予想どおり、俺はもう一度眠りから覚めることができた。
 おそらくはこれが最後の、本当に最後の目覚め。
 
 いつものようにベッドの横に朝食が運ばれてくる前に、ひとみちゃんはとっくに俺の病室に到着していた。
 
「目が覚めたの……? 海里」
 震える声で、何かに怯えたように問いかけられるから俺は苦笑する。
 
(ゴメン……目が覚めるのか覚めないのかなんて、心配させてしまうのはきっと今日でもう終わりだから……)
 
 決して口に出して言うことはできない言葉を心の中でだけ唱えて、俺はそっと身を起こした。
 
 まるで人間が生涯に発することができる言葉の数が、最初から決まってでもいたかのように、今日はあまり話せない気がする。
 不思議とそんな気がする。
 
 だから俺は本当に伝えなければならないことを吟味して、言葉にしようと朝から決意を固めた。
 
 天気は良かった。
 もう十月だというのに、窓から射しこんでくる陽光は、まだ夏を感じさせるほどに強いままだった。
 
 文化祭に展示する絵を完成させて以来、もう座ることもなくなった窓際の椅子には、俺のスケッチブックが置いてある。
 
 とっくに全てのページを埋め尽くして、しばらくは手にすることもなかったそのスケッチブックと、すっかり手に馴染んだ短い鉛筆を、俺はひとみちゃんに取ってもらった。
 
「何? まだなにか描くの?」
 きっと俺の体調を気遣ってだろう、厳しい口調で問い詰めてくるひとみちゃんに、俺は曖昧に首を横に振る。
 
「うん……でも絵じゃないよ……ちょっと言葉を入れておきたいんだ」
「ふーん?」
 
 ひとみちゃんが訝しげに首を捻りながら背を向けてしまってから、俺はそのスケッチブックの片隅に、ゆっくりと鉛筆を滑らせ始めた。
 
『真実さん、元気? 笑ってる?』
『忘れてない? 俺はいつだってすぐ傍で見てるよ』
『ほら、笑って笑って。真実さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しいんだから!』
『大好きだよ。いつまでもずっと大好き!』
 
 何度も何度もくり返し伝えたくて、いつまでも真実さんに忘れて欲しくない言葉たちを書きこむ。
 
『負けるながんばれ! 俺がついてる!』
『寂しくなったら空を見上げて、俺はいつも見てるから』
『真実さん笑って』
『いつも笑って!』
 
 困った時、悲しいことがあった時、傍にいて抱きしめることはもうできないから、なんとか彼女の支えになるような言葉を必死で書きこむ。
 
 二人で一緒に行った動物園で。
 手を繋いで歩いた川原で。
 並んで見た夕焼けの中で。
 はしゃぎまわったあの海で。
 
 俺に向けられた真実さんのいろんな表情の近くに、一つ一つ言葉を入れていった。
 
 満面の笑顔も、ちょっと拗ねたような上目遣いの表情も、照れたように俺を見つめる想いに溢れた瞳も、みんなみんな俺にとっては宝物だ。
 
 だから一緒に連れていく。
 記憶の中の真実さんだけは俺と一緒に遠いところに連れていってしまおう。
 
 本物の彼女はここに留まって、これからの生を生きていかなければならない。
 彼女を愛する人たちに囲まれて、まだこれからの長い人生を歩んでいかなければならない。
 
 その胸の中で、生き続けることができるのならば、俺はそれでいい。
 ふとした折に俺を思い出すことで、彼女が泣き顔じゃなく笑顔になれるんなら、ただそれだけでいい。
 
 そのためだったら俺はなんだってやる。
 ――なんだってやってみせる。
 
 いつか心に誓った想いと同じように、強く強く真実さんの幸せだけを願いながら、俺は短い言葉をいくつもいくつも書き連ねた。
 
「これを真実さんに渡してほしい。いつかきっと俺を探し出して、ひとみちゃんのところに来てくれるはずだから……」
 
 でき上がった『最後のプレゼント』をさし出しながらそう願った俺に、ひとみちゃんは予想どおり、それはそれは嫌そうな顔をした。
 
「なんで私が!」
 おおいに憤慨して叫ぶから、もう全然そんなことできるとは思っていなかったのに、思わず吹き出してしまった。
 
「お願い……頼むよ……これが本当に最後のお願いだからさ……」
「最後、最後って……! あんたにはいったい何回最後があるのよ!」
「あっ……やっぱり気がついた?」
「気がつかないわけないでしょう! 私をバカにしてんの?」
 
 俺は真顔で首を横に振った。
「ううん。信頼してるし頼りにしてるんだよ」
 
 ボッと火がついたように赤くなって俯くひとみちゃんに、二ッコリ笑ってスケッチブックをさし出す俺は底意地が悪い。
 とことん悪い。
 
「お願いします」
「……わかったわよ」
 
 プイッと顔を逸らしたままひとみちゃんが両手で受け取ってくれたから、俺は心から安心した。
 言葉のとおり、本当に彼女を深く信頼していた。


 
 やるべきことをやり終えてベッドの上に座っていると、激しい睡魔に襲われてくる。
 
 毎日ぐっすりと眠っているし、昨夜だって早々に寝て、ほんのついさっき起きたばっかりなのに、そんなに体が休養を必要としているんだろうか。
 
(まるでもういいんじゃないかって……もういいだろって急かされてるみたいだ……)
 
 根が天邪鬼な俺は、それが巨大な意志であればあるだけ、
(思い切って逆らってみようか……?)
 なんて悪戯心がわいてくる。
 
 でもこれまでも散々に自分勝手を押し通してきたんだから、最後ぐらいは素直に従おうと思う。
 
 自分が運命を素直に受け入れることで、真実さんや俺たちの間にできた新しい命に、いっそうの幸せを願おうというんだから、実は図々しいことこの上ないのだが――。
 
(だって……一目見ることさえできずに逝くんだから……それぐらいは大目に見てよね……)
 
 恩着せがましく、恨みがましく、俺は病室の窓越しに空を見上げる。
 
(頭を撫でてあげることも、抱きしめてあげることもできないんだから……)
 
 そう思った時、ふいに、一人の少年の顔が脳裏に浮かんだ。
 
 大きなボールを両手に持って、懐っこく俺を見上げてくる黒目がちの大きな瞳。
 
 ――いったいどこで出会った誰だろう。
 
 ゆっくりと思考をめぐらすまでもなく、答えはすぐに自分の中から出てきた。
 
「そうか……! そうだったんだ……!」
 驚きと感動で、全身が震えるような思いで呟いた。
 
 俺が大きな発作で生死の境をさまよった時、夢の中で出会った少年。
 今の今まですっかり忘れていたが、真実さんの秘密の場所で一緒に遊んだあの少年。
 
 ――彼は俺の小さい頃によく似ていて、笑った顔が真実さんそっくりだった。
 
「そうか……そうか……!」
 
 時間を越えて会いに来てくれたんだろうか。
 そして、真実さんとの約束を果たさないまま逝ってしまいそうになっていた俺を、引き止めてくれたんだろうか。
 
 堂々と胸を張って死んでいこうなんて――壮大な決意を込めて見上げていたはずの空が、次第に涙で滲んで見えなくなっていく。
 
(ありがとう……!)
 
 こんなに嬉しい気持ちで、こんなに幸せな気持ちで、最期を迎えられるなんて思ってもいなかった。
 
 だって俺には、やりたいこともまだいっぱいあって。
 思い残すこともたくさんたくさんあって。
 何より離れたくない大切な人がいて――。
 
 それでも子供の頃に思っていた、
「短いけれどいい人生だった」
 なんて言葉は、今のような未練たっぷりの俺だからこそ言えるんだと思う。
 
 真実さんと出会わなければ知ることのなかった、胸の痛みや悲しみや苦しさや辛さ。
 それら全部が、今の俺を形作っている。
 
 二人でいる時に感じた、幸せや優しさや愛しさや決して消えることのない想いが、今の俺の心の全てだ。
 
(全部抱えたまま逝くから……何ひとつ手放さないで、俺は俺のままで逝くから……)
 
 だから感じてほしい。
 君を――君たちを包む全てのものに、一つ一つ俺の想いが宿っている。
 
 これから出会う人。
 これから起こる出来事。
 全てに俺の想いが生きている。
 
『寂しくなったら、空を見上げて。俺はいつも見てるから』
 
 あのスケッチブックの中で真実さんに伝えた言葉どおり。
 俺は見てる。
 いつも見てる。
 
(あの高い空の上から……君たちの未来を……きっと)
 
 ――いつも見てるよ。
 
 
 霞んでゆく空から、見飽きるほどに見続けた病室の窓の風景に目を移し、俺はそっと目を閉じた。
 瞼の裏にはやっぱり真実さんの笑顔が浮かんだ。
 
 ――最後の最後にもやっぱり変わらず、それを思い浮かべられたことが、俺には何よりも嬉しかった。