目を覚ました途端に、真実さんは上からのぞきこんでいた俺の顔に手を伸ばした。
 頬にそっと触れて、
「会いたかったよ」
 と消え入りそうな声で囁く。
 
 その儚げな笑顔がたまらなく胸に痛かった。
 
 涙が浮かんできそうな衝動を必死にこらえて、真実さんの手に、自分の手を添える。
「俺もだよ」
 せいいっぱいの想いをこめて、そう返した。
 
 しばらく俺の顔をぼんやりと見上げていた真実さんの目が、次第に揺らぎ始める。
 俺の顔から部屋の天井、そこから部屋の壁、見つめる先を変えるたびに、どんどん動揺していくのが手にとるようにわかる。
 
(ひょっとして、寝ぼけてたのかな……?)
 
 そうに違いない。
 そうでなければ意外と照れ屋で意地っ張りな真実さんが、俺の顔を真っ直ぐに見上げて「会いたかった」なんて言うはずがない。
 焦りを含んできた顔をじっと見下ろしていると、自然と頬が緩んでくる。
 
「一応、私もここにいるんだけどね……なに? 真実、気がついたの?」
 背後から貴子さんのちょっと不機嫌な声が聞こえた。
 
 真実さんは瞳をまん丸に見開いて慌てて飛び起きようとし、
「痛っ」
 と悲鳴を上げて動くのを止めた。
 
 かわいそうに、と思うのに――ダメだ。
 笑いが止まらない。
 
「海君?」
 そんな困り切ったような表情で俺を見上げないで。
 わざと意地悪して、すました顔で、
「うん。なに?」
 なんて答えてしまうから。
 
 真っ赤になって、俺の頬に添えた手をひっこめようとしないで。
 決して離さないように、ますます強く掴んでしまうから。
 
「真実も大丈夫そうだし、お邪魔になるのもなんなんで……じゃ、私はそろそろ帰ろっかな……」
 俺のうしろで立ち上がる貴子さんに、真実さんはまるで助けを求めるような顔を向ける。
 
(そんな顔しなくたって……)
 少なからず傷つく俺に、貴子さんが釘を刺すように言う。
 
「おい。相手は怪我人なんだから、無茶するなよ少年。真実の悲鳴が聞こえたら、私がすぐに飛んでくるからな」
 
 もちろん『無茶』するつもりなんか始めっからないのに、あえてそうつけ加えられると、むくむくと変な負けん気が起きてしまう。
 
「貴子!」
 講義の声を上げた真実さんを、抱き起して抱きしめて、
「はい。約束はできないけど、努力はします」
 聞きようによってはどうとでも取れる言葉を、ニッコリ笑いながら貴子さんに返した。
 
「海君!」
 真実さんの叫びは、悪いけど今だけは無視だ。
 
 ふり返った貴子さんは何かを探るように、しばらくじっと俺の顔を見つめていた。
 それはきっと、さっきまで二人で話していたことの確認。
 ――真実さんをこれ以上傷つけないように。彼女が幸せになるためにはどうしたらいいのかちゃんと考えろという指令。
 
 俺はできる限り真剣な顔で、貴子さんを見つめ返した。 
(絶対に忘れませんから! 自分の引き際はちゃんと見極めますから!)
 
 クルリと貴子さんが俺たちに背を向けた。
「よし。じゃあとはよろしく!」
 うしろ手に手を振りながら、さっさと部屋から出て行ってしまう。
 
 バタンとドアの閉まる音に、ビクリと真実さんの体が震える。
 恐る恐る俺を見上げた顔が、かわいそうなくらい途方に暮れていた。
 
「海君は……まだ帰らないの……?」
 いかにも帰ってほしいと言わんばかりにそう尋ねられると、 
「うん。今日はひさしぶりだし……もう少し傍にいるよ……」
 ついつい笑顔でそう答えてしまう。
 
 とは言え、狭い部屋に身動き取れない真実さんと二人っきりで取り残されて、実際途方に暮れていたのは、俺のほうだった。
 


 誰かを好きになったら、その人を手に入れたいと思うのは当然で、触れたいと思うのも当たり前のことなのかもしれない。
 でも俺は自分がそんな感情を持つことに、罪悪感しかない。
 
 ずっと一緒にいることもできないのに、その場の感情だけで俺が突っ走ってしまったら、真実さんを傷つけるだけだ。
 悲しい思いをさせてしまうだけだ。
 
 だからそんなこと、初めから望んだりしないように、せいいっぱい自制して接しているのに、二人きりでこんなに寄り添っているのは、ある意味拷問かもしれない。
 ずっとずっと真実さんを抱きしめていたいけれど、俺にその資格はない。
 
(それに俺は、真実さんを守ってやることができなかったんだから……)
 その事実が胸に痛かった。
 
「……海君」
 ふいに真実さんが俺を呼ぶ。
 ゆっくりと視線を向けた先では、彼女がとっても心配そうな顔で俺を見上げていた。
 
(自分のほうがひどい状況だっていうのに、真実さんはいつだって俺の心配ばっかりだ……)
 
 優しい人。
 俺にとっては出会えたことが奇跡みたいな――俺の全てを包みこんで許してしまう人。
 いつだって甘えてばかりで、守りたいって気持ちばかりで、俺は結局何一つ真実さんに返せてなどいない。
 
「……海君」
 もう一度呼ばれたから、小さく笑って、その傷ついた体をそっとベッドの上に横たえた。
 離したくないという俺の感情だけで、彼女に無理をさせたらいけないと、形ばかり格好をつける。
 
「海君は何も悪くないよ……」
 胸が締めつけられるように痛かった。
 自分の一言がどれだけ俺を救ってくれるのか、真実さんはわかってるんだろうか。
 いや、きっとわかってなどいないのだろう。
 
 それでも無意識のうちに、俺がその時一番欲しい言葉をくれる。
 どうしてこんな優しい人が、俺の傍にいてくれるんだろう。
 ――何ひとつ成し遂げることもできはしない、こんな俺なんかの傍に。
 
「でも……ゴメン……」
 自分を戒めるかのように、俺は首を横に振った。
 
「海君が謝ることは、なにもないんだよ……?」
 優しい言葉が、底なしに優しい言葉が俺を慰めてくれる。
 でもそれに甘えてしまってはいけない。
 自分の無力さを忘れてはいけない。
 
「でも……守ってあげられなかったから……」
 詫びるように、後悔するように、俺は真実さんの髪を指先でそっと梳いた。
 真実さんは俺の目の前で、まるで安心しきったように無防備に目を閉じた。
 
「ありがとう。でも大丈夫……海君がそんなふうに思ってくれてるだけで、私は本当に幸せだから……」
 息が止まりそうだ。
 必死にこらえていないと思わず愛しさが溢れ出して、彼女に手を伸ばしてしまいそうになる。
 
「大丈夫だよ……私は大丈夫だから心配しないで……ね?」
 お願いだから、俺をそんなに信用しないで。
 キミために何ひとつできやしないこんな俺を、どうか許してしまわないで。
 
「でも……できるつもりでいたんだ……せめて真実さんを守るくらいは、俺にもさせてもらえるんじゃないかって……勝手にそう思い上がってた……!」
 結局本音がもれる。
 
 真実さんが目を閉じていてくれたのが、せめてもの救いだった。
 らしくもなく感情を吐露する姿は、おかげで見られなくて済む。
 
「俺はこんなにも無力だ。ちっぽけで、何も望めない存在だ。だけどたった一人だけ、真実さんのためにだけは、何かができるんじゃないかと思ってたのに……きっと俺はそのために生まれてきたんだって、ようやく胸を張って言えるって思ってたのに……!」
 
 かなわなかった希望。
 打ち砕かれた願い。
 あまりにも無力な自分。
 
(俺は真実さんの隣にいるのにふさわしくない……ふさわしくなんかないんだ……!)
 
 貴子さんと約束した引き際を、最早すぐ目の前に感じたその時、真実さんがまた苦しい喉を無理やり使って声を出した。
 
「私は、何度も何度も助けてもらったよ……? 海君のおかげで、今の私があるよ……?」
 つうっと一筋、閉じたままの真実さんの長い睫毛から、涙が頬を伝って落ちる。
 
「海君がいなかったら今の私はいないよ。だから海君は無力なんかじゃない……いつだって海君がいてくれるおかげで、私はこうやって笑えるんだから……」
 そして言葉のとおり、――目を閉じまま彼女は笑った。
 
(真実さん!)
 
 胸が切り裂かれるように痛かった。
 ギリッと奥歯を噛みしめて、どこにいるのかわからない「誰か」に乞い願う。
 悲鳴を上げるかのように心の中で叫ぶ。
 
(お願いだ……一生に一度のお願い……! だから……この人を俺に下さい。他には何も望まない。俺はもうほんとうに他には何もいらないから! ただ真実さんだけ――。俺に――!)
 
 激情のままに彼女に頬を寄せようとして、ゆっくりと目を開いた真実さんと、今までとは比べものにならないほど近くで見つめあった。
 驚いたように、とまどったように、それでも決して俺から逃げようとはせず、もう一度目を閉じた真実さんに、もっと近づこうと思って、――そして俺は、やっぱり思い止まった。
 
(俺にはもう時間がない。……そう……時間がないんだ。そのことを忘れるな……!)
 自分自身の心の声が、俺の行動に待ったをかけた。
 
 ふっと自嘲気味に笑ってから、真実さんの耳元で小さな声で囁く。
 もう二度とは言わないつもりで、たった一度だけ、俺の本心を伝える。
 
「……ありがとう真実さん。何も望めないってわかっていても……やっぱり俺は、真実さんだけは望まずにいられない……できるなら俺のものにしてしまいたい……!」
 そして、彼女の近くからそっと身を退いた。
 
(終わった…)
 安堵とも悲しみともつかない感情で、ずっと握りしめていたこぶしを解いた。
 
 しばらくそのまま目を閉じていた真実さんが、ゆっくりと瞼を開ける。
 少し離れた位置に座り直した俺の姿を確認して、涙が幾つも幾つも大きな瞳から零れ落ちた。
 
(泣かせたくなんかないのに……! ゴメン!)
 自分の感情に引きずられそうになって、彼女を巻きこんだことを、心からすまなく思う。
 
 そんな俺に向かって真実さんはベッドの上に起き上がり、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「真実さん!」
 驚いて押し止めようとした俺の手を、真実さんはゆっくりと潜り抜けた。
 そしてそのまま俺の近くに、――ついさっき俺が我を忘れて近づいてしまったぐらいまで近くに――来てくれる。
 
 惹かれるままに頬に伸ばした俺の手を、彼女は避けたりしなかった。
(どうして……!)
 俺が本当に望んでいることを、この人は受け入れて許してしまうんだろう。
 それがたとえどんなことでも――。
 
 俺にはそんな資格はない。
 ないってことは、誰よりも自分が一番よくわかっている。
 
 なのに、ダメだ。
 弾けそうに高鳴り始めた心音と同じで、もう自分で自分が止められない。
 
「でも、真実さん……本当に俺には、そんな権利ないんだよ……真実さんに触れる資格なんてないんだよ……」
 
 最後の悪あがきのような俺の言葉にも、真実さんはふわっと笑った。
 それは俺の大好きな、優しい優しい笑顔だった。
 
「権利とか資格とか……よくわからないけど、そんなものは私のほうにこそないと思う。海君が気にすることじゃないよ。でもなんだか意識しすぎちゃうから……やっぱりいつもみたいに戻ろう……?さっきのは聞かなかったことにするから、海君も忘れて……!」
 
 何もかもを許さないで。
 そんなに悲しそうな目で笑う真実さんに、俺は最後の幕引きまでさせたいわけじゃない。
 
 ――俺の本当の願いは、そう、そんなことじゃない。
 
「でも俺は真実さんに触れたい。俺のものにしてしまいたい。その気持ちだって本当なんだ……」
 
 もう決める。
 勝手に決める。
 
 俺は負けないから。
 絶対に諦めないから。
 
 真実さんを泣かさないために、もっと努力するし、もっとがんばる。
 だから――ゴメン。
 
「海君。言ってることがめちゃくちゃだよ……!」
 笑いながら俺に伸ばされた真実さんの細い手をそっとつかんで、引き寄せる。
 抵抗もなく寄り掛かってくる体を抱き締めて、
 
「……海君?」
 見上げてくる真実さんの瞳に近づく。
 
 もっと。
 もっと。
 自分が本当に望むままに――。
 
(ゴメン。覚悟とか、負い目とか、資格とか、いろいろ考えたって……やっぱり俺は真実さんが好きなんだ。……誰よりもあなたが好きなんだ……!)
 
 絶対触れてはいけないとあんなに自分を戒めていたのに、俺はやっぱり真実さんにキスをした。
 
 ――これが罪だって言うんなら、俺はどんな罰だって受ける。