それでもキミに恋をした

 誰かが俺を呼んでいる。
 遠く聞こえる声は誰のものなのかわからない。
 けれど確かに、必死になって俺を呼んでいた。
 
「もういいよ……」
 と思う気持ちと、
「戻らなきゃ……」
 と思う気持ちが拮抗する。
 
 ほんの少し前だったらまちがいなく、俺は持てる気力の全てを、目を開けてもう一度起き上がることに費やしていただろう。
 ――でも今は、その気持ちが薄い。
 
(だって……もう会えない……!)
 
 自分から背を向けてしまった人のことを思うと、胸が痛い。
 
(だから、もういいんじゃないかな……?)
 
 ついつい全てを諦めてしまうほうに、心が傾く。
 でも――。
 
「海君!」
 
 俺を見て微笑む彼女の面影が、まだ記憶に新しすぎた。
 俺を呼ぶ声もまだ耳に残っている。
 繋いだ手の感触も、抱きしめた華奢な体の柔らかさも、まだあまりにも鮮明すぎるから、まだ全てを捨てきれない。
 諦めてしまうなんてできない。
 
 ゆっくりと目を開こうと努力する。
 体のどこの部位に力を入れたら、もう一度起き上がれるのか――今は記憶さえもあやふやだけど、とにかく動こうと心を決める。
 
 気持ちのほうが固まると、不思議とさまざまなことが思い出された。
 
「どうやったら真実が幸せになるのか、ちゃんと考えてくれ……」
 貴子さんの忠告と、
 
「真実のとっておきの場所を教えてあげる……だから、真美のことをよろしくね」
 愛梨さんとの約束。
 
 そして――。
 
「朝になってこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」
 まだ真実さんと繋がっている俺の左手。
 
(そうだ……まだ終わってなんかいない……彼女のためにできることが、俺にはまだきっとあるはずだ!)
 その思いが俺の力となる。
 
「海里! 海里!」
 誰のものかわからなかった声が、兄貴の叫びだと認識できた。
 
「海里……!」
 涙混じりのひとみちゃんの声も聞こえる。
 
(ああ……心配させてるなぁ…)
 
 俺なんていついなくなってもいいと、自分で勝手に決めていた命だけれど、周りの人の気持ちを考えるなら、そんなに簡単に諦めていいはずがないんだ。
 たとえかっこよくなくたって、みっともなくたって、もっともっと生にしがみついていいんだ。
 
 真美さんと出会ってから、俺はそう学んだ。
 
 だから努力する。
 俺を呼ぶ人の所に帰れるように。
 少しでも長く生きれるように。
 
 ゆっくりと瞼を開いた先に見えたのは、見慣れた病院の天井と、涙でぐちゃぐちゃになった兄貴とひとみちゃんの顔だった。
「…………」
 
 しゃべろうと思って口を開いたけれど、声にならない俺の口元に、
「何?」
 ひとみちゃんが耳を近づける。
 
 ふっと小さく笑いながら、
「ひとみちゃん……すごい顔……」
 告げた俺に、ひとみちゃんはカアッと赤くなって二、三歩後ろに飛び退った。
 
「バ……バカ海里!」
 いつもと同じ怒鳴り声が嬉しくて、俺は微かに笑った。


 
 フェリーのターミナルで倒れてから、三日が経過していた。
 三日間も昏睡状態だった俺を、ほとんど眠らずずっと見守ってくれていたひとみちゃんに、開口一番口にした言葉が『すごい顔』っていうのは、さすがに申し訳なかったと、あとで思った。
 
「別にいいわよ! あんたはしょせんそういう奴よ!」
 
 プリプリと怒りながらも、ひとみちゃんが毎日学校の行き帰りに立ち寄ってくれるようになる頃には、俺は集中治療室からいつもの病室に移動させられていた。
 
「ごめん……ご心配おかけしました……」
 率直に頭を下げても、
 
「ふん!」
 あまりに怒りが大きすぎたのか、ひとみちゃんがいつものように照れて動揺してくれない。
 
「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」
 
 まさしくグウの音も出ない。
 みんなに内緒で勝手な行動を取って、その挙句に発作を起こして倒れてたんじゃ、確かに周りの人たちはやってられないだろう。
 
「ゴメン……」
 何度目か頭を下げた俺に、ひとみちゃんははあっと大きなため息を吐いた。
 
「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」
 いつになく静かな口調で言われるから、かえって心にグッと来る。
 
「うん……ゴメン……」
 神妙な顔でもう一度頭を下げた俺に、ひとみちゃんは真っ直ぐ向きあった。
 
「ねえ海里……」
「うん……?」
 
 何かを言いかけてはやめ、また口を開こうとしては思い止まり。
 ひとみちゃんはなかなかその先に続くはずのセリフを口にしない。
 
 何を聞かれるのか先を読もうにも、もうあまりにも心当たりがありすぎて、俺のほうから切り出すのも難しい。
 
 静かに待ち続けるだけの俺をじっと見ながら、ひとみちゃんはらしくもなく小さな声で囁いた。
「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」
 
 かろうじて、一番して欲しくない質問をぶつけられることは免れたが、その質問だって答えにくいことには変わりなかった。
 
 でも真剣なひとみちゃんをこれ以上ごまかすのは悪い気がしたし、何より、俺の真実さんへの想いが、そんなに隠しだてしなければならないものだとは思いたくなかった。
 
「うん」
 隠しもごまかしもしないで頷いたら、ひとみちゃんはギュッと両目を閉じた。
 
 てっきりいつものように「バカじゃないの!」とでも怒鳴られると思っていた俺は、ハッとした。
 
(ひとみちゃん……?)
 
 そしてその驚きは、次の瞬間、彼女の頬を伝ってぽたぽたぽたと零れ落ちた大きな涙を見て、さらに大きくなった。
 
「ひ…とみちゃん……?」
 
 呼びかけた俺になんの返事もせず、ひとみちゃんは自分の手の甲で涙を拭いながら、全速力で病室を出ていく。
 
 走って追いかけることのできない俺は、必死になって声をかける。
「ひとみちゃん!」
 
 彼女はまったくふり返りもせず、俺の病室を出ていった。


 
『ひょっとしてひとみちゃんは、単なる従兄妹として以上に、俺のことを想ってくれているんじゃないか』
 
 そう考えたことは、これまでにだってある。
 でもそのたびに俺は、その考えを全力で否定してきた。
 
(そんなはずない! そんなはずはないよ!)
 
 無視してごまかし続けてきたツケが、今、全部俺にのしかかる。
 
(くそっ! こんな状態じゃ追いかけることだってできやしない!)
 
 いっそのこと、腕についた点滴を引き抜いて追いかけようかなんて、とんでもないことを考えた時、天の助けが現われた。
 
「よっ! 海里! どうだ? 調子は?」
 何の気なく、いつものように笑顔でひょっこり病室に顔を出した兄貴に、俺は夢中で訴えた。
 
「兄貴! ひとみちゃんが……!」
 どうしたとも、どうして欲しいとも言わないうちに、
「わかった!」
 と叫んで、兄貴が駆けだしていく。
 
 その頼もしい背中を、俺は苦しい思いで見送った。
 
 
 数十分後。
 病室に帰って来たのは兄貴のほうだけだった。
 
「ひとみちゃんは……?」
 なんて俺が問いかけるより先に、兄貴は笑顔で語りだす。
 
「今日はもう帰るってさ……明日また来るって言ってたぞ……」
 心からホッとした。
 
 ひょっとしたらもう俺のところには来てくれないんじゃないかなんて、――それをとても心配していた自分を自覚する。
 
「わかった。ありがとう……!」
 俯いた俺の頭を、兄貴がポンと軽く叩いた。
 
「気にすんな……! お前がいつもどおりじゃないと、ひとみが気まずいだろ?」
「う、うん……」
 
 いったいどこまでわかってて話してくれているのか、見当もつかない。
 兄貴には俺たちの何もかもが筒抜けな気がする。
 
「あいつだって、本当はとっくにわかってる……いつまでもお前を卒業しないままじゃダメなんだって……大丈夫……そのうちお前のほうが寂しくなるくらい、呆気なく他の男のところに行ってしまうよ……!」
 
「そ、そうかな……?」
 それはそれで、なんだか嫌だと思ってしまうこの心境はなんなのだろう。
 
 小さな頃から一番身近にいた存在が、遠くに行ってしまうような寂しさ。
 自分とは関係ないところで、新しい関係を築き上げていくことに対する焦燥感。
 
 ひょっとしたらひとみちゃんが俺に感じていたのも、こんな感情なのかもしれない。
 
 複雑な心境で考え続ける俺の耳に、思いがけない言葉が飛びこんでくる。
 
「まあ……ひとみの場合は大丈夫だよ……お前が大好きだって部分も含めて、ずっと見守ってる男がちゃんといるから……」
 
「あ、兄貴……?」
 ハッとして顔を上げた俺に、兄貴はいつもどおりの笑顔で、パチリと片目をつむってみせる。
 
「海里が大好きなひとみが、俺は大事なんだから……」
 
 本当に頭が下がる思いだった。
 翌日の朝、本当にひとみちゃんはいつものように、俺の病室にやって来た。
 
「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取ってきてほしい物があったら持ってくるけど?」
 
 俺のほうを見ようとはせずに、テキパキと荷物の整理をする背中に、俺は遠慮なく申し出た。
 
「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持ってきて……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」
 
 ピクリとセーラー服の肩が揺れた。
 
「私に一人で持ってこいって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」
「あ……無理ならいいんだよ?」
 
 途端、ひとみちゃんは長い髪を揺らしてこちらをガバッとふり返った。
 
「持ってくるわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」
 
 負けず嫌いの性格をもろに発揮して胸を逸らす姿を目にしたら、お腹を抱えて笑わずにはいられなかった。
 
「なによ、バカ海里!」
 捨てゼリフを残して病室から去って行く背中に、俺は頭を下げた。
 
「ありがとう! ひとみちゃん!」
 心から下げた。


 
「まあ今回はちょっと無理をし過ぎたって自分でもわかってるだろうし……幸いひどい発作にはならなかったから良かったけど……もしまた今度こんなことがあったら、もう外出許可は出さないぞ……?」
 
 検診にまわってきてくれた石井先生は冗談めかしてそんなことを言ったけれど、その瞳はいたって真剣だった。
 
『もしまた今度』のあとが、本当は外出許可の話なんかではなくて、俺の命の期限なんだってことが、痛いくらいによくわかる。
 
「無茶をするなよ……」
 
 いつものように頭を撫でてくれる大きなてのひらが、先生のちょっと違った感情を宿して小さく震えていることに、俺は気づかないフリをする。
 微塵も気づいていないフリをする。
 
「はい。すみません」
「なんだ? 今日はやけに素直だな?」
「俺はいつだって素直ですよ……」
 
 浮かべた笑顔が上辺だけのものだと気がつかれないように努力した。
 
「お大事に……」
 病室を出て行く先生の背中を見送って、俺は目を閉じて自問自答する。
 
(後悔してるか……?)
 
 真実さんと出会って恋したこと。
 無理して彼女と会ってたこと。
 彼女のためにサヨナラを決めたこと。
 最後の最後にあんな別れ方をしたこと。
 
 胸に痛い想いはいっぱいあっても、後悔は何ひとつない。
 たとえその全てが俺の命を縮めるとわかってたって、もう一度その場面に立たされたなら、俺はまちがいなくこれまでと同じ道を選ぶだろう。
 
(だからいい……!)
 
 きっとこれが最後のチャンスだろうけど。
 もう一度大きな発作を起こしたなら、その時は命の保証はできないと先生に宣告されたようなものだけど。
 
 自分にできるせいいっぱいで、俺は残された日々を生きる。
 
 窓際の日当たりのいい場所に、ひとみちゃんが額に汗を浮かべながら、高校の美術室から運んできてくれた絵の道具はセットしてあった。
 
 本当は日陰で描いたほうがいいのはわかっているけれど、その絵だけはできれば青空の下で描きたかった。
 それがかなわないから、せめて空が見える場所で――。
 
 目を閉じれば色鮮やかに甦ってくる光景と、切ないばかりの彼女の姿。
 ――俺の頭の中のキャンバスに、あの日確かに焼きつけた物を、形ある物として残しておきたい。
 できるだけ早く。
 
 焦燥感にかられたこの思いは、確かに自分の命が残り少ないことを本能で嗅ぎ取っているからこそなのかも知れないが、そんなこと今はどうでもよかった。
 
 とにかく一刻も早く仕上げてしまいたかった。
 体が俺のいうことを聞いてくれているうちに早く――。
 
 ベッドの横の壁に貼られたカレンダーに目を向ける。
 もう八月も中旬。
 急がなければならない。
 
(確か九月……それも入ってすぐ……!)
 
 フェリーのターミナルで乗船手続きをしていた時、何気なく目にした彼女の誕生日。
 その日にこの絵を贈りたかった。
 
 自分に関するものなど、何ひとつ彼女に残さなかった俺だけど、俺の目に映った彼女の姿ぐらいは絵として残してもいいんじゃないだろうか。
 
 もし彼女がまたあの海を懐かしく思い出す時があったら、すぐに引っ張り出して見れるように、手元に置いてあげたい。
 
(それが最初で最後の、俺からのプレゼントだよ……)
 
 今だってすぐ身近に感じることができる彼女のことを想いながら、ずっと繋いでると約束した左手を空に透かし見た。
 照りつける太陽が眩しくて、空はあの日と同じように青が濃かった。


 
 半月間、絵筆を握る以外はベッドの上でおとなしく過ごし、俺はその夜僅かな外出時間を得ることに成功した。
 俺の希望するままに、こんな変な時間にも許可を貰えるなんて、もう自分には残された時間がないと宣告されたようなものだが、俺は敢えて気がつかないフリをし通している。
 
 以前はしきりと
「変じゃない? 変じゃない?」
 とくり返してひとみちゃんも、さすがに最近では、もうそれを口には出さなくなった。
 
 唇をギュッと噛みしめて何らかの感情を押し殺そうとしている姿を見ていると、俺自身もどうしようもなく胸が痛くなってくるから、そういう時はお互いに目をあわせないように努力している。
 どちらからともなくそうしている。
 
「そんな時間にどこに行くのよ?」
 なんて以前だったらまちがいなく怒鳴られたことも、もうひとみちゃんの中ではとっくに察しがついているらしい。
 
 だからこそなおさら、もう無理をしてはいけないような気がする。
 俺のわがままを許してくれている周りの人たちに、せいいっぱい感謝の気持ちを捧げるためにも、俺は目的を果たしたらさっさと帰ってこようと心に決めていた。
 なのに――。
 
 通い慣れた真実さんのアパートの近くにタクシーを乗りつけて、いつもの場所まで歩いて行ったら、もうその場所から一歩も動けなくなった。
 何度も何度も、彼女を待って朝ひと時を過ごしたその場所が、こんなに懐かしい。
 もう一度あの日々に帰りたいと俺の心が叫ぶ。
 
(でもそれは無理だ……!)
 
 諦めの思いを噛みしめて、仰いだ夜空に星は見えなかった。
 あの夜、真実さんの故郷で、二人で見上げた降るような星空はもう二度と見れない。
 だから――。
 
 準備していたプレゼントの袋をそっと玄関前に置いて帰ろうかとしたその時、ふいに真実さんの部屋の扉が開いた。
 慌てて隣の部屋の洗濯機の陰に身を潜めた俺の目の前を、他ならぬ彼女が通り過ぎていく。
 
(真実さん!)
 
 その場から飛び出して抱きしめてしまいたい衝動を、俺は必死にこらえた。
 
 およそ一ヶ月ぶりに見た彼女は、また少し痩せてしまったように感じた。
 けれど暗い外灯の下、少しきょろきょろしながら通りへと出て行く横顔は、やっぱり何度見ても恋せずにはいられないくらい綺麗だった。
 
(真実さん!)
 
 声をかけたくてもそうできない辛さを必死に我慢しながら、思いがけない邂逅が発作に繋がったりしないことだけを祈る。
 ドキドキとどうしようもなく脈打つ心臓を、落ち着けることに専念する。
 
(大丈夫……大丈夫だ……!)
 
 静かに言い聞かせながら、遠くなっていく小さな背中を見送った。
 妬けつくような気持ちで見送った。
 
 真実さんが帰ってこないうちにプレゼントの絵と花束が入った袋を彼女の部屋の前に置いて、俺はその名残惜しい場所に背を向けた。
 真実さんが外に出ているので、帰ってきた時にきっと気づいて貰えるだろうと思えることがありがたかった。
 
(どんな顔するかな? 喜んでくれるかな?)
 
 彼女の反応を予想しながら、ワクワクした気持ちで待たせていたタクシーに乗りこもうとした時、遠くで真実さんの声がしたような気がした。
 
 足を止めてふり返る。
 確かにもう一度「海君!」と俺を呼ぶ声がした。
 
 駆け出そうとした足を意志の力で踏み止めて、首を振る。
 何度も何度も振る。
 
(ダメだ! もう会わないって決めただろ! ダメなんだ……!)
 
 ドキドキと鳴り始める心臓を落ち着かせようと左手を胸に押し当てながら、断腸の思いでタクシーに乗りこむ。
 
 プレゼント見つけて、すぐに俺からだって気がついてくれた。
 そしてすぐに俺を探そうとしてくれた。
 
 きっと泣き虫な真実さんは、泣きながら俺を探してる。
 なのになんで俺は背を向けなくちゃならないんだろう。
 彼女から逃げるように帰らなくちゃならないんだろう。
 会いたい。
 本当はこんなに会いたいのに――! 
 
「くそっ……!」
 
 口の中だけで呟いて奥歯をギュッと噛みしめたら、涙が零れた。
 膝の上で握りしめたこぶしの上にいくつもいくつも、まるで彼女に伝えることはできない俺の本心のように、ポロポロと涙が零れ落ちた。
「あれ? その絵、もうできたんじゃなかった? だからわざわざ持って行ったんでしょ?」
 
 病室に入ってくるなりそう問いかけるひとみちゃんに、俺は背を向けたまま答えた。
「あれとは別だよ……これは文化祭に展示してもらうために描いてんの」
 
「ふーん」
 近づいてきて俺の背中越しに、キャンバスをのぞきこまれる気配がする。
 
「綺麗な海……」
 歯に衣着せないひとみちゃんの感想だからこそ、その言葉が嬉しかった。
 
「本物に近づいてるならいいけどね……」
「……ここに行ったんだ?」
 
 あえて『いつ』とは言われない。
 でも俺がフェリーターミナルで倒れた時のことを彼女が言ってるんだってことは、わかってる。
 
 だから俺は聞き返しもしないで答えた。
「うん。綺麗なところだったよ……特に夜の星空は圧巻だった。この街じゃ全然見えないけど、空にはあんなに星があるんだって、生まれて初めて実感した……!」
 
「ふーん……」
 ひとみちゃんの相槌がなんだかちょっと不機嫌になる。
 
 真実さんと二人で過ごしたあの夜のことを彼女がどんなふうに受け止めているのかはわからないが、あまりいい感情を持っていないことは確かだろう。
 だから――。
 
「ひとみちゃんのほうはどう? 文化祭の絵……もうできた?」
 さり気なく話題を逸らす。
 
「もちろんよ! 誰かさんと違って、私は夏休みの間もずっと美術室に通ってたんだから……!」
「…………どうもすみません」
 
 フンと笑うと、ひとみちゃんは長い髪を翻して俺に背を向けた。
 
「今坂先輩の超大作の隣に並べるんだから……さっさと丁寧に仕上げなさいよ……!」
 なかなか難しい注文をつけながら、病室から出て行く。
 
「わかった……ありがとう」
 軽く手を上げた次の瞬間には、もうひとみちゃんはいなくなっていて、それを確認してから、俺は力なく腕を下ろした。
 
 ひとみちゃんには悪いが、彼女がいる間は必死に動かしていた絵筆がピタリと止まる。
 実際今朝は、彼女がやって来るまでは、大きなキャンバスの前にただ座って、俺はずっとこうしていたのだ。
 
 様々な色が入り混じった絵の中の海を見ていると、どうしても昨夜のことを思い出す。
 俺を呼ぶ真実さんの声が、耳の奥に残って忘れられない。
 
(真実さん!) 
 立ち止まって名前を呼びさえすれば、すぐに会えるくらいの距離にいたのに、俺はそうできなかった。
 そのことが辛かった。
 
(ほんのちょっとでいいから……顔が見たかったな……)
 彼女の呼びかけに応えて姿を現わすこともできないくせに、自分勝手にそんなことばかりを思う。
 
(俺を探してたってことは、絵には気がついてくれたんだよな……? 喜んでくれたかな? ……やっぱり反応が見れないっていうのは寂しい……)
 
 真実さんの嬉しそうな笑顔なら、これまで何度も何度も見てきたから、まだ頭の中に鮮明に焼きついている。
 それでもやっぱり、実際に見たかったと思わずにはいられない。
 
(無理だね……偶然バッタリ出会う確率なんて、俺がここにいる限りほとんどないんだし……)
 
 ――でも運命の神様はきまぐれだった。
 俺たちに故意にか偶然にか、再会の機会を与えてくれた。
 
 それは甘い雰囲気とはかけ離れた、苦しいものではあったけれど――。


 
 このまま窓際の椅子に座っていても、延々とどうしようもないことを考えてしまうだけで、きっといっこうに作業は進まないだろう。
 俺は無駄な抵抗を断念し、日課にしている散歩に、今日は朝から行くことにした。
 
 ナースステーションの看護師さんたちに一声かけてから階段を下りる。
「ちょっと散歩に出て来ます」
 
 俺に許されている一日一回、三十分限りの外出時間の中で、行ける場所といえば限られている。
 その中でもとりわけお気に入りの場所に向かうことにする。
 
 真実さんと出会ってから、俺は生まれ育ったこの街を、彼女と手を繋いで新鮮な気持ちで歩いて回った。
 
 その中で彼女が喜んでくれたり、活き活きとした表情を見せてくれたのは、やっぱり自然が色濃く残るような場所だったように思う。
 
 真実さんの故郷に実際に行ってみてよくわかったことだが、彼女はそういう豊かな自然の中で育った人だったのだ。
 時に優しく時に厳しい海と共に、生きてきた人だった。
 
 だから、そんな彼女がこの大きな街でどんなに息苦しかっただろうと、俺にだって想像ができる。
 偶然見つけるまだ自然が残っているような場所に、この上ない笑顔を見せてくれたわけも、今ならもっとよくわかる。
 
 真美さんお得意のお弁当を持って、二人で行ったこともある川原に俺は向かった。
 
 川岸に座りこんで飽きることなく真実さんが見つめていた水面を実際に目にしたら、俺の絵の中の海にも、もっと違う輝きが加えられるかも――と、そんなことを思っていた。
 
 長い土手の道をのんびりと歩いている時、黒い車が俺を追い越していった。
 思わずドキリとしたのは、その車があまりにも速いスピードで駆け抜けていったからばかりではない。
 なんだか見覚えがあったような気がしたからだった。
 
(誰だ……?)
 俺の知りあいで車に乗っている人物なんて、そう多くはない。
 
 そんな人たちとはなんだか違うような変な胸騒ぎを覚えて、俺は必死で記憶の糸をたどる。
(もしかして……?)
 
 すぐに一番行き着きたくない答えを見出した。
(……あの車!)
 
 まだ真実さんと出会って間もない頃、彼女を送って行った俺の目の前で、アパートの前に横づけされた車を思い出す。
 その車から飛び出して行って、彼女の部屋のドアを無情に叩いた大きな背中を思い出す。
 
 ――体中の血液が、一気に逆流するかと思った。
 
(まさかあの男が……?)
 
 大学を退学して、故郷の町に帰ったと聞いた。
 住んでいたマンションも引き払って、この街にあの男の居場所はないはずだ。
 
 安心できるはずの情報をいくら挙げてみても、俺はいつも本当には納得できなかった。
 あの男が真実さんをもう諦めただなんて、全然信じられなかった。
 
(だってあんなに! ……あんなに執着していたんだ……!)
 
 完全に自分を見失って、真実さんの部屋のドアを叩き続ける狂気じみた背中を、いつまでたっても忘れられない。
 それはひょっとすると、自分の中にも少なからず存在している感情だったからなのかもしれない。
 俺にはどうしても、安心できなかった。
 
 その思いが今、胸の中にまざまざと甦ってくる。
 
(どうか……どうか別人であってくれ!)
 
 祈りも虚しく、はるか前方で急ブレーキをかけて止まった車の運転席から降りてきた人影は、やっぱりあの男だったように見えた。
 
「くそっ!」 
 
 自然と歩く速度が速くなる。
 のんびりと散歩なんて、今となってはもうしていられない。
 
 自分にとっては、心臓の状態が即生死に関わるような今の状況で、無理は絶対にできなかったが、それでもあの男を放っておくこともできなかった。
 どこか不自然に、土手を駆け下りていく姿を目にすればなおさら――。
 
(まさか? ……そんなことはないよな?)
 
 半ば、もう駆けるような勢いで、見下ろした土手の下の川原で、あの男が真実さんに詰め寄っている光景を目にする。
 
 ざわっと全身が総毛だった。
 
(ちきしょう!)
 
 これは、いつか自分の手であの男を罰したいと願ったこともある俺に、与えられたチャンスなのだろうか。
 それとも命を掛けての選択を迫られているのだろうか。
 
 今無理をしたらいけないということはわかってる。
 じゅうぶんすぎるほどにわかっている。
 
 俺にもう次はない。
 これでもう、俺という人間の全てが終わるかもしれない。
 
(――でもそれでも!)
 
 俺は真実さんを守りたかった。
 本当はいつだって、全身全霊をかけて守りたかった。
 
 俺にできる方法でとか。
 できる範囲でとか。
 
 そんな制約もなしに、他の誰でもなく俺が守ってやりたかった。
 だからこれはやっぱり――。
 
(俺に与えられた最後のチャンスだ!) 
 
 思うと同時に駆け出した。
 これまで走ったこともない全力の速さで、思いのままに駆け出した。
 
 あんなに会いたかった人――どうしても守ってあげたい人の元へ。
 全てを捨てて、俺はなりふり構わずに走り出した。
 夢中で土手を駆け下りながら、警察に連絡した。

「すぐに行くから待ってなさい! いいか……無茶なことをするなよ!」
 携帯の向こうでは村岡さんが必死になって叫んでいるけれど、じっとしてなどいられるわけがない。
 
 心臓はこの上な速くく脈打っていたし、上手く息が吸えなくて呼吸も苦しい。
 でも俺は足を止めなかった。
 生まれて初めての全力疾走で、川原までの坂道を一気に駆けた。
 
 真実さんのもとにたどり着くとすぐに、彼女を両手の中に捕まえている男を力ずくで引き剥がす。
 もんどりうってうしろ向きにひっくり返った体に馬乗りになって、怒りの感情のままに滅茶苦茶に殴りつけた。
 
 男はどこか自己喪失の状態だったようで、特に反撃はしてこなかった。
 顔や頭を自分の腕で庇うようなこともなく、ただ俺に殴られるままになっている。
 
 大きな体がぐったりと動かなくなっても、自分のヤワなこぶしがとっくに割れて血に染まっても、俺は激情のまま、いつまでも自分自身を止められないでいた。
 
 そんな俺に向かって、真実さんが涙混じりに呼びかける。
「海君! ……海君!」
 
 必死に俺を止めようとしてくれていることはわかる。
 でも彼女の呼びかけにさえ、俺は自分を止めることができない。
 
「駄目だ! 言ったでしょ? 俺は絶対に許さない!」
 ギンと睨むような視線で、真美さんのほうをふり返ってしまう。
 
「真実さんを傷つける奴は、絶対に許さない! 俺が許さない!」
 実際、何度も何度も俺に殴られたその男は、もうとっくに動かなくなっていた。
 
 これ以上はもう意味がない。
 単に自分の気を晴らすことにしかなりはしない。
 
 それに息を吸うのさえ苦しいほどにせり上がってきた呼吸も、ガンガンと頭の中で鳴り響いている心音も、きっともう俺の限界を超えている。
 とっくに超えている。
 
 やめなければと思う。
 頭のどこかでは確かに思う。
 けれど感情が焼き切れたかのように、止まらない。
 
 ドサッと音をたてて、俺のうしろで真実さんが倒れた音がした。
 
 ふり返って見てみると、泣きながら地面に突っ伏す姿が目に入って、俺はようやく、血の滲んだこの手を、人を傷つける以外のことに使う術を思い出した。
 
「真実さん……」
 急いで助け起こそうとする俺の腕をかいくぐって、彼女は逆に座ったまま俺の体にすがりつくようにして、俺を抱きしめた。
 
「嫌だよ! 海君……嫌だよ!」
 悲鳴のような声が、俺を正気にさせた。
 
 我に返ると同時に、もうどうしようもなく苦しくなっている体を自覚した。
 真実さんの前だからせいいっぱい無理して平気なフリをしたいのに、できない――もうできるわけがない。
 
「うん……」
 苦しい胸を押さえながら、彼女の肩に頭を乗せて、それでもなんとか言葉だけは、
「ラッキー……会えたうえに、真実さんに抱きしめられた……!」
 なんて呟く。
 
 不安で不安でたまらない心を表わすかのように、真実さんが俺を支える腕に力をこめるから、どうにかして安心させてやりたくなる。
 
 必死に囁く。
「大丈夫だよ……真実さん。大丈夫……」
 
「でも、海君……!」
 それ以上の言葉を口にされる前に、俺は急いで彼女の唇を自分の唇で塞いだ。
 
(大丈夫だ……真実さんが「自分のせいで……」なんて気にしてしまうような最期なんて、俺は絶対に迎えない!)
 
 もうどうしようもない具合の悪さを、意志の力だけでねじ伏せようと努力する。
 
 ずっとずっと会いたくて、触れたくてたまらなかった人の涙に次々と唇を寄せながら、俺は笑顔を作った。
 必死に作った。
 
「本当はいつもみたいに『送るよ』って言いたいところなんだけど……さすがにそれは無理だから……ゴメン……貴子さんたちに連絡して迎えに来てもらって……?」
 
 涙をポロポロと零しながらも、真実さんが頷いてくれるので、少しホッとする。
 
 地面に横たわったまま、もうピクリともしない男を顎で指しながら、
「あいつももうすぐ迎えが来るから……」
 胸ポケットから出した携帯電話を、俺は真実さんに向かって振ってみせた。
 
 真実さんは真剣な顔で、コックリと頷いてくれた。
 
 あまりの出来事に深く傷ついて、蒼白になってしまっている小さな顔が、胸に痛い。
 ――でもこれから俺は、さらに彼女を傷つけることになるかもしれない。
 
(ここから歩いて病院に帰ることは、もうできない……だからゴメン……本当にゴメン……!)
 
 口にも出して、先に真実さんに謝った。
「真実さん……ゴメンね」
 
 そしておもむろに、いつだって履歴の一番先に出てくる番号に電話した。
 
 きっとまだ学校に着いたばかりの時間なのに、一度コールしたかしないかくらいの速さで、電話の向こうから不機嫌な声が聞こえてくる。
 
「海里? ……何?」
 真っ直ぐに俺の顔を見上げて来る真実さんに小さく頭を下げてから、俺は彼女の顔から視線を逸らした。
 
「……ひとみちゃん? 俺。悪い……ドジった。動けない。迎えに来て」
 
 それが真実さんにとって、どんなに残酷なセリフなのかはわかっていた。
 俺にだってよくわかっていた。
 ――でもどうしようもない。
 
「どこにいるのよ! ……どうしたのっ?」
 電話の向こうのひとみちゃんの怒鳴り声も含めて、本当に救いようのない馬鹿な自分に、腹が立ってたまらなかった。
 
 
 もし俺が真実さんの立場だったらどうだろう。
 大好きな人が自分の目の前で、自分以外の人に助けを求めたとしたらどんな気持ちがするだろう。
 
 耐えられるわけがない。
 悲しくて悔しくてたまらないとわかっているのに、俺は真実さんの前で、そんなことばかりをくり返している。
 
 深く俯いてしまった小さな頭が、必死に自分の中の感情と戦っているとわかるのに。
 もう俺にはそんな資格なんてないってこともわかってるのに。
 ――抱きしめてしまう。
 
「ゴメン真実さん……」
 
 今にも消えてなくなってしまいそうなほどに、彼女を傷つけているのは、あの男でも他の誰でもない。
 俺自身だ。
 なのに、抱きしめる腕を解くことができない。
 
 二人でいた間もいつもいつもそうだったように、俺のことをまるごと許してしまう真実さんは、黙ったまま首を横に振る。
 その仕草がなおさら胸に痛かった。
 
(許さなくていい……! こんな俺を許したりしなくっていいよ!)
 
 しばらくすると土手の上に車が止まる音がし、タクシーから降り立ったひとみちゃんがこちらに向かって走ってきた。
 
 慌てて俺の腕の中から逃げ出そうとする真実さんを、俺は放すもんかと強く強く抱きしめる。
 
「海君?」
 真実さんは訝しげに俺の顔を見上げてくる。
 
 俺たちの姿を発見したひとみちゃんも、大きく目を見開いて、かなり驚いていることが遠目にもわかる。
 
 痛いくらいに二人の視線を感じて、だからなおのこと、俺にはわかった。
 どんな時だって俺が大切なのは、結局真実さんだとわかってしまった。
 
 残酷だけど、この上なく自分勝手だけど――やっぱり真実さんなんだ。
 
「……海君!」
 俺は抗う真実さんを力でねじ伏せて、ひとみちゃんの前で無理やりもう一度口づけた。
 
 いったい何に対してだか、誰に対してだかよくわからないままに、自分の気持ちを確かに表明してみせた。
 
「なによ! ……じゅうぶん元気じゃないのよ!」
 怒ったような呆れたようなひとみちゃんの声に、どこかホッとした。
 
 俺を睨みつける視線には、非難の色ばかりではなく、どこか傷ついたふうな色も確かに含まれている。
 それでもひとみちゃんが怒ってくれたおかげで、俺と彼女の関係はまた新たな方向へ、一歩進みだしたような気がした。
 
 強く強く抱きしめてから唇を放すと、俺は真実さんの顔をのぞきこんだ。
「真実さん……また今度」
 
 苦しい声で、なんとか次の約束を結ぼうとする。
 もう一度、彼女のそばに戻ってくるために。
 今にも消えてしまいそうな俺の命を、どうにかこの世界に繋ぎとめておくために。
 
 でも真実さんは心配そうな顔をして、何度も首を振った。
「でも……海君……!」
 
 それ以上言われたら、また唇を塞いでしまおうという思いで、俺はじっと真実さんを見つめる。
 肩では大きく息をくり返しながらも、静かに眼差しを注ぐ。
 
 いつだって誰よりも敏感に俺の意図を読み取ってしまう真実さんには、それだけでじゅうぶん、俺の意志が通じたようだった。
 
 急に、ほんの少し微かに笑いながら、
「……もう、私に会いに来ないんじゃなかった?」
 なんて尋ねられるから、ついついニヤリと笑ってしまう。
 
「うん、そうなんだけど……でもこれは、真実さんと約束しておかないとヤバイんだ……俺にはわかるんだよ……正直かなりヤバイって……! 俺はね……真実さんが『私のせいで……』なんて思ってしまうような死に方だけは、絶対したくないんだ……!」
 
 瞬きすることさえ忘れたように、真実さんは俺の顔を凝視した。
 
「だから約束させて……きっとまた会いに来る……ね?」
 しばらくしてから、また俺の意図を汲んだようにコクコクと頷いた彼女に、俺はホッと笑いかけた。
 
「じゃあ約束……」
 どうにか、自分の気持ちを奮い立たせるための約束を手に入れることができて、ようやく安堵した。
 
 だから目の前に立つひとみちゃんに、図々しくも手をさし伸べる。
「ありがとう……ひとみちゃん……」
 
 細い腕からは想像もできないくらいの力強さで、俺の体を引き上げた彼女は、俺の腕を自分の肩に廻すようにして、しっかりと支えた。
 
「いつかこんなことになるんじゃないかと思ってた……」
 耳に痛い苦言と共に、咎めるようなキツイ視線を真実さんに向けるから、俺は急いで口を開く。
 
「真実さんのせいじゃない……!」 
 
 非難だったら、受けるのは俺一人だ。
 それだけは絶対譲れない。
 
「だって……!」
 不満混じりに言い募ろうとするひとみちゃんに、俺はきっぱりと言い切った。
 
「俺が自分で決めたことだから」
 
 ――だから真実さんには責任はない。
 絶対にないんだ。
 
 フンとそっぽを向いたまま、ひとみちゃんは俺を支えて歩きだした。
 
「なによ……かっこつけちゃって……!」
 
 なんとでも言ってくれ。
 自分に対する非難の言葉だったらいくらだって受け取る。
 甘んじて受ける。
 だから真実さんを責めないでほしい。
 
 祈るように歩き続ける俺に、ひとみちゃんがひっそりと問いかける。
「ねえ……あそこで伸びてる男……ひょっとして海里がやったの?」
 
 俺は小さく苦笑した。
「うんそう……どう? やっぱりかっこよくない? 見直した?」
 
「バカ!」
 いつものようにひとみちゃんが怒ってくれたところで、俺はようやく無理に無理を重ねて開いていた口を閉じた。
 
 じっとりと体中に冷や汗が浮かんでくる。
 ひとみちゃんに負担をかけないようになんとか足を動かしているだけで、今はせいいっぱいだった。
 
「ほんっとに……バカ……!」
 涙まじりに呟かれたひとみちゃんの言葉にこれ以上軽口で答えることも、俺たちを胸が張り裂けそうな思いで見送っているだろう真実さんをふり返って、もう一度笑ってみせることも、もうできなかった。
 
 ――ひょっとしたらもう本当に二度とできないかもしれないという思いを噛みしめて、俺は静かに目を伏せた。
 
 ひとみちゃんが待たせていたタクシーの後部座席に、倒れこむように乗りこんだ。
 砂浜に座りこんで、一人で海を見ていた。
 三方向を岩場に囲まれて、小さく切り取られたような小さな海。
 この光景には確か見覚えがある。
 
(そうだ……真実さんのお気に入りのあの場所だ……!)
 
 何枚も何枚も。
 絵にも描いたんだからまちがいない。
 
 彼女に俺の秘密を告げて、サヨナラを決めて、一緒に降るような星空を眺めたあの砂浜に、どうして俺は一人で座っているんだろう。
 
 首を傾げる。
 
 太陽はまだ高かった。
 照りつける陽射しも、夏の気配を色濃く残すかのように、あの日のそれとまったく変わらなかった。
 
 膝を抱えて座っている俺の背中に、ポンと何かが当たる。
 ふり返って見てみると、柔らかくて大きなボールだった。
 
 どうやら持ち主らしい小さな少年も、いつの間にか俺の真後ろに立っていて、一瞬ドキリとする。
 
「これ……君の?」
 ボールを取り上げて見せるとコックリと頷くから、投げてやる。
 
 大きく投げすぎて少年がつかみ損なったボールが、そのまままたコロコロと波打ち際まで転がっていきそうだったので、俺は慌ててあとを追った。
 
「ゴメン、ゴメン……ちょっと高かったね」
 
 今度は少年の小さな手にボールをしっかりと手渡ししてやりながら、ふと不思議なことに気がついた。
 
(……全然苦しくない……?)
 
 最近ではちょっと緊張したり、速い動きをしたりすれば、ドキドキと脈打ち始めていた俺のヤワな心臓が、まったくといっていいほど変化しない。
 すぐにあがってばかりだった息も全然乱れていなかった。
 
 不思議に思いながらも、ボールを受け取ったまま微動だにしない少年に笑顔を向ける。
「どこから来たの? 誰かと一緒?」
 
 少年は静かに首を横に振る。
 
 確かこの場所には「自分以外は誰も来ない」なんて真実さんが言ってなかっただろうか。
 
 実際、人通りの多い場所からはかなり離れているし、車が入ってこれるような砂浜でもなく、長い距離を黙々と歩かなければたどり着けない。
 
 そんなところだと言うのに、おそらくまだ小学校にも入学していないだろう少年が、一人で来たというのだろうか。
 保護者もなしで。
 
「家が近いの?」
 少年はまたも黙ったまま首を横に振った。
 
「そっか……」
 なんとなく、何を聞いても言葉で返事をしてくれることはないような気がして、俺は対処に困った。
 
 ふと、少年が大事そうに両手に抱えているボールに目を向ける。
「一緒に遊ぶ? ……ボールを投げっこしようか?」
 
 それまでどちらかといえば無表情に、俺の顔をじっと見つめていた少年がニッコリと笑った。
 笑うと大きな丸い目がほんの少しだけ下がり気味になって、とても可愛らしくなる。
 その笑顔にドキリとする。
 
(あれ……? この子どこかで会ったことあったっけ……?)
 
 見覚えがあるような気がする。
 でもいつどこでだかは思い出せない。
 
 首を傾げる俺に向かって、少年の放ったボールが飛んできた。
「あ、悪い!」
 
 指先で弾かれて飛んでいってしまったボールをすぐに追いかける。
 足元は砂浜だし、ただ走るだけで俺には重労働のはずなのに、不思議と体にはなんの変化もなかった。

 ボールを投げたり、転がしたり、わざと取り逃がして追いかけてみたり。
 楽しそうに笑う少年の様子を見ながら、どんなに調子に乗ってみても心臓も呼吸も全然苦しくならない。
 
(おかしいな?)
 と思いながらも、いつしかそんなことも忘れて、俺は夢中になってその子と遊んでいた。

 
 子供の頃、こんなふうに遊ぶ兄貴と父さんの様子を、俺は遠くからただ見守っていた。
 心の中では憧れながらも、それを口に出すことさえできず、ただ笑って見ていた。
 
 その時のちょっと切ない思いを思い出す。
 憧れていた光景を実際に自分で体験できて、嬉しい思いを抱えながらも、俺は苦笑する。
 
(でもこれじゃあ……俺が父親の立場だよな……)
 そう考えてから、改めてハッとした。
 
(そっか……! この子、俺の小さい頃に似てるんだ!)
 人より少し白すぎる肌とか、目鼻の感じとか、くせのある髪とか、俺がこれぐらいの頃によく似ている。
 
(笑うとちょっと下がっちゃう目までね……)
 そう気がつくとなんだか親近感がわいて、ますます少年と遊んでいるのが楽しくなった。
 
 体の調子が悪くならないのをいいことに、追いかけっこをしたり、砂の城を作ったり、水をかけあったり、時間が過ぎるのも忘れてたくさん遊んでから、俺は少年の頭をそっと撫でた。
 
「そろそろ帰らなきゃ、おうちの人が心配するよ」
 少年はこコックリと頷いてニコニコ笑う。
 
 その笑顔につられるように、俺も笑いながら、
「俺も、もう行かなきゃ」
 と自然と口から言葉が出てきた。
 
(どこに?)
 と自分に問いかける必要もなかった。
 
 さっきからずっと、遠い遠い海の向こうから呼ばれている気配を感じていた。
 ただ、すっかり俺に懐いて、まとわりついてきてくれる少年と別れるのが辛くて、気がつかないフリをしていた。
 
 でもそれももう限界だ。
 行かなければならないと、俺の中の何かが告げる。
 
「じゃあね。気をつけて帰るんだよ」
 
 決して同じ方向には行けない少年の頭をもう一回撫でて、それでお別れしようと思っていたのに、彼はふいに両手で俺の手をつかんだ。
 
「ダメ……まだ行っちゃダメ!」
 
 初めて聞いた少年の声は、まだあどけなくて可愛らしいものだった。
 でもその中に、有無を言わせぬような強さを秘めている。
 
「約束したでしょ? ……だからまだ行っちゃダメ……!」
 
 涙を浮かべて俺をじっと見つめる黒目がちの大きな瞳が、ふいに一人の人を思い出させる。
 
 ――真実さん。
 
 彼女を思い出すと同時に、俺は彼女と交わした約束を思い出した。
 
『もう一度、会いに来るから』
 
 俺は確かに彼女とそう約束した。
 
(そうだ……まだ行けない……! 真実さんとの約束を守らなくちゃならない!)
 
 海の向こうから執拗に俺を呼ぶ声に背を向けた。
 
 俺を引き止めてくれた不思議な少年の顔を、のぞきこむようにして笑いかける。
「ありがとう」
 
 それはそれは嬉しそうに笑い返してくれた笑顔が、やっぱりどこか真実さんを思い出させた。
 
(俺と真実さんに似てるなんて……それってなんだか……)
 
 照れ臭いような思いで見つめる少年の顔が、次第にぼやけて見えなくなる。
 
 青い空も白い雲も、巨大な岩も砂浜も、全てがかすんで見えなくなって行く中、ひとみちゃんの悲鳴のような声が聞こえた。


 
「海里!」
 
 まるで泣いてるような声に急いで返事しようとするのに、それができなくて、口元に酸素マスクがあてがわれていることに気がつく。
 
 ほんのついさっきまでどんなに走ってもまったく苦しくなかった心臓が、静かに横になっているというのに締めつけられるように痛くて、どちらが現実なのかを身を持って知る。
 
(そっか……夢だったのか……)
 
 そう思った瞬間には、それがどんな内容のものだったのか、もう思い出せなかった。
 でもとても楽しくて、嬉しい思いをたくさん感じていたことだけは、なんとなく覚えていた。
 
(俺……助かったのかな……?)
 
 ひどく苦しい状況にいることには変わりないが、とりあえずまだ生きてはいるようだ。
 
 薄く目を開いた俺に気がついたひとみちゃんが、
「海里! 気がついたの?」
 すぐ近くで叫んでいる声が聞こえるから、俺は点滴のチューブが何本も繋がった左手を微かに持ち上げて返事をした。
 
 真実さんとずっと繋いでいると約束した左手――この手をまだ自分の意志で動かすことができて、それを自分の目で確かめることができて、本当によかった。
 
 ――真実さんをひどく傷つけるような最期を迎えずにすんでよかった。
 
 助けてくれた『誰か』に感謝を捧げたいくらいだった。
 
 そう――俺をこの世に引き止めてくれた『誰か』に。
 
 ベッドの上に起き上がれるようになるまで三日。
 ベッドから離れて歩き回れるようになれるまでに、さらに三日かかった。
 
 そんなに寝てばかりもいられないと、勝手に窓際の椅子で絵を仕上げていたら、ひとみちゃんに目を剥いて怒られた。
 
「何考えてるのよ! 助かったのが奇跡みたいなもんだって、先生にもあんなに言われたでしょ!」
 
 いつものように彼女をからかって、軽口を叩く気持ちにはなれない。
 俺を見つめるひとみちゃんの目はあまりにも真剣すぎる。
 
 今回の発作で俺が生死の境をさまよっている間に、どうやらひとみちゃんにも本当のことが伝えられたらしい。
 ――つまり、俺の命はどっちみちもう長くはないということを。
 
 自分がその事実を知らされていなかったことに泣いて抗議したという話も、だったらなおさら止めるんだったと、俺の自分勝手をこれまで許してきたことを悔やんだという話も、全部あとから兄貴に伝え聞いた。
 
 俺に直接対する時のひとみちゃんの態度は、これまでと何ら変わらない。
 でもそのいつもどおりの中に、どれだけ彼女の苦悩が隠されているか――俺にだって想像はできた。
 
 真っ赤な目はいつだって、咎めるように――それ以上にどうしようもなく悲しそうに、俺を見つめる。
 
「ゴメン……」
 その表情を今さらからかう気なんかとてもおきなくて、力なく素直に謝ると、ひとみちゃんは一瞬泣きそうな顔になった。
 
 つられるように俺の涙腺まで緩んでしまいそうになるから、急いで視線を画布に戻す。
「もう少しでできあがるから……ゴメン……」
 
 最後まで聞かないままに、ひとみちゃんは俺に背中を向けた。
「バカ……」
 
 口にしているのはいつもどおりのセリフなのに、涙まじりでまるで覇気のない声が、胸に痛かった。


 
「じゃあこれを学校に運んだらいいのね? 文化祭の展示にまわすのよね……」
「うん」
 
 両手で抱え切れないくらいのキャンバスを持って、ヨロヨロと部屋から出ていこうとする背中に、俺は笑いかける。
 
「前から見たら、まるでキャンバスが歩いてるみたいだろうね……」
「私が背が低いって言いたいの?」
「いや……そんなことはないよ」
 
 実際ひとみちゃんはそう背が高いほうでもないが、俺の脳裏には、彼女よりもっともっと小柄な人の姿が、一瞬ありありと思い出されていた。
 
 どうしようもなく胸が痛んで、俺は苦笑した。
 俺の顔を上目遣いに見上げる大好きな笑顔は、今だってこんなにしっかりと俺の心に焼きついている。
 
(真実さん……!)
 最後にあんな別れ方をして、どんなに心配しているだろうと思っているのに、俺はまだ彼女に会いに行けていない。
 
 ――『また会いに来る』という約束を果たせていない。
 
(行かなくちゃ……)
 ジリジリとうしろから追い詰められるような思いではなく、穏やかにそう思えているうちはまだ大丈夫だった。
 
(きっと近いうちに……)
 そんなふうに、呑気にかまえていられるうちはまだよかった。
 
 けれど日数が過ぎていくと同時に、ゆるゆると下降していく自分の体調に気がついてしまったら、もう悠長にかまえていることができなくなった。
 
(このままじゃダメだ……きっと約束を果たせないまま、この場所で最期の時を迎えてしまう……!)
 
 そう思った俺は、父さんと兄貴と石井先生とひとみちゃんに、最後のお願いをすることにした。


 
 俺が意識不明の状態で病院に運びこまれてから、父さんは仕事を全部あと回しにして、足しげく病院に通ってくれている。
 
 もとから毎日来てくれていたひとみちゃんと、暇を見つけては顔を出してくれていた兄貴に到っては、空いている時間全部を病院で過ごしていると言ってもいいくらいだ。
 
(まったく過保護なんだから……)
 
 以前は皮肉交じりに嘆息していたその状況も、今となってはもう笑うことはできなかった。
 ただありがたいと――心から感謝する自分がいる。
 
(心境の変化……? いや、そうじゃない……かっこつけて強がってみせる時間が、自分にはもうないって……わかるからだ)
 
 それは不思議な感覚だった。
 
 自分を取り巻く環境も、周りの人たちの対応も、これまでとはなんの変化もない。
 けれど受け止めるこちらの思いが違うだけで――今日こそ、今度こそ、これが最後になるかもしれないって確かに覚悟しているだけで、この上なく優しい気持ちになれる。
 
(まちがいなく本当の気持ちしか、俺にはもう告げる時間がない……)
 
 その心のままに、俺はベッドの上で父さんたちに頭を下げた。
 
「行きたいところがあります。会いたい人がいます。ひょっとしたらそれが自分の最期になるかもしれなくても……ごめんなさい。どうしても行きたいんだ……」
 
 誰の顔も見えないくらい深く頭を下げていても、ひとみちゃんが何か言おうと動いたことがわかる。
 兄貴がそれを止めたことがわかる。
 
 自分の意識が体の中にあるのか。
 それともとっくにそこからは抜け出して、はるか頭上からこの光景を眺めているのか。
 どちらとも言えないくらいにハッキリとわかった。
 
「ごめんなさい……最後のお願いです」
 
 みんなが息を呑む。
 そうなることがわかっていて、俺はあえてそんな言い方をした。
 
 長い長い沈黙のあとに、顔を上げないままの俺の耳に、父さんの声が聞こえてきた。
 
「ずっと後悔していたことがある……母さんが亡くなった時……倒れてから最期まで意識は戻らないままだったけれど……海里を連れて行ってやれなかったこと……最期のお別れをさせてあげられなかったこと……ずっとずっと……あれでよかったんだろうかって後悔してた……」
 
「父さん……?」
 思いがけない言葉に俺は顔を跳ね上げた。
 
 兄貴もひとみちゃんも、驚いたように父さんに注目していた。
 
「母さんは海里に会いたかったに決まってるのに……どうしてわかってやれなかったんだろうって、それが悔しかった……」
 
 ギュッと一瞬固く目をつむったあと、俺の心に切りこんでくるかのように真剣な顔で父さんは尋ねる。
 
「海里がどうしても行きたいって言うんなら……それを止める権利は誰にもない……行くか?」
 
 これまで父さんや兄貴が俺に注いでくれた愛情だとか。
 石井先生の懸命な治療だとか。
 ひとみちゃんのいろんなものを犠牲にした思いだとか。
 
 さまざまなものと真実さんへの想いを俺は秤にかけた。
 そして次の瞬間には大きく頷いていた。
 
「うん。行きます」
「わかった。私が連れていく」
 
 俺の肩をポンと叩いてそう言った父さんに、反論する者はなかった。


 
「俺は先に父さんに連れていってもらうから……ひとみちゃん……真実さんを呼んできてくれる?」
 
 段取りを相談し始めた父さんたちにはわからないように小さな声で、図々しくもそう持ちかけた俺に、ひとみちゃんはキッと鋭い眼差しを向けた。
 
「なんで私が……!」
 予想どおりの反応に思わず笑みが零れてしまって、ますますひとみちゃんを怒らせてしまう。

「絶対に嫌よ!」
 こぶしを握りしめて小声で叫んだ姿が、小さな子供の頃から変わっていなくて、なんだか愛しくて、ますます笑わずにはいられなかった。
 
「頼むよ……俺の最後のお願いだから……ね?」
 
 ひとみちゃんに頼んでばっかり、頼ってばっかりの自分の人生を棚に上げて、この上そんなことを願うと、本当は優しいひとみちゃんは怒りながらも俺の願いを聞き入れてくれる。
 ――ズルイ俺はそれをちゃんと知っている。
 
 いつもいつもそうだったから。
 小さな子供の頃からずっとそうだったから。
 
「だって……なんて言えばいいのよ……?」
「俺が呼んでるって……それだけでいいよ。きっと真実さんには伝わるから……」
 
 ハアアッと大きなため息をついて、ひとみちゃんは俺に背を向けた。
「海里って本当にバカ……! でも私は……もっと大バカだ……!」
 
 怒ったように拗ねたように、遠くなっていく背中に俺はせいいっぱい声をかけた。
 
「俺は確かにバカだけど……ひとみちゃんはバカじゃないよ……優しすぎるくらいに優しい……素敵な女の子だよ……」
「バカアッ!」
 
 泣きながら走っていってしまう背中を見送って、俺の目からも涙が溢れた。
 きっともうすぐ彼女の「バカ」を聞くこともなくなるんだと思うと、どうしようもなく溢れた。
 
 
 
 真実さんと初めて一緒に行ったあの海に連れていってもらって、俺は父さんの車を降りた。
 
「いってきます……」
 笑って言えた俺に、父さんも笑い返してくれたから、そのまま波打ち際に向かって歩きだすことができた。
 
 夏の初めに真実さんとここに来て、並んで座ったように、砂の上に足を投げだして座りこむ。
 
 とっくに終わってしまった海水浴の時期に、結局ここを訪れることはできなかったけれど、やっぱり人でごった返していたのだろうか。
 そんな様子は微塵も感じさせないくらい、今は人の姿はまったくない。
 
 平日の真昼間。
 散歩するにもおかしな時間だし、当たり前と言えば当たり前なのだが、人がいないことで、この広い場所がまるで自分一人のものであるかのように感じられて、なんだか嬉しくなる。
 
 海風に飛ばされた帽子もそのままに、俺は砂浜に座ったまま、長いこと空を見上げていた。
 
 残念なことに、夏の初めに真実さんと来た時のようなよく晴れた青空は見ることができなかった。
 けれどぶあつくたちこめた雲のおかげで、いいものを発見してちょっといい気分になる。
 
(ああ……あれって……!)
 
 病室のベッドの上で空を見ていることの多かった頃、雲の形や種類から特別な名前がつけられたものを夢中になって覚えたことがあった。
 その中の一つを発見して、それがまた今の俺の状況にあまりにもぴったりで、思わず微笑む。
 
 その瞬間、後方に車の止まった音がして、続けてバタンと扉が閉められた音がした。
 
 ドキリと飛び跳ねた心臓を懸命に抑えて、ゆっくりとふり返る。
 ひとみちゃんに先導されるように、小さな人影が立っていて、やっぱりこらえようもないほどに胸が高鳴った。
 
(よかった……! また会えた……!)
 たったそれだけのことにさえ涙が浮かんできそうになる思いを懸命に我慢して、俺は笑った。
 
「真実さん!」
 
 俺に向かって一目散に駆けてくる姿が愛しかった。
 
 ――やっぱり何よりも誰よりも、俺の短い人生の中で一番大切だったんだと、確かに実感した。
 砂浜に座る俺の隣へと駆けこんできた真実さんを、すぐに腕の中に抱きこんだ。
 
 彼女が確かにここにいるということを体中で感じて、心から安堵する。
 自然と腕に力がこもった。
 
「会いたかったよ」とか「会えてよかった」とか、本音を口にしたら泣いてしまいそうだったので、俺はついさっき見つけたばかりの小さな発見を、得意げに彼女に披露する。
 
「ねえ真実さん……『天使の梯子』って知ってる?」
 腕の中から真っ直ぐに俺の顔を見上げて、真実さんは笑う。
 
「突然、何? 『天使の梯子』……? ううん、知らないよ……?」
 聞きたいこともあるだろうに、言いたいこともあるだろうに、いつだって俺にあわせてくれるその優しい笑顔に、胸が締めつけられるほどに苦しくなる。
 
 体調の悪さだけは決して悟られるわけにはいかないと、俺はせいいっぱいの無理をして笑顔を作った。
「そっか。あれだよ。あれ!」
 
 海の上の空を指差した俺の手に従って、真実さんが首を捻って視線を移した。
 
 俺が指した空には、厚く何層もの雲が垂れこめている。
 その向こうに微かに太陽の気配がある。
 ところどころに現われる雲のすき間から真っ直ぐに伸びるように、太陽の光の筋が何筋か、海へと落ちていた。
 
 瞬きする間に、本数も太さも刻々と移り変わっていくその光の筋は、ヨーロッパではヤコブの梯子とも、天使の梯子とも呼ばれている。
 天使が行き来する、天へと続く梯子なのだそうだ。
 
「そっか……綺麗だね……」
 
 ため息を吐くように呟いた真実さんに、俺はそっと囁いた。
「うん。あれはね、俺のための梯子なんだ……俺が空の上に行くための梯子……」
 
 驚いたように俺の顔を見つめる表情がやっぱり胸に痛い。
 だから俺はなおさらなんでもないように、彼女に向かって笑ってみせる。
 
「なんだか、かっこいいでしょ?」
「うん、かっこいい」
 
 真実さんも笑ってくれてホッとした。
 だから今を逃さずに、俺の願いを伝えておく。
 そう、他の人に残したのと同じように――これが真実さんへの、俺の最後のお願い。
 
「真実さんが笑ってると俺はそれだけで嬉しい……だから笑っててね」
 
 彼女の顔から目を逸らして、空を仰ぐようにしながら告げた。
 次に出す言葉に真実さんがどんな顔をするか。
 あまりにも胸が痛くて見届けることはとてもできなくて、空を見上げたままさらに続けた。
 
「俺がいなくなっても……笑っててね」
 
 真実さんが小さく息をのんだ気配を感じて、目を逸らしていることもたまらなくなって、俺はもう一度彼女の顔に視線を戻した。
 少し首を傾げて、俯いた顔をのぞきこむ。
 
「笑っててね。お願い。わかった?」
 
 無茶を言ってるのは十も百も承知だ。
 それでも彼女に笑顔で念を押す俺は、やっぱりどうしようもなく身勝手だ。
 
 なのに真実さんは、真っ直ぐに自分の頭上の空を見上げて、
「うん。わかった」
 と夢のような返事をくれる。
 
 瞬間、彼女の目から零れ落ちた一筋の涙を、俺は指先ですくい取った。
 
(ゴメンね……)
 
 いつも口癖のように言っていたその言葉だけは、今は口にしなかった。


 
「……ひとみちゃんと何か話した?」
 
 長い沈黙の後。
 そんな質問をぶつけてみると、真実さんはちょっと困ったように笑う。
 
「うん……私を許さないって……」
 
 あまりにもひとみちゃんらしいその言い方に、思わず吹き出してしまった。
「ハハハッ、らしいや!」
 
 そうしておいてすぐに、真実さんがどんなに傷ついただろうかということに思い至って、彼女を抱きしめる腕に力をこめる。
「俺のせいでゴメンね……」
 
 真実さんは小さく息をのんで、俺の顔を見上げた。
「どうして海君のせいなの! 私のせいで……!」
 
 きっとこの数週間。
 彼女は何度も何度もその叫びを心の中でくり返していたんだろう。
 どうしようもないほどに自分を責めていたんだろう。
 俺にはわかる。
 
 だからもうこれ以上口にさせたくはなくて、俺はすぐ目の前にあった彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 そしてゆっくりと唇を離してから、ごく至近距離で真実さんの目を真っ直ぐに見つめた。
 
「なんのために自分は生まれてきたんだろうって考えたら……やっぱり誰かと出会うためにって、思いたいじゃない?」
 
 彼女の頬を両手で包みこむようにして、一言一言ゆっくりと、心に焼きつけるかのように、力をこめて告げる。
 
「真実さんを守るために俺は生まれてきたんだって……やっぱり胸を張って言いたいじゃない? ……だから俺は全部を投げだしたんだ……本当に大切な物以外、俺が自分で放棄した……それはやっぱり俺の自分勝手だから……だからゴメン」
 
 反論も訂正も受け付けないとばかりに、もう一度キスで真実さんの口を塞いでから、俺は彼女を抱きしめた。
 
「真実さんの気持ちも、これから一人にしてしまうことも、何もかも俺は無視した……だからゴメン」
 
 耳元でくり返す言葉に、彼女はそっと首を横に振る。
「一人じゃないから……」
 そしていつもそうしていたように、右手を俺の左手と繋いでくれる。
 
「うん、そうだね。これからもずっと、いつも繋いでるんだったよね……」
 
 俺との小さな約束を、真実さんが覚えていてくれたことが嬉しくて、思わず笑顔になる。
 真実さんは繋いだままの俺の手を、そのままそっと自分のお腹に当てた。
 
「二人でもないんだよ……?」
 
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 
 真実さんの言葉と突然の行動の意味が頭の中で結びつくまでには、しばらく時間がかかった。
 
(えっ? それってまさか……?)
 
 そしてその信じられない知らせを、俺が確かに現実のものとして受け取るまでには、さらにもうしばらく――。
 
(本当に……!?)
 
 驚きのあまり言葉も出て来ない俺に向かって、真実さんが飛びっきりの笑顔を向ける。
「……驚いた?」
 
 それはもう確かにそうだったので、俺は慌てて頷いた。
「うん! ……うん!」
 
 他になんて言ったらいいのだろう。
 
(だってそんなことって……とても信じられない!)
 
 驚きのあまりにドキドキと心臓が脈打ち始める。
 
 それはかなり驚きの知らせだったが、と同時にこの上なく嬉しい知らせでもあった。
 でもどうしても、素直に喜んでばかりはいられない俺がいる。
 どうしようもなく動揺せずにはいられない俺がいる。
 
(だって……どうするんだ? 俺はきっと、もうこれ以上は生きられない……! どんなにそう望んだって、真実さんと一緒にこれから生きていくことはできない……! なのに……!)
 
 嬉しくってたまらない知らせを、こんなふうに否定的に受け取るしかない自分が、嫌でたまらなかった。
 
 そんな俺の心を救うように、真実さんはニッコリ笑う。
 
「私も自分のわがままでもう決めたことだから! ……海君の意見なんかなんにも聞かないで、もう決めちゃってるから! ……だからゴメンね」
 俺が返事もできないでいるうちに、一気に自分の決意を言い尽くしてしまった。
 
「私から海君へのサプライズでした。……どう? びっくりしたでしょ?」
 
 ちょっと茶化すように明るく笑う真実さんに、もう我慢できず俺は腕を伸ばした。
 自分の気持ちをせいいっぱい現わすかのように強く強く抱きしめて、耳元で小さく呟いた。
 
「ありがとう、真実さん」
 迷いも心配も投げ捨てた、ありのままの今の自分の本心を彼女に告げた。
 
「俺なんかの命を……繋いでくれてありがとう……!」
 
 俺の腕の中で真実さんが泣き出したのがよくわかった。


 
 誰かと恋をして、一緒になって、温かな家庭を作ってなんて――誰もが普通に夢見る未来を、俺はとうの昔に諦めていた。
 自分には望むべくもないなんて、最初っから背中を向けてた。
 
 なのに、そんな俺の前に突然現われて、あっという間に俺の見栄や建て前を壊してしまった真実さんは、今また、俺に望めるはずのなかったものを与えてくれようとしている。
 
 ――俺と彼女の命を受け継いだ新しい命。
 
 近い未来俺が死んでしまったあとも、彼女と共にあり続け、そのずっとあとまで脈々と受け継がれてゆく命。
 俺という存在が確かにここに存在したということの何よりもの証。
 
 それを真実さんは俺に与えてくれようとしている。
 
(ありがとう……!)
 何度口に出して言っても、心の中でくり返しても、とても言い尽くせない。
 
 彼女が俺に与えてくれたたくさんの幸せや温かな思いや、思いがけないプレゼントには、全部全部、どんなに感謝してもとても感謝しきれない。
 
(ありがとう……!)
 それでも心の中でくり返した。
 何度も何度もくり返した。
 
(ありがとう……!)
 くり返さずにはいられなかった。


 
 砂浜に寝転んで真実さんの膝に頭を乗せる。
 優しい手で髪を撫でられると、ついついそのまま眠りに落ちていきそうになる。
 
 ――ひょっとするとそれはもう、永遠の眠りかもしれない。
 
 そんなことを考えながらも、もう抗う力さえ残っていない俺を救うように、真実さんが時々そっと呼びかけてくれる。
 
「海君?」
 
 そのたびに、彼女の傍に、この世界に、もう一度帰ってこれる自分を何度も何度も実感した。
 
 まだ傍にいられる。
 ――そのことが嬉しくてたまらなかった。
 
 意識を失いそうになる自分を奮い立たせるように、俺は懸命に口を開く。
 
「俺……約束ちゃんと守ったでしょ……?」
 誇らしげに、自慢するように、彼女に一言一言語りかける。
 
「うん、また会えたね。ありがとう……」
 優しい笑顔を曇らせたくはなくて。
 でもやっぱり嘘はつけなくて。
 言い難い言葉も伝えられるうちにあますことなく伝えておく。
 
「でも次はもう約束できそうにないや……ゴメンね」
 
 真実さんはもう泣かなかった。
 困ったように――それでも笑顔で答えてくれた。
 
「海君はいつも私に謝ってばかり……!」
 きっと出会ったばかりの頃からずっと抱えていたであろう思いを、俺にぶつけてくれる。
 
 俺も自分の思いを伝えることに、もうなんの躊躇もない。
「うん……ずっと一緒にいれるわけじゃないって……いつかはおいて行かなきゃいけないってわかってたのに、声をかけたのは俺だからね……辛い思いを抱えて、これからも生きていかなきゃいけないのは真実さんのほうなのに……だからゴメン」
 
 真実さんが体を折り曲げるようにして、俺の頬にそっとキスをした。
「でもそんなことよりずっとずっとたくさん、私は楽しい思い出を貰ったよ? ……だから全然、ゴメンなんかじゃない!」
 
 その優しい言葉を噛みしめるようにして、俺は目を閉じた。
「思い出か……」
 
 その途端――俺の脳裏に、文字どおり俺の中の思い出をいっぱいに描き連ねたあのスケッチブックが浮かんだ。
 二人で行ったさまざまな場所で、その時々に、真実さんが俺に向けてくれたいろんな表情をたくさんたくさん描きこんだスケッチブック。
 
 俺が死んだら、一緒に棺に入れてもらおうと思っていた。
 でもどうだろう。
 真実さんに渡しても構わないんじゃないか。
 
 最後の最後に俺に最高のプレゼントをくれた彼女に、俺だって何かを残したい――。
 
 そう決断して、俺はもう一度力をこめて目を開いた。
 
「真実さん……じゃあこれから……本当の俺を探してくれる?」
 彼女の顔を見上げて、乞うように願うように問いかけた。
 
 俺を見下ろす優しい顔がふわりと微笑んでくれて、やっぱりどうしようもなく嬉しくなる。
 この想いこそが俺を奮い立たせる唯一の原動力となる。
 
「……本当の海君?」
「そう! どこの誰だか、探し出してみて……そしてもう一度、ひとみちゃんと話をしてあげて……」
 
 きっとこの瞬間も俺たちのことを見つめ続けているであろうひとみちゃんに、あとのことを頼んでおけばきっと大丈夫だ。
 
 真実さんには手がかりがあるんだから。
 ひとみちゃんというヒントがあるんだから。
『一生海里』という人間にたどり着くことだって、そう難しいことではないはず――。
 
「真実さんへのプレゼントを預けておくから。ひとみちゃんに会えたら、俺の最後のプレゼントを真実さんにあげる……ね?」
「……最後の?」
 
 苦しそうに真実さんがくり返した言葉に、俺はせいいっぱい笑った。
 限界なんてとうに越えて、懸命に笑った。
 
「そう『最後の』! ……だから必ずたどり着いてね……?」
 
 最後までなんとか言い切ることができて、ホッと息を吐きながら口を閉じる。
 と同時に目を閉じる。
 
 頭の下に真実さんの膝の感触を感じながら、優しく髪を撫でてくれる手の感触を感じながら、俺は深い眠りに落ちていった。
 
 額に真実さんがそっと口づけてくれた感覚がある。
 俺の体をぎゅっと抱きしめてくれた感じがする。
 
 でももう抱き返すことはできない。
「ありがとう」と言葉を返すこともできない。
 
 なんとか彼女の隣に留まろうと、必死に続けていた努力をする力を全て失って、俺は闇の中に落ちていく。
 深い深い長い闇。
 
 でも恐くはなかった。
 まだ最後に、俺にはやるべきことがあると。
 それぐらいはきっと神様だって待ってくれるだろうと。
 
 ――なんとなくそんな確信があった。
 予想どおり、俺はもう一度眠りから覚めることができた。
 おそらくはこれが最後の、本当に最後の目覚め。
 
 いつものようにベッドの横に朝食が運ばれてくる前に、ひとみちゃんはとっくに俺の病室に到着していた。
 
「目が覚めたの……? 海里」
 震える声で、何かに怯えたように問いかけられるから俺は苦笑する。
 
(ゴメン……目が覚めるのか覚めないのかなんて、心配させてしまうのはきっと今日でもう終わりだから……)
 
 決して口に出して言うことはできない言葉を心の中でだけ唱えて、俺はそっと身を起こした。
 
 まるで人間が生涯に発することができる言葉の数が、最初から決まってでもいたかのように、今日はあまり話せない気がする。
 不思議とそんな気がする。
 
 だから俺は本当に伝えなければならないことを吟味して、言葉にしようと朝から決意を固めた。
 
 天気は良かった。
 もう十月だというのに、窓から射しこんでくる陽光は、まだ夏を感じさせるほどに強いままだった。
 
 文化祭に展示する絵を完成させて以来、もう座ることもなくなった窓際の椅子には、俺のスケッチブックが置いてある。
 
 とっくに全てのページを埋め尽くして、しばらくは手にすることもなかったそのスケッチブックと、すっかり手に馴染んだ短い鉛筆を、俺はひとみちゃんに取ってもらった。
 
「何? まだなにか描くの?」
 きっと俺の体調を気遣ってだろう、厳しい口調で問い詰めてくるひとみちゃんに、俺は曖昧に首を横に振る。
 
「うん……でも絵じゃないよ……ちょっと言葉を入れておきたいんだ」
「ふーん?」
 
 ひとみちゃんが訝しげに首を捻りながら背を向けてしまってから、俺はそのスケッチブックの片隅に、ゆっくりと鉛筆を滑らせ始めた。
 
『真実さん、元気? 笑ってる?』
『忘れてない? 俺はいつだってすぐ傍で見てるよ』
『ほら、笑って笑って。真実さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しいんだから!』
『大好きだよ。いつまでもずっと大好き!』
 
 何度も何度もくり返し伝えたくて、いつまでも真実さんに忘れて欲しくない言葉たちを書きこむ。
 
『負けるながんばれ! 俺がついてる!』
『寂しくなったら空を見上げて、俺はいつも見てるから』
『真実さん笑って』
『いつも笑って!』
 
 困った時、悲しいことがあった時、傍にいて抱きしめることはもうできないから、なんとか彼女の支えになるような言葉を必死で書きこむ。
 
 二人で一緒に行った動物園で。
 手を繋いで歩いた川原で。
 並んで見た夕焼けの中で。
 はしゃぎまわったあの海で。
 
 俺に向けられた真実さんのいろんな表情の近くに、一つ一つ言葉を入れていった。
 
 満面の笑顔も、ちょっと拗ねたような上目遣いの表情も、照れたように俺を見つめる想いに溢れた瞳も、みんなみんな俺にとっては宝物だ。
 
 だから一緒に連れていく。
 記憶の中の真実さんだけは俺と一緒に遠いところに連れていってしまおう。
 
 本物の彼女はここに留まって、これからの生を生きていかなければならない。
 彼女を愛する人たちに囲まれて、まだこれからの長い人生を歩んでいかなければならない。
 
 その胸の中で、生き続けることができるのならば、俺はそれでいい。
 ふとした折に俺を思い出すことで、彼女が泣き顔じゃなく笑顔になれるんなら、ただそれだけでいい。
 
 そのためだったら俺はなんだってやる。
 ――なんだってやってみせる。
 
 いつか心に誓った想いと同じように、強く強く真実さんの幸せだけを願いながら、俺は短い言葉をいくつもいくつも書き連ねた。
 
「これを真実さんに渡してほしい。いつかきっと俺を探し出して、ひとみちゃんのところに来てくれるはずだから……」
 
 でき上がった『最後のプレゼント』をさし出しながらそう願った俺に、ひとみちゃんは予想どおり、それはそれは嫌そうな顔をした。
 
「なんで私が!」
 おおいに憤慨して叫ぶから、もう全然そんなことできるとは思っていなかったのに、思わず吹き出してしまった。
 
「お願い……頼むよ……これが本当に最後のお願いだからさ……」
「最後、最後って……! あんたにはいったい何回最後があるのよ!」
「あっ……やっぱり気がついた?」
「気がつかないわけないでしょう! 私をバカにしてんの?」
 
 俺は真顔で首を横に振った。
「ううん。信頼してるし頼りにしてるんだよ」
 
 ボッと火がついたように赤くなって俯くひとみちゃんに、二ッコリ笑ってスケッチブックをさし出す俺は底意地が悪い。
 とことん悪い。
 
「お願いします」
「……わかったわよ」
 
 プイッと顔を逸らしたままひとみちゃんが両手で受け取ってくれたから、俺は心から安心した。
 言葉のとおり、本当に彼女を深く信頼していた。


 
 やるべきことをやり終えてベッドの上に座っていると、激しい睡魔に襲われてくる。
 
 毎日ぐっすりと眠っているし、昨夜だって早々に寝て、ほんのついさっき起きたばっかりなのに、そんなに体が休養を必要としているんだろうか。
 
(まるでもういいんじゃないかって……もういいだろって急かされてるみたいだ……)
 
 根が天邪鬼な俺は、それが巨大な意志であればあるだけ、
(思い切って逆らってみようか……?)
 なんて悪戯心がわいてくる。
 
 でもこれまでも散々に自分勝手を押し通してきたんだから、最後ぐらいは素直に従おうと思う。
 
 自分が運命を素直に受け入れることで、真実さんや俺たちの間にできた新しい命に、いっそうの幸せを願おうというんだから、実は図々しいことこの上ないのだが――。
 
(だって……一目見ることさえできずに逝くんだから……それぐらいは大目に見てよね……)
 
 恩着せがましく、恨みがましく、俺は病室の窓越しに空を見上げる。
 
(頭を撫でてあげることも、抱きしめてあげることもできないんだから……)
 
 そう思った時、ふいに、一人の少年の顔が脳裏に浮かんだ。
 
 大きなボールを両手に持って、懐っこく俺を見上げてくる黒目がちの大きな瞳。
 
 ――いったいどこで出会った誰だろう。
 
 ゆっくりと思考をめぐらすまでもなく、答えはすぐに自分の中から出てきた。
 
「そうか……! そうだったんだ……!」
 驚きと感動で、全身が震えるような思いで呟いた。
 
 俺が大きな発作で生死の境をさまよった時、夢の中で出会った少年。
 今の今まですっかり忘れていたが、真実さんの秘密の場所で一緒に遊んだあの少年。
 
 ――彼は俺の小さい頃によく似ていて、笑った顔が真実さんそっくりだった。
 
「そうか……そうか……!」
 
 時間を越えて会いに来てくれたんだろうか。
 そして、真実さんとの約束を果たさないまま逝ってしまいそうになっていた俺を、引き止めてくれたんだろうか。
 
 堂々と胸を張って死んでいこうなんて――壮大な決意を込めて見上げていたはずの空が、次第に涙で滲んで見えなくなっていく。
 
(ありがとう……!)
 
 こんなに嬉しい気持ちで、こんなに幸せな気持ちで、最期を迎えられるなんて思ってもいなかった。
 
 だって俺には、やりたいこともまだいっぱいあって。
 思い残すこともたくさんたくさんあって。
 何より離れたくない大切な人がいて――。
 
 それでも子供の頃に思っていた、
「短いけれどいい人生だった」
 なんて言葉は、今のような未練たっぷりの俺だからこそ言えるんだと思う。
 
 真実さんと出会わなければ知ることのなかった、胸の痛みや悲しみや苦しさや辛さ。
 それら全部が、今の俺を形作っている。
 
 二人でいる時に感じた、幸せや優しさや愛しさや決して消えることのない想いが、今の俺の心の全てだ。
 
(全部抱えたまま逝くから……何ひとつ手放さないで、俺は俺のままで逝くから……)
 
 だから感じてほしい。
 君を――君たちを包む全てのものに、一つ一つ俺の想いが宿っている。
 
 これから出会う人。
 これから起こる出来事。
 全てに俺の想いが生きている。
 
『寂しくなったら、空を見上げて。俺はいつも見てるから』
 
 あのスケッチブックの中で真実さんに伝えた言葉どおり。
 俺は見てる。
 いつも見てる。
 
(あの高い空の上から……君たちの未来を……きっと)
 
 ――いつも見てるよ。
 
 
 霞んでゆく空から、見飽きるほどに見続けた病室の窓の風景に目を移し、俺はそっと目を閉じた。
 瞼の裏にはやっぱり真実さんの笑顔が浮かんだ。
 
 ――最後の最後にもやっぱり変わらず、それを思い浮かべられたことが、俺には何よりも嬉しかった。
 

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