まるで体全部が心臓になったかのように、頭の奥のほうにまで心音が鳴り響く。
 大きく息を吸って吐いてをくり返しながら、俺はただ全身を流れ落ちる汗の感覚だけに神経を集中していた。
(大丈夫……大丈夫だ……!)
 ――自分自身に言い聞かせるかのように。
 
 幸い、激しい動悸は発作にまでは到らなそうだ。
 祈りが効いたのか、効かなかったのか。
 それはわからないが、とりあえず『神様』には感謝しておく。
 
 苦しい胸を押さえながら連絡した刑事さんも、すぐに駆けつけると言ってくれた。
 これでもし俺がここからいなくならなければならなくっても、真実さんが一人きりになることはない。
 ほんの少しだけ安堵した。
 
 座りこんでいた場所から、階段の手すりにすがって立ち上がり、真実さんの部屋をふり返った。
 部屋の奥のほうに、一人で一生懸命に散らかった物を片づけようとしている、小さな背中が見えた。
 
(真実さん……)
 さっき彼女の写真を見つけた紙の山は、あえて視界から外すように努力する。
 それでもそのことを思い出すと、また胸が苦しくなってきて、辛くてどうしようもない。
 
 見つめ続ける俺の視線に気がついたかのように、真実さんがふとこちらをふり向いた。
 泣いているような黒目がちの大きな瞳。
 その瞳とこんなに苦しい気持ちで見つめあったのは、これが初めてだった。
 
(真実さん……!)
 俺がどんなに望んでも本当には手に入れられない人。
 ――彼女を守れるべき立場にいるのに、こうして傷つけることしかしないあの男が、憎くて憎くて目が眩みそうだった。


 
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
 すぐに駆けつけてくれた村岡さんというその刑事さんは、本当に悲しそうな顔で真実さんと向きあい、俺にまで、申し訳なさそうに小さく頭を下げてくれた。 
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。君にもよく考えてほしい……」
 
 あの男を訴えることに、俺だったらなんのためらいもない。
 でも真実さんはどんなふうに考えているんだろう。
 ――それを思うだけで、もう苦しい。
 
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私がしばらく見張っておくから」
 村岡さんの勧めにしたがって真実さんは愛梨さんに連絡を取り、今夜からしばらく彼女の部屋に身を寄せることになった。
 いつまたあの男がやって来るかもしれないこの部屋に、真実さんを一人残しておくのは俺だって心配だったから、正直ホッとした。
 
 村岡さんと一緒に真実さんの片づけを手伝って、それから愛梨さんのアパートに向かうため、真実さんと共に部屋を出る。
 
「送るよ」
 荷物を詰めこんだこ鞄を彼女の手から取り上げたところまではよかった。
 でもそれから先は、もう何を話したらいいんだかわからなくなった。
 らしくもなく重苦しい沈黙を抱えたまま、俺たちは夜の街を歩く。
 最近ずっと、出かける時は手を繋いでいたから、真実さんに触れていない左手が妙にむなしい。
 彼女の歩みがのろのろと遅いことも気になった。
 
 きっといつも以上に、いろんなことを考えて考えて、一人で傷ついてしまっていることはわかってる。
 その気持ちを明るくさせるのが、俺の役目だと思っていたのに。
 彼女を笑わせるためだったら、どんな冗談だって言って、俺なんてどんなに笑われたっていいといつも思っていたのに。
 ――ダメだ。
 今は言葉が何も浮かばない。
 
 このまま愛梨さんのアパートに到着して、別れの時間が来てしまいそうで、俺は焦って、何の策もないままに問いかけた。
「……真実さん。少しいいかな?」
 
 真実さんは弾かれたように顔を上げて、慌てて俺に返事した。
「う、うん。いいよ」
 その声が少々裏返り気味で、震えていたことに俺は逆にホッとする。
 
(真実さんだって同じだ……どうしていいのかわからなくて、何を話せばいいのかわからなくて、困っているのは俺と同じなんだ……)
 そう思ったら、ふっと体から余計な力が抜けた。
 
 前方に公園を見つけて、
「あ、公園がある……ブランコに乗ってもいい?」
 いつもみたいに軽く問いかける。
 俺がガチガチじゃなくなったら、真実さんまですぐに「うん」と頷いてくれて、まるでいつもの二人に戻れたような気がした。
 
 ――そう。
 あくまでも表面上は。


 
 ようやく話をするこことはできたが、あいかわらず胸のほうはズキズキと痛むばかりだ。
 真実さんと向かいあっているのは苦しいので、本当にブランコに腰かけて、俺は大きく漕ぎだす。
 鬱陶しいくらいに伸びてしまった前髪が、風に吹かれて顔の周りからなくなるのは、それはそれで気持ちよかった。
 
 でも、隣のブランコに俺と同じように腰を下ろした真実さんは、いつまでたっても漕ぐ気配がない。
 ただじっと俯いて座っている。
 
(何を考えてる……? 誰を思ってるの……?) 
 考えることが辛い。
 まちがいなくその答えは自分だと。
 俺との楽しい思い出を彼女は思い返しているんだと。
 今は欠片も思いこめないことが、こんなにも苦しい。
 
 俯いたままの真実さんが不安でたまらなくて、もう一度横顔を盗み見たら、頬を伝う涙が見えた。
 
(ちきしょう……なにやってんだ、俺は!)
 自分に腹がたった。
 
「泣かないで」
 呟くと同時に、かなりの勢いがついてしまっていたブランコからポンと飛び下りる。
 真実さんの前に歩み寄って、深く俯いたままの頭を見下ろす。 
「泣かないで真実さん」
 せいいっぱいの思いをこめて懇願した。
 
 大好きな彼女の髪にそっと指を伸ばして、そのまま頬をなぞり、伝っていた涙の雫をすくい取る。
(泣かせたりしないように俺が守りたい。それがいつだって俺の一番の願いなのに……こんなふうに泣かせたりして……ほんと、ゴメン……)
 
 細い肩を掴んで、そのまま真実さんを抱きしめた。
 折れてしまいそうに細い体が、何の抵抗もなく、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
(こんなに壊れそうなくらい華奢な人に……どうして暴力を奮ったりできるんだろう……わからない! 俺には到底理解できないよ!)
 あの男が憎くて憎くて、頭がどうにかなりそうだ。
 
 俺の胸に顔を押しつけるようにして、真実さんが嗚咽混じりに呟いた。
「ごめんね、海君……」
 
 俺は必死に首を振る。
 真実さんを守りたいなんてたいそうなことを言いながら、その実、心の中では誰かを憎むことしかできやしない。
 ――こんな醜い俺に、そんなに優しい言葉をかけないで。
 
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
 胸が張り裂けそうな思いで、俺は真実さんを抱きしめた。
 ぎゅっと強く抱きしめた。
 
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
 
 本当にそうだ。
 俺はこんなにも自分勝手で、こんなにも醜い。
 彼女にこんなに想ってもらえるほどの、立派な人間なんかじゃない。
 
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
 
 高ぶる感情のままに吐き出した言葉に、真実さんが俺の顔を見上げた。
 月光の中、神々しいほどに清らかな瞳で、俺を真っ直ぐに見つめる。
「海君?」
 
 ダメだ。
 いったん口火を切ってしまったら、もう歯止めが利かない。
 
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそのこと俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
 
「海君!!」
 真実さんが息をのんで、とっさに俺の体を抱きしめた。
 
 その温かさに、自分が今口走ってしまった事のあまりの愚かさを知る。
 自嘲するように髪をかき上げ、もう笑うしかない。
 
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
 もう、何もかもがどうでもいい気分だった。
 
 俺の醜い内面を知って、真実さんはどう思っただろうか。
 呆れただろうか。
 もう俺のことなんて嫌いになってしまっただろうか。
 
 半ばやけくそ気味に、これまでずっと胸に押し隠していた思いまで口にする。
 もうずっと長い間、俺を不安にさせていた考えを、我慢できずに彼女にぶつける。
 
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつの事を許すんだ。結局、許してしまうんだね……そんなにあいつのことが好き?」
 抱きしめる腕の中、俺を見上げる真実さんの大きな瞳が、ますます大きく見開かれた。
 その瞳にみるみるうちに涙が膨れ上がって、大粒の雫となって、あとからあとから彼女の白い頬を滑り落ちる。
 
「……どうして?」
 軽く首を左右に振る彼女は、夜目にもはっきりとわかるくらいに、わなわなと震えていて、苦しい俺の胸をいっそう苦しくした。
 
「私が好きなのは……!」
 俺の両腕をしっかりとつかんで、声を荒げて主張しようとした彼女の想いを、俺はかき消すほどの大声で遮る。
 
「俺でしょ! ごめん、わかってる……でもどこかであいつを許してる真実さんがいる。できることなら、あいつにまともに戻ってほしいと望んでる真実さんがいる。もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
 
 言葉とは裏腹に俺の両腕は真実さんの体をかき抱く。
 誰にも渡したくないと、決して放したくないと、体のほうが言葉の何倍も雄弁に、俺の思いを彼女に語る。
 
「そんなはずないじゃない!」
 真実さんの悲鳴が、高ぶっていた俺の感情をほんの少しだけすーっと冷静にしてくれた。
 俺はうなだれながら、ゆっくりと首を左右に振る。
 
(何やってんだ! こんなことじゃない……! 俺が真実さんに言いたかったことは……本当に伝えたかった気持ちは、こんなんじゃないって……!)
 泣き出してしまいたいぐらいの思いで、唇をぐっとかみ締めたのに、俺の口は俺の意志とは裏腹に、またもや自分勝手に動きだす。
 
「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないこことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
 
 伝わるんだろうか。
 こんな言葉で。
 ――何よりも強い俺の願い。
 祈り。
 彼女に対する想い。
 
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方……そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
 
 幸せになってほしいのに。
 誰よりも幸せになってほしいのに。
 ――自分自身の手では決してそれを叶えてあげることのできない、彼女への懺悔。
 俺の悲しみ。
 
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
 
 君を守りたい。
 他の誰からも。
 傷つけようとする何からも。
 本当は俺がこの手で守りたい。
 ――でもそれはできない。
 
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
 まるで奇跡のように、優しい声が俺の全てを包みこむ。
 苛立ちや腹立たしさ。
 絶望。
 悲しみ。
 俺が抱える醜い負の感情を、彼女の声は全て包みこんで、優しく抱きしめてしまう。
 
「うん。真実さん」
 もう一度、こんなに優しい気持ちで、その名前を呼べるとは思ってなかった。
 
 全てをさらけ出してしまっても、真実さんがまだ俺を抱きしめてくれるとは思っていなかった。
 ――優しい。
 優しすぎる細い両腕が、その時、俺に一生ぶんの幸せをくれた。
 
 愛梨さんのアパートまでの道を、真実さんと手を繋いで歩いた。
 まるで何もなかったかのように、いつもどおり穏やかな雰囲気の二人。
 
 でもそれは、いろんな気持ちをぶつけあって見せあったからこそ、また一歩近くなれたんだと思うのは、俺のうぬぼれだろうか。
 
(まいったな……このままどこかに連れ去ってしまいたい……!)
 もし俺に未来があったなら。
 真実さんとの将来を望めるほどの未来があったなら。
 今、まちがいなくそうしていただろう。
 
 でも俺にはそんなものない。
 だから、この手を離す瞬間までは、全身全霊で彼女を愛そう。
 ――そう心に決めた。
 
 たとえどこにいても、最期の最期の時まで、俺は真実さんのことを想っていよう。
 ――そう決めた。
 
 それは子供の頃に決心した、誰にも未練を残さないなんて生き方よりも、何倍も苦しい生き方かもしれない。
 誰かと深く関わって生きていこうとするのは、いろんなことがあって、そこからいろんな思いが生まれて、本当に大変なことなのかもしれない。
 
 でも真実さんへの想いは、俺に幸せな気持ちをくれる。
 生まれてきて良かったと素直に感じさせてくれる。
 
 だからその時が来るまで、この手はずっと繋いでいよう。
 離さないでいようと自分に誓う。
 背後から忍び寄ってくる死の影になど、気付かないフリをして。
 
 ――幸せな時間ほど予想外に短い現実など、決して信じずに。