それでもキミに恋をした

 学校に行かないことを兄貴に黙認してもらう代わりに、俺は週に一度、病院へ検査に行くと約束させられた。
 体調を整えることは大切だし、自分が今どんな状態にあるのかを頻繁にチェックできるのは嬉しかったが、ひとみちゃんが同行するという点だけは、正直カンベンしてほしかった。
 
「せっかく俺がいないんだからさ……今のうちに彼氏でも作っちゃうとか、もっと青春を謳歌すればいいのに……」
 善意からのお勧めは、この上なく嫌な顔で却下される。
「そんなこと、海里に言われたくないわよ! だいたい私がついて行かないと、病院だってサボりかねないんだから!」
「さすがにそれはしないよ……それじゃ死ぬのが早くなっちゃうじゃん……」
 
 俺のこの手の軽口を、ひとみちゃんは大嫌いだ。
 それはよくわかっているのに、なぜか俺は彼女相手だと、ついついこんな言い方をしてしまう。
 
 病院からの帰り道。
 タクシーに並んで座りながら、
「またそんなことを言う!」
 とひとみちゃんが怒りだすのを、俺は身構えて待っていた。
 
 だけどひとみちゃんは声を荒げることはなく、それどころか俺のほうを見ようともしない。
 しばらく黙った末に、ポツンと呟いた。
「……もっと生きたいって思うようなことでもあった?」

 俺は驚いて、隣に座るひとみちゃんの顔を見た。
 俺の視線には気がついているはずなのに、彼女は決してこっちを見ようとはしない。
 真っ直ぐ前を向いたまま、さらに呟く。
「……もっと生きて、傍にいたいと思うような人でも見つけた?」
 まるでひとみちゃんらしくない小さな声だった。
 
(どうしてそんなふうに思ったの?)
 なんてうっかり尋ねてしまったら、『女のカン』なんてしおらしい答えまで返ってきそうだ。
 
 当たり前のことなんだが、ひとみちゃんは女の子だったことを、俺は生まれて初めて意識した。
 小さな頃からずっと一緒で、まるで本当の兄妹のようで、誰よりも俺の一番近くにいた従兄妹。
 その彼女が、突然遠い人のように感じる。
 
「別にそんな人いないよ」といつもの調子でとぼけるには、あまりにもタイミングが遅れてしまった。
 自分でも、そう後悔した時、
「そう」
 俺はまだなんにも答えていないのに、ひとみちゃんは俺に背を向けて、窓の外を向いてしまった。
 
 その背中は、
(何が『そう』なんだよ……なんか誤解してんじゃないの?)
 なんてごまかせる雰囲気では、とてもなかった。


「行ってきます」
 成り行き上、真実さんのところに通うのを兄貴に隠す必要はなくなって、俺は本当はひとみちゃんに感謝していた。
 これでもう、朝から制服に着替えて、兄貴が出かけたあとにもう一度着替えてなんて、二度手間はしなくても良くなったわけだ。
 しかも、今さら隠す必要もないわけだから、兄貴より早い時間に家を出ることだってできる。
 
 正直言って、これまで自分にとってはかなり速いペースで、真実さんのアパートまでの距離を歩いていたので、少しでもゆっくり歩けるようになったのは有難かった。
 
「海里が自分の体調を、そんなに気遣うようになるなんて……!」
 もしもの時に備えて、大量の薬を準備する俺を見ながら、兄貴はわざと目頭を押さえてみせる。
「……大袈裟」
 肩をすくめて顔をしかめてみせながらも、自分自身、本当に俺は変わったなと感じていた。
 
 だって調子を悪くするわけにはいかない。
 それじゃあ真実さんに会えなくなってしまう。
 
 それに彼女の前で具合の悪いところを見せるわけにもいかなかった。
 あの優しい人に余計な心配をかけることはできない。
 
 だから俺はいつになく殊勝な態度で、検査や検診にも積極的に通ったし、今までは気にもかけていなかった石井先生からの忠告も、なるべく真面目に守るように気をつけた。
 それでも俺の病気は、そんな小さな努力でなかったことにできるようなものではない。
 真実さんに何も気づかれずに、傍に居続けるということも、思ったほど簡単ではなかった。


 
 真美さんのバイトが休みの日。
 二人でどこかに出かけようと街に出た時、不意に彼女が「髪を切りたい」と言いだした。
 俺は正直、どちらかというとショートカットの女の子のほうが好みだが、真実さんのフワフワと長い髪には愛着を感じてもいた。
 彼女に良く似あっていて、とても綺麗だと思っていた。
 
(どうして切るんだろう?)
 女の人が髪を切る理由なんて、考えてもたどり着くのは、あまり嬉しくない答えだ。
(まさか……失恋?)
 また脳裏に、見たこともない誰かの影が過ぎる。
 
 面白くない想像をふり払って、俺は空を見上げた。
 つられるように、真実さんも上を向く。
 長い髪がフワリと彼女の肩から滑り落ちた。
 
「六月なのにずっと天気がいいね……」
 彼女の視線の先には、本当に、どこまでも雲ひとつ無い青空が広がっていた。
 
「海君が現われてから、毎日がいい天気な気がする」
 ご機嫌で笑う真実さんの言葉には、学術的な根拠など何もない。
 
「なんだよ、それ」
 茶化すように笑いながらも、俺は彼女以上に上機嫌だった。
 真実さんにとっての俺が、他の人よりも特別だと宣言されたみたいで、にやけずにはいられない。
 
「だって本当だもん」
 ちょっと拗ねたように言う真実さんは満面の笑顔で、その彼女に見つめられている自分も、相当な笑顔になっているんだろうなと想像がついた。
 
「本当だよ?」
 だからもう、これ以上抵抗することはやめにした。
 躍りだしたいくらいの喜びを、俺は素直に表現することにした。
 
「うん。わかった。じゃあもう、俺は晴れ男ってことでいいや……」
 真実さんは俺を見上げて、また見惚れるほどに嬉しそうに笑ってくれた。


 
 真美さんが髪を切っている間、俺は暇つぶしのために近くの書店で待っていることにした。
 特に興味もない雑誌の表紙をぼんやりと眺めていると、『DV』という文字が目に飛びこんでくる。
 俺はその、高校生の男子が手を出すのはちょっとまちがいな婦人用の週刊誌を、息を詰めて取り上げた。
 
『ドメスティック・バイオレンス』
 本来は配偶者間の暴力を指す言葉だが、婚姻していない恋人同士の間でも、同じような状況下で暴力が奮われる場合には、同様にそう呼ぶものらしい。
 今までなんとなく見て見ぬフリをしてきた真実さんの体中の傷痕が、脳裏に甦った。
 
(きっと『幸哉』とかいう彼氏から暴力を受けてるんだ…だったら真実さんの今の状況は、きっとこの言葉に当てはまるはず……!)
 本を握る両手に思わず力が入る。
 
 どうにかできるものなら、力になりたかった。
(俺が出ていって話をしたなら、そいつはやめてくれるだろうか……? それとも警察に連絡したなら、どうにかなるんだろうか……?)
 
 いろいろな可能性を模索しながらも、それらは全て無理なことだと、俺は本当はわかっていた。
 周りがどれだけ働きかけても、当の本人である真実さんに拒絶の意志がなかったら、それはどうにもならない。
 
「愛情ゆえに行き過ぎてしまいました。でも私たちは、本当は愛しあっているんです」
 なんて言われてしまったら、もう俺にはどうすることもできない。
 本来彼女の隣にいるべきなのは、俺じゃない。
 どんなに好きだって、大切だって、絶対に俺ではないんだから。
 
 苦しいぐらいの気持ちで、力を入れて握りしめていた週刊誌から、俺はその時何気なく目を上げた。
 いつの間にか真正面に小柄な人影が立っていた。
 
 足元から徐々に視線を上げていった結果、今日真実さんが着ていた青いチェックのワンピースに行き当たって、それが彼女だということを確認する。
 けれど、驚きで脳が一瞬止まってしまうくらい、彼女は長かった髪を見事にバッサリと切っていた。
(何? どうしたの?)
 
 最大級の驚きが頭の中では渦巻いているけれども、そんなことは目じゃない。
 鼓動の早さが俺の心臓の危険領域に入るくらい、俺は別の意味で動揺していた。
(すっげえ! すっげえ可愛いよ、真実さん!)
 短くなった髪は風にサラサラと吹かれて、邪魔にならない程度に彼女の小さな顔に影を落としている。
 大きな瞳が今までよりもさらに大きく見えて、ひどく魅力的だった。
 今まであまりよく見えていなかった首は、こんなに細くて白かったんだと、改めて驚かずにはいられない。
 
 正視するのも照れ臭いくらい綺麗な人が、じっと俺を見つめている。
 俺はどうしたらいいのかわからずに、焦りまくっていた。
「ひょっとして真実さん?」
 そんなふうに、からかい気味にしか声をかけるここともできないくらい、ドキドキしていた。
 
 真実さんはちょっとムッとしたように、俺の顔を上目遣いに見上げる。
「ひょっとしてって、どういう意味?」
 俺の読んでいた雑誌を取り上げて、棚へと戻す彼女の後ろ姿は、今まで見えていなかった華奢な肩のラインまで、やけに鮮明だった。
 
(後ろ姿がまるで別人!)
 そんなことを思ったら、なんだかもう笑うしかなかった。
(高校生にしか見えないよ……なんて言ったらきっと怒るだろうな……)
 わかっていながらも、真実さんの怒った顔も嫌いではない俺は、ついつい余計なことを言わずにはいられない。
 俺って奴は、本当に真実さんの言うとおり、悪戯好きの悪ガキだ。
 
「だって、それじゃあ俺より年下に見えるでしょ……?」
 笑顔で問いかけると、真実さんはついに顔を真っ赤にして叫んだ。
「私だって、ちょっとやりすぎたかなって思ってるもん!」
(駄目だ。もう我慢できない)
 愛しくて嬉しくてたまらない思いを、笑いという行為にすりかえて、俺は大笑いを始めた。
 
 そんな俺にクルリと背を向け、真実さんは歩き出す。
 自動ドアを出て、店の外にツカツカと歩き去ってしまう後ろ姿を見ながら、さすがに俺も、ヤバイと思った。
 けれども、一度始まってしまった笑いは、なかなか止まってはくれない。
 
「待って真実さん」
 笑いながら声をかけてはみるけれども、真実さんは立ち止まるどころか、ふり向いてくれる気配さえない。
 
(しょうがないな)
 急いで店から出て、走って追いかけようとした時に、俺は初めて――とてもそうできそうにはない自分に気がついた。
 
 いつの間にかかなりの速度で脈打ち始めていた心臓が、これ以上は危険だの合図を出している。
 呼吸が止まりそうに苦しくなっていく胸。
 全身から滲み出てくる脂汗。
 俺は急いで胸ポケットの中をまさぐった。
 
 兄貴に渡された携帯電話を取り出し、一瞬迷ったが、それはジーンズのポケットに押しこんで、代わりにいつものピルケースを取り出す。
 小さな命綱を、急いで口の中に放りこんで飲みここみながら、その間にもどんどん遠ざかっていく真実さんの背中に、声をかけようとする。
 けれど、なんと言っていいんだかわからなくなった。
 
『待って。俺は具合が悪いから』
 
 なんて――そんなこと言えるわけがない。
 それよりは、いっそこのまま追いかけないで、俺との関係なんてなしにしてあげたほうが、彼女のためにはよほど親切だ。
 
(どうする……?)
 一瞬。
 ほんの一瞬、躊躇する。
 
 けれど、そうしたらもう二度とあの笑顔を見ることができない。
『海君』と俺を呼ぶ優しい声を聞くことも、もう二度とない。
 
 そう思ったら、
「待ってくれないと、俺は追いかけないよ」
 自分でもビックリするくらいに冷静な声で、俺は彼女に言い放っていた。
 
 すでにかなり離れたところまで進んでいたのに、俺の宣言を聞いた真実さんの両足は、ピタリと動かなくなる。
 華奢な肩が、遠目にもわかるくらいあきらかに、ピクリと震えた。
 
(ずいぶんひどい言い方をする……)
 自分でも呆れてしまう。
 きっと彼女を傷つけた。
(そうじゃなくても傷だらけの真実さんを、これ以上痛めつけてどうするんだ?)
 自分で自分に憤りを感じながら、その実、俺自身も自分の言葉に深く傷ついていた。
 
 真実さんを守りたい。
 救いたいなんて――やっぱり俺が願えるようなことじゃない。
 こんなふうに彼女を追いかけることすらできない男に、いったい何ができるって言うんだろう。
 
 絶望的な気持ちで、硬直したままの真実さんを見つめる俺の瞳の中で、その時ふいに、彼女が動いた。
 短くなった髪をサラサラと揺らして、何度も何度も頭を横に振る。
 
(ひょっとして……待ってくれてる……?)
 ものすごい勢いで涙がこみ上げてきそうになる。
 喉の奥が詰まった。
 
 ゆっくりと俺をふり返った人に、泣き顔なんか見せたくないから、必死に笑う。
 走ることなんてできないから。
 だけどそれでも、真実さんをこのまま見送るなんてもっとできないから。
 俺は立ち尽くす彼女に向かってゆっくりと歩み寄る。
 
 近づくほどにハッキリしてくる彼女の表情に、心からホッとした。
 真実さんは、数秒前の俺と同じように、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
 
 嬉しくて、愛しくて、温かい思いがこみ上げてきて――無理やりだった俺の笑顔が、本物の笑顔になる。
 
「ゴメンね、真美さん。でも本当のことだから」
 それでも嘘はつけない。
 俺の未来は変わらない。
 だから――
 
「俺と一緒にいるの、もうやめる?」
 彼女にそっと尋ねた。
 
 俺と一緒にいる以上は、これからも何度も、こんな場面に彼女を巻きこむことになるかもしれない。
 その時傷つくのは、俺自身だけじゃない。
 彼女だって困惑してふり回されて、どうしようもなく傷つくのだ。
 
 ――だったらいっそ、ここで終りにしたほうがよくはないだろうか。
 
 確かにそう思って問いかけたはずなのに、すぐに必死に首を横に振ってくれる真実さんの様子に、ホッとする。
 心から安堵する。
 思わず、「良かった」と声に出た。
 
 聞きたいことはいろいろとあるだろうに、それらは全て自分の胸に秘めて、黙ったまま俺の前に立つ真実さんに感謝する。
 短くなったその髪に、そっと指先で触れてみる。
 
 いつか海で砂をすくった時のように、指先から零れ落ちてゆく心地良い感触。
 今、俺は確かに真実さんに触れているんだと思うと、心が震えた。
 
「本当は良く似あってるよ。あんまり真美さんが可愛いから、照れ隠しで意地悪言ったんだよ。わかってよ」
 自然と本音が出た。
 慌てて笑ってごまかし、俺はクシャクシャと多少乱暴なくらいに真実さんの髪をかき混ぜる。
 その行為で、思わずもれた本音はなかったことにしようとする。
 けれど――
 
「何言ってるのよ。可愛いのは海君のほうでしょ」
 せいいっぱい背伸びして、お返しとばかりに俺の頭を触ってきた真実さんの手に、どうしようもないくらいに胸が苦しくなった。
 
 楽しそうにキラキラと輝きを増す瞳も、一度だけ抱き寄せたことがある華奢な体も、手を伸ばせば届くぐらいに、俺のすぐ近くにある。
 そしてたとえ俺が今この瞬間抱き寄せたとしても、きっと怒らないぐらいに、彼女が俺に心を許してくれていることもわかっている。
 
 でもそれはできない。
 やってはいけないことだ。
 
 だから辛かった。
 彼女に触れたい――なんてことさえ望んではいけない自分の、あまりにも短すぎる運命が辛かった。
「今日は動物園に行きたい」
 真実さんはなぜだか胸を反らして、威張るようなポーズでわがままを言う。
 そんな姿でさえも、かわいくってたまらない。
 
「はい、かしこまりました」
 丁寧にうけたまわって、大袈裟に頭を下げてみせると、彼女はもっと嬉しそうに笑う。
 こんなに喜んでもらえるんなら、俺はどんなにおどけてみせたってかまわないと思った。
 
 折り曲げていた上半身を起こしたついでに見上げた空は、すっかり太陽が高い。
 これからどんどん、気温も上がるだろう。
 真実さんがせっかく早起きして作ってくれたお弁当が痛まないうちに、目的地に着かなければと、俺は彼女の手からお弁当の入ったバッグを取り上げる。
 
「急ごっか?」
 歩き出しながら誘うと、こくこくと頷きながら俺のあとをついてきてくれる。
 そのちょこちょことしたかわいらしい小走りに、昔飼っていた子犬のことを、また思い出したのはないしょだ。
 
 つかず離れずの微妙な距離を保ったまま、俺たちは動物園へと急いだ。
 この街で動物園と言えば、あまり珍しくもない動物がほどほどに集められた、中規模程度のものしかなかった。
 特に目玉の動物がいるわけでもない。
 だけど子供のお小遣い程度でも行ける良心的な値段設定のおかげで、お金のかからないデートコースとして、中学生の間では定番になっているらしい。
 もちろん学校や幼稚園の遠足、ファミリーの行楽地としても定番で、規模のわりにはなかなかお客の数も多いらしい。
 
 らしい――というのは、俺自身はこれまでに一度も、この動物園に来たことがなかったからだ。
 どこでどんな病気に感染するかわからないから、人ごみはなるだけ避けるようにと、小さな頃から注意されている。
 同じ理由で、動物に近づくことも、あまり良しとはされていない。
 
 まだ半分ぐらいは学校に行けていた小学生の頃でも、動物園への遠足の参加は、一度もOKが出たことがなかった。
 遠足のあとの図工の時間というのが、必ず遠足の思い出を絵に描くというもので、担任する先生によっては、俺を腫れものに触るかのように扱った。
「海里君は遠足に行けなかったから……特別に……」と動物図鑑を貸してくれた先生もいる。
 
 絵はもともと得意だから、図鑑に載っている動物の姿を模写して、描くことは難しくなかった。
 クラスメートたちからも、「すっごくうまーい」とほめられた。
 でも、内心は寂しかった。
「いつか行こうね」と言ってくれていた母さんが亡くなってから、尚更、動物園は俺にとって遠くなったから。『ピクニック』同様、家族の間では話題にものぼらなくなったから。
 
 だから今日が、俺にとっては初めての動物園。
 たとえ子どものようにおおはしゃぎしても、そこはどうか大目に見てほしい。
 きっと真実さんだったら笑って許してくれる。
 そんなふうに思える人と一緒に、人生初の動物園に行けるってことが、実は心底嬉しかった。
 
「真実さん、あれ見てよ。ほらほら」
 木々の間を素早く移動するサルたちを、必死で指差す俺にも、真実さんは嫌な顔をしたりなどしない。
 だからといって、ベンチに座ってニコニコしているだけで、俺と一緒に動物の姿を追って、動きまわったりはしてくれない。
 
 無理もない。
 普通の生活をしていたら、真実さんぐらいの年齢になれば、もう動物園など目新しくもなんともないはずだ。
 その証拠に――
「まるで、初めて動物園に来た子供みたいだよ。海君」
 と冗談めかして笑われる。
 
「うん。俺、初めてなんだよ」
 何も考えずにそう答えてしまってから、俺は「しまった」と思った。
 案の定、真実さんはひどく驚いた顔で俺を見ている。
「えっ? 本当に?」
 
 今さらごまかすのも変だと思って、俺は素直に、「本当」と答えた。
 真実さんはすぐに、小さく首を傾げて何事かを思案し始める。
(なんで初めてなんだろう?)なんて、きっと必死に考えてくれているんだろう。
 
 真実さんはいつだって俺の言葉の一つ一つを真剣に捉えてくれる。
 言葉の裏に巧妙に隠された俺の真意を、汲み取ろうとしてくれる。
 しかし今回ばかりは、いくら考えてもちょうどいい答えなど出てこないはずだ。
(何か言い訳したほうがいいのかな……? でもなんて言う……?)
 
 困りきった俺を救ってくれたのは、その時、真実さんに向かって背後からかけられた明るい声だった。
「ひょっとして真実?」
 
 弾かれるようにふり返る真実さん。
 その顔がみるみる嬉しそうに紅潮した。
 
 黄色い帽子を被ったチビッコたちでやけに入り口が賑やかだと、俺は動物園に入り際、ひそかに思っていた。
 どうやらその集団は、真実さんの通う大学付属の幼稚園の園児たちだったらしい。
 子供たちに囲まれた茶色いお下げ髪の美人の先生は、なんと真実さんの同級生だった。
 
「愛梨。ひょっとして教育実習? 誰だかわかんないよ、それ」
 笑う真実さんに、彼女のほうも、
「真実こそ。どこの高校生カップルかと思ったわよ。彼氏?」
 と笑ってみせる。
 
 チラリと一瞬俺に向けられた視線に、ドキリとした。
 
(か、彼氏って……だって真実さんには……)
 この場で思い出さなくてもいいようなことまで思い出して、更にズキリと胸が痛くなる。
 
 そんな俺に、真実さんが容赦なくとどめを刺した。
「ち、違うわよ。そんなんじゃないわよ」
 大袈裟なくらいに手を振る姿に、冗談じゃなく本当に打ちのめされたような気がした。
 
(あーぁ……そんなに必死に否定しなくたって、俺だって違うってことぐらいわかってるよ……)
 
 真実さんと出会ってからの日々、浮かれっぱなしだった俺に、まるで誰かが、忘れてはならない現実を突きつけたかのようだった。
 
 真実さんが言うように、俺は彼女の『彼氏』なんかじゃない。
 そう呼ばれる人間は、ちゃんと別に存在するんだから――。
 
 でも――だったら俺は彼女のなんなんだろう。
 友達?
 知りあい?
 赤の他人?
 
 ほんのついさっきまですぐ近くに感じていた真実さんが、いっきに遠くなる。
 
(じゃあ、学校サボってこんなところまで来て……俺は何をやってるんだ……?)
 
 胸が痛かった。
 どうしようもなく痛かった。
 
「そっちの彼」
 真実さんの友達――きっと名前は愛梨さん――にふいに呼びかけられるまで、俺は考えたってどうしようもないようなことを、一人でぐるぐると考え続けていた。
 その間、真実さんとその愛梨さんが、どんな会話を交わしていたのか、まったく耳に入っていなかったほどだ。
 
 それなのに、はつらつとした美人の愛梨さんは、真実さんに教えられた名前で、俺を迷うことなく呼ぶ。
「海君、真実をヨロシクね」
 
 声の明るさとは裏腹に、射るほどの真剣な眼差しに、胸をうたれた。
 
 きっと真実さんの今の状況だとか、恋人とのことだとか、この人はみんなわかってて、俺と同じように、できるものならどうにかしたいと考えている。
 それぐらい、きっと真実さんを大切に思っている友だちが、俺に真実さんを任せると宣言してくれている。
 
 ――いろんな迷いが、いっきに吹っ飛んだ。
 
 たおたと彼女の言葉に焦っている様子の真実さんが、もう一度、「そんなこと海君には関係ないんだから……」なんて俺にとって致命傷とも言える言葉を言い出す前に、
 
「はい」
 ときっぱり、愛梨さんに向かって言い切っておく。
 
 ピタリと動きの止まった真実さんがどんなふうに思ったのか。
 どんな顔をしているのかは、うしろに立っている俺からはわからない。
 
 けれど、こっちを向いている愛梨さんが、真実さんを見つめてそれはそれは嬉しそうに笑ったから、きっと俺の返事はまちがいではなかったんだろう。
 
 なかったはずだと、俺は自分に必死に言い聞かせていた。
 
 愛梨さんと子供たちが行ってしまってからも、真実さんはなかなかベンチから立ち上がろうとはしなかった。
 俺のほうをふり返ろうともしない。
 
(まさか……迷惑だったのかな……?)
 絶対にそんなはずはないと思いたくても、自然と俺の心にも不安が忍びこんでくる。
 
 出会ったあの夜から、ただ真実さんの傍にいたくて、少しでも一緒にいたくて、俺はいろんなことを無視して、自分の心に従って行動してきた。
 
 これまでの俺の常識とか、思いこみ。
 諦めの気持ち。
 無視したものの中に、まさか真実さんの意志が含まれてはいなかっただろうか――。
 
 そう考えるといたたまれない気持ちになった。
 
(ひょっとして……真実さんは優しいから、俺の勝手な片思いにつきあってくれているだけ……なんてことはないよな……?)
 
 一度考えだすと、何もかもがわからなくなった。
 俺に会いたいといってくれた言葉も。
 俺を抱き返してくれた腕も。
 向けられる笑顔さえも。
 
 まるで足元をすくわれたかのように、これまで俺を支えてくれていたはずのものが、ガラガラと音をたてて崩れていく。
 どうにもじっとしていられなくて、俺の体は逃げの行動に出た。
 
「そろそろ、移動しようっと」
 独り言のように言って、真実さんの隣にあったお弁当のバッグを取り上げる。
 真実さんが何か言い始める前に、さっさと歩き出す。
 
 恐かった。
 まったく信がなくなるということが、こんなに恐いことだとは思わなかった。
 
(なんだかんだいって、いつもが自信過剰過ぎるんだよ……俺は……!)
 ほうっと大きなため息が出る。
 
(思いこみが激しいっていうか……文字どおり世間知らずっていうか……一人よがり……? 自分勝手……?)
 普段が変に前向きなわりには、自分の悪いところはこんなにポンポンと出てくる。
 
(真実さんにもきっと……嫌な思いさせてたんだろうな……)
 そんなことを思っている最中も、まさに俺の良くないところが発揮されているとは、まったく自覚がなかった。
 
「海君」
 俺を呼ぶ真実さんの声が、あまり耳に入っていない。
 何かを言ってるみたいだが、よく聞きもしないで、俺は「何?」とか「別に」とか口先だけの返事をくり返している。
 だけど――。
 
「そんなに急いだら、私、ついて行けない」
 涙まじりの叫びだけは、さすがに胸に響いた。
 驚いて――ひどく驚いてようやく俺は足を止めた。
 
 自己嫌悪をくり返しながら、どうやら俺の足はどんどん先に進んでいたのらしい。
 隣にいたはずの真実さんを、いつの間にかすっかり置き去りにしてしまっていた。
 
(なにやってんだ俺は……!)
 腹が立つ。
 何よりも腹が立つ。
 
 真実さんの笑った顔が好きで、それを曇らせる奴が許せなくて、さんざん正義感ぶってたはずなのに、俺のやってることと言えば、まるでそいつと変わらない。
 
(俺が泣かせてどうするんだよ!)
 握りしめたこぶしを、ぶつけるような場所はないものかと考えながら、ハッと我に返る。
 
(そうじゃないだろ……そうじゃなくて……!)
 考える前に、体が勝手に動きだす。
 とにかく真実さんに関しては、最初に出会ったあの夜から、俺の体は本人も想像がつかないほど、予想外の動きばかりする。
 
「しょうがないな、はい」
 俺はいつの間にか、ふり向きざま真実さんに向かって左手を差し出していた。
 真実さんは、今にも涙が零れ落ちそうに潤んだ目をいっぱいに見開いて、俺の手を凝視している。
 
(おいおい。本当に子犬じゃないんだからさ……!)
 冷や汗の出そうな思いとは裏腹に、口のほうまで俺の意志は関係なく、勝手に動き出す。
 
「早く繋いで下さーい」
 ブッと吹き出さずに、瞬間的に笑いをかみ殺せたのは、我ながら上出来だったと思う。
 
 でもこの瞬間に、俺の中で何かが切れてしまった。
 とまどうように俺の顔とさし出された手を見比べている真実さんの手を、何がなんでも掴みたいと思ってしまった。
 
「あと十秒で締め切りまーす」
「やだっ、待って!」
 慌てて走り出した真実さんを見てたら、もういろんなことがどうでもよくなった。
 
(だめだ、やっぱり好きだ。結局、うだうだと考えたって、俺は真実さんが好きなんだ。ただそれだけなんだ……!)
 俺の手に触れてきた真実さんの手を、放すもんかと掴んだ。
 誰にも譲れない、譲りたくない気持ちで、せいいっぱいの気持ちで握りしめた。
 
 ずっと手を繋いでいた。
 歩く時も。
 立ち止まって動物を見る時も。
 
 小さな手がすっぽりと自分のてのひらの中に収まっている感触が、こんなに嬉しいことだなんて、今まで知らなかった。
 
 だけど嬉しさと同時に寂しさが押し寄せてくる。
 こうしていられるのはあとどれだけだろう。
 
 今まで当たり前のこととして受け止めてきたはずの、自分の命のタイムリミットが、辛くてたまらなかった。
 俺がいなくなったあとは誰と、真実さんはこんなふうに手を繋ぐんだろうかと思うと、泣きたくなる。
 
(せめて好きだって言える立場に生まれたかった……)
 ズルイ俺は、ズルイ行動に出た。
 
 自分が伝えられないのならば、せめてその言葉を彼女から聞きたいと思った。
 手始めに、彼女がとても答えられないような質問をぶつける。
 
「俺は真実さんの何?」
 思ったとおり、息をのんで俺の顔を見つめる真実さんは何も答えられない。
 
(当たり前だ……『恋人』は別にいるんだから……)
 そのことにもう必要以上に胸は痛まない。
 何度も自虐的に考えて、少しは慣れたということだろうか。
 
 次の質問は、もう少し真実さんの答えやすいものにすり替える。
 これまでずっと逸らしていた視線を、急に真っ直ぐに彼女に向けるのも忘れない。
 
「ゴメン。それじゃ、質問を変える。真実さんは俺をどう思ってるの?」
 真実さんが息をのむ音が聞こえた。
 
 今、目を放したらいけない。
 逃げ場を作ってあげてはいけない。
 どこにも逃げられないように、追いこんで追いこんで、あとをなくして。 
 
 ――だからどうか、同情なんかじゃないキミの本当の気持ちを聞かせて。
 
 俺の祈りは、彼女へと届いた。
「好きだよ。大好き」
 
 眉根をギュッと寄せて、まるで甘い雰囲気などなく、罪でも犯したかのように、真実さんは苦しげに俺に告げた。
 
 どうしようもない想いに抗うことができず、俺も自分で自分に許した最大限の言葉を口にした。
「俺もだよ」
 
 真実さんの瞳からは、こらえきれなくなった大粒の涙が零れ落ちる。
 
 その涙が嬉し涙であることだけを、卑怯な俺は全身全霊で祈った。
 
 シャツの胸ポケットで、新品の携帯電話が軽快な呼び出し音を鳴らす。
 カンカンカンと高い音をさせてアパートの外階段を上って行った真実さんが、盛大に手を振りながら自分の部屋に帰るまで見届けてから、俺はゆっくりと電話をポケットから取り出し、自分の耳に押し当てた。
「もしもし……?」
 
「遅いっ!」
 開口一番、怒鳴りつけてくるのはひとみちゃんの声。
「家に帰ってくるのも……電話に出るのも……どっちも遅すぎるっ! 夕飯、ちゃんとうちで食べるのか。それともいらないのか。聞いてみろってお母さんが言ってるんだけど……!」
「ごめん。すぐ帰る。だからご飯も家で食べます……」
「わかった」
 言うが早いか、用件はそれだけだと言わんばかりに、電話はブツリと切られた。
 ひとみちゃんらしいといえば、実にひとみちゃんらしい。
 
 本当は自分が俺のことを心配だったのに、叔母さんをダシに使ったんじゃないかという疑いは、とりあえず伏せておく。
 俺は小さく苦笑しながら、携帯をもう一度胸ポケットに戻した。
 
 夏が目前に迫り、日が長くなりつつあるとはいえ、あたりはもう薄暗い。
 ここから一時間の道のりを、いつものように歩いて帰るか、それともタクシーでも拾うか、少しの間考えた。
 考えながら、アパートの一番手前の真実さんの部屋を見上げる。
 小さな灯かりが灯っていた。
 
 今日初めて、彼女と繋いで歩いた手を握りしめる。
 胸がざわめき、自然と頬が緩んだ。
 
(やっぱり歩いて帰ろうかな……今すぐ家に着いたら、今度は『なんなのよ! そのニヤけた顔は!』ってひとみちゃんに怒鳴られそうだ……)
 そんなことを思いながら、寄りかかっていたガードレールから俺が身を起こした時、目の前に大きなブレーキ音をさせて、黒い車が突っこんできた。
 
「うおっ!」
 撥ねられそうになるほど危なかったわけではないが、かなり驚いたのは本当だった。
 あまり丁寧とは言えないハンドルさばきでアパートの前に横づけされた車から、大きな男が下りてくる。
 
 ガンガンガンと大きな音をたてて階段を踏み鳴らしながら上った男が、真実さんの部屋の前に立つ姿を目にした瞬間、ぐらりと俺の視界が歪んだ。
 湧き上がる激情に、目が眩んだ。
(あいつ……! まさか!) 
 
 今すぐ走りだそうとした足を意志の力で止めるのは容易ではなかった。
 ドンドンと真実さんの部屋のドアが叩かれる音と、体中に響き渡る俺の心音。
 どちらがどちらかわからないくらいの大音量で、耳に響く。
 
(落ち着けっ! ……落ち着け!)
 ここ最近では一番ヤバい状況になりつつある心臓を庇って、胸を押さえながら、俺は逸る呼吸を整えようとした。でも――
 
(無理だ! ちきしょう!)
 ポケットから取り出したピルケースの中の薬を、早目に口に放りこむ。
 これまでの経験から、薬が効いて普段どおりに動けるようになるまで、かかる時間は数分間。
 その数分間に無理をしたことは、これまで一度だってない。
 でも今は、そんな悠長なこと言ってられない。
 
「真実! 真実! いるんだろ!」
 ドアを蹴破りそうな勢いで叩き続けるあの男を、このまま放っておけるはずがない。
 
 部屋の中の真実さんは、今どんな思いでいる。
 きっとあの蒼白な顔になって、――ひょっとしたら泣いているかもしれない。
 そう思ったら、切り裂かれるように胸が痛んだ。
 
 胸ポケットにしまっていた携帯を取り出して、110番をコールする。
 すぐに応答してくれた緊張感のまったくない声に、事情を説明しながら、俺は胸を押さえたままのろのろと歩きだす。
 胸の鼓動はまだ落ち着く気配さえなかったけど、それはあえて無視した。
 重たい足を引きずるようにして、男のいる外階段とは反対側の、アパートの南側へと回りこんだ。
 
 一つの部屋に一つだけある掃き出し窓には、それぞれ小さなベランダがついていた。
 真実さんの部屋の窓を見上げながら、なんとかあそこまで上れないかと周りを見渡す。
 
「うるさいぞ! 静かしろ!」
 非難の声を上げているのが聞こえたところを見ると、どうやら真実さんの隣人は在宅のようだ。
 だがベランダ同士は隣接しているわけではない。
 
(隣の家の塀によじ登って、そこから懸垂の要領で上ることだったら、できなくはないんじゃないか……?)
 一瞬、そこまでしなくても良いんじゃないかという思いが頭を過ぎる。
 警察はすぐに来てくれると返事してくれたし、とりあえず先日つけ替えたばかりの真実さんの部屋の新しい鍵は、じゅうぶんにその役目を果たしているようだ。
 しかし――
 
(ドアを叩く音や、自分を呼ぶ声を聞きながら……真実さん、どうしてる? ……何を思ってる……?)
 そう思うと、いてもたってもいられなかった。
(もし万が一……耐え切れなくなって……諦めて……真実さんがドアを開けてしまったら……そしたら、どうなる?)
 さっき、否応なく脳裏に焼きついてしまった男の後ろ姿が、鮮明に頭の中に甦る。
 
(きっと、あの男に連れて行かれる……そして……!)
 初めて会った日に真実さんの体のあちこちに残っていた傷痕と、腫れた頬と、この間も腕に残っていた指の跡。
 そして怯えたような、あまりに悲しげな瞳。
 ――すべてが俺の脳裏にフラッシュバックした。
 
 自分でも気がつかないうちに、俺は走りだしていた。
 
(嫌だ!)
 
 誰にも渡したくない。
 触れさせたくもない。
 ――俺のわがままと。
 
 これ以上真実さんを傷つけたくない。
 守ってやりやい。
 ――彼女を思う気持ち。
 
(この思いだけは譲ったらダメだ! 真実さんが好きなら……絶対に諦めたらダメなんだ!)
 無我夢中で、俺は彼女の部屋の窓まで、よじ登った。
 
「真実さん」
 呼吸を整える暇さえもどかしく、俺は窓に向かって呼びかける。
 
 建物の反対側では、まだあの男が叫びながらドアを叩いている。
 俺の小さな呼び声が、真実さんに聞こえるとはとても思えない。
 でも大声を出すわけにはいかなかった。
 だからせいいっぱいの思いをこめて、もう一度呼びかける。
 
「真実さん」
 
 決して大きくはない声。
 ――それなのに、窓の向こうには人影らしいものがふっと現われる。
 
 窓を開けようかどうしようかと、ためらう素振りを見せるその小柄な人影に、俺はできる限りいつもどおりを心がけて、心をこめて呼びかけた。
 
「真実さん。俺だよ」
 スッと開いた窓の隙間から、大きな黒目がちの瞳が見えた瞬間、泣きたいような衝動に駆られた。
 
 大丈夫かと尋ねるよりも先に、恐かっただろうと労わるよりも先に、手が出てしまう。
 まるでかき抱くかのように、俺の両腕は彼女の頭を自分の胸に抱き寄せた。
 震える体がほうっと大きく息を吐いたのが、俺の体にも伝わってくる。
 真実さんが震えているのがよくわかる。
 
 かなり無茶してここまで来たが、どうやら無駄ではなかった。
 ――そう知って、心底ほっとする。
 
 まにあって良かったと、心から思った。
 建て前も言い訳も捨てて、思いのままに真実さんを抱きしめたこの腕を、本当はもう二度と解きたくなんかなかった。


 
 真実さんの部屋に招き入れてもらって、その上二人で寄り添うようにして息を殺していると、どうしたって緊張の思いが大きくなる。
 そんな動揺を決して真実さんには知られたくなくって、こんな時だと言うのに、俺は必用以上におどけてしまう。
 
「凄いね、あの人」
 いまだにドアを叩き続けている叫び声を揶揄して、わざと皮肉るように言った。
「俺、今出ていったら殺されるかもね?」
 できることなら笑ってほしかったが、やっぱり真実さんに今そんな気持ちはないらしい。
 
「そうかもね……」
 寂しく答えられて、息が詰まった。
 
(ひょっとして……本当はあの男のことを嫌ってるわけじゃない……? ただ、今は少しうまくいっていないだけ? そんなこと……ないよな……?)
 かなり自虐的な想像まで、むくむくと胸に湧く。
 
 俺はこらえきれずに、真実さんに問いかけた。
「……どうしたの?」
 ここで「私やっぱり……」なんて切り出されたら、傷つくのは自分だ。
 もうどうしようもなく落ちこんでしまうに、決まっているのに。
 わざと自分を追いこむようなこんなやり方だけは、俺はどうしても改めることができない。
 
 手を引くのなら、早いほうがいい。
 ――その思いがいつだって、俺にギリギリのラインを見極めさせようとする。
 
 なのに真実さんは、俺が恐れる、いや本当は望んでいるのかもしれない答えを返すことは決してない。
 否も応も答えずうやむやのままにしておかれるのが、俺にとって一番都合がいいと、まるでわかってくれているかのように。
 
 左肩に彼女のぬくもりを感じながら、考え続ける俺の耳に、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンの音が聞こえ始める。
 自分が警察に通報した旨を、彼女に語っていた俺は、誇らしく胸を張った。
 
「ほら、来たよ」
 わざわざ明るい調子で言った言葉に、あきらかにビクリと真実さんの肩が震えた。
 瞬間的に――ヤバイ――とわかった。
 
「真実! 真実!」
 叩かれ続けるドアを見つめる真実さんの目は、深い悲しみに覆われている。
 けれどそれは決して嫌悪の思いばかりではない。
 どれだけかの期間、楽しく過ごしたこともあるあの男を、真実さんはすっかり憎んでいるわけではないのだ。
 複雑な彼女の感情が垣間見える。
 すっかり暗くなってしまった部屋の中だったが、肩を寄せあって座っている俺には嫌というほどによく見えた。   
 ふっと立ち上がって、今にもドアの向こうの男のほうに行ってしまいそうな真実さんの雰囲気に、俺はたまらなく嫉妬する。
(こんなにひどい目にあっても、傷つけられても、それでも真実さんは……!)
 
 思わず声が出た。
「駄目だよ。真実さん」
 
 正義感ぶって、俺は彼女を諭した。
「真実さんが今ここであいつを許してしまったら、何も変わりはしないよ」
 
 胸が痛んでたまらない俺の本音を、彼女に押しつけた。
「俺は忘れないから。真実さんがあいつにどんな目にあわされたか……絶対に忘れないし、許さない」
 
 絶対に言うつもりはなかったことまで、口にしていた。
 そうまでして、俺から離れてあの男のところに行こうとしている真実さんを引き止めたかった。
 
「真実さん。俺が来なかったら、またあいつにドアを開けてたね。そう思ったから俺は来たんだ」
 胸が痛い。
 心臓なんかじゃないもっと奥のほうが、叫びだしてしまいたいほどに痛い。
 
「心配でずっと外で見てたけど……本当は真実さんが一人で戦ってるのを、黙って見守ってたかったけど……真実さんがまたあいつに流されるのは、俺だって絶対嫌なんだ」
 伸ばした両手で、隣にいる人を抱き寄せる。
 もしも抵抗したいなら――この腕から抜け出してしまいたいなら、そうできるだけの余裕を残して、恐る恐る真実さんを抱きしめた。
 
「ごめん……ごめんなさい。海君……」
 俺の胸の中で真実さんは小さく嗚咽し始める。
 
(ゴメン、そうじゃなくて……泣かせたかったわけじゃなくて……)
 言い訳するかのように、背中に廻していた腕に、俺は少し力をこめる。
 
「来てくれてありがとう……」
 思いがけない感謝の言葉に、もし涙が零れたりしても絶対に彼女に見られないようにと、背けていた顔を、ハッと彼女の上に戻した。
 
 真実さんは俺の腕の中で、真っ直ぐに俺を見上げていた。
 その瞳の中に、何にも代えがたい愛しさの色が見える。
 
 身震いするほど嬉しいことに。
 俺にはそんな資格などないのにと申し訳なく思うほどに。
 ――確かに俺に対する彼女の特別な想いが見えた。
 
(俺のほうこそ……ありがとう)
 長い長い息を吐いて、俺は真実さんの肩にそっと額をつけた。
 
 息をひそめてパトカーの到着を待つ間に、真美さんの体からは次第に力が抜け始める。
 寄り添うように座る俺には、その感触が嫌というほど直に伝わってくる。
 
 大きな瞳は閉じたり開いたりを頻繁にくり返した末に、ピッタリ閉じて、呼びかけても開かなくなった。
 
(まいったな……)
 苦笑しながらも、まんざら悪い気分ではなかった。
 
 隣にいても安心して眠れてしまう相手。
 恋人としてはどうかと思うが、決してそうなることができない俺にとっては、かなりの好ポジションだ。
 
(でもなぁ……)
 男としてはどうなのかとも思う。
 これは真実さんが俺を男だなんて思っていないことの証拠なんじゃないだろうか。
 
(だったら真実さんが俺に言った『好きだよ』はいったいどんな意味なんだ……?)
 考えれば考えるほど、情けない答えしか浮かんでこない。
 
 でも、こんな他愛もないことに悩む時間は嫌ではなかった。
 すっかり俺に身を任せきっている真実さんのぬくもりを、隣に感じているのならば尚更――。
 
(やっぱり夕食はいらないのメールだけは、忘れないようにしないと……)
 目をむいて怒るひとみちゃんの顔が頭に浮かんだが、今はそれすら、笑顔で想像できた。
 
 それぐらい、真実さんがあの男より俺の隣にいることを選んでくれた――そのことは、俺にとって偉大だった。
 真実さんがすっかり寝入ってしまってから到着した警察の人に、俺は自分にわかるだけのことを説明した。
 
「うーん。さすがにこれだけじゃねぇ……悪いけど、明日にでもちょっと署に来てもらうしかないかな……」
 ベッドに寝ている真実さんをチラチラと気にしている刑事さんは、どうやら彼女の具合が悪いと誤解したらしい。
 俺はあえて、その誤解を解かないままにしておいた。
 
 玄関前で確保したあの男を連れて、刑事さんが帰ってしまってからも、俺はしばらく真実さんの傍にいた。
 規則正しい寝息をたててすっかり寝入ってしまっている様子に、
(本当に、俺のこと男だなんて思ってないんじゃないか……?)
 と悲しくもなったが、それだけ安心して心を許してくれているということが嬉しくもあった。
 
 静かに、音を立てないようにして、俺も真美さんの部屋をあとにした。
 あたりはすっかり暗くなっていた。
 
(あーあ、これはもう完全に、ひとみちゃんに怒られるな……)
 
 結局ひとみちゃんに、「やっぱり遅くなる」の電話はできなかった。
 思ったより警察が早く着いたせいもあるし、そんな連絡入れているところを、真実さんに見られたくなかったせいもある。
 でもなにより――
 
(さすがに無茶し過ぎだよな……)
 平気なフリをしてひとみちゃんに電話するには、あまりにも俺の体調は悪くなっていた。
 ドキドキと早鐘のように鳴り続けている心臓を、左手でそっと押さえてみる。
 さっきから時折、ズキリと鈍い痛みが走る。
 
 薬を飲んでから一時間も経っていないし、本来なら今は絶好のコンディションのはずだ。
 なのにこんな状態というのは、――はっきり言ってかなりマズイ。
 
「何やってんのよ! こんなにひどくなるまで!」とひとみちゃんに怒鳴られることはもう決定的だった。
 
 ちょっとでも痛みが治まりはしないかと、しばらくじっとその場に立ち止まってみても、 
(やっぱり無理か……)
 そう簡単にはいかなかった。
 
 大通りに出てタクシーを捕まえる。
 後部座席に乗りこんでシートにもたれたら、気が緩んだのだろうか、胸の痛みがなおさら増したような気がした。
 必死に呼吸を整える。
 いくら吸ってもちっとも楽になんかならなくて苦しかった。
 
 ――でも後悔はしていなかった。
 
 俺があの時、あんな無茶な行動に出ていなかったら、真実さんはまちがいなくあいつにドアを開けていただろう。そしてあいつに捕まって。
 そして――
 
(ダメだ。こんなこと考えてたら、よけいに苦しくなる……)
 
 岩瀬幸哉というあの男が、刑事さんに連れられてパトカーで連行されていくところを、俺は見なかった。
 あえて見なくても、俺の脳裏にはあの男の後ろ姿が、もう嫌というほどに焼きついていた。
 
(許せない……!)
 
 感情を高ぶらせるのは、今の俺にとってあまり良いことではない。
 だからなるべくなら考えないようにしなければならないのに、どうしても憤る感情をふり払うことができない。
 太ももの上で握りしめていたこぶしを、俺はいっそう固く握り直した。
 どんどん乱れていく息を整えようと、大きく深呼吸をくり返す。
 
(絶対、許さない……!)
 
 自分の体だって支えていられない、こんな俺じゃ、どんなに強い思いがあったってそれをやり通すことは難しい。
 その事実が、今夜はいつにも増して悔しかった。


 
 家へと乗りつけたタクシーで、俺はそのまま病院送りになった。
 家の前で仁王立ちで待っていたひとみちゃんは、開口一番「海里のバカ!」と俺を罵ったあとは、ずっとだんまりを決めこんでいる。
 
 狭いタクシーの中。
 かたくなに俺に背を向け続けている様子が、なんだかいつもと違う。
 強い意志を感じさせる大きな目が、真っ赤になっていることが、俺をかなり申し訳ない気持ちにさせた。
「ごめん。ひとみちゃん……」
 
 てっきり、「謝るくらいだったら、勝手なことばっかりしないで!」とでも怒鳴られると思っていた。
 なのに、返事がない。
 かたくなに窓の外を眺め続けている横顔は、目ばかりでなく、その縁までほんのりと赤い。
 
「ひとみちゃん?」
 まるで呼びかける俺の声が聞こえないかのように、彼女は身動き一つしない。
 睨むように、窓の外を通り過ぎる家々の灯りをただじっと見ている。
 
 そうしながら、ふいにポツリと呟いた。
「海里はなんにもわかってない……私の気持ちなんて全然わかってない……!」
 
 胸にグッと来た。
 すごく心配かけた――そのことはよくわかっているつもりだったのに、反省の気持ちが足りないということだろうか。
 反省しているようには見えないということだろうか。
 
 俺は神妙にペコリと頭を下げる。
「心配かけてごめん……」
「やっぱりわかってない……!」
 口では文句言いながらも、いつもだったら結局ひとみちゃんは俺を許してくれるわけで。
 この時も、謝り続けていれば最後はどうせそうなるんだろうと、俺は高をくくっていたわけで。
 
 でもひとみちゃんはこっちを見てもくれなかった。
 窓に目を向けたまま、微動だにしない。
 唇をきりっと引き結んだいつも以上に厳しい横顔を見ていると、俺はもう謝罪の言葉さえ口にできなかった。
 
(どうしたっていうんだ……?)
 胸の痛みと同時に、疑問と格闘することになった俺と、ひとみちゃんは病院に着くまでの間それっきりずっと、一言も口をきかなかった。

 
 
 急な来院で石井先生は手があいておらず、俺は緊急に準備された処置室代わりの病室で、ベッドに横になってしばらく安静を言い渡された。
 前回入院していた時の病室とは違う部屋だったが、備品の配置やカーテン、ベッドなんかもそっくり同じで、まるで二ヶ月前に戻ってきたかのような錯覚を覚える。
 
(もう二度と帰ってきたくないって、そう思ってたのにな……)
 
 新緑の季節、病院をあとにした時に誓った思いを忘れたわけじゃない。
 
(でも無理のないように気をつけながら、普通に生活するってのも……なかなか難しい……)
 
 父さんの書斎で石井先生の手紙を見つけた時から、すでに普通の生活ではなくなったような気もするが、俺の生活があきらかに予定とは違う方向へ向かいだしたのは、真実さんに出会ってからだ。
 
(アパートの二階によじ登ったらこうなりました、なんて言ったら……先生どんな顔するかな?)
 
 もちろんそんなこと、先生にも誰にも言うつもりはなかったが、想像すると少し笑えた。
 穏やかな気分が、少しずつ俺の体調を平素の状態に導いてくれるのがよくわかる。
 
(そう。楽しいことを考えよう……真実さんのこと。それから……真実さんのこと。それから……)
 
 いくらあげ連ねようとしても、彼女に関することしか浮かんでこない自分が笑えた。
 
(なんだよ。俺って真実さんのことしか頭にないのかよ……!)
 
 それは確かに、そうかもしれない。
 
「なに能天気に笑ってるのよ……!」
 頭上からひとみちゃんの怒った声が降ってきた。
 
「あまりにも顔色が悪いから、もうダメなんじゃないかって心配した私が、まるでバカみたいじゃない!」
「もうダメって……」
「や……違う……そんなことありっこないんだけど……そう思う時だって、時々はあるってことよ……!」
「うん」
 
 焦るひとみちゃんには悪かったが、彼女の真正直な言葉に、俺はそれほどショックを受けはしなかった。
 ただそんなふうに思ってくれてたんだということが、少しありがたかった。
 
 もしそうなった時――それが遠からず確実にやってくるということを俺は知っているから――ひとみちゃんがどうなってしまうのかを考えると、少し心配な部分もあった。
 だから彼女が、時には覚悟を決める場面もあるんだとわかって、正直ホッとする。
 
「なんでそこで、ますますニヤけるのよ! それって反応としておかしいでしょ!」
 
 ホッとすると、 俺という奴はどうしても、頬が緩んでしまうらしい。
 かなり体調が悪い状態で病院のベッドに寝ているというのに、俺を無視なんかしなくていつもどおりに怒ってくれるひとみちゃんが、また嬉しくて、ますます笑顔になってしまう。
 
「ちょっと海里! いいかげんに……」
 病院にはあまりにもそぐわない大声で、ひとみちゃんが怒鳴りかけた時、石井先生が部屋に駆けこんできた。
 
「ごめんごめん。海里君……大丈夫?」
 首から下げた聴診器を先生が俺の胸に当てる頃には、俺の心臓はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
 
 もとより発作が起きたわけでもないので、ひとみちゃんと他愛もないやり取りをしているうちに、呼吸のほうもすっかりいつもどおりに戻っている。
 
「ちょっと無理したのかな? ここに帰ってきたくないんだったら、もっと慎重にならなきゃ……」
 まるで小さな子供に諭すかのように、先生は笑い含みで俺に語りかける。
 
 ベッドに横になったまま頷きながら、こうして先生の笑いジワを見上げたのも、そういえばずいぶんひさしぶりだと思った。

「すみません……これからはもう少し気をつけます」
 殊勝に見上げた先生の顔は、すぐににっこりと笑顔になった。
 
「うん。じゃあもう帰ってもいいよ」
 俺の胸にぺたぺたと張られていた心電図のパットを剥がしながら先生がそう言ってくれて、俺はホッとした。
 
(よかった。入院になんかならなくて……!)
 
 もしそんなことになったら、真実さんに会えなくなってしまう。
 それだけはどうしても避けたい。
 少なくとも真実さんの周りが、もっと安心できる状況になるまでは――。
 
 俺は安堵しながらベッドから身を起こしたのだったが、ひとみちゃんはなんだか納得いかない様子だった。
 首を傾げて先生に尋ねる。 
「帰って……いいんですか……? 様子をみるためにしばらく入院とかもなしで……?」
 
 ドキリと胸が跳ねた。
 俺はそっとうかがうように石井先生の顔を見上げる。
 でもその表情はいつもどおりの優しい笑顔。
 ――たとえ内心の動揺があったとしても、俺ごときではちょっと読めない、鋼鉄の笑顔。
 
「ああ。ちょっと通院してもらう回数は増えるかもしれないけれど、今のところは大丈夫だからね」
「そうですか……」
 頷きながらも、どうにも納得がいかないというような顔で、ひとみちゃんは俺と石井先生を交互に見つめる。
 
 これまでに何度も、俺の入院に立ちあってきたひとみちゃんにとっては、確かに違和感があるだろう。
 しつこく首を傾げている。
 
『もうすぐ俺の人生は終わるんだ。だから最後の思い出作りに、先生も父さんも今は俺に好きなことをやらせてくれてるんだよ』
 とはもちろん説明できなくて、俺は曖昧に笑ってごまかした。
 
 いくらひとみちゃんでも、主治医の石井先生が良いと言っていることを、
「それでも安心できるようになるまで、入院させといて下さい!」
 とは言えなかったようで、俺をそのまま一緒に、家まで連れて帰ってくれた。
 
 病院に向かっていた時よりはずいぶん態度を軟化していて、ほとんどいつもどおりのひとみちゃんだったが、
「でも……なんか変じゃない……?」
 と何度もくり返されるのには困った。
 
 いくら聞かれたって、彼女に正しい返事をすることは、俺にはできない。
 
 車の窓の外の街はもう白々と夜が明け、朝を迎えつつある時間だった。

 
 
 病院でいろんな計器をつけられたまま仮眠を取った以外は、あまり寝られない夜だった。
 こんな寝不足の状態のまま、真実さんのところに行っていいのだか、ほんの少しだけ迷う。
 
(でも今日は、警察に行かなくちゃならないし、一緒についていったほうがいい。それに真実さんの周りはまだ安心できる状況じゃない……あいつがまた現われないとも限らない……!)
 
 ぎゅっとこぶしを握りしめる。
 
 さすがに今日は一時間の距離を歩くことは無理そうだったので、いつもどおりに家を出た後、俺は大通りでタクシーを捕まえた。
 昨夜からもういったい何度タクシーを利用したんだろうと数えると、苦笑いしか浮かんで来なかった。
 
 階段を下りてくる真実さんの姿を見た瞬間、やっぱり来て良かったと思った。
 いろんなことがあった長い長い夜だったが、こうして彼女の元気そうな顔を見ただけで、俺まで元気になる。
 
 昨夜はひどい目にあって、本当に恐い思いもしただろうに、俺を見つけるといつものように笑ってくれる真実さんが嬉しかった。
 ホッとした。
 
 でもすっかり安心した気持ちで、歩み寄ってくる彼女の姿を見ていると、昨夜の複雑な心境まで思い出してしまう。
 意地悪な俺の本性が、むくむくと悪戯心を発揮してしまう。
 
 俺に駆け寄ってきた真実さんに向かって、俺が開口一番に言った言葉は
「真実さん、すごすぎるよ……」
 だった。
 
 口で言うほど、本気で根に持っていたわけじゃないし、少なくとも始めは、そんなつもりは全然なかった。
 でも改めて思い返してみれば確かに、真実さんが俺の隣でぐっすり眠ってしまったことは、男としてはけっこうショックな事実だ。
 
「……真実さんが本当に俺を好きだったら、まさかあの状況では眠れないでしょ?俺なんて、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張してたのに……」
 少々うつむき加減で、そんなセリフを口にしていたら、本当に自分で自分がかわいそうにもなってくる。
 
「私だって! 私だって同じだったよ!」
 真実さんの必死な言い訳が聞いてみたくて、わざと振った話題だったはずなのに、どんどん自分が深みにはまっていく。
 
「いいや。俺が思う『好き』と、真実さんの『好き』は、同じじゃないんだよ……あーくそっ。俺ってほんとバカみたいだ……!」
 いつの間にか俺は演技ではなく本当に、頭を抱えてしまいたいような心境になっていた。
 
「私だってドキドキしてたよ!」
 せっかくの真実さんの言葉にも、顔を上げる元気がない。
「ほんとだってば!」
 ごめん。
 あともうちょっとだけ――。
 
「もういいっ!」
 ふいに変わった真実さんの声音に、反射的に顔を跳ね上げた。
 さっさと許してやればよかったのに、意地悪し過ぎるから、真実さんはもう俺をおいて歩きだしている。
 
 短くなった彼女の髪が、朝の眩しい光を浴びてキラキラと左右に元気よく揺れる光景が、とっても綺麗だった。
 
 何度も指で触れたことのある彼女の髪。
 その心地よい感触を思い出しながら、「待って」と笑って手をさし伸べようとして、――俺は動きを止めた。
 
 すっかりいつもどおりに戻ったと――そう思っていた心臓が、また切り裂かれるみたいにズキリと痛んだ。
 
(どうしよう真実さん……やっぱり俺にはもう本当に、時間がないみたいだ……)
 自覚してしまったら、彼女を呼び止める声を出すことさえ、もう恐くてできなくなった。
 
 ちょっと無理をしたら、すぐにひどい状況になってしまう体。
 そんな状態でも家に帰ることを許してくれた先生の判断。
 ――俺は確かに今、確実にこの世界から切り離されていこうとしている。
 
(こんな俺の傍にいて、真実さんになんの得がある……? それこそ、俺がずっと恐れていたことになるんじゃないか……? 俺の死を悲しんで、真実さんの人生がだいなしになってしまう……そんなことになってしまうんじゃないか……?)
 
 震える唇を俺は引き結んだ。
 
(だったらいっそ今ここで、呼び止めなければ……終わりにしてしまえば――!)
 
 自分にとってこの上なく辛い決断を、ここで下してしまおうかと俺が思った時、ふいに真実さんがふり返った。
 まるで俺の心の声が聞こえたみたいに――あの黒目がちな悲しげな瞳で、真っ直ぐに俺を見た。
 
(ダメだ……やっぱり……真実さんゴメン!)
 
 彼女を自分から解放してあげようなんていうたいそうな決意を、俺はやっぱり放棄した。
 
 真実さんの笑顔が見たい。
 隣にいたい。
 できるなら俺が守ってやりたい。
 その思いは捨てられない――今はまだ捨てられない。
 
 ゆっくりと歩み寄って行く俺を待っててくれる彼女は、まるで天使のように、女神のように、いつだって俺の全てを許してしまう。
 俺が心の奥底で欲しいと願っている唯一のものを、惜しげもなく与えてくれる。
 
 そんな彼女に返せるものなど、自分には本当に何もないのに、俺はその手を掴む。
 縋るかのように、掴んでしまう。
 
「警察に行くんでしょ? 俺も一緒に行くよ。心配だから……」
 すました声で、何もなかったかのように語りかける俺に、彼女はホッとしたような表情を向ける。
 さし出した手を、ぎゅっと握り返してくれる。
 
 その全てが胸に痛かった。
 ――昨夜苦しんだ心臓の痛みなんかより、何倍も何十倍も痛かった。
 
 警察署に着くまでの間は、真実さんはよく笑っていたように思う。
 大学に戻るからと、バイト先にやめる承諾をもらいに行った時も。
 実は俺の兄貴と同じ年だなんてことを、自ら暴露してしまった時も。
 
 慌てたり。
 真っ赤になったり。
 怒ったり。
 拗ねたり。
 
 そんな動作や表情の一つ一つが可愛くって、俺はただ彼女を見ているだけで幸せだった。
 だから警察署の門をくぐった途端に、こわばってしまった表情を見るのは、ひどく辛かった。
 
 昨晩真実さんのアパートへと駆けつけてくれた刑事さんは、ちょうど外出中で、すぐに帰って来るからということで、そのまま俺たちは警察署内で待たされた。
 真実さんは担当刑事のデスクの近くに案内されたが、俺はそこまではついて行かず、部屋の壁際に置かれた長椅子で待っていることにした。
 
 あの男と真実さんとの、こみ入った話を聞きたくなかったのが、理由の半分。
 あとの半分は、立ったままでいるには、かなり肉体的に辛くなっていたからだ。
 ここに来る途中にも、実は発作が起きるんじゃないかとヒヤリとした場面があった。
 幸いしばらく立ち止まっていたら、胸の動悸も治まったし、真実さんもちょっと不審に思ったみたいだったけど、何も聞かずにいてくれた。
 
 しかしこうも短い間に、何度も具合が悪くなるというのは、あまり歓迎すべき事態ではない。
 
(仕方ない……なるべく安静にしている以外には、俺にできることはないんだから……!)
 椅子があったことを幸いに、俺はそこで座って、真実さんと刑事さんの話が終わるのを待つことにした。


 
 昨夜の刑事さんは、本当にすぐに出先から帰ってきた。
 どうやらあの男を、家に送り届けてきたところだったらしい。
 ということは、あの男はこの警察署で一夜を明かしたということだ。
(ふん……いい気味だ)
 
 自分自身は病院で一晩明かしたわけなのだが、それは棚に上げておいて、あの男が少し罰を受けたことに軽く溜飲を下げる。
 
 真実さんは俺には背中を向けて、その刑事さんとだいぶ長い時間話しこんでいた。
 どんな話をしているのか。
 ――聞きたくないというのが俺の本音だ。
 
 それなのに、少しぐらい距離があっても、周りが多少にぎやかでも、俺の耳は確実に真実さんの声を拾ってしまう。
 ――それはもう悲しいほどに。
 
「……はい。つきあって二年です……」
「……彼の部屋で一緒に暮らしていました……」
「……そうですね……そう思っていた時期もあります……」
 
 切れ切れに聞こえてくる真実さんの言葉に、両耳を塞いで、
「やめてくれ!」と叫びださないでいられたことが、正直、奇跡だと自分でも思った。
 
 気分が悪い。
 腹が立つなんて意味ではなく、本当に気分が悪過ぎる。
 見ていられなくなって真実さんの背中から目を背け、自分のスニーカーを睨みつけていた目が、ぼんやりと霞み始める。
 
(くそっ! ……ただの寝不足か……? それとも……?)
 
 大きく肩で息をくり返している俺に、
「はい。どうぞ」
 と誰かが紙コップを横からさし出してくれた。
 紺色の制服に身を包んだ女性の警官だった。
「キミ、顔色悪いよ……大丈夫?」
 
 さし出された紙コップを、
「ありがとうございます。大丈夫です」
 と受け取ろうとして、手が震えていることに気がつく。
 反対の手で手首を押さえるようにして、俺はその震えを必死に隠した。
 
「いろいろ思うところはあるだろうけど……キミだって大変だろうけど……彼女が大切だったら、どうか支えてあげてね……」
 俺ではなく真実さんのほうを見ながら、その若い女性の警官は、ぽつりぽつりとそんなことを言った。
 
「…………!」
 まるで自分の心を読まれていたかのようで、言葉が出てこない。
 
「傍にいてくれる人がいるっていうのは、きっと支えになるはずだから……ほら」
 促されて顔を上げてみると、真実さんがふり返ってこっちを見ていた。
 怯えたような不安そうな顔が、俺と目があった途端に、ぱっと少し明るくなる。
 
「すごくキミのことが好きみたいだね」
 囁くように俺に告げて、その人がいなくなってしまってからも、俺は真実さんから目を離すことができなかった。
 
(すごく好き……? 俺を? ……真実さんが?)
 ふっと微かに笑って、もう一度俺に背中を向けた小さな横顔が。
 華奢な体が。
 今にもいなくなってしまいそうな儚げな雰囲気が。
 ――ダメだ。胸に痛い。
 
 ぎゅっと両手で握りしめた紙コップに視線を落とすと、俺の手の震えは消えていた。
 吐きたくなるほどに悪かった気分も、すっかり治まっていた。


 
 夕日が空を真っ赤に染める中、真実さんと手を繋いで、彼女のアパートまでの道を帰った。
 
 刑事さんとの話が終わっても、彼女は俺に何も言わない。
 俺のほうも何を話していいのかわからないから、ただ黙ったまま彼女の手を引き歩く。
 
 長い沈黙が苦しくなって、
「真実さん」
 思わず呼びかけたけど、
「何?」
 返ってきた声があまりに小さくて頼りなげだったので、なんと言っていいのかわからなくなってしまった。
 
『彼女が大切だったら、支えてあげてね……』
 女性の警官に言われた言葉が胸に甦る。
 
(でも……どうやって……?)
 
 なんの力もない
 それどころか人並みの未来だって約束されていない
 俺みたいな人間が、いったいどうやって他の誰かを支えればいいって言うんだろう。
 ――全然わからない。
 
 黙ったままいくつもの角を曲がって、いくつもの信号を越えるうちに、真実さんのアパートが近づいてきた。
 それに伴って真実さんの歩く速度はどんどん遅くなり、そのうちピタリと止まってしまう。
 
 彼女にあわせて歩いていた俺の足も、自然と止まる。
 不安で不安でたまらない真実さんの気持ちが、手にとるようにわかる気がした。
 
「大丈夫だよ」
 ふいに俺の口は、自分の意志とは関係なく言葉を紡ぎだしていた。
 
 驚いたように顔を上げた真実さんが、俺の顔を見つめた瞬間、
「俺がついてるよ」
 自分でもびっくりしてしまうくらい優しい声が出た。
 
 いつもからかうようなことばかり
 そうかと思えば冷たいことばかり
 真実さんには言ってしまうのに、肝心な時にはこんなことも言える自分に、少しだけ感動する。
 
 でも真実さんは静かに首を横に振る。
 きっと俺のためを思って、巻きこみたくないとかそんなことを思って、優しく拒否しようとする。
 
 許さない。
 それは絶対に認めるわけにはいかない。
 
「駄目だよ。絶対に一人でなんて帰さない。今、真実さんがあいつに捕まるようなことになったら、俺は後悔してもしきれない」
 
 心からの本音は自分の胸にも痛かった。
 でもそれだからこそ、けっして譲るわけにはいかない。
 
「だけど怖いよ……海君がひどい目にあったらどうしよう……」
 俯いてしまった真実さんの気持ちを少しでも軽くしようと、俺はとっておきの秘策を披露する。
 
「大丈夫。殴りあいになったら、確かにぶが悪いかもしれないけど、俺はちゃんと秘密兵器を持ってるから……!」
 そして胸ポケットから、その秘密兵器をもったいぶって取りだす。
 
 ごく普通の携帯電話。
 真実さんの瞳が真ん丸に見開かれる。
 
「えっ? ……携帯?」
 怯えた様子が払拭されたその表情を見ることができただけで、俺のその秘策はじゅうぶんに大成功だった。
 
「そう、これでいつでもパトカーを呼べる。昨日みたいにね」
 この上なく真剣な表情でそう言ってみせたら、ついに真実さんは小さく吹き出した。
「やだもう! 海君ったら!」
 
(やった! 笑った!)
 それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
 俺まで笑わずには、いられない。
 
「やっと笑ってくれた」
 大きな大きなため息と共に、俺はホッと安堵した。


 
 歩く速度を遅らせて、わざとゆっくりとたどり着いた真実さんの部屋の前に、あの男の姿はなかった。
 ホッとして見下ろすと、隣に立つ真実さんは俺を信頼しきった顔で見上げている。
 その無垢な表情には、どんなに自重しようと思っても、やっぱりむくむくと悪戯心が湧いてきてしまう。
 
「なんなら部屋の中までついて行こうか?」
 ニヤリと笑うと、真実さんは途端に首まで真っ赤になった。
 
「い、いいよ!」
 慌てて手を振る彼女に、すました顔で畳みかける。
 
「なんで? なんか問題ある? どうせ俺がいたって、真実さんは普通に寝ちゃうだけでしょ?」
 最後まで真顔で言い切ってやろうと思っていたのに、途中で思わず笑ってしまった。
 悔しくって前髪をかき上げる。
 
「もうっ! やっぱりまだ根に持ってるんじゃない!」
 真実さんは真っ赤な顔のままこぶしをふり上げて、クルリと俺に背を向けた。
 
「いいです! 一人で帰ります!」
 本当に一人で行かれてはたまらないと、俺は慌てて追いかける。
 
「ゴメンゴメン。ふざけすぎた」
 謝ってみても待ってはくれない。
 
 玄関のドアへと手をかけた真実さんの動きが、次の瞬間、ピタリと止まった。
 ――真実さんの部屋のドアはギイッと音をたてて、なんの引っかかりもなくスムーズに内側に開いた。
 
(なんだって!)
 俺は急いで、彼女とドアの間に自分の体をねじこむ。
 
「真実さん!」
「やだっ!海君!」
 真実さんは俺の背中にしがみついた。
 
 ドクドクと彼女にも聞こえてしまいそうなくらい俺の心臓は鳴っているのに、せいいっぱい無理して、真実さんを安心させるため、なんでもなさそうな声を出す。
 
「大丈夫だよ」
 用心深く開いてみたドアの向こうに、人の気配はなかった。
 
 しかし中に踏み入ろうとした足がびっくりして止まってしまうくらい、部屋の中は滅茶苦茶に荒らされていた。
 昨夜は綺麗に整頓されていた引き出しの中身や、クローゼットの中身、ありとあらゆるものが引っ張り出されているし、テーブルも椅子までもひっくり返っている。
 
「……どうして…………?」
 ヨロヨロと中に入っていった真実さんが、崩れ落ちるように床に膝をついて、そこに散らばっている衣類を片づけ始めた。
 
「ゴメン……海君、ちょっと外で待ってて」
 弱々しい声に、俺には見られたくないものもあるんだろうと察して、俺は
「ああ」
 と頷きながら部屋から出ていく。
 
 その瞬間。
 入り口近くの紙の山の上に放置されていた一枚の写真が、目に飛びこんできた。
 
 真実さんの写真だった。
 傷だらけの体を丸めて、ベッドの上で眠っている写真。
 
 生々しい傷の痕と、裸にも近いような薄着にドキリとして慌てて目を背けてから、俺は改めてハッとした。
(……誰が撮った写真?)
 
 俺が見たこともないような真実さんの姿を、わざわざ誇示するように、おそらくは意図的に、ここに置いていったのは――。
 
(それは……誰?) 
 
 それはまちがいなく、この部屋を荒らした犯人だ。
 真美さんをこんなにも傷つけて、苦しめる――あの男だ。 
 
 怒りと憤りで体中の血液が逆流するかと思った。
 ドクンと大きく、俺の最大の弱点が体の中央で跳ね上がる。
 
(マズイ!)
 転がるように部屋の外に飛び出て、すぐに薬を口の中に放りこんで、そのままその場にしゃがみこんだ。
 
(頼む! 頼む!頼む! 今だけはお願いだ……ちょっと待ってくれ!)
 
 あんなに滅茶苦茶に荒らされた部屋に、あんなに傷ついた真実さんを、たった一人で置き去りになんてできない。
 
 俺のどうしようもない嫉妬だったら、いくらでも飲みこむから。
 いくらでも我慢するから。
 だから頼む。
 ――今は発作なんて起こさないでくれ。
 
 これまでの人生で、およそ俺の願いなど一度も叶えてくれたことのない『神様』に、俺は胸を押さえながら、必死に祈った。
 まるで体全部が心臓になったかのように、頭の奥のほうにまで心音が鳴り響く。
 大きく息を吸って吐いてをくり返しながら、俺はただ全身を流れ落ちる汗の感覚だけに神経を集中していた。
(大丈夫……大丈夫だ……!)
 ――自分自身に言い聞かせるかのように。
 
 幸い、激しい動悸は発作にまでは到らなそうだ。
 祈りが効いたのか、効かなかったのか。
 それはわからないが、とりあえず『神様』には感謝しておく。
 
 苦しい胸を押さえながら連絡した刑事さんも、すぐに駆けつけると言ってくれた。
 これでもし俺がここからいなくならなければならなくっても、真実さんが一人きりになることはない。
 ほんの少しだけ安堵した。
 
 座りこんでいた場所から、階段の手すりにすがって立ち上がり、真実さんの部屋をふり返った。
 部屋の奥のほうに、一人で一生懸命に散らかった物を片づけようとしている、小さな背中が見えた。
 
(真実さん……)
 さっき彼女の写真を見つけた紙の山は、あえて視界から外すように努力する。
 それでもそのことを思い出すと、また胸が苦しくなってきて、辛くてどうしようもない。
 
 見つめ続ける俺の視線に気がついたかのように、真実さんがふとこちらをふり向いた。
 泣いているような黒目がちの大きな瞳。
 その瞳とこんなに苦しい気持ちで見つめあったのは、これが初めてだった。
 
(真実さん……!)
 俺がどんなに望んでも本当には手に入れられない人。
 ――彼女を守れるべき立場にいるのに、こうして傷つけることしかしないあの男が、憎くて憎くて目が眩みそうだった。


 
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
 すぐに駆けつけてくれた村岡さんというその刑事さんは、本当に悲しそうな顔で真実さんと向きあい、俺にまで、申し訳なさそうに小さく頭を下げてくれた。 
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。君にもよく考えてほしい……」
 
 あの男を訴えることに、俺だったらなんのためらいもない。
 でも真実さんはどんなふうに考えているんだろう。
 ――それを思うだけで、もう苦しい。
 
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私がしばらく見張っておくから」
 村岡さんの勧めにしたがって真実さんは愛梨さんに連絡を取り、今夜からしばらく彼女の部屋に身を寄せることになった。
 いつまたあの男がやって来るかもしれないこの部屋に、真実さんを一人残しておくのは俺だって心配だったから、正直ホッとした。
 
 村岡さんと一緒に真実さんの片づけを手伝って、それから愛梨さんのアパートに向かうため、真実さんと共に部屋を出る。
 
「送るよ」
 荷物を詰めこんだこ鞄を彼女の手から取り上げたところまではよかった。
 でもそれから先は、もう何を話したらいいんだかわからなくなった。
 らしくもなく重苦しい沈黙を抱えたまま、俺たちは夜の街を歩く。
 最近ずっと、出かける時は手を繋いでいたから、真実さんに触れていない左手が妙にむなしい。
 彼女の歩みがのろのろと遅いことも気になった。
 
 きっといつも以上に、いろんなことを考えて考えて、一人で傷ついてしまっていることはわかってる。
 その気持ちを明るくさせるのが、俺の役目だと思っていたのに。
 彼女を笑わせるためだったら、どんな冗談だって言って、俺なんてどんなに笑われたっていいといつも思っていたのに。
 ――ダメだ。
 今は言葉が何も浮かばない。
 
 このまま愛梨さんのアパートに到着して、別れの時間が来てしまいそうで、俺は焦って、何の策もないままに問いかけた。
「……真実さん。少しいいかな?」
 
 真実さんは弾かれたように顔を上げて、慌てて俺に返事した。
「う、うん。いいよ」
 その声が少々裏返り気味で、震えていたことに俺は逆にホッとする。
 
(真実さんだって同じだ……どうしていいのかわからなくて、何を話せばいいのかわからなくて、困っているのは俺と同じなんだ……)
 そう思ったら、ふっと体から余計な力が抜けた。
 
 前方に公園を見つけて、
「あ、公園がある……ブランコに乗ってもいい?」
 いつもみたいに軽く問いかける。
 俺がガチガチじゃなくなったら、真実さんまですぐに「うん」と頷いてくれて、まるでいつもの二人に戻れたような気がした。
 
 ――そう。
 あくまでも表面上は。


 
 ようやく話をするこことはできたが、あいかわらず胸のほうはズキズキと痛むばかりだ。
 真実さんと向かいあっているのは苦しいので、本当にブランコに腰かけて、俺は大きく漕ぎだす。
 鬱陶しいくらいに伸びてしまった前髪が、風に吹かれて顔の周りからなくなるのは、それはそれで気持ちよかった。
 
 でも、隣のブランコに俺と同じように腰を下ろした真実さんは、いつまでたっても漕ぐ気配がない。
 ただじっと俯いて座っている。
 
(何を考えてる……? 誰を思ってるの……?) 
 考えることが辛い。
 まちがいなくその答えは自分だと。
 俺との楽しい思い出を彼女は思い返しているんだと。
 今は欠片も思いこめないことが、こんなにも苦しい。
 
 俯いたままの真実さんが不安でたまらなくて、もう一度横顔を盗み見たら、頬を伝う涙が見えた。
 
(ちきしょう……なにやってんだ、俺は!)
 自分に腹がたった。
 
「泣かないで」
 呟くと同時に、かなりの勢いがついてしまっていたブランコからポンと飛び下りる。
 真実さんの前に歩み寄って、深く俯いたままの頭を見下ろす。 
「泣かないで真実さん」
 せいいっぱいの思いをこめて懇願した。
 
 大好きな彼女の髪にそっと指を伸ばして、そのまま頬をなぞり、伝っていた涙の雫をすくい取る。
(泣かせたりしないように俺が守りたい。それがいつだって俺の一番の願いなのに……こんなふうに泣かせたりして……ほんと、ゴメン……)
 
 細い肩を掴んで、そのまま真実さんを抱きしめた。
 折れてしまいそうに細い体が、何の抵抗もなく、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
(こんなに壊れそうなくらい華奢な人に……どうして暴力を奮ったりできるんだろう……わからない! 俺には到底理解できないよ!)
 あの男が憎くて憎くて、頭がどうにかなりそうだ。
 
 俺の胸に顔を押しつけるようにして、真実さんが嗚咽混じりに呟いた。
「ごめんね、海君……」
 
 俺は必死に首を振る。
 真実さんを守りたいなんてたいそうなことを言いながら、その実、心の中では誰かを憎むことしかできやしない。
 ――こんな醜い俺に、そんなに優しい言葉をかけないで。
 
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
 胸が張り裂けそうな思いで、俺は真実さんを抱きしめた。
 ぎゅっと強く抱きしめた。
 
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
 
 本当にそうだ。
 俺はこんなにも自分勝手で、こんなにも醜い。
 彼女にこんなに想ってもらえるほどの、立派な人間なんかじゃない。
 
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
 
 高ぶる感情のままに吐き出した言葉に、真実さんが俺の顔を見上げた。
 月光の中、神々しいほどに清らかな瞳で、俺を真っ直ぐに見つめる。
「海君?」
 
 ダメだ。
 いったん口火を切ってしまったら、もう歯止めが利かない。
 
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそのこと俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
 
「海君!!」
 真実さんが息をのんで、とっさに俺の体を抱きしめた。
 
 その温かさに、自分が今口走ってしまった事のあまりの愚かさを知る。
 自嘲するように髪をかき上げ、もう笑うしかない。
 
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
 もう、何もかもがどうでもいい気分だった。
 
 俺の醜い内面を知って、真実さんはどう思っただろうか。
 呆れただろうか。
 もう俺のことなんて嫌いになってしまっただろうか。
 
 半ばやけくそ気味に、これまでずっと胸に押し隠していた思いまで口にする。
 もうずっと長い間、俺を不安にさせていた考えを、我慢できずに彼女にぶつける。
 
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつの事を許すんだ。結局、許してしまうんだね……そんなにあいつのことが好き?」
 抱きしめる腕の中、俺を見上げる真実さんの大きな瞳が、ますます大きく見開かれた。
 その瞳にみるみるうちに涙が膨れ上がって、大粒の雫となって、あとからあとから彼女の白い頬を滑り落ちる。
 
「……どうして?」
 軽く首を左右に振る彼女は、夜目にもはっきりとわかるくらいに、わなわなと震えていて、苦しい俺の胸をいっそう苦しくした。
 
「私が好きなのは……!」
 俺の両腕をしっかりとつかんで、声を荒げて主張しようとした彼女の想いを、俺はかき消すほどの大声で遮る。
 
「俺でしょ! ごめん、わかってる……でもどこかであいつを許してる真実さんがいる。できることなら、あいつにまともに戻ってほしいと望んでる真実さんがいる。もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
 
 言葉とは裏腹に俺の両腕は真実さんの体をかき抱く。
 誰にも渡したくないと、決して放したくないと、体のほうが言葉の何倍も雄弁に、俺の思いを彼女に語る。
 
「そんなはずないじゃない!」
 真実さんの悲鳴が、高ぶっていた俺の感情をほんの少しだけすーっと冷静にしてくれた。
 俺はうなだれながら、ゆっくりと首を左右に振る。
 
(何やってんだ! こんなことじゃない……! 俺が真実さんに言いたかったことは……本当に伝えたかった気持ちは、こんなんじゃないって……!)
 泣き出してしまいたいぐらいの思いで、唇をぐっとかみ締めたのに、俺の口は俺の意志とは裏腹に、またもや自分勝手に動きだす。
 
「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないこことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
 
 伝わるんだろうか。
 こんな言葉で。
 ――何よりも強い俺の願い。
 祈り。
 彼女に対する想い。
 
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方……そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
 
 幸せになってほしいのに。
 誰よりも幸せになってほしいのに。
 ――自分自身の手では決してそれを叶えてあげることのできない、彼女への懺悔。
 俺の悲しみ。
 
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
 
 君を守りたい。
 他の誰からも。
 傷つけようとする何からも。
 本当は俺がこの手で守りたい。
 ――でもそれはできない。
 
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
 まるで奇跡のように、優しい声が俺の全てを包みこむ。
 苛立ちや腹立たしさ。
 絶望。
 悲しみ。
 俺が抱える醜い負の感情を、彼女の声は全て包みこんで、優しく抱きしめてしまう。
 
「うん。真実さん」
 もう一度、こんなに優しい気持ちで、その名前を呼べるとは思ってなかった。
 
 全てをさらけ出してしまっても、真実さんがまだ俺を抱きしめてくれるとは思っていなかった。
 ――優しい。
 優しすぎる細い両腕が、その時、俺に一生ぶんの幸せをくれた。
 
 愛梨さんのアパートまでの道を、真実さんと手を繋いで歩いた。
 まるで何もなかったかのように、いつもどおり穏やかな雰囲気の二人。
 
 でもそれは、いろんな気持ちをぶつけあって見せあったからこそ、また一歩近くなれたんだと思うのは、俺のうぬぼれだろうか。
 
(まいったな……このままどこかに連れ去ってしまいたい……!)
 もし俺に未来があったなら。
 真実さんとの将来を望めるほどの未来があったなら。
 今、まちがいなくそうしていただろう。
 
 でも俺にはそんなものない。
 だから、この手を離す瞬間までは、全身全霊で彼女を愛そう。
 ――そう心に決めた。
 
 たとえどこにいても、最期の最期の時まで、俺は真実さんのことを想っていよう。
 ――そう決めた。
 
 それは子供の頃に決心した、誰にも未練を残さないなんて生き方よりも、何倍も苦しい生き方かもしれない。
 誰かと深く関わって生きていこうとするのは、いろんなことがあって、そこからいろんな思いが生まれて、本当に大変なことなのかもしれない。
 
 でも真実さんへの想いは、俺に幸せな気持ちをくれる。
 生まれてきて良かったと素直に感じさせてくれる。
 
 だからその時が来るまで、この手はずっと繋いでいよう。
 離さないでいようと自分に誓う。
 背後から忍び寄ってくる死の影になど、気付かないフリをして。
 
 ――幸せな時間ほど予想外に短い現実など、決して信じずに。
「ねえ海里。なんか最近また、出かける時間が早くなってない?」
 
 朝、真実さんのところへ行こうと玄関の扉を開けた瞬間、家の門に寄りかかるようにして、俺を待っているひとみちゃんの姿が目に飛びこんできた。
 
「そんなことない……と思うけど?」
 苦し紛れの言い逃れに、ひとみちゃんは茶色い皮バンドの腕時計の文字盤を、俺の目の前に突き出す。
 小さな針が示す時間は――七時五分。
 
「いや……ちょっと早いね……」
 どうにか言い訳を捻り出そうとする俺の気配を察知したらしく、ひとみちゃんは、はあっと大きなため息を吐いて、先に話し始める。
 
「別に私がとやかく言うことじゃないんだけど……でも最近あまりにも顔色が悪すぎるから……週に一回、検査を受けるように、病院に申しこんどいたわよ」
 
「はい?」
 よく意味がわからなくて問い返した途端に、目を剥いて怒鳴られた。
 
「週に一回は病院に行って、みっちり検査を受けるのよ! そうじゃなきゃ、こんなふうにフラフラと外出するの禁止!」
 
(いったいいつからひとみちゃんは俺の主治医になったんだ? ……いや……この場合、担当看護師か……?)
 
 どうでもいいようなことを考えている俺に向かって、びしっと人差し指を突きつけ、
「まずは四日後だから! 忘れないでよねっ!」
 言いたいことだけ言うと、長い黒髪を翻して、さっさと自分の家に帰ってしまう。
 
 あとに残された俺は、その颯爽とした後ろ姿を呆然と見送りながら、だんだん笑いがこみ上げてきた。
 
(つまりは……最近俺の顔色が悪くて心配だから、定期的に病院に行って検査を受けるようにしろってこと……だよな?)
 
 だてに一緒に育ってきたわけではない。
 意地っ張りなひとみちゃんの、棘のある言葉の裏にある優しい気持ちを読み取る能力だったら、俺はきっと世界中の誰にも負けない。
 
「ありがとう! ひとみちゃん!」
 
 角を曲がって見えなくなろうとしている背中に、大声で呼びかけると、明らかに驚いてビクリとしたくせに、すぐに顎をあげて、わざわざ俺からぷいっと顔をそらしてそのまま行ってしまう。
 
 意地っ張りな彼女に、俺は心の中だけで深々と頭を下げた。
(ほんとに、ありがとう……)
 
 俺の体調にとって、それは今本当に、ありがたい心遣いだった。


 
 真実さんが愛梨さんの部屋に住むようになってからも、俺は毎日彼女に会いに行っている。
 
 真実さんは長いこと休んでいた大学に復学した。
 最初の日こそ、不安で不安でたまらない顔をしていて、送っていった俺まで緊張するぐらいだったが、今ではすっかり大学生活を満喫している。
 ――ように見える。
 
 送り迎えする間に聞かせてもらった話と、俺が見た様子から想像するに、愛梨さん以外にも真実さんが復学するのを待っていてくれた友人たちの存在が大きいようだ。
 
 俺は自分自身が、復学してはまた休学し、をくり返してきた学校生活だったから、真実さんの気持ちはよくわかる。
「やっと出てきたんだねー」と喜んでくれる存在がいてくれることは何よりも嬉しい。
 
 そんなことを考えながら、結局一ヶ月ちょっとしか学校に通っていない、俺自身の高校生活を考えた。
 
 生活区がそのまま学区だった小中校時代とは違って、高校では初めて会う連中がクラスのほとんどだったから、二ヶ月遅れの俺の入学を待っていてくれたクラスメートなんて、実はほとんどいなかったのかもしれない。
 ――ただ一人を除いては。
 
 そのたった一人。
 ――いつも俺のことを気遣ってくれているひとみちゃんは、せっかく通えるようになった高校を、俺が自分の意志で休んでいることを、本当はどんなふうに思ってるんだろう。
 
 ひょっとしたら内心腹立たしい気持ちを、必死に我慢してくれているのかもしれない。
 ――なんだかんだ言ったって、ひとみちゃんは優しいから。
 
(だから週に一回の検査ぐらい、ありがたく受けるよ…そうすることで助かるのは、結局他の誰でもない……俺自身なんだから……)
 
 真実さんを迎えに、今日も長い道のりを歩きながら、俺はそんなことを考えた。


 
 考えごとをしながら歩いていると、思いがけなく早く目的地に着くことがある。
 今日の俺はまさにそんな状態だった。
 
 黙々と歩いているうちに、いつの間にか愛梨さんのアパートの近くまで来ていた。
 真美さんのアパートへの道のりばかりか、ここへの道のりも、すっかり体に染みついてしまっている自分に苦笑する。
 
 道路を挟んだ壁に寄り掛かって、真実さんが出て来るのを待つ時間も、すっかり体に馴染んだ。
 
 すがすがしい朝の空気を吸いながら、遠くの空なんかを眺めてると、
(よし。今日も頑張ろう!)
 という気持ちが湧いてくる。
 
 でも他の何よりも俺の元気のみなもととなっているのは――俺を見つけた瞬間の真実さんの笑顔。
 それこそが俺を突き動かす原動力。
 
「海君!」
 ニッコリと笑って手を振る小柄な姿が、通りの向こうに現われた時から、俺の一日は本当の意味で始まる。
 
「おはよう」
「おはよう」
 
 どちらからともなく手を繋いで、一緒に歩き始めたところから、無機質な辺りの風景が目を焼くほどの鮮やかな色を放ち始める。
 
「それでね……その時ね……」
 笑顔で話し続ける真実さんの背後に、大きな入道雲と夏色の空を見た瞬間、自然と、
 
(そうだ……絵を描こう……)
 と思えた。
 
 気構えも無理もなく、自然とそう思えたことが、自分でも不思議だった。


 
「それで……? 思い立ったら吉日ってわけで、ここにいると……?」
 
 腰に両手を当てて、お決まりの仁王立ちのポーズを取りながら、大きな目を吊り上げて俺を睨みつけているひとみちゃんに向かって、俺はこっくりと頷く。
 
「そうだよ」
 
 途端、手近にあったスポンジ――たぶんひとみちゃんが水彩画を描く時に、筆についた余分な水分をふき取るための物――を投げつけられそうになった。
 
「ばっかじゃないの! 授業には出ないくせに、昼休みに美術室で絵を描くためだけに学校に来るって……いったい何様のつもりなのよ!」
 
 俺は額に人差し指を当てて、しばし考えこむフリをしてから、二カッと笑った。
「……俺様?」
 
 顔の横をかすめてスポンジが飛んでいった。
「うわっ! ほんとに当たっちゃうじゃん!」
 
「当てるつもりで投げてんのよ!」
 
「……いいじゃない。私たちだって、楽しい昼食の時間を削ってまでこんなところで画布と向きあってるもの好きばっかりなんだもの……ね?」
 あいかわらず柔らかな笑顔で、怒り狂うひとみちゃんにだって平気で意見を言えてしまうその人は偉大だ。
 
 いつ見ても自分より大きなキャンバスと格闘しているようにしか見えない小さな上級生。
 ――今日もほっぺたにオレンジ色の絵の具をつけてしまっている彼女は、女だてらに美術部部長をやってる今坂先輩。
 
「描きたいものが見つかったの? ……一生(ひとうみ)君……」
 二ヶ月近くも前の俺との他愛もないやり取りを、部長がまさか覚えてくれているとは思わなかったので、俺は内心、結構驚いていた。
 
「はい。そうです」
 
 部長は何も言わずただニッコリと微笑むと、また自分よりも大きなキャンバスとの戦いに戻っていく。
 何が描いてあるのか俺にはよくわからない、その色彩の重なりに目を向けていると、自然とうずうずしてくる。
 
(俺だって負けてらんない……!)
 本来の負けず嫌いな性格がむくむくと頭をもたげる。
 
 なんの話をしているのかわからないとばかりに首を傾げて、いぶかしげに俺たちを見ているひとみちゃんに向かって、俺は手をさし出した。
 
「ひとみちゃん。使ってない画材あったら、なんか貸して。急に来たから……俺なんにも持ってきてないんだよね」
 
 ぐわっと頭に角が生えてきそうな形相で、ひとみちゃんは叫んだ。
「だからいったい何様のつもりなのよ! あんたは!」
 
 投げつけられたスケッチブックを、彼女が俺に貸してくれた今日のとりあえずの部活道具として受け取って、俺はニヤリと笑った。
「……海里様?」
 
「海里!!」
 
「ハハハハッ」
 大きな声で笑いながら、怒るひとみちゃんに背を向けて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。
 まだ新しいスケッチブックを抱きかかえるようにして、真っ白なページに鉛筆を走らせ始める。
 
 窓に頭をもたれかけて見上げた空は、青く眩しかった。
 どんな形の雲を見つけても、悠々と飛んで行く鳥の姿を見ても、俺にはその向こうに彼女の――真実さんの笑顔が見える気がした。
 
 
「海君、なんだか最近嬉しそう」
 
 朝、並んで手を繋いで歩きながら、真実さんはふいにそんなことを言う。
 
 ポーカーフェイスが得意なつもりだったのに、彼女の前では俺はどれだけ感情がだだ漏れになってしまっているんだろう――自分がちょっぴり情けなくなる。
「そう。……わかる?」
 
「うん。わかる、わかる」
 コロコロと笑いながら、短い髪が揺れる。
 
 朝日のように輝く無邪気な笑顔に見惚れ、白い頬に無意識に手を伸ばしてしまいそうになってから、そんな自分に自分でドキリとした。
(今……何しようとした……俺?)
 
 いつだってすぐに引き寄せられるくらいの距離にいる真実さんに、手を伸ばして、こっちを向かせて、そして――。
 
 ぎゅっと胸が痛んで思わず足を止めた。
 自然と真実さんも立ち止まることになって、不思議そうに俺の顔を見上げる。
「どうしたの……?」
 
 真っ直ぐにこちらを向く俺を信じきっているようなその瞳に、
「あなたがあんまり可愛くて、キスしそうになりました」
 とはまさか言えなくて、邪念を追い払うかのように大きく首を振る。
 
 返事の代わりに、彼女の手をさっきよりももう少しだけしっかりと握り直して、俺は歩き出した。
 
 突き当たりが大学の正門へと繋がっている広い舗道。
 朝一番の講義へと向かう学生の群れの中に、見覚えのある背中を見つける。
 
 真実さんの友人。
 頭の切れそうなスラリとした美人の貴子さんと、小さくて可愛らしい雰囲気の花菜さん。
 
 人ごみの中でも実に見つけやすい、好対照な二人のうしろ姿を、俺は真実さんに指し示した。
「ほら……貴子さんと花菜さん」
 
 少し首をひねったまま、俺に手を引かれて歩いていた真実さんが、ぱあっと笑顔になる。
「貴子! 花菜!」
 
 真実さんの呼びかけで彼女の友人たちが振り向くのと同時に、俺はいつもどおり、繋いでいた真実さんの手を放した。
「いってらっしゃい」
 
 笑顔で手を振ると、
「いってきます」
 真実さんも笑顔で頷く。
 
 立ち止まった俺を置き去りに駆けて行く背中を、いつもはちょっぴり寂しい気分で見送るのに、今日はなぜだかほんの少しホッとした。
 彼女の小さな手の感触がまだ残るてのひらを、ぎゅっと握りしめる。
 
「海君!」
 ふいに遠くから呼ばれて顔を上げてみると、真実さんが友人たちに囲まれながら、俺に向かって大きく手を振っていた。
 
 あんな満面の笑顔を俺に向けてくれる。
 それだけで天にも上るくらい幸せな気持ちなのに、――どうして俺はこんなによくばりなんだろう。
 
 それを願えるだけの未来もないのに、もっと彼女に触れたいと思ってしまった自分がうしろめたい。
 なんのためらいもなくそれを行動に移していたであろう存在のことが頭をかすめて、なおさら気持ちが落ちこんだ。
 
 あの男――岩瀬幸哉は、真実さんの部屋を滅茶苦茶に荒らしたあの夜から、彼女の周りに姿を現してはいない。
 村岡さんが警察の警告を携えて部屋を訪ねた時には、すでに行方をくらましていた。
 
 どこかに逃亡したのか。
 それとも潜伏しているのか。
 可能性は半々だと村岡さんは語ってくれたが、俺はきっと後者だろうと思っている。
 
 あの男は絶対に真実さんを諦めたりしない。
 もう一度近づくチャンスを、どこかに隠れて絶対に待っている。
 ――そんな気がする。
 
 だから俺は、本当はひと時だって真実さんの傍を離れたくはなかった。
 
 でも夜は愛梨さんがいてくれる。
 大学では貴子さんたちもみんな真実さんを守ってくれている。
 
 だから俺は大学への送り迎えだけを自分の役目として、ただ毎朝・毎夕、真実さんのところに通う。
 でも本心は、大学の中にまでついて行きたいくらいだった。
 
 俺は全然構わないし、きっと大学側にだってバレることはないだろう。
 でもそれではさすがに、まるで俺のほうが真実さんのストーカーだ。
 
 ぎりぎりの妥協点として、門から先を真実さんの友人たちにお任せしてはいるが、本音は辛い。
 朝と夕、歩いて二十分くらいの距離。
 一緒に歩くのだけが二人の時間。
 
(せっかく真実さんがもう一度大学に通えるようになったんだから……寂しいなんて思うのは俺の身勝手だ……)
 俺に背を向けて真実さんたちが歩き出したのを確認してから、俺も大学の門に背を向けた。
 
 この街で一番大きな大学。
 俺が通う高校でも一番進学する生徒が多い場所。
 だけど俺がこの門を潜って、中に入ることは――きっとない。
 
 そう思うと、また違った意味で胸が痛い。
 
「海君!」
 背後から、思いがけなくもう一度、俺を呼ぶ声がした。
 
 ふり返って見てみると、さっきよりもっと遠くなった場所から、真実さんがあいかわらず、ぶんぶんと大きく手を振っている。
 小さな体いっぱいで、まるで一生懸命に「自分はここにいる」と主張しているようなその姿に、思わず笑みが零れた。
 
(そんなに何回もふり返ってたら、遅刻しちゃうよ)
 彼女に負けないぐらいに大きく手を振りながら、満面の笑顔になってしまう。
 
(まだやってるのかって……貴子さんたちに呆れられちゃうよ)
 嬉しかった。
 俺に真っ直ぐに向けられる彼女の想いが嬉しかった。
 だから――
 
(そんな資格もないのに、もっともっとって彼女を望むのは、俺のわがまま以外のなんでもない……だからそんなことは望まない……!)
 苦しい衝動は胸の奥に封じこめ、足に力をこめて、俺はもう一度歩きだした。
 
(どうせいつかはいなくなるのに、悲しい思いを残すだけだ……! 今のままでいい……手を繋ぐぐらいでいい……)
 自分を戒めるかのように、強く胸に誓った。
「うーん。あんまり良好とは言えないなあ……」
 こちらをふり返らないままに呟いた石井先生の背中を、俺は穴の開くほど凝視していた。
 
 真昼の病院。
 ひとみちゃんに無理やり入れられた二回目の定期検診で、俺はついに石井先生から引導を渡された。
 
(入院確定……か……!)
 ひょっとしたらという思いはあった。
 けれど、実際に先生からそう宣告されると、思っていた以上にこたえた。
 
「そうですか……」
 真っ先に真実さんのことを思う。
 日々何事もなく、彼女が穏やかな大学生活を送っている時であるというのが、救いといえば救いだった。
 でも、もう会えなくなると思うとやっぱり辛い。
 
「発作が起きたわけでもないし、今回は様子を見るための入院だから……少しおとなしくしてたら、きっとまたすぐに退院できるよ……ね?」
 
 クルリと椅子を回転させてこちらに向き直った先生が、俺の気分を取り成すかのように笑う。
 その笑顔が本当に本物であるのかどうかなんて、考えだしたらきりがない。 
 
 これ以上先生に気を遣わせないためにも、俺も笑顔を作った。
「はい」
 でも気分はどうしようもなく落ちこんでいた。


 
「でね…………海君? ……ちゃんと聞いてる?」
 ボーッとしているところを真実さんに見咎められたのは、いったい今日だけで何度目になるだろう。
 俺は内心苦笑しながら、表面上はもっともらしく頷く。
 
「もちろん聞いてるよ。教室に迷いこんだすずめを、真実さんたちがみんなで逃がしてやった話でしょ?」
「それはもうさっき終わったの!」
「ハハハッ! そうだった……?」
 本当はわかってた。
 でもちょっぴり怒った顔が見てみたかった。
 
 真実さんは少しむくれると上目遣いにじっと俺を見上げる癖がある。
 その顔がもうどうしようもなく可愛くて、俺の一番のお気に入りで、それが見たいばっかりに俺はすぐに彼女をからかってしまう。
 ――でもこれは真実さんには内緒だ。
 
「じゃあ……夏休みになったら、愛梨さんたちとプールに行くって話?」
「それはもっと先に終わってるの!」 
「ハハハハッ!」
 だが、やりすぎるのは禁物。
 
「もういいっ!」
 意外と短気な真実さんは、俺が調子に乗ると、すぐに置き去りにして歩きだしてしまう。
 
「冗談だよ。待ってよ真実さん」
 笑い混じりに言葉だけで追いかけても、決して待ってはくれない。
 
「おーい。真実さーん」
 俺がふざけてるうちは絶対だ。
 でも――
 
 しばらく黙っていると、怒っているはずの小さな背中は次第に歩く勢いをなくして、そのうちピタリと止まってしまう。
 
 それでも俺が何も言わずにいると、短い髪をサラリと揺らしながら、小さな白い顔がふり返る。
 不安でどうしようもない顔でこっちを見て、俺の姿を確認すると、今にも泣きだしてしまいそうに、黒目がちの大きな瞳が安堵に揺れる。
 
 その全てが、いつもいつも俺の心をたまらなく苦しくした。
 
(真実さん……ゴメンね)
 まだ出会って間もない頃、『待ってくれないと俺は追いかけないよ』と俺が宣言したことを真実さんはちゃんと覚えてくれてる。
 だから何度も訪れるこんな場面では、必ず途中で足を止めてくれる。
 どんなに怒っていても、それを押し殺して俺を許してくれる。
 
(本当はここは……『待てよ』って追いかけてって、俺がどれくらい真実さんのことを大切に思ってるかを、証明するところだよなぁ……)
 
 でも俺は走って追いかけることはできない。
 いや。
 できないことはないが、やるつもりはない。
 真実さんの前で「もしも」のリスクを伴う行動は、できるだけ少なくしたいというのが俺の中の決めごとだから。
 
(だから真実さんにばっかり我慢させてる……俺は全然優しくしてなんかやれない……ゴメン)
 ゆっくりと歩いて彼女に近づきながら、心の中だけで頭を下げた。
 
(走って追いかけて、うしろから抱きしめて、『ゴメン。大好きだよ』って耳元で囁いて、それから――)
 自分にはできないこと、でも本当はそうしたいことを想像すると、なんだかとてつもなく恥ずかしいことになっていく。
 もし俺の体が正常だったとしても、そこまでできるかどうかは、正直疑問だ。
 
 大きく息を吐いてから、立ち止まって待っててくれた真実さんの手を取った。
 まるで当たり前のように、もう一度手を繋いで、俺たちは歩き始める。
 
「真実さん……」
「うん?」
「ゴメンね」
 
 ふわっと花の蕾が綻ぶように真実さんが笑った。
「海君は私に謝ってばっかり」
「そう?」
「うん。そう」
 
 輝くようなその笑顔を、いつでも思い出せるように、頭の中のキャンバスにそっと写し取った。
 


 愛梨さんのアパートに住むようになって一週間。
 ついに真実さんは、自分の部屋を引き払うことを決めた。
 
 なんでも貴子さんの隣の部屋が破格値で借りれるということで、行き先の心配はなかったが、引っ越しにかかるお金を捻出するために、不要品をリサイクルショップに売りたいのだという。
 
 そのための荷物を一週間ぶりに自分の部屋へ取りに帰るのに、真実さんは他の誰でもなく俺を頼ってくれた。
 
「海君。一緒に来てくれる?」
 もちろん、俺に異存があるはずなかった。
 
 本当にあの日――部屋があの男にめちゃくちゃに荒らされた日――以来、一度も訪れていない部屋。
 でも、どこも変わったところはなかった。
 真実さんの周辺と同じで、この部屋にも、あの男は姿を現わしてはいないようだ。
 
(じゃあいったいどこで何をしてるんだ……?)
 不安は消えなかったが、とりあえず今は真実さんが先だ。
 
 部屋の前で立ちすくんでしまっている真実さんに、
「真実さん大丈夫?」
 と聞いたあと、
「なんなら俺も、一緒に中に入って手伝おうか?」
 とつけ加えることを忘れてはならない。
 
 見るからに不安でいっぱいな真実さんの気持ちを、少しでも明るくするためなら、俺はいくらだって軽口を叩いてみせる。
「そうしよっか?」
 
 ニヤリと笑うと、真実さんはものの見事に真っ赤になった。
「だ、大丈夫よ!」
 
 こぶしを握りしめて力説する姿に、俺は心の中だけで
(あと少し!)
 と自分に発破をかける。
 
「大丈夫だよ。部屋に二人きりだって、どうせ真実さんはすぐ寝ちゃうんだから」
 真実さんがムッとむくれて、上目遣いに俺の顔を見上げた。
「もうっ! まだそのこと、言ってるの?」
 
 そう、その顔だ。
 その顔が見たくって、いつもいつも意地悪してしまう。
 
 ふり上げた真実さんの腕を俺がかわしたばっかりに、彼女は体勢を崩して、倒れこんでしまいそうになった。
 慌てて腕をつかんで、自分のほうに引き寄せる。
 華奢な体を両腕で抱き止める格好になってしまって、心から焦った。
 
 すぐに真実さんは離れるだろうと思っていたのに、俺の背中に腕を廻してくるから、ますます焦る。
「真実さん?」
 
 恐る恐る名前を呼んでみても、彼女は動く気配もないので、俺は便乗させてもらうことにした。
 甘い香りのする頭に頬を寄せて、ぎゅっと抱きしめる。
 本当はいつだってそうしたい自分の本心のままに、しっかりと抱きしめる。
 
「う、海君……?」
 自分から先にしかけてきたくせに、真実さんはすぐにねをあげて、もう開放してくれと言わんばかりに俺の顔を見上げる。
 でもすぐには願いを叶えてあげない。
 
 俺はクスリと笑って、しばらくの間、そうして彼女を抱きしめていた。


 
 けっきょく俺の手伝いは断って、真実さんは一人で荷物を漁った。
 不要品として彼女が部屋から運び出してきた紙袋は、実に八袋もあった。
 
 中にはブランドものや、高級なものも含まれていたようで、それを現金化したあとの真実さんはすこぶるご機嫌だった。
「海君、今ならなんでもおごってあげるよ。何がいい?」
 
 いつになく余裕のある雰囲気で誘ってくれるから、俺は正直な気持ちを口にする。
「じゃあ真実さんがいい」
 
 ボッと真実さんの頬に火がついた。
「また……! そんなこと言う!」
 
 真っ赤になりながら、真実さんが両手をふり上げた瞬間、俺の胸ポケットで、新品の携帯が、軽快な音楽を奏で始めた。
(マズい!)
 
 真実さんと会う時には必ずマナーモードにしていたのに、今日はうっかり忘れてた。
 ゴメンと頭を下げて真実さんに背中を向け、「はいはい」と応答した携帯の向こうから、ひとみちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。
 
「なにやってんのよ!! 今日から入院だっていうのに……まさか忘れてるんじゃないでしょうね!!」
「うっわ、忘れてた!」
 
 俺の正直な叫びに、ひとみちゃんは怒り狂う。
「何をどうやったらそうなるのよ! 能天気海里!」
 
 今日は自分も高校を休んで朝から待っていたこととか。
 準備も全て押しつけられたこととか。
 怨念をこめるようにして語り続けるひとみちゃんに降参して、俺は頭を下げた。
 乱れて顔にかかった前髪を、ゆっくりとかき上げる。
 
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
 電話を切ってふり返ったら、真実さんが今まで見たこともないような顔をしていた。
 唇をキリッと噛みしめてて、俺のことを睨んでいるのに、今にも泣き出してしまいそうな目には、実際に涙が浮かんでいる。
 なんともアンバランスな表情。
 
 なんとなく電話の内容が、雰囲気でわかってしまったんだろうなと思うと、これから真実さんにしなければいけない話が、ひどく残酷な事もののように思えた。
「真実さんゴメン。俺、今日用事があったんだった……」
 
 顔をのぞきこみながらそう告げると、彼女の大きな瞳に、驚きと共に明らかに悲しみの色が広がっていく。
 それを嬉しいと思ってしまう俺は、なんて自分勝手なんだろう。
 
「それと……しばらく会いに来れないかも、ゴメン」
 真実さんはますます途方にくれたような表情になった。
 
 大学にも復学して、友達とも仲直りして、真実さんの世界は着実に修復されていっているのに、まだこんなにも俺を必用としてくれているんだと思うと、俺の心は身勝手にも弾みだす。
 
「うん。わかった」
「嫌だ」と顔に書いてあるにもかかわらず、しおらしく頷いた真実さんが可愛くってたまらない。
 
 そっと指を伸ばして、その髪を優しくかき混ぜた。
「寂しいだろうけどゴメンね」

 真実さんは急に、ハッとしたように胸を反らした。
「別に大丈夫だよ?」
 
 意地悪な俺は、その懸命な努力を打ち砕く。
「えっそうなの? 俺に会えなくても平気?」
 瞳をのぞきこみながら顔を近づけたら、真実さんはすぐに俯いてしまった。
「嘘だよ……寂しいよ……」
 
 しゅんとうな垂れた彼女を、俺は大笑いしながらもう抱きしめた。
「うん。俺も寂しいよ」
「ちょ、ちょっと海君」
 口では抵抗しながらも、真実さんの両腕もしっかりと、俺を抱きしめ返していた。
 
 ――それが嬉しかった。
 しばらく離れなければならないとわかっているからこそ、たまらなく愛しかった。
 病室の窓から見える景色は、ニヶ月前よりも色を濃くしていた。
 青々と繁った木々の葉も、吸いこまれそうに青い空も、長時間見つめていると、目に痛いほどに。
 
「あれっ? ……ここからの景色はもう描き飽きたって言ってなかったっけ?」
 昼食を運んできてくれた看護師さんを、俺は窓際に置いたパイプ椅子に座ったままふり返る。
「そうですよ。でも、まぁいいんだ……」
「ふーん……」
 
 うしろからこっそりと近づいた看護師さんが、俺が胸に抱えているスケッチブックをのぞきこんでくる気配を察して、描きかけのページをパタンと閉じる。
「ダメ。これは誰にも見せないの」
「えーっ? 前は見せてくれてたじゃなーい」
 まだ看護学校を出て三年目だというその看護師さんは、口を尖らして、子供みたいな顔をする。
 
 俺はクスリと笑った。
「でもこれはダメなんです」 
「ふーん……」
 やりかけだった昼食のセッティングを再開した看護師さんは、それをやり終えると、首を傾げながら俺の病室から出ていく。
 
 その背中を見送ってから、俺は描きかけのページをもう一度開いた。
 ――初めて二人で行ったあの海で、俺をふり返って笑う真実さんの姿がそこにはあった。
 


 安静にしている以外にはすることもなく、食事と睡眠と検査をくり返す毎日は、俺にたくさんの考える時間を与えてくれる。
 ベッドの上よりもすっかり定位置になりつつある窓際の椅子で、陽だまりの中、何枚も何枚も真実さんの笑顔ばかりを書き連ねていたら、
(俺たちがあの夜出会ったのは、本当に偶然だったんだな……)
 胸に痛いくらいに、そう実感せずにはいられなかった。
 
 それぐらい、俺の毎日は今、真実さんとは離れてしまっている。
 そもそも外界とも全く隔絶されてしまっているわけだから、当たり前といえば当たり前なんだが、俺が会いに行かなければ、たったそれだけで終わってしまう関係なんだということを、改めて思い知らされた。
 
 それはあまりにも寂しかった。
 もし俺がこのままこの部屋から出られなかったら、それだけでもう二度と会うこともできない人。
 
(そっか……そしたらもう、二度と会えないわけか……)
 自分を追いこむような考えは、今は体にあまりよくないとわかっているんだが、考えずにはいられなかった。
 
 だからといって、今さら真実さんに俺の素性を明かしたりとか、連絡先を教えたりということは、やっぱり考えられない。
(だって……結局はそれって、しばらくの間だけなんだもんなあ……)
 
 たとえば俺がいなくなった後で、履歴に残った俺の電話番号を見る時、真実さんはどんな気持ちになるんだろう。
 俺が入院していたこの病院の前を通る時には――。
 
(悲しんでなんかほしくない。だから『もしも』の前には、俺は絶対に真実さんの前から姿を消しておく……)
 最初から決めていたその決意は、今だって揺らいではいない。
 
(なるべく笑っていてほしい……だから俺のことなんかすぐに忘れて、未来だけを見て生きてほしい……)
 その思いは確かに本物なのに、
(あーあ……でも他の男と一緒にいる真実さんの姿なんて、たとえ空の上からだって、俺、絶対に見てられないや……)
 想像しただけで頭を抱えてしまう自分がいる。
 
 空は高かった。
 どれだけ思っていたって、あんな遠くからじゃ、すぐ近くにいる奴にはきっとかないっこない。
 
 それは当たり前なのに。
 それでいいと思ってたのに。
 今さらどうしようもなく悲しくなるほどに、――地上と空の上は遠かった。


 
「本当にそれだけでいいの? なんならキャンバス運んできたっていいのよ?」
 足繁く俺のところに通ってくれるひとみちゃんは、俺が一冊のスケッチブックと鉛筆だけで、当面の間は画材は要らないと告げると、かなり怪しむような顔をした。
 
「まさか……病院抜け出して、どこかに通ってるんじゃないでしょうね?」
 思いもかけなかった疑いに、俺は彼女がわざわざ途中で買ってきてくれたジュースを思わず吹き出すところだった。
 
「そんっ……そんなことしないよ!」
「どうだか……」
 ぷいっと背中を向けるひとみちゃんの姿に、俺はため息をつく。
 
 もともと小さい頃から俺に喧嘩ばかり売ってくる相手ではあるが、それにも増して最近のひとみちゃんは容赦がない。
 
(なんか怒らせるようなことしたかな……?)
 考えてみれば浮かんでくる答えは一つしかない。
 
「ひとみちゃん……」
 呼びかけると、ふり向きもしないまま、 
「なによ」
 と返事される。
 
 どうにも取りつくしまもないほどの怒りを感じずにはいられないが、昔からずっとそうしてきたように、そんなことはまるで気にしていないような口調で、俺は話を続けた。 
「今度退院したら、俺、高校にもちゃんと行くから……」
 
 ビクリと、俺に背中を向けたままのひとみちゃんの肩が震えた。
 
「絵を描きに」
「海里!!」
 
 鬼のような形相でふり返ったひとみちゃんを見て、俺はたまらず笑いだした。
 
「ほんとだって。秋にある文化祭までには、仕上げたい絵が何枚かあるから……」
「そうじゃなくって……! そうじゃないでしょう!」
「ハハハッ。でもそれが俺にとっては、最優先事項だから……だからいいんだ。きっといくら勉強したって兄貴みたいにはなれないし……」
 
 兄貴には申し訳ないが、ここは引き合いに出させてもらう。
 大学の医学部に現役合格して、外科医への道を一目散に走っている兄を持つと、出来の悪い弟はいろいろと便利だ。
 ――もっともそう思っているのは俺だけで、世間一般的には真逆の感想なのかもしれないけど。
 
「そんなこと、わかんないじゃない! 海里だって成績はいいんだから、ちゃんと勉強すれば陸兄みたいにだって……」
 
「なれないよ」
 
「…………!」
 
 自分ばかりではなく、その言葉がひとみちゃんの心にだって痛く食いこむことはわかっているのに、俺は短く言い放つ。
 
(ああ、俺ってほんとに意地悪だ……ゴメンひとみちゃん……)
 わかっているのに――。
 
「なれない」
 真正面からひとみちゃんの目を見つめて、念を押すかのようにもう一度くり返す。
 
 いつだって強気なひとみちゃんが、呆けてしまったように俺の顔を凝視した。
「そんなこと……ない……もの……!」
 
 強い光を放つ瞳が不安に揺れ始め、震える唇はやっとの思いで切れ切れの言葉を搾りだす。
 その瞬間、――俺はヤバイと思った。
 
(しまった! きっと泣かす!)
 
 でもひとみちゃんはそんな俺の予想を見事に裏切って、
「……だってそんなこと、やってみなくちゃわからないでしょう! やる前から逃げてるんじゃないわよ! バカ海里!」
 いつにも増して大きな声で俺を怒鳴ると、バタバタと足音を響かせて、病室を駆けだしていった。
 
 涙が浮かんできたのは俺のほうだった。
(そうか……逃げてんのか……俺……)
 
 こぶしをギュッと握りしめる。
 痛くなるほどに奥歯を噛みしめて俯いたら、伸ばしっぱなしの前髪が、頬のあたりまで落ちてくる。
 だからたとえ今誰かがこの病室に入ってきたとしても、俺の情けない顔を見られる心配はないだろう。
 
(現実を受け入れて、未来を悲観しないように生きていく……なんてかっこいいこと言ってるけど……ようは俺が何もかもを諦めてるってことなのか……!)
 
 高校を卒業することも。
 未来に夢を持つことも。
 もっと長く生きることも。
 いつか兄貴を越えるという目標も。
 ――ずっと真実さんと一緒にいることも。
 
 諦める。できるはずないんだって、最初から割り切る。
 そのほうが自分も周りの人たちも傷つけずにすむと思ってたのに――。
 
(ひとみちゃんは……悔しいんだ……!)
 俺がはなっからいろんなことを諦めてしまっていることが。
 望みを持つことと一緒に、努力することまで放棄してしまっているのが。
 
(……俺だって悔しいよ!)
 頬を伝って落ちた涙が、固く噛みしめた唇にまで流れてきた。 
(できるんなら……一生懸命に努力したらそれがかなうんなら……俺だってがんばりたいよ! どんなことだってやってみたいよ! だけど……!)
 
 ぐいっと腕で頬を拭った。
 泣いたのなんて本当に何年ぶりかも覚えていないほどひさしぶりりだったから、余計にそれを誰にも見られるわけにはいかなかった。
 
(叶う望みがないってわかってるのに、どうやって夢を見たらいいんだ? 俺には無理だってわかってるのに、どうやってそれを望んだらいいんだよ……?)
 悔し紛れにこぶしを握りしめたけれど、それをどこかにぶつけるなんてことはやっぱりできなかった。
 
 だらんと腕を下ろした時に、病室の入り口のほうから声がした。
「海里ー起きてるかー?」
 珍しく兄貴が、実習の合間を縫って、見舞いに来てくれたのだった。
 
「階段の踊り場にひとみちゃんがいたんだけど……どうした? 喧嘩でもしたか?」
 本人はのんびりとした雰囲気なのに、兄貴の言うことはいつも的を得ているというか、鋭いというか。
 図星をさされると、俺はもう笑うしかない。
 
「喧嘩……じゃないけど、怒らせちゃったんだよ……」
「そっか」
 
 きっと俺の目が真っ赤に泣き濡れていることだって、とっくにお見とおしだろうに、兄気は余計なことは言わない。
 その代わり、重要なことに関しては単刀直入だ。
 
「ちゃんと謝っとけ。な? ひとみちゃんはいつだって、お前のために動いてくれてんだから……」
「うん……」
 
 口先だけで謝るのは簡単だ。
 でも本当の意味で、彼女の期待に添うことができるのだろうかと思うと、言葉は自然と鈍る。
 
 兄貴は窓際の椅子に座り続ける俺の所までやってくると、横に立って窓から外を眺めた。
 そちらに顔は向けないまま、俺は尋ねる。
 
「ねえ……俺っていろんなことから逃げてんのかな……?」
 あとから考えてみたら、ずいぶんとストレートな問いかけだったと思う。
 でもそんなことにも頭が回らないくらい、実はその時の俺は追い詰められていたのかもしれない。
 ――自分でも気がつかないうちに。
 
「ひとみちゃんがそう言ったのか?」
「うん……まあ……」
「そうか……」
 
 兄貴は俺のほうを向こうとはしなかった。
 面と向かうと照れ臭い思いもあるので、その判断は正直ありがたい。
 
 隣にいながら反対の方向を向いて、いつになく弱音を吐く弟に、兄貴はどこまでも優しかった。
「海里はいつも先回りしていろんなことを考え過ぎだからな……それが功を奏す時だってあるし、慎重過ぎるって批判される時だってあるさ……」
 
 兄貴が語る俺には、『病気だから』というハンデは存在しない。
 あくまでも、ただの一人の『一生海里』という人間として見て、評価してくれる。
 その見方からして、俺とは全然違うということがよくわかった。
 
(そっか……覚悟はしてても、それを言い訳にしたらいけない……そういうことなんだ……!)
 俺は俯いていた顔を跳ね上げた。
 
「じゃあさ……たまには俺だって……無理だってわかってることに向かってみてもいいのかな……?」
 
 ゆっくりと兄貴が俺のほうに向き直る気配がした。
 座る俺の頭上に、強い視線が注がれる。
 聞こえてきた兄貴の返事は、まるでひとみちゃんがさっき叫んでいた言葉とそっくり同じだった。
 
「無理かどうかなんてやってみなきゃわからない。それは俺だって、お前だって一緒だよ」
「そっか。わかった」
 まるで神様からでも許しをもらったかのように、俺はホッと息を吐いて、ギュッと両目を瞑る。
 
(だったら俺は諦めない。絶対もう一回真実さんの隣に戻る。彼女を守る役目を他の誰かに譲ったりなんかしない……少しでも長く一緒にいられるように、これからだってずっとずっと努力する……!)
 
 閉じた目をもう一度開いた瞬間、目線の遥か向こうにひとみちゃんが現われた。
 いつものような凛とした強さを取り戻した瞳で、真っ直ぐに俺を見ている。
 
 負けない意志をこめて、俺もひとみちゃんを見返した。
 
「ひとみちゃん……やっぱり退院したら、俺、高校に行くよ。絵も描くし。俺の一番行きたいところにも毎日行く。それでちゃんと病院にも定期的に検診に来て……って……あれ? これじゃやっぱり毎日学校行くのは……ムリか?」
 
 ボッと遠目に見てもわかるくらいにひとみちゃんは頬を赤くして怒った。
「だから! それはそれでいっぺんに欲張りすぎなのよ! 加減ってものを知らないわけ? ……バカ海里!」
 
 ひとみちゃんの不器用な優しさがいっぱいこもった、いつも通りの罵声が嬉しくて、俺は兄貴と一緒にお腹を抱えて大笑いした。