ベッドの上に起き上がれるようになるまで三日。
ベッドから離れて歩き回れるようになれるまでに、さらに三日かかった。
そんなに寝てばかりもいられないと、勝手に窓際の椅子で絵を仕上げていたら、ひとみちゃんに目を剥いて怒られた。
「何考えてるのよ! 助かったのが奇跡みたいなもんだって、先生にもあんなに言われたでしょ!」
いつものように彼女をからかって、軽口を叩く気持ちにはなれない。
俺を見つめるひとみちゃんの目はあまりにも真剣すぎる。
今回の発作で俺が生死の境をさまよっている間に、どうやらひとみちゃんにも本当のことが伝えられたらしい。
――つまり、俺の命はどっちみちもう長くはないということを。
自分がその事実を知らされていなかったことに泣いて抗議したという話も、だったらなおさら止めるんだったと、俺の自分勝手をこれまで許してきたことを悔やんだという話も、全部あとから兄貴に伝え聞いた。
俺に直接対する時のひとみちゃんの態度は、これまでと何ら変わらない。
でもそのいつもどおりの中に、どれだけ彼女の苦悩が隠されているか――俺にだって想像はできた。
真っ赤な目はいつだって、咎めるように――それ以上にどうしようもなく悲しそうに、俺を見つめる。
「ゴメン……」
その表情を今さらからかう気なんかとてもおきなくて、力なく素直に謝ると、ひとみちゃんは一瞬泣きそうな顔になった。
つられるように俺の涙腺まで緩んでしまいそうになるから、急いで視線を画布に戻す。
「もう少しでできあがるから……ゴメン……」
最後まで聞かないままに、ひとみちゃんは俺に背中を向けた。
「バカ……」
口にしているのはいつもどおりのセリフなのに、涙まじりでまるで覇気のない声が、胸に痛かった。
「じゃあこれを学校に運んだらいいのね? 文化祭の展示にまわすのよね……」
「うん」
両手で抱え切れないくらいのキャンバスを持って、ヨロヨロと部屋から出ていこうとする背中に、俺は笑いかける。
「前から見たら、まるでキャンバスが歩いてるみたいだろうね……」
「私が背が低いって言いたいの?」
「いや……そんなことはないよ」
実際ひとみちゃんはそう背が高いほうでもないが、俺の脳裏には、彼女よりもっともっと小柄な人の姿が、一瞬ありありと思い出されていた。
どうしようもなく胸が痛んで、俺は苦笑した。
俺の顔を上目遣いに見上げる大好きな笑顔は、今だってこんなにしっかりと俺の心に焼きついている。
(真実さん……!)
最後にあんな別れ方をして、どんなに心配しているだろうと思っているのに、俺はまだ彼女に会いに行けていない。
――『また会いに来る』という約束を果たせていない。
(行かなくちゃ……)
ジリジリとうしろから追い詰められるような思いではなく、穏やかにそう思えているうちはまだ大丈夫だった。
(きっと近いうちに……)
そんなふうに、呑気にかまえていられるうちはまだよかった。
けれど日数が過ぎていくと同時に、ゆるゆると下降していく自分の体調に気がついてしまったら、もう悠長にかまえていることができなくなった。
(このままじゃダメだ……きっと約束を果たせないまま、この場所で最期の時を迎えてしまう……!)
そう思った俺は、父さんと兄貴と石井先生とひとみちゃんに、最後のお願いをすることにした。
俺が意識不明の状態で病院に運びこまれてから、父さんは仕事を全部あと回しにして、足しげく病院に通ってくれている。
もとから毎日来てくれていたひとみちゃんと、暇を見つけては顔を出してくれていた兄貴に到っては、空いている時間全部を病院で過ごしていると言ってもいいくらいだ。
(まったく過保護なんだから……)
以前は皮肉交じりに嘆息していたその状況も、今となってはもう笑うことはできなかった。
ただありがたいと――心から感謝する自分がいる。
(心境の変化……? いや、そうじゃない……かっこつけて強がってみせる時間が、自分にはもうないって……わかるからだ)
それは不思議な感覚だった。
自分を取り巻く環境も、周りの人たちの対応も、これまでとはなんの変化もない。
けれど受け止めるこちらの思いが違うだけで――今日こそ、今度こそ、これが最後になるかもしれないって確かに覚悟しているだけで、この上なく優しい気持ちになれる。
(まちがいなく本当の気持ちしか、俺にはもう告げる時間がない……)
その心のままに、俺はベッドの上で父さんたちに頭を下げた。
「行きたいところがあります。会いたい人がいます。ひょっとしたらそれが自分の最期になるかもしれなくても……ごめんなさい。どうしても行きたいんだ……」
誰の顔も見えないくらい深く頭を下げていても、ひとみちゃんが何か言おうと動いたことがわかる。
兄貴がそれを止めたことがわかる。
自分の意識が体の中にあるのか。
それともとっくにそこからは抜け出して、はるか頭上からこの光景を眺めているのか。
どちらとも言えないくらいにハッキリとわかった。
「ごめんなさい……最後のお願いです」
みんなが息を呑む。
そうなることがわかっていて、俺はあえてそんな言い方をした。
長い長い沈黙のあとに、顔を上げないままの俺の耳に、父さんの声が聞こえてきた。
「ずっと後悔していたことがある……母さんが亡くなった時……倒れてから最期まで意識は戻らないままだったけれど……海里を連れて行ってやれなかったこと……最期のお別れをさせてあげられなかったこと……ずっとずっと……あれでよかったんだろうかって後悔してた……」
「父さん……?」
思いがけない言葉に俺は顔を跳ね上げた。
兄貴もひとみちゃんも、驚いたように父さんに注目していた。
「母さんは海里に会いたかったに決まってるのに……どうしてわかってやれなかったんだろうって、それが悔しかった……」
ギュッと一瞬固く目をつむったあと、俺の心に切りこんでくるかのように真剣な顔で父さんは尋ねる。
「海里がどうしても行きたいって言うんなら……それを止める権利は誰にもない……行くか?」
これまで父さんや兄貴が俺に注いでくれた愛情だとか。
石井先生の懸命な治療だとか。
ひとみちゃんのいろんなものを犠牲にした思いだとか。
さまざまなものと真実さんへの想いを俺は秤にかけた。
そして次の瞬間には大きく頷いていた。
「うん。行きます」
「わかった。私が連れていく」
俺の肩をポンと叩いてそう言った父さんに、反論する者はなかった。
「俺は先に父さんに連れていってもらうから……ひとみちゃん……真実さんを呼んできてくれる?」
段取りを相談し始めた父さんたちにはわからないように小さな声で、図々しくもそう持ちかけた俺に、ひとみちゃんはキッと鋭い眼差しを向けた。
「なんで私が……!」
予想どおりの反応に思わず笑みが零れてしまって、ますますひとみちゃんを怒らせてしまう。
「絶対に嫌よ!」
こぶしを握りしめて小声で叫んだ姿が、小さな子供の頃から変わっていなくて、なんだか愛しくて、ますます笑わずにはいられなかった。
「頼むよ……俺の最後のお願いだから……ね?」
ひとみちゃんに頼んでばっかり、頼ってばっかりの自分の人生を棚に上げて、この上そんなことを願うと、本当は優しいひとみちゃんは怒りながらも俺の願いを聞き入れてくれる。
――ズルイ俺はそれをちゃんと知っている。
いつもいつもそうだったから。
小さな子供の頃からずっとそうだったから。
「だって……なんて言えばいいのよ……?」
「俺が呼んでるって……それだけでいいよ。きっと真実さんには伝わるから……」
ハアアッと大きなため息をついて、ひとみちゃんは俺に背を向けた。
「海里って本当にバカ……! でも私は……もっと大バカだ……!」
怒ったように拗ねたように、遠くなっていく背中に俺はせいいっぱい声をかけた。
「俺は確かにバカだけど……ひとみちゃんはバカじゃないよ……優しすぎるくらいに優しい……素敵な女の子だよ……」
「バカアッ!」
泣きながら走っていってしまう背中を見送って、俺の目からも涙が溢れた。
きっともうすぐ彼女の「バカ」を聞くこともなくなるんだと思うと、どうしようもなく溢れた。
真実さんと初めて一緒に行ったあの海に連れていってもらって、俺は父さんの車を降りた。
「いってきます……」
笑って言えた俺に、父さんも笑い返してくれたから、そのまま波打ち際に向かって歩きだすことができた。
夏の初めに真実さんとここに来て、並んで座ったように、砂の上に足を投げだして座りこむ。
とっくに終わってしまった海水浴の時期に、結局ここを訪れることはできなかったけれど、やっぱり人でごった返していたのだろうか。
そんな様子は微塵も感じさせないくらい、今は人の姿はまったくない。
平日の真昼間。
散歩するにもおかしな時間だし、当たり前と言えば当たり前なのだが、人がいないことで、この広い場所がまるで自分一人のものであるかのように感じられて、なんだか嬉しくなる。
海風に飛ばされた帽子もそのままに、俺は砂浜に座ったまま、長いこと空を見上げていた。
残念なことに、夏の初めに真実さんと来た時のようなよく晴れた青空は見ることができなかった。
けれどぶあつくたちこめた雲のおかげで、いいものを発見してちょっといい気分になる。
(ああ……あれって……!)
病室のベッドの上で空を見ていることの多かった頃、雲の形や種類から特別な名前がつけられたものを夢中になって覚えたことがあった。
その中の一つを発見して、それがまた今の俺の状況にあまりにもぴったりで、思わず微笑む。
その瞬間、後方に車の止まった音がして、続けてバタンと扉が閉められた音がした。
ドキリと飛び跳ねた心臓を懸命に抑えて、ゆっくりとふり返る。
ひとみちゃんに先導されるように、小さな人影が立っていて、やっぱりこらえようもないほどに胸が高鳴った。
(よかった……! また会えた……!)
たったそれだけのことにさえ涙が浮かんできそうになる思いを懸命に我慢して、俺は笑った。
「真実さん!」
俺に向かって一目散に駆けてくる姿が愛しかった。
――やっぱり何よりも誰よりも、俺の短い人生の中で一番大切だったんだと、確かに実感した。
ベッドから離れて歩き回れるようになれるまでに、さらに三日かかった。
そんなに寝てばかりもいられないと、勝手に窓際の椅子で絵を仕上げていたら、ひとみちゃんに目を剥いて怒られた。
「何考えてるのよ! 助かったのが奇跡みたいなもんだって、先生にもあんなに言われたでしょ!」
いつものように彼女をからかって、軽口を叩く気持ちにはなれない。
俺を見つめるひとみちゃんの目はあまりにも真剣すぎる。
今回の発作で俺が生死の境をさまよっている間に、どうやらひとみちゃんにも本当のことが伝えられたらしい。
――つまり、俺の命はどっちみちもう長くはないということを。
自分がその事実を知らされていなかったことに泣いて抗議したという話も、だったらなおさら止めるんだったと、俺の自分勝手をこれまで許してきたことを悔やんだという話も、全部あとから兄貴に伝え聞いた。
俺に直接対する時のひとみちゃんの態度は、これまでと何ら変わらない。
でもそのいつもどおりの中に、どれだけ彼女の苦悩が隠されているか――俺にだって想像はできた。
真っ赤な目はいつだって、咎めるように――それ以上にどうしようもなく悲しそうに、俺を見つめる。
「ゴメン……」
その表情を今さらからかう気なんかとてもおきなくて、力なく素直に謝ると、ひとみちゃんは一瞬泣きそうな顔になった。
つられるように俺の涙腺まで緩んでしまいそうになるから、急いで視線を画布に戻す。
「もう少しでできあがるから……ゴメン……」
最後まで聞かないままに、ひとみちゃんは俺に背中を向けた。
「バカ……」
口にしているのはいつもどおりのセリフなのに、涙まじりでまるで覇気のない声が、胸に痛かった。
「じゃあこれを学校に運んだらいいのね? 文化祭の展示にまわすのよね……」
「うん」
両手で抱え切れないくらいのキャンバスを持って、ヨロヨロと部屋から出ていこうとする背中に、俺は笑いかける。
「前から見たら、まるでキャンバスが歩いてるみたいだろうね……」
「私が背が低いって言いたいの?」
「いや……そんなことはないよ」
実際ひとみちゃんはそう背が高いほうでもないが、俺の脳裏には、彼女よりもっともっと小柄な人の姿が、一瞬ありありと思い出されていた。
どうしようもなく胸が痛んで、俺は苦笑した。
俺の顔を上目遣いに見上げる大好きな笑顔は、今だってこんなにしっかりと俺の心に焼きついている。
(真実さん……!)
最後にあんな別れ方をして、どんなに心配しているだろうと思っているのに、俺はまだ彼女に会いに行けていない。
――『また会いに来る』という約束を果たせていない。
(行かなくちゃ……)
ジリジリとうしろから追い詰められるような思いではなく、穏やかにそう思えているうちはまだ大丈夫だった。
(きっと近いうちに……)
そんなふうに、呑気にかまえていられるうちはまだよかった。
けれど日数が過ぎていくと同時に、ゆるゆると下降していく自分の体調に気がついてしまったら、もう悠長にかまえていることができなくなった。
(このままじゃダメだ……きっと約束を果たせないまま、この場所で最期の時を迎えてしまう……!)
そう思った俺は、父さんと兄貴と石井先生とひとみちゃんに、最後のお願いをすることにした。
俺が意識不明の状態で病院に運びこまれてから、父さんは仕事を全部あと回しにして、足しげく病院に通ってくれている。
もとから毎日来てくれていたひとみちゃんと、暇を見つけては顔を出してくれていた兄貴に到っては、空いている時間全部を病院で過ごしていると言ってもいいくらいだ。
(まったく過保護なんだから……)
以前は皮肉交じりに嘆息していたその状況も、今となってはもう笑うことはできなかった。
ただありがたいと――心から感謝する自分がいる。
(心境の変化……? いや、そうじゃない……かっこつけて強がってみせる時間が、自分にはもうないって……わかるからだ)
それは不思議な感覚だった。
自分を取り巻く環境も、周りの人たちの対応も、これまでとはなんの変化もない。
けれど受け止めるこちらの思いが違うだけで――今日こそ、今度こそ、これが最後になるかもしれないって確かに覚悟しているだけで、この上なく優しい気持ちになれる。
(まちがいなく本当の気持ちしか、俺にはもう告げる時間がない……)
その心のままに、俺はベッドの上で父さんたちに頭を下げた。
「行きたいところがあります。会いたい人がいます。ひょっとしたらそれが自分の最期になるかもしれなくても……ごめんなさい。どうしても行きたいんだ……」
誰の顔も見えないくらい深く頭を下げていても、ひとみちゃんが何か言おうと動いたことがわかる。
兄貴がそれを止めたことがわかる。
自分の意識が体の中にあるのか。
それともとっくにそこからは抜け出して、はるか頭上からこの光景を眺めているのか。
どちらとも言えないくらいにハッキリとわかった。
「ごめんなさい……最後のお願いです」
みんなが息を呑む。
そうなることがわかっていて、俺はあえてそんな言い方をした。
長い長い沈黙のあとに、顔を上げないままの俺の耳に、父さんの声が聞こえてきた。
「ずっと後悔していたことがある……母さんが亡くなった時……倒れてから最期まで意識は戻らないままだったけれど……海里を連れて行ってやれなかったこと……最期のお別れをさせてあげられなかったこと……ずっとずっと……あれでよかったんだろうかって後悔してた……」
「父さん……?」
思いがけない言葉に俺は顔を跳ね上げた。
兄貴もひとみちゃんも、驚いたように父さんに注目していた。
「母さんは海里に会いたかったに決まってるのに……どうしてわかってやれなかったんだろうって、それが悔しかった……」
ギュッと一瞬固く目をつむったあと、俺の心に切りこんでくるかのように真剣な顔で父さんは尋ねる。
「海里がどうしても行きたいって言うんなら……それを止める権利は誰にもない……行くか?」
これまで父さんや兄貴が俺に注いでくれた愛情だとか。
石井先生の懸命な治療だとか。
ひとみちゃんのいろんなものを犠牲にした思いだとか。
さまざまなものと真実さんへの想いを俺は秤にかけた。
そして次の瞬間には大きく頷いていた。
「うん。行きます」
「わかった。私が連れていく」
俺の肩をポンと叩いてそう言った父さんに、反論する者はなかった。
「俺は先に父さんに連れていってもらうから……ひとみちゃん……真実さんを呼んできてくれる?」
段取りを相談し始めた父さんたちにはわからないように小さな声で、図々しくもそう持ちかけた俺に、ひとみちゃんはキッと鋭い眼差しを向けた。
「なんで私が……!」
予想どおりの反応に思わず笑みが零れてしまって、ますますひとみちゃんを怒らせてしまう。
「絶対に嫌よ!」
こぶしを握りしめて小声で叫んだ姿が、小さな子供の頃から変わっていなくて、なんだか愛しくて、ますます笑わずにはいられなかった。
「頼むよ……俺の最後のお願いだから……ね?」
ひとみちゃんに頼んでばっかり、頼ってばっかりの自分の人生を棚に上げて、この上そんなことを願うと、本当は優しいひとみちゃんは怒りながらも俺の願いを聞き入れてくれる。
――ズルイ俺はそれをちゃんと知っている。
いつもいつもそうだったから。
小さな子供の頃からずっとそうだったから。
「だって……なんて言えばいいのよ……?」
「俺が呼んでるって……それだけでいいよ。きっと真実さんには伝わるから……」
ハアアッと大きなため息をついて、ひとみちゃんは俺に背を向けた。
「海里って本当にバカ……! でも私は……もっと大バカだ……!」
怒ったように拗ねたように、遠くなっていく背中に俺はせいいっぱい声をかけた。
「俺は確かにバカだけど……ひとみちゃんはバカじゃないよ……優しすぎるくらいに優しい……素敵な女の子だよ……」
「バカアッ!」
泣きながら走っていってしまう背中を見送って、俺の目からも涙が溢れた。
きっともうすぐ彼女の「バカ」を聞くこともなくなるんだと思うと、どうしようもなく溢れた。
真実さんと初めて一緒に行ったあの海に連れていってもらって、俺は父さんの車を降りた。
「いってきます……」
笑って言えた俺に、父さんも笑い返してくれたから、そのまま波打ち際に向かって歩きだすことができた。
夏の初めに真実さんとここに来て、並んで座ったように、砂の上に足を投げだして座りこむ。
とっくに終わってしまった海水浴の時期に、結局ここを訪れることはできなかったけれど、やっぱり人でごった返していたのだろうか。
そんな様子は微塵も感じさせないくらい、今は人の姿はまったくない。
平日の真昼間。
散歩するにもおかしな時間だし、当たり前と言えば当たり前なのだが、人がいないことで、この広い場所がまるで自分一人のものであるかのように感じられて、なんだか嬉しくなる。
海風に飛ばされた帽子もそのままに、俺は砂浜に座ったまま、長いこと空を見上げていた。
残念なことに、夏の初めに真実さんと来た時のようなよく晴れた青空は見ることができなかった。
けれどぶあつくたちこめた雲のおかげで、いいものを発見してちょっといい気分になる。
(ああ……あれって……!)
病室のベッドの上で空を見ていることの多かった頃、雲の形や種類から特別な名前がつけられたものを夢中になって覚えたことがあった。
その中の一つを発見して、それがまた今の俺の状況にあまりにもぴったりで、思わず微笑む。
その瞬間、後方に車の止まった音がして、続けてバタンと扉が閉められた音がした。
ドキリと飛び跳ねた心臓を懸命に抑えて、ゆっくりとふり返る。
ひとみちゃんに先導されるように、小さな人影が立っていて、やっぱりこらえようもないほどに胸が高鳴った。
(よかった……! また会えた……!)
たったそれだけのことにさえ涙が浮かんできそうになる思いを懸命に我慢して、俺は笑った。
「真実さん!」
俺に向かって一目散に駆けてくる姿が愛しかった。
――やっぱり何よりも誰よりも、俺の短い人生の中で一番大切だったんだと、確かに実感した。