真実さんがすっかり寝入ってしまってから到着した警察の人に、俺は自分にわかるだけのことを説明した。
 
「うーん。さすがにこれだけじゃねぇ……悪いけど、明日にでもちょっと署に来てもらうしかないかな……」
 ベッドに寝ている真実さんをチラチラと気にしている刑事さんは、どうやら彼女の具合が悪いと誤解したらしい。
 俺はあえて、その誤解を解かないままにしておいた。
 
 玄関前で確保したあの男を連れて、刑事さんが帰ってしまってからも、俺はしばらく真実さんの傍にいた。
 規則正しい寝息をたててすっかり寝入ってしまっている様子に、
(本当に、俺のこと男だなんて思ってないんじゃないか……?)
 と悲しくもなったが、それだけ安心して心を許してくれているということが嬉しくもあった。
 
 静かに、音を立てないようにして、俺も真美さんの部屋をあとにした。
 あたりはすっかり暗くなっていた。
 
(あーあ、これはもう完全に、ひとみちゃんに怒られるな……)
 
 結局ひとみちゃんに、「やっぱり遅くなる」の電話はできなかった。
 思ったより警察が早く着いたせいもあるし、そんな連絡入れているところを、真実さんに見られたくなかったせいもある。
 でもなにより――
 
(さすがに無茶し過ぎだよな……)
 平気なフリをしてひとみちゃんに電話するには、あまりにも俺の体調は悪くなっていた。
 ドキドキと早鐘のように鳴り続けている心臓を、左手でそっと押さえてみる。
 さっきから時折、ズキリと鈍い痛みが走る。
 
 薬を飲んでから一時間も経っていないし、本来なら今は絶好のコンディションのはずだ。
 なのにこんな状態というのは、――はっきり言ってかなりマズイ。
 
「何やってんのよ! こんなにひどくなるまで!」とひとみちゃんに怒鳴られることはもう決定的だった。
 
 ちょっとでも痛みが治まりはしないかと、しばらくじっとその場に立ち止まってみても、 
(やっぱり無理か……)
 そう簡単にはいかなかった。
 
 大通りに出てタクシーを捕まえる。
 後部座席に乗りこんでシートにもたれたら、気が緩んだのだろうか、胸の痛みがなおさら増したような気がした。
 必死に呼吸を整える。
 いくら吸ってもちっとも楽になんかならなくて苦しかった。
 
 ――でも後悔はしていなかった。
 
 俺があの時、あんな無茶な行動に出ていなかったら、真実さんはまちがいなくあいつにドアを開けていただろう。そしてあいつに捕まって。
 そして――
 
(ダメだ。こんなこと考えてたら、よけいに苦しくなる……)
 
 岩瀬幸哉というあの男が、刑事さんに連れられてパトカーで連行されていくところを、俺は見なかった。
 あえて見なくても、俺の脳裏にはあの男の後ろ姿が、もう嫌というほどに焼きついていた。
 
(許せない……!)
 
 感情を高ぶらせるのは、今の俺にとってあまり良いことではない。
 だからなるべくなら考えないようにしなければならないのに、どうしても憤る感情をふり払うことができない。
 太ももの上で握りしめていたこぶしを、俺はいっそう固く握り直した。
 どんどん乱れていく息を整えようと、大きく深呼吸をくり返す。
 
(絶対、許さない……!)
 
 自分の体だって支えていられない、こんな俺じゃ、どんなに強い思いがあったってそれをやり通すことは難しい。
 その事実が、今夜はいつにも増して悔しかった。


 
 家へと乗りつけたタクシーで、俺はそのまま病院送りになった。
 家の前で仁王立ちで待っていたひとみちゃんは、開口一番「海里のバカ!」と俺を罵ったあとは、ずっとだんまりを決めこんでいる。
 
 狭いタクシーの中。
 かたくなに俺に背を向け続けている様子が、なんだかいつもと違う。
 強い意志を感じさせる大きな目が、真っ赤になっていることが、俺をかなり申し訳ない気持ちにさせた。
「ごめん。ひとみちゃん……」
 
 てっきり、「謝るくらいだったら、勝手なことばっかりしないで!」とでも怒鳴られると思っていた。
 なのに、返事がない。
 かたくなに窓の外を眺め続けている横顔は、目ばかりでなく、その縁までほんのりと赤い。
 
「ひとみちゃん?」
 まるで呼びかける俺の声が聞こえないかのように、彼女は身動き一つしない。
 睨むように、窓の外を通り過ぎる家々の灯りをただじっと見ている。
 
 そうしながら、ふいにポツリと呟いた。
「海里はなんにもわかってない……私の気持ちなんて全然わかってない……!」
 
 胸にグッと来た。
 すごく心配かけた――そのことはよくわかっているつもりだったのに、反省の気持ちが足りないということだろうか。
 反省しているようには見えないということだろうか。
 
 俺は神妙にペコリと頭を下げる。
「心配かけてごめん……」
「やっぱりわかってない……!」
 口では文句言いながらも、いつもだったら結局ひとみちゃんは俺を許してくれるわけで。
 この時も、謝り続けていれば最後はどうせそうなるんだろうと、俺は高をくくっていたわけで。
 
 でもひとみちゃんはこっちを見てもくれなかった。
 窓に目を向けたまま、微動だにしない。
 唇をきりっと引き結んだいつも以上に厳しい横顔を見ていると、俺はもう謝罪の言葉さえ口にできなかった。
 
(どうしたっていうんだ……?)
 胸の痛みと同時に、疑問と格闘することになった俺と、ひとみちゃんは病院に着くまでの間それっきりずっと、一言も口をきかなかった。

 
 
 急な来院で石井先生は手があいておらず、俺は緊急に準備された処置室代わりの病室で、ベッドに横になってしばらく安静を言い渡された。
 前回入院していた時の病室とは違う部屋だったが、備品の配置やカーテン、ベッドなんかもそっくり同じで、まるで二ヶ月前に戻ってきたかのような錯覚を覚える。
 
(もう二度と帰ってきたくないって、そう思ってたのにな……)
 
 新緑の季節、病院をあとにした時に誓った思いを忘れたわけじゃない。
 
(でも無理のないように気をつけながら、普通に生活するってのも……なかなか難しい……)
 
 父さんの書斎で石井先生の手紙を見つけた時から、すでに普通の生活ではなくなったような気もするが、俺の生活があきらかに予定とは違う方向へ向かいだしたのは、真実さんに出会ってからだ。
 
(アパートの二階によじ登ったらこうなりました、なんて言ったら……先生どんな顔するかな?)
 
 もちろんそんなこと、先生にも誰にも言うつもりはなかったが、想像すると少し笑えた。
 穏やかな気分が、少しずつ俺の体調を平素の状態に導いてくれるのがよくわかる。
 
(そう。楽しいことを考えよう……真実さんのこと。それから……真実さんのこと。それから……)
 
 いくらあげ連ねようとしても、彼女に関することしか浮かんでこない自分が笑えた。
 
(なんだよ。俺って真実さんのことしか頭にないのかよ……!)
 
 それは確かに、そうかもしれない。
 
「なに能天気に笑ってるのよ……!」
 頭上からひとみちゃんの怒った声が降ってきた。
 
「あまりにも顔色が悪いから、もうダメなんじゃないかって心配した私が、まるでバカみたいじゃない!」
「もうダメって……」
「や……違う……そんなことありっこないんだけど……そう思う時だって、時々はあるってことよ……!」
「うん」
 
 焦るひとみちゃんには悪かったが、彼女の真正直な言葉に、俺はそれほどショックを受けはしなかった。
 ただそんなふうに思ってくれてたんだということが、少しありがたかった。
 
 もしそうなった時――それが遠からず確実にやってくるということを俺は知っているから――ひとみちゃんがどうなってしまうのかを考えると、少し心配な部分もあった。
 だから彼女が、時には覚悟を決める場面もあるんだとわかって、正直ホッとする。
 
「なんでそこで、ますますニヤけるのよ! それって反応としておかしいでしょ!」
 
 ホッとすると、 俺という奴はどうしても、頬が緩んでしまうらしい。
 かなり体調が悪い状態で病院のベッドに寝ているというのに、俺を無視なんかしなくていつもどおりに怒ってくれるひとみちゃんが、また嬉しくて、ますます笑顔になってしまう。
 
「ちょっと海里! いいかげんに……」
 病院にはあまりにもそぐわない大声で、ひとみちゃんが怒鳴りかけた時、石井先生が部屋に駆けこんできた。
 
「ごめんごめん。海里君……大丈夫?」
 首から下げた聴診器を先生が俺の胸に当てる頃には、俺の心臓はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
 
 もとより発作が起きたわけでもないので、ひとみちゃんと他愛もないやり取りをしているうちに、呼吸のほうもすっかりいつもどおりに戻っている。
 
「ちょっと無理したのかな? ここに帰ってきたくないんだったら、もっと慎重にならなきゃ……」
 まるで小さな子供に諭すかのように、先生は笑い含みで俺に語りかける。
 
 ベッドに横になったまま頷きながら、こうして先生の笑いジワを見上げたのも、そういえばずいぶんひさしぶりだと思った。

「すみません……これからはもう少し気をつけます」
 殊勝に見上げた先生の顔は、すぐににっこりと笑顔になった。
 
「うん。じゃあもう帰ってもいいよ」
 俺の胸にぺたぺたと張られていた心電図のパットを剥がしながら先生がそう言ってくれて、俺はホッとした。
 
(よかった。入院になんかならなくて……!)
 
 もしそんなことになったら、真実さんに会えなくなってしまう。
 それだけはどうしても避けたい。
 少なくとも真実さんの周りが、もっと安心できる状況になるまでは――。
 
 俺は安堵しながらベッドから身を起こしたのだったが、ひとみちゃんはなんだか納得いかない様子だった。
 首を傾げて先生に尋ねる。 
「帰って……いいんですか……? 様子をみるためにしばらく入院とかもなしで……?」
 
 ドキリと胸が跳ねた。
 俺はそっとうかがうように石井先生の顔を見上げる。
 でもその表情はいつもどおりの優しい笑顔。
 ――たとえ内心の動揺があったとしても、俺ごときではちょっと読めない、鋼鉄の笑顔。
 
「ああ。ちょっと通院してもらう回数は増えるかもしれないけれど、今のところは大丈夫だからね」
「そうですか……」
 頷きながらも、どうにも納得がいかないというような顔で、ひとみちゃんは俺と石井先生を交互に見つめる。
 
 これまでに何度も、俺の入院に立ちあってきたひとみちゃんにとっては、確かに違和感があるだろう。
 しつこく首を傾げている。
 
『もうすぐ俺の人生は終わるんだ。だから最後の思い出作りに、先生も父さんも今は俺に好きなことをやらせてくれてるんだよ』
 とはもちろん説明できなくて、俺は曖昧に笑ってごまかした。
 
 いくらひとみちゃんでも、主治医の石井先生が良いと言っていることを、
「それでも安心できるようになるまで、入院させといて下さい!」
 とは言えなかったようで、俺をそのまま一緒に、家まで連れて帰ってくれた。
 
 病院に向かっていた時よりはずいぶん態度を軟化していて、ほとんどいつもどおりのひとみちゃんだったが、
「でも……なんか変じゃない……?」
 と何度もくり返されるのには困った。
 
 いくら聞かれたって、彼女に正しい返事をすることは、俺にはできない。
 
 車の窓の外の街はもう白々と夜が明け、朝を迎えつつある時間だった。

 
 
 病院でいろんな計器をつけられたまま仮眠を取った以外は、あまり寝られない夜だった。
 こんな寝不足の状態のまま、真実さんのところに行っていいのだか、ほんの少しだけ迷う。
 
(でも今日は、警察に行かなくちゃならないし、一緒についていったほうがいい。それに真実さんの周りはまだ安心できる状況じゃない……あいつがまた現われないとも限らない……!)
 
 ぎゅっとこぶしを握りしめる。
 
 さすがに今日は一時間の距離を歩くことは無理そうだったので、いつもどおりに家を出た後、俺は大通りでタクシーを捕まえた。
 昨夜からもういったい何度タクシーを利用したんだろうと数えると、苦笑いしか浮かんで来なかった。
 
 階段を下りてくる真実さんの姿を見た瞬間、やっぱり来て良かったと思った。
 いろんなことがあった長い長い夜だったが、こうして彼女の元気そうな顔を見ただけで、俺まで元気になる。
 
 昨夜はひどい目にあって、本当に恐い思いもしただろうに、俺を見つけるといつものように笑ってくれる真実さんが嬉しかった。
 ホッとした。
 
 でもすっかり安心した気持ちで、歩み寄ってくる彼女の姿を見ていると、昨夜の複雑な心境まで思い出してしまう。
 意地悪な俺の本性が、むくむくと悪戯心を発揮してしまう。
 
 俺に駆け寄ってきた真実さんに向かって、俺が開口一番に言った言葉は
「真実さん、すごすぎるよ……」
 だった。
 
 口で言うほど、本気で根に持っていたわけじゃないし、少なくとも始めは、そんなつもりは全然なかった。
 でも改めて思い返してみれば確かに、真実さんが俺の隣でぐっすり眠ってしまったことは、男としてはけっこうショックな事実だ。
 
「……真実さんが本当に俺を好きだったら、まさかあの状況では眠れないでしょ?俺なんて、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張してたのに……」
 少々うつむき加減で、そんなセリフを口にしていたら、本当に自分で自分がかわいそうにもなってくる。
 
「私だって! 私だって同じだったよ!」
 真実さんの必死な言い訳が聞いてみたくて、わざと振った話題だったはずなのに、どんどん自分が深みにはまっていく。
 
「いいや。俺が思う『好き』と、真実さんの『好き』は、同じじゃないんだよ……あーくそっ。俺ってほんとバカみたいだ……!」
 いつの間にか俺は演技ではなく本当に、頭を抱えてしまいたいような心境になっていた。
 
「私だってドキドキしてたよ!」
 せっかくの真実さんの言葉にも、顔を上げる元気がない。
「ほんとだってば!」
 ごめん。
 あともうちょっとだけ――。
 
「もういいっ!」
 ふいに変わった真実さんの声音に、反射的に顔を跳ね上げた。
 さっさと許してやればよかったのに、意地悪し過ぎるから、真実さんはもう俺をおいて歩きだしている。
 
 短くなった彼女の髪が、朝の眩しい光を浴びてキラキラと左右に元気よく揺れる光景が、とっても綺麗だった。
 
 何度も指で触れたことのある彼女の髪。
 その心地よい感触を思い出しながら、「待って」と笑って手をさし伸べようとして、――俺は動きを止めた。
 
 すっかりいつもどおりに戻ったと――そう思っていた心臓が、また切り裂かれるみたいにズキリと痛んだ。
 
(どうしよう真実さん……やっぱり俺にはもう本当に、時間がないみたいだ……)
 自覚してしまったら、彼女を呼び止める声を出すことさえ、もう恐くてできなくなった。
 
 ちょっと無理をしたら、すぐにひどい状況になってしまう体。
 そんな状態でも家に帰ることを許してくれた先生の判断。
 ――俺は確かに今、確実にこの世界から切り離されていこうとしている。
 
(こんな俺の傍にいて、真実さんになんの得がある……? それこそ、俺がずっと恐れていたことになるんじゃないか……? 俺の死を悲しんで、真実さんの人生がだいなしになってしまう……そんなことになってしまうんじゃないか……?)
 
 震える唇を俺は引き結んだ。
 
(だったらいっそ今ここで、呼び止めなければ……終わりにしてしまえば――!)
 
 自分にとってこの上なく辛い決断を、ここで下してしまおうかと俺が思った時、ふいに真実さんがふり返った。
 まるで俺の心の声が聞こえたみたいに――あの黒目がちな悲しげな瞳で、真っ直ぐに俺を見た。
 
(ダメだ……やっぱり……真実さんゴメン!)
 
 彼女を自分から解放してあげようなんていうたいそうな決意を、俺はやっぱり放棄した。
 
 真実さんの笑顔が見たい。
 隣にいたい。
 できるなら俺が守ってやりたい。
 その思いは捨てられない――今はまだ捨てられない。
 
 ゆっくりと歩み寄って行く俺を待っててくれる彼女は、まるで天使のように、女神のように、いつだって俺の全てを許してしまう。
 俺が心の奥底で欲しいと願っている唯一のものを、惜しげもなく与えてくれる。
 
 そんな彼女に返せるものなど、自分には本当に何もないのに、俺はその手を掴む。
 縋るかのように、掴んでしまう。
 
「警察に行くんでしょ? 俺も一緒に行くよ。心配だから……」
 すました声で、何もなかったかのように語りかける俺に、彼女はホッとしたような表情を向ける。
 さし出した手を、ぎゅっと握り返してくれる。
 
 その全てが胸に痛かった。
 ――昨夜苦しんだ心臓の痛みなんかより、何倍も何十倍も痛かった。