静かな夜だった。
 明かりを全部消して部屋を真っ暗にしていても、小さな窓から射しこむ月の光だけで、隣にいる真実さんの姿がぼんやりと浮かび上がってくるような――どこか現実離れした幻想的な夜だった。
 
 ベッドに横になって寝る体勢はとってみても、とても眠る気になんかなれない。
 これが二人で一緒にいれる最後の時間だと思うと、そんなに簡単に終わらせてしまいたくはない。
 一分、一秒が惜しかった。
 
 真実さんだってきっと眠ってはいないだろう。
 だけどなんだか声をかけることはためらわれる。
 ただ隣に彼女がいる気配を体中で感じながら、俺はいろんなことを考えていた。
 
(明日からまた病院のベッドの上か……でもまあ、いろんな場所で真実さんのいろんな顔が見れたから、それを描くっていう楽しみはある……)
 
 笑顔も、怒った顔も、泣いた顔も、思い出せば頬が緩まずにはいられないくらい愛しい。 
 俺だけが知ってる――きっと俺だけに見せてくれた表情まで思い出すと、胸が苦しくなった。
 ドキドキと高鳴る心臓が、いつまでたっても収まらない。
 
 それが俺の舞い上がった感情からばかりではなく、かなり深刻な状況の前兆ではないかと気がつくのに、長い時間はかからなかった。
 
(ひょっとして……?)
 
 取り返しのつかないことになるのが恐くて、俺はゆっくりと起き上がる。
 椅子の背もたれにかけていた自分のシャツのポケットからいつものピルケースを取り出して、小さな命綱を口の中に放りこんだ。
 なんだかあまり軽視できない発作の前兆の状態に、よく似ている気がした。

(まさか……?)
 
 思い当る節ならば確かにある。
 俺はきっと、今の自分に許される以上に無理をして真実さんを愛した。
 ボロボロの心臓にかなり負担がかかって、悲鳴を上げているとしても不思議はない。
 
(大丈夫……でもまだ大丈夫……!)

 自分の体に言い聞かせるかのように何度も呟く。
 なんとしても倒れるわけにはいかなかった。
 少なくとも真実さんと実際にサヨナラするまでは――。
 そうでなければ、最後の最後にどんなに彼女を傷つけることになるだろう。
 
(だから大丈夫! 俺は絶対に大丈夫!)
 
 ごまかしの言葉が効いているうちに、早く朝が来ればいいなんて――本心とは真逆のことを願わなければいけない自分が悔しかった。


 
 ふと気がついた時には、窓から射しこむ月光は朝陽に変わっており、俺は自分がいつの間にか眠ってしまっていたことを知った。
 
 隣に真実さんの姿はない。
 おそらく下船の準備のためだろう――忙しく動きまわっている気配を感じる。
 でも俺自身はベッドから起き上がらなかった。
 
(まいったな……!)
 しばらく眠っていたというのに、心臓の調子はあまりよくなっていない。
 それどころか、いつもより早い鼓動が、だんだん呼吸まで苦しくさせる。
 
(あと少し……あと少しだから……!)
 ぎゅっと目を閉じて願い続ける俺に、真実さんが声をかけてきた。
 
「海君……」
 きっとまだ眠っていると思っているのだろう。
 遠慮がちに呼ばれた名前に、幸せな気持ちになり、小さく微笑む。
 でも今は、そんな動作でさえも胸に苦しい。
 
「……海君?」
 真実さんの声が心配げになるから早く返事をしてあげたいのに、苦しい呼吸を整えるのにせいいっぱいで、今はそれすらできない。
 
「海君……海君!」
 何度目かでようやく、口を開くことができた。
 
「起きてるよ」
 
 ホッとしたように真実さんが吐いた息が、聞こえるような気がした。
 でも返事ができたからといって、すぐに起き上がることはできない。
 
「でも……目は開かない……」
 投げやりにそう告げたら、
 
「どうしたの? ……調子が悪い?」
 かなり心配そうな声がした。
 
 余計な気を遣わせたくなくて、俺はニヤッと笑う。
「真実さん……あれやってよ、あれ――おはようのキス」
 
 いっそのこと、悪い冗談にしてごまかしてしまおうと思ったら、
「なに言ってるの! もう時間がないんだよ!?」
 という叫びと共に、俺の隣に何か柔らかいものが飛んできた。
 
(枕? ……ふふっ……真実さん元気だな……)
 心配されるよりは怒られているほうがよっぽどいい。
 
 俺は目は開けないままに、ニッコリ笑った。
「いいじゃない……! 最初で最後なんだからさ……お願い!」
 
 冗談半分だったのに、真実さんはそれ以上否定の言葉はぶつけてこず、俺の横たわるベッドの傍に近づいて来る気配がした。
 
(え? ……まさか本当に?) 
 驚いている間にも、近くにひざまづき、俺の顔の横に手がつかれる気配がする。
 
(嘘だろ……?)
 俺の上に屈みこんだ真実さんは、本当に俺の唇に、自分の唇をそっと重ねた。
 
(…………!)
 瞬間――思わずその体を両腕で引き寄せてしまう。
 
「海君!?」
 自分の上に倒れこんできた真実さんが、
「大丈夫?」
 と問いかけて来る途中で、夢中でその唇を塞ぐ。
 
 右手で真実さんの頭を押さえつけるようにして、俺は彼女にかなり強引なキスをした。
 
 胸は痛い。
 かなり痛い。
 でもそれは、小さな頃から幾度となくくり返されてきた発作の間際の痛さだけではなくて、もっと比べものにもならないような切なさを伴っている。
 
(好きだ……! やっぱり真実さんが好きだ! ……なのに……もう離れなければならないなんて……!)
 しかもその時は、もうすぐ目の前に迫ってる。
 
(離したくないなんて……そんなこと思っちゃいけない! ……でも思わずにはいられない……!)
 静かに抱きしめ続ける俺の腕から、真実さんが起き上がろうとしたのと、俺が彼女を離したのはほぼ同時だった。
 
 声なんてかけあわなくても、俺たちは自然と、サヨナラに向かう道を同時に歩きだす。
 そのことが嬉しかったし、悲しかった。
 
 ドクドクと脈打つ心臓を必死にごまかしながら、俺は立ち上がり、実になんでもない顔で真実さんに左手をさし出す。
「行こうか。真美さん……」
 
 その手にいつものように真実さんの右手が重ねられる。
 俺たちは手を繋いで、まるでそこだけ違う世界のようだった小さな船室をあとにした。
 サヨナラに向かって歩きだした。
 
 ――そのことがやっぱり、どうしようもなく胸に痛かった。


 
 船から出て、鉄製の階段を下り、ターミナルへと続く長い通路を歩く。
 その間、俺たちは一言もしゃべらなかった。
 ただ繋いだ手に、ギュッと想いだけをこめていた。
 
 心臓のほうは、もうどうしようもなく脈打っていたけど――大丈夫だ。
 真実さんがいるうちに倒れるなんて、俺はそんなへまはしない。
 
 一歩一歩と近づいてくる別れの瞬間こそが、今、俺の胸を痛くしている原因ならば、負けるわけにはいかない。
 自分勝手に選択して、真実さんまで巻きこんだこのサヨナラを、俺は立派に貫き通してみせる。
 
「真美さん」
 そっと名前を呼んだら、
 
「うん」
 まるで何もかもわかっているかのように、真実さんが頷き返してくれた。
 
 一度は俺が放した手。
 真実さんが望んでくれたおかげで、もう一度繋げた手。
 ――だから今度は真実さんが放す番だ。
 
「自分には真実さんを望む資格がない」と思っている俺が、二度と繋ぐことができないように、今度は真実さんのほうから――。
 
 ズキリと胸が痛む。
 心臓よりもっと奥の、俺の心の奥深いところがズキズキ痛む。
 
(それでもどうか……この手を放して……! 俺なんかから開放されて……どうか自由になって!)
 
「海君……」
 不安げに、悲しげに真実さんが俺の顔を見るから、俺はせいいっぱい普通どおりを装って、なんでもない顔をする。
 彼女の心が罪悪感で痛まないように、平気なフリをする。
 
「何?」といつものように瞳だけで問いかけたら、真実さんは泣きそうな顔を歪めるようにして、無理に笑った。そして――。
 
「さよなら……」
 小さな声で俺に別れを告げた。
 
 ニッコリと笑い返して、俺も「サヨナラ」と言うつもりだったのに。
 できるだけ彼女の心を軽くするつもりだったのに。
 ――できない。
 
 この肝心な場面で、俺は得意の作り笑いを浮かべることができなかった。
 まるで心が丸裸にされたかのような気がする。
 痛い。
 今はただもう、心臓の痛みなんだか、心の痛みなんだか分からないほどに、胸が痛い。
 
 笑って別れを告げる真実さんを苦しげにみつめたまま、まだ繋いでいる手にギュッと力をこめることしかできない。
 
 そんな俺の葛藤を理解したかのように、真実さんが俺の体を抱きしめた。
「好きだよ」
 
 告げられる言葉に、心が砕けてしまいそうに胸が痛む。
「海君……大好きだよ」
 
「うん。俺も大好きだよ……」
 確かに確認しあってから、俺たちは離れた。
 
 真実さんは俺の顔をしっかりと見つめながら、ずっとずっと繋いでいた手を彼女から放した。
 
 その瞬間、確かに世界から自分という存在が隔絶されたことを感じた。
 真実さんを思うことで、彼女を守りたいという思いだけで、必死に自分を奮い立たせていた俺の中の何かが、ポッキリと折れてしまった。
 
(サヨナラ……)
 真実さんに背を向けて歩きだした俺は、もう彼女の姿をふり返って見ることはできない。
 彼女と俺はもう何の関係もない。
 心の中でだけ繋いでいると誓ったこの左手以外は、もう何の接点もない。
 
(サヨナラ真実さん……)
 気がつくと涙が頬を零れ落ちていた。
 
 大勢の人が向かった出口とは別の出口を選んでいたので、こんな情けない姿、誰かに見られる心配はなくてホッとする。
 でも悔しい。
 
 あんなに心に決めていたのに。
 最初から決意していたのに。
 それでも彼女の優しさにすがって、その上こんなふうに情けなく涙なんか流してしまっている自分が悔しい。
 
(違う……そうじゃない! ……それだけ真実さんが、俺にとって大切な存在だったってことなんだ……!)
 
 どんな時だって俺の全てを許してくれた人。
 痛みも悲しみも丸ごと抱きしめてくれた人。
 
(ありがとう……)
 彼女に心からの感謝を捧げた瞬間、ズキンとどうしようもなく、胸が痛んだ。
 
(ヤバイ!)
 前かがみになって胸を押さえながら、必死に胸ポケットから携帯を引っ張り出す。
 
(頼む! 早く出てくれ!)
 兄貴を呼び出すコールを聞きながら、一秒がまるで一時間のようにも感じた。
 背中を流れ落ちる汗の感触に焦りを感じる。
 短い息を必死でくり返す。
 
 エスカレーターの手すりにつかまって支えていた体が、ぐらりと均衡を失って残り五段ほどの高さを転げ落ちるのと、
「海里?」
 兄貴がいぶかしげに応答したのがほぼ同時だった。
 
 俺が床に打ちつけられる大きな音に、兄貴の叫びが重なる。
「どうした! 海里!」
 
「ごめん兄貴……駅じゃなくって、港……」
 それだけ言うのがせいいっぱいで、目も口も閉じた俺の周りに、人が集まってくる気配がする。
 
「どうしました? 大丈夫ですか?」
 問いかけられる声に、ギュッと胸に手を押し当てたまま、小さく頷く。
 
(どうか……!)
 薄れていく意識の中、俺は必死に祈った。
 
(どうか、気がつかないで……真実さん……!)
 
 ――ただそれだけを祈った。