中学時代の俺は、どちらかといえばモテないほうではなかったと思う。
 人づてに聞いたり、面と向かって告白されたこともある。
 それら全てが嬉しくなかったといったら嘘になるかもしれない。
 でもそんな時、決まって真っ先に頭に浮かぶのは、いつも、
(困ったな)
 という思いだった。
 
 そんな自分が本当に嫌だった。
 
 相手の子に俺の病気を説明することや、同情されること。
 病気と向きあう気持ちを勝手に想像されること。
 それらをとても煩わしく感じた時期もあって、ずいぶん思いやりを欠いた対応もした。
 ひとみちゃんと俺の仲を誤解している子なんかには、わざとその誤解を解かないままにしておいたこともある。
 
 でも、それがどんなに失礼な態度だったとしても、その時は相手を傷つけたとしても、俺の先の見えている人生につきあわせるよりは、いいだろうと思ったのだ。
(どんなに『好きだ』って言われたって――俺自身がそう思ったって――それは結局終わってしまう。だって俺はそのうちいなくなるんだから。それは決して変わらない事実なんだから。だったら最初っから何も始まらないほうがいい……もし万が一、相手の子がずっと俺を忘れずにいてくれたとしても……それはその子にとっては不幸でしかない……)
 
 誰も不幸にしたくなかった。
 自分自身も未練なんて持ちたくなかった。
 
 だから俺は恋愛ごとには、あえて意識的に背中を向けて生きてきた。
 夜の町にフラッと遊びに出れば、その日短い時間だけ一緒に遊ぶ相手は、いくらだって見つかったし、そうでなくても別に困らなかった。
 
 本気の恋なんてする気もなかったし、自分がそんなものをすることなんて想像もつかなかった。
 なのに―。

「じゃあ、明日迎えにくるよ」
 彼女と約束して、アパートの前から歩き出した瞬間から、どうにも足が地に着かないのだ。
 見送ってくれる視線を痛いくらいに背中に感じながら、どうにか夜の街に一歩を踏み出したけれど、どこをどうやって家に帰り着いたのかも、覚えがなかった。
 たぶん標識を頼りに地道に大通りを歩いて、なんとか家まで帰って来たんだろうけど、まるで覚えていない。
 
 寒くもなく暑くもない真夜中の街を、無重力状態のようにフラフラと歩きながら、俺の頭の中では、長い髪や白い小さな横顔や、黒目がちの大きな目なんかが、くり返し思い出された。
 永遠のように彼女の面影だけがまわり続けていた。



「まったくどこ行ってたんだよー海里ー」
 予想どおり、兄貴はとっくに家に帰っていて、フラフラと玄関に入ってきた俺を、大袈裟なくらいに抱きしめて出迎えてくれた。
「やめろよ、気持ち悪い!」
 と、いつもの俺だったら力任せに腕をふり払うところで、兄貴ももちろんそんな反応を期待していたんだと思う。
 
 だけど、
「ああ、うん。ちょっと買いのもの」
 そう言って、右手に下げていたビニール袋をさし出した自分に、兄貴だけじゃなくて俺自身もビックリした。
 
(いつの間に買ったんだ、これ?)
 まったく覚えがない。
 
「なんだー、お兄ちゃんのためにわざわざ晩飯買ってきてくれたのかー!」
 感動して目頭を押さえるフリをしながら、兄貴がテーブルの上に並べたその袋の中身は、コンビニの弁当だった。
 
 ご丁寧に、俺の好物と兄貴の好物が揃っているところを見ると、確かに俺自身が買ってきたのにまちがいない。
(全然覚えてないぞ……)
 そんな自分に少し冷や汗を感じながら、俺は兄貴と一緒に、あまりにも遅い夕食のテーブルについた。
 リビングの壁に掛けられた銀色の仕掛け時計の針は、とっくに十二時をまわっている。
 
(約束した『明日』に、もうなっちゃってるじゃないか……)
 そう思っただけで、キリッと胸が痛んだ。
 彼女の長い髪から香った甘い香りが、不意に鼻の奥に甦る。
 思わず左胸を押さえて俯いた俺に、
「どうした? 大丈夫か?」
 すぐさま兄貴は問いかけた。
 
「大丈夫だよ。なんでもないよ……」
 短く淡々と返す俺を、兄貴は黙ったまま静かに見つめている。
 
 ほどよく甘やかしてくれ、ほどよく自由も与えてくれる。
 決して押しつけがましくはなく、だからといって必要な注意は怠らない。
 
 兄貴の俺に対する態度はいつも百点満点だ。
 五歳という年の差以上に、俺と兄貴との間には大きな差があるような気がしてならない。
 
 もし俺に病気というハンデがなかったとしたら、この差が縮まっていただろうか。
 はっきりいって自信がない。
 兄貴がもし自他共に認める重度のブラコンでなかったなら、俺はとっくにひねくれていたに違いないだろう。
 
「じゃあ……晩飯、食おうか?」
 しばらく間を置いてから、ニッコリと仕切り直す兄貴に、俺は素直に頷いた。
「うん」
「いただきまーす」
 陽気な声につられて、
「いただきます」
 思わず俺まで小さく笑ってしまう。
 
 どんな時でも、すぐ側で優しく見守ってくれている人がいるから、俺はこんな運命の中でだって笑って生きていられる。
(感謝を忘れちゃいけない……)
 今夜も再確認せずにはいられなかった。
 

 夜というよりは明け方のほうが近いような時間になって、俺はようやく自分のベッドに入ったが、眠れる気はしなかった。
(約束したんだから、早めに寝ないと)
 思いがけなくできてしまった明日の予定を気にして、眠りの世界に入ろうと努力するのだが、なかなかうまくいかない。
 
 どんなにごまかそうとしても、意識の奥に、もっと重苦しい感情を押しこんでいたことを、否応なく思い出した。
 しばらくの間――そう、彼女と出会ってからほんのしばらくの間は忘れていたが、こうして自分の部屋に帰って、ハンガーにかけられた制服を目にした途端に、俺の心はまた鉛のようにどっしりと沈みこんだ。
 
 父さんの書斎にあった石井先生の手紙が、意識の底にひっかかっている。
『容態は今までになく悪く』
『ひょっとしたら』
『覚悟を』
 数々の言葉は打ち消そうとしても、あとからあとから頭に浮かんでくる。
 
(ちきしょう……!)
 薄い肌布団を頭までスッポリと被って、体を丸めた。
 自分で自分の体を抱きしめるようにして膝に額をつけた。
(俺にはもう本当に時間がない……!)
 あらかじめ知ることができのは幸運だった――なんてのは、ただの詭弁だ。
 救いようのない自分の気持ちをごまかしているだけだ。
 
 だけどそうでもしないと、頭がおかしくなってしまいそうなのも本当だった。
 なんだかよくわからない感情に、自分の何もかもが押しつぶされてしまいそうだった。
 
 窓の外は数時間前よりはあきらかに静かになっており、机の上に置かれた目覚し時計のカチコチという音だけが、部屋中にやけに大きく響く。
 その音が何かを急き立てているように感じる。
 刻一刻と近づいてくる、終わりの瞬間の足音のように聞こえる。
(ま、待って! ……まだちょっと待ってくれ!)
 
 我知らず左胸をぎゅっと押さえて心の中で叫んだ瞬間、固く閉じた瞼の裏に、思いがけず彼女の笑顔が浮かんだ。
 
『じゃあ行こうか……一緒にピクニック』
 俺のバカバカしい提案に、笑って頷いてくれた顔が浮かんだ。
 
 突発的な発作に良く似た、けれどあきらかに違う痛みが、俺のヤワな心臓を襲う。
 泣きたいくらいの気持ちで、俺はひとり苦笑した。
 
(あーあ。なんにも未練なんかないつもりだったのになぁ……)
 絶望と希望が、喜びと悲しみが、絶妙に入り混じった感情の中、ただ儚げな笑顔だけが頭に浮かぶ。
 
(俺って本当に馬鹿だなぁ……)
 カチコチと時計の音が無機質に時を刻む。
 その音はもはや、単なる時計の音にしか聞こえなかった。
 
 自分の感情を自覚したことによって、胸につかえていたものがほんの少し取れた気がした。
 ようやくウトウトと、まどろみの気配が訪れ始める。
 俺はホッと息を吐きながら、もう一度彼女の面影を瞼の裏に思い浮かべ、優しい――この上なく優しい気持ちで眠りについた。


 
 この夜彼女と出会えたことは、俺にとっては本当に奇跡みたいな幸運で、あとになって何度思い出してみても、悔やむことではなく、ただ神に感謝せずにはいられなかった。
 
 一番どん底の気持ちの夜に、今までに持ったことのなかった感情をもたらしてくれた人。
 
 俺は彼女との出会いで救われたように感じたし、事実、あの夜から俺の人生は百八十度、方向を変えた。
 それを辛い現実からの逃避だったとは思いたくない。
 俺のどうしようもない悪あがきだったとも――。
 
 未来に希望を持つことを無駄だとしか思えない俺には、とうてい叶えられそうにはない遠い『将来の約束』なんかじゃなく、彼女と交わした、いたって現実的な『明日の約束』が嬉しかった。
 
『じゃあ、明日迎えに来るよ』
 小さな約束に、見惚れるほどの笑顔で頷いてくれた人に、どうしようもなく惹かれていた。
 
 その感情をもっと正確な言葉で言い表すことも、彼女に伝えることも、俺にはできない。
 限られた短い人生の中では、きっとやってはいけないことだと思っている。
 
 けれど生涯でたった一つ忘れられない大切な残像のように、彼女の笑顔は俺の心に焼きついていた。
 たまらなく焼きついていた。