それでもキミに恋をした

 自分の運命としっかり向きあって生きていくことを、俺は途中で投げ出したわけじゃない。
 ――ただ、戦う覚悟をした。
 
 初めてキスした真実さんを何度も何度も抱きしめて、たくさんの幸せと喜びをもらったから、俺はその思いをそのまま、彼女を守る力に変えようと思った。
 
「じゃあ、また明日」
 いつものように小さな約束を残して、部屋を出た瞬間、決意を込めて歩き出す。
 本当は駆け出したいくらいの衝動を、やっぱりそうはできない自分の体調を慮って、力強い歩みに変える。
 
 以前村岡さんから教えてもらった住所を頼りに、必死にその部屋を探した。
 あの男――岩瀬幸哉の部屋を。
 
 初めて出会った夜。
 真実さんが傷だらけで歩いていた道を逆にたどって行けば、きっと行き着くんだろうってことは、あらかじめ予想ずみだった。
 
 でも白い鉄筋作りのこじんまりとしたそのマンションを目の前にしたら、やっぱり怒りなんだか嫉妬なんだかよくわからない感情で、息が上がってきた。
 
(落ち着け!)
 こんなところで発作を起こすわけにはいかない。
 絶対に。
 
 一度だけ偶然見てしまった真実さんの写真。
 ――おそらくあいつが意図的に置いていった、きっとこの場所で撮られた写真が、意識の底からぼんやりと浮かんでこようとする。
 だから俺は、それを必死に打ち消す。
 
(落ち着くんだ! 真実さんは今、俺の腕の中にいる。いるんだから!)
 自分の手をじっと見ていたら、優しい笑顔を思い出した。
 俺に向けられる――なんの見返りも求めていないような真実さんの笑顔を。
 
 大丈夫。
 身動きするたびに鼻をくすぐる甘い香りも、背中にまわされた腕の感触も、俺を呼ぶ優しい声も覚えてる。
 ――だから大丈夫。
 
 俺は毅然と顔を上げて、そのドアの前に立った。
 何度か鳴らしたチャイムに応答はなかった。
 部屋の中で誰かが動きだした気配もない。
 
 警察には、両親があいつの身元引受人としてやって来たと村岡さんが言っていたから、本当にここにはいないのかもしれない。
 ピンと張り詰めていた緊張が緩んで、思わずその場にしゃがみこみそうになる。
 
(あいつは、もう一度ここに帰って来るだろうか?)
 俺ならきっと、その答えはNOだ。
 でもあの男がどんな人間なのかを、俺は詳しく知ってるわけじゃない。
 
 ただ、ここには帰って来なくても、真実さんの周りにもう一度現われる可能性だったら、限りなく100%に近い気はした。
 
(そうはさせない……!)
 いくらチャイムを鳴らしても、ドアを叩いても応答のない部屋に背中を向けながら、こぶしを握りしめる。
 (もう一度、真実さんの前に現われたなら……その時は絶対に許しはしない!)
 俺にできることなんて何もないと悲観ぶる前に、俺はこれからは自分にやれるだけのことをやる。
 その結果何が起こったとしても――その時は、その時考える。
 
 行動にしたって、人とのつきあいにしたって、これまで慎重に慎重を重ねて生きてきた俺にとっては、まるでらしくない決断だった。
 でもそれは決して投げやりな思いなんかじゃない。
 
 ――確かにその時の、俺のせいいっぱいの決意だった。


 
 朝の柔らかな陽射しの中。
 真美さんの姿がドアの向こうから現われた瞬間から、俺の一日は始まる。
 
 それ自体は昨日までとまったく変わらないのに、どこかが――何かが違う。
 明らかに昨日から。
 そう――初めて彼女に触れたあの瞬間から、俺の中で何かが変わった。
 
 ふと目があった瞬間に真っ赤になって俯いてしまう顔を見ているだけで、嬉しい気持ちは同じなのに、思わず手を伸ばして引き寄せてしまいそうになる。
 
 朝の往来のど真ん中。
 しかも背後には文字どおりお目つけ役の貴子さんつき。
 それなのに恐いもの知らずというか、どこかのネジが緩んだとでもいうか、俺の頭の中はまるでピンク色だ。
 
「おはよう」
 ニッコリと笑って、俯く顔をのぞきこむと、真実さんはますます赤くなるから、性質の悪い悪戯心がどんどん加速する。
「どうしたの……俺の顔になんかついてる?」
 無意識なんだか意識的なんだか自分でもわからないままに、もっと真実さんに顔を近づけようとした瞬間、彼女のうしろから殺気を感じた。
 
(うっ……やっぱりダメか……)
 貴子さんは、俺がしばらく真実さんの傍を離れていたことを、まだ許してくれてはいない。
 昨日はかろうじて二人きりにはしてくれたが、今朝こうして一緒に出てきたところをみると、やっぱり全幅の信頼とは、まだまだほど遠いようだ。
 
(……やっぱり無理か……)
 内心ため息だらけの心を押し隠して、俺はキリッと背筋を伸ばし、まるで中学生か高校生が上級生にするみたいに、ハキハキと大きな声を心がけて、貴子さんに頭を下げた。
「おはようございます。貴子さん」
「おはよう少年。やっぱり今日から真実の送り迎えが復活だね」
「はい」
 
 眼鏡の奥の鋭い瞳が、値踏みするように俺の全身をくまなくチェックする。
 まるで警察で取り調べでも受けているような気分で、直立不動で立ち尽くす俺を、真実さんはちょっと不満そうな顔で見上げた。
 
(……ひょっとして情けない奴だって思ってる? でも俺は貴子さんにだけは、ちゃんと正面から、正々堂々と認められたいんだ……!)
 
 貴子さんは真実さんのことをとても大切にしている。
 真実さんが幸せになることを強く望んでいる。
 だから俺がこれからも真実さんの傍にいるためには、どうしても貴子さんの信頼を勝ち得なければならない。
 
 不審な思いを抱かせている部分も、きっと俺にはたくさんあるだろうから、せめてちゃんとできる部分では、誠意を見せたい。
 ちゃんとしておきたい。
 そうでなければ、たとえ真実さんが許してくれたって、本当の意味で、俺が真実さんの隣に居る資格はないと思う。
 
 貴子さんはしばらく俺を検分したすえに、眼鏡をぐっと人差し指で押し上げながら、ニヤッと笑った。
「じゃあ……真実と一緒にさっさと行け」
 
(やった!)
 ガッツポーズしたいくらいの気持ちを笑顔に変えて、俺は貴子さんに頭を下げた。
 さっと真実さんの手を取ると、急いで歩き出す。
 
「えっ? 貴子は? 一緒に行かないの?」
 ふり返りながら真実さんは叫んでいるけれど、貴子さんは、 
「誰がそんな野暮な真似するか……! 一人でゆっくり行くほうがいい」
 と返事しているようだ。
 
 二人の意志の疎通が終わった瞬間に、
「行こう」
 俺は真実さんの手を引き、駆け出した。
 
「え? なに? どうしたの? なんでこんなに急ぐの……?」
 問いかける真実さんをふり向いて、真っ直ぐに見つめながらニッコリと笑う。
 
「せっかく貴子さんからOKをもらったんだから、少しでも早く二人きりになろうと思って!」
 半分嘘で、半分本気だった。
 
 少しでも長く真実さんと二人きりでいたい――と同時に、絶対にあの男に捕まるわけにはいかないという思いが俺を急がせる。
 
 昨日の今日だからこそ、あの男がどこからか彼女を見張っているような気がしてならなかった。
 だから繋いだ手にぎゅっと力をこめる。
 
 この人は俺の大切な人なんだと――他の誰でもなく俺と一緒にいることを望んでくれたんだと誇示するように。
 
(世界中に聞こえたってかまわない……真実さん俺のものなんだって、叫びたい!)
 
 でもそうはできない現実をしっかりと自覚しながら、俺は小さな手を引き、人ごみの中を懸命に駆けた。


 
 走っている最中。
 小学生の頃、具合が悪いのに嘘ついて参加した長距離走のことを、ふと思い出した。
 
 もっともっとと、気持ちはどんどん先に進むのに、体が全然ついていかない。
 ――あの時のどうしようもないほどの焦燥感と絶望感。
 
(確か……前年の自分の記録を塗り替えたなら、賞状がもらえるんだったんだ……あの時はどうしてもそれが欲しくって……!)
 
 具合が悪いのに嘘ついて参加して、途中で心配してくれた先生にも「大丈夫です」って意地を張って、結局そのあと発作が起きて、俺はしばらく病院から出られなくなった。
 
(さすがにあの時よりは、俺だって大人になった……!)
 
 そう満足しながら、俺は舗道に人が多くなるに連れて、駆けていた足を歩みへと変える。
 呼吸を落ち着かせようと大きく息をくり返す。
 それでも――。
 
「待って……! ねぇ、そんなに急がなくても……!」
 息を切らしながらあとからついてくる真美さんに、
「ダメ。早く行ったほうがいい」
 ふり返りもせず答えて、早足を緩めることだけは決してしなかった。
 
 結局、大学の始業時間よりずいぶん早くに、俺たちは正門近くにたどり着いてしまって、近くの公園でしばらく時間を潰すことになった。
 できれば息の乱れた姿なんて見せず、平気なフリのまま真美さんを見送りたかったが、そうも言ってはいられない。
 
 誰より俺自身が、まだ真美さんと離れたくない。
 
 公園のベンチに並んで座ったら、俺は自動販売機で買ったペットボトルを片手に握りしめたまま深く俯いて、反対の手を胸に当てた。
(大丈夫、大丈夫だ……落ち着け! 落ち着け!)
 懸命に大きく深呼吸をくり返せば、乱れきっていた息だって次第に整ってくる。
 
(そう。あともう少し……もう少し……)
 一瞬でも早く、俺のヤワな心臓を元の状態に戻すためには、少しの動揺だってしてはならないと緊張していたのに、その時、真美さんが隣でぽつんと呟いた。
 
「そんなに急がなくて良かったのに……」
 俺を労わって、気遣ってくれているようなその口調に――ダメだ。
 気にしないようにしようとしたって、どうしても胸が痛む。
 
(ゴメン……余計な気を遣わせて……ほんとゴメン!)
 少しでも真美さんを安心させようと、俺は体勢はそのままに、せいいっぱい笑ってみせた。
「ダメだよ。あいつが真実さんを待ち伏せしてるかもしれない。ちゃんと安心できるまでは、俺は気を許さない……! 真実さんをあいつに会わせたりなんか……絶対しない!」
 
 笑顔のわりには言ってることがずいぶん辛辣だと、自分でも思った。
「しまった」と思ったとおり、真美さんの顔はみるみるうちにとても悲しそうな表情になった。
 
(なにやってるんだ……俺は!)
 ダメだ。
 自分で自分が嫌になる。
 
 それなのに真美さんは、俺の頬にそっと指を伸ばしてくる。
「ゴメンね。海君」
 
 自分に対する怒りを持て余したまま、俺もつられるように、そっと真美さんの頬に触れた。
 滑らかな肌の感触。
 そのまま小さな顔を上向かせて、自分のほうを向かせる。
 
 思わず頬を寄せそうになる邪念を必死に払いながら、俺は伸ばしっぱなしの自分の長い前髪をかき上げた。
 ――それは俺の小さな儀式。
 
 この行動で見えないものが見えるようになる時もあれば、暴走しかけていた感情が、すっと落ち着く時もある。
 俺は真実さんに向かって、せいいっぱいの意地で笑った。
 
「どうして真実さんが謝るの? 真実さんを守るって勝手に決めたのは……俺なんだから……!」
 必死に平静を装った俺の演技は、どうやら真実さんに通じてくれたらしい。
 ホッとしたように彼女が息を吐くのを指先で感じてから、俺は頬から手を放した。
 倒れこむようにベンチの背もたれにもたれかかる。
 
 本当はこれ以上は一秒だってもたなかったギリギリの緊張感を全部放り出して、空を見上げて息をついた。
「何だってやるよ……俺は!」
 
 それはまったくもって、俺の本心だった。


 
 冷たいペットボトルを額に押し当てて目を閉じていると、次第に本当に体調も落ち着いてくる。
 と同時に、心配させてばかりの真実さんに申し訳なくて、たまらなくなってくる。
 
 なんとか笑わせることはできないかと頭を捻って、俺は彼女と自分の共通の話題と成り得る、数少ない人物の話を持ちだした。
 
「それにしてもさ……貴子さんって凄いよね……」
 思ったとおり、真実さんはイキイキとその話題に乗ってくる。
 ――気配がする。
 
「凄いよ。勉強はもちろん、どんなことだって知らないことなんてないし……いっつも余裕だし……貴子から見たら私なんて、子供みたいなものかも……!」
 実に真実さんらしい素直な感想に、俺は思わずハハハッと笑いだした。
 
「それはそうかも!」
 あまりにもあっさりと肯定したために、意外と負けず嫌いな真実さんはムッとする。
 
 そんなことは最初から計算の上だ。
(なんでかって……それはやっぱり……俺は真実さんの怒った顔が、かなり好きだから……!)
 
 今頃、あの上目遣いのかわいい表情で、俺の顔を見上げているかもと思うと、とても目を閉じてなんていられない。
 
「海君だって! 貴子の前だったら、まるで従順な、普通の高校生じゃない!」
 唇を尖らせている表情さえ瞼に浮かんできそうな棘のある声に、俺はたまらず目を開けた。
 
「俺は、いつだって年上の人は敬ってるけど?」
 意地悪くとぼけてみせると、真実さんはますますムッとしたような顔になる。
 
「私は? 私のことはいつもからかってばかりでしょ!」
「ハハハッ。だって俺、真実さんを年上だなんて思ったことないもん……!」
 
 お腹を抱えて笑い出しながらも、そろそろ自重しようと考えていた。
 いくら怒った顔が好きだからって、あまりにもからかい過ぎて、せっかく二人きりなのに、プイッとどっかに行ってしまわれてはたまらない。
 
「年上だと思ってないんだったら、どうして海君は私のこと『さん』づけで呼ぶの?」
 正論で責め始めた真実さんに、俺は待ってましたとばかりに最終手段に出た。
 
「ああ、それはね……」
 ニッコリと笑いながら、真実さんの細い顎に手をかける。
 
「う、海君……?」
 思わず身を引こうとする真実さんの耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で囁く。
 
「俺が真実さんの名前を呼び捨てで呼ぶ時は、どんな時かって、最初から決めてるから……」
 自分でも吹き出してしまいそうなくらい、もの凄く意味深な言葉。
 
 予想どおり真実さんは首まで真っ赤になって、ガチガチに固まってしまっている。
 
 俺は笑いだしてしまわないことだけに全身全霊をかけながら、ごく間近から真実さんの瞳をのぞきこんだ。
「なんなら、今からでもいいよ? ……そうする?」
 
 途端、今まで以上に真っ赤になって、真実さんは首をぶるぶると必死にふり始めた。
「いい! いいですっ! よ、呼ばなくていいからっ!」
 
 大慌てでぶんぶんと手まで振られて、もうどうしようもなく、愛しくてたまらなくなった。
 俯くその顔に斜めに顔を近づけて、そっとキスする。
 
「海君!」
 驚く真実さんに、本心のまま素直に頭を下げた。
 
「ゴメン、真実さん。でももう俺は、迷うのはやめたんだ。いろんなことを頭の中でグチャグチャ考える前に、自分が本当はどうしたいんだかをちゃんと態度で表すことにした。真実さんがそれを許してくれたんだって、俺は勝手に解釈したんだけど……違った? ……違ってたらゴメン……」
 
 どんな言葉が返ってくるのかと、半ば心配しながら、半ば期待しながら、笑って待つ。
 真実さんはただ、潤んだような瞳で俺を見つめた。
 その表情に、視線に、吸い寄せられるように手が伸びる。
 
 返事すら待てない、せっかちな俺。
 真実さんの頬に手を添えて、もう一度顔を近づけながら、
「違ってる?」
 間近で囁いたら、ようやく返事をもらえた。
 
 熱に浮かされたような、かすれた声。
「ううん……違わない」
 
 そして俺のすぐ目の前で、長い睫毛はぴったりと閉じられる。
 彼女の唇に触れる瞬間、俺の中では世界の何もかもが変わる。
 目を開いた次の瞬間にはきっとまた、さっきまでとは少しだけ違った世界になっているのだろう。
 
 全身を貫く甘く甘美な想い。
 それはきっと、もっと生きたいという俺の思い。
 いつだって心の奥深くでは、捨て去ることのできなかった願い。
 
 ――その全てを赤裸々に、俺の感情の表面へと浮かび上がらせてしまうこの小さな人が、たまらなく愛しくて、ほんの少し恐かった。
 真実さんと会える朝のひと時は、一日の中でも俺の一番好きな時間だと言っても過言ではない。
 でも大学の正門が長い舗道の向こうに見え始めると同時に、自然と胸が痛んでくることにだけは、いつまでたっても慣れなかった。
 
(また夕方まで会えない……)
 寂しいばかりではなく、今日はことさらに複雑な心境で、俺は繋いだ真実さんの手をぎゅっと握りしめる。
 昨日あんなことがあったばかりだから、本当はその手を放したくなんかなかった。
 
「海君?」
 俺の顔を真っ直ぐに見上げてくる黒目がちの大きな瞳は、案外相手の心理を読むことにも長けているから、今だってきっと、俺の身勝手なわがままくらい聡く察知してしまっているんだろう。
 なのに――。
 
(あーあ……俺って本当に格好悪いよなぁ……)
 俺は心の中でため息をくり返すばかりで、手を放すつもりにはまだ全然なれない。
 
「うん。何?」
 なんでもないように笑って、すました顔で問いかけることが、こんなに苦しい時もあるんだってことを、俺は真美さんと出会ってから初めて知った。
 
「ううん。なんでもない……」
 きっと気を遣わせて、言いたいことだってのみ込ませてしまっているんだろうに、どうすることもできない。
 
 自己嫌悪に苛まれる俺を救ってくれたのは、背後からかかった明るい声だった。
 
「真実ちゃん! 学校来たんだね」
 ふり返って見てみたら、そこには真実さんの親友の花菜さんが立っていた。
 
「うん」
 真実さんはちょっと照れ臭そうな様子で、花菜さんに向かってニッコリと笑う。
 
 大きな丸い目をさらに丸くして、俺と真実さんの顔を見比べていた花菜さんも、そんな真実さんに負けないくらいにニッコリした。
 どことなく雰囲気の似ている二人のほほえましいやり取りを見ていると、自然と俺まで優しくてあったかい気持ちになる。
 
「それに海君も帰って来きんだ……よかったね……!」
 ふいに話を振られて、俺は急いで頭を下げた。
 これがちょうどいいチャンスとばかりに、繋いだままだった真実さんの手を、花菜さんの前に差し出す。
 
(ここから先は花菜さんにお願いするんだって思えば……少しは自分を納得させて、割り切ることができる。少しは……!)
 
 俺の意を汲んでくれたかのように、花菜さんは真実さんの手を大切そうに受け取ってくれた。
 「うん。ここから先は私が責任を持って預かる……絶対に真実ちゃんを、昨日のような目には、もう会わせない……!」
 
「……花菜」
 抱きあう二人の様子にひと安心して、俺は一歩後退る。
 
「じゃ。帰りに待ってるから」
 手を振りながら笑顔で二人を見送ろうとしたのに、花菜さんがおもむろに俺を見ながら、ふと呟いた。
 
「真実ちゃん……海君ちょっと顔色悪いよ? ……大丈夫?」
 
 ドキリと俺のヤワな心臓が大きく跳ねた。
 
 自分では全然そんなつもりはなかったのに、少し見ただけで感づかれてしまうくらい、今日は顔色が悪かったんだろうか。
 いつもと同じように、出かける前には念入りに鏡の前でチェックして来たつもりだったのに――ダメだ。
 その時自分がどんな表情をしていたのかだって思い出せない。
 
 からだ全体が心臓になったかのように、ドクドクと大きな音を立てて、俺の心臓が鳴る。
 
(落ち着け! 落ち着け!)
 必死に自分の体に命令を下しながら、俺はそっと真実さんの表情をうかがった。
 
 息をのんだように俺の顔を凝視している。
 今まで気づかなかった――ひょっとしたら気づいていたのに気づかないフリをしていた――ことを、白日の下にさらされたようなどこか痛々しげな表情。
 
 自分が今どんな顔色をしているのかは俺には見えないが、真実さんだって今にも倒れそうなくらい真っ青な顔色だと思った。
 
(くそっ!)
 
 悔し紛れにいつものように前髪をかき上げる。
 それからせいいっぱいの笑顔で花菜さんに
「大丈夫です」
 と告げる。
 
 花菜さんも、それから真実さんだって、俺の悔し紛れの言い逃れに納得したようにはとても見えなかった。
 もっと何かを言おうかと口を開きかけた時、俺にとってはまさに天の助けとも言うべき声が、背後から聞こえた。
 
「真実ー! 花菜ー!」
 ふり返って見てみなくたってわかる。
 それは花菜さんと同じように真実さんの親友の愛梨さんの声だった。
 
 いつも元気で明るい愛梨さんは、俺の姿を見て歓声を上げる。
「うわっ、海君が復活してる! 真実、良かったねえー!」
 
 その勢いとパワーに、俺はホッとした。
 愛梨さんが来てくれたら、きっと真実さんの気分だって変わるだろう。
 なぜなら――。
 
「すっごく寂しがってたもんねえー」
 なんて言葉を包み隠さず言ってしまう愛梨さんに、もしそれが本当だとしても、それを素直に認めてしまうような性格の真実さんではないからだ。
 
「な、何言ってるのよ……! 私はべつに……そんなこと……!」
 
(ほら……やっぱり顔を真っ赤にして大慌てしてる……!)
 そんなことを思ったら自然に笑顔になれて、そんな自分にホッとした。
 
「ため息ばっかり吐いてたもんねー……」
「いっつもキョロキョロして、ずっと探してたんだよね」
 
 愛梨さんと花菜さんとの間で交わされる会話におたおたして焦りまくる真実さんの様子を、ゆっくりと楽しむ余裕まで出てきた。
 
(どうしよう……嬉しい! 嬉しいけど……!)
 真実さんはおしゃべりな親友たちの口を塞ぐことはどうやら難しいと判断したらしく、俺が思ったとおり、二人の腕をつかんで引っ張って大学に向かって歩き始めた。
 
「じ、じゃあ行ってくるね……」
 動揺しまくりの真実さんに、 
(ちぇっ……なんだもう行っちゃうのか……)
 と内心失望しながらも、俺はニッコリ笑って
「行ってらっしゃい」
 と手を振った。
 
 実際のところはどうなのかわからないが、自分では花菜さんに指摘された顔色の悪さだって、この頃にはすっかりいつもどおりに戻っていたつもりだった。


 
 真実さんたちが大学の正門の向こうに見えなくなったら、俺は今来た道をあと戻りして、昨日探しだしたあの男の部屋にもう一度足を運んだ。
 数回インターホンを鳴らしてみてもドアをノックしてみても、やっぱり今日も応答はなかった。
 
(やっぱりここには帰ってきてない……?)
 用心のために建物の裏側に回って、そこから見える小さな窓を見上げてみたが、部屋の中の様子はまったくうかがえなかった。
 駐車場に、あの男の黒い車がないことも確認して、ほんの少し小さく息を吐く。
 
 これが本当に役にたつのかどうかはわからないが、俺は毎日この場所をチェックに来ることを自分のやるべきことと、昨日決めた。
 
(俺にできることなんてたかがしれてる……だけど真実さんのために何かがしたい! 今はとにかく思いついたことを片っ端からやってみるしかないんだ……!)
 
 真実さんを守りたいと強く願ったあの瞬間から、確かに俺の頭の中では、自分の体調のことなど二の次になっていた。


 
「一生君……ひさしぶりりだね」
 あいかわらずおっとりと声をかけてくれる今坂先輩に、無言のまま笑顔で頭を下げて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。
 
 昼休み中の美術室。
 他の生徒たちがお昼を食べているはずの教室や、有り余る元気で走り回っている校庭なんかからは遠く離れているから、あまりここが高校の中の一区画だという気はしない。
 しないけれども――確かにそうには違いないのだ。
 
「海里……あんたねえ……学校に来るんだったらせめて制服ぐらい着てきなさいよっ!」
 すっかりお決まりとなっているひとみちゃんの怒鳴り声を聞くことだって、ずいぶんとひさしぶりな気がして、思わずクスクス笑ってたら、黒っぽい服を投げつけられた。
 
「なにこれ?」
「なにって……! あんたの制服でしょうっ!!」
 
 美術室どころか特別棟全体に響き渡るようなひとみちゃんの大声に、慣れきっている俺はともかく、今坂先輩までまったく動じないのは凄いことだと思う。
 ――たまたま今日ここにいた他の部員たちは、みんな両手で耳を塞いでいるんだから。
 
 みんなのお昼の楽しい時間をこれ以上ぶち壊しにしてしまうのは申し訳なかったので、俺はもっとひとみちゃんをすました顔でからかっていたい気持ちをこらえて、すぐにそのまだ真新しい上着に袖を通した。
 
「ありがと、ひとみちゃん」
 
(わざわざ俺の家に朝寄ってから、取ってきてくれたの? なんてことは、夕食の時にでも聞けばいいっか……)
 
 クククと笑いをかみ殺す俺を、ひとみちゃんがもの凄い目で睨んでいることをひしひしと感じていたので、俺はもうその話題には、ここではこれ以上触れないようにしようと決意した。
 
 その代わり、他の人にはとても聞けない質問をひとみちゃんにぶつけてみる。
「ねえ、ひとみちゃん。俺って顔色悪い?」
 
 ひとみちゃんはいかにも
「何をいまさら!」
 というような顔で、しげしげと俺の顔を見た。
 
「当たり前じゃない! 昨日の朝まで入院してたんだから……!」
「だよね」
 あっさりと同意すると、ひとみちゃんにとっては尚更腹立たしいようだった。
 
「何? ……誰かにそんなこと言われたの?」
 あまりにも鋭く言い当てられて、俺はスケッチブックの上で忙しく動かし続けていた鉛筆を思わず止めた。
 
「すごい……! ご名答!」
「海里!」
 
 あまりふざけすぎてはいけない。
 でもふざけてでもいないと、とてもこんなことは話題にできない。
 
「……別にあんたの顔色が悪いのなんて今に始まったことじゃないわよ……」
「そう?」
「そうよ。小学生の頃なんて、真夏でもあんたは真っ白なのに、私は色が黒くって、よくみんなに『男女逆なんじゃないか』ってからかわれたじゃない……!」
「ハハハハッ! 確かにそうだった!」
 
 大きな声で笑ったら、なんだか本当の意味で気持ちがスッキリした。
 
「だから別に……そんな事は今に始まったことじゃないのよ……!」
 
 ひとみちゃんは気がついているんだろうか。
 まるで自分に言い聞かせるかのように、何度も何度も自分がその言葉をくり返していることを――。
 
 俺は気がついていたけれど、きっと彼女は無意識なんだと思ったから、あえて指摘はしなかった。
 その代わり、俺が欲しかった答えをそのまま返してくれたひとみちゃんに、素直にお礼を言っておく。
 
「ありがとう。ひとみちゃん……」
「な、なんなのよ、急に!」
 
 あいかわらず真っ直ぐな謝辞には照れてしまうひとみちゃんの様子がおかしくって、俺はまた忙しく鉛筆を動かし始めながら、ハハハハッと声に出して笑う。
 笑うことができた自分と、そうさせてくれたひとみちゃんに、本気で感謝していた。


 
 放課後。
 校門のところで真実さんを待つ俺に、こっそりと近づいてくる人の気配を感じた。
 
 一瞬「まさか!」と思ったが、それが他ならぬ真実さんであることがすぐにわかったので、俺はそのまま気がつかないフリをした。
 
(何をしてるんだろ……? これはやっぱり……俺の様子をうかがってるんだよな?)
 そう思ったらわざとふり返って、
「そんなところで何してるの? 真実さん?」
 と問いかけずにはいられなかった。
 
 真実さんは本当に、飛び上がるほどに驚いた。
 その様子に俺は不謹慎にもひどく満足する。
 
「なんで? なんでわかったの?」
「わからないわけないじゃない」
 
 笑顔で答えたら、真実さんは何度か頭をぶるぶると左右に振って、それから泣き笑いみたいな表情になった。
 
(こんなに心配させてたんだな……!)
 そう思うと申し訳なくって、愛しくってたまらない。
 
 俺は彼女にそっと歩み寄り、大好きなサラサラの短い髪に指を伸ばした。
 髪をすくように何度か頭を撫でると、真実さんはまるで安心しきったように目を閉じてしまいそうになるから、慌てて呼びかける。
 
「真実さん」
 彼女の背後に近づいている人たちのことをこのまま黙っておくのは、俺の良心が咎めた。
 
「えっ、何?」
 俺が視線で示したままにふり返った真実さんは、文字どおり、もう一度飛び上がった。
 
「…………!」
 愛梨さんと貴子さんと花菜さんがみんな揃って、真実さんの真後ろにちょうど到着したところだった。
 
 慌てて飛びのくように俺から離れる真実さんの姿を見ながら、
「校門前で、イチャついたらダメだよー」
 からかうように笑った愛梨さんが、ポンと真実さんの肩を叩いて通り過ぎていく。
 
 じっと俺の顔を見た花菜さんが、
「顔色良くなったみたい……うん。もう、いつもの海君だね。……よかったね、真実ちゃん……」
 と真実さんに言っているのを聞いて、俺は心底ホッとした。
 
 これでとりあえずは、真実さんの不安を拭い去ることができたはずだ。
 
 貴子は真実さんには目もくれず、真っ直ぐに俺に向かって歩み寄ってきた。
 思わず身構える俺に向かって、すれ違いざま、
「岩瀬は退学したぞ」
 と短くそれだけを告げる。
 
 まさか俺があの男を探していることを貴子さんが知っているとも思えなかったが、その知らせをもらえたことは嬉しかった。
 誰よりも真実さんのために――。
 
 俺は歩き去っていく貴子さんの背中に深々と頭を下げた。
 
 うしろ姿のまま貴子さんは、
「真実……門限は六時だからな」
 なんて会話を真実さんと交わしている。
 
「な、何言ってるの!?」
 真実さんは大慌てでそんな言葉を返しているけれども、真実さんの隣に俺がいることも、貴子さんが許可してくれたような気がして、俺は天にも上るような気持ちだった。
 
「どうしてそんなことを、貴子が決めるのよ!」
 必死に叫んでいる真実さんには悪いけれども、嬉しくってたまらなくって、もう笑わずにいられない。
 
「ハハハッ」
 青空の中に俺や愛梨さんや花菜さんの笑い声も、真実さんの叫び声も、みんな吸いこまれていく。
 
 束の間の幸せをみんな閉じこめたような、眩しいほどの夏の午後だった。
 
 特にどこへという目的もなく、自分が生まれ育ったこの街を、ただのんびりと真実さんと手を繋いで歩く。
 偶然見つけたものや、ふと考えたこと。
 思いつくままにいろんな話をして、なんでもないことにただ笑いあって、そんなごく普通の当たり前の時間が、俺にとってはとてつもなく大切だった。
 
 病院のベッドの上で、思い出だけを何度も頭の中でくり返していた数日間があったからこそ、実感できた幸せだったと思う。
 
 行きたいところに行ける。
 やりたいことができる。
 大好きな人の隣に居れる。
 
 そんな些細なことにも感謝ができる人生は、本来俺ぐらいの年齢では、そうそう味わえるものではない。
 (むしろ得してるって言ったっていいよな……もしこれがこのまま続いていくんなら……)
 
 だけど決してそうはならないだろうってことを、俺はよく知っていた。
 きっとしばらくの間だけ。
 だからこそ今、一瞬一瞬が輝いて、こんなにも鮮やかなんだろう。
 
(しばらくっていったって……実際どれぐらいの長さなのかは俺にだってわからない……一年後? 一ヶ月後? まさか一週間後……ってことはないよな……?)
 
 冗談まじりにそんなことを考えていた俺は、まったく別の理由で、今まさにこの瞬間にも、この幸せな日々が突然終わりになるかもしれないってことを、うっかり失念していた。
 
 ――いや。
 確かに意識のどこかにはあったはずなのに、すっかり油断してしまっていた。

 
 
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
 真実さんに突然問いかけられた瞬間、何も考えることができなかった。
 その前にどんな会話を交わしていたのかさえ、全てが頭の中から吹き飛んだ。
 
 天と地がひっくり返ったような思いで、グッと息をのんだまま、ただ真実さんの顔を見つめる。
 あまりに目に力が入り過ぎて、視界が霞んでくるほどに、ただただ見つめることしかできなかった。
 
 子供の頃からの決意とは裏腹に、真実さんと一緒にいることを望んでしまったあの時から、俺には自分の中で決めていたことがある。
 それは――真実さんが俺の病気に気がついて何かを尋ねてきたら、その時は隠さずに教えること。
 そしてその時を、俺たちのサヨナラの時とすること。
 
 いつかはそんな時が来るんだろうかと、想像するたびこっそり胸を痛めていたその悪夢のような瞬間が、突然目の前に降ってきて、俺は息をするのも忘れてしまうくらい動揺していた。
 
(どうして……? さすがに最近、無理をした姿ばっかり見せ過ぎた? だけど……!)
 激しく脈打ち始めた自分の心臓に言い聞かせるかのように、俺は心の中で叫ぶ。
 
(とにかく落ち着け! まだ真実さんに、具体的に何かを聞かれたわけじゃないんだから……!)
 真実さんは一言言ったっきり、そのあとはなんにも尋ねてこない。
 
 咄嗟の問いかけになんて答えていいかわからなくて、曖昧に笑った俺の顔を一瞬見ただけで、そのあとはこちらを見ようともしない。
 
 苦しかった。
 彼女のそんな反応も。
 追いつめられた今の状況も。
 俺が勝手に一人で取り決めした決意も。
 何もかもが胸に食いこんでくるかのように、苦しかった。
 
(言うべきだよな……今……『そうだよ。俺は心臓が悪いんだよ』って……!)
 わかっているのに体がいうことをきかない。
 固くかみ締めた唇が、言葉を紡ぎだそうとする俺の意志を、かたくなに拒絶する。
 
(決めてただろ! ……それがせいいっぱいの真実さんへの誠意になるはずだからって……自分で決めただろ!)
 爪が食いこむほどにこぶしを握りしめても、なけなしの勇気をいくらふり絞ろうとしても、俺はどうしても彼女の名前を呼ぶことができなかった。
 
 ――ちゃんとした答えを返してあげることができなかった。


 
 投げかけられた質問に何も答えを返せなくて、激しい自己嫌悪に陥ったあの日から、輝いていたはずの日々が、俺にとって苦しいものになった。
 
 自ら立てた誓いを破った俺には、もう真実さんの隣にいる資格がないような気がする。
 神前で誓願したわけではなかったが、自分の厳しい決意と引き換えに守っていた大切なものが、もうこれ以上は守れないような――そんな不安をどうしても拭い去ることができなかった。
 
 このまま俺が傍にいたら、真実さんにまで何か良くないことが起こってしまうんじゃ――そんな、なんの根拠もない不安。
 
(言わなくちゃ……! 早く言わなきゃ!)
 思えば思うほど、てのひらの中の幸せを手放すことが恐くなっていく。
 
 真実さんの隣にいて、彼女を守る。
 ――俺は確かにそう決意したんだったのに、それを失ったなら、これからいったい何のために生きていくんだろう。
 想像もつかない。
 
 だからといって、全てをなかったことにするのも苦しかった。
 ぐるぐると結論の出ない問題を延々と考え続け、虚ろな数日を過ごしたあと、俺はついに決断した。
 ――全てを彼女に委ねようと。
 
 もう一度真実さんが俺の体調について尋ねてきたなら、今度こそ必ず本当のことを告げる。
 その代わり、真実さんがもう二度と俺の体調の事には触れようとしないんだったら、一度問いかけられたことはサッパリと忘れて、俺も今までのように彼女に接する。
 
 どちらがいいとも、どちらが正しいとも、もう俺には判断さえできない苦しい賭けだった。
 


「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
 いつものように大学からの帰り道。
 広い舗道を手を繋いで歩きながら、俺は彼女にそう尋ねた。
 
 ドキリとしたように小さな肩が震えたところを見ると、真実さんだって結局先日のやり取りを気にしていたようだ。
 それなのに――。
 
 何度も何度もしつこく食い下がった俺に彼女が最終的にした質問というのは、
「海君……ひとみちゃんって誰?」
 というものだった。
 
 てっきり体調のことを尋ねられるとばかり思って、せいいっぱい心の準備をしていた俺は、またしても真実さんに意表をつかれて、すぐには答えを返すことができなかった。
 
 真っ赤になって俯いてしまった彼女を見下ろしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
 なんてことを口に出して確認する。
 
(もちろんあったことはないはずだし……俺が真実さんにひとみちゃんの話なんてするはずないし……)
 考えるうちに、ふとあることに思い当った。
 
 いつも真実さんに会う時には電源を切っている携帯電話を、たまたまそのままにしていたある日、ひとみちゃんから電話がかかってきたことがあった。
 
 あの日は――そう。
 確か俺が入院するのを忘れて、真実さんと会ってた日だった。
 
「ああー……あの時か!」
 ここ最近ずっとこわばっていた頬が緩んで、自然と笑顔になっていくのが自分でもよくわかる。
 
 俺がすっかり忘れていたような他愛もない出来事を、今こんな場面で思わず口にしてしまうほどに真実さんが気にしていたってことは――それってつまりはどういうことだろう。
 
 考えれば考えるほど――ダメだ。
 今日はあんなに真剣な決意をして出てきたっていうのに、まったく不釣あいにどんどん顔がにやけてしまう。
 
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
 思わず尋ねてしまったら、
「し、してないよっ!」
 大慌てで反論された。
 
(ダメだ。嬉しい! これはもうどうしたって……嬉しいに決まってるだろ!)
 
 もし彼女がその場面で感じてくれた感情が、俺が予想したとおりのものなら、もう嬉しくってどうしようもない。
 俺が言うと全然しゃれにならないけれど、このまま天国にだってのぼっていってしまいそう。
 
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
 悪戯好きの性根に逆らえず、わざとそう尋ねた俺に、真実さんはもう泣き出しそうな顔で頷いた。
 
「信じる! 信じるから放して!」
 ありがとうの想いをこめて、そのまま真実さんにキスした瞬間、ちょうど俺の胸ポケットでその問題の携帯が鳴りだした。
 
(なんなんだ、このタイミングの良さ!)
 俺から逃げ出してしまいそうになった真実さんを急いで捕まえて、俺は誰からの着信なのかだけ確認する。
 
(兄貴か……ゴメン後でかけ直す!)
 心の中で頭を下げながら電源を切ったら、真実さんが小さな悲鳴を上げた。
 
「えっ! 出ないの?」
 その声が、表情がたまらない。
 
 俺はもう感情のままに大きく笑いながら、
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
 なんて答えてしまう。
 
 思ったとおり真実さんは、
「しないわよ!」
 と、また今にも泣きだしそうな顔で叫んだ。
 
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
 
 そう、ヤキモチ――真実さんが俺に関して、本当にそんな感情を抱いてくれたんだとしたら、もう他のことなんてどうでもいい。
 
「好きだよ」って気持ちを伝えてもらった時とはまた違う意味で、嬉しくて嬉しくて――マズイ。
 きっとこのままじゃ照れ屋の真実さんを追いつめてしまうってわかってるのに、もう止まらない。
 
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
 またしても思ったとおり。
 真実さんは遂に俺の腕の中から逃げだした。
 
「真実さん待って」
 ここからはまた、いつもと同じ追いかけっこが始まる。
 だけどそんなこと、全然苦じゃなかった。
 こんな――天にも上りそうなくらい軽い気持ちで、また彼女の名前を呼べるようになるとは思ってもいなかった。
 
「ねえ真実さん。待ってよ」
 本当に真実さんには、いつもいつも救われてばかりだ。
 
 繋いだ手をもうこれで離さなきゃって俺が思いつめた時には、決まって真実さんが、もう一度手をさし伸べてくれる。
 ズルイ俺に、不甲斐ない俺に、もう一度チャンスをくれる。
 
 今俺がどんなにホッとした気持ちで、サラサラと揺れる短い髪をゆっくりと歩いて追いかけているのかなんて、きっと真実さんにはわからないだろう。
 その小さなうしろ姿に、どんなにいつもいつも感謝しているのかなんて、伝わらないだろう。
 だから――。
 
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
 何度も何度も呼びかけた。
 俺に出来るせいいっぱいのこと――言葉だけで、懸命に彼女を追いかけた。
 
 優しい真実さんは結局、いつもしばらくすると俺を心配して足を止めてしまう。
 そこにはやっぱり、俺の体調を訝る思いがあるんだろうけれど、彼女が問わないのなら、俺のほうからはもう何も話はしない。
 今朝、そう決めて家を出てきたとおりに、俺は今までどおりに真実さんに接することにした。
 
 ゆっくりと歩いて真実さんを追いながら、見るともなしに周りを見ていると、壁に何枚も貼られたポスターが目に飛びこんで来る。
 
『海――私の心に残るふるさと』
 
 彼女が俺につけてくれた、そして俺の本当の名前にも含まれている『海』が題名のそのポスターを真実さんにも見せたくって、俺は声をかける。
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
 
 でも無理だ。
 真実さんは一向に止まる気配がない。
 俺は彼女のあとを追いながら、何度も呼びかけた。
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
 真っ直ぐに前を見たまま、わき目も振らずに歩き続けていた真実さんの歩みが、次第に遅くなる。
 
(よし!)
 俺の言葉が届いたというよりは、俺を心配して歩みを止めてくれた真実さんに、今日何度目かわからない感謝をしながら、俺は足を早めた。
 
 瞬間。
 ズキリと痛んだ心臓に、ぐらりと眩暈がした。
 
(なん……だ? 今の?)
 
 まさかこのまま発作が起きるのかと思わず足を止めたが、そんなことはなかった。
 痛んだのはその一瞬だけで、呼吸も苦しくはならなかったし、すぐにまた歩きだせた。
 
(なんだったんだろう……?)
 不安を感じながらも、俺はとりあえずは自分を待ってくれている真実さんの背中に、ゆっくりと歩み寄った。
 
 真実さんにポスターのことを教えて、そこに載っていた写真展に行って、真実さんが故郷に帰った時には、そこまで俺が迎えに行く約束をした。
 どうして真実さんが俺に『海』って名づけたのかを尋ねてみて、また泣きそうなくらい嬉しい気持ちをもらった。
 
 俺が朝予想していたのとはまったく違ったものになった一日は、あまりにも嬉しいことだらけで、なんだか恐いくらいだった。
 そして俺のその気持ちは――決してまちがいではなかったと思い知らされる。
 
 翌々日の定期検診で、俺は石井先生に二度目の入院を言い渡された。
 
 あいかわらず先生は
「発作が起きたわけでもないし、またすぐに退院できるよ」
 と笑ってくれたが、前回の入院から二週間も経っていないことが重く心にのしかかる。
 
 どんなに真実さんが幸せな気持ちを与えてくれるからって、それにこのまま甘えているわけにはいかないんだと、俺はやっぱり思い知った。
 
 胸に痛く――刻みこまれた。
 昼休みの美術室。
 今日は珍しく今坂先輩も来ていなくて、広い教室にはひとみちゃんが一人きりだった。
 
 その場に一歩踏みこんだ瞬間、俺はしまったと思った。
(ひき返そうか……?)
 
 なんて思考が働くよりも先に、彼女がこちらには背を向けたまま、唐突に口を開く。
「いくら用心のためだからって……なんだかおかしくない?」
 
「何が……?」
 本当はなんの話だかよくわかっていたのに、ドキリと跳ねた胸を懸命に押さえながら、俺はとぼけた返事をした。
 
 ひとみちゃんは大きな画布の前に座ったまま、長い髪をサラリと揺らしてこちらにふり向き、人の心を射竦めるかのような大きな瞳で、真っ直ぐに俺を見据える。
 
「もちろん海里の入院よ! ……だってついこの間退院したばっかりじゃない。発作が起きたんでもないのに……なんでまた入院しないといけないわけ?」
 
「ああ……そうだね……」
 俺はできるだけ明るい声で軽く返事して、窓際の自分の指定席に行き、いつもの椅子に腰を下ろした。
 
 最近どこに行くにも持ち歩いている、元はひとみちゃんのものだったスケッチブックを膝の上でパラパラとめくる。
 どこを開いても真実さんの笑顔だらけなことに我ながら苦笑して、パタリとそれを閉じた。
 
「でも……まあ、いいんじゃない? ……詳しく検査してもらって、しばらくのんびりしたら、またすぐに退院できるってことなんだからさ……」
 
「だって……それって……!」
 抗議するかのように、ひとみちゃんは確かに何かを言いかけたのに、その言葉をのみこんでしまった。
 
 俺のほうを向いていた体をもう一度画布のほうに向け直すと、らしくもなく、取ってつけたようにもごもごと口の中だけで呟く。
「おかしいわよ……」
 
 彼女がのみこんだ言葉がなんだったのか、俺にはわかるような気がした。
 
 いくら何も知らされていないからって、いいかげんひとみちゃんだっておかしいと思うはずだ。そして不安に思うはずだ。
 
『まるで海里の具合が良くないみたいじゃない!』
 
 ひとみちゃんが口にはしなかった思いはきっとそういう内容だったと思ったから、俺はことさら明るく笑ってみせた。
 
「学校休んでも誰からも咎められないし。こっそり美術室に忍びこまなくても、どうどうと絵は描けるし。しかも三食昼寝つき。やっぱこれ以上の待遇はないよ……幸いまたすぐ出れるってことだから……ちょっと満喫してくる」
 
「海里のバカ!」
 
 間髪入れずに怒鳴られてホッとした。
 不安に思われるより、悲しまれるより、怒られるほうがよっぽどいい。
 ひとみちゃんの怒りは、いつだって俺に向けられる時は、優しさの裏返しなんだから――。
 
「だって……いいの? 入院しちゃったら、学校サボって毎日通ってるところにだって、行けなくなるんじゃないの?」
 
 まさかひとみちゃんの口からその話が出てくるとは思ってもいなかったので、俺はかなりギクリとした。
「うん。まあ、それはそうだね……」
 
 ほんの一瞬、返事が遅れたことさえ、彼女は見逃してはくれない。
 ハアッと大きなため息を吐きながら、もう一度ひとみちゃんは俺のほうをふり向いた。
 
「私でよければ……代わりに行くけど?」
「へっ?」
 
 予想外の提案に、思わず自分の耳を疑う。
 
「ど、どこに……?」
 あまりにも間抜けに聞き返してしまって、顔を真っ赤にしたひとみちゃんに、思いっきりタオルを投げつけられた。
 これはまたもや、水洗いしたあとの絵筆を拭くためのものなんじゃないだろうか。
 
「うわっつ!」
 椅子に座ったまま大きく仰け反った俺に、ひとみちゃんは、
 
「もういいっ!」
 と叫んで、おそらくこの上ない善意で申し出てくれたはずの言葉を、さっさと撤回してしまった。
 
 俺はすぐさま「ゴメン」と頭を下げる。
 それからそのまま真っ直ぐにひとみちゃんに顔を向け、せいいっぱいの感謝をこめてお礼を言った。
 
「ありがとう。でもこれだけは……代わってやってもらうことはできないんだ……」
 
 真実さんを迎えに行って学校まで送る。
 その束の間の護衛役は、ひとみちゃんだからというわけではなく、他の誰にだって譲れない。
 ――譲りたくないっていうのが、俺の本心だ。
 
「どうしたって、俺が行きたいんだ……!」
 唇を噛みしめるような思いで呟いた俺を、不審な表情で見たひとみちゃんは、ふいっと目を逸らした。
 
「あっそ。だったらさっさと退院してきなさいよ」
 ぶっきらぼうな言葉づかいではあるが、あきらかに俺を激励する意味がこめられたセリフに、俺はもう一度お礼を言った。
 
「うん。ありがとう」
 真っ直ぐな謝辞に弱いひとみちゃんは、今日もまた耳まで真っ赤になって、なおさら俺に背を向てしまったのだった。


 
「ゴメン、真実さん……俺、またしばらく会いに来れないや……」
 
 その日の夕方。
 大学からの帰り道。
 繋いだ手はそのままに、突然手をあわせた俺の顔を、真実さんは目をまん丸に見開いて見つめた。
 
 自分の手を包みこむようにあわされた俺の両手を見ながら、確かに一瞬、どうしようもなく寂しそうな顔をしたのに、次の瞬間にはニッコリと笑う。
 
「うん、いいよ。私だって試験勉強しないといけないんだし……ちょうどいいよ」
 俺の全てをいつだって許してしまう、真実さんの優しい受諾が胸に痛かった。
 
(嘘だよ、なんて言って……喜ばすことができたらいいのにな……)
 
 でもそれはできない。
 俺が明日から再入院して、またしばらく会いに来れないのは本当のことだから。
 
 出会って二ヶ月。
 一緒にいれたのは最初の一ヶ月と、二週間の空白のあとの十日間だけ。
 今度は何日の空白のあとに、いったいどれだけの時間一緒にいることができるのだろう。 
    
 俺には見当もつかない。
 
 その間、真実さんに何も起こらないだろうか。
 この間のように突然あの男が現われて、ひどい目にあわされたりしないだろうか。
 それは俺でなくたって、誰にもわからない。
 
(本当は傍にいたい。いつでも。いつまでも……)
 そう思えば思うほど、一緒にいれる時間が短くなっていくというのは、いったいどういう意味なんだろう。
 
 俺に自分の立場を再確認させようというのか。
 身の程をわきまえろという警告か。
 それとも、いいかげん彼女を解放してあげろという勧告なのか――。
 
 悔しくて悲しくて、思わず手を伸ばした。
 いつだって手を伸ばせば引き寄せられるところにいる――いてくれる真実さんを、腕の中に捕まえる。
 
「ごめんね。俺に会えないと寂しいのに」
 
 真っ赤になって照れてしまうか、
「そんなことない!」
 と負けん気を起こされるに、きっと違いないセリフ。
 その言葉を敢えてこの時に選んだのには、ちゃんとわけがある。
 
 照れた顔も。
 怒った顔も。
 もっともっと真実さんのいろんな表情を、目に焼きつけておきたかったから。
 
 明日からしばらく会うことのできない間。
 俺はきっと、あのあまりにも見慣れた無機質な病室で、また何枚も何枚も、真実さんの絵を描くんだろう。
 
 瞼にくっきりと残っている笑顔ばかりではなく、いろんな表情を鮮明に思い出して描くことができたなら――そしてその絵をいつでも眺めることができたなら、俺自身が単純に嬉しい。
 
「そ、そんなことは……!」
 予想どおり大慌てして、俺の腕の中から逃げ出そうとする小さな体を、決して放すもんかと、俺は抱きしめる腕に力をこめる。
 
「海君……!」
 上目遣いに俺を見上げる、ちょっと怒ったような大好きな表情を、しっかりと目に焼きつける。
 
「ね。放して……?」
 道行く人々の視線を気にするかのように、真実さんが困りきった顔で小声で囁くから、俺はなおのこと意地になって、ますます彼女を抱きしめる。
 
「ちょっと……海君?」
 
(ごめん。今だけ……きっともうしばらくだけだから……こうしていて……!)
 
 一番伝えなければならない言葉。
 ――なのに一番伝えたくない言葉だけは、どうしてもまだ声に出すことができなかった。
 
(本当はずっとこうしていたいのに……!)
 これ以上ない本心をこめて真実さんの頭に頬を寄せると、彼女は口では抵抗しながらも、やっぱり俺の全てを許してしまって、優しく背中に腕をまわしてくれる。
 
 その優しさに深く感謝しながらも、いつだって結局自分のわがままばかりを押し通してしまう俺には、やっぱり彼女の傍にいる資格はないと思った。
 
 引き離されて当然なんだ、と自嘲した。

 
 
 幽閉するように放りこまれて、たくさんの機械をつけられた病院のベッドの上で、俺は今まで以上に明るく朗らかにふる舞った。
 日に何度も様子を見に来てくれる看護師さんたちにも、石井先生にも、冗談を言って笑う。
 毎日朝夕、病室に顔を出してくれるひとみちゃんには、余裕でからかうようなことばかりする。
 
 なのに毎晩。
 真夜中に一人きりになると、なかなか眠ることができなかった。
 
 夜勤の看護師さんに頼んで、少し開けたままにしてもらっているカーテンの隙間から、真っ暗な夜空を見上げる。
 星一つない暗い空が、そこに確かにあるということを目で確認しているほうが、瞼を閉じて目には見えない恐怖に怯えているよりは、ずっとマシだった。
 
 ほんの小さな頃から覚悟ができていたつもりで。
 誰よりも心の準備はOKだったつもりで。
 俺は自分の『死』というものをすっかり当たり前のように思っていたはずなのに、それがいよいよ目の前に迫ってきたと知った時のように、今はまた、安心して眠りにつくことさえできない。
 
 目を閉じたらもう二度と開くことができないような気がして、目を閉じることができない。
(どうして……?)
 
 入院する前までは、いったいどうやって眠りについていたのか。
 必死に頭をめぐらす。
 
(ベッドが違うから? 枕が違うから? そんなこと……俺に限っては有り得ないだろ……?)
 
 正直、病院のベッドと自分の家のベッドと、どちらがより多い回数眠りについたことがあるかと聞かれると、自分自身その答えがわからないくらいだ。
 だからきっと違う。
 
(じゃあ、やっぱりどこか調子が悪いとか……?)
 
 入院する前の憂鬱な思いとは裏腹に、経過は至って順調のはずだった。
 あくまでも石井先生の言葉を信じるならば、当初の予定どおり、短期間で退院できるほどには――。
 
(じゃあいったいなんなんだよ!)
 半ばやけくそ気味に、再びカーテンのすき間の夜空に目を向けた時、冴え渡るように輝く月の一部分が見えた。
 優しい光を投げかけてくれるようなその姿を目にした途端、ふいに俺にはわかってしまった。
 
(そうか……真実さんとの約束がないからだ……)
 
 夜、自分の部屋の冷たいベッドの上で眠りにつく一瞬。
 俺が無意識のまま、毎日宝物のように抱きしめていたのは、きっと、『また明日』という真実さんとの小さな約束だったのだ。
 
 未来を誓うことはできない。
 将来を一緒に夢見ることもできない。
 そんな俺にとって、真実さんと交わす日々の小さな約束は、確かに全ての支えとなってくれていた。
 
『また明日』と約束したから、それを破るわけにはいかない。
 だから行かなくちゃ。
 真実さんが待っているんだから、明日は行かなくちゃ。
 
 そんな思いが、一日一日を生きる俺の原動力となっていた。
 
(そうか……いつの間にか、こんなに支えられていたんだ。俺の力になってくれてたんだ……!)
 そう思うと、涙でどんどん視界が滲んでくる。
 そうすると、太陽に比べると儚い月の光がますます儚くなって、そのことが俺をよりいっそう不安にさせる。
 
(もう真実さんに会えないなんてことになったら……病気じゃなくってそれが原因で、俺……死ぬんじゃないか……?)
 
 自嘲気味に笑った次の瞬間、俺は起き上がっていた。
 パジャマを脱ぎ捨てて、たった一着、退院の時のためにひとみちゃんが持ってきてくれていた普段着に着替えて、滑り出るようにして、病室の扉から廊下へと出る。
 
(三時間おきの見回りがさっき回ってきたばっかりだから……大丈夫……きっと行ける)
 
 自分を勇気づけるように頷くと、俺は夜間の唯一の出入り口となっている看護師さんたちの通用口から、こっそりと外に出た。
 
 まだ眠ることをしらない真夜中の街に向かって、ゆっくり歩を進める。
 
(ほんの一目でいい……それが無理なら、真実さんがそこにいることを確認するだけでいい……! とにかく俺に……もう一度その場所に、きっと帰ってくるんだっていう強い決意をさせて……!)
 
 通い慣れた真実さんのアパートに向かうため、俺は大通りを走っているタクシーに手を上げた。
 ハザードランプをつけて目の前に止まった黒い車体に、滑りこむように乗りこんだ。
 もう真夜中に近いというのに、二階建ての小さな木造アパートの見慣れた窓には、明々と灯かりが点いていた。
 中から時折聞こえて来る賑やかな声に、
(ああ。みんなが真実さんのところに集まってるんだな……)
 と、なんだか安堵する。
 
 俺が傍にいなくたって、真実さんの日常は何事もなかったかのように、いつもどおりに過ぎている。
 ――そのことが嬉しかったし、寂しかった。
 
『もしも俺の人生が今日突然に終わったとしても、悲しみ過ぎる人なんていないように――!』
 
 その思いは、今でもずっと変わらずやっぱり俺の一番の願いだし、そのためにいつかは真実さんとも離れなければならないと、自分でも決めている。
 
 だから『しばらく会えない』と俺に言われても、真実さんが楽しくやっているのなら、それは良いこと以外のなんでもない。
 それは確かにそうだ。
 そうだけど――。
 
(あーあ。そっか……)
 やっぱり寂しく思ってしまう自分がいる。

(俺が真実さんを必要としているほどには、真実さんは俺のことを必要としていないんだな……)
 そんなふうに思うと、こんな時間にこんなところに立っている自分の行動が、とんでもなく愚かに思えてくる。
 
 見上げた空には、病室のカーテンのすき間から見えていたのと同じ月が、煌々と輝いていた。
 
(帰ったほうがいいかな……?)
 そう思うのに、足が動かない。
 笑い声に混じって時々聞こえてくる真実さんの声が、俺の足をこの場所に縫い止めてしまって放さない。
 
 目を閉じて意識を集中すれば、瞼の裏には彼女のいろんな表情までありありと浮かんできた。
 
(こうやって……しっかりと姿は思い浮かぶ……でもやっぱり会いたいな……)
 そんなことを考えた時、偶然にもアパートのドアが開く気配を感じた。
 
 閉じていた瞼をゆっくりと開いてみると、そこには確かに、俺があんなに会いたかった人が立っていた。
 すぐに俺を見つけてひどく驚いた顔が、見る見るうちに笑顔になるから、俺もついつい笑ってしまう。
 
「海君!」
 頭の中でくり返しくり返し思い出していた以上の飛びっきりの笑顔が、一目散に俺の腕の中に飛びこんできた。
 
「あんまり長い間会えないと、真実さんが寂しがると思って……」
 会いたくて会いたくて我慢できなかった自分の想いは棚に上げて、からかうようにそんなことを言うと、真実さんはちょっと怒ったように俺を上目遣いに見上げる。
 
 そこから始まるはずの
「そんなことは……!」
「あるんでしょ?」
 というやり取りは、俺たちの中ではすっかり習慣みたいになりつつある。
 それなのに――。
 
「うん、会いたかった」
 いつになく真実さんが、俺の言葉をあっさりと認めてしまった。
 
 ドキリと跳ねた胸とは裏腹に、俺の口は落ち着いて、すぐに返事をする。
「俺もだよ」
 その相変わらずの如才なさには、我ながら呆れてしまう。
 
 突然真実さんが、自分から俺の首に腕をまわしてくるから、
「……真実さん?」
 気持ちはどうしようもなく動揺しているのに、腕はすぐさまその華奢な体をしっかりと抱きしめる。
 自分の体ながら、その迷いのなさには、もう敬意を表したいくらいだ。
 
(どうしたの……? なんだかいつもと様子が違うんじゃない……?)
 笑い混じりに問いかけて、そのままキスしてしまおうかと思った時に、前方からこちらに向けられている、突き刺さるような視線を感じた。
 
 感じたままにゆるゆると目を向け、真実さんの部屋の小さな窓に、よく見慣れた顔が三つ並んでいるのを発見し、思わず吹き出しそうになる。
 
(貴子さん! 愛梨さん! それに花菜さんまで……!)
 
 おそらくついさっきまで真実さんと一緒にいたはずの友人たちが、そこには顔を並べて、俺たちの様子をじっと観察していた。
 
 そっちに顔を向けている俺はすぐに気づいたが、背中を向けて、その上俺の胸に頬を寄せてしまっている真実さんは、まったく気がついていないだろう。
 そう思うとちょっと可哀相な気がした。
 
「真実さん……別に俺はいつまでもこのままでもいいんだけどね……?」
 そっと耳元で囁く。
 真実さんはいかにも不思議そうに、俺の顔を見上げた。
 
 俺は吹き出してしまわないように必死に我慢しながら、視線だけで、うしろを見てみるように彼女に指示する。
 
 ふり返った真実さんは、きっとすぐに、自分の部屋の窓が目に入ったのだろう。
 小さく飛び上がり、声にならない悲鳴を上げながら、急いで俺の首にまわしていた腕を解く。
 
(ちぇっ!)
 教えなきゃよかった――なんて思いながら、せめて彼女を抱きしめている腕だけは解かずにおこうと思ったのに、真実さんが今にも泣きだしそうな顔で俺の体を必死に押しやろうとするので、ついつい放してしまった。
 
「ど、ど、どうしてっ……!?」
 友人たちに向き直った真実さんは、深夜の静かな住宅街に響き渡るほどの大声で、驚きと抗議の声を上げている。
 
 そのあまりにも予想どおりの素直な反応に、俺だけじゃなくって真実さんの友人たちも、すっかり満足しきったように笑いだした。
 
「真実……別に帰ってくるのが何時になったっていいけどさ……私の買いものだけは忘れるなよ」
 貴子さんが涼しい顔で告げれば、
「海君! 真実はまだいちおう試験中だから……! そこのところよろしくねー」
 愛梨さんがニコニコしながら俺に向かって手を振る。
 
「真実ちゃん……良かったね……!」
 花菜さんは笑ってるんだか泣いてるんだか微妙な表情で、声を震わせた。
 
(真実さんの友人たちって……なんかいいよね……)
 彼女を取り囲む温かい環境に、俺はホッとする。
 
 しかし当の真実さんは、
「な……何を……? なんで……?」
 上手く話すこともできないほどに、ただただ驚いている。
 
「海君……真実ってば本当に一生懸命がんばってるからさ……ちょっとだけ息抜きさせてあげてよ……ね?」
「……と言うよりも、真実ちゃんに元気を充電してあげて……かな?」
「だからって、試験が手につかなくなるほどのことはするなよ。少年!」
 
 三人から寄せられた確かな信頼が、嬉しくって誇らしくって、妙にくすぐったかった。
 俺にそんな資格があるのか――なんて自問自答するより先に、ついつい頬が緩んでしまう。
 
「はい。肝に銘じます」
 いつものように礼儀正しく、きっちりと頭を下げると、
「ちょっと、貴子!」
 真実さんがすぐに非難の声を上げた。
 
 耳まで真っ赤になった真美さんの、それは照れ隠しの叫びだってことが俺にはわかったから、なおさら嬉しくてたまらなかった。
 


 真実さんと手を繋いで歩く、真夜中のいつもの道。
 
 俺がどうしてしばらく来なかったのかとか。
 今日はどうして突然こんな時間に現われたのかとか。
 ――そんなことを、真実さんは決して尋ねたりしない。
 
 まるで答えることができない俺の事情を知っていて、わざとしらんふりしてくれているかのように、その手の話題にはいつも一切触れない。
 
 今夜だって、『いつからあそこにいたのか』なんて、あまり当り障りのない話をして、自分のことばかりいっぱい話して、俺のズルイ事情は見逃してくれようとしている。
 
 俺はそのことがありがたくって、――そしてやっぱりちょっとうしろめたかった。
 
 始めて会った頃からずっと、意識的にか無意識にか、真実さんは秘密だらけの俺の全てを許してくれている。
 それは彼女にとって負担ではないんだろうか。
 辛くはないんだろうか。
 
 考え始めると、
『早く俺から開放してあげたほうがいい』
 という結論にどんどん近づいていく。
 
 でもそうすることを誰よりも恐れているのは、俺自身だ。
 真実さんともう会えなくなるなんて、想像するだけでどうしようもなく辛いから、なかなか踏みだすことができない。
 
 良心の呵責と、彼女への想いと、自分のわがままと。
 いくつもの気持ちが重なって、心理的にはすでに一歩も前に進めないでいる俺に、ふと足を止めた真実さんが、唐突に問いかける。
 
「海君……どうしたの? ……何かあったの?」
 
 悪いけれど、それまで何の話をしていたんだか、俺はまるで思い出せなかった。
 ただ、どんな時だって、迷いだらけの俺の心理を巧みに感じ取ってしまう真実さんを、少し恐く、とてつもなく大切に感じた。
 
 まだ言いたくはない言葉を隠して、
「うん? 別に何もないよ……?」
 と笑った俺の偽物の笑顔に、真実さんが騙されてくれるとは、俺だって思っていない。
 
 だけど今はまだ嫌だった。
 本当のことを言って――俺はもうすぐきっと死んでしまうから、
 これ以上は一緒にいられないって告げて――彼女の前から姿を消す勇気は、まだ俺には持てない。
 
 そっと手を伸ばしてきた真実さんが、ぎこちなく笑う俺の頬に触れる。
 
「急にいなくなったりしないよね?」
 
 何も話してなどいないのに。
 気づかれるようなことさえしていないはずなのに。
 なんでそんなに俺の心がこの人には伝わってしまうんだろうと、泣きたいくらいの気持ちが湧く。
 
 泣き顔なんて、絶対に見られるわけにはいかないから、俺は、
「そんなことはしないよ」
 とせいいっぱい笑ってから、真実さんを抱き寄せた。
 
 もうこれ以上、気持ちを読まれてしまわないように、彼女の前から顔を隠す。
 
 声が震えていることを、悟られないように気をつけながら、
「いなくなる時はちゃんとそう言うよ」
 と嘘のない言葉だけを選んで、耳元で小さく囁いた。
 
 息をのんだようにこわばった真実さんの体をしっかりと抱きしめたら、不安に揺れる大きな瞳が、すがるように俺の顔を見上げてきた。
 
 もう一度飛びっきりの作り笑いをしてみせたら、腕の中の小さな体から、必死に張り詰めていたらしい緊張が抜けた。
 抜けた力と共に、真実さんが泣きだしたことがわかる。
 
(くそっ! 何やってんだ……俺は!)
 無我夢中で、その体を抱きしめた。
 
「ゴメン、真実さん」
 
 返事はない。
 さっきみたいに俺の顔を見上げてもくれない。
 今、目をあわせたら俺だって泣きだしてしまいそうで、そんなことは絶対に嫌だから、真実さんが俯いてくれているのはありがたい。
 
 ありがたいけど――違う。
 そうじゃない。
 わざわざここまで会いに来て、泣かせたかったわけじゃないんだ。
 
「ゴメン」
 何度も謝って、小さな頭に頬を寄せて、きつく抱きしめ続ける俺に、真実さんはコクコクと頷いてくれる。
 けれど、決して――決して顔を上げようとはしなかった。
 
 俯いたままでいつまでも顔を上げない真実さんに、俺は呼びかける。
「真美さん」
 せいいっぱいの想いをこめて、そっと呼びかける。
 
 俺の腕の中で身じろぎした真実さんが、ようやく顔を上げてくれた。
 涙で潤んだ真っ赤な瞳を見たら、申し訳なくて、かわいそうでたまらなかった。
 
「真美さんが寂しがってるんじゃないかって思って会いに来たのに……余計に悩ませちゃったね……」
 頭を下げる俺に、真実さんは涙の跡も乾かないままの顔で小さく笑う。
 
「ううん……本当に会いたかったから嬉しかったよ」
 こんな時でさえ俺の全てを許してしまう彼女に、俺はやっぱり甘えている。
 そんな自分が悔しい。
 でもどうすることもできない。
 
「うん。俺もだよ」
 自分で自分に許した唯一の言葉――彼女が思いを告げた時にだけ、それに同調する形で伝えることができる俺の本心を、俺は口にした。
 
 俺はこんなにズルイ。
 真実さんにだけ想いを告げさせて、自分では何ひとつ彼女に伝えてもあげられない。
 それなのに――。
 
 俺の顔を見上げた真実さんは、この上なく幸せそうにニッコリと笑う。
 まるで『愛してるよ』と告げられたかのように。
 どんなに心の中でそう思っていたって、決して口には出せない俺の本心を読んでくれたかのように。
 
 その顔を見ているだけで幸せだった。
 他には本当に、もう何もいらなかった。


 
 たった一度だけ、『真実さんに元気をあげないと……』と理由をつけて彼女にキスして、それから俺は自分がここまでやって来た目的を果たす。
 
「また会いに来るよ。真実さんが寂しくないように……」
 その小さな約束をするためだけに、俺は今夜、病院を抜けだしてきた。
 
(真実さんと約束した。だからその約束を守るために、何があったってがんばらなきゃ……!)
 
 自分の核となる想いを作るために、ここまで来た。
 おかげでようやく、今夜はぐっすり眠れる気がする。
 
 俺を見つめる、優しい――優しすぎる笑顔を思い出しながら、幸せな夢に落ちていけそうな気がした。
 それがたとえ束の間のものであっても――。
 真実さんの試験が終わり、また一緒にいれるはずの日々がやってきても、俺は病院を退院することができなかった。
 
「経過は順調だから……きっとすぐに退院できると思うよ……」
 笑いながらそう言ってくれた石井先生の言葉を、信じきっていたわけじゃない。
 だからたいして落胆はしなかった。
 でも、やっぱり悔しかった。
 
 幸い大学が休みになったから、真実さんを送り迎えする必要はない。
 数日後には故郷に帰るという話だったから、その間も、どうせもともと会うことはできない。
 でもだからこそ、それまでの短い時間をできるだけ一緒に過ごしたかったのに――。
 
(あーあ……どうするかな……)
 経過観察のために入院中の身で、彼女に会うために外出するということが、果たして可能なのか。
 
 あまり期待せず問いかけてみたのだったが、思いの他あっさりと病院側から許可された。
 三時間だけという制約はあるが、とりあえず真実さんのところに行って、しばらく一緒にいて、帰ってくるぐらいはできそうなので、ホッとする。
 
 けれどその思いがけない外出許可が、ひとみちゃんの猜疑心にはなおいっそう拍車をかけたのだった。



「ねえ……そんなに簡単に外出許可が出るくらいだったら……どうして退院できないの? ……どうしてまだ入院してなきゃならないのよ……?」
 少し怒ったような顔で、単刀直入に問いかけてくるひとみちゃんに返せる言葉が、俺には何ひとつない。
 
「そうだね……」
 なんてまるで他人事みたいに、ぼんやりとした返事をするぐらいしかなかった。
 
「ねえ海里……」
 決して勘がいほうではないひとみちゃんにこれ以上しゃべらせたら、俺は本当に相槌を打つことすらできなくなってしまう。
 それが恐くて、俺は急いで言葉をつけ足した。
 
「まあ、でも……せっかく気分転換にってことで許可してもらったんだから……ここは喜んで出かけてくるよ」
「…………!」
「短い時間だから学校には顔出せないけど……俺は元気でやってますって、今坂先輩たちにはひとみちゃんから伝えておいて……ね?」
 
 ひとみちゃんがこの上なく、不機嫌な顔になった。
「元気でって……入院中なのに……?」
 
 俺は思わず吹き出した。
 ハハハハッと大声で笑いながら前髪をかき上げる。
「だって元気じゃん」
 
「本当に……? 本当に元気だよね? ……海里……」
 大きく肩を揺すって爆笑する俺を目の前にしているのに、ひとみちゃんは何度も確認した。
 
 不安に怯えたような、まるで彼女らしくない自信なさげな表情が、俺の胸を痛くする。
 気づかれたくない。
 まだ気づかれるわけにはいかない。
 だから俺は、尚いっそう明るく笑ってみせる。
 
「なんで入院してんのかわかんない程度には元気だよ? ……ひとみちゃんがそう言ったんでしょ? ……ハハハッ」
「もうっ! バカ海里!」
 
 怒ったようにクルリと向けられた背中が、大きな足音を響かせながら病室から出て行くのを見送りながら、俺はホッとした。
 心底ホッとした。


 
「ええっとね……飛行機だったら一時間。新幹線で三時間……高速バスだったら五時間かな……?」
 この街からは遠く離れた地方の港町にあるという真実さんの実家まで、いったいどれくらいの距離なのかと尋ねてみたら、彼女は指折り数えながら、俺にそう教えてくれた。
 
 悪いけど笑い出さずにはいられない。
「ハハハハハッ!」
 
 予想以上の遠さに驚いたからばかりではない。
 必死に考えてくれた真実さんの表情があまりにかわいかったから、照れ隠しを兼ねて笑わずにはいられなかった。
 なのに――。
 
「もうっ! どうせ私は田舎者ですっ!」
 やっぱりいつものようにぷいっと怒って、真実さんは俺を置いて歩きだしてしまう。
 
 ゆっくりと歩いて追いかけることさえ、今は難しい状態だったから、俺は言葉だけでせわしく問いかけた。
「それで……? どれぐらいで帰ってくるの?」
 
 怒ってるはずなのに、真実さんはすぐに俺をふり返る。
 何か言おうと口を開きかけ、やっぱり言葉をのみこんで、俯いてしまった。
 
(ごめん……やっぱり、なんだか無理させてるね……)
 本当は俺に聞きたいことがあるんだろう。
 それはもうずっと前からわかっているのに、俺は真実さんにそれを口に出させてあげることができない。
 
 覚悟を決めて問いかけてみても、思いっきり追いつめてみても、真実さんはついに、自分の疑問を口にしようとはしなかった。
 
(聞いてしまったら、このままではいられないって……ひょっとしたらなんとなくわかってくれているのかも……)
 
 いつだって俺のわがままを許してしまう真実さんだから、きっとわざと聞かずにいてくれてるんだろう。
 そのことが嬉しい。
 ――嬉しいけれど、申し訳ない。
 
 この『申し訳ない』という思いが、日に日に自分の中で大きくなって、いつか俺の中の『嬉しい』とか『幸せ』とかいった感情を超えてしまった時、俺はきっと我慢できずに、真実さんに本当のことを告げてしまうだろう。
 
 彼女が必死に繋ぎ止めてくれているその努力を全部無駄にして、俺たちの関係を終わらせてしまうんだろう。
 そう思うと、なおさら申し訳なかった。
 
「そんな顔しないで……」
 ゆっくりと歩み寄って、俯いた顔の前に手をさし出す。
 いつものように左手で、さっさと真実さんの右手を握ってしまう。
 
「すぐに迎えに行くよ。俺と会えないと、真実さんは寂しいでしょ?」
 わざとそんなふうに言えば、きっと真実さんは
「そんな事ない!」
 って叫んで、もう一度負けん気を奮い起こしてくれると思ったのに、黙ったまま、俺に寄り添ってしまった。
 
 無言で俺の胸にもたれかかってくる華奢な体に、これ以上ないほど胸が跳ねる。
(待て! 落ち着け! ……落ち着け!)
 
 当然のことながら大きく脈打ち始める心臓に、必死で制止の声をかけながら、俺は真実さんの体を抱きしめた。
 
 まるでいつもの彼女らしくない反応。
 だからこそ、彼女が今、この上なく無理している状態なんだということが、よくわかった。
 
(ゴメン……ゴメンね、真実さん……)
 
 不安にばっかりさせて。
 何ひとつ確かな言葉はあげれなくて。
 そのくせ抱きしめたこの腕だけは放したくないなんて思ってる俺。
 なんてわがままで自分勝手な俺。
 
(もう少し……あともうほんの少しだけでいいから……そしたらきっと、俺から開放してあげるから……だからそれまでは、どうか俺の腕の中にいて……!)
 
 俺の背中に腕をまわしてくれた真実さんに、涙が出そうな思いで感謝して、その髪に頬を寄せた。
 彼女を抱きしめる腕に、俺はせいいっぱいの想いをこめた。


 
 その三日後。
 再び三時間の外出許可をもらって、病院を抜け出した俺に見送られて、真実さんは故郷へと帰っていった。
 
 駅のホームで彼女の乗った新幹線がすっかり見えなくなるまで見送り、それから俺は同じように真実さんの見送りに来ていた愛梨さんたちと一緒に、帰路につく。
 
 真実さんが俺のことを、彼女たちにどんなふうに紹介してくれているのか。
 不安に思う必要は、なに一つなかった。
 
 つまり真実さんは細かいことはなんにも説明せずに、全部彼女たちの想像に任せてしまっているのだ。
 
 だからふいに、
「高校くらいはちゃんと出といたほうがいいぞ。今からでも入りなおせば……?」
 とか、
「いまだに携帯持ってない高校生なんているんだねー、びっくりした」
 とか話をふられて、俺はいちいちびっくりする。
 
(いやいや……あんまり登校できてはいないけど、これでも高校にはまだ在籍しているんですよ……携帯だってちゃんと持ってます……!)
 決して口に出しては言えない自己紹介を、心の中でだけくり返しては、必死に笑いをかみ殺していた。
 
「おい少年!」
 そんな俺の鼻先に、貴子さんが一枚の紙切れを突きつける。
 受け取ってよくよく眺めてみれば、フェリーの乗船予約券だった。
 
「これ……?」
 おずおずと尋ねた俺に、貴子さんはニヤリと人の悪い笑いを向ける。
 
「一週間後に迎えに行くんだろ……? どうせだったら一日早く行ってあげて、それでゆっくりと真実と二人で帰ってきな……!」
 
『一等洋室』と印字されているそのチケットに、俺は正直焦った。
 
(それってつまりは……真実さんと船の中で、一晩一緒に過ごせってこと……だよな? ちきしょう……! いったいどんな我慢大会なんだよ!)
 
 意味深に笑いながら俺を見つめる貴子さんの目は、あまりにも真剣だった。
『でもやっぱり……』なんておれに躊躇させる気は、きっと始めっから毛頭ない。
 
(まあ……いいか)
 
 威圧感に満ちた貴子さんの視線が恐くて、俺は小さく頷いた。
 
 ようは俺が、自分の体調のことを忘れて無茶しさえしなければいいのだ。
 たとえ真実さんと、一晩二人きりでも。
 完全な個室に閉じこめられていても。
 
(ダメだ……自信がない……全然ない!)
 
 がっくりとうな垂れる俺を、貴子さんが面白そうに観察している。
 ――気がする。
 
「まあまあ、そんなに気にしなくても……ちょっと二人で旅行したんだと思えば……ね?」
 取り成すように笑いかけてくれる愛梨さんの笑顔が眩しい。
 
「真実ちゃんだってきっと喜ぶよ。そうしてあげてよ海君……」
 信頼しきったような花菜さんの言葉が胸に痛い。
 
「はい……ありがとうございます……」
 他にはもうなんとも答えようがなくて、俺はその予約券を受け取った。
 
 三人はそんな俺に、めいめい嬉しそうに、三人三様の笑顔を向けてくれたのだった。


 
 外泊許可を取ることが、外出許可を取るよりも難しいことは、あらかじめ予想済みだった。
 だけど頼んでみないことにはどうしようもない。
 
「どうですか……ダメですか……?」
 一縷の望みをかけて返事を待つ俺に、石井先生はニッコリ笑って頷いた。
 
「わかった。いいよ……丸一日だけ、病院を抜けだしてもかまわない……でももしものことがあってもすぐに助けを呼べるようなところにしか行っちゃダメだよ。わかった?」
 
 その条件では、ほぼ海の上を移動していて、陸路とはまったく接触を持たない船は、始めっからダメなんじゃないかとガッカリする。
 
 けれどそんな俺に、先生はちょっと悪戯っぽい顔をして頷いた。
「ま……それは私の医者としての見解だから……個人的には……よっぽどのことがない限り、今までどおりに行動していれば何の問題もないと思うよ?」
 
 途端顔を跳ね上げて、満面の笑顔になってしまう自分が恨めしい。
 でも小さな子供の頃からずっとお世話になっている石井先生に、今更格好つけようってのは、しょせん無理な話だ。
 
「気をつけて……」
「はい」
 
 先生に言われるとなんだか特別な意味を持つような言葉を、俺はちゃんと胸に、きつく刻みこんだ。
 


 それから一週間後。
 真実さんを見送ったあの駅から彼女と同じように新幹線に乗って、俺は生まれ育った街を初めてあとにした。
 
『帰りは絶対に迎えに行くから! 用が終わったら必ず連絡するように!』
 と叫ぶ兄貴に、ひとみちゃんを上手くごまかすことに関しては、全部任せてきた。
 上手くいくとも思えないが、もしバレて最大級の怒りをかったとしても、その時のことはその時考えよう。
 
「それでね……その時真実が言ったことがね……!」
 真実さんと同郷の愛梨さんが、途中まで同行してくれることになり、新幹線に乗っている間中、俺の知らない大学での真実さんの話をたっぷりと聞かせてくれた。
 
 あっという間の三時間のあと。
 降り立った駅のホームでは、本当にかすかに海の匂いがした。
 
 愛梨さんに連れられていった、真実さんの故郷の港町には、眩しい陽光に照らされた海が到るところに広がっていた。
 
「本当に一人で大丈夫?」
 と心配してくれる愛梨さんに頷いて、ここまで連れてきてもらったことを感謝する。
 
「ありがとうございました」
「じゃあ……これ」
 最後に愛梨さんが手渡してくれたのが、真実さんの『秘密の場所』だという砂浜への行き方を描いた地図だった。
 
「昨夜電話したら、明日は朝からそこに行くつもりだって言ってたから……きっと今頃はまだいると思う」
 何から何まで、お世話になりっぱなしで、本当に愛梨さんたちには頭が下がるばかりだ。
 
「ありがとうございました!」
 もう一度深く頭を下げた途端、ふいに愛梨さんが、真実さんが名づけた俺の名を呼ぶ。
 
「海君」
「はい?」
 反射的に顔を上げた俺は、真剣な顔をした愛梨さんと真正面から向きあった。
 
「真実をよろしく頼むね」
 真摯な瞳でそう告げられて、一瞬怯む。
 
(俺は……!)
 残された時間がないとか。
 資格がないとか。
 頭の中を駆け巡った様々な思いを排して、俺の口は心のままに言葉を返す。
 
「はい」
 本当はいつだって迷うことなくそうしたかった理想のままに、俺の体は勝手に頷く。
 
 その場しのぎのいいかげんな返事なんかじゃなくて、できるだけの間、せいいっぱいそうしたいという自分の願望をこめて、俺はしっかりと愛梨さんに頷いた。
 
 自分の命がある限り。
 真実さんの傍にいれる限り。
 ずっとそうしようと、その瞬間に自分で自分に誓いを立てた。
 
 ――すぐそこに迫っていたサヨナラの気配になんか、まるで気がついていなかった。
 小さな漁船がぎっしりと並ぶ港を通り抜けて、海岸沿いの堤防をずっと歩いた。
 大きく息を吸いこまなくても、香ってくる潮の匂いはかなりきつかった。
 
 俺が唯一知っている、あの海水浴場の「海」と、この「海」とは、全然違うもののように思える。
 
 そもそも、すぐ目の前に広がっているのに全然手が届かない。
 堤防の遥か下のほうに水面があるのだ。
 そこに浮かんでいる漁船で作業をしている人たちは、いったいどうやって下りているのかと考えていたら、堤防の所々に長い鉄製のはしごを見つけた。
 
(そっか……あれで下りて行くんだな……)
 何もかもが珍しかった。
 
(真実さんはここで育ったんだな……)
 そう思うと、入り組んだ狭い道路にも、斜面に段々に立ち並ぶ家々にも、彼女の気配が漂っているような気がする。
 
 二人で行った写真展で見たのと同じような、複雑に入り混じった色の海に、真実さんの横顔が重なる。
(早く会いたいな……)
 
 たった一週間離れていただけなのに、そう思ってしまう自分に苦笑しながら、のんびりと歩いていた足を、俺は早足に変えた。
 
 愛梨さんにもらったメモに書かれていたとおり、堤防の上をどこまでもずっと進んでいくと、海との境目にふいに小さな砂浜が現われた。
 大きな岩に囲まれた小さな小さな砂浜。
 
 そこに確かに膝を抱えて座りこんでる人影を見つけて、胸が鷲掴みにされたようだった。
(真実さんだ……!)
 
 白いワンピースとお揃いの白い帽子を被って、こちらに背を向けて海を見ている。
 空の蒼色と海の藍色の境界線に、純白な彼女がどこか寂しげに座っている様子は、ため息が出るほどに綺麗だった。
 
 砂浜を囲む黒っぽいゴツゴツとした大岩でさえ、完璧に計算され尽くした自然の采配のようで、迂闊に声をかけることなんてできない。
 
(こんなことならスケッチブック持ってくるんだった……)
 そんなふうに思いながら、俺は砂浜には下りず、堤防の上に腰を下ろした。
 
(いったい何を見てるんだろう……?)
 変わることのない海と空しか俺には見えないのに、真美さんは身動き一つせず、ずっと同じ方向を見ている。
 
(ひょっとして……何かを見ているわけじゃないのかも……)
 ただ大好きな場所に身を置いているだけで、実際に彼女が向きあっているのは、自分自身の心なのかもしれない。
 もしくは胸に抱える不安や疑問なのかも――。
 
(俺のせいで、悩ませてしまってる……?)
 
 きっとそうだろう。
 もうずいぶん前から、俺に対する真実さんの態度はおかしい。
 
 何か言いたいことがあるのに言えないような。
 聞きたいことがあるのに聞けないような。
 どこかしっくりとこない雰囲気を、俺だってずっと感じてる。
 
(ゴメンね……)
 だからといって、自分から語るつもりは毛頭ない俺は、申し訳ない気持ちを抱えたまま、どこか儚い彼女のうしろ姿を、なす術なくいつまでも見つめていた。


 
 いったいどれぐらいの時間が経ったんだろう。
 
 砂浜にゴロリと転がった真実さんがいつの間にか眠ってしまったのを、微笑ましく見ていた時から、かなり時間が過ぎてしまったことだけは確かだった。
 
 俺自身も堤防の壁に背中を預けたまま眠ってしまっていて、ふと気がついたら太陽の位置がずいぶん移動していた。
 
(こんなことやってたら、あっという間に夕方になっちゃうよな……!)
 
 せっかく一週間ぶりに会えたというのに、会った途端にもうサヨナラなんてことになるのが嫌で、俺はようやく真実さんのいる砂浜に向かって、堤防のはしごを下り始めた。
 
 そっと近づいていって驚かしたいから、できるだけ静かになんて気を遣う必要はない。
 真美さんは温かな砂の上で、すっかりぐっすり眠ってしまっている。
 
 靴の下で動く砂の感触を一歩一歩確かめるようにして歩きながら、俺はゆっくりと真実さんに近づいた。
 
 目を開くような気配はまったくなかった。
 長い睫毛はぴったりと閉じているし、胸の上で組まれた両手は、彼女の呼吸にあわせて規則正しく上下に動いている。
 
(こんなに無防備に眠っちゃって……俺以外の奴が来たら、どうするの……?)
 胸を灼くようなその質問には、自ら答えを返す。
 
(誰にも見せたくない……触れさせたくない……俺にはそんなことを思う権利さえないのに……)
 それでも誰にも渡したくないと、思わずにいられない人に向かって手を伸ばしたら、固く閉じていた瞼がふいに開いた。
 
 驚いたように俺の顔を見つめ、何度も何度も瞬きをくり返す仕草の全てが、愛しくてたまらない。
 
「真実さん……迎えに来たよ」
 囁いた瞬間に、真実さんが俺に向かって腕を伸ばした。
 
 他の誰でもない、俺だけに、彼女がこの上なく幸せそうに笑って、自分の全てを委ねてしまうことが嬉しかった。
 
 華奢な体が折れてしまいそうなくらいに、力いっぱい真実さんを抱きしめながら、涙が浮かんできそうに嬉しかった。


 
「どう? 一日早く来てみました……」
 おどけたようにそう告げて、愛梨さんがここまで連れてきてくれた経緯を語る俺の言葉を、真実さんは頷きながら静かに聞いていた。
 
「そうか……愛梨か……」
 納得したようにうんうんと頷きながらも、その横顔はどこか晴れない。
 
(ひょっとして迷惑だったかな……?)
 ちょっと不安になってきたところに、
「海君……」
 と呼ばれて、ホッとする。
 その声はいつものように優しい雰囲気だった。
 
 返事はせずに視線だけを向けると、途端に真実さんの目が泳ぐ。
 心底何かに困っている様子がうかがえたが、それがなんなのかは俺にはまだわからなくて、そのまま彼女のほうから口を開いてくれるのを待った。
 
 真実さんはさんざん迷った末に、その言葉を口にした。
「私ね、明日帰るつもりだったんだけど……」
 
(ああ、なんだ……)
 思わずホッとする。
 予定より一日早く現われた俺に、真実さんは困ってるんだ。
 
(そりゃあ、そうだよな……実家に連れて帰るわけにはいかないだろうし……だからといって、『自分でどうにかして』なんて冷たいことを言うような真実さんじゃないし……)
 
 俺の処遇について迷ってくれていたんだと知ったら、心が軽くなった。
 ついついいつもの調子で、悪戯心が湧いてくる。
 
「真実さん、何で帰るつもりだった?」
 にっこり笑いかけると、真実さんはちょっと慌てた。
 
「えっと……たぶん新幹線かな……?」
 それはそうだろう。
 俺だって真実さんとわかれた一週間前はそのつもりだった。
 でも事情が変わったのだ。
 あの何事にもよく切れる頭脳を持った貴子さんのおかげで――。
 
 俺は笑い出してしまいたい気持ちを必死に抑えて、胸ポケットから、その大切なチケットを取り出した。
「真実さんを迎えに行くんなら、これで帰って来なって、貴子さんがくれたんだけど……」
 
 そう言って、手渡した途端。
 真実さんの目がまん丸に見開いた。
 
(ああ……きっと貴子さんもこの顔が見たかったんだろうな……)
 そう思うと、俺だけが間近で見てしまったのは申し訳ない気もするが、思惑どおり真実さんが驚いてくれたんだから、貴子さんとしては、それだけでもう大成功なのだろう。
 
(今度会ったら、ちゃんと報告しなくちゃ……!)
 心の中で笑いながらそんなことを考えていた俺の耳に、真実さんのため息まじりの声が聞こえた。
 
「すっごい貴子……! どうしてこんな情報まで知ってるんだろ……」
 純粋に感心して、驚いている様子が可愛くて、ついつい顔が綻ぶ。
 
「真実さん、乗ったことあるの?」
 真実さんはブルブルと首を横に振った。
 何かを考えているように、手にしたチケットを裏返し、次の瞬間、ハッと息をのむ声が聞こえた。
 
 ふと見下ろしてみると、『一等洋室』と印字されている箇所を、穴のあくほど凝視している。
 
(ヤバイ!)
 
 真実さんが握りつぶそうとしたそのチケットを、俺は寸前のところで救出した。
 
 もう一度取り返されない位置まで、高く掲げながら、
「今夜、夜中に出発だよ……真実さん、準備間にあいそう?」
 笑う俺の顔を、真実さんが真っ赤になりながら上目遣いに見上げる。
 
「海君! 乗るつもりなの!」
 
(……個室だってことに気がついたんだ! それでこんなに焦ってるんだ!)
 そう思ったら、もう嬉しくってたまらなかった。
 ――だってそれは、真実さんが俺を意識してしまっているしるしだから。
 
「もちろんそうだよ。何? 真実さん嫌なの?」
 当たり前のような顔で、平然と聞き返すと、真実さんは言葉に詰まる。
 
「い、嫌じゃないけど……でも……だって……!」
 焦る様子が、可愛くってたまらなくって、大好きな髪に手を伸ばして、そのままクシャッとかき混ぜた。
 
「心配しなくても大丈夫だよ……俺なら何もしないから!」 
「そうじゃなくて!」
 真っ赤になって、こぶしを握りしめる姿が――ダメだ。
 たまらない。
 
 俺はわざと笑顔をひっこめると、すっと真顔になって、改めて真実さんに問いかけた 
「じゃあ何?」
 もちろん真実さんが、何か答えることなどできるはずない。
 
 真っ赤な顔のまま俯いて、
「いいよ……それで帰る……」
 降参してしまった姿に、もう笑いが止まらなかった。
 
 深く面伏せてしまった頭をポンと叩いて、
「じゃあ、準備しておいでよ……出発は夜の十一時だから、その前に待ちあわせればいいでしょ? 一日早く連れて帰りますって……真実さんの家に俺も挨拶しに行けたらいいんだけど……ゴメンね」
 わざとそんなことを言ってみせると、真実さんは慌てて顔を跳ね上げた。
 
「そ、そんなことしたら、大騒ぎになっちゃって帰るどころじゃなくなっちゃうよ!」
「そうだろうね」
 
 面白かった。
 突然現われた娘の恋人。
 そんな人間に、彼女の家族がどんな反応をするのかを想像してみるのは、確かに面白かった。
 
 でも面白いと思う反面、俺の心はどんどん冷めていく。
 決してそんな場面が現実のものになることはないんだと思うと、すーっと背筋が凍るほどに、心が冷めた。
 
(いつまでも真実さんと一緒にいるんなら、いつかはそんな日だって来るかもしれない……だけど……)
 
 そんな日は決してこない自分の現実を、唇を噛みしめてしっかりと見つめ直す。
 
 自分に残された時間が少ないことを知っている俺には、『いつかは』なんて夢見ること自体が、拷問のように苦しかった。
 
 他の人には当たり前のように与えられているのに、俺にだけは与えられない。
 ――そのあまりの不公平さを、まざまざと思い知らされる。
 
 黒々とした感情に自分の心が塗り潰されていきそうになっているのがわかるから、真実さんと見つめあっていることが苦しかった。
 
(嫌だ……! このままじゃ、絶対見せたくない顔を見せてしまう……!)
 苦しくてたまらない胸でそう思った瞬間、真実さんが俺から目を逸らした。
 
 ホッと安堵する気持ちと同時に、どうしようもない悲しみが俺を襲う。
 
 いつも、いつだって、真っ直ぐに見つめる俺の目からは決して視線を外さなかった真実さんが、目を逸らした。
 ――それはいったいどんなことを意味するんだろう。
 
(やっぱり……無理だね……どんなに取り繕ったって……もうこれ以上、俺たちの関係を続けることは無理だ……!)
 
 それはきっと真実さんを今以上に苦しめることになる。
 傷つけることになる。
 
 そうまでして、自分の想いを通したって、俺には嬉しいことなんか何もない。
 彼女の嬉しそうな笑顔を守ってあげられないんなら、俺が真実さんの傍にいる意味なんて何もない。
 
 ギュッとこぶしを握りこんだ瞬間、真実さんがもう一度俺の目を見つめた。
 迷いを脱ぎ捨てたかのような、真っ直ぐな視線だった。
 
 いつだって一人で悩んで、一人で傷ついて、一人で決心してしまう強い心に頭が下がる。
 最初っから、いつもいつも彼女に守られていたのは俺のほうなんだってことを、思い知らされる。
 
 俺に向かって伸ばされる真実さんの腕を、俺は縋るように掴んだ。
「真実さん……ゴメンね……」
 
 彼女の何もかもに感謝して、ただ抱きしめることしかできないのに、こんな俺にいつもいつも手をさし伸べてくれる人。
 俺にとってはかけがえのない、たった一人の人。 
 
 夢中で抱きしめた俺の腕に負けないくらいの強さで、真実さんも俺を抱きしめ返した。
「謝らないでいいよ……海君……お願い! 謝らないでよ……!」
 
 俺の全てを許してしまう彼女の言葉が、やっぱりありがたくて、どうしようもなく胸に痛かった。
家に帰って準備をしてくるという真実さんを見送ったあとも、俺は一人、その砂浜に残り続けた。
 
 知らない町で他に行く当てもなかったというのが、理由の一つ。
 あと一つは俺がこの場所にたどり着く前に真実さんがそうしていたように、じっくりと自分自身の心と向きあってみたかったからだった。
 砂浜に吸いこまれていく波の欠片を見つめながら、静かに自問自答する。
 
(たとえばもし今日この場所で、真実さんに本当のことを打ち明けたなら……そのあと彼女と離れることが、俺に本当にできるだろうか……?)
 いくら考えてみても、とても前向きな答えが出てきそうにはなかった。
 
(無理だよ……無理だろ?)
 
 しばらくの間会えなかっただけで、自分がいつもどうやって眠りについていたのかさえ思いだせず、真夜中に会いに行ったことを思い出す。
 
(だってもし本当に離れてしまったら……もう小さな約束を交わすことさえできなくなるんだぞ……?)
 
 もしそうなったら、明日から俺は何を支えに生きていくんだろう。
 想像することさえできない。
 見当もつかない。
 
 でも、このままでいいわけがないと――その思いがやっぱり、俺の中では一番大きかった。
 
(苦しそうな真実さんを……辛そうな真実さんを……早く俺から開放してあげたい。それは他の誰でもない、俺にしかできないことなのに……どうして迷う必要がある?)
 
 真実さんを守りたいというのが、いつだって俺の一番の願いだったはずだ。
 その思いに従って行動するならば、答えはサヨナラ以外には何もない。
 それなのに――。
 
(なんてわがままで、自分勝手なんだ……本当に嫌気がさす!)
 自分自身に絶望しながら、真実さんがそうしていたように、俺は砂浜に仰向けに寝転がった。
 
 空は青かった。
 つい今朝方まで病室の窓からぼんやりと眺めていた空より、ずっとずっと青かった。
 
(これを再現したいって思ったら、いったい何色と何色を混ぜたらいいんだ……?)
 目の前に画布があるかのように、俺は右手を空に伸ばす。
 
 浮かぶ雲や飛ぶ鳥をどこに配置するのかなんて、考えなくてもいいようなことを考えようとした瞬間、目の前に見える景色の何もかもが霞むような勢いで、空の青の中に、真実さんの笑顔が浮かんだ。
 
(…………!)
 
 思い浮かべようなんて思ってもいなかったのに、唐突に思い出してしまったから、なおさら現実的に、自分がどれだけその笑顔を大切に想っているのかを思い知らされた。
 
(くそっ!)
 
 忘れようったって、きっと忘れることなんてできやしない。
 確かに俺に向けられていたこの笑顔を、なかったことになんてできるはずがない。
 
(やっぱり無理だよ……!)
 涙で滲む視界の中で空も海も見えなくなっても、真実さんの笑顔だけはいつまでも、俺の頭から消えはしなかった。


 
 遠くの水平線が夕陽に赤く染まり、やがては闇にのまれ、どこまでが海でどこまでが空かわからなくなっても、俺はずっと同じ方向を向いていた。
 
 視覚をほとんど奪われてしまったからだろうか。
 波の音が昼間よりもやけに大きく感じる。
 
 それが果たして波の音なのか。
 それとも自分の体内を流れる血液の音なのか。
 それすらわからないほどに、いつの間にかその場所と一体となっている自分を感じた。
 
(いっそのこと本当に……この海になってしまえたらいいのに……)
 
 真実さんが愛して、俺にその名をわけてくれた海。
 ――この場所になれるのならば、これからもずっと、彼女と共にあり続けることができる。
 
 そう遠くない未来、俺が呆気なく死んでしまったあとも、この海はきっと真実さんを見守り続けるんだから――。
 
(いいな……)
 そんなことをさえ、うらやましく思わずにいられない俺は、きっともう当の昔に自分の限界を超えているんだろう。
 
 暗くなり始めた空に、次々と星明かりが灯り始める。
 一つ二つと数えることさえ断念させるほどの圧倒的な星空に、ただただ息をのんで俺は夜空を見上げた。
 
(凄い!)
 
 海は無理でも、この満天の星の中のどれか一つになら、きっともうすぐなれるはず――そんなことを考えて笑えるほどには、俺の決意は少しずつ固まりつつあった。
 
 気がつけばもうすっかり夜も更けていた。
 
 砂を踏んで誰かが近づいてくる気配を感じるから、俺は砂浜に寝転んだまま、わざと目も開けない。
 俺の隣に腰を下ろし、そっと俺の体に自分の上着を掛けてくれる人は――きっとまちがいなく真実さんだから。
 
 鼻をくすぐるような、あの甘いシャンプーの香りがしたから、俺は頬に触れてきた手を、持ち上げた自分の手ですぐに掴んだ。
 
「やっぱり起きてたの……?」
 
 やっぱりってことは、俺が寝たフリしてたってことを――なんだ――真実さんだってすっかりお見とおしだったわけだ。
 
 少し悔しかったから、掴んだ真実さんの手を自分のほうに引き寄せる。
 華奢なのに柔らかな体が、覆い被さるように俺の上に倒れこんでくる。
 
 ドキリと跳ねた心臓をごまかすように、俺は、
「すっごい星空なんだね……」
 と彼女に問いかけた。
 
 真実さんは俺の上から体を起こすと、すぐに隣にゴロンと寝転んだ。
「うん」
 
「俺……本当にこんな星空……今まで見たことなかったよ」
 
 この感動をどう伝えたらいいのだろう。
 生まれて初めて見るもの。
 それはそれだけでもじゅうぶん過ぎるほどの価値があるのに、真実さんが隣にいてくれることで、俺にとって更に何倍もの意味を持つ。
 
 そんな特別な気持ち。
 どう言って伝えたらいいのか、思うように言葉が出てこない。
 
 口で伝えることを断念して、俺は砂浜の上、手探りで真実さんの手を探した。
 いつだって繋いでいたその手を、様々な想いをこめて握りしめる。
 
「私も……すごくひさしぶりに見たよ……」
 優しい真実さんの声は、いつもよりずっとずっと近くで聞こえる。
 そのことが、全身が痺れるほどに嬉しかった。
 
「この星空も、ぜひ海君に見せたかったんだ……だから一緒に見れて良かった……」
「うん」
 ため息を吐く真実さんの頭に、俺はそっと自分の頭を寄せた。
 
 静かだった。
 ただ波の音だけが聞こえる中、この時間が永遠ならいいのにと、叶うことのない願いだけが頭を過ぎる。
 
 でも永遠なんてない。
 今この時だって、俺に残された僅かな時間は刻々と過ぎ去っていく。
 だから――。
 
 身じろぎしてゆっくりと体を起こす真実さんの邪魔にならないように、俺自身も砂浜に座り直した。
 その間も一瞬足りとも、繋いだ手を放そうとはしなかった自分たちが妙におかしかった。
 
(それが別れの合図だって、お互い確認しあったわけでもないのにね……)
 
 けれど真実さんも俺と同じように、きっとそう感じているのだろう。
 だからこそ放せない。
 今はまだ意地でもこの手は放せない。
 
「海君……」
 ふいに呼びかけられるから、口は開かずに、「何?」と視線だけで返事する。
 
 何かの決意を秘めたように真剣な真実さんの目が、本当は恐くてたまらないから、俺はいっそうなんでもないような顔をする。
 
 何度も口を開きかけ、やっぱり閉じてをくり返した真実さんが、とうとうその言葉を口にした。
 
「海君……ひょっとして、どこか体の調子が悪いの?」
 
 とっさにポーカーフェイスを気取ろうかとも思ったが、やっぱりそれは無理だった。
 もうそんなことに意味はないと、俺にだってわかっている。
 
「お願い。教えて……」
 
 静かに首を横に振りながら真実さんがそう言った瞬間、全てが終わったことを、ズキズキと痛み始めた胸で理解した。
 
「真実さん……」
 
 声がかすれる。
 意を決して彼女の名前を呼んでみたのに、それが自分自身の声だとは、到底信じられない。
 
「本当のことを話したら、今までと同じではいられないって、俺は最初から決めている。それでも……? それでも聞きたい……?」
 
 未練がましく彼女に確かめているのは確かに俺自身だ。
 けれどそんな状況ですら、「嘘だ! 嘘だ!」と否定しながら、どこか遠いところから他人事のように傍観している俺がいる。
 
 今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめる真実さんは、これ以上ないほど悲痛な表情をしていた。
 
(ああ……どうして真実さんにこんな顔をさせなくちゃいけなかったんだろう……どうしてもっと早くに、俺のほうから話してあげなかったんだろう……!)
 
 今頃後悔したって、もう間にあわないのに。
 辛い役目を彼女に押しつけてしまったのは、他の誰でもないこの俺なのに。
 ――このままこの場所に倒れ伏してしまいそうに胸が痛む。
 
(ゴメン真実さん……!)
 心の声と重なるようにして、
 
「海君……いつも無理してたんだよね? 本当はいつだって、無理して私に会いに来てくれてたんだよね……?」
 真実さんが問いかけて来たから、俺は彼女の体をしっかりと抱きしめて、やっと頷くことができた。
 
「うん。そうだよ」
 絞り出すような声で、ようやく本当のことを告げることができた。
 
「俺は生まれつき心臓が悪いんだ……だからずっと入退院をくり返してる。学校にもほとんど行ってない……」
 
 降るような星空の下。
 一旦こぼれ出した言葉は、もう止まらない。
 ずっと言いたくて言えなかった言葉が、俺の中から次から次へと溢れ出てくる。
 
「どれぐらい悪いかと言えば……今こうして生きているのが不思議なくらい……正直、いつ死んでもおかしくないって、医者に言われてるくらい……」
 
 繋いだままの真実さんの手が、ひどく緊張していることがわかるのに、
「もうやめろ!」
 と頭のどこかで自分自身もストップをかけているのに、どうしても止まらない。
 
「海君。ゴメン……もういいよ。もういい……」
 嗚咽まじりの真実さんの声が、あまりにも胸に痛くて、俺は無我夢中で彼女を引き寄せた。
 
「ダメだってわかってるのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……結局こんなふうに泣かすことになるって、最初からわかってたのに……」
 小さな頭を右手で支えて、半ば強引にキスする。
 
 ギュッと目を閉じた真実さんは俺の頬に自分の頬を寄せて、何度も何度も謝った。
「ごめんなさい。ゴメンね、海君……」
 俺の頬を濡らす彼女の涙が愛しかった。
 
「俺の抱えてるものは重過ぎる……それは自分でもよくわかってる。だから、誰とも深く関わりわわないようにして生きてきた。いつ俺が死んでしまっても、誰の心も必用以上には痛まないように、生きてきたつもりなんだ……」
 
 砂浜にもう一度座り直して、真っ暗な海を見つめながら、砂を右手ですくっては、風に流し、またすくい、流し、そんな行動をくり返しながら、俺はまるで他人事のように自分のことを話す。
 
「なのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……俺じゃどうしようもないってわかってたのに、声をかけずにいられなかった。そんな想いって本当にあるんだね……」
 
 いつの間にか自分のことを、笑って話せるようになっていることに気がつく。
 ――諦めにも似た感情で。
 
「俺のことは何も知らせずに、真実さんを守りたかった。ただ傍にいたかった。ゴメン。俺の身勝手に巻きこんで、結局傷つけることになってゴメン……」
 頭を下げると、真実さんが慌てて首を振った。
 
「違う! 傍にいて欲しかったのは私だよ。海君が体調が良くないってなんとなくわかっていても……それでも無理をさせてたのは私のほうだよ……!」
 
(こんなに辛い目にあったって、やっぱり真実さんは俺を許してしまう……卑怯な俺を丸ごと許してしまうんだ……)
 
 優しさが嬉しかった。
 胸はどうしようもなく痛んでるのに、嬉しくてたまらなくて、笑わずにいられない。
 
 感謝の気持ちをこめて、俺は真実さんに笑いかけた。
 ――告げる言葉の真剣さとは裏腹に。
 
「でも不安だったよね……? 本当はいろんなこと、ずっと聞きたくてたまらなかったよね……?」
 そっと彼女を抱き寄せて、胸の中に抱きしめる。
 
「俺も不安だったよ……俺には自分がいつ死んでしまうかの予想もできないから、ひょっとしたら真実さんをもっと傷つけるようなことになるかもって……本当はずっと不安だった……その前に、いなくなったほうがいいのに……早くこの手を放さなきゃって、ずっと焦ってた……なかなか踏んぎりがつかなくて、結局真実さんに辛い役目を任せちゃって……ゴメン」
 
 もう心は決まってた。
 真実さんを俺から解放してあげたい――。
 全ての想いをさらけ出してしまった今、俺の心に残っているのはもう、その想いしかない。
 だから――。
 
「俺に未来はないよ……真実さんに約束できるような未来は持ってないんだ……だから、さよなら……今まで俺のわがままにつきあわせて……ゴメン」
 
 到底言えるはずないといつもいつも思っていた言葉を、思いのほか簡単に告げることができた。
 
 そして、早くそうしてあげなければと思っていたままに、ずっとずっと繋いでいた真実さんの手を、俺は自分の意志で放した。
 
 出会ったあの夜のように、世界から自分と真実さん以外の全てのものが消え去ったかのようだった。
 他には何の気配さえも感じない。
 
 抱きしめていた腕を解いたあとも、俺の目の前に座ったまま、真実さんは微動だにしない。
 大きな黒目がちの瞳をいっぱいに見開いて、ただ真っ直ぐに俺の顔を見つめる。
 
「それは……私とはもう一緒にいれないってこと……?」
 声が震えていることがわかる。
 
「……もう私に会いに来ないの?」
 一つ一つ念入りに確認していく真実さんの消え入りそうな声に、胸はどうしようもなく痛んでいるのに、俺は無情にも無言のまま頷く。
 
「俺と会えないと真実さんが寂しがるからって……もう言ってくれないの?」
 涙混じりの問いかけに、たまらなく胸を灼かれる。
 でも一瞬伸ばしかけた手を、俺は意志の力で止めた。
 
『さよなら』を言った瞬間、俺はもう二度と真実さんに触れないと決めた。
 だからどんなにそうしたくても、もう彼女を抱きしめることはしない。
 
「……ゴメン」
 言葉で謝ることしかできないのが辛くて、俺は俯く。
 
「傍にいても、私には何もできない……? 海君の力にはなれない……?」
 
 真実さんの優しさも気遣いも、こんなに嬉しいのに、もう全部踏みにじることしかできない自分が悔しくて、唇を噛みしめる。
 
「それは…… !でもゴメン……俺は真美さんにだけは、最悪の場合を見せたくないんだ……」
 
 俺の死を必要以上に悲しんで、真実さん自身の人生をだいなしになんかしてほしくない。
 ――それがやっぱり、俺の一番の望みだから。
 
 だから否定の言葉しか彼女に返すことができない。
 それがどうしようもなく苦しかった。
 
 必死に我慢していたであろう涙が一筋、真実さんの頬を伝って落ちる。
 もうそれをすくい取ってやることのできない俺の目の前で、あとからあとから大粒の涙が零れ出す。
 
「泣かないで真実さん……」
 思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
 
(でももうそれはできないから……俺はそう決めたから……! どうか、泣かないで……誰か彼女の涙を止めてくれ……!)
 
「ゴメン……真美さんゴメン……」
 謝ることしかできない俺にゆるく首を振って、真実さんがそっくり同じセリフを返した。
 
「ごめんなさい、海君……」
 そして求めるかのように――俺に腕をさし伸べた。
 
 自分に向かってさし出された細い腕を、呆然とした思いで見つめる。
 
(『誰か』って……本当に他の誰かに、この手を委ねてもかまわないのか……? 俺は本当にそれでいいのか……? こんなにボロボロになっても、真実さんが求めてくれているのは俺だ……他の誰でもない俺なんだ! だったらどうして背を向けなければならない? いったい何のために? 誰のために? ……俺はこれ以上この人を傷つけないといけないんだ? ……真実さんの気持ち以上に大切なものなんて……俺が守るべきものなんて……ありはしないのに!)
 
「謝るのは俺のほうだ……!」
 全ての思いを振り払うかのように頭を振って、俺はもう一度左手で、彼女の右手を掴んだ。
 
 いつも繋いでいたその手と指を絡めた瞬間、真実さんの体中から力が抜けたことがよくわかった。
 俺を取り戻すために、どれだけ懸命にがんばってくれたのかが、よくわかった。
 
(ありがとう真実さん……! 変に意地ばっかり張ってる俺のために……こんなに傷ついても……それでも……また手をさし伸べてくれて……本当にありがとう……!)
 
 言葉にできない想いを行動で示すかのように、俺は彼女の涙を次々とすくい取っていく。
 濡れた頬に、柔らかい唇に触れるたび、愛しさがこみ上げて止まらない。
 
(ダメだ……他の奴になんて渡せない! やっぱり誰にも触れさせたくなんかない!)
 熱に浮かされたように、何度も何度も真実さんにくちづけてから、俺は頭を振った。
 
「ゴメン真美さん……本音を告げずにかっこよくいなくなるなんて……やっぱり俺にはできそうにない……!」
 言葉と同時に、真実さんの体を自分の胸の中に抱きこむ。
 
「一度だけ! 一度だけでいいから本当のことを言わせて……! 忘れてしまってかまわない。聞かなかったことにして、すぐに違う誰かを好きになってもいいから……!」
 もうどうしようもない心からの叫びに、真実さんは俺の腕の中で必死に首を振った。
 
「誰かを好きになんてならない! 私が好きなのは海君だもの! ずっとずっと、海君だけだもの……!」
 
 息が止まりそうになる。
 俺に向けられる真実さんの強い愛情に、確かな想いに、目が眩む。
 
 激情のままに、俺は彼女を抱きすくめた。
 すぐ近くから彼女の目を、真っ直ぐにしっかりと見つめる。
 
「放したくない。俺だって他の誰にも渡したくなんかない……! ずっと隣にいて、俺が真実さんを守りたい! こんなふうに泣かせるんじゃなくって……本当はずっと……ずっと俺が……!」
 
 真実さんの耳元で囁く、今まで誰にも吐露したことはない俺の本心。
 
 もっと生きたい!
 ――なんて、当たり前すぎて誰もが改めて望みもしない願い。
 でも俺にとっては大切な願い。
 
 また真実さんの黒目がちの大きな目から、涙が溢れ出す。
「好きだよ海君……大好きだよ……!」
 
 言葉と同時に、俺の首に腕を伸ばした真実さんが、きっと許してくれたとおり、俺は何度も何度も狂おしいくらいに彼女にキスした。
 
「今までありがとう」
 そう言って俺を見上げた彼女の顔は、涙で濡れてはいたが笑顔だった。
 
「さよなら海君……」
 笑顔でそう告げられたから、この時真実さんも俺と離れる覚悟を決めたことを、俺は悟った。
 
 返事をする代わりに、もう一度真実さんを強く強く抱きしめる。
 想いの強さをこの腕で示すように。
 もう二度と口にしない本当の気持ちを、彼女の心に刻みこむように。
 ――ただ抱きしめた。
 お互いを抱きしめる腕をどちらからともなく解いて、二人で顔を見あわせた。
 
 真実さんが笑ってくれていることだけが、俺にとっては救いだった。
 
 胸は切り裂かれるように痛い。
 それはきっと彼女だって同じだろうに、笑顔を作ってくれるから、この辛い決断が正しかったんだと自分に言い聞かせることができる。
 
「行こうか?」
 
 コクリと頷いてくれる人に、いつもどおり左手をさし出す。
 ――おそらくもう今夜だけしか繋ぐことのない手を。
 
 昼間、簡単な地図を片手にわくわくしながらたどった堤防の道を、今度は二人で歩いた。
 二人っきりの小さな砂浜から出た途端、真実さんはいつものように――いやいつも以上に明るくなったように感じる。
 
「あれが夏の大三角形……それからあれがさそり座でしょう……」
 夜空を見上げたまま、指さしながら歩き続けるから、
「真実さん、堤防から落ちちゃうよ?」
 俺は笑いながら声をかける。
 
「大丈夫。海君がちゃんと手を引いててくれるから……!」
 まったくためらう余地もないほどの、確かな信頼が嬉しかった。
 
 繋いだ手にギュッと力をこめる。
「星に詳しいんだね……」 
「そんなことないよ……知ってるのは有名なのだけだよ……でも……本当にひさしぶりに見た……!」
 
 真実さんがいつも生活しているあの街には、確かにこんなに星が見える場所なんて存在しない。
 夜更けまでネオンが煌々と輝いているんだから、星の光なんて全て霞んでしまう。
 あの街で生まれ育った俺にとっては当たり前のことでも、真実さんにとってはひどく寂しいことだったんじゃないかと想像がつく。
 
「このままここに居たくなったんじゃないの……?」
 ふり返って尋ねてみたら、真実さんはちょっと困ったような顔をした。
「うーん……でも大学卒業までまだ一年半はあるから……その間はがんばらないとね……」
「そっか」
 
 何気ないフリして相槌を打ちながらも、俺はいろんな意味で寂しさを感じずにはいられなかった。
 
 一年半後――真実さんがあの街からいなくなってしまう頃に、俺はまだあの街にいるんだろうか。
 
 答えはきっとNOな気がする。
 
 だからこそ彼女から離れることを決めたのに、彼女があの街を出て故郷に帰ってしまうことさえ寂しく思うなんて、本末転倒だ。
 
(きっとここに帰ってきて、俺のことなんか忘れて、幸せになるんだろうな……)
 それを嫌だと思ってしまう自分が嫌で、軽く首を横に振る。
 
(自分からそうしてほしいって言ったのに……ほんとに俺って自分勝手……!)
 自分が死んだあとの真実さんの未来にまでやきもきしている自分が虚しい。
 
 心の中で小さくため息を吐く俺の耳に、その時思いがけない言葉が飛びこんできた。
「それに……あの街には海君がいるから、離れられない」
 
 ドキリと胸が鳴った。
「俺は……!」
 
「もう今夜までしか一緒にいられない」
 なんて言葉、自分の胸にまで痛くて口にすることができない。
 
 そんなどうしようもない俺に向かって真実さんが笑いかける。
「わかってる。でも……近くにいるんだって、そう思えるだけで……やっぱり嬉しいから……」
「…………!」
 
 泣きそうになる衝動を必死にこらえて、俺も笑顔を作った。
「真実さん……」
 
 呼べば笑い返してくれる。
 大切なものを見るような、優しいまなざしで俺のことを見つめてくれる。
 
 どうしてこんな人がいるんだろう。
 その人がどうして、俺の傍にいてくれたんだろう。
 考えれば考えるほど、喉の奥がぐっと熱くなってくる。
 
「ありがとう……」
 それ以外には、浮かぶ言葉も思いつく言葉もなくて、俺は思いのままにもう一度彼女に笑いかけた。
 
「ううん。私こそありがとう」
 そのまま返されてしまったから慌ててもう一度言い返そうと思ったのに、
「いや、俺だよ……!」
「ううん、私が……!」
 言いあう言葉が偶然重なって、顔を見あわせて二人で大笑いした。
 
「これじゃ埒があかないよ……!」
「本当に!」
 
 嬉しそうに声を弾ませる笑顔が愛しい。
 自然と俺の近くに歩み寄ってきて、繋いでいないほうの手まで、しっかりと握りあった俺たちの手の上に重ねる仕草が愛しい。
 
「これで最後だ」
 なんて悲しい思いは今だけは忘れて、華奢な体を片腕でぎゅっと抱きしめた。
 
「海君……」
 彼女が俺につけてくれた、二人の間だけの俺の呼び名だって、明日からはもう誰にも呼ばれることはない。
 ――そう思うと、もっともっと優しい呼び声を聞いていたかった。
 
「海君……」
 呼びかけられる声にわざと返事をせず、ただ彼女の髪に頬をうずめる。
 
「海君……」
 何度も何度も、ついには真実さんが怒ってしまいそうなくらい、俺はただ、自分でもかなり気に入っていた俺の呼び名を呼ぶ彼女の声を、ずっと聞いていたかった。


 
 真実さんの家の近くにある港でタクシーを拾って、俺たちは隣町にあるというフェリーターミナルへ向かった。
 
「俺……真実さんの実家にも行っとこうかな……?」
 冗談半分の提案は、思ったとおり真実さんに大慌てで却下されてしまったので、そのままこの小さな港町をあとにする。
 
 たとえ知ってる人に会ったって、俺のことをしっかりと紹介してみせるなんて言ってたわりには、真実さんは実に挙動不審で、そんな彼女のためにも、タクシーで移動するのは正解だったと思えた。
 だけど――。
 
「今年の祭りは、いつにも増して賑わったけんのう」
「そうだったんや……」
「帰ってこんかったのか?」
「忙しかったけぇ」
 
 人の良さそうな運転手さんと、真実さんがバックミラー越しに交わしている言葉は、俺の耳には慣れない。
 そのうち俺のことなんかそっちのけで、ローカルな話題に花が咲き出して、一人、おいてきぼり感を感じずにはいられなかった。
 
(あーあ……せっかく最後の夜なのにな……)
 性懲りもなく独占欲ばかりが湧いてくる。
(せっかくなんだから……俺のほうを見ててよ……!)
 わざと怒らせるようなことを言ってこっちを向かせ、俺は多少強引に真実さんにキスした。
 
「海君!」
 狭いタクシーの中での突然のキスに、真実さんは飛び上がりそうにビックリしている。
 ついさっきまで彼女とローカルな話題で盛り上がっていた運転手さんも、慌てて両手でハンドルを握り直し、俺たちから目を逸らす。
 
 名前を呼ばれたことに対し(何?)と瞳だけで問いかけると、真実さんは(何じゃないでしょう!)とやっぱり視線だけで言い返して来た。
 
 そのちょっと怒った顔がたまらなく可愛かったので、もう一度キスしようとしたら、
「海君!」
 必死に俺の体を押し戻しながら叫ばれた。
 
(ダメだ……可愛くってたまらない!)
 両腕で抱きしめてしまいたい思いを、俺は笑うという行為にすりかえた。
 
 車の中にこだまするハハハハッという笑い声。
 真実さんがプイッと俺に背を向ける。
 
 窓の向こうを向いてしまった小さな背中は、かなりの怒りを募らせていたはずなのに、俺が「ゴメンゴメン」と声を上げるよりも早く、またこちらをふり返る。
 嬉しくって思わず、からかうような言い方をしてしまった。
 
「えっ? 真実さん、もう降参……?」
 あきらかに少しムッとした顔をしながらも、真実さんは呟いた。
 
「いいでしょ……別に……」
「もちろんいいよ!」
 
 俺は彼女の手を取った。
 繋ぐことが当たり前になっている手。
 もう少しで、放さなければいけなくなる手。
 
 ――だからこそ今は、繋がずにはいられない。
 
 真実さんが俺の肩にそっと頭を乗せてくる。
 心地いい感触にこの上ない幸せを感じながら、俺もその上に自分の頭を重ねた。
 
 しばらく静かにそうしていた真実さんが、静かに呟く。
「海君とこうしてるとなんだか眠くなる……ドキドキもするんだけど、それよりもっと安心して……幸せすぎて……なんだか眠くなるんだよ……」
 
 実際に今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうな声でそんなことを囁かれると、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。
 
「ああ、そうだね……それはそうかもしれないね……」
 小さな声で同意しながらも、悪戯心を刺激されて、ついつい余計な一言をくっつけずにはいられない。
 
「でもそれでも俺は、やっぱりドキドキのほうが大きいんだけどな……?」
 わざとため息を吐きながら、瞳に力をこめて、真実さんを真っ直ぐに見つめると、彼女は火がついたかのように赤くなった。
 
「もう……! 一生懸命、意識しないようにしてるんだから、そんなふうに言わないでよ……!」
 それはつまり――もうどうしようもなく俺を意識してしまっているということだろうか。
 
 すっかり安心し切って眠ってしまわれた過去を持つ身としては、そんなことをどうどうと宣言されるのは、嬉しい以外の何でもない。
 思わず声が弾む。
 
「どうして? 意識していいよ……意識してよ……?」
 わざと耳元で囁くと、真実さんは顔を上げて、
「海君!」
 抗議するように俺の名前を呼んだ。
 
 その唇に、さっさと自分の唇を重ねてしまう。
 真実さんの体から力が抜けきってしまう感触がした。
 
「……海君どうしたの? なんだか変だよ……? どこか壊れちゃった……?」
 困り顔で尋ねられるから、俺は小さな体をそっと胸の中に抱きこむ。
 
「うん。そうかも……」
 甘い香りのする大好きな髪に顔を埋めて、小さく呟く。
「もう手を繋ぐこともないって思ってたのに、真美さんが俺を望んでくれたから……俺が思ってたのと同じように、手をさし伸べてくれたから……もう制御不能になったかもしれない……ゴメン……こんなじゃダメ?」
 
 腕の中で、真実さんの体が一気に緊張したことがよくわかった。
 何も言葉を返すことができず、真っ赤になって黙りこむ姿が、ひどく愛しかった。
 
「責任取ってよね? 真実さん……」
 耳元に唇を寄せて、とてもとても声を潜めて囁くと、いよいよ困りきっている様子がよくわかる。
 
 ――そんな様子を喜んで見ているあたり、俺は本当に意地悪だ。
 底意地が悪い。
 
 自分で自分に苦笑せずにはいられなかった。
 
 

 フェリーのターミナルに着いて、真実さんが乗船手続きをしている間に、俺は兄貴に電話をかけた。
 
「帰りは絶対に迎えに行くので、連絡するように!」
 という約束どおり、明日の朝早くに着く旨を報告する。
 
 もちろん、フェリーに乗るなんてことは言えなかったので、近くの駅を指定したが、
「わかった。絶対に迎えに行くから、そこにいろ!」
 とあいかわらずもの凄い剣幕で、一方的に約束された。
 
(まったく……過保護だよなぁ……)
 内心苦笑しながら真実さんのところに帰ったら、様々な書類を前に真実さんが途方に暮れていた。
 
「ねえ海君……私に書かせたって、海君の欄にはなんにも書けないよ……?」
 困りきっている真実さんには悪いが、その言葉には思わず吹き出しそうになった。
 
 それはそうだろう。
 俺は彼女に自分のことを何ひとつ教えてはいないのだから――。
 
 氏名。
 住所。
 年齢。
 電話番号。
 何を聞かれても見事なまでに、彼女は本当の俺のことを知らない。
 
 俺はニヤリと笑って言った。
「真実さんと一緒でいいよ……」
 
「そう……?」
 大きくため息を吐きながらも、彼女は俺が言ったとおりに、なんとか書類を文字で埋め始める。
 時折首を捻り、悪戦苦闘しながら、それでも真剣に向きあっている姿がいじらしかった。
 
(ゴメンね……)
 実際に声をかけてやればいいのに、俺は心の中でだけくり返す。
(困らせてばっかりで……ゴメン……)
 それでもこんな俺を許してしまう真実さんに、深い感謝を覚える。
 
 懸命に無理して、これまで俺を守りとおしてきてくれた彼女が、今本当にありがたい。
 
 全部書き終わって提出した真実さんが、ひどく不安そうな顔で俺の顔を見上げた。
「海君……船で移動なんてしてよかったのかな……?」
 
 一瞬、何のことを言われているのかわからなくて首を傾げた俺に、真実さんは必死で問いかける。
「海君、大丈夫なの……? 本当にいいのかな?」
 
 彼女が両手に握りしめている乗船チケットと、それに関する案内に目を落として、何を言わんとしてくれているのかがようやくわかった気がした。
 
 きっと但し書きかなんかで見た『乗船を見あわせていただくお客様』のことを言っているのだろう。
 そういう欄には大抵、『心疾患』と書いてあるはずだから――。
 
「ああ……」
 なるべく真実さんを安心させることができるように、俺はせいいっぱいの笑顔で答えた。
「大丈夫だよ。それで直接どうこうってことはない。結局俺の場合は、どこにいても何をしてても……いい時はいいし……ダメな時はダメになるだけだからさ……」
 
 明るく笑いながら、この上なくヘビーな話をしている自分は、どことなく滑稽ですらある。
 
「いつ『もしも』ってことになっても、とっくの昔に俺の家族は覚悟してるし、俺だって納得してる……あっ! でもちゃんと真実さんには迷惑かけないようにするから……!」
 
 上手くごまかせたと思ったのに、真実さんは俺の口上のまだ途中で、我慢できないとばかりに叫んだ。
「海君!」
 
 両腕を伸ばして、急に俺に抱きついてくる。
 こんな場所で真実さんのほうからこんな行為に出るとは予想もしていなかった俺は、かなり動揺した。
 
「ゴメン。海君もういいよ。ゴメンね……」
 涙声で訴えられたので、不覚にも俺まで涙が浮かびそうになった。
 
「俺こそゴメン……」
 ふうっと小さく息を吐いて、俺も真実さんの体を抱きしめる。
 
 無理していることだって、彼女にはお見とおしなんだったら、もう自然体でいこうと思った。
 残り少ない二人の時間。
 何もかも望めはしない俺にだって、それぐらいは許されるんじゃないだろうか――。
 
「私が守る。海君のことは、私が守るから……」
 決意をこめたような小さいけれど力強い声で、ふいに真実さんがそんなことを言うから、俺は面食らう。
 
 思わず彼女の顔をのぞきこんだ。
「真実さんが?」
 
 ちょっと上目遣いに俺の顔を見上げながら、彼女は俺の腕の中、確かに頷いた。
「そう……私が!」
 
 わかっているのだろうか。
 本当はもうずっと以前から、俺の心が、願いが、希望が、他ならぬ彼女によってずっとずっと守られてきたこと―――。
 
(きっとわかってないんだろうな……)
 
 だからこそこんなに真剣な顔で、またもう一度、
「守ってあげる……」
 と宣言してくれる。
 
 俺にとってはまるで天使のようなその微笑みに、俺もニッコリと笑い返した。
 
 今はまだ、手を伸ばせばすぐに触れることができる俺だけの天使に感謝して、
「へえ……楽しみだな……」
 ゆっくりと首を傾げて、また彼女にキスをした。