真実さんの試験が終わり、また一緒にいれるはずの日々がやってきても、俺は病院を退院することができなかった。
「経過は順調だから……きっとすぐに退院できると思うよ……」
笑いながらそう言ってくれた石井先生の言葉を、信じきっていたわけじゃない。
だからたいして落胆はしなかった。
でも、やっぱり悔しかった。
幸い大学が休みになったから、真実さんを送り迎えする必要はない。
数日後には故郷に帰るという話だったから、その間も、どうせもともと会うことはできない。
でもだからこそ、それまでの短い時間をできるだけ一緒に過ごしたかったのに――。
(あーあ……どうするかな……)
経過観察のために入院中の身で、彼女に会うために外出するということが、果たして可能なのか。
あまり期待せず問いかけてみたのだったが、思いの他あっさりと病院側から許可された。
三時間だけという制約はあるが、とりあえず真実さんのところに行って、しばらく一緒にいて、帰ってくるぐらいはできそうなので、ホッとする。
けれどその思いがけない外出許可が、ひとみちゃんの猜疑心にはなおいっそう拍車をかけたのだった。
「ねえ……そんなに簡単に外出許可が出るくらいだったら……どうして退院できないの? ……どうしてまだ入院してなきゃならないのよ……?」
少し怒ったような顔で、単刀直入に問いかけてくるひとみちゃんに返せる言葉が、俺には何ひとつない。
「そうだね……」
なんてまるで他人事みたいに、ぼんやりとした返事をするぐらいしかなかった。
「ねえ海里……」
決して勘がいほうではないひとみちゃんにこれ以上しゃべらせたら、俺は本当に相槌を打つことすらできなくなってしまう。
それが恐くて、俺は急いで言葉をつけ足した。
「まあ、でも……せっかく気分転換にってことで許可してもらったんだから……ここは喜んで出かけてくるよ」
「…………!」
「短い時間だから学校には顔出せないけど……俺は元気でやってますって、今坂先輩たちにはひとみちゃんから伝えておいて……ね?」
ひとみちゃんがこの上なく、不機嫌な顔になった。
「元気でって……入院中なのに……?」
俺は思わず吹き出した。
ハハハハッと大声で笑いながら前髪をかき上げる。
「だって元気じゃん」
「本当に……? 本当に元気だよね? ……海里……」
大きく肩を揺すって爆笑する俺を目の前にしているのに、ひとみちゃんは何度も確認した。
不安に怯えたような、まるで彼女らしくない自信なさげな表情が、俺の胸を痛くする。
気づかれたくない。
まだ気づかれるわけにはいかない。
だから俺は、尚いっそう明るく笑ってみせる。
「なんで入院してんのかわかんない程度には元気だよ? ……ひとみちゃんがそう言ったんでしょ? ……ハハハッ」
「もうっ! バカ海里!」
怒ったようにクルリと向けられた背中が、大きな足音を響かせながら病室から出て行くのを見送りながら、俺はホッとした。
心底ホッとした。
「ええっとね……飛行機だったら一時間。新幹線で三時間……高速バスだったら五時間かな……?」
この街からは遠く離れた地方の港町にあるという真実さんの実家まで、いったいどれくらいの距離なのかと尋ねてみたら、彼女は指折り数えながら、俺にそう教えてくれた。
悪いけど笑い出さずにはいられない。
「ハハハハハッ!」
予想以上の遠さに驚いたからばかりではない。
必死に考えてくれた真実さんの表情があまりにかわいかったから、照れ隠しを兼ねて笑わずにはいられなかった。
なのに――。
「もうっ! どうせ私は田舎者ですっ!」
やっぱりいつものようにぷいっと怒って、真実さんは俺を置いて歩きだしてしまう。
ゆっくりと歩いて追いかけることさえ、今は難しい状態だったから、俺は言葉だけでせわしく問いかけた。
「それで……? どれぐらいで帰ってくるの?」
怒ってるはずなのに、真実さんはすぐに俺をふり返る。
何か言おうと口を開きかけ、やっぱり言葉をのみこんで、俯いてしまった。
(ごめん……やっぱり、なんだか無理させてるね……)
本当は俺に聞きたいことがあるんだろう。
それはもうずっと前からわかっているのに、俺は真実さんにそれを口に出させてあげることができない。
覚悟を決めて問いかけてみても、思いっきり追いつめてみても、真実さんはついに、自分の疑問を口にしようとはしなかった。
(聞いてしまったら、このままではいられないって……ひょっとしたらなんとなくわかってくれているのかも……)
いつだって俺のわがままを許してしまう真実さんだから、きっとわざと聞かずにいてくれてるんだろう。
そのことが嬉しい。
――嬉しいけれど、申し訳ない。
この『申し訳ない』という思いが、日に日に自分の中で大きくなって、いつか俺の中の『嬉しい』とか『幸せ』とかいった感情を超えてしまった時、俺はきっと我慢できずに、真実さんに本当のことを告げてしまうだろう。
彼女が必死に繋ぎ止めてくれているその努力を全部無駄にして、俺たちの関係を終わらせてしまうんだろう。
そう思うと、なおさら申し訳なかった。
「そんな顔しないで……」
ゆっくりと歩み寄って、俯いた顔の前に手をさし出す。
いつものように左手で、さっさと真実さんの右手を握ってしまう。
「すぐに迎えに行くよ。俺と会えないと、真実さんは寂しいでしょ?」
わざとそんなふうに言えば、きっと真実さんは
「そんな事ない!」
って叫んで、もう一度負けん気を奮い起こしてくれると思ったのに、黙ったまま、俺に寄り添ってしまった。
無言で俺の胸にもたれかかってくる華奢な体に、これ以上ないほど胸が跳ねる。
(待て! 落ち着け! ……落ち着け!)
当然のことながら大きく脈打ち始める心臓に、必死で制止の声をかけながら、俺は真実さんの体を抱きしめた。
まるでいつもの彼女らしくない反応。
だからこそ、彼女が今、この上なく無理している状態なんだということが、よくわかった。
(ゴメン……ゴメンね、真実さん……)
不安にばっかりさせて。
何ひとつ確かな言葉はあげれなくて。
そのくせ抱きしめたこの腕だけは放したくないなんて思ってる俺。
なんてわがままで自分勝手な俺。
(もう少し……あともうほんの少しだけでいいから……そしたらきっと、俺から開放してあげるから……だからそれまでは、どうか俺の腕の中にいて……!)
俺の背中に腕をまわしてくれた真実さんに、涙が出そうな思いで感謝して、その髪に頬を寄せた。
彼女を抱きしめる腕に、俺はせいいっぱいの想いをこめた。
その三日後。
再び三時間の外出許可をもらって、病院を抜け出した俺に見送られて、真実さんは故郷へと帰っていった。
駅のホームで彼女の乗った新幹線がすっかり見えなくなるまで見送り、それから俺は同じように真実さんの見送りに来ていた愛梨さんたちと一緒に、帰路につく。
真実さんが俺のことを、彼女たちにどんなふうに紹介してくれているのか。
不安に思う必要は、なに一つなかった。
つまり真実さんは細かいことはなんにも説明せずに、全部彼女たちの想像に任せてしまっているのだ。
だからふいに、
「高校くらいはちゃんと出といたほうがいいぞ。今からでも入りなおせば……?」
とか、
「いまだに携帯持ってない高校生なんているんだねー、びっくりした」
とか話をふられて、俺はいちいちびっくりする。
(いやいや……あんまり登校できてはいないけど、これでも高校にはまだ在籍しているんですよ……携帯だってちゃんと持ってます……!)
決して口に出しては言えない自己紹介を、心の中でだけくり返しては、必死に笑いをかみ殺していた。
「おい少年!」
そんな俺の鼻先に、貴子さんが一枚の紙切れを突きつける。
受け取ってよくよく眺めてみれば、フェリーの乗船予約券だった。
「これ……?」
おずおずと尋ねた俺に、貴子さんはニヤリと人の悪い笑いを向ける。
「一週間後に迎えに行くんだろ……? どうせだったら一日早く行ってあげて、それでゆっくりと真実と二人で帰ってきな……!」
『一等洋室』と印字されているそのチケットに、俺は正直焦った。
(それってつまりは……真実さんと船の中で、一晩一緒に過ごせってこと……だよな? ちきしょう……! いったいどんな我慢大会なんだよ!)
意味深に笑いながら俺を見つめる貴子さんの目は、あまりにも真剣だった。
『でもやっぱり……』なんておれに躊躇させる気は、きっと始めっから毛頭ない。
(まあ……いいか)
威圧感に満ちた貴子さんの視線が恐くて、俺は小さく頷いた。
ようは俺が、自分の体調のことを忘れて無茶しさえしなければいいのだ。
たとえ真実さんと、一晩二人きりでも。
完全な個室に閉じこめられていても。
(ダメだ……自信がない……全然ない!)
がっくりとうな垂れる俺を、貴子さんが面白そうに観察している。
――気がする。
「まあまあ、そんなに気にしなくても……ちょっと二人で旅行したんだと思えば……ね?」
取り成すように笑いかけてくれる愛梨さんの笑顔が眩しい。
「真実ちゃんだってきっと喜ぶよ。そうしてあげてよ海君……」
信頼しきったような花菜さんの言葉が胸に痛い。
「はい……ありがとうございます……」
他にはもうなんとも答えようがなくて、俺はその予約券を受け取った。
三人はそんな俺に、めいめい嬉しそうに、三人三様の笑顔を向けてくれたのだった。
外泊許可を取ることが、外出許可を取るよりも難しいことは、あらかじめ予想済みだった。
だけど頼んでみないことにはどうしようもない。
「どうですか……ダメですか……?」
一縷の望みをかけて返事を待つ俺に、石井先生はニッコリ笑って頷いた。
「わかった。いいよ……丸一日だけ、病院を抜けだしてもかまわない……でももしものことがあってもすぐに助けを呼べるようなところにしか行っちゃダメだよ。わかった?」
その条件では、ほぼ海の上を移動していて、陸路とはまったく接触を持たない船は、始めっからダメなんじゃないかとガッカリする。
けれどそんな俺に、先生はちょっと悪戯っぽい顔をして頷いた。
「ま……それは私の医者としての見解だから……個人的には……よっぽどのことがない限り、今までどおりに行動していれば何の問題もないと思うよ?」
途端顔を跳ね上げて、満面の笑顔になってしまう自分が恨めしい。
でも小さな子供の頃からずっとお世話になっている石井先生に、今更格好つけようってのは、しょせん無理な話だ。
「気をつけて……」
「はい」
先生に言われるとなんだか特別な意味を持つような言葉を、俺はちゃんと胸に、きつく刻みこんだ。
それから一週間後。
真実さんを見送ったあの駅から彼女と同じように新幹線に乗って、俺は生まれ育った街を初めてあとにした。
『帰りは絶対に迎えに行くから! 用が終わったら必ず連絡するように!』
と叫ぶ兄貴に、ひとみちゃんを上手くごまかすことに関しては、全部任せてきた。
上手くいくとも思えないが、もしバレて最大級の怒りをかったとしても、その時のことはその時考えよう。
「それでね……その時真実が言ったことがね……!」
真実さんと同郷の愛梨さんが、途中まで同行してくれることになり、新幹線に乗っている間中、俺の知らない大学での真実さんの話をたっぷりと聞かせてくれた。
あっという間の三時間のあと。
降り立った駅のホームでは、本当にかすかに海の匂いがした。
愛梨さんに連れられていった、真実さんの故郷の港町には、眩しい陽光に照らされた海が到るところに広がっていた。
「本当に一人で大丈夫?」
と心配してくれる愛梨さんに頷いて、ここまで連れてきてもらったことを感謝する。
「ありがとうございました」
「じゃあ……これ」
最後に愛梨さんが手渡してくれたのが、真実さんの『秘密の場所』だという砂浜への行き方を描いた地図だった。
「昨夜電話したら、明日は朝からそこに行くつもりだって言ってたから……きっと今頃はまだいると思う」
何から何まで、お世話になりっぱなしで、本当に愛梨さんたちには頭が下がるばかりだ。
「ありがとうございました!」
もう一度深く頭を下げた途端、ふいに愛梨さんが、真実さんが名づけた俺の名を呼ぶ。
「海君」
「はい?」
反射的に顔を上げた俺は、真剣な顔をした愛梨さんと真正面から向きあった。
「真実をよろしく頼むね」
真摯な瞳でそう告げられて、一瞬怯む。
(俺は……!)
残された時間がないとか。
資格がないとか。
頭の中を駆け巡った様々な思いを排して、俺の口は心のままに言葉を返す。
「はい」
本当はいつだって迷うことなくそうしたかった理想のままに、俺の体は勝手に頷く。
その場しのぎのいいかげんな返事なんかじゃなくて、できるだけの間、せいいっぱいそうしたいという自分の願望をこめて、俺はしっかりと愛梨さんに頷いた。
自分の命がある限り。
真実さんの傍にいれる限り。
ずっとそうしようと、その瞬間に自分で自分に誓いを立てた。
――すぐそこに迫っていたサヨナラの気配になんか、まるで気がついていなかった。
「経過は順調だから……きっとすぐに退院できると思うよ……」
笑いながらそう言ってくれた石井先生の言葉を、信じきっていたわけじゃない。
だからたいして落胆はしなかった。
でも、やっぱり悔しかった。
幸い大学が休みになったから、真実さんを送り迎えする必要はない。
数日後には故郷に帰るという話だったから、その間も、どうせもともと会うことはできない。
でもだからこそ、それまでの短い時間をできるだけ一緒に過ごしたかったのに――。
(あーあ……どうするかな……)
経過観察のために入院中の身で、彼女に会うために外出するということが、果たして可能なのか。
あまり期待せず問いかけてみたのだったが、思いの他あっさりと病院側から許可された。
三時間だけという制約はあるが、とりあえず真実さんのところに行って、しばらく一緒にいて、帰ってくるぐらいはできそうなので、ホッとする。
けれどその思いがけない外出許可が、ひとみちゃんの猜疑心にはなおいっそう拍車をかけたのだった。
「ねえ……そんなに簡単に外出許可が出るくらいだったら……どうして退院できないの? ……どうしてまだ入院してなきゃならないのよ……?」
少し怒ったような顔で、単刀直入に問いかけてくるひとみちゃんに返せる言葉が、俺には何ひとつない。
「そうだね……」
なんてまるで他人事みたいに、ぼんやりとした返事をするぐらいしかなかった。
「ねえ海里……」
決して勘がいほうではないひとみちゃんにこれ以上しゃべらせたら、俺は本当に相槌を打つことすらできなくなってしまう。
それが恐くて、俺は急いで言葉をつけ足した。
「まあ、でも……せっかく気分転換にってことで許可してもらったんだから……ここは喜んで出かけてくるよ」
「…………!」
「短い時間だから学校には顔出せないけど……俺は元気でやってますって、今坂先輩たちにはひとみちゃんから伝えておいて……ね?」
ひとみちゃんがこの上なく、不機嫌な顔になった。
「元気でって……入院中なのに……?」
俺は思わず吹き出した。
ハハハハッと大声で笑いながら前髪をかき上げる。
「だって元気じゃん」
「本当に……? 本当に元気だよね? ……海里……」
大きく肩を揺すって爆笑する俺を目の前にしているのに、ひとみちゃんは何度も確認した。
不安に怯えたような、まるで彼女らしくない自信なさげな表情が、俺の胸を痛くする。
気づかれたくない。
まだ気づかれるわけにはいかない。
だから俺は、尚いっそう明るく笑ってみせる。
「なんで入院してんのかわかんない程度には元気だよ? ……ひとみちゃんがそう言ったんでしょ? ……ハハハッ」
「もうっ! バカ海里!」
怒ったようにクルリと向けられた背中が、大きな足音を響かせながら病室から出て行くのを見送りながら、俺はホッとした。
心底ホッとした。
「ええっとね……飛行機だったら一時間。新幹線で三時間……高速バスだったら五時間かな……?」
この街からは遠く離れた地方の港町にあるという真実さんの実家まで、いったいどれくらいの距離なのかと尋ねてみたら、彼女は指折り数えながら、俺にそう教えてくれた。
悪いけど笑い出さずにはいられない。
「ハハハハハッ!」
予想以上の遠さに驚いたからばかりではない。
必死に考えてくれた真実さんの表情があまりにかわいかったから、照れ隠しを兼ねて笑わずにはいられなかった。
なのに――。
「もうっ! どうせ私は田舎者ですっ!」
やっぱりいつものようにぷいっと怒って、真実さんは俺を置いて歩きだしてしまう。
ゆっくりと歩いて追いかけることさえ、今は難しい状態だったから、俺は言葉だけでせわしく問いかけた。
「それで……? どれぐらいで帰ってくるの?」
怒ってるはずなのに、真実さんはすぐに俺をふり返る。
何か言おうと口を開きかけ、やっぱり言葉をのみこんで、俯いてしまった。
(ごめん……やっぱり、なんだか無理させてるね……)
本当は俺に聞きたいことがあるんだろう。
それはもうずっと前からわかっているのに、俺は真実さんにそれを口に出させてあげることができない。
覚悟を決めて問いかけてみても、思いっきり追いつめてみても、真実さんはついに、自分の疑問を口にしようとはしなかった。
(聞いてしまったら、このままではいられないって……ひょっとしたらなんとなくわかってくれているのかも……)
いつだって俺のわがままを許してしまう真実さんだから、きっとわざと聞かずにいてくれてるんだろう。
そのことが嬉しい。
――嬉しいけれど、申し訳ない。
この『申し訳ない』という思いが、日に日に自分の中で大きくなって、いつか俺の中の『嬉しい』とか『幸せ』とかいった感情を超えてしまった時、俺はきっと我慢できずに、真実さんに本当のことを告げてしまうだろう。
彼女が必死に繋ぎ止めてくれているその努力を全部無駄にして、俺たちの関係を終わらせてしまうんだろう。
そう思うと、なおさら申し訳なかった。
「そんな顔しないで……」
ゆっくりと歩み寄って、俯いた顔の前に手をさし出す。
いつものように左手で、さっさと真実さんの右手を握ってしまう。
「すぐに迎えに行くよ。俺と会えないと、真実さんは寂しいでしょ?」
わざとそんなふうに言えば、きっと真実さんは
「そんな事ない!」
って叫んで、もう一度負けん気を奮い起こしてくれると思ったのに、黙ったまま、俺に寄り添ってしまった。
無言で俺の胸にもたれかかってくる華奢な体に、これ以上ないほど胸が跳ねる。
(待て! 落ち着け! ……落ち着け!)
当然のことながら大きく脈打ち始める心臓に、必死で制止の声をかけながら、俺は真実さんの体を抱きしめた。
まるでいつもの彼女らしくない反応。
だからこそ、彼女が今、この上なく無理している状態なんだということが、よくわかった。
(ゴメン……ゴメンね、真実さん……)
不安にばっかりさせて。
何ひとつ確かな言葉はあげれなくて。
そのくせ抱きしめたこの腕だけは放したくないなんて思ってる俺。
なんてわがままで自分勝手な俺。
(もう少し……あともうほんの少しだけでいいから……そしたらきっと、俺から開放してあげるから……だからそれまでは、どうか俺の腕の中にいて……!)
俺の背中に腕をまわしてくれた真実さんに、涙が出そうな思いで感謝して、その髪に頬を寄せた。
彼女を抱きしめる腕に、俺はせいいっぱいの想いをこめた。
その三日後。
再び三時間の外出許可をもらって、病院を抜け出した俺に見送られて、真実さんは故郷へと帰っていった。
駅のホームで彼女の乗った新幹線がすっかり見えなくなるまで見送り、それから俺は同じように真実さんの見送りに来ていた愛梨さんたちと一緒に、帰路につく。
真実さんが俺のことを、彼女たちにどんなふうに紹介してくれているのか。
不安に思う必要は、なに一つなかった。
つまり真実さんは細かいことはなんにも説明せずに、全部彼女たちの想像に任せてしまっているのだ。
だからふいに、
「高校くらいはちゃんと出といたほうがいいぞ。今からでも入りなおせば……?」
とか、
「いまだに携帯持ってない高校生なんているんだねー、びっくりした」
とか話をふられて、俺はいちいちびっくりする。
(いやいや……あんまり登校できてはいないけど、これでも高校にはまだ在籍しているんですよ……携帯だってちゃんと持ってます……!)
決して口に出しては言えない自己紹介を、心の中でだけくり返しては、必死に笑いをかみ殺していた。
「おい少年!」
そんな俺の鼻先に、貴子さんが一枚の紙切れを突きつける。
受け取ってよくよく眺めてみれば、フェリーの乗船予約券だった。
「これ……?」
おずおずと尋ねた俺に、貴子さんはニヤリと人の悪い笑いを向ける。
「一週間後に迎えに行くんだろ……? どうせだったら一日早く行ってあげて、それでゆっくりと真実と二人で帰ってきな……!」
『一等洋室』と印字されているそのチケットに、俺は正直焦った。
(それってつまりは……真実さんと船の中で、一晩一緒に過ごせってこと……だよな? ちきしょう……! いったいどんな我慢大会なんだよ!)
意味深に笑いながら俺を見つめる貴子さんの目は、あまりにも真剣だった。
『でもやっぱり……』なんておれに躊躇させる気は、きっと始めっから毛頭ない。
(まあ……いいか)
威圧感に満ちた貴子さんの視線が恐くて、俺は小さく頷いた。
ようは俺が、自分の体調のことを忘れて無茶しさえしなければいいのだ。
たとえ真実さんと、一晩二人きりでも。
完全な個室に閉じこめられていても。
(ダメだ……自信がない……全然ない!)
がっくりとうな垂れる俺を、貴子さんが面白そうに観察している。
――気がする。
「まあまあ、そんなに気にしなくても……ちょっと二人で旅行したんだと思えば……ね?」
取り成すように笑いかけてくれる愛梨さんの笑顔が眩しい。
「真実ちゃんだってきっと喜ぶよ。そうしてあげてよ海君……」
信頼しきったような花菜さんの言葉が胸に痛い。
「はい……ありがとうございます……」
他にはもうなんとも答えようがなくて、俺はその予約券を受け取った。
三人はそんな俺に、めいめい嬉しそうに、三人三様の笑顔を向けてくれたのだった。
外泊許可を取ることが、外出許可を取るよりも難しいことは、あらかじめ予想済みだった。
だけど頼んでみないことにはどうしようもない。
「どうですか……ダメですか……?」
一縷の望みをかけて返事を待つ俺に、石井先生はニッコリ笑って頷いた。
「わかった。いいよ……丸一日だけ、病院を抜けだしてもかまわない……でももしものことがあってもすぐに助けを呼べるようなところにしか行っちゃダメだよ。わかった?」
その条件では、ほぼ海の上を移動していて、陸路とはまったく接触を持たない船は、始めっからダメなんじゃないかとガッカリする。
けれどそんな俺に、先生はちょっと悪戯っぽい顔をして頷いた。
「ま……それは私の医者としての見解だから……個人的には……よっぽどのことがない限り、今までどおりに行動していれば何の問題もないと思うよ?」
途端顔を跳ね上げて、満面の笑顔になってしまう自分が恨めしい。
でも小さな子供の頃からずっとお世話になっている石井先生に、今更格好つけようってのは、しょせん無理な話だ。
「気をつけて……」
「はい」
先生に言われるとなんだか特別な意味を持つような言葉を、俺はちゃんと胸に、きつく刻みこんだ。
それから一週間後。
真実さんを見送ったあの駅から彼女と同じように新幹線に乗って、俺は生まれ育った街を初めてあとにした。
『帰りは絶対に迎えに行くから! 用が終わったら必ず連絡するように!』
と叫ぶ兄貴に、ひとみちゃんを上手くごまかすことに関しては、全部任せてきた。
上手くいくとも思えないが、もしバレて最大級の怒りをかったとしても、その時のことはその時考えよう。
「それでね……その時真実が言ったことがね……!」
真実さんと同郷の愛梨さんが、途中まで同行してくれることになり、新幹線に乗っている間中、俺の知らない大学での真実さんの話をたっぷりと聞かせてくれた。
あっという間の三時間のあと。
降り立った駅のホームでは、本当にかすかに海の匂いがした。
愛梨さんに連れられていった、真実さんの故郷の港町には、眩しい陽光に照らされた海が到るところに広がっていた。
「本当に一人で大丈夫?」
と心配してくれる愛梨さんに頷いて、ここまで連れてきてもらったことを感謝する。
「ありがとうございました」
「じゃあ……これ」
最後に愛梨さんが手渡してくれたのが、真実さんの『秘密の場所』だという砂浜への行き方を描いた地図だった。
「昨夜電話したら、明日は朝からそこに行くつもりだって言ってたから……きっと今頃はまだいると思う」
何から何まで、お世話になりっぱなしで、本当に愛梨さんたちには頭が下がるばかりだ。
「ありがとうございました!」
もう一度深く頭を下げた途端、ふいに愛梨さんが、真実さんが名づけた俺の名を呼ぶ。
「海君」
「はい?」
反射的に顔を上げた俺は、真剣な顔をした愛梨さんと真正面から向きあった。
「真実をよろしく頼むね」
真摯な瞳でそう告げられて、一瞬怯む。
(俺は……!)
残された時間がないとか。
資格がないとか。
頭の中を駆け巡った様々な思いを排して、俺の口は心のままに言葉を返す。
「はい」
本当はいつだって迷うことなくそうしたかった理想のままに、俺の体は勝手に頷く。
その場しのぎのいいかげんな返事なんかじゃなくて、できるだけの間、せいいっぱいそうしたいという自分の願望をこめて、俺はしっかりと愛梨さんに頷いた。
自分の命がある限り。
真実さんの傍にいれる限り。
ずっとそうしようと、その瞬間に自分で自分に誓いを立てた。
――すぐそこに迫っていたサヨナラの気配になんか、まるで気がついていなかった。