melancholy dog. ─from甲斐

 



 この世界は、とかく“人間至上主義”だと、よく二人の知り合いが言っていた。
 一人は、僕を人間に造り変えた人。そのせいで、彼は科学者でありながら科学者や科学技術を管理する団体『科学総会』から科学者としては除名されて、追放された。
 一人は。
甲斐(かい)ー、珈琲」
「……はい、学人(がくと)
 僕の、飼い主。






   【 melancholy dog. 】



「あぁっ、もう! 報告書、超面倒臭い!」
 僕の淹れた珈琲を片手に喚き散らす学人へ、苦笑を浮かべた。目敏くそれを見咎めて「何、」僕を睨み上げる学人に、しまった、と思った。
「くそ、お前も僕を莫迦にしているな?」
「まさか。滅相も無い」
 学人が、まるで酔っ払いの絡み酒みたいに僕へ因縁を付ける。僕は両手を挙げて無実を訴えた。
「嘘臭い顔しやがって、“犬のくせに(・・・・・)”……くっそぉ、屈め」
 机に向かって座る学人が、傍らに立つ僕へ床を指して命令する。僕は「屈め」繰り返され、目線を逸らしつつ言われた通り、しゃがんだ。

「あーっ! もぉぉぉおおっ」
 途端に学人が抱き着いて来た。僕は何もせず、抱き返すこともせず、されるがままだ。おとなしくしていると、学人の手が僕の頭を撫でた。
「あー、癒しぃ。お前を引き取って一番良かったの、コレだよなぁ。……あー、良い手触りっ」
 抱き締めた僕の頭をぐしゃぐしゃに撫ぜる。御蔭で長い髪が乱れるが、僕は抵抗しない。学人の手が、天辺の耳を撫でても。
 唯一、僕の『()だった(・・・)名残を尻尾と残す、耳。耳は、尻尾に次ぐ学人のお気に入りだった。

 僕は『犬』だった。ある日勝手な人間の都合で棄てられ、死に掛けていた。
 あの時分は仔猫だった『凪緒(なお)』といっしょに。雨で寒くて、僕より脆弱だった凪緒はどんどん衰弱して行って。犬としては老いていた僕も、体力の限界だった。
 そこへ通り掛ったのは、原田ヨシキと言う人で。
 科学者だった。

 ちょっと偏屈で、自分は人間が嫌いで、人非人だと思い込んでいる奇特な人だった。だから、僕らを拾うのも、僕らを助けるのも何かと理由を付けていた。
 死に掛けだから実験に丁度良いとか。普通の処置だと死んでしまう僕たちを助けるために、当時研究していた技術を使って人間にしたことも。
「別に人間にしたくてしたんじゃないけどな……偶然そう言う研究だったんだよ」
 今の人間は人口の比率がおかしくなってしまっていて、改善するために科学至上主義になっていて、科学者が事実上実権を握って科学が世界を支配していると言って過言じゃなくて。
 人間は保護されて、戦争も人間に似た“人間でないもの”が、代理戦争しているそうだ。
「ま、お前らは副産物だ。悪いな」
 言ったヨシキさんは、仏頂面だった。

 こうして僕と凪緒はヨシキさんの成功例、実験の成果物になった訳だけど。何とヨシキさんは『科学総会』から追放された。“さすがに動物を人間に変えるのは動物愛護の観点から如何か”と、『擬人化技術』と名付けられた技術は禁術指定され、封印された。
 けれど、ヨシキさんと学人の話では、別の意図からなのだと言う。
“余りにも、動物を人間に近付けさせ過ぎた”
 人間に身体構造を近付け過ぎたせいで、今や独身者には強制的に死ぬことはおろか、老いることすらもゆるさず人口均等の回復に努めている世界には“打撃を与え兼ねない”。
 つまり所有者が擬人化動物へペット以上の感情を持って、子も残せないのに肩入れし過ぎて、人口減少へ拍車を掛けてしまうだろうと。
「『ドール』は生殖機能が無いだけでなく、生殖器そのものが無いから、良いんだろうけどな」
 生来から生き物である以上、擬人化動物には在るに決まっているから。

“世界に仇成す技術を作った”と科学者を辞めさせられたヨシキさんは今、地球外に在る死者のための人工惑星『地球総合霊園(アース・グレイブ・ガーデン)』の管理者をしていた。時折僕たちも遊びに行くけど、「散々、この俺様を干すなんて余程莫迦だと思ったけどな。生者に地球を明け渡すための人工星は、静かで良いぞー。人間がいないからな!」と笑って結構エンジョイしていた。

 仔猫から少女になった凪緒は、メイド姿でヨシキさんに仕事を仕込まれている。ヨシキさん曰く「俺様が楽に扱き使うため」だそうだけど。僕は知っている。
 ヨシキさんは自分が死んだときのために、凪緒が困らないようにしているのだと言うことを。
 本当に、複雑な人なんだから。
 まぁ、それは……。

「……。よし、がんばろう」
 気が済んだらしい学人が僕の肩を押した。体を離すと気合を入れ、僕程では無いけど長めの髪を纏め直す。僕は特に何も言わず、じっと一連の流れを眺めていた。すると、学人が横目で僕を捉え。
「あ、もう良いよ。早く戻って仕事しなよ」
 学人はこっちを向かず、手でしっしっと僕を追い払う。僕は一つ嘆息して、場を辞した。



“甲斐。アイツには、お前が必要だと思う”
 ここに連れて来られたとき、ヨシキさんが『地球総合霊園』へ行く前。
 学人の家の前で告げたこと。
“凪緒じゃ駄目なんだ。多分、犬のお前が良いと思う。……ま、アイツは、学人は、大人振ったお子様で、お前は犬だったとは言え大人だからな”
 頼んだぞ、と小さく零したヨシキさんは、インターフォンを押した。

 忘れもしない初対面。
“あっれー! めずらしいじゃん、『よっぴぃ』!”
 出て来た学人は、笑顔で僕とヨシキさんを出迎えた。明るく、ヨシキさんのことを“よっぴぃ”なんて独特の渾名で呼んでいた。けど。
“……”
 その目は冷ややかで。
 ああ、この人はヨシキさんとは真逆だ、と悟った。

 ヨシキさんは、とことん対人を避けて子供みたいに傍若無人なくせに、利己的になれず他者を棄て切れない人だった。
 明るく人当たり良く、垣根無く他人と仲良く出来る学人は、本質では人を厭い見下し拒絶していた。

 確かに、凪緒では駄目だろう。
 この人は、そばにいるだけでも、重過ぎる。



 僕はごく微小な物音に気が付いて耳を動かす。次いで洗濯物を畳んでいると背中に重みが掛かって、前屈みになった。さっきまで書斎にいた学人が寄り掛かって来たのだ。
「終わったー! 終わったよぉおおお!」
『科学総会』への研究経過の報告書が終わったらしい。背中にぐりぐりと顔を押し付けて来る学人を放置して、僕は作業を再開した。が。
 びくっと体を震わせる。振り返れば、僕の背中からずり落ちて寝っ転がっている学人が、僕の尻尾を予告無く揉んでいる。
「……」
 触るのは良いけど、一言言ってほしい。抗議したところで「え、何で犬のきみを、僕が気遣わなきゃいけないの?」とか言い出すだろうとわかっているので、しないけど。僕はまた一つ、溜め息を吐いた。

 人間相手に学人は丁寧だ。関わりたくないからこそ善人を演じる。
 僕には、素を出していた。
 僕は犬だから。飼い犬だから。
「ねぇー、甲斐」
「何ですか」
「今日、ビーフシチュー食べたぁい」
「……。はいはい」

“アイツは、学人は、大人振ったお子様で”
「……違いない」
 僕は深呼吸をして犬のときとは違う位置の肺の動きを感じながら、キッチンへ入った。



   【 next 1.ガードルード 】
 


 研究や実験の依頼が来るときは『科学総会』を通して、電話だったりアプリだったりの音声通信か、文章でのメッセージが届く。
 だけど、この日は、平時と様相が違っていた。
 玄関で見知らぬ男と相対した学人は、常に浮かべる対人間用の愛想笑いなど、欠けらも無く。それどころか、表情のすべてを削ぎ落として……感情の欠落した人のような面持ちで。
 男から黒い紙を、黙って受け取っていた。






   【 1.ガードルード 】



 陰鬱な印象の男だった。
「どうぞ」
 居間に通された男へ茶を、と学人に言われ出す。男は「ああ、ありが、……」礼を述べ掛け僕を見て、固まった。僕の耳がぴくぴく動いている。尻尾は微かに振れていた。珍妙なものを目撃した目で男は僕を仰ぎ見ていた。
「……」
「熱い内にどうぞ」
「っ、あ、ああ、失敬した」
 来客の、こう言った反応には慣れているし、別に謝っていただかなくて結構なのだけど。僕は向かいに学人の分の珈琲も置くと役割を終えた盆を脇に抱えて、一つ息を吐き「いえ。ごゆっくり」と返した。今この場にいない学人の分を用意したのは、そろそろ来るだろうと踏んでのことだ。

 僕が出るのとほぼ同時に学人が入室して来た。何か書類を持って。僕は学人に道を譲ってから、退出した。
「お待たせしました」
「ああ、いや……」
 男が視線で僕を追っていたことには感付いていた。学人も気が付いたらしく「ああ」と、合点の行った声を出していた。
「めずらしいですか」
「いや……彼は、『ドール』かい?」
 男の戸惑った声調の問いに学人は、はっ、と吐き棄てるよう、わらった。
「まさか」
 閉める寸前の、ドアの隙間から覗いた学人は男の向かいに腰を下ろした。僕は扉を閉めた。閉めても、二人の会話は聞こえて来ていた。
「あんな気色悪いものを、置く趣味は無い」

 学人が唾棄する如く罵る『ドール』は、未だ試験運用段階の生体機械だった。
 有機素材で神経の一つ、細胞の一つまで出来ている機械。電脳も特殊な有機電脳を持つとか。
 この時代で高高度の最先端医療の粋を集めた結晶。
 巷では、“最早素材の違う人類”、『新人類』とまで持て囃されている、とか。

「ではアレは……」
「原田に押し付けられた、『置き土産』です」
「原田……あぁ」
 学人の挙げた名に、男が納得の声を上げる。ヨシキさんのことは既知なのか、気付いたようだ。
「じゃあ、アレが噂の……凄いな、人間にしか見えない」
 若干興奮した音を滲ませ、男が感嘆の意を告げる。けれど、洩れ聞こえる音から珈琲を一口飲んだだろう学人は、音声でわかるくらい不機嫌そうに言った。
「そうですか? 僕には、どう見ても“犬”ですけど」

 僕は場を辞そうと考えていたが、いつに無い学人の応対が気になって、扉から離れられなかった。右往左往、行ったり来たりを繰り返す。
 そうこうしている内に、仕事の依頼内容に話が変わった。

 と。

「……何してるの」
 唐突に扉が開く。僕は平静を装いつつ、内心びっくりして慌てていた。じろり、と睨まれる。成程。蛇に睨まれる蛙とは、こう言うことか。と、的外れなことが過った。
「何してるの」
 二度尋ねられ、僕は「えぇっと……」とっさに「お茶のお代わりが必要かなって思って、」待機してました、と小さく続ける。学人の眉間の皺が増え、鼻の上にも刻まれた。僕の耳と尻尾は垂れ始める。
「あ、そう」
「はい……」
「じゃ、いいから。あっち、行ってっ」
 僕の「はい、」返事もそこそこに、ドアが大きい音を立てて閉められた。僕の耳と尻尾は殊更垂れた。

 中から「聞かれても別に良いんじゃないか? 犬なんだろう?」と擁護する男の声。暗に、理解出来ないだろうと思ってのことだろうけど。学人は「機密事項でしょう」一蹴した。
「どこから洩れるかわからないし、……あなただって、この依頼は洩れたらマズいのでは?」
 大して高くも無いけど低くも無い声音を、押し殺した風にして学人が相手へ質した。詰め寄ったのだろうか。男はぐっ、と声を飲み込んだようだ。それに、と学人は言葉を連ねる。
「アレは、あなたが思う程知能は低くない。見縊らないほうが身のためだ」
 忠告する。きっと、一応は誉められているのだろうけど、僕の耳と尻尾は垂れて復活しない。
 忠告に含まれる学人の心情を、敏感に気取っていたせいだ。僕は学人の異状を気に掛けていたが、学人の命には逆らえないので今のドアから離れ、キッチンへと戻った。



 その後、昼に来た男が夜遅く帰ったあと。何か材料を取り寄せた学人より、しばらく研究室から出て来ない旨を聞かされた。
 研究内容は教えられなかったけれど、開発コードが通称『ガードルード』だと言うのは聞いた。
“ガードルード”。
 女性の名前だ。愛称は“ガーディ”“トルーディ”とかだったか。学人も、普段は“ガーディ”と呼んでいた。
 衛生面やセキュリティから、出入口が二重扉の構造になっている研究室はトイレもシャワールームも完備で、食事と洗濯さえ何とかなれば生活出来てしまった。
 宣言通り、学人は研究室から滅多に出て来なくなった。

 食事や洗濯物を出すときだけ出て来て、済ませると研究室に籠っていた。研究や実験に没頭すると寝食を忘れがちな学人にしては最初こそ、眠くなるからと研究中は一日一食だけになる食事もきちんと摂っていたので、何も口出ししなかったけれど。日を追う毎に期日が迫っているのか没入してしまっているのか、目の下に隈を作り食事や洗濯物を出すことも滞り始めた。
「……」
 仕方なく、僕は研究室の前まで通った。

 僕がノックすると二重扉のセンサーが感知して、来訪を研究室へ告げる。ロックが開かれた一つ目の向こうで、ミュージシャンがわざと化粧で作るような濃い隈を拵えた、学人がいた。学人が無言なので、僕も黙して洗濯済みの衣類と食事を渡し、終わったころ食器とその日の分の洗濯物を回収した。
 また日が経つと、学人は僕にスペアのカードキーを渡した。研究室のだ。始めは一枚。二重扉の一つ目のキーだ。僕は意図を察して頷いて、受け取った。

 二重扉は扉と扉の間に少々スペースが在って、小さな折り畳みテーブルが置かれている。僕はそこに衣類と食事を置いた。置いた合図に、二つ目の扉をノックした。僕が一つ目の扉を潜って外に出ると、閉まるそばから二つ目の扉が開く音がした。残っていた家事を一通り済ませてから再び赴いた。テーブルには空の食器と新しい洗濯物が置かれていた。

 更に日が経った。男が来てから二箇月くらいだろうか。あと少しで三箇月目に突入すると言った辺り。とうとう最後の追い込みか、取りに来た僕の前には手も付けられず、冷めた食事が置かれていた。僕は歯軋りして、急いで料理をあたため直すと、二枚目のキーをポケットから出し二つ目の扉へ翳した。
 一週間前、食器と洗濯物と共にテーブルに在ったものだ。挟まっていたメモには“緊急用”と殴り書きされていた。
 寝ているかも怪しいのに、一日一食も摂らないとか無い、しかも三日連続、と僕は扉を解錠した。
「学人────、っ、」
 叱り付けようとして扉を、がばりっと開けた僕。目に飛び込んで来たのは、随分とアーティスティックな状景だった。

 工具やコードが散乱する作業台の上に、裾はふわりとした、襟元がVカットになっている白いドレスの女性が座っていた。ゆるやかな波打つ髪は白金で、埋もれる顔は露出している肌と同じ白さ。頬に赤みは無く、一見して無機質な彫刻染みたうつくしさが在った。
 髪と同系色の睫毛も伏せられており、瞳は窺えない。そのせいか全体的に白い印象の女性だった。
「……何」
 ぴくりとも動かない女性の足元で、跪くみたいに膝を着いて学人が作業していた。こちらへ向きもせず作業を続ける学人に、僕は気を取り直した。
「……。ご飯くらい、食べたらどうですか」
「もう少しで終わるんだ。……そしたら食べるよ」
「三日目ですけど?」
 僕の咎めるような言い方に、一時学人の手が止まる。けど、すぐ再開された。僕は、はぁーっと苛立ちを叩き出すかの如く息を吐いた。食事の乗ったトレーを近くの台に置き、学人のそばまで歩み寄る。

 学人の背後に立つと首根っこを、むんず、と掴んだ。首が絞まらないよう加減しつつ引っ張る。重心が反れたためか、工具やコードを手放して学人が立ち上がった。
「ちょっ、何す、」
「食、べ、な、さ、い」
 僕が強めに言うと瞬間学人は口を噤んだが、反論しようと開口する。
「偉そうに! 飼い主は僕だぞっ……」
「そうですよ。飼い犬として(・・・・・・)、心配しているんです」
 何を言っているのかと僕が断言すれば今度こそ、学人は黙ってしまった。
「学人の体調と予定を考えて流動食にしているんです。時間は掛かりませんから」
 もう抵抗が無いと判断して、首根っこを放す。学人はバツが悪そうに俯いていた。覗き込むと、顔色は悪く、隈の濃さは紫っぽさを残さず黒と言って良かった。

「ほら、そんな具合悪そうな顔して。飼い主なら、犬に心配させないでください」
 学人が下唇を噛む。反抗したいのに上手いこと行かなくて、不貞腐れる幼子のようだ。本当に、子供みたいなんだから。
「ご飯、食べて。今日はミルクのお粥ですよ」
 胃にもやさしいでしょう? と説いて、学人を近くの椅子を拾いながらトレーを置いた台の前に先導する。
「一口、二口で良いんですからね? 無理しないで」
「……無理矢理食べさせようとしているくせに」
 ようやく出た憎まれ口に、僕は苦笑いする。駄々を捏ねはするものの、作業以外に、通常は高機能な脳のリソースが足りないのか割けないのか、達者な口も弱々しいものだ。
 あきらめた風に僕が調達した椅子で項垂れ、スプーンを手に取った。
 体自体は栄養に飢えていたようで、一口入れたら緩慢にだけど次々入れ始めた。僕は水差しから水をコップに入れて、脇に置いてやる。

 学人が食べる横で僕は研究室を見回した。床や壁を縦横無尽に走って作業台と機械を繋ぐコードたち。大小様々な、僕では理解出来ない機械。学人が嫌がるので、こう言うときでもないと入らない室内は、相変わらず雑然としている。自然と、僕の目は変わらない研究室の唯一の相違点、作業台の女性に向かう。
「アレ、ロボット?」
「違う。『ドール』」
 僕は驚きに目を瞠った。『ドール』。アレが。
 女性は無機物的ながら、遠くからも人間みたいな質感を感じさせて、起動前のせいか息遣いも無く死体のようだった。
 開発コード、通称“ガードルード”は、この『ドール』の名前だった訳だ。

「ま、と言っても“混合体”だけどね」
『ドール』のボディは、特別な培地での培養が必要だから。元から少量の粥をちまちまと小分けにして、口に運ぶ学人が言う。
「『ドール』……」
「そ。特注のね」
「でも、学人は、……」
 僕は詰まる。僕の様子に学人が、は、とわらった。
「そうだよ。僕は『ドール』が嫌い」
「なのに、どうして」
「仕事だもん。普通でしょ」
 私情がどう在れ、一度受けた仕事はやり遂げる。学人の言は変では無い。だけど。
「そう言うのって、ちゃんとした施設で受注されて審査されて、製作されるモンなんじゃないですか?」
『ドール』は専門機関が、専用の研究施設で開発を行っていたはずだ。犬で世間や科学に疎い僕にも、ヨシキさんに教えられたり学人と暮らす内に、それくらいの知識は在った。学人は粥を食べ終え、スプーンを器に放った。スプーンは器の縁に当たり、からん、と音を立て揺れる。コップを取り水を飲む。

「だから、」
 コップを置いて、学人が立ち上がった。
「“特注”、なんだって」



 そのやり取りの三日後、『ドール』は完成し、あの陰鬱そうな男が引き取って行った。
 男が、『ドール』を一目したとき見せた喜色に満ちた面差しは忘れられない。余程よろこんでいたのだろう、纏っていた陰鬱さが晴れて輝いていた程だ。だけれど。
 学人は、男が依頼をして来たとき同様仮面かと有り得ぬことを疑うくらい、無感動な面容だった。

 起動して、動く『ドール』へ男はこの日のために準備したらしい洋服とコートを着せ、連れて帰ったのだった。

 起動したばかりでいろいろラグが発生しているせいか、動作の鈍い『ドール』を連れ、男が帰る間際。起動後、開いた『ドール』の双眸と目が合った。
 ぼんやりとしている瞳孔は青より、藍色に近い色をしていた。

 動く『ドール』は、混合体だそうだけど、どこからどう見ても人間にしか見えず。
 人ごみに紛れたら、誰にも判別付かなそうだった。

 引き渡しが終わり、翌日僕は学人が寝室で久方振りに寝ている間、掃除に入った書斎でたまたま今回の報告書を見付けてしまった。
 平常興味も無く盗み見たりすることも無い報告書に、今回ばかりは手が伸びてしまったのは、きっと学人がおかしかったからだ。

 報告書には、特筆されるような記述は無かった。
 男の依頼で、亡き恋人の記憶をトレースした“ロボット”を造っただけと在る。
 そう。
“『ドール』”ではなく、“ロボット”と。
 混合体だと言うし、完全な『ドール』ではないから敢えて“ロボット”としているのかもしれない。
 報告書には何も不審なところは無い。
 僕には疑問点は多く在ったけれど。

 このご時世、人間の独身者はクローンがスペアとして存在していて、問答無用で電子データとして変換保存された記憶を移植され代替させられる。
 恋人は、なぜクローンではなくロボットだったのだろうか。クローンはいないのだろうか。子供がいればクローンの代替は任意になるので、すでにいたとか?
 まぁ、諸事情在るだろうから別段異様ではないのかもしれない。
 なら、なぜ然るべき機関の施設を頼らず学人へ依頼して来たのか。
『ドール』の評判と性能は前述の通り。ゆえに、とてもデリケートな問題を幾つも内包していた。
 学人へ直接依頼出来るくらいだから、あの男はそれなりの身分や地位が在るはずだ。『科学総会』は所属する科学者に受諾可否の裁量を任せていても、依頼の選別はしているため『科学総会』を通すことは必須だ。科学者に『科学総会』の使者を介さず依頼出来ると言うことは、身辺調査でスルーされるか、何かしら忖度される程度の保証がされているか。どちらにしろ、研究機関へだって依頼しても、多少なら無理が通る身の上だったはずなのに。

 僕は学人の様子や不可解な依頼に一抹の不安を覚えたけれど、結局、元犬の頭では答えは出ず……考えるのをやめた。
 学人に何が在ろうと、僕が変わらず彼といるのは確定していることだからだ。
 僕には行くところが無い。コレは僕の都合でも在るし、気持ちでも在った。

 僕は、学人に問うこともしなかった。
 問うたところで回答を得られないとも思っていたゆえに。

 ……なので。

「“────たった今速報が入りました”」
 ニュース報道で、どこかの『ドール』の研究施設で爆発事故が起きたと知らされるまで。
「……学人?」
 ソファに座ってカップを傾けながら、その報道映像を観て、微かにわらう学人を見るまで。

 僕は、事の重大さに気付かなくて見過ごした。
 飼い主の異変に、感付いていたと言うのに。

“アイツには、お前が必要だと思う”
 ヨシキさんに頼まれたのに。

 飼い犬失格だ。



   【 next 2.利己主義者の怨毒 】
 


「学人、何、何で……」
「……」
 わらっているんですか、と最後まで訊けない僕を学人が見返した。顔面に表情が無いどころか、両眼にも光が無かった。
「学、人、」
「……」
「学人っ!」
「……ん? 察しが良いね、甲斐。“野生の勘”ってヤツかな」
 僕の叫びに、さすが犬だねと、学人が肩を竦めた。やっと返って来たリアクションは軽薄なものだった。






   【 2.利己主義者の怨毒 】



「よもや、本当にやるとはねぇ……」
 僕が呆然と見詰める先で、学人が小さく喉を鳴らした。最初、僕は咳でもしているのかと思った。
 でも、違った。
 揺れる肩も、喉が鳴る音も大きくなって、ついには、哄笑になった。
「学人……」
「……は、ふふふっ。……何?」
 収まり切れない笑いを零しながら、学人が訊き返して来た。僕は二の句が継げずまごまごと口籠って、振り絞るように、尋ねた。
「学人……どうして、ニュースを観て笑っているんです? 何か知っているんですか……? まさか、関与しているなんてこと……」
「あー、まぁねー? 知っていると言うか……僕が、造ったせいだろうね、“ガーディ”を」
 あっさり、学人は肯定した。
“ガーディ”……『ガードルード』。
 特注だったと言う女性型の混合体『ドール』。
 アレが、何で……。
 絶句する僕に、学人が面を歪ませた。笑顔なのかと疑わしいくらい、歪な笑い方だった。

「何で、ガーディ? だってガーディは、あの依頼者の恋人の複製だったんじゃ、」
「それが、『条件(・・)』だったからだろ? あの男が、もうクローンでさえ手が届かなくなってしまった恋人の、似姿を手に入れるための」
 て言うか、本物の恋人だったかも危ういけどねぇ? 学人は冷めた珈琲を呷った。
「あの男は、どっかの大学の、しがない准教授だって話だよ。『ドール』って、研究関係者以外が手に入れるための相場知ってる? そこらを溢れ返っている一般大学の准教授如きじゃ、買えないよ……ああ、百年くらい節約すれば買えるかな?」
 揶揄する口調で、学人が言う。
「てか、金額以上に許可も下りないんじゃない? オーダーメイドは元より、量販型もね」
 だから、違法取引に縋ったのだ、あの男は。
 黒い紙は、『科学総会』の目を掻い潜って来た、闇取引を示していた。

『ドール』は『科学総会』で技術が認可されてから世界の各地で研究や開発が行われていた。用途や目的は戦争利用のためだったり劣悪な環境での労働従事のためだったりと、まちまちだった。
 研究開発は機関に委ねられており、改良も重ねられ、専門分野に特化して行くものも多かった。
 唯一、『科学総会』に禁じられていたのは性風俗分野への登用だけ。あとは自由だったから、各地各所挙って発展させて行った。
 けれども、『ドール』は特殊な仕様のため、一般への流通は極力控えられている。
 所持するためには資格を有する程に。

「ガーディに、爆弾でも仕掛けていたって言うんですか?」
 研究施設は、秘匿とされていた。なぜなら、“新人類”なんて持て囃され、人間とは最早材質が違うだけと誉め称えられる、有機素材の生体機械だ。
 当たり前に、過剰な科学の介入を嫌う自然至上主義(ナチュラリスト)のテロ組織に狙われた。
“人間が、人間に準ずる生命体を創造するなど在ってはならない”なんて理念で。
 だけども、人間には厳しいセキュリティも、『ドール』ならどうだろうか。
 些少はゆるむのでは……僕の質問に、学人が腹を抱えて大笑いした。
「爆弾なんて、即、出入口のセキュリティでバレるよ。それ以前に、ガーディは混合体だもん。不純物が多過ぎてセンサーで引っ掛かるよ」
「じゃあ、」
 何で、と僕が続ける前に、学人が食い気味に答えた。
「音だよ」
「音?」
「そう、音。僕は特別に強化したりしてないから、増幅器でも使ったんじゃない?」

 実現出来るとは思わなかったけど。学人がカップを置いて、テーブルを人差し指で叩き出した。リズミカルな音程は、何かの曲のようで、出鱈目のようで、何を表しているのか僕には皆目見当も付かなかった。
「ガーディのモデルになったのは、そこそこ有名な歌手だったんだ。ある日死んだけどね」
「死んだ?」
「そ。事故って言われてるけど……殺されたんだろうねぇ」
 意味有りげに微笑した学人が、人差し指の演奏をやめて頬杖を突いた。目線の先は続報を流すニュース映像。キャスターの女性が、真剣な形相で更新される情報を読み続けている。
「誰に……」
「誰って、そりゃあ、『科学総会』のお偉いさんたちにでしょ」
「な、何でっ、」
 突拍子も無く出された名称に狼狽える僕が面白かったのか、学人が笑う。

「何でって、邪魔だったからだよ。
 彼女の出す、ある一定の音域は、『ドール』を狂わせるんだ」

 正確には『ドール』の脳波を、高確率で乱すらしい。一部の機能を麻痺させて混濁させ、混乱状態に出来る。学人が立ち上がって、ソファの後ろにいた僕の前まで来る。手を伸ばして来る学人へ、無意識に腰を折って頭を差し出す辺り、僕はやはり“飼い犬”なんだろう。学人の手が僕の頬を上って髪の中へ埋もれると、僕の耳に触れた。親指と人差し指の間に耳を挟む形で、僕の髪をくしゃくしゃに掻き混ぜながら、僕を撫でた。
「そんなことで……」
「そう。そんなことで、殺されたんだ。証拠に、彼女のクローンは目覚めていない。表向きは感染に因る遺伝子汚染で駄目だったからだって……廃棄されたんだ。どっかのクローン培養管理施設が責任取ったよ」
 彼女のクローンは、だからいないんだよ。国に保有されている個人データで、細胞から造ることも出来ただろうけど……不思議と家族が届けを出さなかった。
「金で黙らせたんだろうね。結構、彼女って不遇だったらしいよ。既婚者や子供を養育する者なら受けられる、『完全優遇制度』を受給するために、産んだだけみたいだから。両親も」
 無邪気な子供のように、僕を撫でて学人が喋る。僕は、息が詰まった。自然と、犬のときは無かった眉が寄る。僕の表情に、学人が「……ふ、あはっ、」笑った。

「なぁに? 心を痛めてるの? 甲斐」
 お前は、心底やさしいね。嘲ている風に学人が言う。僕は僕を、ぐにぐにと頬も揉み込んで撫でる学人の手を掴んだ。
「……復讐ですか?」
 僕が静かに問う。学人は笑みを変えなかった。
「そーなんじゃない? 恋人を取り戻したい男と、テロリストが手を組んだ訳だしねぇ」
「違う」
 愉快そうに語る学人の声を、僕は遮った。
「学人の復讐なんですか、って訊いたんです」
 見据える僕を、笑いの消えた学人の双眼も真っ直ぐ射貫いた。
「人間本位で、そのくせに人間を保護動物程度にしか考えていない『科学総会』が、力を入れてる案件だから?」

『ドール』。
 神経、細胞まで有機素材の生体機械。最先端医療の粋を集めて造られた彼ら彼女らは、人間との違いが材質と、消化器、生殖器が無いことくらい。
 怪我や病気で部位を失い補う人間とは殊、明確な線を引き難い。
 だのに、名には人形と言う意の英語名詞が使われている。
“コレは人形ですよ”と、アピールしているように。
 けども、違うのだ。

「『ドール』の正式名称は“Director of lifeline”……“生命線の管理者”」
 一般人や、研究開発する技術者には伏せられた真意。
「人間を管理する、監督する存在でしたっけ?」
 僕が訊くと、学人は「そうだよ」首肯した。
あの(・・)傲慢な男が、考え付きそうなことだよ……!」
「だから、手を貸したんですか。『ドール』を暴走させて、計画が頓挫するように?
 主導する父親(・・)が、ゆるせないから?」
「……。別に? ただ世界に先駆けてあの、世界でも比較的に平和な島国で量産化が決まった。……あんな気持ち悪いもの世に放逐させられるかよ。
 ────知ってる? 『ドール』には、ロボットやアンドロイドに付けられる三原則が無いんだ」
 何でだと思う? 学人は尋ねたが、僕が何某か呈する前に自ら答える。
「人間に逆らえなかったら、管理出来ないからさ。アイツが言ったんだ。“種の保存で言えば、人間も動物も百人いれば良いだろう”って。人間の取捨選択さえ視野に入れた計画なんだ。何だそれ。神様かよっ」
 学人の爪が、僕の頬に食い込む。だけど、僕は払わなかった。逆に学人の手を握る手に力を入れた。

「アイツは人間も実験動物くらいにしか考えていないんだよ……アイツも人間のくせに。だから、」
 学人が、大きく息を吸った。呼吸に喘ぐ胸が、膨らんだ拍子に丸みを少しだけ服の上から見せた。
「だから、自分と妻の受精卵を遺伝子改造して、両性具有になんてするんだ……」
 学人の染色体はXXY。人口を増やすための方法の一つに“性別を排した方法”、人為的な両性具有の生産が提案され、試験体として学人は生まれた。
 結果として、この案は“秩序のバランスを欠く可能性が在る”と却下されて、ただ学人が残されたのみ。
 その学人を、親は成果としては失敗と、棄てた。
「傲るのも甚だしい」
 学人の空っぽな眼が焦点を結ぶのは、僕じゃないどこかだ。
 とは言え、「でもね、学人」僕は目も、学人の手も離さない。

「いっぱい、人が死んだんですよ……研究施設の人。いっぱいの人が、親しい人を亡くしたんです。人間も、もしかしたら、僕みたいな動物も、」
「────っ。わかってる……」
 学人の手から、力が抜ける。手だけじゃなくて、足からも抜けたようで、僕に掴まれた手を残して、へたり込む。僕も、従うみたいにゆっくり腰を落として膝を着いた。
「わかってるよ」
「学人」
 僕は学人の手を放す。だらん、と手が床に落ちた。
「僕は、人間が嫌いだ」
「……。はい」
「人間は動物も、同種の人間すらも、尊重出来ない」
「はい」
「そうだから……」
 俯き加減だった学人が前のめりに倒れて来たので、項へそっと手を添えて肩に誘導する。学人の額が僕の肩に付く。
「僕は、僕も、……嫌いだ」
 僕の肩へ乗せられた学人の頭に、自分の頭を寄せる。項に添えていた手を上げて、頭をぽんぽんと叩く。

“人間じゃないから、そばに置くんだ”
 昔、学人に言われた一言。僕は人間じゃない。
 そして、もう犬でもない。子供も、この先自然には残せない。
 だけれども。
「学人」
 震える主人を抱き締められる四肢が、得られたことには満足していて。
「償えるものじゃないけど……きみはお父さんと違うんですから、向き合いましょう。ね?」
 怯える主人を呼んであやせる声を、得られたことにも満足していた。

「うん……」
「がんばりましょう。
 僕も、そばにいますから」
「……うん」
 本意では、学人だってわかっていた。
 だって、ニュース映像を観て笑い出した学人は、寸前、ショックを受け頬を引き攣らせていたもの。
「大丈夫……一人じゃないですから」

 僕は学人の背を摩った。抱き込んで、大丈夫ですよ、と何度も伝えた。



   【 next Last.しじま 】
 


 製作者として名乗り出た学人は、結局──────




 何のお咎めも無かった。






   【 Last.しじま 】



 事態を重く見た『科学総会』は、一応、除名処分まで検討していたようだけど。
 学人自身の功績や学人の立場、いわゆる上層部で『ドール』計画発案者の子供であることで、無期限の謹慎処分に落ち着いた。
 謹慎中は勝手に依頼を受けることは勿論、科学技術に関しては全般、どんな形式でも自らが直に手を出すことが出来なくなった。せいぜい、『科学総会』経由での相談へ、アドバイザーに徹するくらいか。
 もっとも。政治家などと同様に絶対『不老延命措置』を受ける義務、あるいは権利を与えられ、永らく科学に粉骨砕身で邁進せよと生かされる科学者に無期限の謹慎は果たして処分になるのかと問われれば、わからない。
 この現代、一般人でも二十代の姿で八十九十を越えているなんて、腐る程いる。学人だってヨシキさんだって、年齢で言えばとっくに半世紀は生きているんじゃないだろうか。
 ただ、ずっと世俗から隔離され、研究や開発だけの単調な日々の重ね重ねが、精神の成熟をより遅くしていることは否めないだろう。これはもしかすると、現代を長く生きる皆が抱える問題なのかもしれないけど。

 北極圏の、研究設備が在る住居も取り上げられ、僕たちは学人が国籍を持つ国へ引っ越すことになった。
 あの、爆破された『ドール』の研究施設が在る国に。

「気軽に、ヨシキさんとこへは行けなくなりましたね」
 北極圏に在る『科学総会』と同じく、事実上は宗教にも特定の国にも属さない『地球総合霊園』は北極から延びる軌道エレベータを上り、天辺のポートから船に乗って行かなくちゃならない。
 なので、前は好きに行き来出来たあそこにも、一つ行程を挟まなきゃ行けなくなった訳だ。
「別に良いよ。よっぴぃだって、いちいち来てほしくないでしょう。暇じゃないんだろうし」
『地球総合霊園』は、人が埋葬される先の、選択肢の一つでしかない。と言っても人は死ぬ。たとえ若いままで寿命を延ばし、子供が無いからとクローンに記憶を移して、存在を存続させても。粗方荷物の整理が終わった学人は、僕の淹れた珈琲で一休みしていた。

 僕たちの新しい家からは、以前『ドール』の研究施設が在った場所が見える。昔は五感情報妨害技術を使ってまで隠されていた場所は、『ドール』の暴走で吹っ飛んだせいで明るみになり、今は機関そのものが引っ越したらしく跡形も無い。
 だけど学人は、ここに居を構えた。

「『ドール』の中には、」
「はい」
「暴走せず、研究者たちを守ろうとしたんじゃないかって痕跡を残した個体も、何体か在ったらしいよ。……もう『マスター登録』がされてたのかな」
『ドール』は元来、自発的に人間へ危害を加えることは無いと言う。
 けれどそれを覆せるのが、『マスター登録』だった。
『ドール』は『マスター登録』されると登録された人間を第一に考えるようになる。ゆえに主人に害が及ぶとなれば、人を殺せるのだ。
 と、言っても刷り込まれた強い倫理観と論理的思考は、容易く人殺しさせたりしない。起動前に世間で常識、とされる知識も植え込まれていて、犯罪への加担は逆にマスターを止めるだろう。
 ……でも。
「ガーディはどうなったのかな。なぁ、甲斐?」
 例外は在るし、やりようも在る。でなきゃ代理戦争に投入される計画なんて、考案されないだろう。
 人間を直接狙わないなら、その攻撃で人が死ぬとしても可能だ。今回の件みたいに。

「……。続報は在りませんし、どうでしょうね」
「光熱水のほう、生活のライフラインを司る『マザー』の電脳は狙われてないしねぇ。さすが、“人間至上主義”だけは在る」
「“自然至上主義主者(ナチュラリスト)”とは違うんですか」
「違うよ。だったら真っ先に『マザー』を狙うでしょ。『ドール』と同じ規格の有機電脳を使っているんだから」
 現代の生活を支えるライフラインは、ハッキングなどのテロ行為を防ぐため普通のインターネットなどで使われる電波と異なり、人の脳波に質を限り無く近付けた電波を使って運用されている。統括機械は主要が一つとサブが幾つかで通称『マザー』。ガーディが『ドール』を狂わせられるなら、こっちのライフラインも同じこと。
「しっかし“ライフライン”と付くものを牛耳るのに、『マザー』と『ドール』、同じものを使うのはどうなんだろうねぇ。ああ、けど、」
 学人が言葉を切った。
「今回のことで、影響を受けなかった『ドール』の解析が進めば、もっと強固な有機電脳が『マザー』に採用される、か……。
 ────まさか、……」
 揶揄する調子で、カップを回して話していた学人の口と手が止まった。目を見開く学人を眺めて、僕も同じことに思い至っていた。

 まさか。
 今回のことは、ライフラインに従事している電脳のセキュリティを試すためのテストに利用されたんじゃ────だから学人の開発も見逃された?
 本当に『科学総会』は何も知らなかったんだろうか。たかがテロリスト如きの所業を見過ごしたのか。
 僕は学人を見る。学人も、僕の視線に目線を上げた。
「まぁ……、今となっては知る由も無いけどね」
 学人が苦笑する。僕は首を傾げた。学人程の人間なら、果てに追放されようと、伝手は在りそうなものだけど。
「監視の目が在るんじゃないかなぁ、きっとね」
 カップを持つ手とは反対の手に在る携帯端末を、学人は掲げた。学人のゆるい笑いに、ああ、と僕も得心が行った。
 あれだけの騒ぎを起こしたのだ。完全放免とは、行かないんだろう。

「僕は、僕の出来ることをするだけだよ」
 今、学人はアドバイザーの領域内の権限だけで、ある開発に着手していた。
“暴走した『ドール』を停止させるコード”
 暴走させられるなら、止めることも可能だろうと、ガーディの製作記録や音声データを各国の『ドール』研究施設に向けて共有ソースとして公開している。
 今回の件で有機電脳の堅牢性が覆された訳で、各研究施設は蟻の巣を突付いたような大騒ぎだ。
 内々で処分された学人の事情は秘匿とされてしまっているので、名目は実験したことが在る科学者からの提供となっているけれど、みんな真偽はともかく藁にも縋りたいのだろう。
 学人のところへは引っ切り無しに、いろんな国から質疑が飛んで来る。引っ越し直前まで携帯端末で応対していたくらい間が無い。

 今だって。
「はい────“ああ、”」
 お気付きだろうか。途中から言語が変わっているのだ。
 もう犬の僕はどこの国の言語なのか判別出来ない。似ているけど差異が在ったり、全然違ったり。聞いただけで二十は越えている気がする。
 何でわかるんだ。喋られるんだ。学人に訊いたら「え、英語をベースにヨーロッパ圏を覚えて行けば何とかなるよ。主要は基本英語だし。あ、あとロシア語ね」……わかんない、わかんないよ、学人。
 忙しそうな飼い主の珈琲を、僕はちらりと盗み見た。うん、これは完璧冷めたな。
 僕は精力的に自身が片したキッチンで、珈琲を淹れる準備をする。

 開いた段ボールを置いたソファの背に腰掛けて、何処かの国語で話す学人。僕は、ふっ、と息で笑う。

 絶対、学人のことはゆるされないだろう。
 どこまでも償いにはならない。こんなこと、学人もわかっている。
 わかっているから、ここに越して来たんだ。自己満足と罵られようと。

 学人は罪と向き合いながら、贖うと決めた。
 僕も、そばにいたいと思う。
 時に転んだら差し伸べられる手を、起こしてあげられる手を、慰められる手を、得られたのだから。
 この四肢をフルに使って、学人と言う子供染みた飼い主の隣で、彼のために尽くそうと思う。
 まずは、手始めに。
「……」
 僕は無言で学人に新しい珈琲を淹れたカップを差し出した。
 学人も端末の向こうと議論を交わしつつ、冷めた残りを律義に飲み干して、空のカップを僕に渡すと新たなあたたかい珈琲を受け取った。

 珈琲も淹れたし、忙しい主に代わって、片付けでもしようか。
 僕は学人の傍らに在る段ボールを手に取った。



   【 了 】

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