窓から見える景色が飛ぶように過ぎて行く新幹線じゃ、外の空気なんて感じることができるはずない。
 それなのに、遥か遠くに見覚えのある風景が見え始めたら、その途端、海の匂いがしたような気がした。
 
 少し古びた懐かしい駅のホームでは、母が私を待っていた。
 新幹線から降りてきた私の姿を見るなり、
「ちょっと痩せたんじゃないの?」
 と不満そうに眉を寄せる。
 
(これでもニヶ月前よりは、まともに食事するようになったし……かなり太ったんだけどな……)
 私は心の中でだけ苦笑して、
「お母さんは、またちょっと太ったみたい」
 と憎まれ口を叩いた。
 
 母は笑いながら、
「失礼ね」
 ポンと私の背中を押す。
 
 黙ったままじっと見つめる私と視線があうと、次の瞬間、豪快な笑顔がはじけた。
(よかった……いつもとなんにも変わらないや……)
 
 それが嬉しかった。
 最後に会ったのは半年以上も前だから、本当は不安でたまらなかった。
 これまでどおりに母が出迎えてくれて、心からホッとした。
 
 母と半年も会わないなんて、昔だったらとても考えられないことだった。
 お母さん子だった私は、小さな頃はいつも母のうしろばかりついてまわっていた。
 大きくって優しい、世界中で一番大好きな背中。
 
 大学に進学して一人暮らしを始めてからも、休みになるとすぐに実家に帰っていたし、母とはしょっ中電話をしていた。
 そんな私が突然連絡もつかず、帰ってもこなくなって、母はいったいどんな気持ちでいたんだろう。
 どんなに心配したんだろう。
 
 今度会ったら真っ先に怒られるって、そう覚悟して帰ってきたのに、私の顔をよくよく眺めた母は、
「うん、良かった。いい顔してるね……」
 なんて、すっかり安心したように頷いてしまう。
 
 その言葉に胸が痛んだ。
 たぶんニヶ月前の傷だらけの私じゃ、こんなふうに笑ってはもらえなかった。
 きっと心配させてしまっただろう。
 
 ううん。
 そもそもこんなに普通に、ここに帰ってくることができなかったかもしれない。
 ――ひょっとするともう二度と。
 
 そう考えると、また胸が熱くなった。
 
 私には、まだまだ海君に感謝しないといけないことがたくさんあるはずだ。
 あの夜、彼が私の前に現れて、太陽の下に引っ張り出してくれて、闇の中に飲みこまれてしまいそうだった私の世界は一変した。
 こんな私をあんなに大切にしてくれて、いつでも傍にいてくれたから、今の私がある。
 
(ありがとう……)
 何度心の中で感謝しても、海君には届くはずもないのに、思わずにいられない。
 
「……真実」
 母と並んで駐車場まで歩いて行ったら、懐かしい我が家の車の中に、父の姿もあった。
 
「お父さん!」
 それ以上はなんて言ったらいいのだか、まるで言葉が出てこない。
 
(今日って平日だよね……仕事は?)
 
 父は表情を変えないまま、照れたようにそっと右手を上げる。
 おかえりと言ってくれているようなその仕草が嬉しくって、目頭が熱くなった。
 
 こんなに家族に愛されて、大切にしてもらっていることを、私はもう二度と忘れてはいけないと、心から思った。


 
 新幹線の駅から私の家がある町までは、車で三十分の距離だ。
 荷物を父が積みこんでくれている間に、私はバスの運行表を確認しておく。
 ――一週間後、海君が迎えにきてくれた時のために。
 
(本当はお父さんに、こんなふうに駅まで送ってきてもらってもいいんだけど……)
 助手席に乗りこんでシートベルトを締めながら、運転席の父にそっと目を向ける。
(海君のこと、なんて説明したらいいのかわかんないしなあ……)
 苦笑する私を乗せて、父の車はゆっくりとスタートする。
 生真面目な様子でハンドルを握る父の横顔を、私は何も言わず、しばらく眺めていた。
 
 知らない男が娘を迎えに来た。
 それも見るからに年下の男。
 それなのに娘はこの上なく嬉しそうな顔で、さっさと行ってしまう。
 
(そんなことになったら、お父さんはなんて言うんだろう……どうするんだろう……?)
 面白半分に想像して笑うことができるのは、それがきっと現実にはならないとわかっているからだ。
 私は父の顔から目を離して、進行方向に向き直った。
 
(この人が私の大好きな人ですなんて……紹介もできないよ。だって私は海君の本当の名前だって知らないもん……)
 自分で考えておいて、ズキリと胸が痛んだ。
 
 最近妙にこういうことが多くなった。
 さすがにそろそろ限界なのかもしれない。
 
『何も知らなくていい。傍にいるだけでいい』
 という建前と、海君を想う私の気持ちの大きさが、とうの昔に釣りあわなくなってきている。
 
(今さら他の名前で呼ぼうにも……私にとって彼は「海君」以外の誰でもないけど……)
 苦笑交じりにそう思った時、ずっと遠くに鈍い色に輝く水面が見えた。
 
(海だ!)
 そう思っただけで、心が弾んで走り出したいくらいの気持ちになれるのが、今は嬉しい。
 
 小さな頃から愛していた風景は、やっぱりどんな時でも、私に安らぎと喜びの気持ちを与えてくれる。
 不安定な心理の時だからこそ、もう一度この景色を目にすることができて、本当によかったと思った。
 
「ねぇお父さん……私、いつものところから歩いて帰ってもいいかな?」
 私の問いかけに、横顔の父は黙ったまま頷く。
 
 代わりに母が、呆れたように笑った。
「きっとそう言うだろうと思った! あんただけよ。あの坂を歩いて家に帰りたいなんて言うのは……!」
 
「ふふっ、そうだろうね……」
 思わず私も笑ってしまう。
 
 真っ直ぐに前を見つめたままの父の横顔も、微かに笑った気がした。


 
 私の生家は、長い坂を上った丘の上に建っている。
 港のすぐ近くから始まるその坂は、かなり急な傾斜で、二十メートル近くも続くかなりきつい坂だ。
 そこを上った先に家があるなんて、下からでは到底見えないくらいの高さ。
 
 上りきって家の前に立つと、そこからは今度は逆に、遥か下方の港全体を見下ろすことができた。
 
『心臓破りの坂』と家族で呼んでいるその坂は、確かに毎日上り下りするには、かなり辛いもので、父も母も二つ年上の兄も、いつも車で往復している。
 だけど、息を切らせて歯を食いしばって上らなければならないその坂が、私は子供の頃から大好きだった。
 
「真実……どうせあんた、あんまり体動かしてないでしょ? 運動不足の体に、あれはきっついわよー」
 母のおどしにも負けず、私はニッコリ笑った。
 
「うん。でもまあ、のんびりと行くよ……」
 父の車はいつの間にか、短い道が複雑に入り組んだ懐かしい港町にさしかかっていた。
 
 坂を登るには、私なりに作ったいくつかのルールがある。
 無理はしないこと。
 邪魔になる荷物は持たないこと。
 それから時々立ち止まって、海を見下ろすこと――。
 
 そうすると、がんばって上ったぶんだけ見える景色がどんどん広がっていって、家に着く頃には、私の大好きな光景が、視界いっぱいに広がることになる。
 その感動と喜びを感じるためなら、またがんばろうといつだって思えるのだった。
 
(もう半年以上もこの風景を見ないで生きていられたなんて……自分が信じられない……!)
 私は坂を三分の二ぐらい上ったところで、やっぱりそこも自分で休憩ポイントと決めている大きな石に腰かけ、もうかなり下になった視界いっぱいの海を眺めた。
 
 傾きかけた夕日に照らされてキラキラと水面が輝いている今の時間は、私の大好きな時間の中の一つだ。
 
 高く低くなる波の動きにあわせて、煌めく水面の様子は、いくら眺めていても飽きることはない。
 夕方になっても衰えることを知らない真夏の太陽は、ジリジリと西の空から照りつけ、噴きだした汗は額からも背中からも流れ落ちて、少しぐらい休憩してもとても止まりそうにはない。
 でも今はそんなことさえ、なんだか懐かしかった。
 
 何百回。
 いや何千回。
 この坂を登っただろう。
 そして、この大好きな海を眺めただろう。
 
 いつかこの風景を一緒に見てほしい人が現われる。
 そんな女の子らしい感傷に、胸をときめかせた日々。
 今ここに、その大好きな人はいないけれど――。
 
(いつか本当に……ここに一緒に来れたらいいのに……)
 大きな石に腰掛け、空を仰ぎながらそう思った。
 思うだけで、涙が溢れた。
 
 最近の私はどうも涙もろくていけない。
(なんでこんなに切ないんだろう……? 海君のことを思うと……どうしてこんなに胸が痛いんだろう……?)
 
 私はもう一度、海へと視線を戻す。
 涙で霞む海が、夕日を受けて煌めく。
 深い色、優しい色。
 いろんな色が混じりあって、溶けあって、他にはない色を作っている。
 その複雑で、どうにも私を魅了せずにはいられない色は、やっぱり私の大好きな海君の、あの瞳の色に似ていると思った。


 
「お前、ちゃんと勉強してるのか? 遊んでばっかりいるんじゃないだろうな……」
 あまりにも私に何も聞かない父と母の分を補うかのように、夕方仕事から帰ってきた兄は、矢継ぎ早にいろんな質問をくり返した。
 
 この春に大学を卒業して地元の企業に就職した兄は、この港町から毎日一時間をかけて、少し大きな町へと通勤している。
 
「入社したばっかりだからとか言って、いつも帰りは夜中なのに……真実が帰ってきたって教えたら、飛んで帰ってくるんだから……!」
 からかうように笑う母に、兄はしかめっ面をしてみせる。
 
「うるさいな! てっきりまた、愛梨ちゃんを連れてきたと思ったんだよ! 真実一人だったら、こんなに急いで帰ってくるんじゃなかった……」
 照れたようにふて腐れる兄に、私は抗議の声を上げた。
 
「ひっどい! お兄ちゃん」
 そんな私たちを、母がまた豪快に笑いながら見た。
 
 ひさしぶりに家族四人で囲んだ夕食の食卓。
 黙ったまま私の向かいの席に座っている父も、本当は嬉しそうなのが雰囲気だけでわかる。
 
 十八年間、私を包み、育ててくれたいつもの環境に、何事もなくスーッと戻ってこれたことが、まるで夢のようだった。
 
 今思い返してみれば、ニヶ月前までのどうしようもない私も、実はそんなに最悪の状態ではなかったのかもしれない。
 自分さえしっかりとして、ちゃんと前を向いていれば、すぐに元の道に修正できた程度のまちがいだったのかもしれない。
 
 でも私は弱虫で、どうしようもない甘ったれで、いろんなことに絶望して、何か行動を起こす前から、全てを諦めかけていた。
(全部自分が蒔いた種なんだよ……きっと幸哉のせいだけじゃない……!)
 
 それをこれからも忘れてはいけない。
 決してもう二度と、あんな状態には落ちこまないという決意をこめて、心のどこかに残しておかなければいけない。
 
 私は弱いから。
 すぐにまちがいを起こすから。
 誰よりも強くしっかりと、大切なことを心に刻みこむしかないんだ。
 
 私はそのためにここに帰ってきた。
 自分がどんなに愛されているか。
 大切にされているかを、決して忘れないようにするために帰ってきた。
 
 だからどんなに憎まれ口を利いたって、小さな頃からずっと私を守ってくれていた兄に、本当は感謝の気持ちでいっぱいだ。
 だけど――そうなんだけど――。
 
「ちょっとお兄ちゃん! それ私のぶんでしょ! いい年して妹のおかず取らないでよ!」
「うるせっ! 無理やり仕事切り上げて帰ってきてやったんだから、少しくらいサービスしろ!」
「別に頼んでないし……それにこれって、私のためにお母さんが作ってくれたのに……!」
「ふふーん。悔しかったらもっとちょくちょく食べに帰ってくるんだな! ……あっ! だけど、一人で来んな! 今度帰ってくる時は、ちゃんと愛梨ちゃんも一緒だぞ? 忘れんな!」
「お兄ちゃん!」
 
 小さな頃からちっとも変わらない私たちのやり取りを、母はハハハッと笑いながら見ている。
 父は「いつものことよ」と眉一つ動かさない。
 そんな当たり前のことが、たまらなく嬉しかった。
 兄の意地悪も、憎まれ口も、あまりにも以前と変わってなくって、本当は泣きたいくらいに懐かしかった。
 だから――。
 
「……真実?」
 兄が思わず、箸でつかんでいたから揚げを落としてしまうくらい唐突に、私の涙は零れた。
 
「なっ、なんだよ! そんなに食べたかったのかよ……わかった返す! 返すよほらっ!」
 私の涙にからっきし弱くて、すぐに降参してしまう癖まで、兄は小さな頃から全然変わっていない。
 
「なんなのよあんたたちは……いい年して、おかずの取りあいで喧嘩なんかして……!」
 さっきまで笑って見ていたくせに、どちらかが分が悪くなった途端、突然母親らしく仲裁を始める母も、全く昔のままだ。
 
「……隆志」
 いつだって本当の本当は私の味方の父は、迫力のある声で、ただ、兄の名前だけを呼んで、
「ちえっ」
 兄が降参して、喧嘩は終わり。
 
 いつもと同じだ。
 いつだって一緒だ。
 そう思えば思うほど、私の涙は止まらなかった。
 
「おい。真実、泣くなよ。俺が叱られるだろ」
 まるで小学生のように途方にくれて、隣に座る私の頭に手を載せてくる兄は、いくつになっても、どんなに離れて暮らしていても、やっぱりいつだって私の『お兄ちゃん』だった。
 いつもうしろをくっついてくる妹を、口では文句言いながらもきっと待っていてくれた 『お兄ちゃん』だった。
 
「うん。うん……」
 泣きながら頷く私に、
「話ならいくらだって、俺があとで聞いてやるから……とりあえず飯食ってからにしろ……」
 本当はいつだって優しいその声で、なだめるように、あやすように、私の背中を撫でてくれた。


 
「だいたいなあ……お前はあまりにも真面目に考え過ぎなんだよ……単位の一つや二つ落としたって、別に……」
「三つ」
「おおっ、三つか……まあ、来年がんばりゃいいだろ……俺だって落としまくりだったけど、こうしてちゃんと卒業できたわけだし……!」
 
 何を偉そうに自慢しているんだか――。
 兄は私の部屋の勉強机の椅子に、反対向きに腰掛けて、私の悩みを聞いてくれている。
 
 夕食が終わってすぐ、自分の部屋に引きこんだ私に、
「何があったんだ? 兄ちゃんに話してみろ」
 と兄が迫り、
 私は苦し紛れに、
「ちょっと今回の成績が悪かったから……」
 と嘘をついた。
 
 それは実際、嘘でもなかったが、三ヶ月も大学をサボっていたわりには、けっこういい成績だったと自分の中では納得していたので、本当は悩んでなどいなかった。
 しかし――。
 
『妹の相談に乗る』という使命に燃え、真剣に語り出してしまった兄を、どうやって止めればいいのだろう。
 兄は自分の失敗談まで引っ張り出して、私を励まそうとしてくれる。
 
「いいか? ようは単位さえ取れれば、お前の欲しがってる司書の資格は取れるわけだから……ここは授業内容よりも、どれだけ楽に単位が取れるかを重視して、選択科目を選んでだな……」
 自分の四年間の大学生活で培った知識と処世術で、困っている妹の窮地をなんとか救ってやろうと、もう必死だ。
 
(お兄ちゃんごめん……本当は私、そんなに困ってないんだよ……)
 心の中で手をあわせながら、私は素直に兄のアドバイスを受け続けた。
 
「とにかく! まあ、あんまり気にすんな。父さんだって母さんだって、お前の成績に別に期待なんかしてないんだから……!」
 励ましているんだか、けなしているんだかよくわからないセリフを最後に残して、兄は私の部屋を出て行った。
 
 それと入れ替わるようにして、今度はしばらくして母がやって来た。
「ねえ真実……困ったことがあったら、すぐに言ってくるんだよ……?」
 私のベッドの上に並んで腰をおろしながら、母はいつもの豪快な感じとはうって変わった様子で、しんみりと呟いた。
 
「真実はすぐに我慢するから……嫌なことがあったって、無理して笑って……抱えきれなくなるまで誰にも言わずに我慢するから……いつか破裂しちゃうんじゃないかって、心配だよ……」
 
 まさか母が、私のことをそんなふうに思ってくれているとは思わなかった。
 思わずまた涙が浮かんで来てしまう。
 
「どうしようもなくなる前に言うんだよ……? 私だって、お父さんだって、お兄ちゃんだって……みんなあんたの味方なんだから……」
 
 うん。
 うん。
 と私は何度も頷いた。
 
 誰にも言えなくて、一人で抱えこんで、私が悩んでいた時のことを、母はまるで知っていたかのようだった。
 何もかもお見とおしで、それでも私を叱ったり責めたりしないで、全て包みこんでくれるかのようだった。
 
「お母さん……」
 抱きつく私を、あたりまえのように抱きしめてくれる。
 
 今では私より背も小さくなって、抱かれている私のほうが、大きくなってしまったけれど、
(お母さんはやっぱりお母さんなんだ……)
 優しさをかみ締めるように、私はそっとそう思った。
 
 物心つく前から私にとって一番安心できる場所だった母の腕の中は、大好きな海君の腕の中と同じように、やっぱり私にとってはどこよりも安らげる、居心地のいい場所だった。