かなり大型の旅客フェリーは、船内に一歩足を踏み入れてしまえば、そこが海の上だなんて忘れてしまいそうなくらいに快適な空間だった。
 客室や食堂はもちろん、展望室や浴室、娯楽室まである。
 
 自分たちに割り振られた小さな個室に早々に荷物を運び入れて、船内探険にでも行こうかと真実さんを誘おうと思ったら、先を越された。
 
「私……甲板に出て外を見てくるね。町が遠くなっていく様子って、船から見たらどんなふうなのか……ずっと見てみたいって思ってたんだ……!」
 
 まるで一刻も早くこの部屋から出て行きたいかのように、真実さんが慌てている理由が、俺にはなんとなくわかる気がした。
 たった一つの重たいドアで、完全に外の空間とは遮断されてしまうこの小さな部屋に、俺と二人っきりでいることが嫌なのだろう。
 
(だから……意識しすぎだって……)
 あたふたと慌てている様子があまりにも可愛くて、思わず笑みが零れる。
 
 笑いながら俺も真実さんのあとを追った。
「俺も行くよ」
 
 重たいドアに苦労している彼女に力を貸して、一緒にドアを押し開ける。
「あ、ありがと……」
 
 決して俺の顔を見ようとはしない真実さんの緊張が、俺にまで移ってしまいそうだった。
 
 照れ臭さをごまかすように、いつもどおり彼女の手を握る。
「早く行かないと、あっという間に見えなくなっちゃうよ……?」
 
 ようやく真実さんが俺に目を向けてくれた。
 困ったような恥ずかしいような、それでもやっぱりどこか嬉しそうな顔が、愛しかった。
 
 
 
 大きな窓を挟んで船の中から外を見る展望室というものもあるにはあったが、真実さんの希望はあくまでも甲板だった。
 強い風がそのまま吹きつけ、細い手すりにつかまっていないと体勢を崩して海にも落ちてしまいそうなほどの場所を、真実さんは選んだ。
 そして無情にも俺に告げる。
 
「海君は先に部屋に帰ってて……私も、しばらく外を見たらすぐに帰ってくるから……ね?」
「どうして? 一緒にいるよ」
 反論する俺を、真剣な顔で見つめる。
 
「だって……やっぱりこんな強い風に、長い時間あたってたらだめだよ……!」
 それでも一緒がいいと言いたかったが、俺の体調を気遣ってくれてるんだと思うと、それ以上食い下がることはできなかった。
 
「わかった」
 名残惜しく、真実さんの頬にそっと指先だけで触れて、俺は彼女に背を向ける。
 
 客室の並ぶ三階へと階段を下りる寸前に、ふり返って見てみたが、真実さんは手すりにつかまって海のほうを向いたまま、微動だにしていなかった。
 そのどこか寂しげで儚げなうしろ姿が、胸に痛かった。
 
 
 船室に帰って二つあるベッドのうちの一つに腰かけ、足を投げ出してはみたけれど、他には何もすることがなかった。
 ただブツブツと、聞く人のいない独り言を呟く。
 
「けっこういいもんだな……テレビだってあるし、冷蔵庫だってある……」
 
 ホテル並みに整った設備を見ていると、まるで真実さんと二人でどこか旅行にでも来たかのような錯覚に陥る。
 真実さんが緊張するのも無理はない。
 俺だって、別に特別な意味はないと言いながらも、これからどうやって二人で過ごすのかを考えれば、どうしたって胸が跳ねる。
 
(この部屋に二人きり……)

 ドキドキと脈打ち始める鼓動が、万が一にも発作になどなったりしないよう、左胸を押さえながら、俺は立ち上がった。
 とうの昔に陸地は見えなくなったはずなのに、いつまでたっても船室に帰ってこない真実さんを、やっぱり迎えに行くことにする。
 
(ここより甲板のほうが居心地いいのかもしれないけど……いくら夏だからって、真実さんだってずっとあそこにいたら、風邪ひいちゃうよ……)
 
 本当は一秒でも長く一緒にいたい心のままに、俺は彼女を呼びに行った。


 
「いいかげんにしないと……風邪ひいちゃうよ?」
 
 真実さんはさっきと同じ場所で、手すりに寄りかかるようにして、じっと立っていた。
 隣に立って、肩に上着をかけてやると、ハッとしたように俺の顔を見つめる。
 
「ずっとここに居るの?」
 わざとそんなふうに尋ねてみたら、驚いた顔が苦笑に変わった。
 
「別にそれでもいいけど……」
 
 ため息が出そうな心のままに、俺は彼女に懇願する。
 
「そんな寂しいこと、言わないでよ……一緒にいようよ……せっかくなんだから……」
 
 左手に触れていた彼女の右手をいつものように握ったら、真実さんが自分の頭を俺の肩に乗せてきた。
 その心地よい重みを、彼女が俺の言葉に同意してくれた証拠だと取って、俺は真実さんの手を引き歩きだした。
 
 もう一度あの小さな部屋へと――。


 
 狭い個室内は、お互いの胸の鼓動さえ聞こえてしまいそうなほどに静かだった。
 ひとしきり部屋の中をうろうろした末に、小さな窓の前に立ったまま動かなくなった真実さんのうしろ姿を、俺はベッドに腰かけたまま静かに見ていた。
 
 手を伸ばせば簡単に抱きすくめてしまえるほどに、すぐ近くにいる愛しい人。
 けれど、決してそんなことはしないと、俺は心に決めている。
 
(そんなに緊張しなくても、俺は別に何もしないよ?)
 
 昼間、あの砂浜で笑いながら言ったみたいに、そんなセリフをもう一度くり返してやればいいのに、頑なに俺に背を向けている背中にはなんだか声がかけづらい。
 怯えさせてしまわないように、俺は静かにベッドから立ち上がり、真実さんに近づいた。
 
「何が見えるの?」
 問いかけてみると、窓から視線は外さないままに、静かに答えられた。
 
「海と月。それだけだよ……」
 横顔が綺麗だった。
 
「そっか……」
 短く答えるとすぐに、俺は目を閉じる。
 
 真実さんのいろんな表情を記憶している俺の頭の中のキャンバスに、この夜の静かな横顔を描き加える。
 その向こうに彼女が見ているはずの夜の海と輝く月の姿と共に――。
 
(綺麗だ……)
 心から満足して、ため息をついた瞬間
 
「海君……」
 俺の名を呼ぶ真実さんの声に、どうしようもなく胸が跳ねた。
 
(なんだろう……なんだかすごく胸に痛い声だった……?)
 
 閉じていた瞳を開くと、俺を見つめる真実さんと目があった。
 溢れんばかりの感情をたたえた潤んだ瞳の奥に、俺が必死に押し殺している感情を思い出させるような光が灯っていて、ゾクリとした。
 
(真実さん……?)
 彼女が俺を求めて、手をさし伸べてくれているような気がした。
 ドキドキとものすごい速度で心臓が脈打ち始める。
 
「真美さん……」
 思わず声に出して呼んでしまったら、感情の歯止めが利かなくなったのが自分でもわかった。
 
「俺はもう、真美さんに会いに来ないよ……」
 まるでそれでも許して欲しいと言わんばかりに、俺の口は彼女にそんなことを確認している。
 
「一緒に未来を歩くことはできない……」
 もし引き返すなら今だと、警告を発しながらも、どこかでわかってる。
 彼女がきっとこれまでのように俺の全てを許してしまうであろうことを――。
 
 どうしようもなく、鼓動が速くなる。
「今日でサヨナラだ……」
 
 真実さんは俺の目をしっかりと見つめたまま、何度も何度も頷いた。
 俺が言わんとしていることを肯定するかのように。 
 あたかも自分の意志として、彼女自身が選び取ったかのように。
 
「それでも……」
 彼女の決意が――想いが胸に痛くて、それ以上はもう口に出せない俺に代わって、真実さんが言葉を継ぐ。
 
「いいよ……それでもいいよ……」
 目の前にさし出された彼女の右手を、泣きたいくらいの気持ちで見つめた。
 
 いつだって諦めてた。
 いろんなことに背を向けて生きてきた。
 そんな俺の小さな望みさえ見つけだして、すくい上げてくれる不思議な人。
 
 心からの感謝をこめて、その右手に自分の左手を重ねた。
 
「ねえ……真実さん覚えてる? 俺が、真実さんを呼び捨てで呼ぶ時はどんな時か、最初から決めてるって言ったこと……?」
 
 絶対に来るはずはないと思っていたその時。
 だからこそ、冗談まじりに真実さんにそんな宣言をしてからかっていたのに、まさかこんな瞬間が俺たちに訪れるなんて、思いもしなかった。
 真実さんがそこまで、俺の心を汲んでしまうとは思っていなかった。
 
 ちょっと照れたように俺から目を逸らして、また窓の向こうに視線を向けた真実さんは、それでもしっかりと答えてくれる。
「うん、覚えてる」
 
 喜びに震える心のままに、俺は彼女を引き寄せた。
 優しく腕の中に抱きしめた。
 ひょっとしたらもう二度と抱きしめることはないかもと思っていた小さな体を、大切に大切に抱きしめる。
 
「真実さんが悪いんだよ……俺は諦めることには慣れてるのに……本当はもっとかっこつけて……何にも言わず、何も望まないまま、真実さんの前からいなくなるはずだったのに……」
 
 そんな意地悪を告げながら、彼女の頬に、首に、唇に、何度も何度も唇で触れる俺を、真実さんは優しく笑いながら許してしまう。
 
「そうだね……私のせいだね……」
「責任取ってくれるんでしょ?」
 
 どんな言い方をしたって、笑って俺を受け入れてしまう。
 
 俺の首に腕をまわしながら、真実さんが囁いた
「海君……愛してる……」
 の言葉に、絶対に口にすることはないと思っていた言葉を、俺はついに口にした。
 
「真実、俺も愛してるよ」
 その機会を与えてくれた真実さんに、深く深く感謝せずにはいられなかった。


 
 普通の恋人同士だったら当然のように望まずにはいられない愛し方を、俺は自分には望めるはずもないと、初めから思っていた。
 諦めるとか、我慢するとか以前に、有り得ないと思っていた。
 
 なのに、なぜ今、俺の腕の中に真実さんがいるんだろう。
 今までよりもずっとずっと近くに彼女を感じているんだろう。
 
 温かくて、優しくて、愛しくてたまらない温もりを、いつまでも離したくなくて、ただ抱きしめる。
 同じくらいの強さで、彼女も俺のことを抱き返してくれるのが嬉しかった。
 
 まるで、こんなに彼女を愛してる俺の想いと同じくらい、彼女も俺のことを想ってくれているみたいで、泣きたいくらいに嬉しかった。


 
 小さな窓から、月光が降り注いでいる。
 起きているのか、眠っているのか、静かに窓のほうを向いていた真実さんがふいに口を開いた。

「海君……ほら月が見てる……」
 ふり向きざまの笑顔が眩しかった。
 
「そうだね……でもまあ……月しか見てないからいいっか……」
 言い訳するかのような俺の言葉に、その笑顔が一瞬曇る。
 
「ゴメンね……」
 
 俺は慌てて問いかけた。
「どうして真実さんが謝るの?」
 
「だって……海君本当はこんなつもりじゃなかったでしょ……?」
 困ったような声と表情に、ついつい悪戯心がわく。
 
「こんなつもりって……どんなつもり?」
 案の定、真実さんはちょっと怒ったように俺の顔を上目遣いに見上げてから、俺に背を向けた。
 
「もういいよ」
 大好きな表情が見れたことに、俺は思わず笑みが零れる。
 
 それでもやっぱり、こんなことで真実さんの機嫌を損ねてしまうのは嫌だったので、目の前にある小さな背中を、うしろからすっぽりと抱きすくめた。
 
「海君……」
 おそらくは抗議の声を上げたんだったろうに、
 
「何?」
 俺があまりにも呑気に返事をしたら、真実さんは一呼吸を置いた末に、
 
「好きだよ」
 と囁いてくれた。
 
 正直、
「やられた!」
 というような思いで、俺も正直に自分の気持ちを彼女に告げる。
 
「俺も好きだよ」
 
 今夜一晩だけは、今までずっと封印していた俺自身の言葉を、全部彼女に返そうと決意していた。
 その決心さえ、ひょっとして読まれてしまったのだろうか。
 本当に真実さんには何から何まで見とおされてばかりだ。
 
「大好き」
 いかにも嬉しそうな声でそう囁かれるから、俺は彼女を抱きしめる腕にギュッと力をこめる。
 
「うん。俺も……大好き」
 手探りで彼女の右手を探しだして、いつものように手を繋いだ。
 
 毎日真実さんと交わしていた小さな約束をもう口にすることができない俺は、代わりに新しい約束を結ぶことにした。
 彼女のほうは忘れてしまってもかまわない。
 でも俺は絶対に忘れない。
 そんな小さなささやかな約束――。
 
「真美さん……朝になっこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……」

 小さな手を優しく握りしめる。
 今ではすっかり手に馴染んだその感触を、ずっとずっと忘れずにいるために。
 
「いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」

 俺の自分勝手な決意に、なぜか真実さんは涙声で答えてくれた。
「ありがとう、海君」

 嬉しくて、嬉しくて――胸が痛い。
 だから俺は、真実さんを抱きしめる腕に、またギュッと想いをこめた。

「俺のほうこそありがとう」
 大好きないい香りの髪にそっと頬を寄せた。
 
 
 彼女がどんなに俺の心を救ってくれたのか。
 諦めてばかりの俺の人生を、劇的に変えてくれたのか。
 いくつもいくつも喜びを与えてくれたのか。
 
 忘れてはいけないと思う。
 
 いや。
 ――忘れようたって忘れられるわけがない。
 
 だからこれから先、もう二度と会えなくたって、俺は心の中ではいつまでも彼女を愛してる。 
 どんなに理不尽な運命が俺に襲いかかってきて、急にこの生を終えることになったとしても、最期の最期の瞬間まで、ずっと想ってる。
 
 だから彼女と繋いだ左手は、これから先もずっと繋いでる。
 ずっとずっと心の中で、――いつも繋いでる。