それでもキミに恋をした

 まるで体全部が心臓になったかのように、頭の奥のほうにまで心音が鳴り響く。
 大きく息を吸って吐いてをくり返しながら、俺はただ全身を流れ落ちる汗の感覚だけに神経を集中していた。
(大丈夫……大丈夫だ……!)
 ――自分自身に言い聞かせるかのように。
 
 幸い、激しい動悸は発作にまでは到らなそうだ。
 祈りが効いたのか、効かなかったのか。
 それはわからないが、とりあえず『神様』には感謝しておく。
 
 苦しい胸を押さえながら連絡した刑事さんも、すぐに駆けつけると言ってくれた。
 これでもし俺がここからいなくならなければならなくっても、真実さんが一人きりになることはない。
 ほんの少しだけ安堵した。
 
 座りこんでいた場所から、階段の手すりにすがって立ち上がり、真実さんの部屋をふり返った。
 部屋の奥のほうに、一人で一生懸命に散らかった物を片づけようとしている、小さな背中が見えた。
 
(真実さん……)
 さっき彼女の写真を見つけた紙の山は、あえて視界から外すように努力する。
 それでもそのことを思い出すと、また胸が苦しくなってきて、辛くてどうしようもない。
 
 見つめ続ける俺の視線に気がついたかのように、真実さんがふとこちらをふり向いた。
 泣いているような黒目がちの大きな瞳。
 その瞳とこんなに苦しい気持ちで見つめあったのは、これが初めてだった。
 
(真実さん……!)
 俺がどんなに望んでも本当には手に入れられない人。
 ――彼女を守れるべき立場にいるのに、こうして傷つけることしかしないあの男が、憎くて憎くて目が眩みそうだった。


 
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
 すぐに駆けつけてくれた村岡さんというその刑事さんは、本当に悲しそうな顔で真実さんと向きあい、俺にまで、申し訳なさそうに小さく頭を下げてくれた。 
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。君にもよく考えてほしい……」
 
 あの男を訴えることに、俺だったらなんのためらいもない。
 でも真実さんはどんなふうに考えているんだろう。
 ――それを思うだけで、もう苦しい。
 
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私がしばらく見張っておくから」
 村岡さんの勧めにしたがって真実さんは愛梨さんに連絡を取り、今夜からしばらく彼女の部屋に身を寄せることになった。
 いつまたあの男がやって来るかもしれないこの部屋に、真実さんを一人残しておくのは俺だって心配だったから、正直ホッとした。
 
 村岡さんと一緒に真実さんの片づけを手伝って、それから愛梨さんのアパートに向かうため、真実さんと共に部屋を出る。
 
「送るよ」
 荷物を詰めこんだこ鞄を彼女の手から取り上げたところまではよかった。
 でもそれから先は、もう何を話したらいいんだかわからなくなった。
 らしくもなく重苦しい沈黙を抱えたまま、俺たちは夜の街を歩く。
 最近ずっと、出かける時は手を繋いでいたから、真実さんに触れていない左手が妙にむなしい。
 彼女の歩みがのろのろと遅いことも気になった。
 
 きっといつも以上に、いろんなことを考えて考えて、一人で傷ついてしまっていることはわかってる。
 その気持ちを明るくさせるのが、俺の役目だと思っていたのに。
 彼女を笑わせるためだったら、どんな冗談だって言って、俺なんてどんなに笑われたっていいといつも思っていたのに。
 ――ダメだ。
 今は言葉が何も浮かばない。
 
 このまま愛梨さんのアパートに到着して、別れの時間が来てしまいそうで、俺は焦って、何の策もないままに問いかけた。
「……真実さん。少しいいかな?」
 
 真実さんは弾かれたように顔を上げて、慌てて俺に返事した。
「う、うん。いいよ」
 その声が少々裏返り気味で、震えていたことに俺は逆にホッとする。
 
(真実さんだって同じだ……どうしていいのかわからなくて、何を話せばいいのかわからなくて、困っているのは俺と同じなんだ……)
 そう思ったら、ふっと体から余計な力が抜けた。
 
 前方に公園を見つけて、
「あ、公園がある……ブランコに乗ってもいい?」
 いつもみたいに軽く問いかける。
 俺がガチガチじゃなくなったら、真実さんまですぐに「うん」と頷いてくれて、まるでいつもの二人に戻れたような気がした。
 
 ――そう。
 あくまでも表面上は。


 
 ようやく話をするこことはできたが、あいかわらず胸のほうはズキズキと痛むばかりだ。
 真実さんと向かいあっているのは苦しいので、本当にブランコに腰かけて、俺は大きく漕ぎだす。
 鬱陶しいくらいに伸びてしまった前髪が、風に吹かれて顔の周りからなくなるのは、それはそれで気持ちよかった。
 
 でも、隣のブランコに俺と同じように腰を下ろした真実さんは、いつまでたっても漕ぐ気配がない。
 ただじっと俯いて座っている。
 
(何を考えてる……? 誰を思ってるの……?) 
 考えることが辛い。
 まちがいなくその答えは自分だと。
 俺との楽しい思い出を彼女は思い返しているんだと。
 今は欠片も思いこめないことが、こんなにも苦しい。
 
 俯いたままの真実さんが不安でたまらなくて、もう一度横顔を盗み見たら、頬を伝う涙が見えた。
 
(ちきしょう……なにやってんだ、俺は!)
 自分に腹がたった。
 
「泣かないで」
 呟くと同時に、かなりの勢いがついてしまっていたブランコからポンと飛び下りる。
 真実さんの前に歩み寄って、深く俯いたままの頭を見下ろす。 
「泣かないで真実さん」
 せいいっぱいの思いをこめて懇願した。
 
 大好きな彼女の髪にそっと指を伸ばして、そのまま頬をなぞり、伝っていた涙の雫をすくい取る。
(泣かせたりしないように俺が守りたい。それがいつだって俺の一番の願いなのに……こんなふうに泣かせたりして……ほんと、ゴメン……)
 
 細い肩を掴んで、そのまま真実さんを抱きしめた。
 折れてしまいそうに細い体が、何の抵抗もなく、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
(こんなに壊れそうなくらい華奢な人に……どうして暴力を奮ったりできるんだろう……わからない! 俺には到底理解できないよ!)
 あの男が憎くて憎くて、頭がどうにかなりそうだ。
 
 俺の胸に顔を押しつけるようにして、真実さんが嗚咽混じりに呟いた。
「ごめんね、海君……」
 
 俺は必死に首を振る。
 真実さんを守りたいなんてたいそうなことを言いながら、その実、心の中では誰かを憎むことしかできやしない。
 ――こんな醜い俺に、そんなに優しい言葉をかけないで。
 
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
 胸が張り裂けそうな思いで、俺は真実さんを抱きしめた。
 ぎゅっと強く抱きしめた。
 
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
 
 本当にそうだ。
 俺はこんなにも自分勝手で、こんなにも醜い。
 彼女にこんなに想ってもらえるほどの、立派な人間なんかじゃない。
 
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
 
 高ぶる感情のままに吐き出した言葉に、真実さんが俺の顔を見上げた。
 月光の中、神々しいほどに清らかな瞳で、俺を真っ直ぐに見つめる。
「海君?」
 
 ダメだ。
 いったん口火を切ってしまったら、もう歯止めが利かない。
 
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそのこと俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
 
「海君!!」
 真実さんが息をのんで、とっさに俺の体を抱きしめた。
 
 その温かさに、自分が今口走ってしまった事のあまりの愚かさを知る。
 自嘲するように髪をかき上げ、もう笑うしかない。
 
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
 もう、何もかもがどうでもいい気分だった。
 
 俺の醜い内面を知って、真実さんはどう思っただろうか。
 呆れただろうか。
 もう俺のことなんて嫌いになってしまっただろうか。
 
 半ばやけくそ気味に、これまでずっと胸に押し隠していた思いまで口にする。
 もうずっと長い間、俺を不安にさせていた考えを、我慢できずに彼女にぶつける。
 
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつの事を許すんだ。結局、許してしまうんだね……そんなにあいつのことが好き?」
 抱きしめる腕の中、俺を見上げる真実さんの大きな瞳が、ますます大きく見開かれた。
 その瞳にみるみるうちに涙が膨れ上がって、大粒の雫となって、あとからあとから彼女の白い頬を滑り落ちる。
 
「……どうして?」
 軽く首を左右に振る彼女は、夜目にもはっきりとわかるくらいに、わなわなと震えていて、苦しい俺の胸をいっそう苦しくした。
 
「私が好きなのは……!」
 俺の両腕をしっかりとつかんで、声を荒げて主張しようとした彼女の想いを、俺はかき消すほどの大声で遮る。
 
「俺でしょ! ごめん、わかってる……でもどこかであいつを許してる真実さんがいる。できることなら、あいつにまともに戻ってほしいと望んでる真実さんがいる。もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
 
 言葉とは裏腹に俺の両腕は真実さんの体をかき抱く。
 誰にも渡したくないと、決して放したくないと、体のほうが言葉の何倍も雄弁に、俺の思いを彼女に語る。
 
「そんなはずないじゃない!」
 真実さんの悲鳴が、高ぶっていた俺の感情をほんの少しだけすーっと冷静にしてくれた。
 俺はうなだれながら、ゆっくりと首を左右に振る。
 
(何やってんだ! こんなことじゃない……! 俺が真実さんに言いたかったことは……本当に伝えたかった気持ちは、こんなんじゃないって……!)
 泣き出してしまいたいぐらいの思いで、唇をぐっとかみ締めたのに、俺の口は俺の意志とは裏腹に、またもや自分勝手に動きだす。
 
「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないこことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
 
 伝わるんだろうか。
 こんな言葉で。
 ――何よりも強い俺の願い。
 祈り。
 彼女に対する想い。
 
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方……そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
 
 幸せになってほしいのに。
 誰よりも幸せになってほしいのに。
 ――自分自身の手では決してそれを叶えてあげることのできない、彼女への懺悔。
 俺の悲しみ。
 
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
 
 君を守りたい。
 他の誰からも。
 傷つけようとする何からも。
 本当は俺がこの手で守りたい。
 ――でもそれはできない。
 
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
 まるで奇跡のように、優しい声が俺の全てを包みこむ。
 苛立ちや腹立たしさ。
 絶望。
 悲しみ。
 俺が抱える醜い負の感情を、彼女の声は全て包みこんで、優しく抱きしめてしまう。
 
「うん。真実さん」
 もう一度、こんなに優しい気持ちで、その名前を呼べるとは思ってなかった。
 
 全てをさらけ出してしまっても、真実さんがまだ俺を抱きしめてくれるとは思っていなかった。
 ――優しい。
 優しすぎる細い両腕が、その時、俺に一生ぶんの幸せをくれた。
 
 愛梨さんのアパートまでの道を、真実さんと手を繋いで歩いた。
 まるで何もなかったかのように、いつもどおり穏やかな雰囲気の二人。
 
 でもそれは、いろんな気持ちをぶつけあって見せあったからこそ、また一歩近くなれたんだと思うのは、俺のうぬぼれだろうか。
 
(まいったな……このままどこかに連れ去ってしまいたい……!)
 もし俺に未来があったなら。
 真実さんとの将来を望めるほどの未来があったなら。
 今、まちがいなくそうしていただろう。
 
 でも俺にはそんなものない。
 だから、この手を離す瞬間までは、全身全霊で彼女を愛そう。
 ――そう心に決めた。
 
 たとえどこにいても、最期の最期の時まで、俺は真実さんのことを想っていよう。
 ――そう決めた。
 
 それは子供の頃に決心した、誰にも未練を残さないなんて生き方よりも、何倍も苦しい生き方かもしれない。
 誰かと深く関わって生きていこうとするのは、いろんなことがあって、そこからいろんな思いが生まれて、本当に大変なことなのかもしれない。
 
 でも真実さんへの想いは、俺に幸せな気持ちをくれる。
 生まれてきて良かったと素直に感じさせてくれる。
 
 だからその時が来るまで、この手はずっと繋いでいよう。
 離さないでいようと自分に誓う。
 背後から忍び寄ってくる死の影になど、気付かないフリをして。
 
 ――幸せな時間ほど予想外に短い現実など、決して信じずに。
「ねえ海里。なんか最近また、出かける時間が早くなってない?」
 
 朝、真実さんのところへ行こうと玄関の扉を開けた瞬間、家の門に寄りかかるようにして、俺を待っているひとみちゃんの姿が目に飛びこんできた。
 
「そんなことない……と思うけど?」
 苦し紛れの言い逃れに、ひとみちゃんは茶色い皮バンドの腕時計の文字盤を、俺の目の前に突き出す。
 小さな針が示す時間は――七時五分。
 
「いや……ちょっと早いね……」
 どうにか言い訳を捻り出そうとする俺の気配を察知したらしく、ひとみちゃんは、はあっと大きなため息を吐いて、先に話し始める。
 
「別に私がとやかく言うことじゃないんだけど……でも最近あまりにも顔色が悪すぎるから……週に一回、検査を受けるように、病院に申しこんどいたわよ」
 
「はい?」
 よく意味がわからなくて問い返した途端に、目を剥いて怒鳴られた。
 
「週に一回は病院に行って、みっちり検査を受けるのよ! そうじゃなきゃ、こんなふうにフラフラと外出するの禁止!」
 
(いったいいつからひとみちゃんは俺の主治医になったんだ? ……いや……この場合、担当看護師か……?)
 
 どうでもいいようなことを考えている俺に向かって、びしっと人差し指を突きつけ、
「まずは四日後だから! 忘れないでよねっ!」
 言いたいことだけ言うと、長い黒髪を翻して、さっさと自分の家に帰ってしまう。
 
 あとに残された俺は、その颯爽とした後ろ姿を呆然と見送りながら、だんだん笑いがこみ上げてきた。
 
(つまりは……最近俺の顔色が悪くて心配だから、定期的に病院に行って検査を受けるようにしろってこと……だよな?)
 
 だてに一緒に育ってきたわけではない。
 意地っ張りなひとみちゃんの、棘のある言葉の裏にある優しい気持ちを読み取る能力だったら、俺はきっと世界中の誰にも負けない。
 
「ありがとう! ひとみちゃん!」
 
 角を曲がって見えなくなろうとしている背中に、大声で呼びかけると、明らかに驚いてビクリとしたくせに、すぐに顎をあげて、わざわざ俺からぷいっと顔をそらしてそのまま行ってしまう。
 
 意地っ張りな彼女に、俺は心の中だけで深々と頭を下げた。
(ほんとに、ありがとう……)
 
 俺の体調にとって、それは今本当に、ありがたい心遣いだった。


 
 真実さんが愛梨さんの部屋に住むようになってからも、俺は毎日彼女に会いに行っている。
 
 真実さんは長いこと休んでいた大学に復学した。
 最初の日こそ、不安で不安でたまらない顔をしていて、送っていった俺まで緊張するぐらいだったが、今ではすっかり大学生活を満喫している。
 ――ように見える。
 
 送り迎えする間に聞かせてもらった話と、俺が見た様子から想像するに、愛梨さん以外にも真実さんが復学するのを待っていてくれた友人たちの存在が大きいようだ。
 
 俺は自分自身が、復学してはまた休学し、をくり返してきた学校生活だったから、真実さんの気持ちはよくわかる。
「やっと出てきたんだねー」と喜んでくれる存在がいてくれることは何よりも嬉しい。
 
 そんなことを考えながら、結局一ヶ月ちょっとしか学校に通っていない、俺自身の高校生活を考えた。
 
 生活区がそのまま学区だった小中校時代とは違って、高校では初めて会う連中がクラスのほとんどだったから、二ヶ月遅れの俺の入学を待っていてくれたクラスメートなんて、実はほとんどいなかったのかもしれない。
 ――ただ一人を除いては。
 
 そのたった一人。
 ――いつも俺のことを気遣ってくれているひとみちゃんは、せっかく通えるようになった高校を、俺が自分の意志で休んでいることを、本当はどんなふうに思ってるんだろう。
 
 ひょっとしたら内心腹立たしい気持ちを、必死に我慢してくれているのかもしれない。
 ――なんだかんだ言ったって、ひとみちゃんは優しいから。
 
(だから週に一回の検査ぐらい、ありがたく受けるよ…そうすることで助かるのは、結局他の誰でもない……俺自身なんだから……)
 
 真実さんを迎えに、今日も長い道のりを歩きながら、俺はそんなことを考えた。


 
 考えごとをしながら歩いていると、思いがけなく早く目的地に着くことがある。
 今日の俺はまさにそんな状態だった。
 
 黙々と歩いているうちに、いつの間にか愛梨さんのアパートの近くまで来ていた。
 真美さんのアパートへの道のりばかりか、ここへの道のりも、すっかり体に染みついてしまっている自分に苦笑する。
 
 道路を挟んだ壁に寄り掛かって、真実さんが出て来るのを待つ時間も、すっかり体に馴染んだ。
 
 すがすがしい朝の空気を吸いながら、遠くの空なんかを眺めてると、
(よし。今日も頑張ろう!)
 という気持ちが湧いてくる。
 
 でも他の何よりも俺の元気のみなもととなっているのは――俺を見つけた瞬間の真実さんの笑顔。
 それこそが俺を突き動かす原動力。
 
「海君!」
 ニッコリと笑って手を振る小柄な姿が、通りの向こうに現われた時から、俺の一日は本当の意味で始まる。
 
「おはよう」
「おはよう」
 
 どちらからともなく手を繋いで、一緒に歩き始めたところから、無機質な辺りの風景が目を焼くほどの鮮やかな色を放ち始める。
 
「それでね……その時ね……」
 笑顔で話し続ける真実さんの背後に、大きな入道雲と夏色の空を見た瞬間、自然と、
 
(そうだ……絵を描こう……)
 と思えた。
 
 気構えも無理もなく、自然とそう思えたことが、自分でも不思議だった。


 
「それで……? 思い立ったら吉日ってわけで、ここにいると……?」
 
 腰に両手を当てて、お決まりの仁王立ちのポーズを取りながら、大きな目を吊り上げて俺を睨みつけているひとみちゃんに向かって、俺はこっくりと頷く。
 
「そうだよ」
 
 途端、手近にあったスポンジ――たぶんひとみちゃんが水彩画を描く時に、筆についた余分な水分をふき取るための物――を投げつけられそうになった。
 
「ばっかじゃないの! 授業には出ないくせに、昼休みに美術室で絵を描くためだけに学校に来るって……いったい何様のつもりなのよ!」
 
 俺は額に人差し指を当てて、しばし考えこむフリをしてから、二カッと笑った。
「……俺様?」
 
 顔の横をかすめてスポンジが飛んでいった。
「うわっ! ほんとに当たっちゃうじゃん!」
 
「当てるつもりで投げてんのよ!」
 
「……いいじゃない。私たちだって、楽しい昼食の時間を削ってまでこんなところで画布と向きあってるもの好きばっかりなんだもの……ね?」
 あいかわらず柔らかな笑顔で、怒り狂うひとみちゃんにだって平気で意見を言えてしまうその人は偉大だ。
 
 いつ見ても自分より大きなキャンバスと格闘しているようにしか見えない小さな上級生。
 ――今日もほっぺたにオレンジ色の絵の具をつけてしまっている彼女は、女だてらに美術部部長をやってる今坂先輩。
 
「描きたいものが見つかったの? ……一生(ひとうみ)君……」
 二ヶ月近くも前の俺との他愛もないやり取りを、部長がまさか覚えてくれているとは思わなかったので、俺は内心、結構驚いていた。
 
「はい。そうです」
 
 部長は何も言わずただニッコリと微笑むと、また自分よりも大きなキャンバスとの戦いに戻っていく。
 何が描いてあるのか俺にはよくわからない、その色彩の重なりに目を向けていると、自然とうずうずしてくる。
 
(俺だって負けてらんない……!)
 本来の負けず嫌いな性格がむくむくと頭をもたげる。
 
 なんの話をしているのかわからないとばかりに首を傾げて、いぶかしげに俺たちを見ているひとみちゃんに向かって、俺は手をさし出した。
 
「ひとみちゃん。使ってない画材あったら、なんか貸して。急に来たから……俺なんにも持ってきてないんだよね」
 
 ぐわっと頭に角が生えてきそうな形相で、ひとみちゃんは叫んだ。
「だからいったい何様のつもりなのよ! あんたは!」
 
 投げつけられたスケッチブックを、彼女が俺に貸してくれた今日のとりあえずの部活道具として受け取って、俺はニヤリと笑った。
「……海里様?」
 
「海里!!」
 
「ハハハハッ」
 大きな声で笑いながら、怒るひとみちゃんに背を向けて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。
 まだ新しいスケッチブックを抱きかかえるようにして、真っ白なページに鉛筆を走らせ始める。
 
 窓に頭をもたれかけて見上げた空は、青く眩しかった。
 どんな形の雲を見つけても、悠々と飛んで行く鳥の姿を見ても、俺にはその向こうに彼女の――真実さんの笑顔が見える気がした。
 
 
「海君、なんだか最近嬉しそう」
 
 朝、並んで手を繋いで歩きながら、真実さんはふいにそんなことを言う。
 
 ポーカーフェイスが得意なつもりだったのに、彼女の前では俺はどれだけ感情がだだ漏れになってしまっているんだろう――自分がちょっぴり情けなくなる。
「そう。……わかる?」
 
「うん。わかる、わかる」
 コロコロと笑いながら、短い髪が揺れる。
 
 朝日のように輝く無邪気な笑顔に見惚れ、白い頬に無意識に手を伸ばしてしまいそうになってから、そんな自分に自分でドキリとした。
(今……何しようとした……俺?)
 
 いつだってすぐに引き寄せられるくらいの距離にいる真実さんに、手を伸ばして、こっちを向かせて、そして――。
 
 ぎゅっと胸が痛んで思わず足を止めた。
 自然と真実さんも立ち止まることになって、不思議そうに俺の顔を見上げる。
「どうしたの……?」
 
 真っ直ぐにこちらを向く俺を信じきっているようなその瞳に、
「あなたがあんまり可愛くて、キスしそうになりました」
 とはまさか言えなくて、邪念を追い払うかのように大きく首を振る。
 
 返事の代わりに、彼女の手をさっきよりももう少しだけしっかりと握り直して、俺は歩き出した。
 
 突き当たりが大学の正門へと繋がっている広い舗道。
 朝一番の講義へと向かう学生の群れの中に、見覚えのある背中を見つける。
 
 真実さんの友人。
 頭の切れそうなスラリとした美人の貴子さんと、小さくて可愛らしい雰囲気の花菜さん。
 
 人ごみの中でも実に見つけやすい、好対照な二人のうしろ姿を、俺は真実さんに指し示した。
「ほら……貴子さんと花菜さん」
 
 少し首をひねったまま、俺に手を引かれて歩いていた真実さんが、ぱあっと笑顔になる。
「貴子! 花菜!」
 
 真実さんの呼びかけで彼女の友人たちが振り向くのと同時に、俺はいつもどおり、繋いでいた真実さんの手を放した。
「いってらっしゃい」
 
 笑顔で手を振ると、
「いってきます」
 真実さんも笑顔で頷く。
 
 立ち止まった俺を置き去りに駆けて行く背中を、いつもはちょっぴり寂しい気分で見送るのに、今日はなぜだかほんの少しホッとした。
 彼女の小さな手の感触がまだ残るてのひらを、ぎゅっと握りしめる。
 
「海君!」
 ふいに遠くから呼ばれて顔を上げてみると、真実さんが友人たちに囲まれながら、俺に向かって大きく手を振っていた。
 
 あんな満面の笑顔を俺に向けてくれる。
 それだけで天にも上るくらい幸せな気持ちなのに、――どうして俺はこんなによくばりなんだろう。
 
 それを願えるだけの未来もないのに、もっと彼女に触れたいと思ってしまった自分がうしろめたい。
 なんのためらいもなくそれを行動に移していたであろう存在のことが頭をかすめて、なおさら気持ちが落ちこんだ。
 
 あの男――岩瀬幸哉は、真実さんの部屋を滅茶苦茶に荒らしたあの夜から、彼女の周りに姿を現してはいない。
 村岡さんが警察の警告を携えて部屋を訪ねた時には、すでに行方をくらましていた。
 
 どこかに逃亡したのか。
 それとも潜伏しているのか。
 可能性は半々だと村岡さんは語ってくれたが、俺はきっと後者だろうと思っている。
 
 あの男は絶対に真実さんを諦めたりしない。
 もう一度近づくチャンスを、どこかに隠れて絶対に待っている。
 ――そんな気がする。
 
 だから俺は、本当はひと時だって真実さんの傍を離れたくはなかった。
 
 でも夜は愛梨さんがいてくれる。
 大学では貴子さんたちもみんな真実さんを守ってくれている。
 
 だから俺は大学への送り迎えだけを自分の役目として、ただ毎朝・毎夕、真実さんのところに通う。
 でも本心は、大学の中にまでついて行きたいくらいだった。
 
 俺は全然構わないし、きっと大学側にだってバレることはないだろう。
 でもそれではさすがに、まるで俺のほうが真実さんのストーカーだ。
 
 ぎりぎりの妥協点として、門から先を真実さんの友人たちにお任せしてはいるが、本音は辛い。
 朝と夕、歩いて二十分くらいの距離。
 一緒に歩くのだけが二人の時間。
 
(せっかく真実さんがもう一度大学に通えるようになったんだから……寂しいなんて思うのは俺の身勝手だ……)
 俺に背を向けて真実さんたちが歩き出したのを確認してから、俺も大学の門に背を向けた。
 
 この街で一番大きな大学。
 俺が通う高校でも一番進学する生徒が多い場所。
 だけど俺がこの門を潜って、中に入ることは――きっとない。
 
 そう思うと、また違った意味で胸が痛い。
 
「海君!」
 背後から、思いがけなくもう一度、俺を呼ぶ声がした。
 
 ふり返って見てみると、さっきよりもっと遠くなった場所から、真実さんがあいかわらず、ぶんぶんと大きく手を振っている。
 小さな体いっぱいで、まるで一生懸命に「自分はここにいる」と主張しているようなその姿に、思わず笑みが零れた。
 
(そんなに何回もふり返ってたら、遅刻しちゃうよ)
 彼女に負けないぐらいに大きく手を振りながら、満面の笑顔になってしまう。
 
(まだやってるのかって……貴子さんたちに呆れられちゃうよ)
 嬉しかった。
 俺に真っ直ぐに向けられる彼女の想いが嬉しかった。
 だから――
 
(そんな資格もないのに、もっともっとって彼女を望むのは、俺のわがまま以外のなんでもない……だからそんなことは望まない……!)
 苦しい衝動は胸の奥に封じこめ、足に力をこめて、俺はもう一度歩きだした。
 
(どうせいつかはいなくなるのに、悲しい思いを残すだけだ……! 今のままでいい……手を繋ぐぐらいでいい……)
 自分を戒めるかのように、強く胸に誓った。
「うーん。あんまり良好とは言えないなあ……」
 こちらをふり返らないままに呟いた石井先生の背中を、俺は穴の開くほど凝視していた。
 
 真昼の病院。
 ひとみちゃんに無理やり入れられた二回目の定期検診で、俺はついに石井先生から引導を渡された。
 
(入院確定……か……!)
 ひょっとしたらという思いはあった。
 けれど、実際に先生からそう宣告されると、思っていた以上にこたえた。
 
「そうですか……」
 真っ先に真実さんのことを思う。
 日々何事もなく、彼女が穏やかな大学生活を送っている時であるというのが、救いといえば救いだった。
 でも、もう会えなくなると思うとやっぱり辛い。
 
「発作が起きたわけでもないし、今回は様子を見るための入院だから……少しおとなしくしてたら、きっとまたすぐに退院できるよ……ね?」
 
 クルリと椅子を回転させてこちらに向き直った先生が、俺の気分を取り成すかのように笑う。
 その笑顔が本当に本物であるのかどうかなんて、考えだしたらきりがない。 
 
 これ以上先生に気を遣わせないためにも、俺も笑顔を作った。
「はい」
 でも気分はどうしようもなく落ちこんでいた。


 
「でね…………海君? ……ちゃんと聞いてる?」
 ボーッとしているところを真実さんに見咎められたのは、いったい今日だけで何度目になるだろう。
 俺は内心苦笑しながら、表面上はもっともらしく頷く。
 
「もちろん聞いてるよ。教室に迷いこんだすずめを、真実さんたちがみんなで逃がしてやった話でしょ?」
「それはもうさっき終わったの!」
「ハハハッ! そうだった……?」
 本当はわかってた。
 でもちょっぴり怒った顔が見てみたかった。
 
 真実さんは少しむくれると上目遣いにじっと俺を見上げる癖がある。
 その顔がもうどうしようもなく可愛くて、俺の一番のお気に入りで、それが見たいばっかりに俺はすぐに彼女をからかってしまう。
 ――でもこれは真実さんには内緒だ。
 
「じゃあ……夏休みになったら、愛梨さんたちとプールに行くって話?」
「それはもっと先に終わってるの!」 
「ハハハハッ!」
 だが、やりすぎるのは禁物。
 
「もういいっ!」
 意外と短気な真実さんは、俺が調子に乗ると、すぐに置き去りにして歩きだしてしまう。
 
「冗談だよ。待ってよ真実さん」
 笑い混じりに言葉だけで追いかけても、決して待ってはくれない。
 
「おーい。真実さーん」
 俺がふざけてるうちは絶対だ。
 でも――
 
 しばらく黙っていると、怒っているはずの小さな背中は次第に歩く勢いをなくして、そのうちピタリと止まってしまう。
 
 それでも俺が何も言わずにいると、短い髪をサラリと揺らしながら、小さな白い顔がふり返る。
 不安でどうしようもない顔でこっちを見て、俺の姿を確認すると、今にも泣きだしてしまいそうに、黒目がちの大きな瞳が安堵に揺れる。
 
 その全てが、いつもいつも俺の心をたまらなく苦しくした。
 
(真実さん……ゴメンね)
 まだ出会って間もない頃、『待ってくれないと俺は追いかけないよ』と俺が宣言したことを真実さんはちゃんと覚えてくれてる。
 だから何度も訪れるこんな場面では、必ず途中で足を止めてくれる。
 どんなに怒っていても、それを押し殺して俺を許してくれる。
 
(本当はここは……『待てよ』って追いかけてって、俺がどれくらい真実さんのことを大切に思ってるかを、証明するところだよなぁ……)
 
 でも俺は走って追いかけることはできない。
 いや。
 できないことはないが、やるつもりはない。
 真実さんの前で「もしも」のリスクを伴う行動は、できるだけ少なくしたいというのが俺の中の決めごとだから。
 
(だから真実さんにばっかり我慢させてる……俺は全然優しくしてなんかやれない……ゴメン)
 ゆっくりと歩いて彼女に近づきながら、心の中だけで頭を下げた。
 
(走って追いかけて、うしろから抱きしめて、『ゴメン。大好きだよ』って耳元で囁いて、それから――)
 自分にはできないこと、でも本当はそうしたいことを想像すると、なんだかとてつもなく恥ずかしいことになっていく。
 もし俺の体が正常だったとしても、そこまでできるかどうかは、正直疑問だ。
 
 大きく息を吐いてから、立ち止まって待っててくれた真実さんの手を取った。
 まるで当たり前のように、もう一度手を繋いで、俺たちは歩き始める。
 
「真実さん……」
「うん?」
「ゴメンね」
 
 ふわっと花の蕾が綻ぶように真実さんが笑った。
「海君は私に謝ってばっかり」
「そう?」
「うん。そう」
 
 輝くようなその笑顔を、いつでも思い出せるように、頭の中のキャンバスにそっと写し取った。
 


 愛梨さんのアパートに住むようになって一週間。
 ついに真実さんは、自分の部屋を引き払うことを決めた。
 
 なんでも貴子さんの隣の部屋が破格値で借りれるということで、行き先の心配はなかったが、引っ越しにかかるお金を捻出するために、不要品をリサイクルショップに売りたいのだという。
 
 そのための荷物を一週間ぶりに自分の部屋へ取りに帰るのに、真実さんは他の誰でもなく俺を頼ってくれた。
 
「海君。一緒に来てくれる?」
 もちろん、俺に異存があるはずなかった。
 
 本当にあの日――部屋があの男にめちゃくちゃに荒らされた日――以来、一度も訪れていない部屋。
 でも、どこも変わったところはなかった。
 真実さんの周辺と同じで、この部屋にも、あの男は姿を現わしてはいないようだ。
 
(じゃあいったいどこで何をしてるんだ……?)
 不安は消えなかったが、とりあえず今は真実さんが先だ。
 
 部屋の前で立ちすくんでしまっている真実さんに、
「真実さん大丈夫?」
 と聞いたあと、
「なんなら俺も、一緒に中に入って手伝おうか?」
 とつけ加えることを忘れてはならない。
 
 見るからに不安でいっぱいな真実さんの気持ちを、少しでも明るくするためなら、俺はいくらだって軽口を叩いてみせる。
「そうしよっか?」
 
 ニヤリと笑うと、真実さんはものの見事に真っ赤になった。
「だ、大丈夫よ!」
 
 こぶしを握りしめて力説する姿に、俺は心の中だけで
(あと少し!)
 と自分に発破をかける。
 
「大丈夫だよ。部屋に二人きりだって、どうせ真実さんはすぐ寝ちゃうんだから」
 真実さんがムッとむくれて、上目遣いに俺の顔を見上げた。
「もうっ! まだそのこと、言ってるの?」
 
 そう、その顔だ。
 その顔が見たくって、いつもいつも意地悪してしまう。
 
 ふり上げた真実さんの腕を俺がかわしたばっかりに、彼女は体勢を崩して、倒れこんでしまいそうになった。
 慌てて腕をつかんで、自分のほうに引き寄せる。
 華奢な体を両腕で抱き止める格好になってしまって、心から焦った。
 
 すぐに真実さんは離れるだろうと思っていたのに、俺の背中に腕を廻してくるから、ますます焦る。
「真実さん?」
 
 恐る恐る名前を呼んでみても、彼女は動く気配もないので、俺は便乗させてもらうことにした。
 甘い香りのする頭に頬を寄せて、ぎゅっと抱きしめる。
 本当はいつだってそうしたい自分の本心のままに、しっかりと抱きしめる。
 
「う、海君……?」
 自分から先にしかけてきたくせに、真実さんはすぐにねをあげて、もう開放してくれと言わんばかりに俺の顔を見上げる。
 でもすぐには願いを叶えてあげない。
 
 俺はクスリと笑って、しばらくの間、そうして彼女を抱きしめていた。


 
 けっきょく俺の手伝いは断って、真実さんは一人で荷物を漁った。
 不要品として彼女が部屋から運び出してきた紙袋は、実に八袋もあった。
 
 中にはブランドものや、高級なものも含まれていたようで、それを現金化したあとの真実さんはすこぶるご機嫌だった。
「海君、今ならなんでもおごってあげるよ。何がいい?」
 
 いつになく余裕のある雰囲気で誘ってくれるから、俺は正直な気持ちを口にする。
「じゃあ真実さんがいい」
 
 ボッと真実さんの頬に火がついた。
「また……! そんなこと言う!」
 
 真っ赤になりながら、真実さんが両手をふり上げた瞬間、俺の胸ポケットで、新品の携帯が、軽快な音楽を奏で始めた。
(マズい!)
 
 真実さんと会う時には必ずマナーモードにしていたのに、今日はうっかり忘れてた。
 ゴメンと頭を下げて真実さんに背中を向け、「はいはい」と応答した携帯の向こうから、ひとみちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。
 
「なにやってんのよ!! 今日から入院だっていうのに……まさか忘れてるんじゃないでしょうね!!」
「うっわ、忘れてた!」
 
 俺の正直な叫びに、ひとみちゃんは怒り狂う。
「何をどうやったらそうなるのよ! 能天気海里!」
 
 今日は自分も高校を休んで朝から待っていたこととか。
 準備も全て押しつけられたこととか。
 怨念をこめるようにして語り続けるひとみちゃんに降参して、俺は頭を下げた。
 乱れて顔にかかった前髪を、ゆっくりとかき上げる。
 
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
 電話を切ってふり返ったら、真実さんが今まで見たこともないような顔をしていた。
 唇をキリッと噛みしめてて、俺のことを睨んでいるのに、今にも泣き出してしまいそうな目には、実際に涙が浮かんでいる。
 なんともアンバランスな表情。
 
 なんとなく電話の内容が、雰囲気でわかってしまったんだろうなと思うと、これから真実さんにしなければいけない話が、ひどく残酷な事もののように思えた。
「真実さんゴメン。俺、今日用事があったんだった……」
 
 顔をのぞきこみながらそう告げると、彼女の大きな瞳に、驚きと共に明らかに悲しみの色が広がっていく。
 それを嬉しいと思ってしまう俺は、なんて自分勝手なんだろう。
 
「それと……しばらく会いに来れないかも、ゴメン」
 真実さんはますます途方にくれたような表情になった。
 
 大学にも復学して、友達とも仲直りして、真実さんの世界は着実に修復されていっているのに、まだこんなにも俺を必用としてくれているんだと思うと、俺の心は身勝手にも弾みだす。
 
「うん。わかった」
「嫌だ」と顔に書いてあるにもかかわらず、しおらしく頷いた真実さんが可愛くってたまらない。
 
 そっと指を伸ばして、その髪を優しくかき混ぜた。
「寂しいだろうけどゴメンね」

 真実さんは急に、ハッとしたように胸を反らした。
「別に大丈夫だよ?」
 
 意地悪な俺は、その懸命な努力を打ち砕く。
「えっそうなの? 俺に会えなくても平気?」
 瞳をのぞきこみながら顔を近づけたら、真実さんはすぐに俯いてしまった。
「嘘だよ……寂しいよ……」
 
 しゅんとうな垂れた彼女を、俺は大笑いしながらもう抱きしめた。
「うん。俺も寂しいよ」
「ちょ、ちょっと海君」
 口では抵抗しながらも、真実さんの両腕もしっかりと、俺を抱きしめ返していた。
 
 ――それが嬉しかった。
 しばらく離れなければならないとわかっているからこそ、たまらなく愛しかった。
 病室の窓から見える景色は、ニヶ月前よりも色を濃くしていた。
 青々と繁った木々の葉も、吸いこまれそうに青い空も、長時間見つめていると、目に痛いほどに。
 
「あれっ? ……ここからの景色はもう描き飽きたって言ってなかったっけ?」
 昼食を運んできてくれた看護師さんを、俺は窓際に置いたパイプ椅子に座ったままふり返る。
「そうですよ。でも、まぁいいんだ……」
「ふーん……」
 
 うしろからこっそりと近づいた看護師さんが、俺が胸に抱えているスケッチブックをのぞきこんでくる気配を察して、描きかけのページをパタンと閉じる。
「ダメ。これは誰にも見せないの」
「えーっ? 前は見せてくれてたじゃなーい」
 まだ看護学校を出て三年目だというその看護師さんは、口を尖らして、子供みたいな顔をする。
 
 俺はクスリと笑った。
「でもこれはダメなんです」 
「ふーん……」
 やりかけだった昼食のセッティングを再開した看護師さんは、それをやり終えると、首を傾げながら俺の病室から出ていく。
 
 その背中を見送ってから、俺は描きかけのページをもう一度開いた。
 ――初めて二人で行ったあの海で、俺をふり返って笑う真実さんの姿がそこにはあった。
 


 安静にしている以外にはすることもなく、食事と睡眠と検査をくり返す毎日は、俺にたくさんの考える時間を与えてくれる。
 ベッドの上よりもすっかり定位置になりつつある窓際の椅子で、陽だまりの中、何枚も何枚も真実さんの笑顔ばかりを書き連ねていたら、
(俺たちがあの夜出会ったのは、本当に偶然だったんだな……)
 胸に痛いくらいに、そう実感せずにはいられなかった。
 
 それぐらい、俺の毎日は今、真実さんとは離れてしまっている。
 そもそも外界とも全く隔絶されてしまっているわけだから、当たり前といえば当たり前なんだが、俺が会いに行かなければ、たったそれだけで終わってしまう関係なんだということを、改めて思い知らされた。
 
 それはあまりにも寂しかった。
 もし俺がこのままこの部屋から出られなかったら、それだけでもう二度と会うこともできない人。
 
(そっか……そしたらもう、二度と会えないわけか……)
 自分を追いこむような考えは、今は体にあまりよくないとわかっているんだが、考えずにはいられなかった。
 
 だからといって、今さら真実さんに俺の素性を明かしたりとか、連絡先を教えたりということは、やっぱり考えられない。
(だって……結局はそれって、しばらくの間だけなんだもんなあ……)
 
 たとえば俺がいなくなった後で、履歴に残った俺の電話番号を見る時、真実さんはどんな気持ちになるんだろう。
 俺が入院していたこの病院の前を通る時には――。
 
(悲しんでなんかほしくない。だから『もしも』の前には、俺は絶対に真実さんの前から姿を消しておく……)
 最初から決めていたその決意は、今だって揺らいではいない。
 
(なるべく笑っていてほしい……だから俺のことなんかすぐに忘れて、未来だけを見て生きてほしい……)
 その思いは確かに本物なのに、
(あーあ……でも他の男と一緒にいる真実さんの姿なんて、たとえ空の上からだって、俺、絶対に見てられないや……)
 想像しただけで頭を抱えてしまう自分がいる。
 
 空は高かった。
 どれだけ思っていたって、あんな遠くからじゃ、すぐ近くにいる奴にはきっとかないっこない。
 
 それは当たり前なのに。
 それでいいと思ってたのに。
 今さらどうしようもなく悲しくなるほどに、――地上と空の上は遠かった。


 
「本当にそれだけでいいの? なんならキャンバス運んできたっていいのよ?」
 足繁く俺のところに通ってくれるひとみちゃんは、俺が一冊のスケッチブックと鉛筆だけで、当面の間は画材は要らないと告げると、かなり怪しむような顔をした。
 
「まさか……病院抜け出して、どこかに通ってるんじゃないでしょうね?」
 思いもかけなかった疑いに、俺は彼女がわざわざ途中で買ってきてくれたジュースを思わず吹き出すところだった。
 
「そんっ……そんなことしないよ!」
「どうだか……」
 ぷいっと背中を向けるひとみちゃんの姿に、俺はため息をつく。
 
 もともと小さい頃から俺に喧嘩ばかり売ってくる相手ではあるが、それにも増して最近のひとみちゃんは容赦がない。
 
(なんか怒らせるようなことしたかな……?)
 考えてみれば浮かんでくる答えは一つしかない。
 
「ひとみちゃん……」
 呼びかけると、ふり向きもしないまま、 
「なによ」
 と返事される。
 
 どうにも取りつくしまもないほどの怒りを感じずにはいられないが、昔からずっとそうしてきたように、そんなことはまるで気にしていないような口調で、俺は話を続けた。 
「今度退院したら、俺、高校にもちゃんと行くから……」
 
 ビクリと、俺に背中を向けたままのひとみちゃんの肩が震えた。
 
「絵を描きに」
「海里!!」
 
 鬼のような形相でふり返ったひとみちゃんを見て、俺はたまらず笑いだした。
 
「ほんとだって。秋にある文化祭までには、仕上げたい絵が何枚かあるから……」
「そうじゃなくって……! そうじゃないでしょう!」
「ハハハッ。でもそれが俺にとっては、最優先事項だから……だからいいんだ。きっといくら勉強したって兄貴みたいにはなれないし……」
 
 兄貴には申し訳ないが、ここは引き合いに出させてもらう。
 大学の医学部に現役合格して、外科医への道を一目散に走っている兄を持つと、出来の悪い弟はいろいろと便利だ。
 ――もっともそう思っているのは俺だけで、世間一般的には真逆の感想なのかもしれないけど。
 
「そんなこと、わかんないじゃない! 海里だって成績はいいんだから、ちゃんと勉強すれば陸兄みたいにだって……」
 
「なれないよ」
 
「…………!」
 
 自分ばかりではなく、その言葉がひとみちゃんの心にだって痛く食いこむことはわかっているのに、俺は短く言い放つ。
 
(ああ、俺ってほんとに意地悪だ……ゴメンひとみちゃん……)
 わかっているのに――。
 
「なれない」
 真正面からひとみちゃんの目を見つめて、念を押すかのようにもう一度くり返す。
 
 いつだって強気なひとみちゃんが、呆けてしまったように俺の顔を凝視した。
「そんなこと……ない……もの……!」
 
 強い光を放つ瞳が不安に揺れ始め、震える唇はやっとの思いで切れ切れの言葉を搾りだす。
 その瞬間、――俺はヤバイと思った。
 
(しまった! きっと泣かす!)
 
 でもひとみちゃんはそんな俺の予想を見事に裏切って、
「……だってそんなこと、やってみなくちゃわからないでしょう! やる前から逃げてるんじゃないわよ! バカ海里!」
 いつにも増して大きな声で俺を怒鳴ると、バタバタと足音を響かせて、病室を駆けだしていった。
 
 涙が浮かんできたのは俺のほうだった。
(そうか……逃げてんのか……俺……)
 
 こぶしをギュッと握りしめる。
 痛くなるほどに奥歯を噛みしめて俯いたら、伸ばしっぱなしの前髪が、頬のあたりまで落ちてくる。
 だからたとえ今誰かがこの病室に入ってきたとしても、俺の情けない顔を見られる心配はないだろう。
 
(現実を受け入れて、未来を悲観しないように生きていく……なんてかっこいいこと言ってるけど……ようは俺が何もかもを諦めてるってことなのか……!)
 
 高校を卒業することも。
 未来に夢を持つことも。
 もっと長く生きることも。
 いつか兄貴を越えるという目標も。
 ――ずっと真実さんと一緒にいることも。
 
 諦める。できるはずないんだって、最初から割り切る。
 そのほうが自分も周りの人たちも傷つけずにすむと思ってたのに――。
 
(ひとみちゃんは……悔しいんだ……!)
 俺がはなっからいろんなことを諦めてしまっていることが。
 望みを持つことと一緒に、努力することまで放棄してしまっているのが。
 
(……俺だって悔しいよ!)
 頬を伝って落ちた涙が、固く噛みしめた唇にまで流れてきた。 
(できるんなら……一生懸命に努力したらそれがかなうんなら……俺だってがんばりたいよ! どんなことだってやってみたいよ! だけど……!)
 
 ぐいっと腕で頬を拭った。
 泣いたのなんて本当に何年ぶりかも覚えていないほどひさしぶりりだったから、余計にそれを誰にも見られるわけにはいかなかった。
 
(叶う望みがないってわかってるのに、どうやって夢を見たらいいんだ? 俺には無理だってわかってるのに、どうやってそれを望んだらいいんだよ……?)
 悔し紛れにこぶしを握りしめたけれど、それをどこかにぶつけるなんてことはやっぱりできなかった。
 
 だらんと腕を下ろした時に、病室の入り口のほうから声がした。
「海里ー起きてるかー?」
 珍しく兄貴が、実習の合間を縫って、見舞いに来てくれたのだった。
 
「階段の踊り場にひとみちゃんがいたんだけど……どうした? 喧嘩でもしたか?」
 本人はのんびりとした雰囲気なのに、兄貴の言うことはいつも的を得ているというか、鋭いというか。
 図星をさされると、俺はもう笑うしかない。
 
「喧嘩……じゃないけど、怒らせちゃったんだよ……」
「そっか」
 
 きっと俺の目が真っ赤に泣き濡れていることだって、とっくにお見とおしだろうに、兄気は余計なことは言わない。
 その代わり、重要なことに関しては単刀直入だ。
 
「ちゃんと謝っとけ。な? ひとみちゃんはいつだって、お前のために動いてくれてんだから……」
「うん……」
 
 口先だけで謝るのは簡単だ。
 でも本当の意味で、彼女の期待に添うことができるのだろうかと思うと、言葉は自然と鈍る。
 
 兄貴は窓際の椅子に座り続ける俺の所までやってくると、横に立って窓から外を眺めた。
 そちらに顔は向けないまま、俺は尋ねる。
 
「ねえ……俺っていろんなことから逃げてんのかな……?」
 あとから考えてみたら、ずいぶんとストレートな問いかけだったと思う。
 でもそんなことにも頭が回らないくらい、実はその時の俺は追い詰められていたのかもしれない。
 ――自分でも気がつかないうちに。
 
「ひとみちゃんがそう言ったのか?」
「うん……まあ……」
「そうか……」
 
 兄貴は俺のほうを向こうとはしなかった。
 面と向かうと照れ臭い思いもあるので、その判断は正直ありがたい。
 
 隣にいながら反対の方向を向いて、いつになく弱音を吐く弟に、兄貴はどこまでも優しかった。
「海里はいつも先回りしていろんなことを考え過ぎだからな……それが功を奏す時だってあるし、慎重過ぎるって批判される時だってあるさ……」
 
 兄貴が語る俺には、『病気だから』というハンデは存在しない。
 あくまでも、ただの一人の『一生海里』という人間として見て、評価してくれる。
 その見方からして、俺とは全然違うということがよくわかった。
 
(そっか……覚悟はしてても、それを言い訳にしたらいけない……そういうことなんだ……!)
 俺は俯いていた顔を跳ね上げた。
 
「じゃあさ……たまには俺だって……無理だってわかってることに向かってみてもいいのかな……?」
 
 ゆっくりと兄貴が俺のほうに向き直る気配がした。
 座る俺の頭上に、強い視線が注がれる。
 聞こえてきた兄貴の返事は、まるでひとみちゃんがさっき叫んでいた言葉とそっくり同じだった。
 
「無理かどうかなんてやってみなきゃわからない。それは俺だって、お前だって一緒だよ」
「そっか。わかった」
 まるで神様からでも許しをもらったかのように、俺はホッと息を吐いて、ギュッと両目を瞑る。
 
(だったら俺は諦めない。絶対もう一回真実さんの隣に戻る。彼女を守る役目を他の誰かに譲ったりなんかしない……少しでも長く一緒にいられるように、これからだってずっとずっと努力する……!)
 
 閉じた目をもう一度開いた瞬間、目線の遥か向こうにひとみちゃんが現われた。
 いつものような凛とした強さを取り戻した瞳で、真っ直ぐに俺を見ている。
 
 負けない意志をこめて、俺もひとみちゃんを見返した。
 
「ひとみちゃん……やっぱり退院したら、俺、高校に行くよ。絵も描くし。俺の一番行きたいところにも毎日行く。それでちゃんと病院にも定期的に検診に来て……って……あれ? これじゃやっぱり毎日学校行くのは……ムリか?」
 
 ボッと遠目に見てもわかるくらいにひとみちゃんは頬を赤くして怒った。
「だから! それはそれでいっぺんに欲張りすぎなのよ! 加減ってものを知らないわけ? ……バカ海里!」
 
 ひとみちゃんの不器用な優しさがいっぱいこもった、いつも通りの罵声が嬉しくて、俺は兄貴と一緒にお腹を抱えて大笑いした。
 ひさしぶりに歩く真実さんの大学へと続く長い道のりは、もう夏色が濃かった。
 初めて出会った夜は長袖のシャツを着ていたことを思えば、まるで駆け足で、数ヶ月が過ぎてしまったかのようだ。
 しかし実際には、俺と彼女が出会ってから、まだ一ヶ月ちょっとしか経っていない。
 
(密度が濃いっていうか……もう何から何まで俺の予定は狂いっぱなしっていうか……)
 
 二ヶ月前。
 今日と同じように病院を退院したあの日には、まさか自分がこんなに誰かを好きになるなんて、思ってもいなかった。
 その想いに背を向けるどころか、できるだけの間、彼女の傍にいようと決断するなんて想像もしなかった。
 でも――。
 
(この想いはきっと俺の力になる。もっと長く生きたいと願って、これまでよりずっと努力する原動力になる。きっと……!)
 
 だから、うしろめたさを感じる必要はない。
 真っ直ぐに前を向いて、いつものように真実さんに会いに行こう。
 
『いったいどこに行ってたの?』なんて、不安に思わせる隙もないほどに、入院する前と全然変わらない自分を必死に装って――。
 
 昨晩まで点滴のチューブが繋がっていた腕を持ち上げてみる。
 無数の針の跡は、捲り上げたシャツの袖を下ろしてしまえば見えない。
 
 顔色が悪くはないかと、出かける前に念入りに鏡ものぞいた。
 少なくとも真実さんが知っている俺以上に、ひどいやつれようにはなっていないはずだ。
 ――たぶん。
 
 気温はかなり高かったが、歩いてみると気持ちのいい風が吹いていてよかった。
 
「退院したその日にどこに行くのよ!」
 と怒鳴るひとみちゃんに、 
「散歩!」
 と笑って言えるくらいに、天気がよくてよかった。
 
 何もかもが俺にとって好都合で、何よりひさしぶりに真実さんに会えることが嬉しくて、だから俺はすっかり失念していた。
 ――彼女が決して、安穏とした平和な日常の中にだけ、住んでいるわけじゃなかったってことを。
 
 俺がこの日退院したのだって、単なる偶然なんかじゃなく、ひょっとしたら目には見えない誰かが、ギリギリのところで間にあわせて――いや間にあわせないで――くれたのかもしれなかった。


 
 真実さんが朝大学に行く時間は、ほとんど変わることはないけど、帰る時間は曜日によってまちまちだ。
 
 月曜日は昼一で終わるから三時前とか。
 火曜日はもう一限あるから四時半までとか。
 しっかり暗記してしまっているところが、我ながら怖い。
 
(今日は早く終わる日!)
 
 正門前で待っているのが俺の中の決めごとなので、真実さんが門から出てくるのにまにあうように家を出る。
 しかし大学へと続く広い舗道を半分まで来たあたりで、遥か前方に予想外の影を見つけた。
 
(あれ……? ひょっとして……?)
 
 スラリと背の高い髪の長い女の人と、小柄な短い髪の女の人。
 ――あれはひょっとして貴子さんと真実さんじゃないだろうか。
 
(どうしたんだろう?)
 首を傾げたのは、いつもよりかなり早い時間に二人が大学から帰っているせい。
 そして真実さんらしき人物が、まるでもう一人の人物に支えられるようにフラフラと歩いているせい。
 
(真実さん……だよな……?)
 そう思いながら、それまでのんびりと歩いていた足を少し速める。
 
 近づくごとに、その人が俺があんなに会いたかった人――真実さんだと確信を持つ。
 でも――。
 
(どうして?)
 あんなに危なっかしい足取りなんだろう。
 貴子さんにすがるようにして歩いてるんだろう。
 最後に会った時にはころころとめまぐるしいくらいに変わっていた表情が、凍りついたみたいに変わらないんだろう。
 そして――。
 
(首に巻かれてる白い包帯は……何?)
 
 頭の中で何かがスパークして、俺は全力で走りだした。
 ほんの数時間前まで病院に入院していたはずの自分の体のことなんて、――もうまったく頭になかった。
 
「真実さん! 真実さん! どうしたの?」
 走りこんで抱き止めた彼女の体は、ぐったりと力がなかった。
 意識を失って崩れ落ちるところにギリギリでまにあったことに、俺の背中を冷たいものが流れ落ちる。
 
「遅いんだよ! 少年!」
 さっきから同じセリフを何度もくり返している貴子さんは、真実さんを抱き止めた俺の胸ぐらを力任せに掴んだ。
 いつも真実さんの傍にいて、どんなことからだって自分が守ってみせると自信満々のあの貴子さんが、真っ青な顔で震えている。
 
「貴子……さん……?」
 悔しそうに俺から目を逸らした貴子さんは、俺のシャツを掴んだ手も、力なく下ろした。
 
「ごめん。八つ当たりだった……」
 冷静さを絵に描いたような人だと常々思っていたのに、いったいどうしたのか。
 貴子さんの動揺はきっと、真実さんの今の状態と無関係なわけがない。
 
 腕の中の小さな人を見下ろしてみる。
 初めて会ったあの夜のように、可哀相なくらいに頬が腫れていた。
 他にも小さな引っかき傷のようなものがいくつかある。
 うっすらと血が滲んだ傷にそっと指先で触れて、俺はそのまま彼女の首に巻かれた包帯を撫でた。
 
 小さな顔は俺なんかよりよほど蒼白で、固く閉じた睫毛が濡れているのが、たまらなく俺の胸を灼いた。
 
「どうして……?」
 必死に感情を押し殺そうとしているのに、声が震える。
 どうしようなく湧き上がってくるある疑いに、感情が引きずられる。
 
「何が……あったんですか……?」
 ふうっと息を吐き出した貴子さんは、苦しげな声でポツリポツリと、今日大学で起こった出来事を俺に教えてくれた。
 
「大学で……岩瀬に捕まったんだ……真実は逃げようとしたし、私たちも助けようとしたんだけど……そうできないでいるうちに、首を……!」
 
 ゾクリとどうしようもなく背筋が粟だった。
 否応なく視線が引き寄せられるのは真実さんの首に巻かれた包帯。
 
(ダメだ。このままじゃ怒りで感情が焼き切れる! 憤りが激しすぎて、動悸から発作が起きてしまう……!)
 
 俺は貴子さんの言葉を最後まで待たずに、真実さんの体を両腕に抱き上げた。
 
「……おい? 少年……?」
 訝しげに呼びかける貴子さんのほうはもうふり返らず、真実さんを抱きかかえたまま、彼女のアパートに向かって歩きだす。
 
「帰りましょう。貴子さん」
 それだけ言うのがせいいっぱいだった。
 長い前髪の下で深く俯いた顔は誰にも見せられなかった。
 
 何度も何度も真実さんを傷つけるあの男と――それから自分自身に、腹が立ってたまらなかった。


 
 たとえば俺がもしその場にいたら、真実さんを守ることができていただろうか。
 ――答えはわからない。
 
 残念ながら俺の体は、人に自慢できるほど立派なものではない。
 でも真実さんが危険な目にあったら、それを止めに入るくらい、ほんの少しでも盾になるくらいはできたはずなんだ。
 それなのに――。
 
(俺は今日何をしてた……?)
 
 病院を出て、家に帰って、午後からのために午前中はちょっぴり体を休めて。
 それらは決して悪いことではない。
 悪いことであるはずがない。
 
 なのに、――真実さんを守れなかった!
 ――その思いが、どうしようもなく俺を苛立たせ、落ちこませる。
 
 彼女のために何ができるのか。
 もっと真剣に考えればよかった。
 
 時間がきっと解決してくれるなんてやさしいセリフ。
 真実さんだけに任せておいて、俺はもっと血眼になってあの男を追えばよかった。
 
 用心のためになんて自分の体ばっかり労わらずに、彼女から目を離さなければよかった。
 ずっと、ずっと傍にいればよかった。
 
 こめかみが引きつるほどに奥歯を噛みしめて、ベッドで眠る真実さんの傍らに座りこみ俯いた俺に、貴子さんが呼びかける。
 
「真実はあんたをずっと待ってたよ……どこに行ってたのかなんて野暮なことは聞かない……でも本気でこの子の傍にいてくれるのか、無理なのか……こんな時で悪いけど本心を聞きたい……!」
 
「…………!」
 俺は顔を跳ね上げた。
 
 貴子さんが眼鏡の奥の鋭い瞳を、いつもよりかはいくぶん和らげて、俺に向けていた。
 
「なんで真実ばっかりこんなひどい目にあわなきゃならないんだ? もっと幸せになってほしいって心から思うよ……! 真実が好きなのはあんただ……あんたは真実を幸せにできるのか……それとも無理なのか……これ以上この子が傷つく前に、はっきりさせろ……! 無理だって言うんなら、もう真実の前に現われるな!」
 
「俺は……!」
 何も言えない。
 言えるはずがなかった。
 
 どれだけ真実さんを想っているのかとか、どれだけ彼女が好きなのかとか、もしそんな気持ちだけをはかるんだとしたら、誰にも負けない自信がある。
 
 会いたい。
 傍にいたい。
 触れたい。
 抱きしめたい。
 
 守ってやりたい。
 笑顔が見たい。
 幸せにしたい。
 ずっとずっと一緒にいたい。
 
 溢れんばかりの想いなら、絶対誰にも負けない。
 
(でも俺には……!)
 
 未来がない。
 彼女と共に歩く将来を夢見るだけの時間がない。
 どんなに望んでも、どんなに願っても、決してそれだけは手に入らないことがもう決まってしまっている。
 だから――。
 
「俺は……!」
 それ以上は続けることのできない言葉を、何度もくり返すしかなかった。
 
 こんなに真剣な貴子さんに嘘はつきたくないから、できもしないことをできるとは言えない。
 でもそうできるものなら本当はそうしたいのにと、心が叫んでいるから、真実さんを諦めるような言葉は言えない。
 
 ――俺には絶対言えない。
 
「俺は……!」
 てのひらに爪が食いこむほどにギュッときつくこぶしを握りしめて、俯くことしかできない俺の名を、ふいに真実さんが呼んだ。
 
「海君……」
 慌ててベッドの上で横になっている彼女の顔をのぞきこむ。
「真実さん……?」
 
 目が覚めている様子はなかった。
 少し苦しそうではあるが、比較的規則正しい寝息をたてている。
 俺が返事をした途端、苦しげに少し寄せられていた眉根が緩んで、あどけなく綻んだ寝顔が胸に痛かった。
 
(真実さん……! 真実さん……!)
 
 この寝顔を守るためだったら、どんなことだってやる。
 やりたい。
 なのに俺にはどうして時間がないんだ。
 
 涙が浮かんできそうな思いで、唇を噛みしめる。
 そんな顔を誰にも見られたくなくて、再び俯いたんだったのに、頭上から貴子さんの声がした。
 
「わかった……よっぽどの事情があるんだってことと、それでもあんたが真実の傍にいたいって思ってるってことはよくわかった……!」
 
 俺の本心をかなり正確に言い当てられて、ドキリと心臓が跳ねる。
 それでも顔を上げて、貴子さんの顔を見ることはできない――今はちょっとできない。
 
「約束してくれ……真実をこれ以上傷つけないって……どうすれば真実が幸せになれるのか、あんただってちゃんと考えている……そうなんだろ?」
 
 俺が頷いたのと、ベッドの上の真実さんが身動きしたのがちょうど同時だった。
 
「真実!」
 俺と貴子さんが見守る中、真実さんがゆっくりと瞼を開けた。
 
 目を覚ました途端に、真実さんは上からのぞきこんでいた俺の顔に手を伸ばした。
 頬にそっと触れて、
「会いたかったよ」
 と消え入りそうな声で囁く。
 
 その儚げな笑顔がたまらなく胸に痛かった。
 
 涙が浮かんできそうな衝動を必死にこらえて、真実さんの手に、自分の手を添える。
「俺もだよ」
 せいいっぱいの想いをこめて、そう返した。
 
 しばらく俺の顔をぼんやりと見上げていた真実さんの目が、次第に揺らぎ始める。
 俺の顔から部屋の天井、そこから部屋の壁、見つめる先を変えるたびに、どんどん動揺していくのが手にとるようにわかる。
 
(ひょっとして、寝ぼけてたのかな……?)
 
 そうに違いない。
 そうでなければ意外と照れ屋で意地っ張りな真実さんが、俺の顔を真っ直ぐに見上げて「会いたかった」なんて言うはずがない。
 焦りを含んできた顔をじっと見下ろしていると、自然と頬が緩んでくる。
 
「一応、私もここにいるんだけどね……なに? 真実、気がついたの?」
 背後から貴子さんのちょっと不機嫌な声が聞こえた。
 
 真実さんは瞳をまん丸に見開いて慌てて飛び起きようとし、
「痛っ」
 と悲鳴を上げて動くのを止めた。
 
 かわいそうに、と思うのに――ダメだ。
 笑いが止まらない。
 
「海君?」
 そんな困り切ったような表情で俺を見上げないで。
 わざと意地悪して、すました顔で、
「うん。なに?」
 なんて答えてしまうから。
 
 真っ赤になって、俺の頬に添えた手をひっこめようとしないで。
 決して離さないように、ますます強く掴んでしまうから。
 
「真実も大丈夫そうだし、お邪魔になるのもなんなんで……じゃ、私はそろそろ帰ろっかな……」
 俺のうしろで立ち上がる貴子さんに、真実さんはまるで助けを求めるような顔を向ける。
 
(そんな顔しなくたって……)
 少なからず傷つく俺に、貴子さんが釘を刺すように言う。
 
「おい。相手は怪我人なんだから、無茶するなよ少年。真実の悲鳴が聞こえたら、私がすぐに飛んでくるからな」
 
 もちろん『無茶』するつもりなんか始めっからないのに、あえてそうつけ加えられると、むくむくと変な負けん気が起きてしまう。
 
「貴子!」
 講義の声を上げた真実さんを、抱き起して抱きしめて、
「はい。約束はできないけど、努力はします」
 聞きようによってはどうとでも取れる言葉を、ニッコリ笑いながら貴子さんに返した。
 
「海君!」
 真実さんの叫びは、悪いけど今だけは無視だ。
 
 ふり返った貴子さんは何かを探るように、しばらくじっと俺の顔を見つめていた。
 それはきっと、さっきまで二人で話していたことの確認。
 ――真実さんをこれ以上傷つけないように。彼女が幸せになるためにはどうしたらいいのかちゃんと考えろという指令。
 
 俺はできる限り真剣な顔で、貴子さんを見つめ返した。 
(絶対に忘れませんから! 自分の引き際はちゃんと見極めますから!)
 
 クルリと貴子さんが俺たちに背を向けた。
「よし。じゃあとはよろしく!」
 うしろ手に手を振りながら、さっさと部屋から出て行ってしまう。
 
 バタンとドアの閉まる音に、ビクリと真実さんの体が震える。
 恐る恐る俺を見上げた顔が、かわいそうなくらい途方に暮れていた。
 
「海君は……まだ帰らないの……?」
 いかにも帰ってほしいと言わんばかりにそう尋ねられると、 
「うん。今日はひさしぶりだし……もう少し傍にいるよ……」
 ついつい笑顔でそう答えてしまう。
 
 とは言え、狭い部屋に身動き取れない真実さんと二人っきりで取り残されて、実際途方に暮れていたのは、俺のほうだった。
 


 誰かを好きになったら、その人を手に入れたいと思うのは当然で、触れたいと思うのも当たり前のことなのかもしれない。
 でも俺は自分がそんな感情を持つことに、罪悪感しかない。
 
 ずっと一緒にいることもできないのに、その場の感情だけで俺が突っ走ってしまったら、真実さんを傷つけるだけだ。
 悲しい思いをさせてしまうだけだ。
 
 だからそんなこと、初めから望んだりしないように、せいいっぱい自制して接しているのに、二人きりでこんなに寄り添っているのは、ある意味拷問かもしれない。
 ずっとずっと真実さんを抱きしめていたいけれど、俺にその資格はない。
 
(それに俺は、真実さんを守ってやることができなかったんだから……)
 その事実が胸に痛かった。
 
「……海君」
 ふいに真実さんが俺を呼ぶ。
 ゆっくりと視線を向けた先では、彼女がとっても心配そうな顔で俺を見上げていた。
 
(自分のほうがひどい状況だっていうのに、真実さんはいつだって俺の心配ばっかりだ……)
 
 優しい人。
 俺にとっては出会えたことが奇跡みたいな――俺の全てを包みこんで許してしまう人。
 いつだって甘えてばかりで、守りたいって気持ちばかりで、俺は結局何一つ真実さんに返せてなどいない。
 
「……海君」
 もう一度呼ばれたから、小さく笑って、その傷ついた体をそっとベッドの上に横たえた。
 離したくないという俺の感情だけで、彼女に無理をさせたらいけないと、形ばかり格好をつける。
 
「海君は何も悪くないよ……」
 胸が締めつけられるように痛かった。
 自分の一言がどれだけ俺を救ってくれるのか、真実さんはわかってるんだろうか。
 いや、きっとわかってなどいないのだろう。
 
 それでも無意識のうちに、俺がその時一番欲しい言葉をくれる。
 どうしてこんな優しい人が、俺の傍にいてくれるんだろう。
 ――何ひとつ成し遂げることもできはしない、こんな俺なんかの傍に。
 
「でも……ゴメン……」
 自分を戒めるかのように、俺は首を横に振った。
 
「海君が謝ることは、なにもないんだよ……?」
 優しい言葉が、底なしに優しい言葉が俺を慰めてくれる。
 でもそれに甘えてしまってはいけない。
 自分の無力さを忘れてはいけない。
 
「でも……守ってあげられなかったから……」
 詫びるように、後悔するように、俺は真実さんの髪を指先でそっと梳いた。
 真実さんは俺の目の前で、まるで安心しきったように無防備に目を閉じた。
 
「ありがとう。でも大丈夫……海君がそんなふうに思ってくれてるだけで、私は本当に幸せだから……」
 息が止まりそうだ。
 必死にこらえていないと思わず愛しさが溢れ出して、彼女に手を伸ばしてしまいそうになる。
 
「大丈夫だよ……私は大丈夫だから心配しないで……ね?」
 お願いだから、俺をそんなに信用しないで。
 キミために何ひとつできやしないこんな俺を、どうか許してしまわないで。
 
「でも……できるつもりでいたんだ……せめて真実さんを守るくらいは、俺にもさせてもらえるんじゃないかって……勝手にそう思い上がってた……!」
 結局本音がもれる。
 
 真実さんが目を閉じていてくれたのが、せめてもの救いだった。
 らしくもなく感情を吐露する姿は、おかげで見られなくて済む。
 
「俺はこんなにも無力だ。ちっぽけで、何も望めない存在だ。だけどたった一人だけ、真実さんのためにだけは、何かができるんじゃないかと思ってたのに……きっと俺はそのために生まれてきたんだって、ようやく胸を張って言えるって思ってたのに……!」
 
 かなわなかった希望。
 打ち砕かれた願い。
 あまりにも無力な自分。
 
(俺は真実さんの隣にいるのにふさわしくない……ふさわしくなんかないんだ……!)
 
 貴子さんと約束した引き際を、最早すぐ目の前に感じたその時、真実さんがまた苦しい喉を無理やり使って声を出した。
 
「私は、何度も何度も助けてもらったよ……? 海君のおかげで、今の私があるよ……?」
 つうっと一筋、閉じたままの真実さんの長い睫毛から、涙が頬を伝って落ちる。
 
「海君がいなかったら今の私はいないよ。だから海君は無力なんかじゃない……いつだって海君がいてくれるおかげで、私はこうやって笑えるんだから……」
 そして言葉のとおり、――目を閉じまま彼女は笑った。
 
(真実さん!)
 
 胸が切り裂かれるように痛かった。
 ギリッと奥歯を噛みしめて、どこにいるのかわからない「誰か」に乞い願う。
 悲鳴を上げるかのように心の中で叫ぶ。
 
(お願いだ……一生に一度のお願い……! だから……この人を俺に下さい。他には何も望まない。俺はもうほんとうに他には何もいらないから! ただ真実さんだけ――。俺に――!)
 
 激情のままに彼女に頬を寄せようとして、ゆっくりと目を開いた真実さんと、今までとは比べものにならないほど近くで見つめあった。
 驚いたように、とまどったように、それでも決して俺から逃げようとはせず、もう一度目を閉じた真実さんに、もっと近づこうと思って、――そして俺は、やっぱり思い止まった。
 
(俺にはもう時間がない。……そう……時間がないんだ。そのことを忘れるな……!)
 自分自身の心の声が、俺の行動に待ったをかけた。
 
 ふっと自嘲気味に笑ってから、真実さんの耳元で小さな声で囁く。
 もう二度とは言わないつもりで、たった一度だけ、俺の本心を伝える。
 
「……ありがとう真実さん。何も望めないってわかっていても……やっぱり俺は、真実さんだけは望まずにいられない……できるなら俺のものにしてしまいたい……!」
 そして、彼女の近くからそっと身を退いた。
 
(終わった…)
 安堵とも悲しみともつかない感情で、ずっと握りしめていたこぶしを解いた。
 
 しばらくそのまま目を閉じていた真実さんが、ゆっくりと瞼を開ける。
 少し離れた位置に座り直した俺の姿を確認して、涙が幾つも幾つも大きな瞳から零れ落ちた。
 
(泣かせたくなんかないのに……! ゴメン!)
 自分の感情に引きずられそうになって、彼女を巻きこんだことを、心からすまなく思う。
 
 そんな俺に向かって真実さんはベッドの上に起き上がり、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「真実さん!」
 驚いて押し止めようとした俺の手を、真実さんはゆっくりと潜り抜けた。
 そしてそのまま俺の近くに、――ついさっき俺が我を忘れて近づいてしまったぐらいまで近くに――来てくれる。
 
 惹かれるままに頬に伸ばした俺の手を、彼女は避けたりしなかった。
(どうして……!)
 俺が本当に望んでいることを、この人は受け入れて許してしまうんだろう。
 それがたとえどんなことでも――。
 
 俺にはそんな資格はない。
 ないってことは、誰よりも自分が一番よくわかっている。
 
 なのに、ダメだ。
 弾けそうに高鳴り始めた心音と同じで、もう自分で自分が止められない。
 
「でも、真実さん……本当に俺には、そんな権利ないんだよ……真実さんに触れる資格なんてないんだよ……」
 
 最後の悪あがきのような俺の言葉にも、真実さんはふわっと笑った。
 それは俺の大好きな、優しい優しい笑顔だった。
 
「権利とか資格とか……よくわからないけど、そんなものは私のほうにこそないと思う。海君が気にすることじゃないよ。でもなんだか意識しすぎちゃうから……やっぱりいつもみたいに戻ろう……?さっきのは聞かなかったことにするから、海君も忘れて……!」
 
 何もかもを許さないで。
 そんなに悲しそうな目で笑う真実さんに、俺は最後の幕引きまでさせたいわけじゃない。
 
 ――俺の本当の願いは、そう、そんなことじゃない。
 
「でも俺は真実さんに触れたい。俺のものにしてしまいたい。その気持ちだって本当なんだ……」
 
 もう決める。
 勝手に決める。
 
 俺は負けないから。
 絶対に諦めないから。
 
 真実さんを泣かさないために、もっと努力するし、もっとがんばる。
 だから――ゴメン。
 
「海君。言ってることがめちゃくちゃだよ……!」
 笑いながら俺に伸ばされた真実さんの細い手をそっとつかんで、引き寄せる。
 抵抗もなく寄り掛かってくる体を抱き締めて、
 
「……海君?」
 見上げてくる真実さんの瞳に近づく。
 
 もっと。
 もっと。
 自分が本当に望むままに――。
 
(ゴメン。覚悟とか、負い目とか、資格とか、いろいろ考えたって……やっぱり俺は真実さんが好きなんだ。……誰よりもあなたが好きなんだ……!)
 
 絶対触れてはいけないとあんなに自分を戒めていたのに、俺はやっぱり真実さんにキスをした。
 
 ――これが罪だって言うんなら、俺はどんな罰だって受ける。
 
 自分の運命としっかり向きあって生きていくことを、俺は途中で投げ出したわけじゃない。
 ――ただ、戦う覚悟をした。
 
 初めてキスした真実さんを何度も何度も抱きしめて、たくさんの幸せと喜びをもらったから、俺はその思いをそのまま、彼女を守る力に変えようと思った。
 
「じゃあ、また明日」
 いつものように小さな約束を残して、部屋を出た瞬間、決意を込めて歩き出す。
 本当は駆け出したいくらいの衝動を、やっぱりそうはできない自分の体調を慮って、力強い歩みに変える。
 
 以前村岡さんから教えてもらった住所を頼りに、必死にその部屋を探した。
 あの男――岩瀬幸哉の部屋を。
 
 初めて出会った夜。
 真実さんが傷だらけで歩いていた道を逆にたどって行けば、きっと行き着くんだろうってことは、あらかじめ予想ずみだった。
 
 でも白い鉄筋作りのこじんまりとしたそのマンションを目の前にしたら、やっぱり怒りなんだか嫉妬なんだかよくわからない感情で、息が上がってきた。
 
(落ち着け!)
 こんなところで発作を起こすわけにはいかない。
 絶対に。
 
 一度だけ偶然見てしまった真実さんの写真。
 ――おそらくあいつが意図的に置いていった、きっとこの場所で撮られた写真が、意識の底からぼんやりと浮かんでこようとする。
 だから俺は、それを必死に打ち消す。
 
(落ち着くんだ! 真実さんは今、俺の腕の中にいる。いるんだから!)
 自分の手をじっと見ていたら、優しい笑顔を思い出した。
 俺に向けられる――なんの見返りも求めていないような真実さんの笑顔を。
 
 大丈夫。
 身動きするたびに鼻をくすぐる甘い香りも、背中にまわされた腕の感触も、俺を呼ぶ優しい声も覚えてる。
 ――だから大丈夫。
 
 俺は毅然と顔を上げて、そのドアの前に立った。
 何度か鳴らしたチャイムに応答はなかった。
 部屋の中で誰かが動きだした気配もない。
 
 警察には、両親があいつの身元引受人としてやって来たと村岡さんが言っていたから、本当にここにはいないのかもしれない。
 ピンと張り詰めていた緊張が緩んで、思わずその場にしゃがみこみそうになる。
 
(あいつは、もう一度ここに帰って来るだろうか?)
 俺ならきっと、その答えはNOだ。
 でもあの男がどんな人間なのかを、俺は詳しく知ってるわけじゃない。
 
 ただ、ここには帰って来なくても、真実さんの周りにもう一度現われる可能性だったら、限りなく100%に近い気はした。
 
(そうはさせない……!)
 いくらチャイムを鳴らしても、ドアを叩いても応答のない部屋に背中を向けながら、こぶしを握りしめる。
 (もう一度、真実さんの前に現われたなら……その時は絶対に許しはしない!)
 俺にできることなんて何もないと悲観ぶる前に、俺はこれからは自分にやれるだけのことをやる。
 その結果何が起こったとしても――その時は、その時考える。
 
 行動にしたって、人とのつきあいにしたって、これまで慎重に慎重を重ねて生きてきた俺にとっては、まるでらしくない決断だった。
 でもそれは決して投げやりな思いなんかじゃない。
 
 ――確かにその時の、俺のせいいっぱいの決意だった。


 
 朝の柔らかな陽射しの中。
 真美さんの姿がドアの向こうから現われた瞬間から、俺の一日は始まる。
 
 それ自体は昨日までとまったく変わらないのに、どこかが――何かが違う。
 明らかに昨日から。
 そう――初めて彼女に触れたあの瞬間から、俺の中で何かが変わった。
 
 ふと目があった瞬間に真っ赤になって俯いてしまう顔を見ているだけで、嬉しい気持ちは同じなのに、思わず手を伸ばして引き寄せてしまいそうになる。
 
 朝の往来のど真ん中。
 しかも背後には文字どおりお目つけ役の貴子さんつき。
 それなのに恐いもの知らずというか、どこかのネジが緩んだとでもいうか、俺の頭の中はまるでピンク色だ。
 
「おはよう」
 ニッコリと笑って、俯く顔をのぞきこむと、真実さんはますます赤くなるから、性質の悪い悪戯心がどんどん加速する。
「どうしたの……俺の顔になんかついてる?」
 無意識なんだか意識的なんだか自分でもわからないままに、もっと真実さんに顔を近づけようとした瞬間、彼女のうしろから殺気を感じた。
 
(うっ……やっぱりダメか……)
 貴子さんは、俺がしばらく真実さんの傍を離れていたことを、まだ許してくれてはいない。
 昨日はかろうじて二人きりにはしてくれたが、今朝こうして一緒に出てきたところをみると、やっぱり全幅の信頼とは、まだまだほど遠いようだ。
 
(……やっぱり無理か……)
 内心ため息だらけの心を押し隠して、俺はキリッと背筋を伸ばし、まるで中学生か高校生が上級生にするみたいに、ハキハキと大きな声を心がけて、貴子さんに頭を下げた。
「おはようございます。貴子さん」
「おはよう少年。やっぱり今日から真実の送り迎えが復活だね」
「はい」
 
 眼鏡の奥の鋭い瞳が、値踏みするように俺の全身をくまなくチェックする。
 まるで警察で取り調べでも受けているような気分で、直立不動で立ち尽くす俺を、真実さんはちょっと不満そうな顔で見上げた。
 
(……ひょっとして情けない奴だって思ってる? でも俺は貴子さんにだけは、ちゃんと正面から、正々堂々と認められたいんだ……!)
 
 貴子さんは真実さんのことをとても大切にしている。
 真実さんが幸せになることを強く望んでいる。
 だから俺がこれからも真実さんの傍にいるためには、どうしても貴子さんの信頼を勝ち得なければならない。
 
 不審な思いを抱かせている部分も、きっと俺にはたくさんあるだろうから、せめてちゃんとできる部分では、誠意を見せたい。
 ちゃんとしておきたい。
 そうでなければ、たとえ真実さんが許してくれたって、本当の意味で、俺が真実さんの隣に居る資格はないと思う。
 
 貴子さんはしばらく俺を検分したすえに、眼鏡をぐっと人差し指で押し上げながら、ニヤッと笑った。
「じゃあ……真実と一緒にさっさと行け」
 
(やった!)
 ガッツポーズしたいくらいの気持ちを笑顔に変えて、俺は貴子さんに頭を下げた。
 さっと真実さんの手を取ると、急いで歩き出す。
 
「えっ? 貴子は? 一緒に行かないの?」
 ふり返りながら真実さんは叫んでいるけれど、貴子さんは、 
「誰がそんな野暮な真似するか……! 一人でゆっくり行くほうがいい」
 と返事しているようだ。
 
 二人の意志の疎通が終わった瞬間に、
「行こう」
 俺は真実さんの手を引き、駆け出した。
 
「え? なに? どうしたの? なんでこんなに急ぐの……?」
 問いかける真実さんをふり向いて、真っ直ぐに見つめながらニッコリと笑う。
 
「せっかく貴子さんからOKをもらったんだから、少しでも早く二人きりになろうと思って!」
 半分嘘で、半分本気だった。
 
 少しでも長く真実さんと二人きりでいたい――と同時に、絶対にあの男に捕まるわけにはいかないという思いが俺を急がせる。
 
 昨日の今日だからこそ、あの男がどこからか彼女を見張っているような気がしてならなかった。
 だから繋いだ手にぎゅっと力をこめる。
 
 この人は俺の大切な人なんだと――他の誰でもなく俺と一緒にいることを望んでくれたんだと誇示するように。
 
(世界中に聞こえたってかまわない……真実さん俺のものなんだって、叫びたい!)
 
 でもそうはできない現実をしっかりと自覚しながら、俺は小さな手を引き、人ごみの中を懸命に駆けた。


 
 走っている最中。
 小学生の頃、具合が悪いのに嘘ついて参加した長距離走のことを、ふと思い出した。
 
 もっともっとと、気持ちはどんどん先に進むのに、体が全然ついていかない。
 ――あの時のどうしようもないほどの焦燥感と絶望感。
 
(確か……前年の自分の記録を塗り替えたなら、賞状がもらえるんだったんだ……あの時はどうしてもそれが欲しくって……!)
 
 具合が悪いのに嘘ついて参加して、途中で心配してくれた先生にも「大丈夫です」って意地を張って、結局そのあと発作が起きて、俺はしばらく病院から出られなくなった。
 
(さすがにあの時よりは、俺だって大人になった……!)
 
 そう満足しながら、俺は舗道に人が多くなるに連れて、駆けていた足を歩みへと変える。
 呼吸を落ち着かせようと大きく息をくり返す。
 それでも――。
 
「待って……! ねぇ、そんなに急がなくても……!」
 息を切らしながらあとからついてくる真美さんに、
「ダメ。早く行ったほうがいい」
 ふり返りもせず答えて、早足を緩めることだけは決してしなかった。
 
 結局、大学の始業時間よりずいぶん早くに、俺たちは正門近くにたどり着いてしまって、近くの公園でしばらく時間を潰すことになった。
 できれば息の乱れた姿なんて見せず、平気なフリのまま真美さんを見送りたかったが、そうも言ってはいられない。
 
 誰より俺自身が、まだ真美さんと離れたくない。
 
 公園のベンチに並んで座ったら、俺は自動販売機で買ったペットボトルを片手に握りしめたまま深く俯いて、反対の手を胸に当てた。
(大丈夫、大丈夫だ……落ち着け! 落ち着け!)
 懸命に大きく深呼吸をくり返せば、乱れきっていた息だって次第に整ってくる。
 
(そう。あともう少し……もう少し……)
 一瞬でも早く、俺のヤワな心臓を元の状態に戻すためには、少しの動揺だってしてはならないと緊張していたのに、その時、真美さんが隣でぽつんと呟いた。
 
「そんなに急がなくて良かったのに……」
 俺を労わって、気遣ってくれているようなその口調に――ダメだ。
 気にしないようにしようとしたって、どうしても胸が痛む。
 
(ゴメン……余計な気を遣わせて……ほんとゴメン!)
 少しでも真美さんを安心させようと、俺は体勢はそのままに、せいいっぱい笑ってみせた。
「ダメだよ。あいつが真実さんを待ち伏せしてるかもしれない。ちゃんと安心できるまでは、俺は気を許さない……! 真実さんをあいつに会わせたりなんか……絶対しない!」
 
 笑顔のわりには言ってることがずいぶん辛辣だと、自分でも思った。
「しまった」と思ったとおり、真美さんの顔はみるみるうちにとても悲しそうな表情になった。
 
(なにやってるんだ……俺は!)
 ダメだ。
 自分で自分が嫌になる。
 
 それなのに真美さんは、俺の頬にそっと指を伸ばしてくる。
「ゴメンね。海君」
 
 自分に対する怒りを持て余したまま、俺もつられるように、そっと真美さんの頬に触れた。
 滑らかな肌の感触。
 そのまま小さな顔を上向かせて、自分のほうを向かせる。
 
 思わず頬を寄せそうになる邪念を必死に払いながら、俺は伸ばしっぱなしの自分の長い前髪をかき上げた。
 ――それは俺の小さな儀式。
 
 この行動で見えないものが見えるようになる時もあれば、暴走しかけていた感情が、すっと落ち着く時もある。
 俺は真実さんに向かって、せいいっぱいの意地で笑った。
 
「どうして真実さんが謝るの? 真実さんを守るって勝手に決めたのは……俺なんだから……!」
 必死に平静を装った俺の演技は、どうやら真実さんに通じてくれたらしい。
 ホッとしたように彼女が息を吐くのを指先で感じてから、俺は頬から手を放した。
 倒れこむようにベンチの背もたれにもたれかかる。
 
 本当はこれ以上は一秒だってもたなかったギリギリの緊張感を全部放り出して、空を見上げて息をついた。
「何だってやるよ……俺は!」
 
 それはまったくもって、俺の本心だった。


 
 冷たいペットボトルを額に押し当てて目を閉じていると、次第に本当に体調も落ち着いてくる。
 と同時に、心配させてばかりの真実さんに申し訳なくて、たまらなくなってくる。
 
 なんとか笑わせることはできないかと頭を捻って、俺は彼女と自分の共通の話題と成り得る、数少ない人物の話を持ちだした。
 
「それにしてもさ……貴子さんって凄いよね……」
 思ったとおり、真実さんはイキイキとその話題に乗ってくる。
 ――気配がする。
 
「凄いよ。勉強はもちろん、どんなことだって知らないことなんてないし……いっつも余裕だし……貴子から見たら私なんて、子供みたいなものかも……!」
 実に真実さんらしい素直な感想に、俺は思わずハハハッと笑いだした。
 
「それはそうかも!」
 あまりにもあっさりと肯定したために、意外と負けず嫌いな真実さんはムッとする。
 
 そんなことは最初から計算の上だ。
(なんでかって……それはやっぱり……俺は真実さんの怒った顔が、かなり好きだから……!)
 
 今頃、あの上目遣いのかわいい表情で、俺の顔を見上げているかもと思うと、とても目を閉じてなんていられない。
 
「海君だって! 貴子の前だったら、まるで従順な、普通の高校生じゃない!」
 唇を尖らせている表情さえ瞼に浮かんできそうな棘のある声に、俺はたまらず目を開けた。
 
「俺は、いつだって年上の人は敬ってるけど?」
 意地悪くとぼけてみせると、真実さんはますますムッとしたような顔になる。
 
「私は? 私のことはいつもからかってばかりでしょ!」
「ハハハッ。だって俺、真実さんを年上だなんて思ったことないもん……!」
 
 お腹を抱えて笑い出しながらも、そろそろ自重しようと考えていた。
 いくら怒った顔が好きだからって、あまりにもからかい過ぎて、せっかく二人きりなのに、プイッとどっかに行ってしまわれてはたまらない。
 
「年上だと思ってないんだったら、どうして海君は私のこと『さん』づけで呼ぶの?」
 正論で責め始めた真実さんに、俺は待ってましたとばかりに最終手段に出た。
 
「ああ、それはね……」
 ニッコリと笑いながら、真実さんの細い顎に手をかける。
 
「う、海君……?」
 思わず身を引こうとする真実さんの耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で囁く。
 
「俺が真実さんの名前を呼び捨てで呼ぶ時は、どんな時かって、最初から決めてるから……」
 自分でも吹き出してしまいそうなくらい、もの凄く意味深な言葉。
 
 予想どおり真実さんは首まで真っ赤になって、ガチガチに固まってしまっている。
 
 俺は笑いだしてしまわないことだけに全身全霊をかけながら、ごく間近から真実さんの瞳をのぞきこんだ。
「なんなら、今からでもいいよ? ……そうする?」
 
 途端、今まで以上に真っ赤になって、真実さんは首をぶるぶると必死にふり始めた。
「いい! いいですっ! よ、呼ばなくていいからっ!」
 
 大慌てでぶんぶんと手まで振られて、もうどうしようもなく、愛しくてたまらなくなった。
 俯くその顔に斜めに顔を近づけて、そっとキスする。
 
「海君!」
 驚く真実さんに、本心のまま素直に頭を下げた。
 
「ゴメン、真実さん。でももう俺は、迷うのはやめたんだ。いろんなことを頭の中でグチャグチャ考える前に、自分が本当はどうしたいんだかをちゃんと態度で表すことにした。真実さんがそれを許してくれたんだって、俺は勝手に解釈したんだけど……違った? ……違ってたらゴメン……」
 
 どんな言葉が返ってくるのかと、半ば心配しながら、半ば期待しながら、笑って待つ。
 真実さんはただ、潤んだような瞳で俺を見つめた。
 その表情に、視線に、吸い寄せられるように手が伸びる。
 
 返事すら待てない、せっかちな俺。
 真実さんの頬に手を添えて、もう一度顔を近づけながら、
「違ってる?」
 間近で囁いたら、ようやく返事をもらえた。
 
 熱に浮かされたような、かすれた声。
「ううん……違わない」
 
 そして俺のすぐ目の前で、長い睫毛はぴったりと閉じられる。
 彼女の唇に触れる瞬間、俺の中では世界の何もかもが変わる。
 目を開いた次の瞬間にはきっとまた、さっきまでとは少しだけ違った世界になっているのだろう。
 
 全身を貫く甘く甘美な想い。
 それはきっと、もっと生きたいという俺の思い。
 いつだって心の奥深くでは、捨て去ることのできなかった願い。
 
 ――その全てを赤裸々に、俺の感情の表面へと浮かび上がらせてしまうこの小さな人が、たまらなく愛しくて、ほんの少し恐かった。
 真実さんと会える朝のひと時は、一日の中でも俺の一番好きな時間だと言っても過言ではない。
 でも大学の正門が長い舗道の向こうに見え始めると同時に、自然と胸が痛んでくることにだけは、いつまでたっても慣れなかった。
 
(また夕方まで会えない……)
 寂しいばかりではなく、今日はことさらに複雑な心境で、俺は繋いだ真実さんの手をぎゅっと握りしめる。
 昨日あんなことがあったばかりだから、本当はその手を放したくなんかなかった。
 
「海君?」
 俺の顔を真っ直ぐに見上げてくる黒目がちの大きな瞳は、案外相手の心理を読むことにも長けているから、今だってきっと、俺の身勝手なわがままくらい聡く察知してしまっているんだろう。
 なのに――。
 
(あーあ……俺って本当に格好悪いよなぁ……)
 俺は心の中でため息をくり返すばかりで、手を放すつもりにはまだ全然なれない。
 
「うん。何?」
 なんでもないように笑って、すました顔で問いかけることが、こんなに苦しい時もあるんだってことを、俺は真美さんと出会ってから初めて知った。
 
「ううん。なんでもない……」
 きっと気を遣わせて、言いたいことだってのみ込ませてしまっているんだろうに、どうすることもできない。
 
 自己嫌悪に苛まれる俺を救ってくれたのは、背後からかかった明るい声だった。
 
「真実ちゃん! 学校来たんだね」
 ふり返って見てみたら、そこには真実さんの親友の花菜さんが立っていた。
 
「うん」
 真実さんはちょっと照れ臭そうな様子で、花菜さんに向かってニッコリと笑う。
 
 大きな丸い目をさらに丸くして、俺と真実さんの顔を見比べていた花菜さんも、そんな真実さんに負けないくらいにニッコリした。
 どことなく雰囲気の似ている二人のほほえましいやり取りを見ていると、自然と俺まで優しくてあったかい気持ちになる。
 
「それに海君も帰って来きんだ……よかったね……!」
 ふいに話を振られて、俺は急いで頭を下げた。
 これがちょうどいいチャンスとばかりに、繋いだままだった真実さんの手を、花菜さんの前に差し出す。
 
(ここから先は花菜さんにお願いするんだって思えば……少しは自分を納得させて、割り切ることができる。少しは……!)
 
 俺の意を汲んでくれたかのように、花菜さんは真実さんの手を大切そうに受け取ってくれた。
 「うん。ここから先は私が責任を持って預かる……絶対に真実ちゃんを、昨日のような目には、もう会わせない……!」
 
「……花菜」
 抱きあう二人の様子にひと安心して、俺は一歩後退る。
 
「じゃ。帰りに待ってるから」
 手を振りながら笑顔で二人を見送ろうとしたのに、花菜さんがおもむろに俺を見ながら、ふと呟いた。
 
「真実ちゃん……海君ちょっと顔色悪いよ? ……大丈夫?」
 
 ドキリと俺のヤワな心臓が大きく跳ねた。
 
 自分では全然そんなつもりはなかったのに、少し見ただけで感づかれてしまうくらい、今日は顔色が悪かったんだろうか。
 いつもと同じように、出かける前には念入りに鏡の前でチェックして来たつもりだったのに――ダメだ。
 その時自分がどんな表情をしていたのかだって思い出せない。
 
 からだ全体が心臓になったかのように、ドクドクと大きな音を立てて、俺の心臓が鳴る。
 
(落ち着け! 落ち着け!)
 必死に自分の体に命令を下しながら、俺はそっと真実さんの表情をうかがった。
 
 息をのんだように俺の顔を凝視している。
 今まで気づかなかった――ひょっとしたら気づいていたのに気づかないフリをしていた――ことを、白日の下にさらされたようなどこか痛々しげな表情。
 
 自分が今どんな顔色をしているのかは俺には見えないが、真実さんだって今にも倒れそうなくらい真っ青な顔色だと思った。
 
(くそっ!)
 
 悔し紛れにいつものように前髪をかき上げる。
 それからせいいっぱいの笑顔で花菜さんに
「大丈夫です」
 と告げる。
 
 花菜さんも、それから真実さんだって、俺の悔し紛れの言い逃れに納得したようにはとても見えなかった。
 もっと何かを言おうかと口を開きかけた時、俺にとってはまさに天の助けとも言うべき声が、背後から聞こえた。
 
「真実ー! 花菜ー!」
 ふり返って見てみなくたってわかる。
 それは花菜さんと同じように真実さんの親友の愛梨さんの声だった。
 
 いつも元気で明るい愛梨さんは、俺の姿を見て歓声を上げる。
「うわっ、海君が復活してる! 真実、良かったねえー!」
 
 その勢いとパワーに、俺はホッとした。
 愛梨さんが来てくれたら、きっと真実さんの気分だって変わるだろう。
 なぜなら――。
 
「すっごく寂しがってたもんねえー」
 なんて言葉を包み隠さず言ってしまう愛梨さんに、もしそれが本当だとしても、それを素直に認めてしまうような性格の真実さんではないからだ。
 
「な、何言ってるのよ……! 私はべつに……そんなこと……!」
 
(ほら……やっぱり顔を真っ赤にして大慌てしてる……!)
 そんなことを思ったら自然に笑顔になれて、そんな自分にホッとした。
 
「ため息ばっかり吐いてたもんねー……」
「いっつもキョロキョロして、ずっと探してたんだよね」
 
 愛梨さんと花菜さんとの間で交わされる会話におたおたして焦りまくる真実さんの様子を、ゆっくりと楽しむ余裕まで出てきた。
 
(どうしよう……嬉しい! 嬉しいけど……!)
 真実さんはおしゃべりな親友たちの口を塞ぐことはどうやら難しいと判断したらしく、俺が思ったとおり、二人の腕をつかんで引っ張って大学に向かって歩き始めた。
 
「じ、じゃあ行ってくるね……」
 動揺しまくりの真実さんに、 
(ちぇっ……なんだもう行っちゃうのか……)
 と内心失望しながらも、俺はニッコリ笑って
「行ってらっしゃい」
 と手を振った。
 
 実際のところはどうなのかわからないが、自分では花菜さんに指摘された顔色の悪さだって、この頃にはすっかりいつもどおりに戻っていたつもりだった。


 
 真実さんたちが大学の正門の向こうに見えなくなったら、俺は今来た道をあと戻りして、昨日探しだしたあの男の部屋にもう一度足を運んだ。
 数回インターホンを鳴らしてみてもドアをノックしてみても、やっぱり今日も応答はなかった。
 
(やっぱりここには帰ってきてない……?)
 用心のために建物の裏側に回って、そこから見える小さな窓を見上げてみたが、部屋の中の様子はまったくうかがえなかった。
 駐車場に、あの男の黒い車がないことも確認して、ほんの少し小さく息を吐く。
 
 これが本当に役にたつのかどうかはわからないが、俺は毎日この場所をチェックに来ることを自分のやるべきことと、昨日決めた。
 
(俺にできることなんてたかがしれてる……だけど真実さんのために何かがしたい! 今はとにかく思いついたことを片っ端からやってみるしかないんだ……!)
 
 真実さんを守りたいと強く願ったあの瞬間から、確かに俺の頭の中では、自分の体調のことなど二の次になっていた。


 
「一生君……ひさしぶりりだね」
 あいかわらずおっとりと声をかけてくれる今坂先輩に、無言のまま笑顔で頭を下げて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。
 
 昼休み中の美術室。
 他の生徒たちがお昼を食べているはずの教室や、有り余る元気で走り回っている校庭なんかからは遠く離れているから、あまりここが高校の中の一区画だという気はしない。
 しないけれども――確かにそうには違いないのだ。
 
「海里……あんたねえ……学校に来るんだったらせめて制服ぐらい着てきなさいよっ!」
 すっかりお決まりとなっているひとみちゃんの怒鳴り声を聞くことだって、ずいぶんとひさしぶりな気がして、思わずクスクス笑ってたら、黒っぽい服を投げつけられた。
 
「なにこれ?」
「なにって……! あんたの制服でしょうっ!!」
 
 美術室どころか特別棟全体に響き渡るようなひとみちゃんの大声に、慣れきっている俺はともかく、今坂先輩までまったく動じないのは凄いことだと思う。
 ――たまたま今日ここにいた他の部員たちは、みんな両手で耳を塞いでいるんだから。
 
 みんなのお昼の楽しい時間をこれ以上ぶち壊しにしてしまうのは申し訳なかったので、俺はもっとひとみちゃんをすました顔でからかっていたい気持ちをこらえて、すぐにそのまだ真新しい上着に袖を通した。
 
「ありがと、ひとみちゃん」
 
(わざわざ俺の家に朝寄ってから、取ってきてくれたの? なんてことは、夕食の時にでも聞けばいいっか……)
 
 クククと笑いをかみ殺す俺を、ひとみちゃんがもの凄い目で睨んでいることをひしひしと感じていたので、俺はもうその話題には、ここではこれ以上触れないようにしようと決意した。
 
 その代わり、他の人にはとても聞けない質問をひとみちゃんにぶつけてみる。
「ねえ、ひとみちゃん。俺って顔色悪い?」
 
 ひとみちゃんはいかにも
「何をいまさら!」
 というような顔で、しげしげと俺の顔を見た。
 
「当たり前じゃない! 昨日の朝まで入院してたんだから……!」
「だよね」
 あっさりと同意すると、ひとみちゃんにとっては尚更腹立たしいようだった。
 
「何? ……誰かにそんなこと言われたの?」
 あまりにも鋭く言い当てられて、俺はスケッチブックの上で忙しく動かし続けていた鉛筆を思わず止めた。
 
「すごい……! ご名答!」
「海里!」
 
 あまりふざけすぎてはいけない。
 でもふざけてでもいないと、とてもこんなことは話題にできない。
 
「……別にあんたの顔色が悪いのなんて今に始まったことじゃないわよ……」
「そう?」
「そうよ。小学生の頃なんて、真夏でもあんたは真っ白なのに、私は色が黒くって、よくみんなに『男女逆なんじゃないか』ってからかわれたじゃない……!」
「ハハハハッ! 確かにそうだった!」
 
 大きな声で笑ったら、なんだか本当の意味で気持ちがスッキリした。
 
「だから別に……そんな事は今に始まったことじゃないのよ……!」
 
 ひとみちゃんは気がついているんだろうか。
 まるで自分に言い聞かせるかのように、何度も何度も自分がその言葉をくり返していることを――。
 
 俺は気がついていたけれど、きっと彼女は無意識なんだと思ったから、あえて指摘はしなかった。
 その代わり、俺が欲しかった答えをそのまま返してくれたひとみちゃんに、素直にお礼を言っておく。
 
「ありがとう。ひとみちゃん……」
「な、なんなのよ、急に!」
 
 あいかわらず真っ直ぐな謝辞には照れてしまうひとみちゃんの様子がおかしくって、俺はまた忙しく鉛筆を動かし始めながら、ハハハハッと声に出して笑う。
 笑うことができた自分と、そうさせてくれたひとみちゃんに、本気で感謝していた。


 
 放課後。
 校門のところで真実さんを待つ俺に、こっそりと近づいてくる人の気配を感じた。
 
 一瞬「まさか!」と思ったが、それが他ならぬ真実さんであることがすぐにわかったので、俺はそのまま気がつかないフリをした。
 
(何をしてるんだろ……? これはやっぱり……俺の様子をうかがってるんだよな?)
 そう思ったらわざとふり返って、
「そんなところで何してるの? 真実さん?」
 と問いかけずにはいられなかった。
 
 真実さんは本当に、飛び上がるほどに驚いた。
 その様子に俺は不謹慎にもひどく満足する。
 
「なんで? なんでわかったの?」
「わからないわけないじゃない」
 
 笑顔で答えたら、真実さんは何度か頭をぶるぶると左右に振って、それから泣き笑いみたいな表情になった。
 
(こんなに心配させてたんだな……!)
 そう思うと申し訳なくって、愛しくってたまらない。
 
 俺は彼女にそっと歩み寄り、大好きなサラサラの短い髪に指を伸ばした。
 髪をすくように何度か頭を撫でると、真実さんはまるで安心しきったように目を閉じてしまいそうになるから、慌てて呼びかける。
 
「真実さん」
 彼女の背後に近づいている人たちのことをこのまま黙っておくのは、俺の良心が咎めた。
 
「えっ、何?」
 俺が視線で示したままにふり返った真実さんは、文字どおり、もう一度飛び上がった。
 
「…………!」
 愛梨さんと貴子さんと花菜さんがみんな揃って、真実さんの真後ろにちょうど到着したところだった。
 
 慌てて飛びのくように俺から離れる真実さんの姿を見ながら、
「校門前で、イチャついたらダメだよー」
 からかうように笑った愛梨さんが、ポンと真実さんの肩を叩いて通り過ぎていく。
 
 じっと俺の顔を見た花菜さんが、
「顔色良くなったみたい……うん。もう、いつもの海君だね。……よかったね、真実ちゃん……」
 と真実さんに言っているのを聞いて、俺は心底ホッとした。
 
 これでとりあえずは、真実さんの不安を拭い去ることができたはずだ。
 
 貴子は真実さんには目もくれず、真っ直ぐに俺に向かって歩み寄ってきた。
 思わず身構える俺に向かって、すれ違いざま、
「岩瀬は退学したぞ」
 と短くそれだけを告げる。
 
 まさか俺があの男を探していることを貴子さんが知っているとも思えなかったが、その知らせをもらえたことは嬉しかった。
 誰よりも真実さんのために――。
 
 俺は歩き去っていく貴子さんの背中に深々と頭を下げた。
 
 うしろ姿のまま貴子さんは、
「真実……門限は六時だからな」
 なんて会話を真実さんと交わしている。
 
「な、何言ってるの!?」
 真実さんは大慌てでそんな言葉を返しているけれども、真実さんの隣に俺がいることも、貴子さんが許可してくれたような気がして、俺は天にも上るような気持ちだった。
 
「どうしてそんなことを、貴子が決めるのよ!」
 必死に叫んでいる真実さんには悪いけれども、嬉しくってたまらなくって、もう笑わずにいられない。
 
「ハハハッ」
 青空の中に俺や愛梨さんや花菜さんの笑い声も、真実さんの叫び声も、みんな吸いこまれていく。
 
 束の間の幸せをみんな閉じこめたような、眩しいほどの夏の午後だった。
 
 特にどこへという目的もなく、自分が生まれ育ったこの街を、ただのんびりと真実さんと手を繋いで歩く。
 偶然見つけたものや、ふと考えたこと。
 思いつくままにいろんな話をして、なんでもないことにただ笑いあって、そんなごく普通の当たり前の時間が、俺にとってはとてつもなく大切だった。
 
 病院のベッドの上で、思い出だけを何度も頭の中でくり返していた数日間があったからこそ、実感できた幸せだったと思う。
 
 行きたいところに行ける。
 やりたいことができる。
 大好きな人の隣に居れる。
 
 そんな些細なことにも感謝ができる人生は、本来俺ぐらいの年齢では、そうそう味わえるものではない。
 (むしろ得してるって言ったっていいよな……もしこれがこのまま続いていくんなら……)
 
 だけど決してそうはならないだろうってことを、俺はよく知っていた。
 きっとしばらくの間だけ。
 だからこそ今、一瞬一瞬が輝いて、こんなにも鮮やかなんだろう。
 
(しばらくっていったって……実際どれぐらいの長さなのかは俺にだってわからない……一年後? 一ヶ月後? まさか一週間後……ってことはないよな……?)
 
 冗談まじりにそんなことを考えていた俺は、まったく別の理由で、今まさにこの瞬間にも、この幸せな日々が突然終わりになるかもしれないってことを、うっかり失念していた。
 
 ――いや。
 確かに意識のどこかにはあったはずなのに、すっかり油断してしまっていた。

 
 
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
 真実さんに突然問いかけられた瞬間、何も考えることができなかった。
 その前にどんな会話を交わしていたのかさえ、全てが頭の中から吹き飛んだ。
 
 天と地がひっくり返ったような思いで、グッと息をのんだまま、ただ真実さんの顔を見つめる。
 あまりに目に力が入り過ぎて、視界が霞んでくるほどに、ただただ見つめることしかできなかった。
 
 子供の頃からの決意とは裏腹に、真実さんと一緒にいることを望んでしまったあの時から、俺には自分の中で決めていたことがある。
 それは――真実さんが俺の病気に気がついて何かを尋ねてきたら、その時は隠さずに教えること。
 そしてその時を、俺たちのサヨナラの時とすること。
 
 いつかはそんな時が来るんだろうかと、想像するたびこっそり胸を痛めていたその悪夢のような瞬間が、突然目の前に降ってきて、俺は息をするのも忘れてしまうくらい動揺していた。
 
(どうして……? さすがに最近、無理をした姿ばっかり見せ過ぎた? だけど……!)
 激しく脈打ち始めた自分の心臓に言い聞かせるかのように、俺は心の中で叫ぶ。
 
(とにかく落ち着け! まだ真実さんに、具体的に何かを聞かれたわけじゃないんだから……!)
 真実さんは一言言ったっきり、そのあとはなんにも尋ねてこない。
 
 咄嗟の問いかけになんて答えていいかわからなくて、曖昧に笑った俺の顔を一瞬見ただけで、そのあとはこちらを見ようともしない。
 
 苦しかった。
 彼女のそんな反応も。
 追いつめられた今の状況も。
 俺が勝手に一人で取り決めした決意も。
 何もかもが胸に食いこんでくるかのように、苦しかった。
 
(言うべきだよな……今……『そうだよ。俺は心臓が悪いんだよ』って……!)
 わかっているのに体がいうことをきかない。
 固くかみ締めた唇が、言葉を紡ぎだそうとする俺の意志を、かたくなに拒絶する。
 
(決めてただろ! ……それがせいいっぱいの真実さんへの誠意になるはずだからって……自分で決めただろ!)
 爪が食いこむほどにこぶしを握りしめても、なけなしの勇気をいくらふり絞ろうとしても、俺はどうしても彼女の名前を呼ぶことができなかった。
 
 ――ちゃんとした答えを返してあげることができなかった。


 
 投げかけられた質問に何も答えを返せなくて、激しい自己嫌悪に陥ったあの日から、輝いていたはずの日々が、俺にとって苦しいものになった。
 
 自ら立てた誓いを破った俺には、もう真実さんの隣にいる資格がないような気がする。
 神前で誓願したわけではなかったが、自分の厳しい決意と引き換えに守っていた大切なものが、もうこれ以上は守れないような――そんな不安をどうしても拭い去ることができなかった。
 
 このまま俺が傍にいたら、真実さんにまで何か良くないことが起こってしまうんじゃ――そんな、なんの根拠もない不安。
 
(言わなくちゃ……! 早く言わなきゃ!)
 思えば思うほど、てのひらの中の幸せを手放すことが恐くなっていく。
 
 真実さんの隣にいて、彼女を守る。
 ――俺は確かにそう決意したんだったのに、それを失ったなら、これからいったい何のために生きていくんだろう。
 想像もつかない。
 
 だからといって、全てをなかったことにするのも苦しかった。
 ぐるぐると結論の出ない問題を延々と考え続け、虚ろな数日を過ごしたあと、俺はついに決断した。
 ――全てを彼女に委ねようと。
 
 もう一度真実さんが俺の体調について尋ねてきたなら、今度こそ必ず本当のことを告げる。
 その代わり、真実さんがもう二度と俺の体調の事には触れようとしないんだったら、一度問いかけられたことはサッパリと忘れて、俺も今までのように彼女に接する。
 
 どちらがいいとも、どちらが正しいとも、もう俺には判断さえできない苦しい賭けだった。
 


「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
 いつものように大学からの帰り道。
 広い舗道を手を繋いで歩きながら、俺は彼女にそう尋ねた。
 
 ドキリとしたように小さな肩が震えたところを見ると、真実さんだって結局先日のやり取りを気にしていたようだ。
 それなのに――。
 
 何度も何度もしつこく食い下がった俺に彼女が最終的にした質問というのは、
「海君……ひとみちゃんって誰?」
 というものだった。
 
 てっきり体調のことを尋ねられるとばかり思って、せいいっぱい心の準備をしていた俺は、またしても真実さんに意表をつかれて、すぐには答えを返すことができなかった。
 
 真っ赤になって俯いてしまった彼女を見下ろしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
 なんてことを口に出して確認する。
 
(もちろんあったことはないはずだし……俺が真実さんにひとみちゃんの話なんてするはずないし……)
 考えるうちに、ふとあることに思い当った。
 
 いつも真実さんに会う時には電源を切っている携帯電話を、たまたまそのままにしていたある日、ひとみちゃんから電話がかかってきたことがあった。
 
 あの日は――そう。
 確か俺が入院するのを忘れて、真実さんと会ってた日だった。
 
「ああー……あの時か!」
 ここ最近ずっとこわばっていた頬が緩んで、自然と笑顔になっていくのが自分でもよくわかる。
 
 俺がすっかり忘れていたような他愛もない出来事を、今こんな場面で思わず口にしてしまうほどに真実さんが気にしていたってことは――それってつまりはどういうことだろう。
 
 考えれば考えるほど――ダメだ。
 今日はあんなに真剣な決意をして出てきたっていうのに、まったく不釣あいにどんどん顔がにやけてしまう。
 
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
 思わず尋ねてしまったら、
「し、してないよっ!」
 大慌てで反論された。
 
(ダメだ。嬉しい! これはもうどうしたって……嬉しいに決まってるだろ!)
 
 もし彼女がその場面で感じてくれた感情が、俺が予想したとおりのものなら、もう嬉しくってどうしようもない。
 俺が言うと全然しゃれにならないけれど、このまま天国にだってのぼっていってしまいそう。
 
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
 悪戯好きの性根に逆らえず、わざとそう尋ねた俺に、真実さんはもう泣き出しそうな顔で頷いた。
 
「信じる! 信じるから放して!」
 ありがとうの想いをこめて、そのまま真実さんにキスした瞬間、ちょうど俺の胸ポケットでその問題の携帯が鳴りだした。
 
(なんなんだ、このタイミングの良さ!)
 俺から逃げ出してしまいそうになった真実さんを急いで捕まえて、俺は誰からの着信なのかだけ確認する。
 
(兄貴か……ゴメン後でかけ直す!)
 心の中で頭を下げながら電源を切ったら、真実さんが小さな悲鳴を上げた。
 
「えっ! 出ないの?」
 その声が、表情がたまらない。
 
 俺はもう感情のままに大きく笑いながら、
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
 なんて答えてしまう。
 
 思ったとおり真実さんは、
「しないわよ!」
 と、また今にも泣きだしそうな顔で叫んだ。
 
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
 
 そう、ヤキモチ――真実さんが俺に関して、本当にそんな感情を抱いてくれたんだとしたら、もう他のことなんてどうでもいい。
 
「好きだよ」って気持ちを伝えてもらった時とはまた違う意味で、嬉しくて嬉しくて――マズイ。
 きっとこのままじゃ照れ屋の真実さんを追いつめてしまうってわかってるのに、もう止まらない。
 
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
 またしても思ったとおり。
 真実さんは遂に俺の腕の中から逃げだした。
 
「真実さん待って」
 ここからはまた、いつもと同じ追いかけっこが始まる。
 だけどそんなこと、全然苦じゃなかった。
 こんな――天にも上りそうなくらい軽い気持ちで、また彼女の名前を呼べるようになるとは思ってもいなかった。
 
「ねえ真実さん。待ってよ」
 本当に真実さんには、いつもいつも救われてばかりだ。
 
 繋いだ手をもうこれで離さなきゃって俺が思いつめた時には、決まって真実さんが、もう一度手をさし伸べてくれる。
 ズルイ俺に、不甲斐ない俺に、もう一度チャンスをくれる。
 
 今俺がどんなにホッとした気持ちで、サラサラと揺れる短い髪をゆっくりと歩いて追いかけているのかなんて、きっと真実さんにはわからないだろう。
 その小さなうしろ姿に、どんなにいつもいつも感謝しているのかなんて、伝わらないだろう。
 だから――。
 
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
 何度も何度も呼びかけた。
 俺に出来るせいいっぱいのこと――言葉だけで、懸命に彼女を追いかけた。
 
 優しい真実さんは結局、いつもしばらくすると俺を心配して足を止めてしまう。
 そこにはやっぱり、俺の体調を訝る思いがあるんだろうけれど、彼女が問わないのなら、俺のほうからはもう何も話はしない。
 今朝、そう決めて家を出てきたとおりに、俺は今までどおりに真実さんに接することにした。
 
 ゆっくりと歩いて真実さんを追いながら、見るともなしに周りを見ていると、壁に何枚も貼られたポスターが目に飛びこんで来る。
 
『海――私の心に残るふるさと』
 
 彼女が俺につけてくれた、そして俺の本当の名前にも含まれている『海』が題名のそのポスターを真実さんにも見せたくって、俺は声をかける。
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
 
 でも無理だ。
 真実さんは一向に止まる気配がない。
 俺は彼女のあとを追いながら、何度も呼びかけた。
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
 真っ直ぐに前を見たまま、わき目も振らずに歩き続けていた真実さんの歩みが、次第に遅くなる。
 
(よし!)
 俺の言葉が届いたというよりは、俺を心配して歩みを止めてくれた真実さんに、今日何度目かわからない感謝をしながら、俺は足を早めた。
 
 瞬間。
 ズキリと痛んだ心臓に、ぐらりと眩暈がした。
 
(なん……だ? 今の?)
 
 まさかこのまま発作が起きるのかと思わず足を止めたが、そんなことはなかった。
 痛んだのはその一瞬だけで、呼吸も苦しくはならなかったし、すぐにまた歩きだせた。
 
(なんだったんだろう……?)
 不安を感じながらも、俺はとりあえずは自分を待ってくれている真実さんの背中に、ゆっくりと歩み寄った。
 
 真実さんにポスターのことを教えて、そこに載っていた写真展に行って、真実さんが故郷に帰った時には、そこまで俺が迎えに行く約束をした。
 どうして真実さんが俺に『海』って名づけたのかを尋ねてみて、また泣きそうなくらい嬉しい気持ちをもらった。
 
 俺が朝予想していたのとはまったく違ったものになった一日は、あまりにも嬉しいことだらけで、なんだか恐いくらいだった。
 そして俺のその気持ちは――決してまちがいではなかったと思い知らされる。
 
 翌々日の定期検診で、俺は石井先生に二度目の入院を言い渡された。
 
 あいかわらず先生は
「発作が起きたわけでもないし、またすぐに退院できるよ」
 と笑ってくれたが、前回の入院から二週間も経っていないことが重く心にのしかかる。
 
 どんなに真実さんが幸せな気持ちを与えてくれるからって、それにこのまま甘えているわけにはいかないんだと、俺はやっぱり思い知った。
 
 胸に痛く――刻みこまれた。