夢中で土手を駆け下りながら、警察に連絡した。

「すぐに行くから待ってなさい! いいか……無茶なことをするなよ!」
 携帯の向こうでは村岡さんが必死になって叫んでいるけれど、じっとしてなどいられるわけがない。
 
 心臓はこの上な速くく脈打っていたし、上手く息が吸えなくて呼吸も苦しい。
 でも俺は足を止めなかった。
 生まれて初めての全力疾走で、川原までの坂道を一気に駆けた。
 
 真実さんのもとにたどり着くとすぐに、彼女を両手の中に捕まえている男を力ずくで引き剥がす。
 もんどりうってうしろ向きにひっくり返った体に馬乗りになって、怒りの感情のままに滅茶苦茶に殴りつけた。
 
 男はどこか自己喪失の状態だったようで、特に反撃はしてこなかった。
 顔や頭を自分の腕で庇うようなこともなく、ただ俺に殴られるままになっている。
 
 大きな体がぐったりと動かなくなっても、自分のヤワなこぶしがとっくに割れて血に染まっても、俺は激情のまま、いつまでも自分自身を止められないでいた。
 
 そんな俺に向かって、真実さんが涙混じりに呼びかける。
「海君! ……海君!」
 
 必死に俺を止めようとしてくれていることはわかる。
 でも彼女の呼びかけにさえ、俺は自分を止めることができない。
 
「駄目だ! 言ったでしょ? 俺は絶対に許さない!」
 ギンと睨むような視線で、真美さんのほうをふり返ってしまう。
 
「真実さんを傷つける奴は、絶対に許さない! 俺が許さない!」
 実際、何度も何度も俺に殴られたその男は、もうとっくに動かなくなっていた。
 
 これ以上はもう意味がない。
 単に自分の気を晴らすことにしかなりはしない。
 
 それに息を吸うのさえ苦しいほどにせり上がってきた呼吸も、ガンガンと頭の中で鳴り響いている心音も、きっともう俺の限界を超えている。
 とっくに超えている。
 
 やめなければと思う。
 頭のどこかでは確かに思う。
 けれど感情が焼き切れたかのように、止まらない。
 
 ドサッと音をたてて、俺のうしろで真実さんが倒れた音がした。
 
 ふり返って見てみると、泣きながら地面に突っ伏す姿が目に入って、俺はようやく、血の滲んだこの手を、人を傷つける以外のことに使う術を思い出した。
 
「真実さん……」
 急いで助け起こそうとする俺の腕をかいくぐって、彼女は逆に座ったまま俺の体にすがりつくようにして、俺を抱きしめた。
 
「嫌だよ! 海君……嫌だよ!」
 悲鳴のような声が、俺を正気にさせた。
 
 我に返ると同時に、もうどうしようもなく苦しくなっている体を自覚した。
 真実さんの前だからせいいっぱい無理して平気なフリをしたいのに、できない――もうできるわけがない。
 
「うん……」
 苦しい胸を押さえながら、彼女の肩に頭を乗せて、それでもなんとか言葉だけは、
「ラッキー……会えたうえに、真実さんに抱きしめられた……!」
 なんて呟く。
 
 不安で不安でたまらない心を表わすかのように、真実さんが俺を支える腕に力をこめるから、どうにかして安心させてやりたくなる。
 
 必死に囁く。
「大丈夫だよ……真実さん。大丈夫……」
 
「でも、海君……!」
 それ以上の言葉を口にされる前に、俺は急いで彼女の唇を自分の唇で塞いだ。
 
(大丈夫だ……真実さんが「自分のせいで……」なんて気にしてしまうような最期なんて、俺は絶対に迎えない!)
 
 もうどうしようもない具合の悪さを、意志の力だけでねじ伏せようと努力する。
 
 ずっとずっと会いたくて、触れたくてたまらなかった人の涙に次々と唇を寄せながら、俺は笑顔を作った。
 必死に作った。
 
「本当はいつもみたいに『送るよ』って言いたいところなんだけど……さすがにそれは無理だから……ゴメン……貴子さんたちに連絡して迎えに来てもらって……?」
 
 涙をポロポロと零しながらも、真実さんが頷いてくれるので、少しホッとする。
 
 地面に横たわったまま、もうピクリともしない男を顎で指しながら、
「あいつももうすぐ迎えが来るから……」
 胸ポケットから出した携帯電話を、俺は真実さんに向かって振ってみせた。
 
 真実さんは真剣な顔で、コックリと頷いてくれた。
 
 あまりの出来事に深く傷ついて、蒼白になってしまっている小さな顔が、胸に痛い。
 ――でもこれから俺は、さらに彼女を傷つけることになるかもしれない。
 
(ここから歩いて病院に帰ることは、もうできない……だからゴメン……本当にゴメン……!)
 
 口にも出して、先に真実さんに謝った。
「真実さん……ゴメンね」
 
 そしておもむろに、いつだって履歴の一番先に出てくる番号に電話した。
 
 きっとまだ学校に着いたばかりの時間なのに、一度コールしたかしないかくらいの速さで、電話の向こうから不機嫌な声が聞こえてくる。
 
「海里? ……何?」
 真っ直ぐに俺の顔を見上げて来る真実さんに小さく頭を下げてから、俺は彼女の顔から視線を逸らした。
 
「……ひとみちゃん? 俺。悪い……ドジった。動けない。迎えに来て」
 
 それが真実さんにとって、どんなに残酷なセリフなのかはわかっていた。
 俺にだってよくわかっていた。
 ――でもどうしようもない。
 
「どこにいるのよ! ……どうしたのっ?」
 電話の向こうのひとみちゃんの怒鳴り声も含めて、本当に救いようのない馬鹿な自分に、腹が立ってたまらなかった。
 
 
 もし俺が真実さんの立場だったらどうだろう。
 大好きな人が自分の目の前で、自分以外の人に助けを求めたとしたらどんな気持ちがするだろう。
 
 耐えられるわけがない。
 悲しくて悔しくてたまらないとわかっているのに、俺は真実さんの前で、そんなことばかりをくり返している。
 
 深く俯いてしまった小さな頭が、必死に自分の中の感情と戦っているとわかるのに。
 もう俺にはそんな資格なんてないってこともわかってるのに。
 ――抱きしめてしまう。
 
「ゴメン真実さん……」
 
 今にも消えてなくなってしまいそうなほどに、彼女を傷つけているのは、あの男でも他の誰でもない。
 俺自身だ。
 なのに、抱きしめる腕を解くことができない。
 
 二人でいた間もいつもいつもそうだったように、俺のことをまるごと許してしまう真実さんは、黙ったまま首を横に振る。
 その仕草がなおさら胸に痛かった。
 
(許さなくていい……! こんな俺を許したりしなくっていいよ!)
 
 しばらくすると土手の上に車が止まる音がし、タクシーから降り立ったひとみちゃんがこちらに向かって走ってきた。
 
 慌てて俺の腕の中から逃げ出そうとする真実さんを、俺は放すもんかと強く強く抱きしめる。
 
「海君?」
 真実さんは訝しげに俺の顔を見上げてくる。
 
 俺たちの姿を発見したひとみちゃんも、大きく目を見開いて、かなり驚いていることが遠目にもわかる。
 
 痛いくらいに二人の視線を感じて、だからなおのこと、俺にはわかった。
 どんな時だって俺が大切なのは、結局真実さんだとわかってしまった。
 
 残酷だけど、この上なく自分勝手だけど――やっぱり真実さんなんだ。
 
「……海君!」
 俺は抗う真実さんを力でねじ伏せて、ひとみちゃんの前で無理やりもう一度口づけた。
 
 いったい何に対してだか、誰に対してだかよくわからないままに、自分の気持ちを確かに表明してみせた。
 
「なによ! ……じゅうぶん元気じゃないのよ!」
 怒ったような呆れたようなひとみちゃんの声に、どこかホッとした。
 
 俺を睨みつける視線には、非難の色ばかりではなく、どこか傷ついたふうな色も確かに含まれている。
 それでもひとみちゃんが怒ってくれたおかげで、俺と彼女の関係はまた新たな方向へ、一歩進みだしたような気がした。
 
 強く強く抱きしめてから唇を放すと、俺は真実さんの顔をのぞきこんだ。
「真実さん……また今度」
 
 苦しい声で、なんとか次の約束を結ぼうとする。
 もう一度、彼女のそばに戻ってくるために。
 今にも消えてしまいそうな俺の命を、どうにかこの世界に繋ぎとめておくために。
 
 でも真実さんは心配そうな顔をして、何度も首を振った。
「でも……海君……!」
 
 それ以上言われたら、また唇を塞いでしまおうという思いで、俺はじっと真実さんを見つめる。
 肩では大きく息をくり返しながらも、静かに眼差しを注ぐ。
 
 いつだって誰よりも敏感に俺の意図を読み取ってしまう真実さんには、それだけでじゅうぶん、俺の意志が通じたようだった。
 
 急に、ほんの少し微かに笑いながら、
「……もう、私に会いに来ないんじゃなかった?」
 なんて尋ねられるから、ついついニヤリと笑ってしまう。
 
「うん、そうなんだけど……でもこれは、真実さんと約束しておかないとヤバイんだ……俺にはわかるんだよ……正直かなりヤバイって……! 俺はね……真実さんが『私のせいで……』なんて思ってしまうような死に方だけは、絶対したくないんだ……!」
 
 瞬きすることさえ忘れたように、真実さんは俺の顔を凝視した。
 
「だから約束させて……きっとまた会いに来る……ね?」
 しばらくしてから、また俺の意図を汲んだようにコクコクと頷いた彼女に、俺はホッと笑いかけた。
 
「じゃあ約束……」
 どうにか、自分の気持ちを奮い立たせるための約束を手に入れることができて、ようやく安堵した。
 
 だから目の前に立つひとみちゃんに、図々しくも手をさし伸べる。
「ありがとう……ひとみちゃん……」
 
 細い腕からは想像もできないくらいの力強さで、俺の体を引き上げた彼女は、俺の腕を自分の肩に廻すようにして、しっかりと支えた。
 
「いつかこんなことになるんじゃないかと思ってた……」
 耳に痛い苦言と共に、咎めるようなキツイ視線を真実さんに向けるから、俺は急いで口を開く。
 
「真実さんのせいじゃない……!」 
 
 非難だったら、受けるのは俺一人だ。
 それだけは絶対譲れない。
 
「だって……!」
 不満混じりに言い募ろうとするひとみちゃんに、俺はきっぱりと言い切った。
 
「俺が自分で決めたことだから」
 
 ――だから真実さんには責任はない。
 絶対にないんだ。
 
 フンとそっぽを向いたまま、ひとみちゃんは俺を支えて歩きだした。
 
「なによ……かっこつけちゃって……!」
 
 なんとでも言ってくれ。
 自分に対する非難の言葉だったらいくらだって受け取る。
 甘んじて受ける。
 だから真実さんを責めないでほしい。
 
 祈るように歩き続ける俺に、ひとみちゃんがひっそりと問いかける。
「ねえ……あそこで伸びてる男……ひょっとして海里がやったの?」
 
 俺は小さく苦笑した。
「うんそう……どう? やっぱりかっこよくない? 見直した?」
 
「バカ!」
 いつものようにひとみちゃんが怒ってくれたところで、俺はようやく無理に無理を重ねて開いていた口を閉じた。
 
 じっとりと体中に冷や汗が浮かんでくる。
 ひとみちゃんに負担をかけないようになんとか足を動かしているだけで、今はせいいっぱいだった。
 
「ほんっとに……バカ……!」
 涙まじりに呟かれたひとみちゃんの言葉にこれ以上軽口で答えることも、俺たちを胸が張り裂けそうな思いで見送っているだろう真実さんをふり返って、もう一度笑ってみせることも、もうできなかった。
 
 ――ひょっとしたらもう本当に二度とできないかもしれないという思いを噛みしめて、俺は静かに目を伏せた。
 
 ひとみちゃんが待たせていたタクシーの後部座席に、倒れこむように乗りこんだ。