まで来ると襖を開ける。畳の和室は八畳ほどの広さがあり長方形のテーブルと座布団がある。ここで面接をするのだろう。
「ここが従業員用の部屋。休憩はここでします。仮眠を取ってもかまいません。まずはお座りください。ただいまお茶をお持ちします」
 言われるがまま座布団にそろそろと座ると、萩が部屋を出ていく。襖を閉める所作も美しい。
 あずさが知ったらここへ来ると言いかねない。黙っていよう。
 クラスメイトのあずさはイケメンで白飯が食べられるというミーハーで、きっと萩のことを話せばここへ来ると言って聞かなくなりそうだ。
 バイトの面接があることは知っている。旅館のご主人はおじいちゃんだったと言っておこう。そんなことを考えていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえる。この旅館の飼い猫なのか、外にいるのか。また聞こえてこないかと耳をそばだてていると、再び襖が開いて萩が姿を現した。
 茶を出してくれ、向かいに着席する。
「改めまして。よろしくお願いいたします」
 萩が三つ指をつくので乃里も同じくし、鞄から履歴書を取り出しテーブルに置いた。
「エプロンとか割烹着は持ってきましたか?」
「え? いえ……」
「おや、そうですか。ではこれを貸し出ししますね。特にユニフォームのようなものはないのですが、白の割烹着がありますので」
 割烹着を着る? 面接に来たのに。
 まさかとは思うが、面接の他に包丁実技試験でもあるのだろうか。割烹着になれとはそういう意味? 高校一年で、プロの料理人が見て納得できるようなものができるわけがないのだが。
「あ、あの。わたし今年、高校の調理科に入学したばかりでして」
「はい。承知しておりますが」
「これ、履歴書です……あの、バイトの面接は」
「今日は一組お客様がありまして、早速お願いしたいのですよ」
は? 乃里が首を傾げると、萩は目を細めて笑う。
「採用です。面接は終了。履歴書はお預かりしますので、あとは弟の」
「萩! バイトさん今日いけるんだって?」
「うわぁ!」
 突然大きな音を立てて襖が開いたので乃里は驚いて後ろに倒れそうになった。
「こら、牡丹。静かに入って来なさい」
だ、誰……!
 萩の反応からしてこの旅館の関係者なのだろうが。
「ああ、ごめん。へぇ、可愛い子が来たもんだね。仕事はちゃんとできるのかな」
「調理学校の生徒さんだもの、料理好きなのだから大丈夫でしょう。専門知識はこれから学校で学ぶのですし」
「たしかに。毛の色も普通」
 ボタン、と呼ばれた青年はポニーテールにした乃里の長い髪をまじまじと見た。なんだか恥ずかしくなり肩をすくめる。
「あ、あの……わたし」
「よろしくなー。俺は佐々野 牡丹。押しボタンのボタンじゃなくて花の牡丹だよ」
「押しボタン」
 たとえに少し笑った乃里を見て、牡丹が楽しそうな笑顔を浮かべる。
「よ、よろしくお願いします。井藤 乃里です……」
「乃里ちゃん、よろしく。俺は牡丹と呼んで。いやー助かるよ! アルバイトの子が急に辞めちゃって」
 なんだ、この軽さは。
 乃里はそう思いながらも勢いよく差し出した牡丹の手をそっと握った。「これこれ」と萩が牡丹をやんわり制した。
「驚いているじゃないですか。アルバイトさんが辞めたのだって元はといえば牡丹が原因なのですからね」
「なんだよ。俺は普通にしていただけだもーん」
「そう軽々しく女性に触れるものじゃありません……乃里さん、申し訳ありませんね。牡丹は僕の弟なのです」
「え!!」
「なんだ、その驚き方は」
 牡丹が首を傾げて笑う。
 兄弟なんだ。まぁたしかに顔は似ているし、どっちも美形だ。
 よく見れば、牡丹の髪の毛は灰色で光の加減でところどころ銀色に見える。兄の萩は長い白髪で牡丹は短くしてあるが灰色。派手な旅館の主たちだ。
「す、すみません、なんだかこう、美容学校の生徒さんみたいだなって」
「ああ、ふたりともこれ地毛だから、気にしないで」
 ファッションで染めていると言われた方がしっくりくる気がしたが地毛だというので驚く。
 日本人ではない血が入っているのかもしれない。
 物腰柔らかな雰囲気の萩、元気いっぱいで奔放な牡丹、といった感じだ。
 そして、牡丹乱入で話題が飛んでしまったのだが、先ほど萩は「採用です」と言った。
「あの、すみません、佐々野さん。わたし採用なんですか? ここで働かせていただけるんですか」
「はい。僕さっきそう言いましたから。それと、僕たちは両方佐々野ですので、僕のことは萩とお呼びください」
 はい、はい、萩さん牡丹さんと呼ぶことにします。乃里は何度も頷いた。
「仕事内容は基本的に厨房で僕たちと一緒に調理、配膳などのお仕事が中心ですが、しろがね全体のこともやって貰うと思っていてください。仕事はたくさんあるので」
 会って少し言葉を交わしただけ、話もろくに聞かないうちから決定していいのだろうか。とはいえ、採用だというのだからありがたい。
「この割烹着を着て、今日は少しだけ手伝ってほしいのです。手際とかも見たいですし。あまり遅くならないようにしますから」
「大丈夫です。お願いします」
 萩から渡された真新しい割烹着を急いで着て、乃里は立ち上がる。
 鞄から、お気に入りの青い水玉柄のノートで作った自分のレシピ帳を出して割烹着のポケットに入れる。割烹着の胸には「しろがね」と青い糸で刺繍が施されていた。
「萩、俺は帳場に行ってる」
「僕は厨房に行って夕飯の下拵えをするよ。乃里ちゃんに手伝ってもらいますから」
 がんばってねと言って、牡丹はひらりと部屋を出ていった。