「本当にうちでご飯食べていかないの?」
 家の前に横づけされたタクシーから俺がひとりで降りた途端、ひとみちゃんはその日朝から飽きもせず何度もくり返した言葉を、更にもう一度くり返した。
 
 俺は笑って手を振りながら、
「遅くなるかもしれないけど、兄貴が帰ってくるって言うからさ。家で待ってるよ」
 タクシーの中をのぞきこむようにして、やはり今朝から何度も返した同じ言葉をこれが最後とばかりに念押しする。
 
「……そう」
 それでもまだ納得がいかないふうのひとみちゃんを乗せて、タクシーはゆっくりと動き出す。
 夕暮れ時の街の中で、その遠ざかっていくシルエットを、俺は見えなくなるまでずっと見送った。
 
 入院中はあんなに憧れて夢にまで見ていた高校生活だったが、それが何事もなく続いていけば、実際には中学時代とあまり変わりない毎日だということを思い知らされる。
(とうの本人が変わっちゃいないんだから、まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけどさ……)
 驚くほどにあっさりと慣れてしまった変化に乏しい単調な日々は、気を抜いているとまるで飛ぶように過ぎていってしまう。
 
(この調子だと、「気がついた時には高校卒業だった!」なんてことにもなりかねないな……)
 さすがにそこまで一足飛びにとは行かなかったが、気がつけばすでに退院からは一ヶ月が過ぎ、六月も半ばになっていた。
 
 俺が退院してからしばらくの間、大喜びで毎日大学から直帰していた兄貴は、あまりの実習準備の遅れに、
「これ以上は居残らないと無理だー、せっかく海里が帰ってきたのに!」
 と一週間で降参した。
 医学部で外科医を目指している大学三回生が、当然といえば当然だ。
 
「せめて今日中には帰ってくるから、待ってろよ。な、絶対待ってろよ?」
 まるで新婚の奥さんをおいて会社に出勤する夫のようなセリフを残し、泣く泣く出かけていった兄貴のために、
(たまには俺が夕食を準備して、待っていてやろうか)
 なんて思いたった。
 
 伯母さんの美味しい晩御飯を断ってまで作るのだから、せめて本ぐらい見て作らなきゃもったいない。
 ましてや自分が作った料理にあたって病院に逆戻りなんてことにでもなったら、シャレにならない。
 父さんの書斎に母さんの料理本でも残っていないかと思いついて、俺は二階の奥のこげ茶色の重厚な扉を押し開けた。
 
 
 その部屋は、小さい頃は立ち入り禁止の開かずの間で、少し大きくなってからは調べたいことがあったら何でも答えが貰える俺と兄貴とひとみちゃんの私設図書館のような場所だった。
 本好きの父さんがジャンルも種類も問わず若い頃から集めたいろんな本が、ところ狭しとギッシリ並んでいる。
 入院中はずっと定期的にこの中から何冊か病院に運んでもらってかたっぱしから読んでいたし、実際父さんは本物の図書館のように、人に貸し出したりもしていた。
 
 その父さんは、俺が退院した当日だけは出張先から無理矢理に駆けつけてくれたものの、その後はやっぱり長期出張で、ほとんど家を留守にしていた。
 子供の頃からなれっこのこととは言え少し寂しい気がしたのは、
「退院お祝いパーティーをするぞー」
 という兄貴の能天気な提案に、
「おおーやるぞー!」
 といくつになっても子供心を忘れない父さんが、いつものように拳を突き上げてくれなかったからだった。
 
「ゴメン、陸人、海里。また今度な」
 両手をあわせてそう言った父さんの表情が、なぜかいつまでも忘れられなかった。
 胸に何かを秘めたような、こわばった笑顔。
「どうしたの?」
 とそのまま尋ねることができるほど、俺はもう無邪気な子供ではない。
 そして、いつ破裂するかもわからない爆弾を自分が常に抱えていることも、よく自覚している。 
 だから――
 
「えー? どうしてだよー?」
 俺の代わりに思い切り膨れて不満をぶつけてくれる兄貴を尻目に、聞きわけのいい次男坊を装って、余裕の笑顔を作った。
「うん、じゃあまた今度ね」
 そんな俺の頭を、何も言わずに力強く撫でてくれた父さんの瞳は、何かの色に揺らいだような気がした。
 表情はあくまでも笑顔だったが、漠然とした不安のようなものが俺の心には残った。
 

「父さん……入るよ?」
 部屋の主が留守なことはわかっているのに、声をかけずにいられないのは、その部屋がかつては出入り禁止だったからだ。
「お前達に悪戯されたくない本もあるからだ」
 と父さんはもっともらしく言っていたけど、その本当の理由を、小学生の頃、父さんの留守中に兄貴と二人でこっそり忍びこんで、俺は偶然知ってしまった。
 
 十帖を軽く越える広い洋室は、確かに部屋中を本で埋めつくされていた。
 だけどそれ以上に、母さんの思い出の品でも溢れていた。
 母さんが亡くなった時六歳だった俺でも、記憶の片隅に残っているような、『形見』と読んでもいい品たちが、その部屋に全て集められていた。
 
 スリッパ、ひざ掛け、大きな帽子。
 エプロン、マグカップ、写真立て。
 一つ一つを手にとって見ているうちに、知らず知らずに涙が浮かんでしまった俺は、その涙をふり払おうと無理矢理に体の向きを変えて、隣に立っていた兄貴とぶつかった。
 俺と同じように、せいいっぱい泣くのをこらえて立ちつくしていた兄貴と、不意に目と目があってしまって、
(あ、ヤバい)
 と思う間もなく、涙が零れ落ちた。
 俺は兄貴にしがみついて、大声を上げて泣き出した。
 
(男が泣くなんてみっともない)
 なんて、俺はどちらかと言えば少し硬派に構えた小学生だったのに、そんな日頃の信念は微塵もなく吹き飛んで、声の限りにとにかく泣きたいだけ泣いた。
 兄貴も俺を抱きしめて、負けないぐらいに大声で泣いていた。
 
 夕食の時間になっても現われない俺たちを心配して、伯母さんが迎えに来てくれたのは、もう日が沈みかけた頃だった。
 いったいどれくらいの時間、二人で思いっきり泣いていたんだろう。
 抱きあってワンワンと泣き続ける俺たちを父さんの書斎で発見した伯母さんは、よく母さんがそうしてくれていたように、屈みこんで二人いっぺんに膝の上に抱き上げた。
 何も言わずに、ただ白い大きなエプロンの上で、ギュッと両腕で抱きしめてくれた。
 だから俺たちはいつの間にか泣き止んで、そのまま伯母さんの腕の中でスヤスヤと眠りにつき、夜遅くになって帰ってきた父さんに、大目玉を喰らわずにすんだのだった。
 
 
 子供の頃のちょっと甘酸っぱい思い出に苦笑しながら、俺は母さんの写真に目を向ける。
 部屋の中央。
 樫の木造りの父さんの大きな机の上には、いつもは小さな写真立ての中で微笑む母さんの写真しか飾ってないのに、今日は、まるでそのシルバーフレームの写真立てにお供えするかのように、一通の白い封筒が置いてあった。
 
 他人宛ての手紙に興味を示すなんて、今まで一度も経験がないし、それを手にとって見るなんてやったことはない。
 だけど俺の視線と思考は、その何の変哲もない白い封筒に釘づけになって、どうしようもなかった。
 
 宛名は『一生啓吾』。
 父さんの名前だ。
 差出人は『石井勝』。
 
(石井先生が? ……なんで父さんに手紙?)
 心の中で首を捻る。
 見てはいけないと頭のどこかで誰かが警鐘を鳴らし続けていたが、俺の手は意志とは反対に勝手に伸びて、封筒の中から白い便箋を取り出した。
 
 想像していたよりはずっと短い文章で、その大まかな内容はすぐに読み取れた。
 けれど駄目だ。
 気持ちのほうはとてもついていけない。
 
『容態は今までになく悪く』
『ひょっとしたら』
『覚悟を』
 
 思いがけない言葉の羅列に、内容を上手く理解することができない。
(石井先生ってことは、俺の話だよな?)
 
 そこに書かれている内容と、俺が今、今回の退院で感じている喜びとが、どうしても結びつかない。
 噛みあわない。
 
 考えをまとめるヒントを貰おうとでもするかのように、俺はその白い手紙と、写真立ての中の母さんの笑顔とをずいぶん何度も見比べて、何度目かでやっと、
「……そうか」
 と言葉が出た。
 どうして自分が今回退院することになったのかの本当の理由を、やっと頭と心の両方で理解した。
 
(もうすぐ終わりってことだったんだ……だから今のうちにせめて好きなことをさせてあげようってやつか……)
 思ったより、俺は取り乱さなかったし、落胆もしなかった。
 いつかはこんな日が来るんだろうと、漠然と覚悟を決めたのはもうずずいぶん前の話だ。
 今更がっかりする気持ちも、悔しく思う気持ちも、俺にはない。
 ないつもりだった。
 だけど――
 
「良かったな」
 と俺の退院を笑ってくれた父さんが、その笑顔の裏では本当はどんな気持ちだったのかを考えると、息が詰まりそうに苦しかった。
 
(きっと、兄貴には言ってないんだ。ひとみちゃんも伯母さんもまだ知らない……)
 それを伝える時、父さんはどんな思いをするんだろうか。
 ましてや他ならぬ俺自身に伝える、その時には――?
(ひょっとしたら、黙っているつもりだったのかもしれない)
 そう思ったから、俺はその短い手紙をまたそっと母さんの写真立ての前に戻した。
 
 もともとこの部屋に何をしに来たのか、そんなことはすっかり頭の中から消し飛んでしまって、地に足がつかないまま父さんの部屋をあとにした。
 重いドアを後ろ手に閉める。
 
 兄貴には悪いけど、料理をしようなんて気持ちはどこかに消えてしまった。
 それだけじゃない。
 自分の部屋へ帰って真新しい学生鞄を見ても、ハンガーにかけられた制服を見ても、昨日までのように弾む気持ちには到底なれない。
 
(本当に俺にはもう時間がないんだ)
 これまで何度も自分自身に言い聞かせてきたことだったけど、実感を持ってそう感じた時に、胸に迫ってくるものはやっぱり全然違っていた。
 
(もうすぐ俺の人生は終わる)
 そう思うことにはただ確認の意味しかないけど、
(だったら、俺はいったい何のために生まれてきたんだろう?)
 そんな考えが頭を過ぎってしまうことが辛かった。
 
(父さんや兄貴に心配かけて。ひとみちゃんや伯母さんに迷惑をかけて。体の弱かった母さんに負担をかけて……それなのに、もうこれで終わり?)
 そう思うと、ベッドの上に体を投げ出して、両腕を顔に押しつけずにいられなかった。
(俺なんか最初からいないほうがよかったんじゃないか!)
 どんなに強がってみても、怒りにも似た悲しみの感情は、今夜は俺の中から消えてくれそうになかった。
 
 住宅地から少し離れた閑静な場所にある病院とは違って、俺の家は、賑やかな繁華街のど真ん中に位置している。家の中にいても車の行き交う音はすぐ近くに聞こえるし、店々から流れてくる騒々しい音楽や人の声なんかも、時折、静かな部屋の中に妙に生々しく響き渡る。
 気持ちが前向きの時は特に気にもしないそんな騒音も、今夜はやけに大きく聞こえるような気がしたし、実際酷く耳障りだった。
 
 酔っ払って泣いている人。
 喧嘩して怒っている人。
 こうして目を閉じていると余計に、夜の町のいろんな声が、俺のすぐ近くに迫ってくる。
 けれど、どんな人生の岐路に立たされている人よりも、今の自分は苦しいと思った。
 何倍も何十倍も辛いと思った。
 
(俺より不幸な人なんて、きっといないよ)
 自分の中の負の感情は、なるべく表に出さないようにして、これまで意志の力でなんとか押さえこんできたけれど、今日はそうすることがとてつもなく辛い。
 
(絶対に負けるもんか)
 いつだってそう思って生きてきた。
 そう思うことで自分を支えてきた。
 なのに肝心の今夜、体がいうことをきかない。
 俺の脳の命令系統なんて、とっくに無視されている。
 こめかみの辺りがひきつるるように痛んで、意識していないと涙が零れ落ちそうだった。
 
(こんな状態じゃ、兄貴と顔が合わせられない)
 そう思い当たったことで、ようやく鉛のように重い体が、動いてくれた。
 
(何もなかったような顔をして、いつもどおりにふるまわないと……)
 自分を追い詰めるように心の中でくり返しながら、俺はTシャツの上に長袖のシャツを羽織って、部屋をあとにした。
 履き慣れたスニーカーに、まだ地に着いていないような感覚の足を突っこんで、どこにというこあてもなく、ひどく自暴自棄な気持ちで、夜の町へ飛び出した。
 
 夜に出歩くなんて何年ぶりだろう。
 正直言うと、中三の夏までは誰もいない家で兄貴や父さんの帰りを待っているのが嫌で、よく夜の町で遊んでいた。
 小学生や中学生が遊べるところなんてタカが知れていたけれども、そこでできた友だちなんかもいて、一人で家にいるよりはずっと楽しかった。
 
『高校生になったらもっといろんなところに行けるな』
 そう言って笑った昔の『夜の』友だちは、もうどうやって連絡を取ったらいいのかもわからないけれど、その『高校生』になった今も、俺は色んなものに縛られて自由に生きるなんてできそうにもない。
 
 不自由なまま、長く縛りつけられて生きるのに比べたら、「もう少しで終わりになる」とわかった今は、幸せと言えば言えるのかもしれない。
 けれど、「短い時間を好きにさせてあげたい」という石井先生や父さんの思いに応えられるだけの、『やりたいこと』なんて、ハッキリ言って俺にはなかった。
 
 いろんなことを諦めて、執着を持たないように、それを一番大切に生きてきたから、俺には実際、『何も』ない。
 
(いっそのこと、今終わりになってもかまわないのに)
 それぐらいの凶暴な気持ちを抱えて、俺はあてもなく歩き続けた。
(どうせもう終わりなんだから、俺には何もないんだから)
 そうとしか思えないことが何より悲しかった。
 
 
 けれど、夜の雑踏の中を、どこまでも歩き続けることに、俺のヤワな心臓はやっぱり慣れてなくて、次第に呼吸が苦しくなってくる。
 ドクドクと体じゅうの血液が脈打つ音が、頭の中で響きわたるようにどんどん大きくなっていくから、俺はしかたなしに足を止める。
 
 少し広めの舗道の、綺麗に手入れされた植木の陰には、木で作った広めのベンチがいくつか配置されていて、俺はそれに倒れこむように腰を降ろした。
 俺が座っている以外には、目に見える範囲には三つだろうか。
 一定の距離を置いて配置された同じ形のベンチには、みんなカップルが体を寄せあうようにして座っている。
 
 その中の一人が、咎めるような視線を俺によこしたけれど、そんなことかまうもんか。
(体の具合が悪い人、優先でしょ?)
 苦笑いを浮かべながら、俺はジーンズのポケットから小さなピルケースをひっぱり出した。
 金色の蓋を親指で弾くように開けると、中には白いカプセルが入っている。
 
『ちょっと調子が悪くなった時には、すぐに飲むように』
 石井先生から渡されて、子供の頃からいつも持ち歩いている薬だった。
 
(別に今死んでも良かったんじゃなかったのかよ)
 自分で自分を笑いながら、その小さな『命の源』を、俺は水もなしにそのまま一気に喉の奥に放りこんだ。
 
(いったいどこまで来たんだろう?)
 少し動悸がおさまって楽になってくると、そんなことが気になった。
 グルリと頭を巡らしてみても、周りの風景に全く見覚えがなかった。
 
(足の向くまま、気の向くまま、どれぐらいの距離を歩いたんだ?)
 自分で自分に感心する。
 我を忘れて、ただガムシャラに体を動かしたことで、さっきまでより心の中もスッキリとしていた。
 
(……まあいいさ。いままで漠然としていた俺のゴールが、ハッキリと近づいたって、そういうことだよ……)
 努めて明るく軽く、俺らしい解釈もできるようになってきた。
 
『海里君は明るくて楽しい子だった』
 
(そう言ってもらうのが、俺の目標なんじゃないか。それだけは達成しないといけない。強い気持ちで最期まで信念を貫き通せ……!)
 自分自身で自分を鼓舞する。
 それは一人でベッドの上にいる生活が長かった俺の、数少ない特技の一つだった。
 
(やったらいいさ。とりあえず思いついたこと全部。今までできなかったこと全て。そうしてるうちに自然と いつの間にか最期の時がやってきて……そんな終わり方も案外いいかもしれない……)
 力強く頷くと、少し落ち着いてきた鼓動を確かめるように左胸に手を当て、俺はゆっくりと立ち上がった。
 
(早く帰んないと、兄貴が帰ってきちゃうな……)
 時計も見ずに飛び出してきたことを少し悔やみながら、俺は大通りを行き交うタクシーに手を挙げた。
(なるべくいろんなことをやってみるためにも、今はまだこの命は大切じゃない?)
 自分自身を諭すように、心の中で呟きながら。