「うーん。あんまり良好とは言えないなあ……」
 こちらをふり返らないままに呟いた石井先生の背中を、俺は穴の開くほど凝視していた。
 
 真昼の病院。
 ひとみちゃんに無理やり入れられた二回目の定期検診で、俺はついに石井先生から引導を渡された。
 
(入院確定……か……!)
 ひょっとしたらという思いはあった。
 けれど、実際に先生からそう宣告されると、思っていた以上にこたえた。
 
「そうですか……」
 真っ先に真実さんのことを思う。
 日々何事もなく、彼女が穏やかな大学生活を送っている時であるというのが、救いといえば救いだった。
 でも、もう会えなくなると思うとやっぱり辛い。
 
「発作が起きたわけでもないし、今回は様子を見るための入院だから……少しおとなしくしてたら、きっとまたすぐに退院できるよ……ね?」
 
 クルリと椅子を回転させてこちらに向き直った先生が、俺の気分を取り成すかのように笑う。
 その笑顔が本当に本物であるのかどうかなんて、考えだしたらきりがない。 
 
 これ以上先生に気を遣わせないためにも、俺も笑顔を作った。
「はい」
 でも気分はどうしようもなく落ちこんでいた。


 
「でね…………海君? ……ちゃんと聞いてる?」
 ボーッとしているところを真実さんに見咎められたのは、いったい今日だけで何度目になるだろう。
 俺は内心苦笑しながら、表面上はもっともらしく頷く。
 
「もちろん聞いてるよ。教室に迷いこんだすずめを、真実さんたちがみんなで逃がしてやった話でしょ?」
「それはもうさっき終わったの!」
「ハハハッ! そうだった……?」
 本当はわかってた。
 でもちょっぴり怒った顔が見てみたかった。
 
 真実さんは少しむくれると上目遣いにじっと俺を見上げる癖がある。
 その顔がもうどうしようもなく可愛くて、俺の一番のお気に入りで、それが見たいばっかりに俺はすぐに彼女をからかってしまう。
 ――でもこれは真実さんには内緒だ。
 
「じゃあ……夏休みになったら、愛梨さんたちとプールに行くって話?」
「それはもっと先に終わってるの!」 
「ハハハハッ!」
 だが、やりすぎるのは禁物。
 
「もういいっ!」
 意外と短気な真実さんは、俺が調子に乗ると、すぐに置き去りにして歩きだしてしまう。
 
「冗談だよ。待ってよ真実さん」
 笑い混じりに言葉だけで追いかけても、決して待ってはくれない。
 
「おーい。真実さーん」
 俺がふざけてるうちは絶対だ。
 でも――
 
 しばらく黙っていると、怒っているはずの小さな背中は次第に歩く勢いをなくして、そのうちピタリと止まってしまう。
 
 それでも俺が何も言わずにいると、短い髪をサラリと揺らしながら、小さな白い顔がふり返る。
 不安でどうしようもない顔でこっちを見て、俺の姿を確認すると、今にも泣きだしてしまいそうに、黒目がちの大きな瞳が安堵に揺れる。
 
 その全てが、いつもいつも俺の心をたまらなく苦しくした。
 
(真実さん……ゴメンね)
 まだ出会って間もない頃、『待ってくれないと俺は追いかけないよ』と俺が宣言したことを真実さんはちゃんと覚えてくれてる。
 だから何度も訪れるこんな場面では、必ず途中で足を止めてくれる。
 どんなに怒っていても、それを押し殺して俺を許してくれる。
 
(本当はここは……『待てよ』って追いかけてって、俺がどれくらい真実さんのことを大切に思ってるかを、証明するところだよなぁ……)
 
 でも俺は走って追いかけることはできない。
 いや。
 できないことはないが、やるつもりはない。
 真実さんの前で「もしも」のリスクを伴う行動は、できるだけ少なくしたいというのが俺の中の決めごとだから。
 
(だから真実さんにばっかり我慢させてる……俺は全然優しくしてなんかやれない……ゴメン)
 ゆっくりと歩いて彼女に近づきながら、心の中だけで頭を下げた。
 
(走って追いかけて、うしろから抱きしめて、『ゴメン。大好きだよ』って耳元で囁いて、それから――)
 自分にはできないこと、でも本当はそうしたいことを想像すると、なんだかとてつもなく恥ずかしいことになっていく。
 もし俺の体が正常だったとしても、そこまでできるかどうかは、正直疑問だ。
 
 大きく息を吐いてから、立ち止まって待っててくれた真実さんの手を取った。
 まるで当たり前のように、もう一度手を繋いで、俺たちは歩き始める。
 
「真実さん……」
「うん?」
「ゴメンね」
 
 ふわっと花の蕾が綻ぶように真実さんが笑った。
「海君は私に謝ってばっかり」
「そう?」
「うん。そう」
 
 輝くようなその笑顔を、いつでも思い出せるように、頭の中のキャンバスにそっと写し取った。
 


 愛梨さんのアパートに住むようになって一週間。
 ついに真実さんは、自分の部屋を引き払うことを決めた。
 
 なんでも貴子さんの隣の部屋が破格値で借りれるということで、行き先の心配はなかったが、引っ越しにかかるお金を捻出するために、不要品をリサイクルショップに売りたいのだという。
 
 そのための荷物を一週間ぶりに自分の部屋へ取りに帰るのに、真実さんは他の誰でもなく俺を頼ってくれた。
 
「海君。一緒に来てくれる?」
 もちろん、俺に異存があるはずなかった。
 
 本当にあの日――部屋があの男にめちゃくちゃに荒らされた日――以来、一度も訪れていない部屋。
 でも、どこも変わったところはなかった。
 真実さんの周辺と同じで、この部屋にも、あの男は姿を現わしてはいないようだ。
 
(じゃあいったいどこで何をしてるんだ……?)
 不安は消えなかったが、とりあえず今は真実さんが先だ。
 
 部屋の前で立ちすくんでしまっている真実さんに、
「真実さん大丈夫?」
 と聞いたあと、
「なんなら俺も、一緒に中に入って手伝おうか?」
 とつけ加えることを忘れてはならない。
 
 見るからに不安でいっぱいな真実さんの気持ちを、少しでも明るくするためなら、俺はいくらだって軽口を叩いてみせる。
「そうしよっか?」
 
 ニヤリと笑うと、真実さんはものの見事に真っ赤になった。
「だ、大丈夫よ!」
 
 こぶしを握りしめて力説する姿に、俺は心の中だけで
(あと少し!)
 と自分に発破をかける。
 
「大丈夫だよ。部屋に二人きりだって、どうせ真実さんはすぐ寝ちゃうんだから」
 真実さんがムッとむくれて、上目遣いに俺の顔を見上げた。
「もうっ! まだそのこと、言ってるの?」
 
 そう、その顔だ。
 その顔が見たくって、いつもいつも意地悪してしまう。
 
 ふり上げた真実さんの腕を俺がかわしたばっかりに、彼女は体勢を崩して、倒れこんでしまいそうになった。
 慌てて腕をつかんで、自分のほうに引き寄せる。
 華奢な体を両腕で抱き止める格好になってしまって、心から焦った。
 
 すぐに真実さんは離れるだろうと思っていたのに、俺の背中に腕を廻してくるから、ますます焦る。
「真実さん?」
 
 恐る恐る名前を呼んでみても、彼女は動く気配もないので、俺は便乗させてもらうことにした。
 甘い香りのする頭に頬を寄せて、ぎゅっと抱きしめる。
 本当はいつだってそうしたい自分の本心のままに、しっかりと抱きしめる。
 
「う、海君……?」
 自分から先にしかけてきたくせに、真実さんはすぐにねをあげて、もう開放してくれと言わんばかりに俺の顔を見上げる。
 でもすぐには願いを叶えてあげない。
 
 俺はクスリと笑って、しばらくの間、そうして彼女を抱きしめていた。


 
 けっきょく俺の手伝いは断って、真実さんは一人で荷物を漁った。
 不要品として彼女が部屋から運び出してきた紙袋は、実に八袋もあった。
 
 中にはブランドものや、高級なものも含まれていたようで、それを現金化したあとの真実さんはすこぶるご機嫌だった。
「海君、今ならなんでもおごってあげるよ。何がいい?」
 
 いつになく余裕のある雰囲気で誘ってくれるから、俺は正直な気持ちを口にする。
「じゃあ真実さんがいい」
 
 ボッと真実さんの頬に火がついた。
「また……! そんなこと言う!」
 
 真っ赤になりながら、真実さんが両手をふり上げた瞬間、俺の胸ポケットで、新品の携帯が、軽快な音楽を奏で始めた。
(マズい!)
 
 真実さんと会う時には必ずマナーモードにしていたのに、今日はうっかり忘れてた。
 ゴメンと頭を下げて真実さんに背中を向け、「はいはい」と応答した携帯の向こうから、ひとみちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。
 
「なにやってんのよ!! 今日から入院だっていうのに……まさか忘れてるんじゃないでしょうね!!」
「うっわ、忘れてた!」
 
 俺の正直な叫びに、ひとみちゃんは怒り狂う。
「何をどうやったらそうなるのよ! 能天気海里!」
 
 今日は自分も高校を休んで朝から待っていたこととか。
 準備も全て押しつけられたこととか。
 怨念をこめるようにして語り続けるひとみちゃんに降参して、俺は頭を下げた。
 乱れて顔にかかった前髪を、ゆっくりとかき上げる。
 
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
 電話を切ってふり返ったら、真実さんが今まで見たこともないような顔をしていた。
 唇をキリッと噛みしめてて、俺のことを睨んでいるのに、今にも泣き出してしまいそうな目には、実際に涙が浮かんでいる。
 なんともアンバランスな表情。
 
 なんとなく電話の内容が、雰囲気でわかってしまったんだろうなと思うと、これから真実さんにしなければいけない話が、ひどく残酷な事もののように思えた。
「真実さんゴメン。俺、今日用事があったんだった……」
 
 顔をのぞきこみながらそう告げると、彼女の大きな瞳に、驚きと共に明らかに悲しみの色が広がっていく。
 それを嬉しいと思ってしまう俺は、なんて自分勝手なんだろう。
 
「それと……しばらく会いに来れないかも、ゴメン」
 真実さんはますます途方にくれたような表情になった。
 
 大学にも復学して、友達とも仲直りして、真実さんの世界は着実に修復されていっているのに、まだこんなにも俺を必用としてくれているんだと思うと、俺の心は身勝手にも弾みだす。
 
「うん。わかった」
「嫌だ」と顔に書いてあるにもかかわらず、しおらしく頷いた真実さんが可愛くってたまらない。
 
 そっと指を伸ばして、その髪を優しくかき混ぜた。
「寂しいだろうけどゴメンね」

 真実さんは急に、ハッとしたように胸を反らした。
「別に大丈夫だよ?」
 
 意地悪な俺は、その懸命な努力を打ち砕く。
「えっそうなの? 俺に会えなくても平気?」
 瞳をのぞきこみながら顔を近づけたら、真実さんはすぐに俯いてしまった。
「嘘だよ……寂しいよ……」
 
 しゅんとうな垂れた彼女を、俺は大笑いしながらもう抱きしめた。
「うん。俺も寂しいよ」
「ちょ、ちょっと海君」
 口では抵抗しながらも、真実さんの両腕もしっかりと、俺を抱きしめ返していた。
 
 ――それが嬉しかった。
 しばらく離れなければならないとわかっているからこそ、たまらなく愛しかった。