特にどこへという目的もなく、自分が生まれ育ったこの街を、ただのんびりと真実さんと手を繋いで歩く。
偶然見つけたものや、ふと考えたこと。
思いつくままにいろんな話をして、なんでもないことにただ笑いあって、そんなごく普通の当たり前の時間が、俺にとってはとてつもなく大切だった。
病院のベッドの上で、思い出だけを何度も頭の中でくり返していた数日間があったからこそ、実感できた幸せだったと思う。
行きたいところに行ける。
やりたいことができる。
大好きな人の隣に居れる。
そんな些細なことにも感謝ができる人生は、本来俺ぐらいの年齢では、そうそう味わえるものではない。
(むしろ得してるって言ったっていいよな……もしこれがこのまま続いていくんなら……)
だけど決してそうはならないだろうってことを、俺はよく知っていた。
きっとしばらくの間だけ。
だからこそ今、一瞬一瞬が輝いて、こんなにも鮮やかなんだろう。
(しばらくっていったって……実際どれぐらいの長さなのかは俺にだってわからない……一年後? 一ヶ月後? まさか一週間後……ってことはないよな……?)
冗談まじりにそんなことを考えていた俺は、まったく別の理由で、今まさにこの瞬間にも、この幸せな日々が突然終わりになるかもしれないってことを、うっかり失念していた。
――いや。
確かに意識のどこかにはあったはずなのに、すっかり油断してしまっていた。
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
真実さんに突然問いかけられた瞬間、何も考えることができなかった。
その前にどんな会話を交わしていたのかさえ、全てが頭の中から吹き飛んだ。
天と地がひっくり返ったような思いで、グッと息をのんだまま、ただ真実さんの顔を見つめる。
あまりに目に力が入り過ぎて、視界が霞んでくるほどに、ただただ見つめることしかできなかった。
子供の頃からの決意とは裏腹に、真実さんと一緒にいることを望んでしまったあの時から、俺には自分の中で決めていたことがある。
それは――真実さんが俺の病気に気がついて何かを尋ねてきたら、その時は隠さずに教えること。
そしてその時を、俺たちのサヨナラの時とすること。
いつかはそんな時が来るんだろうかと、想像するたびこっそり胸を痛めていたその悪夢のような瞬間が、突然目の前に降ってきて、俺は息をするのも忘れてしまうくらい動揺していた。
(どうして……? さすがに最近、無理をした姿ばっかり見せ過ぎた? だけど……!)
激しく脈打ち始めた自分の心臓に言い聞かせるかのように、俺は心の中で叫ぶ。
(とにかく落ち着け! まだ真実さんに、具体的に何かを聞かれたわけじゃないんだから……!)
真実さんは一言言ったっきり、そのあとはなんにも尋ねてこない。
咄嗟の問いかけになんて答えていいかわからなくて、曖昧に笑った俺の顔を一瞬見ただけで、そのあとはこちらを見ようともしない。
苦しかった。
彼女のそんな反応も。
追いつめられた今の状況も。
俺が勝手に一人で取り決めした決意も。
何もかもが胸に食いこんでくるかのように、苦しかった。
(言うべきだよな……今……『そうだよ。俺は心臓が悪いんだよ』って……!)
わかっているのに体がいうことをきかない。
固くかみ締めた唇が、言葉を紡ぎだそうとする俺の意志を、かたくなに拒絶する。
(決めてただろ! ……それがせいいっぱいの真実さんへの誠意になるはずだからって……自分で決めただろ!)
爪が食いこむほどにこぶしを握りしめても、なけなしの勇気をいくらふり絞ろうとしても、俺はどうしても彼女の名前を呼ぶことができなかった。
――ちゃんとした答えを返してあげることができなかった。
投げかけられた質問に何も答えを返せなくて、激しい自己嫌悪に陥ったあの日から、輝いていたはずの日々が、俺にとって苦しいものになった。
自ら立てた誓いを破った俺には、もう真実さんの隣にいる資格がないような気がする。
神前で誓願したわけではなかったが、自分の厳しい決意と引き換えに守っていた大切なものが、もうこれ以上は守れないような――そんな不安をどうしても拭い去ることができなかった。
このまま俺が傍にいたら、真実さんにまで何か良くないことが起こってしまうんじゃ――そんな、なんの根拠もない不安。
(言わなくちゃ……! 早く言わなきゃ!)
思えば思うほど、てのひらの中の幸せを手放すことが恐くなっていく。
真実さんの隣にいて、彼女を守る。
――俺は確かにそう決意したんだったのに、それを失ったなら、これからいったい何のために生きていくんだろう。
想像もつかない。
だからといって、全てをなかったことにするのも苦しかった。
ぐるぐると結論の出ない問題を延々と考え続け、虚ろな数日を過ごしたあと、俺はついに決断した。
――全てを彼女に委ねようと。
もう一度真実さんが俺の体調について尋ねてきたなら、今度こそ必ず本当のことを告げる。
その代わり、真実さんがもう二度と俺の体調の事には触れようとしないんだったら、一度問いかけられたことはサッパリと忘れて、俺も今までのように彼女に接する。
どちらがいいとも、どちらが正しいとも、もう俺には判断さえできない苦しい賭けだった。
「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
いつものように大学からの帰り道。
広い舗道を手を繋いで歩きながら、俺は彼女にそう尋ねた。
ドキリとしたように小さな肩が震えたところを見ると、真実さんだって結局先日のやり取りを気にしていたようだ。
それなのに――。
何度も何度もしつこく食い下がった俺に彼女が最終的にした質問というのは、
「海君……ひとみちゃんって誰?」
というものだった。
てっきり体調のことを尋ねられるとばかり思って、せいいっぱい心の準備をしていた俺は、またしても真実さんに意表をつかれて、すぐには答えを返すことができなかった。
真っ赤になって俯いてしまった彼女を見下ろしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
なんてことを口に出して確認する。
(もちろんあったことはないはずだし……俺が真実さんにひとみちゃんの話なんてするはずないし……)
考えるうちに、ふとあることに思い当った。
いつも真実さんに会う時には電源を切っている携帯電話を、たまたまそのままにしていたある日、ひとみちゃんから電話がかかってきたことがあった。
あの日は――そう。
確か俺が入院するのを忘れて、真実さんと会ってた日だった。
「ああー……あの時か!」
ここ最近ずっとこわばっていた頬が緩んで、自然と笑顔になっていくのが自分でもよくわかる。
俺がすっかり忘れていたような他愛もない出来事を、今こんな場面で思わず口にしてしまうほどに真実さんが気にしていたってことは――それってつまりはどういうことだろう。
考えれば考えるほど――ダメだ。
今日はあんなに真剣な決意をして出てきたっていうのに、まったく不釣あいにどんどん顔がにやけてしまう。
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
思わず尋ねてしまったら、
「し、してないよっ!」
大慌てで反論された。
(ダメだ。嬉しい! これはもうどうしたって……嬉しいに決まってるだろ!)
もし彼女がその場面で感じてくれた感情が、俺が予想したとおりのものなら、もう嬉しくってどうしようもない。
俺が言うと全然しゃれにならないけれど、このまま天国にだってのぼっていってしまいそう。
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
悪戯好きの性根に逆らえず、わざとそう尋ねた俺に、真実さんはもう泣き出しそうな顔で頷いた。
「信じる! 信じるから放して!」
ありがとうの想いをこめて、そのまま真実さんにキスした瞬間、ちょうど俺の胸ポケットでその問題の携帯が鳴りだした。
(なんなんだ、このタイミングの良さ!)
俺から逃げ出してしまいそうになった真実さんを急いで捕まえて、俺は誰からの着信なのかだけ確認する。
(兄貴か……ゴメン後でかけ直す!)
心の中で頭を下げながら電源を切ったら、真実さんが小さな悲鳴を上げた。
「えっ! 出ないの?」
その声が、表情がたまらない。
俺はもう感情のままに大きく笑いながら、
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
なんて答えてしまう。
思ったとおり真実さんは、
「しないわよ!」
と、また今にも泣きだしそうな顔で叫んだ。
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
そう、ヤキモチ――真実さんが俺に関して、本当にそんな感情を抱いてくれたんだとしたら、もう他のことなんてどうでもいい。
「好きだよ」って気持ちを伝えてもらった時とはまた違う意味で、嬉しくて嬉しくて――マズイ。
きっとこのままじゃ照れ屋の真実さんを追いつめてしまうってわかってるのに、もう止まらない。
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
またしても思ったとおり。
真実さんは遂に俺の腕の中から逃げだした。
「真実さん待って」
ここからはまた、いつもと同じ追いかけっこが始まる。
だけどそんなこと、全然苦じゃなかった。
こんな――天にも上りそうなくらい軽い気持ちで、また彼女の名前を呼べるようになるとは思ってもいなかった。
「ねえ真実さん。待ってよ」
本当に真実さんには、いつもいつも救われてばかりだ。
繋いだ手をもうこれで離さなきゃって俺が思いつめた時には、決まって真実さんが、もう一度手をさし伸べてくれる。
ズルイ俺に、不甲斐ない俺に、もう一度チャンスをくれる。
今俺がどんなにホッとした気持ちで、サラサラと揺れる短い髪をゆっくりと歩いて追いかけているのかなんて、きっと真実さんにはわからないだろう。
その小さなうしろ姿に、どんなにいつもいつも感謝しているのかなんて、伝わらないだろう。
だから――。
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
何度も何度も呼びかけた。
俺に出来るせいいっぱいのこと――言葉だけで、懸命に彼女を追いかけた。
優しい真実さんは結局、いつもしばらくすると俺を心配して足を止めてしまう。
そこにはやっぱり、俺の体調を訝る思いがあるんだろうけれど、彼女が問わないのなら、俺のほうからはもう何も話はしない。
今朝、そう決めて家を出てきたとおりに、俺は今までどおりに真実さんに接することにした。
ゆっくりと歩いて真実さんを追いながら、見るともなしに周りを見ていると、壁に何枚も貼られたポスターが目に飛びこんで来る。
『海――私の心に残るふるさと』
彼女が俺につけてくれた、そして俺の本当の名前にも含まれている『海』が題名のそのポスターを真実さんにも見せたくって、俺は声をかける。
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
でも無理だ。
真実さんは一向に止まる気配がない。
俺は彼女のあとを追いながら、何度も呼びかけた。
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
真っ直ぐに前を見たまま、わき目も振らずに歩き続けていた真実さんの歩みが、次第に遅くなる。
(よし!)
俺の言葉が届いたというよりは、俺を心配して歩みを止めてくれた真実さんに、今日何度目かわからない感謝をしながら、俺は足を早めた。
瞬間。
ズキリと痛んだ心臓に、ぐらりと眩暈がした。
(なん……だ? 今の?)
まさかこのまま発作が起きるのかと思わず足を止めたが、そんなことはなかった。
痛んだのはその一瞬だけで、呼吸も苦しくはならなかったし、すぐにまた歩きだせた。
(なんだったんだろう……?)
不安を感じながらも、俺はとりあえずは自分を待ってくれている真実さんの背中に、ゆっくりと歩み寄った。
真実さんにポスターのことを教えて、そこに載っていた写真展に行って、真実さんが故郷に帰った時には、そこまで俺が迎えに行く約束をした。
どうして真実さんが俺に『海』って名づけたのかを尋ねてみて、また泣きそうなくらい嬉しい気持ちをもらった。
俺が朝予想していたのとはまったく違ったものになった一日は、あまりにも嬉しいことだらけで、なんだか恐いくらいだった。
そして俺のその気持ちは――決してまちがいではなかったと思い知らされる。
翌々日の定期検診で、俺は石井先生に二度目の入院を言い渡された。
あいかわらず先生は
「発作が起きたわけでもないし、またすぐに退院できるよ」
と笑ってくれたが、前回の入院から二週間も経っていないことが重く心にのしかかる。
どんなに真実さんが幸せな気持ちを与えてくれるからって、それにこのまま甘えているわけにはいかないんだと、俺はやっぱり思い知った。
胸に痛く――刻みこまれた。
偶然見つけたものや、ふと考えたこと。
思いつくままにいろんな話をして、なんでもないことにただ笑いあって、そんなごく普通の当たり前の時間が、俺にとってはとてつもなく大切だった。
病院のベッドの上で、思い出だけを何度も頭の中でくり返していた数日間があったからこそ、実感できた幸せだったと思う。
行きたいところに行ける。
やりたいことができる。
大好きな人の隣に居れる。
そんな些細なことにも感謝ができる人生は、本来俺ぐらいの年齢では、そうそう味わえるものではない。
(むしろ得してるって言ったっていいよな……もしこれがこのまま続いていくんなら……)
だけど決してそうはならないだろうってことを、俺はよく知っていた。
きっとしばらくの間だけ。
だからこそ今、一瞬一瞬が輝いて、こんなにも鮮やかなんだろう。
(しばらくっていったって……実際どれぐらいの長さなのかは俺にだってわからない……一年後? 一ヶ月後? まさか一週間後……ってことはないよな……?)
冗談まじりにそんなことを考えていた俺は、まったく別の理由で、今まさにこの瞬間にも、この幸せな日々が突然終わりになるかもしれないってことを、うっかり失念していた。
――いや。
確かに意識のどこかにはあったはずなのに、すっかり油断してしまっていた。
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
真実さんに突然問いかけられた瞬間、何も考えることができなかった。
その前にどんな会話を交わしていたのかさえ、全てが頭の中から吹き飛んだ。
天と地がひっくり返ったような思いで、グッと息をのんだまま、ただ真実さんの顔を見つめる。
あまりに目に力が入り過ぎて、視界が霞んでくるほどに、ただただ見つめることしかできなかった。
子供の頃からの決意とは裏腹に、真実さんと一緒にいることを望んでしまったあの時から、俺には自分の中で決めていたことがある。
それは――真実さんが俺の病気に気がついて何かを尋ねてきたら、その時は隠さずに教えること。
そしてその時を、俺たちのサヨナラの時とすること。
いつかはそんな時が来るんだろうかと、想像するたびこっそり胸を痛めていたその悪夢のような瞬間が、突然目の前に降ってきて、俺は息をするのも忘れてしまうくらい動揺していた。
(どうして……? さすがに最近、無理をした姿ばっかり見せ過ぎた? だけど……!)
激しく脈打ち始めた自分の心臓に言い聞かせるかのように、俺は心の中で叫ぶ。
(とにかく落ち着け! まだ真実さんに、具体的に何かを聞かれたわけじゃないんだから……!)
真実さんは一言言ったっきり、そのあとはなんにも尋ねてこない。
咄嗟の問いかけになんて答えていいかわからなくて、曖昧に笑った俺の顔を一瞬見ただけで、そのあとはこちらを見ようともしない。
苦しかった。
彼女のそんな反応も。
追いつめられた今の状況も。
俺が勝手に一人で取り決めした決意も。
何もかもが胸に食いこんでくるかのように、苦しかった。
(言うべきだよな……今……『そうだよ。俺は心臓が悪いんだよ』って……!)
わかっているのに体がいうことをきかない。
固くかみ締めた唇が、言葉を紡ぎだそうとする俺の意志を、かたくなに拒絶する。
(決めてただろ! ……それがせいいっぱいの真実さんへの誠意になるはずだからって……自分で決めただろ!)
爪が食いこむほどにこぶしを握りしめても、なけなしの勇気をいくらふり絞ろうとしても、俺はどうしても彼女の名前を呼ぶことができなかった。
――ちゃんとした答えを返してあげることができなかった。
投げかけられた質問に何も答えを返せなくて、激しい自己嫌悪に陥ったあの日から、輝いていたはずの日々が、俺にとって苦しいものになった。
自ら立てた誓いを破った俺には、もう真実さんの隣にいる資格がないような気がする。
神前で誓願したわけではなかったが、自分の厳しい決意と引き換えに守っていた大切なものが、もうこれ以上は守れないような――そんな不安をどうしても拭い去ることができなかった。
このまま俺が傍にいたら、真実さんにまで何か良くないことが起こってしまうんじゃ――そんな、なんの根拠もない不安。
(言わなくちゃ……! 早く言わなきゃ!)
思えば思うほど、てのひらの中の幸せを手放すことが恐くなっていく。
真実さんの隣にいて、彼女を守る。
――俺は確かにそう決意したんだったのに、それを失ったなら、これからいったい何のために生きていくんだろう。
想像もつかない。
だからといって、全てをなかったことにするのも苦しかった。
ぐるぐると結論の出ない問題を延々と考え続け、虚ろな数日を過ごしたあと、俺はついに決断した。
――全てを彼女に委ねようと。
もう一度真実さんが俺の体調について尋ねてきたなら、今度こそ必ず本当のことを告げる。
その代わり、真実さんがもう二度と俺の体調の事には触れようとしないんだったら、一度問いかけられたことはサッパリと忘れて、俺も今までのように彼女に接する。
どちらがいいとも、どちらが正しいとも、もう俺には判断さえできない苦しい賭けだった。
「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
いつものように大学からの帰り道。
広い舗道を手を繋いで歩きながら、俺は彼女にそう尋ねた。
ドキリとしたように小さな肩が震えたところを見ると、真実さんだって結局先日のやり取りを気にしていたようだ。
それなのに――。
何度も何度もしつこく食い下がった俺に彼女が最終的にした質問というのは、
「海君……ひとみちゃんって誰?」
というものだった。
てっきり体調のことを尋ねられるとばかり思って、せいいっぱい心の準備をしていた俺は、またしても真実さんに意表をつかれて、すぐには答えを返すことができなかった。
真っ赤になって俯いてしまった彼女を見下ろしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
なんてことを口に出して確認する。
(もちろんあったことはないはずだし……俺が真実さんにひとみちゃんの話なんてするはずないし……)
考えるうちに、ふとあることに思い当った。
いつも真実さんに会う時には電源を切っている携帯電話を、たまたまそのままにしていたある日、ひとみちゃんから電話がかかってきたことがあった。
あの日は――そう。
確か俺が入院するのを忘れて、真実さんと会ってた日だった。
「ああー……あの時か!」
ここ最近ずっとこわばっていた頬が緩んで、自然と笑顔になっていくのが自分でもよくわかる。
俺がすっかり忘れていたような他愛もない出来事を、今こんな場面で思わず口にしてしまうほどに真実さんが気にしていたってことは――それってつまりはどういうことだろう。
考えれば考えるほど――ダメだ。
今日はあんなに真剣な決意をして出てきたっていうのに、まったく不釣あいにどんどん顔がにやけてしまう。
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
思わず尋ねてしまったら、
「し、してないよっ!」
大慌てで反論された。
(ダメだ。嬉しい! これはもうどうしたって……嬉しいに決まってるだろ!)
もし彼女がその場面で感じてくれた感情が、俺が予想したとおりのものなら、もう嬉しくってどうしようもない。
俺が言うと全然しゃれにならないけれど、このまま天国にだってのぼっていってしまいそう。
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
悪戯好きの性根に逆らえず、わざとそう尋ねた俺に、真実さんはもう泣き出しそうな顔で頷いた。
「信じる! 信じるから放して!」
ありがとうの想いをこめて、そのまま真実さんにキスした瞬間、ちょうど俺の胸ポケットでその問題の携帯が鳴りだした。
(なんなんだ、このタイミングの良さ!)
俺から逃げ出してしまいそうになった真実さんを急いで捕まえて、俺は誰からの着信なのかだけ確認する。
(兄貴か……ゴメン後でかけ直す!)
心の中で頭を下げながら電源を切ったら、真実さんが小さな悲鳴を上げた。
「えっ! 出ないの?」
その声が、表情がたまらない。
俺はもう感情のままに大きく笑いながら、
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
なんて答えてしまう。
思ったとおり真実さんは、
「しないわよ!」
と、また今にも泣きだしそうな顔で叫んだ。
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
そう、ヤキモチ――真実さんが俺に関して、本当にそんな感情を抱いてくれたんだとしたら、もう他のことなんてどうでもいい。
「好きだよ」って気持ちを伝えてもらった時とはまた違う意味で、嬉しくて嬉しくて――マズイ。
きっとこのままじゃ照れ屋の真実さんを追いつめてしまうってわかってるのに、もう止まらない。
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
またしても思ったとおり。
真実さんは遂に俺の腕の中から逃げだした。
「真実さん待って」
ここからはまた、いつもと同じ追いかけっこが始まる。
だけどそんなこと、全然苦じゃなかった。
こんな――天にも上りそうなくらい軽い気持ちで、また彼女の名前を呼べるようになるとは思ってもいなかった。
「ねえ真実さん。待ってよ」
本当に真実さんには、いつもいつも救われてばかりだ。
繋いだ手をもうこれで離さなきゃって俺が思いつめた時には、決まって真実さんが、もう一度手をさし伸べてくれる。
ズルイ俺に、不甲斐ない俺に、もう一度チャンスをくれる。
今俺がどんなにホッとした気持ちで、サラサラと揺れる短い髪をゆっくりと歩いて追いかけているのかなんて、きっと真実さんにはわからないだろう。
その小さなうしろ姿に、どんなにいつもいつも感謝しているのかなんて、伝わらないだろう。
だから――。
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
何度も何度も呼びかけた。
俺に出来るせいいっぱいのこと――言葉だけで、懸命に彼女を追いかけた。
優しい真実さんは結局、いつもしばらくすると俺を心配して足を止めてしまう。
そこにはやっぱり、俺の体調を訝る思いがあるんだろうけれど、彼女が問わないのなら、俺のほうからはもう何も話はしない。
今朝、そう決めて家を出てきたとおりに、俺は今までどおりに真実さんに接することにした。
ゆっくりと歩いて真実さんを追いながら、見るともなしに周りを見ていると、壁に何枚も貼られたポスターが目に飛びこんで来る。
『海――私の心に残るふるさと』
彼女が俺につけてくれた、そして俺の本当の名前にも含まれている『海』が題名のそのポスターを真実さんにも見せたくって、俺は声をかける。
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
でも無理だ。
真実さんは一向に止まる気配がない。
俺は彼女のあとを追いながら、何度も呼びかけた。
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
真っ直ぐに前を見たまま、わき目も振らずに歩き続けていた真実さんの歩みが、次第に遅くなる。
(よし!)
俺の言葉が届いたというよりは、俺を心配して歩みを止めてくれた真実さんに、今日何度目かわからない感謝をしながら、俺は足を早めた。
瞬間。
ズキリと痛んだ心臓に、ぐらりと眩暈がした。
(なん……だ? 今の?)
まさかこのまま発作が起きるのかと思わず足を止めたが、そんなことはなかった。
痛んだのはその一瞬だけで、呼吸も苦しくはならなかったし、すぐにまた歩きだせた。
(なんだったんだろう……?)
不安を感じながらも、俺はとりあえずは自分を待ってくれている真実さんの背中に、ゆっくりと歩み寄った。
真実さんにポスターのことを教えて、そこに載っていた写真展に行って、真実さんが故郷に帰った時には、そこまで俺が迎えに行く約束をした。
どうして真実さんが俺に『海』って名づけたのかを尋ねてみて、また泣きそうなくらい嬉しい気持ちをもらった。
俺が朝予想していたのとはまったく違ったものになった一日は、あまりにも嬉しいことだらけで、なんだか恐いくらいだった。
そして俺のその気持ちは――決してまちがいではなかったと思い知らされる。
翌々日の定期検診で、俺は石井先生に二度目の入院を言い渡された。
あいかわらず先生は
「発作が起きたわけでもないし、またすぐに退院できるよ」
と笑ってくれたが、前回の入院から二週間も経っていないことが重く心にのしかかる。
どんなに真実さんが幸せな気持ちを与えてくれるからって、それにこのまま甘えているわけにはいかないんだと、俺はやっぱり思い知った。
胸に痛く――刻みこまれた。