小さな漁船がぎっしりと並ぶ港を通り抜けて、海岸沿いの堤防をずっと歩いた。
大きく息を吸いこまなくても、香ってくる潮の匂いはかなりきつかった。
俺が唯一知っている、あの海水浴場の「海」と、この「海」とは、全然違うもののように思える。
そもそも、すぐ目の前に広がっているのに全然手が届かない。
堤防の遥か下のほうに水面があるのだ。
そこに浮かんでいる漁船で作業をしている人たちは、いったいどうやって下りているのかと考えていたら、堤防の所々に長い鉄製のはしごを見つけた。
(そっか……あれで下りて行くんだな……)
何もかもが珍しかった。
(真実さんはここで育ったんだな……)
そう思うと、入り組んだ狭い道路にも、斜面に段々に立ち並ぶ家々にも、彼女の気配が漂っているような気がする。
二人で行った写真展で見たのと同じような、複雑に入り混じった色の海に、真実さんの横顔が重なる。
(早く会いたいな……)
たった一週間離れていただけなのに、そう思ってしまう自分に苦笑しながら、のんびりと歩いていた足を、俺は早足に変えた。
愛梨さんにもらったメモに書かれていたとおり、堤防の上をどこまでもずっと進んでいくと、海との境目にふいに小さな砂浜が現われた。
大きな岩に囲まれた小さな小さな砂浜。
そこに確かに膝を抱えて座りこんでる人影を見つけて、胸が鷲掴みにされたようだった。
(真実さんだ……!)
白いワンピースとお揃いの白い帽子を被って、こちらに背を向けて海を見ている。
空の蒼色と海の藍色の境界線に、純白な彼女がどこか寂しげに座っている様子は、ため息が出るほどに綺麗だった。
砂浜を囲む黒っぽいゴツゴツとした大岩でさえ、完璧に計算され尽くした自然の采配のようで、迂闊に声をかけることなんてできない。
(こんなことならスケッチブック持ってくるんだった……)
そんなふうに思いながら、俺は砂浜には下りず、堤防の上に腰を下ろした。
(いったい何を見てるんだろう……?)
変わることのない海と空しか俺には見えないのに、真美さんは身動き一つせず、ずっと同じ方向を見ている。
(ひょっとして……何かを見ているわけじゃないのかも……)
ただ大好きな場所に身を置いているだけで、実際に彼女が向きあっているのは、自分自身の心なのかもしれない。
もしくは胸に抱える不安や疑問なのかも――。
(俺のせいで、悩ませてしまってる……?)
きっとそうだろう。
もうずいぶん前から、俺に対する真実さんの態度はおかしい。
何か言いたいことがあるのに言えないような。
聞きたいことがあるのに聞けないような。
どこかしっくりとこない雰囲気を、俺だってずっと感じてる。
(ゴメンね……)
だからといって、自分から語るつもりは毛頭ない俺は、申し訳ない気持ちを抱えたまま、どこか儚い彼女のうしろ姿を、なす術なくいつまでも見つめていた。
いったいどれぐらいの時間が経ったんだろう。
砂浜にゴロリと転がった真実さんがいつの間にか眠ってしまったのを、微笑ましく見ていた時から、かなり時間が過ぎてしまったことだけは確かだった。
俺自身も堤防の壁に背中を預けたまま眠ってしまっていて、ふと気がついたら太陽の位置がずいぶん移動していた。
(こんなことやってたら、あっという間に夕方になっちゃうよな……!)
せっかく一週間ぶりに会えたというのに、会った途端にもうサヨナラなんてことになるのが嫌で、俺はようやく真実さんのいる砂浜に向かって、堤防のはしごを下り始めた。
そっと近づいていって驚かしたいから、できるだけ静かになんて気を遣う必要はない。
真美さんは温かな砂の上で、すっかりぐっすり眠ってしまっている。
靴の下で動く砂の感触を一歩一歩確かめるようにして歩きながら、俺はゆっくりと真実さんに近づいた。
目を開くような気配はまったくなかった。
長い睫毛はぴったりと閉じているし、胸の上で組まれた両手は、彼女の呼吸にあわせて規則正しく上下に動いている。
(こんなに無防備に眠っちゃって……俺以外の奴が来たら、どうするの……?)
胸を灼くようなその質問には、自ら答えを返す。
(誰にも見せたくない……触れさせたくない……俺にはそんなことを思う権利さえないのに……)
それでも誰にも渡したくないと、思わずにいられない人に向かって手を伸ばしたら、固く閉じていた瞼がふいに開いた。
驚いたように俺の顔を見つめ、何度も何度も瞬きをくり返す仕草の全てが、愛しくてたまらない。
「真実さん……迎えに来たよ」
囁いた瞬間に、真実さんが俺に向かって腕を伸ばした。
他の誰でもない、俺だけに、彼女がこの上なく幸せそうに笑って、自分の全てを委ねてしまうことが嬉しかった。
華奢な体が折れてしまいそうなくらいに、力いっぱい真実さんを抱きしめながら、涙が浮かんできそうに嬉しかった。
「どう? 一日早く来てみました……」
おどけたようにそう告げて、愛梨さんがここまで連れてきてくれた経緯を語る俺の言葉を、真実さんは頷きながら静かに聞いていた。
「そうか……愛梨か……」
納得したようにうんうんと頷きながらも、その横顔はどこか晴れない。
(ひょっとして迷惑だったかな……?)
ちょっと不安になってきたところに、
「海君……」
と呼ばれて、ホッとする。
その声はいつものように優しい雰囲気だった。
返事はせずに視線だけを向けると、途端に真実さんの目が泳ぐ。
心底何かに困っている様子がうかがえたが、それがなんなのかは俺にはまだわからなくて、そのまま彼女のほうから口を開いてくれるのを待った。
真実さんはさんざん迷った末に、その言葉を口にした。
「私ね、明日帰るつもりだったんだけど……」
(ああ、なんだ……)
思わずホッとする。
予定より一日早く現われた俺に、真実さんは困ってるんだ。
(そりゃあ、そうだよな……実家に連れて帰るわけにはいかないだろうし……だからといって、『自分でどうにかして』なんて冷たいことを言うような真実さんじゃないし……)
俺の処遇について迷ってくれていたんだと知ったら、心が軽くなった。
ついついいつもの調子で、悪戯心が湧いてくる。
「真実さん、何で帰るつもりだった?」
にっこり笑いかけると、真実さんはちょっと慌てた。
「えっと……たぶん新幹線かな……?」
それはそうだろう。
俺だって真実さんとわかれた一週間前はそのつもりだった。
でも事情が変わったのだ。
あの何事にもよく切れる頭脳を持った貴子さんのおかげで――。
俺は笑い出してしまいたい気持ちを必死に抑えて、胸ポケットから、その大切なチケットを取り出した。
「真実さんを迎えに行くんなら、これで帰って来なって、貴子さんがくれたんだけど……」
そう言って、手渡した途端。
真実さんの目がまん丸に見開いた。
(ああ……きっと貴子さんもこの顔が見たかったんだろうな……)
そう思うと、俺だけが間近で見てしまったのは申し訳ない気もするが、思惑どおり真実さんが驚いてくれたんだから、貴子さんとしては、それだけでもう大成功なのだろう。
(今度会ったら、ちゃんと報告しなくちゃ……!)
心の中で笑いながらそんなことを考えていた俺の耳に、真実さんのため息まじりの声が聞こえた。
「すっごい貴子……! どうしてこんな情報まで知ってるんだろ……」
純粋に感心して、驚いている様子が可愛くて、ついつい顔が綻ぶ。
「真実さん、乗ったことあるの?」
真実さんはブルブルと首を横に振った。
何かを考えているように、手にしたチケットを裏返し、次の瞬間、ハッと息をのむ声が聞こえた。
ふと見下ろしてみると、『一等洋室』と印字されている箇所を、穴のあくほど凝視している。
(ヤバイ!)
真実さんが握りつぶそうとしたそのチケットを、俺は寸前のところで救出した。
もう一度取り返されない位置まで、高く掲げながら、
「今夜、夜中に出発だよ……真実さん、準備間にあいそう?」
笑う俺の顔を、真実さんが真っ赤になりながら上目遣いに見上げる。
「海君! 乗るつもりなの!」
(……個室だってことに気がついたんだ! それでこんなに焦ってるんだ!)
そう思ったら、もう嬉しくってたまらなかった。
――だってそれは、真実さんが俺を意識してしまっているしるしだから。
「もちろんそうだよ。何? 真実さん嫌なの?」
当たり前のような顔で、平然と聞き返すと、真実さんは言葉に詰まる。
「い、嫌じゃないけど……でも……だって……!」
焦る様子が、可愛くってたまらなくって、大好きな髪に手を伸ばして、そのままクシャッとかき混ぜた。
「心配しなくても大丈夫だよ……俺なら何もしないから!」
「そうじゃなくて!」
真っ赤になって、こぶしを握りしめる姿が――ダメだ。
たまらない。
俺はわざと笑顔をひっこめると、すっと真顔になって、改めて真実さんに問いかけた
「じゃあ何?」
もちろん真実さんが、何か答えることなどできるはずない。
真っ赤な顔のまま俯いて、
「いいよ……それで帰る……」
降参してしまった姿に、もう笑いが止まらなかった。
深く面伏せてしまった頭をポンと叩いて、
「じゃあ、準備しておいでよ……出発は夜の十一時だから、その前に待ちあわせればいいでしょ? 一日早く連れて帰りますって……真実さんの家に俺も挨拶しに行けたらいいんだけど……ゴメンね」
わざとそんなことを言ってみせると、真実さんは慌てて顔を跳ね上げた。
「そ、そんなことしたら、大騒ぎになっちゃって帰るどころじゃなくなっちゃうよ!」
「そうだろうね」
面白かった。
突然現われた娘の恋人。
そんな人間に、彼女の家族がどんな反応をするのかを想像してみるのは、確かに面白かった。
でも面白いと思う反面、俺の心はどんどん冷めていく。
決してそんな場面が現実のものになることはないんだと思うと、すーっと背筋が凍るほどに、心が冷めた。
(いつまでも真実さんと一緒にいるんなら、いつかはそんな日だって来るかもしれない……だけど……)
そんな日は決してこない自分の現実を、唇を噛みしめてしっかりと見つめ直す。
自分に残された時間が少ないことを知っている俺には、『いつかは』なんて夢見ること自体が、拷問のように苦しかった。
他の人には当たり前のように与えられているのに、俺にだけは与えられない。
――そのあまりの不公平さを、まざまざと思い知らされる。
黒々とした感情に自分の心が塗り潰されていきそうになっているのがわかるから、真実さんと見つめあっていることが苦しかった。
(嫌だ……! このままじゃ、絶対見せたくない顔を見せてしまう……!)
苦しくてたまらない胸でそう思った瞬間、真実さんが俺から目を逸らした。
ホッと安堵する気持ちと同時に、どうしようもない悲しみが俺を襲う。
いつも、いつだって、真っ直ぐに見つめる俺の目からは決して視線を外さなかった真実さんが、目を逸らした。
――それはいったいどんなことを意味するんだろう。
(やっぱり……無理だね……どんなに取り繕ったって……もうこれ以上、俺たちの関係を続けることは無理だ……!)
それはきっと真実さんを今以上に苦しめることになる。
傷つけることになる。
そうまでして、自分の想いを通したって、俺には嬉しいことなんか何もない。
彼女の嬉しそうな笑顔を守ってあげられないんなら、俺が真実さんの傍にいる意味なんて何もない。
ギュッとこぶしを握りこんだ瞬間、真実さんがもう一度俺の目を見つめた。
迷いを脱ぎ捨てたかのような、真っ直ぐな視線だった。
いつだって一人で悩んで、一人で傷ついて、一人で決心してしまう強い心に頭が下がる。
最初っから、いつもいつも彼女に守られていたのは俺のほうなんだってことを、思い知らされる。
俺に向かって伸ばされる真実さんの腕を、俺は縋るように掴んだ。
「真実さん……ゴメンね……」
彼女の何もかもに感謝して、ただ抱きしめることしかできないのに、こんな俺にいつもいつも手をさし伸べてくれる人。
俺にとってはかけがえのない、たった一人の人。
夢中で抱きしめた俺の腕に負けないくらいの強さで、真実さんも俺を抱きしめ返した。
「謝らないでいいよ……海君……お願い! 謝らないでよ……!」
俺の全てを許してしまう彼女の言葉が、やっぱりありがたくて、どうしようもなく胸に痛かった。
家に帰って準備をしてくるという真実さんを見送ったあとも、俺は一人、その砂浜に残り続けた。
知らない町で他に行く当てもなかったというのが、理由の一つ。
あと一つは俺がこの場所にたどり着く前に真実さんがそうしていたように、じっくりと自分自身の心と向きあってみたかったからだった。
砂浜に吸いこまれていく波の欠片を見つめながら、静かに自問自答する。
(たとえばもし今日この場所で、真実さんに本当のことを打ち明けたなら……そのあと彼女と離れることが、俺に本当にできるだろうか……?)
いくら考えてみても、とても前向きな答えが出てきそうにはなかった。
(無理だよ……無理だろ?)
しばらくの間会えなかっただけで、自分がいつもどうやって眠りについていたのかさえ思いだせず、真夜中に会いに行ったことを思い出す。
(だってもし本当に離れてしまったら……もう小さな約束を交わすことさえできなくなるんだぞ……?)
もしそうなったら、明日から俺は何を支えに生きていくんだろう。
想像することさえできない。
見当もつかない。
でも、このままでいいわけがないと――その思いがやっぱり、俺の中では一番大きかった。
(苦しそうな真実さんを……辛そうな真実さんを……早く俺から開放してあげたい。それは他の誰でもない、俺にしかできないことなのに……どうして迷う必要がある?)
真実さんを守りたいというのが、いつだって俺の一番の願いだったはずだ。
その思いに従って行動するならば、答えはサヨナラ以外には何もない。
それなのに――。
(なんてわがままで、自分勝手なんだ……本当に嫌気がさす!)
自分自身に絶望しながら、真実さんがそうしていたように、俺は砂浜に仰向けに寝転がった。
空は青かった。
つい今朝方まで病室の窓からぼんやりと眺めていた空より、ずっとずっと青かった。
(これを再現したいって思ったら、いったい何色と何色を混ぜたらいいんだ……?)
目の前に画布があるかのように、俺は右手を空に伸ばす。
浮かぶ雲や飛ぶ鳥をどこに配置するのかなんて、考えなくてもいいようなことを考えようとした瞬間、目の前に見える景色の何もかもが霞むような勢いで、空の青の中に、真実さんの笑顔が浮かんだ。
(…………!)
思い浮かべようなんて思ってもいなかったのに、唐突に思い出してしまったから、なおさら現実的に、自分がどれだけその笑顔を大切に想っているのかを思い知らされた。
(くそっ!)
忘れようったって、きっと忘れることなんてできやしない。
確かに俺に向けられていたこの笑顔を、なかったことになんてできるはずがない。
(やっぱり無理だよ……!)
涙で滲む視界の中で空も海も見えなくなっても、真実さんの笑顔だけはいつまでも、俺の頭から消えはしなかった。
遠くの水平線が夕陽に赤く染まり、やがては闇にのまれ、どこまでが海でどこまでが空かわからなくなっても、俺はずっと同じ方向を向いていた。
視覚をほとんど奪われてしまったからだろうか。
波の音が昼間よりもやけに大きく感じる。
それが果たして波の音なのか。
それとも自分の体内を流れる血液の音なのか。
それすらわからないほどに、いつの間にかその場所と一体となっている自分を感じた。
(いっそのこと本当に……この海になってしまえたらいいのに……)
真実さんが愛して、俺にその名をわけてくれた海。
――この場所になれるのならば、これからもずっと、彼女と共にあり続けることができる。
そう遠くない未来、俺が呆気なく死んでしまったあとも、この海はきっと真実さんを見守り続けるんだから――。
(いいな……)
そんなことをさえ、うらやましく思わずにいられない俺は、きっともう当の昔に自分の限界を超えているんだろう。
暗くなり始めた空に、次々と星明かりが灯り始める。
一つ二つと数えることさえ断念させるほどの圧倒的な星空に、ただただ息をのんで俺は夜空を見上げた。
(凄い!)
海は無理でも、この満天の星の中のどれか一つになら、きっともうすぐなれるはず――そんなことを考えて笑えるほどには、俺の決意は少しずつ固まりつつあった。
気がつけばもうすっかり夜も更けていた。
砂を踏んで誰かが近づいてくる気配を感じるから、俺は砂浜に寝転んだまま、わざと目も開けない。
俺の隣に腰を下ろし、そっと俺の体に自分の上着を掛けてくれる人は――きっとまちがいなく真実さんだから。
鼻をくすぐるような、あの甘いシャンプーの香りがしたから、俺は頬に触れてきた手を、持ち上げた自分の手ですぐに掴んだ。
「やっぱり起きてたの……?」
やっぱりってことは、俺が寝たフリしてたってことを――なんだ――真実さんだってすっかりお見とおしだったわけだ。
少し悔しかったから、掴んだ真実さんの手を自分のほうに引き寄せる。
華奢なのに柔らかな体が、覆い被さるように俺の上に倒れこんでくる。
ドキリと跳ねた心臓をごまかすように、俺は、
「すっごい星空なんだね……」
と彼女に問いかけた。
真実さんは俺の上から体を起こすと、すぐに隣にゴロンと寝転んだ。
「うん」
「俺……本当にこんな星空……今まで見たことなかったよ」
この感動をどう伝えたらいいのだろう。
生まれて初めて見るもの。
それはそれだけでもじゅうぶん過ぎるほどの価値があるのに、真実さんが隣にいてくれることで、俺にとって更に何倍もの意味を持つ。
そんな特別な気持ち。
どう言って伝えたらいいのか、思うように言葉が出てこない。
口で伝えることを断念して、俺は砂浜の上、手探りで真実さんの手を探した。
いつだって繋いでいたその手を、様々な想いをこめて握りしめる。
「私も……すごくひさしぶりに見たよ……」
優しい真実さんの声は、いつもよりずっとずっと近くで聞こえる。
そのことが、全身が痺れるほどに嬉しかった。
「この星空も、ぜひ海君に見せたかったんだ……だから一緒に見れて良かった……」
「うん」
ため息を吐く真実さんの頭に、俺はそっと自分の頭を寄せた。
静かだった。
ただ波の音だけが聞こえる中、この時間が永遠ならいいのにと、叶うことのない願いだけが頭を過ぎる。
でも永遠なんてない。
今この時だって、俺に残された僅かな時間は刻々と過ぎ去っていく。
だから――。
身じろぎしてゆっくりと体を起こす真実さんの邪魔にならないように、俺自身も砂浜に座り直した。
その間も一瞬足りとも、繋いだ手を放そうとはしなかった自分たちが妙におかしかった。
(それが別れの合図だって、お互い確認しあったわけでもないのにね……)
けれど真実さんも俺と同じように、きっとそう感じているのだろう。
だからこそ放せない。
今はまだ意地でもこの手は放せない。
「海君……」
ふいに呼びかけられるから、口は開かずに、「何?」と視線だけで返事する。
何かの決意を秘めたように真剣な真実さんの目が、本当は恐くてたまらないから、俺はいっそうなんでもないような顔をする。
何度も口を開きかけ、やっぱり閉じてをくり返した真実さんが、とうとうその言葉を口にした。
「海君……ひょっとして、どこか体の調子が悪いの?」
とっさにポーカーフェイスを気取ろうかとも思ったが、やっぱりそれは無理だった。
もうそんなことに意味はないと、俺にだってわかっている。
「お願い。教えて……」
静かに首を横に振りながら真実さんがそう言った瞬間、全てが終わったことを、ズキズキと痛み始めた胸で理解した。
「真実さん……」
声がかすれる。
意を決して彼女の名前を呼んでみたのに、それが自分自身の声だとは、到底信じられない。
「本当のことを話したら、今までと同じではいられないって、俺は最初から決めている。それでも……? それでも聞きたい……?」
未練がましく彼女に確かめているのは確かに俺自身だ。
けれどそんな状況ですら、「嘘だ! 嘘だ!」と否定しながら、どこか遠いところから他人事のように傍観している俺がいる。
今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめる真実さんは、これ以上ないほど悲痛な表情をしていた。
(ああ……どうして真実さんにこんな顔をさせなくちゃいけなかったんだろう……どうしてもっと早くに、俺のほうから話してあげなかったんだろう……!)
今頃後悔したって、もう間にあわないのに。
辛い役目を彼女に押しつけてしまったのは、他の誰でもないこの俺なのに。
――このままこの場所に倒れ伏してしまいそうに胸が痛む。
(ゴメン真実さん……!)
心の声と重なるようにして、
「海君……いつも無理してたんだよね? 本当はいつだって、無理して私に会いに来てくれてたんだよね……?」
真実さんが問いかけて来たから、俺は彼女の体をしっかりと抱きしめて、やっと頷くことができた。
「うん。そうだよ」
絞り出すような声で、ようやく本当のことを告げることができた。
「俺は生まれつき心臓が悪いんだ……だからずっと入退院をくり返してる。学校にもほとんど行ってない……」
降るような星空の下。
一旦こぼれ出した言葉は、もう止まらない。
ずっと言いたくて言えなかった言葉が、俺の中から次から次へと溢れ出てくる。
「どれぐらい悪いかと言えば……今こうして生きているのが不思議なくらい……正直、いつ死んでもおかしくないって、医者に言われてるくらい……」
繋いだままの真実さんの手が、ひどく緊張していることがわかるのに、
「もうやめろ!」
と頭のどこかで自分自身もストップをかけているのに、どうしても止まらない。
「海君。ゴメン……もういいよ。もういい……」
嗚咽まじりの真実さんの声が、あまりにも胸に痛くて、俺は無我夢中で彼女を引き寄せた。
「ダメだってわかってるのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……結局こんなふうに泣かすことになるって、最初からわかってたのに……」
小さな頭を右手で支えて、半ば強引にキスする。
ギュッと目を閉じた真実さんは俺の頬に自分の頬を寄せて、何度も何度も謝った。
「ごめんなさい。ゴメンね、海君……」
俺の頬を濡らす彼女の涙が愛しかった。
「俺の抱えてるものは重過ぎる……それは自分でもよくわかってる。だから、誰とも深く関わりわわないようにして生きてきた。いつ俺が死んでしまっても、誰の心も必用以上には痛まないように、生きてきたつもりなんだ……」
砂浜にもう一度座り直して、真っ暗な海を見つめながら、砂を右手ですくっては、風に流し、またすくい、流し、そんな行動をくり返しながら、俺はまるで他人事のように自分のことを話す。
「なのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……俺じゃどうしようもないってわかってたのに、声をかけずにいられなかった。そんな想いって本当にあるんだね……」
いつの間にか自分のことを、笑って話せるようになっていることに気がつく。
――諦めにも似た感情で。
「俺のことは何も知らせずに、真実さんを守りたかった。ただ傍にいたかった。ゴメン。俺の身勝手に巻きこんで、結局傷つけることになってゴメン……」
頭を下げると、真実さんが慌てて首を振った。
「違う! 傍にいて欲しかったのは私だよ。海君が体調が良くないってなんとなくわかっていても……それでも無理をさせてたのは私のほうだよ……!」
(こんなに辛い目にあったって、やっぱり真実さんは俺を許してしまう……卑怯な俺を丸ごと許してしまうんだ……)
優しさが嬉しかった。
胸はどうしようもなく痛んでるのに、嬉しくてたまらなくて、笑わずにいられない。
感謝の気持ちをこめて、俺は真実さんに笑いかけた。
――告げる言葉の真剣さとは裏腹に。
「でも不安だったよね……? 本当はいろんなこと、ずっと聞きたくてたまらなかったよね……?」
そっと彼女を抱き寄せて、胸の中に抱きしめる。
「俺も不安だったよ……俺には自分がいつ死んでしまうかの予想もできないから、ひょっとしたら真実さんをもっと傷つけるようなことになるかもって……本当はずっと不安だった……その前に、いなくなったほうがいいのに……早くこの手を放さなきゃって、ずっと焦ってた……なかなか踏んぎりがつかなくて、結局真実さんに辛い役目を任せちゃって……ゴメン」
もう心は決まってた。
真実さんを俺から解放してあげたい――。
全ての想いをさらけ出してしまった今、俺の心に残っているのはもう、その想いしかない。
だから――。
「俺に未来はないよ……真実さんに約束できるような未来は持ってないんだ……だから、さよなら……今まで俺のわがままにつきあわせて……ゴメン」
到底言えるはずないといつもいつも思っていた言葉を、思いのほか簡単に告げることができた。
そして、早くそうしてあげなければと思っていたままに、ずっとずっと繋いでいた真実さんの手を、俺は自分の意志で放した。
出会ったあの夜のように、世界から自分と真実さん以外の全てのものが消え去ったかのようだった。
他には何の気配さえも感じない。
抱きしめていた腕を解いたあとも、俺の目の前に座ったまま、真実さんは微動だにしない。
大きな黒目がちの瞳をいっぱいに見開いて、ただ真っ直ぐに俺の顔を見つめる。
「それは……私とはもう一緒にいれないってこと……?」
声が震えていることがわかる。
「……もう私に会いに来ないの?」
一つ一つ念入りに確認していく真実さんの消え入りそうな声に、胸はどうしようもなく痛んでいるのに、俺は無情にも無言のまま頷く。
「俺と会えないと真実さんが寂しがるからって……もう言ってくれないの?」
涙混じりの問いかけに、たまらなく胸を灼かれる。
でも一瞬伸ばしかけた手を、俺は意志の力で止めた。
『さよなら』を言った瞬間、俺はもう二度と真実さんに触れないと決めた。
だからどんなにそうしたくても、もう彼女を抱きしめることはしない。
「……ゴメン」
言葉で謝ることしかできないのが辛くて、俺は俯く。
「傍にいても、私には何もできない……? 海君の力にはなれない……?」
真実さんの優しさも気遣いも、こんなに嬉しいのに、もう全部踏みにじることしかできない自分が悔しくて、唇を噛みしめる。
「それは…… !でもゴメン……俺は真美さんにだけは、最悪の場合を見せたくないんだ……」
俺の死を必要以上に悲しんで、真実さん自身の人生をだいなしになんかしてほしくない。
――それがやっぱり、俺の一番の望みだから。
だから否定の言葉しか彼女に返すことができない。
それがどうしようもなく苦しかった。
必死に我慢していたであろう涙が一筋、真実さんの頬を伝って落ちる。
もうそれをすくい取ってやることのできない俺の目の前で、あとからあとから大粒の涙が零れ出す。
「泣かないで真実さん……」
思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
(でももうそれはできないから……俺はそう決めたから……! どうか、泣かないで……誰か彼女の涙を止めてくれ……!)
「ゴメン……真美さんゴメン……」
謝ることしかできない俺にゆるく首を振って、真実さんがそっくり同じセリフを返した。
「ごめんなさい、海君……」
そして求めるかのように――俺に腕をさし伸べた。
自分に向かってさし出された細い腕を、呆然とした思いで見つめる。
(『誰か』って……本当に他の誰かに、この手を委ねてもかまわないのか……? 俺は本当にそれでいいのか……? こんなにボロボロになっても、真実さんが求めてくれているのは俺だ……他の誰でもない俺なんだ! だったらどうして背を向けなければならない? いったい何のために? 誰のために? ……俺はこれ以上この人を傷つけないといけないんだ? ……真実さんの気持ち以上に大切なものなんて……俺が守るべきものなんて……ありはしないのに!)
「謝るのは俺のほうだ……!」
全ての思いを振り払うかのように頭を振って、俺はもう一度左手で、彼女の右手を掴んだ。
いつも繋いでいたその手と指を絡めた瞬間、真実さんの体中から力が抜けたことがよくわかった。
俺を取り戻すために、どれだけ懸命にがんばってくれたのかが、よくわかった。
(ありがとう真実さん……! 変に意地ばっかり張ってる俺のために……こんなに傷ついても……それでも……また手をさし伸べてくれて……本当にありがとう……!)
言葉にできない想いを行動で示すかのように、俺は彼女の涙を次々とすくい取っていく。
濡れた頬に、柔らかい唇に触れるたび、愛しさがこみ上げて止まらない。
(ダメだ……他の奴になんて渡せない! やっぱり誰にも触れさせたくなんかない!)
熱に浮かされたように、何度も何度も真実さんにくちづけてから、俺は頭を振った。
「ゴメン真美さん……本音を告げずにかっこよくいなくなるなんて……やっぱり俺にはできそうにない……!」
言葉と同時に、真実さんの体を自分の胸の中に抱きこむ。
「一度だけ! 一度だけでいいから本当のことを言わせて……! 忘れてしまってかまわない。聞かなかったことにして、すぐに違う誰かを好きになってもいいから……!」
もうどうしようもない心からの叫びに、真実さんは俺の腕の中で必死に首を振った。
「誰かを好きになんてならない! 私が好きなのは海君だもの! ずっとずっと、海君だけだもの……!」
息が止まりそうになる。
俺に向けられる真実さんの強い愛情に、確かな想いに、目が眩む。
激情のままに、俺は彼女を抱きすくめた。
すぐ近くから彼女の目を、真っ直ぐにしっかりと見つめる。
「放したくない。俺だって他の誰にも渡したくなんかない……! ずっと隣にいて、俺が真実さんを守りたい! こんなふうに泣かせるんじゃなくって……本当はずっと……ずっと俺が……!」
真実さんの耳元で囁く、今まで誰にも吐露したことはない俺の本心。
もっと生きたい!
――なんて、当たり前すぎて誰もが改めて望みもしない願い。
でも俺にとっては大切な願い。
また真実さんの黒目がちの大きな目から、涙が溢れ出す。
「好きだよ海君……大好きだよ……!」
言葉と同時に、俺の首に腕を伸ばした真実さんが、きっと許してくれたとおり、俺は何度も何度も狂おしいくらいに彼女にキスした。
「今までありがとう」
そう言って俺を見上げた彼女の顔は、涙で濡れてはいたが笑顔だった。
「さよなら海君……」
笑顔でそう告げられたから、この時真実さんも俺と離れる覚悟を決めたことを、俺は悟った。
返事をする代わりに、もう一度真実さんを強く強く抱きしめる。
想いの強さをこの腕で示すように。
もう二度と口にしない本当の気持ちを、彼女の心に刻みこむように。
――ただ抱きしめた。
お互いを抱きしめる腕をどちらからともなく解いて、二人で顔を見あわせた。
真実さんが笑ってくれていることだけが、俺にとっては救いだった。
胸は切り裂かれるように痛い。
それはきっと彼女だって同じだろうに、笑顔を作ってくれるから、この辛い決断が正しかったんだと自分に言い聞かせることができる。
「行こうか?」
コクリと頷いてくれる人に、いつもどおり左手をさし出す。
――おそらくもう今夜だけしか繋ぐことのない手を。
昼間、簡単な地図を片手にわくわくしながらたどった堤防の道を、今度は二人で歩いた。
二人っきりの小さな砂浜から出た途端、真実さんはいつものように――いやいつも以上に明るくなったように感じる。
「あれが夏の大三角形……それからあれがさそり座でしょう……」
夜空を見上げたまま、指さしながら歩き続けるから、
「真実さん、堤防から落ちちゃうよ?」
俺は笑いながら声をかける。
「大丈夫。海君がちゃんと手を引いててくれるから……!」
まったくためらう余地もないほどの、確かな信頼が嬉しかった。
繋いだ手にギュッと力をこめる。
「星に詳しいんだね……」
「そんなことないよ……知ってるのは有名なのだけだよ……でも……本当にひさしぶりに見た……!」
真実さんがいつも生活しているあの街には、確かにこんなに星が見える場所なんて存在しない。
夜更けまでネオンが煌々と輝いているんだから、星の光なんて全て霞んでしまう。
あの街で生まれ育った俺にとっては当たり前のことでも、真実さんにとってはひどく寂しいことだったんじゃないかと想像がつく。
「このままここに居たくなったんじゃないの……?」
ふり返って尋ねてみたら、真実さんはちょっと困ったような顔をした。
「うーん……でも大学卒業までまだ一年半はあるから……その間はがんばらないとね……」
「そっか」
何気ないフリして相槌を打ちながらも、俺はいろんな意味で寂しさを感じずにはいられなかった。
一年半後――真実さんがあの街からいなくなってしまう頃に、俺はまだあの街にいるんだろうか。
答えはきっとNOな気がする。
だからこそ彼女から離れることを決めたのに、彼女があの街を出て故郷に帰ってしまうことさえ寂しく思うなんて、本末転倒だ。
(きっとここに帰ってきて、俺のことなんか忘れて、幸せになるんだろうな……)
それを嫌だと思ってしまう自分が嫌で、軽く首を横に振る。
(自分からそうしてほしいって言ったのに……ほんとに俺って自分勝手……!)
自分が死んだあとの真実さんの未来にまでやきもきしている自分が虚しい。
心の中で小さくため息を吐く俺の耳に、その時思いがけない言葉が飛びこんできた。
「それに……あの街には海君がいるから、離れられない」
ドキリと胸が鳴った。
「俺は……!」
「もう今夜までしか一緒にいられない」
なんて言葉、自分の胸にまで痛くて口にすることができない。
そんなどうしようもない俺に向かって真実さんが笑いかける。
「わかってる。でも……近くにいるんだって、そう思えるだけで……やっぱり嬉しいから……」
「…………!」
泣きそうになる衝動を必死にこらえて、俺も笑顔を作った。
「真実さん……」
呼べば笑い返してくれる。
大切なものを見るような、優しいまなざしで俺のことを見つめてくれる。
どうしてこんな人がいるんだろう。
その人がどうして、俺の傍にいてくれたんだろう。
考えれば考えるほど、喉の奥がぐっと熱くなってくる。
「ありがとう……」
それ以外には、浮かぶ言葉も思いつく言葉もなくて、俺は思いのままにもう一度彼女に笑いかけた。
「ううん。私こそありがとう」
そのまま返されてしまったから慌ててもう一度言い返そうと思ったのに、
「いや、俺だよ……!」
「ううん、私が……!」
言いあう言葉が偶然重なって、顔を見あわせて二人で大笑いした。
「これじゃ埒があかないよ……!」
「本当に!」
嬉しそうに声を弾ませる笑顔が愛しい。
自然と俺の近くに歩み寄ってきて、繋いでいないほうの手まで、しっかりと握りあった俺たちの手の上に重ねる仕草が愛しい。
「これで最後だ」
なんて悲しい思いは今だけは忘れて、華奢な体を片腕でぎゅっと抱きしめた。
「海君……」
彼女が俺につけてくれた、二人の間だけの俺の呼び名だって、明日からはもう誰にも呼ばれることはない。
――そう思うと、もっともっと優しい呼び声を聞いていたかった。
「海君……」
呼びかけられる声にわざと返事をせず、ただ彼女の髪に頬をうずめる。
「海君……」
何度も何度も、ついには真実さんが怒ってしまいそうなくらい、俺はただ、自分でもかなり気に入っていた俺の呼び名を呼ぶ彼女の声を、ずっと聞いていたかった。
真実さんの家の近くにある港でタクシーを拾って、俺たちは隣町にあるというフェリーターミナルへ向かった。
「俺……真実さんの実家にも行っとこうかな……?」
冗談半分の提案は、思ったとおり真実さんに大慌てで却下されてしまったので、そのままこの小さな港町をあとにする。
たとえ知ってる人に会ったって、俺のことをしっかりと紹介してみせるなんて言ってたわりには、真実さんは実に挙動不審で、そんな彼女のためにも、タクシーで移動するのは正解だったと思えた。
だけど――。
「今年の祭りは、いつにも増して賑わったけんのう」
「そうだったんや……」
「帰ってこんかったのか?」
「忙しかったけぇ」
人の良さそうな運転手さんと、真実さんがバックミラー越しに交わしている言葉は、俺の耳には慣れない。
そのうち俺のことなんかそっちのけで、ローカルな話題に花が咲き出して、一人、おいてきぼり感を感じずにはいられなかった。
(あーあ……せっかく最後の夜なのにな……)
性懲りもなく独占欲ばかりが湧いてくる。
(せっかくなんだから……俺のほうを見ててよ……!)
わざと怒らせるようなことを言ってこっちを向かせ、俺は多少強引に真実さんにキスした。
「海君!」
狭いタクシーの中での突然のキスに、真実さんは飛び上がりそうにビックリしている。
ついさっきまで彼女とローカルな話題で盛り上がっていた運転手さんも、慌てて両手でハンドルを握り直し、俺たちから目を逸らす。
名前を呼ばれたことに対し(何?)と瞳だけで問いかけると、真実さんは(何じゃないでしょう!)とやっぱり視線だけで言い返して来た。
そのちょっと怒った顔がたまらなく可愛かったので、もう一度キスしようとしたら、
「海君!」
必死に俺の体を押し戻しながら叫ばれた。
(ダメだ……可愛くってたまらない!)
両腕で抱きしめてしまいたい思いを、俺は笑うという行為にすりかえた。
車の中にこだまするハハハハッという笑い声。
真実さんがプイッと俺に背を向ける。
窓の向こうを向いてしまった小さな背中は、かなりの怒りを募らせていたはずなのに、俺が「ゴメンゴメン」と声を上げるよりも早く、またこちらをふり返る。
嬉しくって思わず、からかうような言い方をしてしまった。
「えっ? 真実さん、もう降参……?」
あきらかに少しムッとした顔をしながらも、真実さんは呟いた。
「いいでしょ……別に……」
「もちろんいいよ!」
俺は彼女の手を取った。
繋ぐことが当たり前になっている手。
もう少しで、放さなければいけなくなる手。
――だからこそ今は、繋がずにはいられない。
真実さんが俺の肩にそっと頭を乗せてくる。
心地いい感触にこの上ない幸せを感じながら、俺もその上に自分の頭を重ねた。
しばらく静かにそうしていた真実さんが、静かに呟く。
「海君とこうしてるとなんだか眠くなる……ドキドキもするんだけど、それよりもっと安心して……幸せすぎて……なんだか眠くなるんだよ……」
実際に今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうな声でそんなことを囁かれると、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。
「ああ、そうだね……それはそうかもしれないね……」
小さな声で同意しながらも、悪戯心を刺激されて、ついつい余計な一言をくっつけずにはいられない。
「でもそれでも俺は、やっぱりドキドキのほうが大きいんだけどな……?」
わざとため息を吐きながら、瞳に力をこめて、真実さんを真っ直ぐに見つめると、彼女は火がついたかのように赤くなった。
「もう……! 一生懸命、意識しないようにしてるんだから、そんなふうに言わないでよ……!」
それはつまり――もうどうしようもなく俺を意識してしまっているということだろうか。
すっかり安心し切って眠ってしまわれた過去を持つ身としては、そんなことをどうどうと宣言されるのは、嬉しい以外の何でもない。
思わず声が弾む。
「どうして? 意識していいよ……意識してよ……?」
わざと耳元で囁くと、真実さんは顔を上げて、
「海君!」
抗議するように俺の名前を呼んだ。
その唇に、さっさと自分の唇を重ねてしまう。
真実さんの体から力が抜けきってしまう感触がした。
「……海君どうしたの? なんだか変だよ……? どこか壊れちゃった……?」
困り顔で尋ねられるから、俺は小さな体をそっと胸の中に抱きこむ。
「うん。そうかも……」
甘い香りのする大好きな髪に顔を埋めて、小さく呟く。
「もう手を繋ぐこともないって思ってたのに、真美さんが俺を望んでくれたから……俺が思ってたのと同じように、手をさし伸べてくれたから……もう制御不能になったかもしれない……ゴメン……こんなじゃダメ?」
腕の中で、真実さんの体が一気に緊張したことがよくわかった。
何も言葉を返すことができず、真っ赤になって黙りこむ姿が、ひどく愛しかった。
「責任取ってよね? 真実さん……」
耳元に唇を寄せて、とてもとても声を潜めて囁くと、いよいよ困りきっている様子がよくわかる。
――そんな様子を喜んで見ているあたり、俺は本当に意地悪だ。
底意地が悪い。
自分で自分に苦笑せずにはいられなかった。
フェリーのターミナルに着いて、真実さんが乗船手続きをしている間に、俺は兄貴に電話をかけた。
「帰りは絶対に迎えに行くので、連絡するように!」
という約束どおり、明日の朝早くに着く旨を報告する。
もちろん、フェリーに乗るなんてことは言えなかったので、近くの駅を指定したが、
「わかった。絶対に迎えに行くから、そこにいろ!」
とあいかわらずもの凄い剣幕で、一方的に約束された。
(まったく……過保護だよなぁ……)
内心苦笑しながら真実さんのところに帰ったら、様々な書類を前に真実さんが途方に暮れていた。
「ねえ海君……私に書かせたって、海君の欄にはなんにも書けないよ……?」
困りきっている真実さんには悪いが、その言葉には思わず吹き出しそうになった。
それはそうだろう。
俺は彼女に自分のことを何ひとつ教えてはいないのだから――。
氏名。
住所。
年齢。
電話番号。
何を聞かれても見事なまでに、彼女は本当の俺のことを知らない。
俺はニヤリと笑って言った。
「真実さんと一緒でいいよ……」
「そう……?」
大きくため息を吐きながらも、彼女は俺が言ったとおりに、なんとか書類を文字で埋め始める。
時折首を捻り、悪戦苦闘しながら、それでも真剣に向きあっている姿がいじらしかった。
(ゴメンね……)
実際に声をかけてやればいいのに、俺は心の中でだけくり返す。
(困らせてばっかりで……ゴメン……)
それでもこんな俺を許してしまう真実さんに、深い感謝を覚える。
懸命に無理して、これまで俺を守りとおしてきてくれた彼女が、今本当にありがたい。
全部書き終わって提出した真実さんが、ひどく不安そうな顔で俺の顔を見上げた。
「海君……船で移動なんてしてよかったのかな……?」
一瞬、何のことを言われているのかわからなくて首を傾げた俺に、真実さんは必死で問いかける。
「海君、大丈夫なの……? 本当にいいのかな?」
彼女が両手に握りしめている乗船チケットと、それに関する案内に目を落として、何を言わんとしてくれているのかがようやくわかった気がした。
きっと但し書きかなんかで見た『乗船を見あわせていただくお客様』のことを言っているのだろう。
そういう欄には大抵、『心疾患』と書いてあるはずだから――。
「ああ……」
なるべく真実さんを安心させることができるように、俺はせいいっぱいの笑顔で答えた。
「大丈夫だよ。それで直接どうこうってことはない。結局俺の場合は、どこにいても何をしてても……いい時はいいし……ダメな時はダメになるだけだからさ……」
明るく笑いながら、この上なくヘビーな話をしている自分は、どことなく滑稽ですらある。
「いつ『もしも』ってことになっても、とっくの昔に俺の家族は覚悟してるし、俺だって納得してる……あっ! でもちゃんと真実さんには迷惑かけないようにするから……!」
上手くごまかせたと思ったのに、真実さんは俺の口上のまだ途中で、我慢できないとばかりに叫んだ。
「海君!」
両腕を伸ばして、急に俺に抱きついてくる。
こんな場所で真実さんのほうからこんな行為に出るとは予想もしていなかった俺は、かなり動揺した。
「ゴメン。海君もういいよ。ゴメンね……」
涙声で訴えられたので、不覚にも俺まで涙が浮かびそうになった。
「俺こそゴメン……」
ふうっと小さく息を吐いて、俺も真実さんの体を抱きしめる。
無理していることだって、彼女にはお見とおしなんだったら、もう自然体でいこうと思った。
残り少ない二人の時間。
何もかも望めはしない俺にだって、それぐらいは許されるんじゃないだろうか――。
「私が守る。海君のことは、私が守るから……」
決意をこめたような小さいけれど力強い声で、ふいに真実さんがそんなことを言うから、俺は面食らう。
思わず彼女の顔をのぞきこんだ。
「真実さんが?」
ちょっと上目遣いに俺の顔を見上げながら、彼女は俺の腕の中、確かに頷いた。
「そう……私が!」
わかっているのだろうか。
本当はもうずっと以前から、俺の心が、願いが、希望が、他ならぬ彼女によってずっとずっと守られてきたこと―――。
(きっとわかってないんだろうな……)
だからこそこんなに真剣な顔で、またもう一度、
「守ってあげる……」
と宣言してくれる。
俺にとってはまるで天使のようなその微笑みに、俺もニッコリと笑い返した。
今はまだ、手を伸ばせばすぐに触れることができる俺だけの天使に感謝して、
「へえ……楽しみだな……」
ゆっくりと首を傾げて、また彼女にキスをした。
かなり大型の旅客フェリーは、船内に一歩足を踏み入れてしまえば、そこが海の上だなんて忘れてしまいそうなくらいに快適な空間だった。
客室や食堂はもちろん、展望室や浴室、娯楽室まである。
自分たちに割り振られた小さな個室に早々に荷物を運び入れて、船内探険にでも行こうかと真実さんを誘おうと思ったら、先を越された。
「私……甲板に出て外を見てくるね。町が遠くなっていく様子って、船から見たらどんなふうなのか……ずっと見てみたいって思ってたんだ……!」
まるで一刻も早くこの部屋から出て行きたいかのように、真実さんが慌てている理由が、俺にはなんとなくわかる気がした。
たった一つの重たいドアで、完全に外の空間とは遮断されてしまうこの小さな部屋に、俺と二人っきりでいることが嫌なのだろう。
(だから……意識しすぎだって……)
あたふたと慌てている様子があまりにも可愛くて、思わず笑みが零れる。
笑いながら俺も真実さんのあとを追った。
「俺も行くよ」
重たいドアに苦労している彼女に力を貸して、一緒にドアを押し開ける。
「あ、ありがと……」
決して俺の顔を見ようとはしない真実さんの緊張が、俺にまで移ってしまいそうだった。
照れ臭さをごまかすように、いつもどおり彼女の手を握る。
「早く行かないと、あっという間に見えなくなっちゃうよ……?」
ようやく真実さんが俺に目を向けてくれた。
困ったような恥ずかしいような、それでもやっぱりどこか嬉しそうな顔が、愛しかった。
大きな窓を挟んで船の中から外を見る展望室というものもあるにはあったが、真実さんの希望はあくまでも甲板だった。
強い風がそのまま吹きつけ、細い手すりにつかまっていないと体勢を崩して海にも落ちてしまいそうなほどの場所を、真実さんは選んだ。
そして無情にも俺に告げる。
「海君は先に部屋に帰ってて……私も、しばらく外を見たらすぐに帰ってくるから……ね?」
「どうして? 一緒にいるよ」
反論する俺を、真剣な顔で見つめる。
「だって……やっぱりこんな強い風に、長い時間あたってたらだめだよ……!」
それでも一緒がいいと言いたかったが、俺の体調を気遣ってくれてるんだと思うと、それ以上食い下がることはできなかった。
「わかった」
名残惜しく、真実さんの頬にそっと指先だけで触れて、俺は彼女に背を向ける。
客室の並ぶ三階へと階段を下りる寸前に、ふり返って見てみたが、真実さんは手すりにつかまって海のほうを向いたまま、微動だにしていなかった。
そのどこか寂しげで儚げなうしろ姿が、胸に痛かった。
船室に帰って二つあるベッドのうちの一つに腰かけ、足を投げ出してはみたけれど、他には何もすることがなかった。
ただブツブツと、聞く人のいない独り言を呟く。
「けっこういいもんだな……テレビだってあるし、冷蔵庫だってある……」
ホテル並みに整った設備を見ていると、まるで真実さんと二人でどこか旅行にでも来たかのような錯覚に陥る。
真実さんが緊張するのも無理はない。
俺だって、別に特別な意味はないと言いながらも、これからどうやって二人で過ごすのかを考えれば、どうしたって胸が跳ねる。
(この部屋に二人きり……)
ドキドキと脈打ち始める鼓動が、万が一にも発作になどなったりしないよう、左胸を押さえながら、俺は立ち上がった。
とうの昔に陸地は見えなくなったはずなのに、いつまでたっても船室に帰ってこない真実さんを、やっぱり迎えに行くことにする。
(ここより甲板のほうが居心地いいのかもしれないけど……いくら夏だからって、真実さんだってずっとあそこにいたら、風邪ひいちゃうよ……)
本当は一秒でも長く一緒にいたい心のままに、俺は彼女を呼びに行った。
「いいかげんにしないと……風邪ひいちゃうよ?」
真実さんはさっきと同じ場所で、手すりに寄りかかるようにして、じっと立っていた。
隣に立って、肩に上着をかけてやると、ハッとしたように俺の顔を見つめる。
「ずっとここに居るの?」
わざとそんなふうに尋ねてみたら、驚いた顔が苦笑に変わった。
「別にそれでもいいけど……」
ため息が出そうな心のままに、俺は彼女に懇願する。
「そんな寂しいこと、言わないでよ……一緒にいようよ……せっかくなんだから……」
左手に触れていた彼女の右手をいつものように握ったら、真実さんが自分の頭を俺の肩に乗せてきた。
その心地よい重みを、彼女が俺の言葉に同意してくれた証拠だと取って、俺は真実さんの手を引き歩きだした。
もう一度あの小さな部屋へと――。
狭い個室内は、お互いの胸の鼓動さえ聞こえてしまいそうなほどに静かだった。
ひとしきり部屋の中をうろうろした末に、小さな窓の前に立ったまま動かなくなった真実さんのうしろ姿を、俺はベッドに腰かけたまま静かに見ていた。
手を伸ばせば簡単に抱きすくめてしまえるほどに、すぐ近くにいる愛しい人。
けれど、決してそんなことはしないと、俺は心に決めている。
(そんなに緊張しなくても、俺は別に何もしないよ?)
昼間、あの砂浜で笑いながら言ったみたいに、そんなセリフをもう一度くり返してやればいいのに、頑なに俺に背を向けている背中にはなんだか声がかけづらい。
怯えさせてしまわないように、俺は静かにベッドから立ち上がり、真実さんに近づいた。
「何が見えるの?」
問いかけてみると、窓から視線は外さないままに、静かに答えられた。
「海と月。それだけだよ……」
横顔が綺麗だった。
「そっか……」
短く答えるとすぐに、俺は目を閉じる。
真実さんのいろんな表情を記憶している俺の頭の中のキャンバスに、この夜の静かな横顔を描き加える。
その向こうに彼女が見ているはずの夜の海と輝く月の姿と共に――。
(綺麗だ……)
心から満足して、ため息をついた瞬間
「海君……」
俺の名を呼ぶ真実さんの声に、どうしようもなく胸が跳ねた。
(なんだろう……なんだかすごく胸に痛い声だった……?)
閉じていた瞳を開くと、俺を見つめる真実さんと目があった。
溢れんばかりの感情をたたえた潤んだ瞳の奥に、俺が必死に押し殺している感情を思い出させるような光が灯っていて、ゾクリとした。
(真実さん……?)
彼女が俺を求めて、手をさし伸べてくれているような気がした。
ドキドキとものすごい速度で心臓が脈打ち始める。
「真美さん……」
思わず声に出して呼んでしまったら、感情の歯止めが利かなくなったのが自分でもわかった。
「俺はもう、真美さんに会いに来ないよ……」
まるでそれでも許して欲しいと言わんばかりに、俺の口は彼女にそんなことを確認している。
「一緒に未来を歩くことはできない……」
もし引き返すなら今だと、警告を発しながらも、どこかでわかってる。
彼女がきっとこれまでのように俺の全てを許してしまうであろうことを――。
どうしようもなく、鼓動が速くなる。
「今日でサヨナラだ……」
真実さんは俺の目をしっかりと見つめたまま、何度も何度も頷いた。
俺が言わんとしていることを肯定するかのように。
あたかも自分の意志として、彼女自身が選び取ったかのように。
「それでも……」
彼女の決意が――想いが胸に痛くて、それ以上はもう口に出せない俺に代わって、真実さんが言葉を継ぐ。
「いいよ……それでもいいよ……」
目の前にさし出された彼女の右手を、泣きたいくらいの気持ちで見つめた。
いつだって諦めてた。
いろんなことに背を向けて生きてきた。
そんな俺の小さな望みさえ見つけだして、すくい上げてくれる不思議な人。
心からの感謝をこめて、その右手に自分の左手を重ねた。
「ねえ……真実さん覚えてる? 俺が、真実さんを呼び捨てで呼ぶ時はどんな時か、最初から決めてるって言ったこと……?」
絶対に来るはずはないと思っていたその時。
だからこそ、冗談まじりに真実さんにそんな宣言をしてからかっていたのに、まさかこんな瞬間が俺たちに訪れるなんて、思いもしなかった。
真実さんがそこまで、俺の心を汲んでしまうとは思っていなかった。
ちょっと照れたように俺から目を逸らして、また窓の向こうに視線を向けた真実さんは、それでもしっかりと答えてくれる。
「うん、覚えてる」
喜びに震える心のままに、俺は彼女を引き寄せた。
優しく腕の中に抱きしめた。
ひょっとしたらもう二度と抱きしめることはないかもと思っていた小さな体を、大切に大切に抱きしめる。
「真実さんが悪いんだよ……俺は諦めることには慣れてるのに……本当はもっとかっこつけて……何にも言わず、何も望まないまま、真実さんの前からいなくなるはずだったのに……」
そんな意地悪を告げながら、彼女の頬に、首に、唇に、何度も何度も唇で触れる俺を、真実さんは優しく笑いながら許してしまう。
「そうだね……私のせいだね……」
「責任取ってくれるんでしょ?」
どんな言い方をしたって、笑って俺を受け入れてしまう。
俺の首に腕をまわしながら、真実さんが囁いた
「海君……愛してる……」
の言葉に、絶対に口にすることはないと思っていた言葉を、俺はついに口にした。
「真実、俺も愛してるよ」
その機会を与えてくれた真実さんに、深く深く感謝せずにはいられなかった。
普通の恋人同士だったら当然のように望まずにはいられない愛し方を、俺は自分には望めるはずもないと、初めから思っていた。
諦めるとか、我慢するとか以前に、有り得ないと思っていた。
なのに、なぜ今、俺の腕の中に真実さんがいるんだろう。
今までよりもずっとずっと近くに彼女を感じているんだろう。
温かくて、優しくて、愛しくてたまらない温もりを、いつまでも離したくなくて、ただ抱きしめる。
同じくらいの強さで、彼女も俺のことを抱き返してくれるのが嬉しかった。
まるで、こんなに彼女を愛してる俺の想いと同じくらい、彼女も俺のことを想ってくれているみたいで、泣きたいくらいに嬉しかった。
小さな窓から、月光が降り注いでいる。
起きているのか、眠っているのか、静かに窓のほうを向いていた真実さんがふいに口を開いた。
「海君……ほら月が見てる……」
ふり向きざまの笑顔が眩しかった。
「そうだね……でもまあ……月しか見てないからいいっか……」
言い訳するかのような俺の言葉に、その笑顔が一瞬曇る。
「ゴメンね……」
俺は慌てて問いかけた。
「どうして真実さんが謝るの?」
「だって……海君本当はこんなつもりじゃなかったでしょ……?」
困ったような声と表情に、ついつい悪戯心がわく。
「こんなつもりって……どんなつもり?」
案の定、真実さんはちょっと怒ったように俺の顔を上目遣いに見上げてから、俺に背を向けた。
「もういいよ」
大好きな表情が見れたことに、俺は思わず笑みが零れる。
それでもやっぱり、こんなことで真実さんの機嫌を損ねてしまうのは嫌だったので、目の前にある小さな背中を、うしろからすっぽりと抱きすくめた。
「海君……」
おそらくは抗議の声を上げたんだったろうに、
「何?」
俺があまりにも呑気に返事をしたら、真実さんは一呼吸を置いた末に、
「好きだよ」
と囁いてくれた。
正直、
「やられた!」
というような思いで、俺も正直に自分の気持ちを彼女に告げる。
「俺も好きだよ」
今夜一晩だけは、今までずっと封印していた俺自身の言葉を、全部彼女に返そうと決意していた。
その決心さえ、ひょっとして読まれてしまったのだろうか。
本当に真実さんには何から何まで見とおされてばかりだ。
「大好き」
いかにも嬉しそうな声でそう囁かれるから、俺は彼女を抱きしめる腕にギュッと力をこめる。
「うん。俺も……大好き」
手探りで彼女の右手を探しだして、いつものように手を繋いだ。
毎日真実さんと交わしていた小さな約束をもう口にすることができない俺は、代わりに新しい約束を結ぶことにした。
彼女のほうは忘れてしまってもかまわない。
でも俺は絶対に忘れない。
そんな小さなささやかな約束――。
「真美さん……朝になっこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……」
小さな手を優しく握りしめる。
今ではすっかり手に馴染んだその感触を、ずっとずっと忘れずにいるために。
「いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」
俺の自分勝手な決意に、なぜか真実さんは涙声で答えてくれた。
「ありがとう、海君」
嬉しくて、嬉しくて――胸が痛い。
だから俺は、真実さんを抱きしめる腕に、またギュッと想いをこめた。
「俺のほうこそありがとう」
大好きないい香りの髪にそっと頬を寄せた。
彼女がどんなに俺の心を救ってくれたのか。
諦めてばかりの俺の人生を、劇的に変えてくれたのか。
いくつもいくつも喜びを与えてくれたのか。
忘れてはいけないと思う。
いや。
――忘れようたって忘れられるわけがない。
だからこれから先、もう二度と会えなくたって、俺は心の中ではいつまでも彼女を愛してる。
どんなに理不尽な運命が俺に襲いかかってきて、急にこの生を終えることになったとしても、最期の最期の瞬間まで、ずっと想ってる。
だから彼女と繋いだ左手は、これから先もずっと繋いでる。
ずっとずっと心の中で、――いつも繋いでる。
静かな夜だった。
明かりを全部消して部屋を真っ暗にしていても、小さな窓から射しこむ月の光だけで、隣にいる真実さんの姿がぼんやりと浮かび上がってくるような――どこか現実離れした幻想的な夜だった。
ベッドに横になって寝る体勢はとってみても、とても眠る気になんかなれない。
これが二人で一緒にいれる最後の時間だと思うと、そんなに簡単に終わらせてしまいたくはない。
一分、一秒が惜しかった。
真実さんだってきっと眠ってはいないだろう。
だけどなんだか声をかけることはためらわれる。
ただ隣に彼女がいる気配を体中で感じながら、俺はいろんなことを考えていた。
(明日からまた病院のベッドの上か……でもまあ、いろんな場所で真実さんのいろんな顔が見れたから、それを描くっていう楽しみはある……)
笑顔も、怒った顔も、泣いた顔も、思い出せば頬が緩まずにはいられないくらい愛しい。
俺だけが知ってる――きっと俺だけに見せてくれた表情まで思い出すと、胸が苦しくなった。
ドキドキと高鳴る心臓が、いつまでたっても収まらない。
それが俺の舞い上がった感情からばかりではなく、かなり深刻な状況の前兆ではないかと気がつくのに、長い時間はかからなかった。
(ひょっとして……?)
取り返しのつかないことになるのが恐くて、俺はゆっくりと起き上がる。
椅子の背もたれにかけていた自分のシャツのポケットからいつものピルケースを取り出して、小さな命綱を口の中に放りこんだ。
なんだかあまり軽視できない発作の前兆の状態に、よく似ている気がした。
(まさか……?)
思い当る節ならば確かにある。
俺はきっと、今の自分に許される以上に無理をして真実さんを愛した。
ボロボロの心臓にかなり負担がかかって、悲鳴を上げているとしても不思議はない。
(大丈夫……でもまだ大丈夫……!)
自分の体に言い聞かせるかのように何度も呟く。
なんとしても倒れるわけにはいかなかった。
少なくとも真実さんと実際にサヨナラするまでは――。
そうでなければ、最後の最後にどんなに彼女を傷つけることになるだろう。
(だから大丈夫! 俺は絶対に大丈夫!)
ごまかしの言葉が効いているうちに、早く朝が来ればいいなんて――本心とは真逆のことを願わなければいけない自分が悔しかった。
ふと気がついた時には、窓から射しこむ月光は朝陽に変わっており、俺は自分がいつの間にか眠ってしまっていたことを知った。
隣に真実さんの姿はない。
おそらく下船の準備のためだろう――忙しく動きまわっている気配を感じる。
でも俺自身はベッドから起き上がらなかった。
(まいったな……!)
しばらく眠っていたというのに、心臓の調子はあまりよくなっていない。
それどころか、いつもより早い鼓動が、だんだん呼吸まで苦しくさせる。
(あと少し……あと少しだから……!)
ぎゅっと目を閉じて願い続ける俺に、真実さんが声をかけてきた。
「海君……」
きっとまだ眠っていると思っているのだろう。
遠慮がちに呼ばれた名前に、幸せな気持ちになり、小さく微笑む。
でも今は、そんな動作でさえも胸に苦しい。
「……海君?」
真実さんの声が心配げになるから早く返事をしてあげたいのに、苦しい呼吸を整えるのにせいいっぱいで、今はそれすらできない。
「海君……海君!」
何度目かでようやく、口を開くことができた。
「起きてるよ」
ホッとしたように真実さんが吐いた息が、聞こえるような気がした。
でも返事ができたからといって、すぐに起き上がることはできない。
「でも……目は開かない……」
投げやりにそう告げたら、
「どうしたの? ……調子が悪い?」
かなり心配そうな声がした。
余計な気を遣わせたくなくて、俺はニヤッと笑う。
「真実さん……あれやってよ、あれ――おはようのキス」
いっそのこと、悪い冗談にしてごまかしてしまおうと思ったら、
「なに言ってるの! もう時間がないんだよ!?」
という叫びと共に、俺の隣に何か柔らかいものが飛んできた。
(枕? ……ふふっ……真実さん元気だな……)
心配されるよりは怒られているほうがよっぽどいい。
俺は目は開けないままに、ニッコリ笑った。
「いいじゃない……! 最初で最後なんだからさ……お願い!」
冗談半分だったのに、真実さんはそれ以上否定の言葉はぶつけてこず、俺の横たわるベッドの傍に近づいて来る気配がした。
(え? ……まさか本当に?)
驚いている間にも、近くにひざまづき、俺の顔の横に手がつかれる気配がする。
(嘘だろ……?)
俺の上に屈みこんだ真実さんは、本当に俺の唇に、自分の唇をそっと重ねた。
(…………!)
瞬間――思わずその体を両腕で引き寄せてしまう。
「海君!?」
自分の上に倒れこんできた真実さんが、
「大丈夫?」
と問いかけて来る途中で、夢中でその唇を塞ぐ。
右手で真実さんの頭を押さえつけるようにして、俺は彼女にかなり強引なキスをした。
胸は痛い。
かなり痛い。
でもそれは、小さな頃から幾度となくくり返されてきた発作の間際の痛さだけではなくて、もっと比べものにもならないような切なさを伴っている。
(好きだ……! やっぱり真実さんが好きだ! ……なのに……もう離れなければならないなんて……!)
しかもその時は、もうすぐ目の前に迫ってる。
(離したくないなんて……そんなこと思っちゃいけない! ……でも思わずにはいられない……!)
静かに抱きしめ続ける俺の腕から、真実さんが起き上がろうとしたのと、俺が彼女を離したのはほぼ同時だった。
声なんてかけあわなくても、俺たちは自然と、サヨナラに向かう道を同時に歩きだす。
そのことが嬉しかったし、悲しかった。
ドクドクと脈打つ心臓を必死にごまかしながら、俺は立ち上がり、実になんでもない顔で真実さんに左手をさし出す。
「行こうか。真美さん……」
その手にいつものように真実さんの右手が重ねられる。
俺たちは手を繋いで、まるでそこだけ違う世界のようだった小さな船室をあとにした。
サヨナラに向かって歩きだした。
――そのことがやっぱり、どうしようもなく胸に痛かった。
船から出て、鉄製の階段を下り、ターミナルへと続く長い通路を歩く。
その間、俺たちは一言もしゃべらなかった。
ただ繋いだ手に、ギュッと想いだけをこめていた。
心臓のほうは、もうどうしようもなく脈打っていたけど――大丈夫だ。
真実さんがいるうちに倒れるなんて、俺はそんなへまはしない。
一歩一歩と近づいてくる別れの瞬間こそが、今、俺の胸を痛くしている原因ならば、負けるわけにはいかない。
自分勝手に選択して、真実さんまで巻きこんだこのサヨナラを、俺は立派に貫き通してみせる。
「真美さん」
そっと名前を呼んだら、
「うん」
まるで何もかもわかっているかのように、真実さんが頷き返してくれた。
一度は俺が放した手。
真実さんが望んでくれたおかげで、もう一度繋げた手。
――だから今度は真実さんが放す番だ。
「自分には真実さんを望む資格がない」と思っている俺が、二度と繋ぐことができないように、今度は真実さんのほうから――。
ズキリと胸が痛む。
心臓よりもっと奥の、俺の心の奥深いところがズキズキ痛む。
(それでもどうか……この手を放して……! 俺なんかから開放されて……どうか自由になって!)
「海君……」
不安げに、悲しげに真実さんが俺の顔を見るから、俺はせいいっぱい普通どおりを装って、なんでもない顔をする。
彼女の心が罪悪感で痛まないように、平気なフリをする。
「何?」といつものように瞳だけで問いかけたら、真実さんは泣きそうな顔を歪めるようにして、無理に笑った。そして――。
「さよなら……」
小さな声で俺に別れを告げた。
ニッコリと笑い返して、俺も「サヨナラ」と言うつもりだったのに。
できるだけ彼女の心を軽くするつもりだったのに。
――できない。
この肝心な場面で、俺は得意の作り笑いを浮かべることができなかった。
まるで心が丸裸にされたかのような気がする。
痛い。
今はただもう、心臓の痛みなんだか、心の痛みなんだか分からないほどに、胸が痛い。
笑って別れを告げる真実さんを苦しげにみつめたまま、まだ繋いでいる手にギュッと力をこめることしかできない。
そんな俺の葛藤を理解したかのように、真実さんが俺の体を抱きしめた。
「好きだよ」
告げられる言葉に、心が砕けてしまいそうに胸が痛む。
「海君……大好きだよ」
「うん。俺も大好きだよ……」
確かに確認しあってから、俺たちは離れた。
真実さんは俺の顔をしっかりと見つめながら、ずっとずっと繋いでいた手を彼女から放した。
その瞬間、確かに世界から自分という存在が隔絶されたことを感じた。
真実さんを思うことで、彼女を守りたいという思いだけで、必死に自分を奮い立たせていた俺の中の何かが、ポッキリと折れてしまった。
(サヨナラ……)
真実さんに背を向けて歩きだした俺は、もう彼女の姿をふり返って見ることはできない。
彼女と俺はもう何の関係もない。
心の中でだけ繋いでいると誓ったこの左手以外は、もう何の接点もない。
(サヨナラ真実さん……)
気がつくと涙が頬を零れ落ちていた。
大勢の人が向かった出口とは別の出口を選んでいたので、こんな情けない姿、誰かに見られる心配はなくてホッとする。
でも悔しい。
あんなに心に決めていたのに。
最初から決意していたのに。
それでも彼女の優しさにすがって、その上こんなふうに情けなく涙なんか流してしまっている自分が悔しい。
(違う……そうじゃない! ……それだけ真実さんが、俺にとって大切な存在だったってことなんだ……!)
どんな時だって俺の全てを許してくれた人。
痛みも悲しみも丸ごと抱きしめてくれた人。
(ありがとう……)
彼女に心からの感謝を捧げた瞬間、ズキンとどうしようもなく、胸が痛んだ。
(ヤバイ!)
前かがみになって胸を押さえながら、必死に胸ポケットから携帯を引っ張り出す。
(頼む! 早く出てくれ!)
兄貴を呼び出すコールを聞きながら、一秒がまるで一時間のようにも感じた。
背中を流れ落ちる汗の感触に焦りを感じる。
短い息を必死でくり返す。
エスカレーターの手すりにつかまって支えていた体が、ぐらりと均衡を失って残り五段ほどの高さを転げ落ちるのと、
「海里?」
兄貴がいぶかしげに応答したのがほぼ同時だった。
俺が床に打ちつけられる大きな音に、兄貴の叫びが重なる。
「どうした! 海里!」
「ごめん兄貴……駅じゃなくって、港……」
それだけ言うのがせいいっぱいで、目も口も閉じた俺の周りに、人が集まってくる気配がする。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
問いかけられる声に、ギュッと胸に手を押し当てたまま、小さく頷く。
(どうか……!)
薄れていく意識の中、俺は必死に祈った。
(どうか、気がつかないで……真実さん……!)
――ただそれだけを祈った。
誰かが俺を呼んでいる。
遠く聞こえる声は誰のものなのかわからない。
けれど確かに、必死になって俺を呼んでいた。
「もういいよ……」
と思う気持ちと、
「戻らなきゃ……」
と思う気持ちが拮抗する。
ほんの少し前だったらまちがいなく、俺は持てる気力の全てを、目を開けてもう一度起き上がることに費やしていただろう。
――でも今は、その気持ちが薄い。
(だって……もう会えない……!)
自分から背を向けてしまった人のことを思うと、胸が痛い。
(だから、もういいんじゃないかな……?)
ついつい全てを諦めてしまうほうに、心が傾く。
でも――。
「海君!」
俺を見て微笑む彼女の面影が、まだ記憶に新しすぎた。
俺を呼ぶ声もまだ耳に残っている。
繋いだ手の感触も、抱きしめた華奢な体の柔らかさも、まだあまりにも鮮明すぎるから、まだ全てを捨てきれない。
諦めてしまうなんてできない。
ゆっくりと目を開こうと努力する。
体のどこの部位に力を入れたら、もう一度起き上がれるのか――今は記憶さえもあやふやだけど、とにかく動こうと心を決める。
気持ちのほうが固まると、不思議とさまざまなことが思い出された。
「どうやったら真実が幸せになるのか、ちゃんと考えてくれ……」
貴子さんの忠告と、
「真実のとっておきの場所を教えてあげる……だから、真美のことをよろしくね」
愛梨さんとの約束。
そして――。
「朝になってこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」
まだ真実さんと繋がっている俺の左手。
(そうだ……まだ終わってなんかいない……彼女のためにできることが、俺にはまだきっとあるはずだ!)
その思いが俺の力となる。
「海里! 海里!」
誰のものかわからなかった声が、兄貴の叫びだと認識できた。
「海里……!」
涙混じりのひとみちゃんの声も聞こえる。
(ああ……心配させてるなぁ…)
俺なんていついなくなってもいいと、自分で勝手に決めていた命だけれど、周りの人の気持ちを考えるなら、そんなに簡単に諦めていいはずがないんだ。
たとえかっこよくなくたって、みっともなくたって、もっともっと生にしがみついていいんだ。
真美さんと出会ってから、俺はそう学んだ。
だから努力する。
俺を呼ぶ人の所に帰れるように。
少しでも長く生きれるように。
ゆっくりと瞼を開いた先に見えたのは、見慣れた病院の天井と、涙でぐちゃぐちゃになった兄貴とひとみちゃんの顔だった。
「…………」
しゃべろうと思って口を開いたけれど、声にならない俺の口元に、
「何?」
ひとみちゃんが耳を近づける。
ふっと小さく笑いながら、
「ひとみちゃん……すごい顔……」
告げた俺に、ひとみちゃんはカアッと赤くなって二、三歩後ろに飛び退った。
「バ……バカ海里!」
いつもと同じ怒鳴り声が嬉しくて、俺は微かに笑った。
フェリーのターミナルで倒れてから、三日が経過していた。
三日間も昏睡状態だった俺を、ほとんど眠らずずっと見守ってくれていたひとみちゃんに、開口一番口にした言葉が『すごい顔』っていうのは、さすがに申し訳なかったと、あとで思った。
「別にいいわよ! あんたはしょせんそういう奴よ!」
プリプリと怒りながらも、ひとみちゃんが毎日学校の行き帰りに立ち寄ってくれるようになる頃には、俺は集中治療室からいつもの病室に移動させられていた。
「ごめん……ご心配おかけしました……」
率直に頭を下げても、
「ふん!」
あまりに怒りが大きすぎたのか、ひとみちゃんがいつものように照れて動揺してくれない。
「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」
まさしくグウの音も出ない。
みんなに内緒で勝手な行動を取って、その挙句に発作を起こして倒れてたんじゃ、確かに周りの人たちはやってられないだろう。
「ゴメン……」
何度目か頭を下げた俺に、ひとみちゃんははあっと大きなため息を吐いた。
「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」
いつになく静かな口調で言われるから、かえって心にグッと来る。
「うん……ゴメン……」
神妙な顔でもう一度頭を下げた俺に、ひとみちゃんは真っ直ぐ向きあった。
「ねえ海里……」
「うん……?」
何かを言いかけてはやめ、また口を開こうとしては思い止まり。
ひとみちゃんはなかなかその先に続くはずのセリフを口にしない。
何を聞かれるのか先を読もうにも、もうあまりにも心当たりがありすぎて、俺のほうから切り出すのも難しい。
静かに待ち続けるだけの俺をじっと見ながら、ひとみちゃんはらしくもなく小さな声で囁いた。
「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」
かろうじて、一番して欲しくない質問をぶつけられることは免れたが、その質問だって答えにくいことには変わりなかった。
でも真剣なひとみちゃんをこれ以上ごまかすのは悪い気がしたし、何より、俺の真実さんへの想いが、そんなに隠しだてしなければならないものだとは思いたくなかった。
「うん」
隠しもごまかしもしないで頷いたら、ひとみちゃんはギュッと両目を閉じた。
てっきりいつものように「バカじゃないの!」とでも怒鳴られると思っていた俺は、ハッとした。
(ひとみちゃん……?)
そしてその驚きは、次の瞬間、彼女の頬を伝ってぽたぽたぽたと零れ落ちた大きな涙を見て、さらに大きくなった。
「ひ…とみちゃん……?」
呼びかけた俺になんの返事もせず、ひとみちゃんは自分の手の甲で涙を拭いながら、全速力で病室を出ていく。
走って追いかけることのできない俺は、必死になって声をかける。
「ひとみちゃん!」
彼女はまったくふり返りもせず、俺の病室を出ていった。
『ひょっとしてひとみちゃんは、単なる従兄妹として以上に、俺のことを想ってくれているんじゃないか』
そう考えたことは、これまでにだってある。
でもそのたびに俺は、その考えを全力で否定してきた。
(そんなはずない! そんなはずはないよ!)
無視してごまかし続けてきたツケが、今、全部俺にのしかかる。
(くそっ! こんな状態じゃ追いかけることだってできやしない!)
いっそのこと、腕についた点滴を引き抜いて追いかけようかなんて、とんでもないことを考えた時、天の助けが現われた。
「よっ! 海里! どうだ? 調子は?」
何の気なく、いつものように笑顔でひょっこり病室に顔を出した兄貴に、俺は夢中で訴えた。
「兄貴! ひとみちゃんが……!」
どうしたとも、どうして欲しいとも言わないうちに、
「わかった!」
と叫んで、兄貴が駆けだしていく。
その頼もしい背中を、俺は苦しい思いで見送った。
数十分後。
病室に帰って来たのは兄貴のほうだけだった。
「ひとみちゃんは……?」
なんて俺が問いかけるより先に、兄貴は笑顔で語りだす。
「今日はもう帰るってさ……明日また来るって言ってたぞ……」
心からホッとした。
ひょっとしたらもう俺のところには来てくれないんじゃないかなんて、――それをとても心配していた自分を自覚する。
「わかった。ありがとう……!」
俯いた俺の頭を、兄貴がポンと軽く叩いた。
「気にすんな……! お前がいつもどおりじゃないと、ひとみが気まずいだろ?」
「う、うん……」
いったいどこまでわかってて話してくれているのか、見当もつかない。
兄貴には俺たちの何もかもが筒抜けな気がする。
「あいつだって、本当はとっくにわかってる……いつまでもお前を卒業しないままじゃダメなんだって……大丈夫……そのうちお前のほうが寂しくなるくらい、呆気なく他の男のところに行ってしまうよ……!」
「そ、そうかな……?」
それはそれで、なんだか嫌だと思ってしまうこの心境はなんなのだろう。
小さな頃から一番身近にいた存在が、遠くに行ってしまうような寂しさ。
自分とは関係ないところで、新しい関係を築き上げていくことに対する焦燥感。
ひょっとしたらひとみちゃんが俺に感じていたのも、こんな感情なのかもしれない。
複雑な心境で考え続ける俺の耳に、思いがけない言葉が飛びこんでくる。
「まあ……ひとみの場合は大丈夫だよ……お前が大好きだって部分も含めて、ずっと見守ってる男がちゃんといるから……」
「あ、兄貴……?」
ハッとして顔を上げた俺に、兄貴はいつもどおりの笑顔で、パチリと片目をつむってみせる。
「海里が大好きなひとみが、俺は大事なんだから……」
本当に頭が下がる思いだった。
翌日の朝、本当にひとみちゃんはいつものように、俺の病室にやって来た。
「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取ってきてほしい物があったら持ってくるけど?」
俺のほうを見ようとはせずに、テキパキと荷物の整理をする背中に、俺は遠慮なく申し出た。
「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持ってきて……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」
ピクリとセーラー服の肩が揺れた。
「私に一人で持ってこいって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」
「あ……無理ならいいんだよ?」
途端、ひとみちゃんは長い髪を揺らしてこちらをガバッとふり返った。
「持ってくるわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」
負けず嫌いの性格をもろに発揮して胸を逸らす姿を目にしたら、お腹を抱えて笑わずにはいられなかった。
「なによ、バカ海里!」
捨てゼリフを残して病室から去って行く背中に、俺は頭を下げた。
「ありがとう! ひとみちゃん!」
心から下げた。
「まあ今回はちょっと無理をし過ぎたって自分でもわかってるだろうし……幸いひどい発作にはならなかったから良かったけど……もしまた今度こんなことがあったら、もう外出許可は出さないぞ……?」
検診にまわってきてくれた石井先生は冗談めかしてそんなことを言ったけれど、その瞳はいたって真剣だった。
『もしまた今度』のあとが、本当は外出許可の話なんかではなくて、俺の命の期限なんだってことが、痛いくらいによくわかる。
「無茶をするなよ……」
いつものように頭を撫でてくれる大きなてのひらが、先生のちょっと違った感情を宿して小さく震えていることに、俺は気づかないフリをする。
微塵も気づいていないフリをする。
「はい。すみません」
「なんだ? 今日はやけに素直だな?」
「俺はいつだって素直ですよ……」
浮かべた笑顔が上辺だけのものだと気がつかれないように努力した。
「お大事に……」
病室を出て行く先生の背中を見送って、俺は目を閉じて自問自答する。
(後悔してるか……?)
真実さんと出会って恋したこと。
無理して彼女と会ってたこと。
彼女のためにサヨナラを決めたこと。
最後の最後にあんな別れ方をしたこと。
胸に痛い想いはいっぱいあっても、後悔は何ひとつない。
たとえその全てが俺の命を縮めるとわかってたって、もう一度その場面に立たされたなら、俺はまちがいなくこれまでと同じ道を選ぶだろう。
(だからいい……!)
きっとこれが最後のチャンスだろうけど。
もう一度大きな発作を起こしたなら、その時は命の保証はできないと先生に宣告されたようなものだけど。
自分にできるせいいっぱいで、俺は残された日々を生きる。
窓際の日当たりのいい場所に、ひとみちゃんが額に汗を浮かべながら、高校の美術室から運んできてくれた絵の道具はセットしてあった。
本当は日陰で描いたほうがいいのはわかっているけれど、その絵だけはできれば青空の下で描きたかった。
それがかなわないから、せめて空が見える場所で――。
目を閉じれば色鮮やかに甦ってくる光景と、切ないばかりの彼女の姿。
――俺の頭の中のキャンバスに、あの日確かに焼きつけた物を、形ある物として残しておきたい。
できるだけ早く。
焦燥感にかられたこの思いは、確かに自分の命が残り少ないことを本能で嗅ぎ取っているからこそなのかも知れないが、そんなこと今はどうでもよかった。
とにかく一刻も早く仕上げてしまいたかった。
体が俺のいうことを聞いてくれているうちに早く――。
ベッドの横の壁に貼られたカレンダーに目を向ける。
もう八月も中旬。
急がなければならない。
(確か九月……それも入ってすぐ……!)
フェリーのターミナルで乗船手続きをしていた時、何気なく目にした彼女の誕生日。
その日にこの絵を贈りたかった。
自分に関するものなど、何ひとつ彼女に残さなかった俺だけど、俺の目に映った彼女の姿ぐらいは絵として残してもいいんじゃないだろうか。
もし彼女がまたあの海を懐かしく思い出す時があったら、すぐに引っ張り出して見れるように、手元に置いてあげたい。
(それが最初で最後の、俺からのプレゼントだよ……)
今だってすぐ身近に感じることができる彼女のことを想いながら、ずっと繋いでると約束した左手を空に透かし見た。
照りつける太陽が眩しくて、空はあの日と同じように青が濃かった。
半月間、絵筆を握る以外はベッドの上でおとなしく過ごし、俺はその夜僅かな外出時間を得ることに成功した。
俺の希望するままに、こんな変な時間にも許可を貰えるなんて、もう自分には残された時間がないと宣告されたようなものだが、俺は敢えて気がつかないフリをし通している。
以前はしきりと
「変じゃない? 変じゃない?」
とくり返してひとみちゃんも、さすがに最近では、もうそれを口には出さなくなった。
唇をギュッと噛みしめて何らかの感情を押し殺そうとしている姿を見ていると、俺自身もどうしようもなく胸が痛くなってくるから、そういう時はお互いに目をあわせないように努力している。
どちらからともなくそうしている。
「そんな時間にどこに行くのよ?」
なんて以前だったらまちがいなく怒鳴られたことも、もうひとみちゃんの中ではとっくに察しがついているらしい。
だからこそなおさら、もう無理をしてはいけないような気がする。
俺のわがままを許してくれている周りの人たちに、せいいっぱい感謝の気持ちを捧げるためにも、俺は目的を果たしたらさっさと帰ってこようと心に決めていた。
なのに――。
通い慣れた真実さんのアパートの近くにタクシーを乗りつけて、いつもの場所まで歩いて行ったら、もうその場所から一歩も動けなくなった。
何度も何度も、彼女を待って朝ひと時を過ごしたその場所が、こんなに懐かしい。
もう一度あの日々に帰りたいと俺の心が叫ぶ。
(でもそれは無理だ……!)
諦めの思いを噛みしめて、仰いだ夜空に星は見えなかった。
あの夜、真実さんの故郷で、二人で見上げた降るような星空はもう二度と見れない。
だから――。
準備していたプレゼントの袋をそっと玄関前に置いて帰ろうかとしたその時、ふいに真実さんの部屋の扉が開いた。
慌てて隣の部屋の洗濯機の陰に身を潜めた俺の目の前を、他ならぬ彼女が通り過ぎていく。
(真実さん!)
その場から飛び出して抱きしめてしまいたい衝動を、俺は必死にこらえた。
およそ一ヶ月ぶりに見た彼女は、また少し痩せてしまったように感じた。
けれど暗い外灯の下、少しきょろきょろしながら通りへと出て行く横顔は、やっぱり何度見ても恋せずにはいられないくらい綺麗だった。
(真実さん!)
声をかけたくてもそうできない辛さを必死に我慢しながら、思いがけない邂逅が発作に繋がったりしないことだけを祈る。
ドキドキとどうしようもなく脈打つ心臓を、落ち着けることに専念する。
(大丈夫……大丈夫だ……!)
静かに言い聞かせながら、遠くなっていく小さな背中を見送った。
妬けつくような気持ちで見送った。
真実さんが帰ってこないうちにプレゼントの絵と花束が入った袋を彼女の部屋の前に置いて、俺はその名残惜しい場所に背を向けた。
真実さんが外に出ているので、帰ってきた時にきっと気づいて貰えるだろうと思えることがありがたかった。
(どんな顔するかな? 喜んでくれるかな?)
彼女の反応を予想しながら、ワクワクした気持ちで待たせていたタクシーに乗りこもうとした時、遠くで真実さんの声がしたような気がした。
足を止めてふり返る。
確かにもう一度「海君!」と俺を呼ぶ声がした。
駆け出そうとした足を意志の力で踏み止めて、首を振る。
何度も何度も振る。
(ダメだ! もう会わないって決めただろ! ダメなんだ……!)
ドキドキと鳴り始める心臓を落ち着かせようと左手を胸に押し当てながら、断腸の思いでタクシーに乗りこむ。
プレゼント見つけて、すぐに俺からだって気がついてくれた。
そしてすぐに俺を探そうとしてくれた。
きっと泣き虫な真実さんは、泣きながら俺を探してる。
なのになんで俺は背を向けなくちゃならないんだろう。
彼女から逃げるように帰らなくちゃならないんだろう。
会いたい。
本当はこんなに会いたいのに――!
「くそっ……!」
口の中だけで呟いて奥歯をギュッと噛みしめたら、涙が零れた。
膝の上で握りしめたこぶしの上にいくつもいくつも、まるで彼女に伝えることはできない俺の本心のように、ポロポロと涙が零れ落ちた。
「あれ? その絵、もうできたんじゃなかった? だからわざわざ持って行ったんでしょ?」
病室に入ってくるなりそう問いかけるひとみちゃんに、俺は背を向けたまま答えた。
「あれとは別だよ……これは文化祭に展示してもらうために描いてんの」
「ふーん」
近づいてきて俺の背中越しに、キャンバスをのぞきこまれる気配がする。
「綺麗な海……」
歯に衣着せないひとみちゃんの感想だからこそ、その言葉が嬉しかった。
「本物に近づいてるならいいけどね……」
「……ここに行ったんだ?」
あえて『いつ』とは言われない。
でも俺がフェリーターミナルで倒れた時のことを彼女が言ってるんだってことは、わかってる。
だから俺は聞き返しもしないで答えた。
「うん。綺麗なところだったよ……特に夜の星空は圧巻だった。この街じゃ全然見えないけど、空にはあんなに星があるんだって、生まれて初めて実感した……!」
「ふーん……」
ひとみちゃんの相槌がなんだかちょっと不機嫌になる。
真実さんと二人で過ごしたあの夜のことを彼女がどんなふうに受け止めているのかはわからないが、あまりいい感情を持っていないことは確かだろう。
だから――。
「ひとみちゃんのほうはどう? 文化祭の絵……もうできた?」
さり気なく話題を逸らす。
「もちろんよ! 誰かさんと違って、私は夏休みの間もずっと美術室に通ってたんだから……!」
「…………どうもすみません」
フンと笑うと、ひとみちゃんは長い髪を翻して俺に背を向けた。
「今坂先輩の超大作の隣に並べるんだから……さっさと丁寧に仕上げなさいよ……!」
なかなか難しい注文をつけながら、病室から出て行く。
「わかった……ありがとう」
軽く手を上げた次の瞬間には、もうひとみちゃんはいなくなっていて、それを確認してから、俺は力なく腕を下ろした。
ひとみちゃんには悪いが、彼女がいる間は必死に動かしていた絵筆がピタリと止まる。
実際今朝は、彼女がやって来るまでは、大きなキャンバスの前にただ座って、俺はずっとこうしていたのだ。
様々な色が入り混じった絵の中の海を見ていると、どうしても昨夜のことを思い出す。
俺を呼ぶ真実さんの声が、耳の奥に残って忘れられない。
(真実さん!)
立ち止まって名前を呼びさえすれば、すぐに会えるくらいの距離にいたのに、俺はそうできなかった。
そのことが辛かった。
(ほんのちょっとでいいから……顔が見たかったな……)
彼女の呼びかけに応えて姿を現わすこともできないくせに、自分勝手にそんなことばかりを思う。
(俺を探してたってことは、絵には気がついてくれたんだよな……? 喜んでくれたかな? ……やっぱり反応が見れないっていうのは寂しい……)
真実さんの嬉しそうな笑顔なら、これまで何度も何度も見てきたから、まだ頭の中に鮮明に焼きついている。
それでもやっぱり、実際に見たかったと思わずにはいられない。
(無理だね……偶然バッタリ出会う確率なんて、俺がここにいる限りほとんどないんだし……)
――でも運命の神様はきまぐれだった。
俺たちに故意にか偶然にか、再会の機会を与えてくれた。
それは甘い雰囲気とはかけ離れた、苦しいものではあったけれど――。
このまま窓際の椅子に座っていても、延々とどうしようもないことを考えてしまうだけで、きっといっこうに作業は進まないだろう。
俺は無駄な抵抗を断念し、日課にしている散歩に、今日は朝から行くことにした。
ナースステーションの看護師さんたちに一声かけてから階段を下りる。
「ちょっと散歩に出て来ます」
俺に許されている一日一回、三十分限りの外出時間の中で、行ける場所といえば限られている。
その中でもとりわけお気に入りの場所に向かうことにする。
真実さんと出会ってから、俺は生まれ育ったこの街を、彼女と手を繋いで新鮮な気持ちで歩いて回った。
その中で彼女が喜んでくれたり、活き活きとした表情を見せてくれたのは、やっぱり自然が色濃く残るような場所だったように思う。
真実さんの故郷に実際に行ってみてよくわかったことだが、彼女はそういう豊かな自然の中で育った人だったのだ。
時に優しく時に厳しい海と共に、生きてきた人だった。
だから、そんな彼女がこの大きな街でどんなに息苦しかっただろうと、俺にだって想像ができる。
偶然見つけるまだ自然が残っているような場所に、この上ない笑顔を見せてくれたわけも、今ならもっとよくわかる。
真美さんお得意のお弁当を持って、二人で行ったこともある川原に俺は向かった。
川岸に座りこんで飽きることなく真実さんが見つめていた水面を実際に目にしたら、俺の絵の中の海にも、もっと違う輝きが加えられるかも――と、そんなことを思っていた。
長い土手の道をのんびりと歩いている時、黒い車が俺を追い越していった。
思わずドキリとしたのは、その車があまりにも速いスピードで駆け抜けていったからばかりではない。
なんだか見覚えがあったような気がしたからだった。
(誰だ……?)
俺の知りあいで車に乗っている人物なんて、そう多くはない。
そんな人たちとはなんだか違うような変な胸騒ぎを覚えて、俺は必死で記憶の糸をたどる。
(もしかして……?)
すぐに一番行き着きたくない答えを見出した。
(……あの車!)
まだ真実さんと出会って間もない頃、彼女を送って行った俺の目の前で、アパートの前に横づけされた車を思い出す。
その車から飛び出して行って、彼女の部屋のドアを無情に叩いた大きな背中を思い出す。
――体中の血液が、一気に逆流するかと思った。
(まさかあの男が……?)
大学を退学して、故郷の町に帰ったと聞いた。
住んでいたマンションも引き払って、この街にあの男の居場所はないはずだ。
安心できるはずの情報をいくら挙げてみても、俺はいつも本当には納得できなかった。
あの男が真実さんをもう諦めただなんて、全然信じられなかった。
(だってあんなに! ……あんなに執着していたんだ……!)
完全に自分を見失って、真実さんの部屋のドアを叩き続ける狂気じみた背中を、いつまでたっても忘れられない。
それはひょっとすると、自分の中にも少なからず存在している感情だったからなのかもしれない。
俺にはどうしても、安心できなかった。
その思いが今、胸の中にまざまざと甦ってくる。
(どうか……どうか別人であってくれ!)
祈りも虚しく、はるか前方で急ブレーキをかけて止まった車の運転席から降りてきた人影は、やっぱりあの男だったように見えた。
「くそっ!」
自然と歩く速度が速くなる。
のんびりと散歩なんて、今となってはもうしていられない。
自分にとっては、心臓の状態が即生死に関わるような今の状況で、無理は絶対にできなかったが、それでもあの男を放っておくこともできなかった。
どこか不自然に、土手を駆け下りていく姿を目にすればなおさら――。
(まさか? ……そんなことはないよな?)
半ば、もう駆けるような勢いで、見下ろした土手の下の川原で、あの男が真実さんに詰め寄っている光景を目にする。
ざわっと全身が総毛だった。
(ちきしょう!)
これは、いつか自分の手であの男を罰したいと願ったこともある俺に、与えられたチャンスなのだろうか。
それとも命を掛けての選択を迫られているのだろうか。
今無理をしたらいけないということはわかってる。
じゅうぶんすぎるほどにわかっている。
俺にもう次はない。
これでもう、俺という人間の全てが終わるかもしれない。
(――でもそれでも!)
俺は真実さんを守りたかった。
本当はいつだって、全身全霊をかけて守りたかった。
俺にできる方法でとか。
できる範囲でとか。
そんな制約もなしに、他の誰でもなく俺が守ってやりたかった。
だからこれはやっぱり――。
(俺に与えられた最後のチャンスだ!)
思うと同時に駆け出した。
これまで走ったこともない全力の速さで、思いのままに駆け出した。
あんなに会いたかった人――どうしても守ってあげたい人の元へ。
全てを捨てて、俺はなりふり構わずに走り出した。
夢中で土手を駆け下りながら、警察に連絡した。
「すぐに行くから待ってなさい! いいか……無茶なことをするなよ!」
携帯の向こうでは村岡さんが必死になって叫んでいるけれど、じっとしてなどいられるわけがない。
心臓はこの上な速くく脈打っていたし、上手く息が吸えなくて呼吸も苦しい。
でも俺は足を止めなかった。
生まれて初めての全力疾走で、川原までの坂道を一気に駆けた。
真実さんのもとにたどり着くとすぐに、彼女を両手の中に捕まえている男を力ずくで引き剥がす。
もんどりうってうしろ向きにひっくり返った体に馬乗りになって、怒りの感情のままに滅茶苦茶に殴りつけた。
男はどこか自己喪失の状態だったようで、特に反撃はしてこなかった。
顔や頭を自分の腕で庇うようなこともなく、ただ俺に殴られるままになっている。
大きな体がぐったりと動かなくなっても、自分のヤワなこぶしがとっくに割れて血に染まっても、俺は激情のまま、いつまでも自分自身を止められないでいた。
そんな俺に向かって、真実さんが涙混じりに呼びかける。
「海君! ……海君!」
必死に俺を止めようとしてくれていることはわかる。
でも彼女の呼びかけにさえ、俺は自分を止めることができない。
「駄目だ! 言ったでしょ? 俺は絶対に許さない!」
ギンと睨むような視線で、真美さんのほうをふり返ってしまう。
「真実さんを傷つける奴は、絶対に許さない! 俺が許さない!」
実際、何度も何度も俺に殴られたその男は、もうとっくに動かなくなっていた。
これ以上はもう意味がない。
単に自分の気を晴らすことにしかなりはしない。
それに息を吸うのさえ苦しいほどにせり上がってきた呼吸も、ガンガンと頭の中で鳴り響いている心音も、きっともう俺の限界を超えている。
とっくに超えている。
やめなければと思う。
頭のどこかでは確かに思う。
けれど感情が焼き切れたかのように、止まらない。
ドサッと音をたてて、俺のうしろで真実さんが倒れた音がした。
ふり返って見てみると、泣きながら地面に突っ伏す姿が目に入って、俺はようやく、血の滲んだこの手を、人を傷つける以外のことに使う術を思い出した。
「真実さん……」
急いで助け起こそうとする俺の腕をかいくぐって、彼女は逆に座ったまま俺の体にすがりつくようにして、俺を抱きしめた。
「嫌だよ! 海君……嫌だよ!」
悲鳴のような声が、俺を正気にさせた。
我に返ると同時に、もうどうしようもなく苦しくなっている体を自覚した。
真実さんの前だからせいいっぱい無理して平気なフリをしたいのに、できない――もうできるわけがない。
「うん……」
苦しい胸を押さえながら、彼女の肩に頭を乗せて、それでもなんとか言葉だけは、
「ラッキー……会えたうえに、真実さんに抱きしめられた……!」
なんて呟く。
不安で不安でたまらない心を表わすかのように、真実さんが俺を支える腕に力をこめるから、どうにかして安心させてやりたくなる。
必死に囁く。
「大丈夫だよ……真実さん。大丈夫……」
「でも、海君……!」
それ以上の言葉を口にされる前に、俺は急いで彼女の唇を自分の唇で塞いだ。
(大丈夫だ……真実さんが「自分のせいで……」なんて気にしてしまうような最期なんて、俺は絶対に迎えない!)
もうどうしようもない具合の悪さを、意志の力だけでねじ伏せようと努力する。
ずっとずっと会いたくて、触れたくてたまらなかった人の涙に次々と唇を寄せながら、俺は笑顔を作った。
必死に作った。
「本当はいつもみたいに『送るよ』って言いたいところなんだけど……さすがにそれは無理だから……ゴメン……貴子さんたちに連絡して迎えに来てもらって……?」
涙をポロポロと零しながらも、真実さんが頷いてくれるので、少しホッとする。
地面に横たわったまま、もうピクリともしない男を顎で指しながら、
「あいつももうすぐ迎えが来るから……」
胸ポケットから出した携帯電話を、俺は真実さんに向かって振ってみせた。
真実さんは真剣な顔で、コックリと頷いてくれた。
あまりの出来事に深く傷ついて、蒼白になってしまっている小さな顔が、胸に痛い。
――でもこれから俺は、さらに彼女を傷つけることになるかもしれない。
(ここから歩いて病院に帰ることは、もうできない……だからゴメン……本当にゴメン……!)
口にも出して、先に真実さんに謝った。
「真実さん……ゴメンね」
そしておもむろに、いつだって履歴の一番先に出てくる番号に電話した。
きっとまだ学校に着いたばかりの時間なのに、一度コールしたかしないかくらいの速さで、電話の向こうから不機嫌な声が聞こえてくる。
「海里? ……何?」
真っ直ぐに俺の顔を見上げて来る真実さんに小さく頭を下げてから、俺は彼女の顔から視線を逸らした。
「……ひとみちゃん? 俺。悪い……ドジった。動けない。迎えに来て」
それが真実さんにとって、どんなに残酷なセリフなのかはわかっていた。
俺にだってよくわかっていた。
――でもどうしようもない。
「どこにいるのよ! ……どうしたのっ?」
電話の向こうのひとみちゃんの怒鳴り声も含めて、本当に救いようのない馬鹿な自分に、腹が立ってたまらなかった。
もし俺が真実さんの立場だったらどうだろう。
大好きな人が自分の目の前で、自分以外の人に助けを求めたとしたらどんな気持ちがするだろう。
耐えられるわけがない。
悲しくて悔しくてたまらないとわかっているのに、俺は真実さんの前で、そんなことばかりをくり返している。
深く俯いてしまった小さな頭が、必死に自分の中の感情と戦っているとわかるのに。
もう俺にはそんな資格なんてないってこともわかってるのに。
――抱きしめてしまう。
「ゴメン真実さん……」
今にも消えてなくなってしまいそうなほどに、彼女を傷つけているのは、あの男でも他の誰でもない。
俺自身だ。
なのに、抱きしめる腕を解くことができない。
二人でいた間もいつもいつもそうだったように、俺のことをまるごと許してしまう真実さんは、黙ったまま首を横に振る。
その仕草がなおさら胸に痛かった。
(許さなくていい……! こんな俺を許したりしなくっていいよ!)
しばらくすると土手の上に車が止まる音がし、タクシーから降り立ったひとみちゃんがこちらに向かって走ってきた。
慌てて俺の腕の中から逃げ出そうとする真実さんを、俺は放すもんかと強く強く抱きしめる。
「海君?」
真実さんは訝しげに俺の顔を見上げてくる。
俺たちの姿を発見したひとみちゃんも、大きく目を見開いて、かなり驚いていることが遠目にもわかる。
痛いくらいに二人の視線を感じて、だからなおのこと、俺にはわかった。
どんな時だって俺が大切なのは、結局真実さんだとわかってしまった。
残酷だけど、この上なく自分勝手だけど――やっぱり真実さんなんだ。
「……海君!」
俺は抗う真実さんを力でねじ伏せて、ひとみちゃんの前で無理やりもう一度口づけた。
いったい何に対してだか、誰に対してだかよくわからないままに、自分の気持ちを確かに表明してみせた。
「なによ! ……じゅうぶん元気じゃないのよ!」
怒ったような呆れたようなひとみちゃんの声に、どこかホッとした。
俺を睨みつける視線には、非難の色ばかりではなく、どこか傷ついたふうな色も確かに含まれている。
それでもひとみちゃんが怒ってくれたおかげで、俺と彼女の関係はまた新たな方向へ、一歩進みだしたような気がした。
強く強く抱きしめてから唇を放すと、俺は真実さんの顔をのぞきこんだ。
「真実さん……また今度」
苦しい声で、なんとか次の約束を結ぼうとする。
もう一度、彼女のそばに戻ってくるために。
今にも消えてしまいそうな俺の命を、どうにかこの世界に繋ぎとめておくために。
でも真実さんは心配そうな顔をして、何度も首を振った。
「でも……海君……!」
それ以上言われたら、また唇を塞いでしまおうという思いで、俺はじっと真実さんを見つめる。
肩では大きく息をくり返しながらも、静かに眼差しを注ぐ。
いつだって誰よりも敏感に俺の意図を読み取ってしまう真実さんには、それだけでじゅうぶん、俺の意志が通じたようだった。
急に、ほんの少し微かに笑いながら、
「……もう、私に会いに来ないんじゃなかった?」
なんて尋ねられるから、ついついニヤリと笑ってしまう。
「うん、そうなんだけど……でもこれは、真実さんと約束しておかないとヤバイんだ……俺にはわかるんだよ……正直かなりヤバイって……! 俺はね……真実さんが『私のせいで……』なんて思ってしまうような死に方だけは、絶対したくないんだ……!」
瞬きすることさえ忘れたように、真実さんは俺の顔を凝視した。
「だから約束させて……きっとまた会いに来る……ね?」
しばらくしてから、また俺の意図を汲んだようにコクコクと頷いた彼女に、俺はホッと笑いかけた。
「じゃあ約束……」
どうにか、自分の気持ちを奮い立たせるための約束を手に入れることができて、ようやく安堵した。
だから目の前に立つひとみちゃんに、図々しくも手をさし伸べる。
「ありがとう……ひとみちゃん……」
細い腕からは想像もできないくらいの力強さで、俺の体を引き上げた彼女は、俺の腕を自分の肩に廻すようにして、しっかりと支えた。
「いつかこんなことになるんじゃないかと思ってた……」
耳に痛い苦言と共に、咎めるようなキツイ視線を真実さんに向けるから、俺は急いで口を開く。
「真実さんのせいじゃない……!」
非難だったら、受けるのは俺一人だ。
それだけは絶対譲れない。
「だって……!」
不満混じりに言い募ろうとするひとみちゃんに、俺はきっぱりと言い切った。
「俺が自分で決めたことだから」
――だから真実さんには責任はない。
絶対にないんだ。
フンとそっぽを向いたまま、ひとみちゃんは俺を支えて歩きだした。
「なによ……かっこつけちゃって……!」
なんとでも言ってくれ。
自分に対する非難の言葉だったらいくらだって受け取る。
甘んじて受ける。
だから真実さんを責めないでほしい。
祈るように歩き続ける俺に、ひとみちゃんがひっそりと問いかける。
「ねえ……あそこで伸びてる男……ひょっとして海里がやったの?」
俺は小さく苦笑した。
「うんそう……どう? やっぱりかっこよくない? 見直した?」
「バカ!」
いつものようにひとみちゃんが怒ってくれたところで、俺はようやく無理に無理を重ねて開いていた口を閉じた。
じっとりと体中に冷や汗が浮かんでくる。
ひとみちゃんに負担をかけないようになんとか足を動かしているだけで、今はせいいっぱいだった。
「ほんっとに……バカ……!」
涙まじりに呟かれたひとみちゃんの言葉にこれ以上軽口で答えることも、俺たちを胸が張り裂けそうな思いで見送っているだろう真実さんをふり返って、もう一度笑ってみせることも、もうできなかった。
――ひょっとしたらもう本当に二度とできないかもしれないという思いを噛みしめて、俺は静かに目を伏せた。
ひとみちゃんが待たせていたタクシーの後部座席に、倒れこむように乗りこんだ。