シャツの胸ポケットで、新品の携帯電話が軽快な呼び出し音を鳴らす。
カンカンカンと高い音をさせてアパートの外階段を上って行った真実さんが、盛大に手を振りながら自分の部屋に帰るまで見届けてから、俺はゆっくりと電話をポケットから取り出し、自分の耳に押し当てた。
「もしもし……?」
「遅いっ!」
開口一番、怒鳴りつけてくるのはひとみちゃんの声。
「家に帰ってくるのも……電話に出るのも……どっちも遅すぎるっ! 夕飯、ちゃんとうちで食べるのか。それともいらないのか。聞いてみろってお母さんが言ってるんだけど……!」
「ごめん。すぐ帰る。だからご飯も家で食べます……」
「わかった」
言うが早いか、用件はそれだけだと言わんばかりに、電話はブツリと切られた。
ひとみちゃんらしいといえば、実にひとみちゃんらしい。
本当は自分が俺のことを心配だったのに、叔母さんをダシに使ったんじゃないかという疑いは、とりあえず伏せておく。
俺は小さく苦笑しながら、携帯をもう一度胸ポケットに戻した。
夏が目前に迫り、日が長くなりつつあるとはいえ、あたりはもう薄暗い。
ここから一時間の道のりを、いつものように歩いて帰るか、それともタクシーでも拾うか、少しの間考えた。
考えながら、アパートの一番手前の真実さんの部屋を見上げる。
小さな灯かりが灯っていた。
今日初めて、彼女と繋いで歩いた手を握りしめる。
胸がざわめき、自然と頬が緩んだ。
(やっぱり歩いて帰ろうかな……今すぐ家に着いたら、今度は『なんなのよ! そのニヤけた顔は!』ってひとみちゃんに怒鳴られそうだ……)
そんなことを思いながら、寄りかかっていたガードレールから俺が身を起こした時、目の前に大きなブレーキ音をさせて、黒い車が突っこんできた。
「うおっ!」
撥ねられそうになるほど危なかったわけではないが、かなり驚いたのは本当だった。
あまり丁寧とは言えないハンドルさばきでアパートの前に横づけされた車から、大きな男が下りてくる。
ガンガンガンと大きな音をたてて階段を踏み鳴らしながら上った男が、真実さんの部屋の前に立つ姿を目にした瞬間、ぐらりと俺の視界が歪んだ。
湧き上がる激情に、目が眩んだ。
(あいつ……! まさか!)
今すぐ走りだそうとした足を意志の力で止めるのは容易ではなかった。
ドンドンと真実さんの部屋のドアが叩かれる音と、体中に響き渡る俺の心音。
どちらがどちらかわからないくらいの大音量で、耳に響く。
(落ち着けっ! ……落ち着け!)
ここ最近では一番ヤバい状況になりつつある心臓を庇って、胸を押さえながら、俺は逸る呼吸を整えようとした。でも――
(無理だ! ちきしょう!)
ポケットから取り出したピルケースの中の薬を、早目に口に放りこむ。
これまでの経験から、薬が効いて普段どおりに動けるようになるまで、かかる時間は数分間。
その数分間に無理をしたことは、これまで一度だってない。
でも今は、そんな悠長なこと言ってられない。
「真実! 真実! いるんだろ!」
ドアを蹴破りそうな勢いで叩き続けるあの男を、このまま放っておけるはずがない。
部屋の中の真実さんは、今どんな思いでいる。
きっとあの蒼白な顔になって、――ひょっとしたら泣いているかもしれない。
そう思ったら、切り裂かれるように胸が痛んだ。
胸ポケットにしまっていた携帯を取り出して、110番をコールする。
すぐに応答してくれた緊張感のまったくない声に、事情を説明しながら、俺は胸を押さえたままのろのろと歩きだす。
胸の鼓動はまだ落ち着く気配さえなかったけど、それはあえて無視した。
重たい足を引きずるようにして、男のいる外階段とは反対側の、アパートの南側へと回りこんだ。
一つの部屋に一つだけある掃き出し窓には、それぞれ小さなベランダがついていた。
真実さんの部屋の窓を見上げながら、なんとかあそこまで上れないかと周りを見渡す。
「うるさいぞ! 静かしろ!」
非難の声を上げているのが聞こえたところを見ると、どうやら真実さんの隣人は在宅のようだ。
だがベランダ同士は隣接しているわけではない。
(隣の家の塀によじ登って、そこから懸垂の要領で上ることだったら、できなくはないんじゃないか……?)
一瞬、そこまでしなくても良いんじゃないかという思いが頭を過ぎる。
警察はすぐに来てくれると返事してくれたし、とりあえず先日つけ替えたばかりの真実さんの部屋の新しい鍵は、じゅうぶんにその役目を果たしているようだ。
しかし――
(ドアを叩く音や、自分を呼ぶ声を聞きながら……真実さん、どうしてる? ……何を思ってる……?)
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
(もし万が一……耐え切れなくなって……諦めて……真実さんがドアを開けてしまったら……そしたら、どうなる?)
さっき、否応なく脳裏に焼きついてしまった男の後ろ姿が、鮮明に頭の中に甦る。
(きっと、あの男に連れて行かれる……そして……!)
初めて会った日に真実さんの体のあちこちに残っていた傷痕と、腫れた頬と、この間も腕に残っていた指の跡。
そして怯えたような、あまりに悲しげな瞳。
――すべてが俺の脳裏にフラッシュバックした。
自分でも気がつかないうちに、俺は走りだしていた。
(嫌だ!)
誰にも渡したくない。
触れさせたくもない。
――俺のわがままと。
これ以上真実さんを傷つけたくない。
守ってやりやい。
――彼女を思う気持ち。
(この思いだけは譲ったらダメだ! 真実さんが好きなら……絶対に諦めたらダメなんだ!)
無我夢中で、俺は彼女の部屋の窓まで、よじ登った。
「真実さん」
呼吸を整える暇さえもどかしく、俺は窓に向かって呼びかける。
建物の反対側では、まだあの男が叫びながらドアを叩いている。
俺の小さな呼び声が、真実さんに聞こえるとはとても思えない。
でも大声を出すわけにはいかなかった。
だからせいいっぱいの思いをこめて、もう一度呼びかける。
「真実さん」
決して大きくはない声。
――それなのに、窓の向こうには人影らしいものがふっと現われる。
窓を開けようかどうしようかと、ためらう素振りを見せるその小柄な人影に、俺はできる限りいつもどおりを心がけて、心をこめて呼びかけた。
「真実さん。俺だよ」
スッと開いた窓の隙間から、大きな黒目がちの瞳が見えた瞬間、泣きたいような衝動に駆られた。
大丈夫かと尋ねるよりも先に、恐かっただろうと労わるよりも先に、手が出てしまう。
まるでかき抱くかのように、俺の両腕は彼女の頭を自分の胸に抱き寄せた。
震える体がほうっと大きく息を吐いたのが、俺の体にも伝わってくる。
真実さんが震えているのがよくわかる。
かなり無茶してここまで来たが、どうやら無駄ではなかった。
――そう知って、心底ほっとする。
まにあって良かったと、心から思った。
建て前も言い訳も捨てて、思いのままに真実さんを抱きしめたこの腕を、本当はもう二度と解きたくなんかなかった。
真実さんの部屋に招き入れてもらって、その上二人で寄り添うようにして息を殺していると、どうしたって緊張の思いが大きくなる。
そんな動揺を決して真実さんには知られたくなくって、こんな時だと言うのに、俺は必用以上におどけてしまう。
「凄いね、あの人」
いまだにドアを叩き続けている叫び声を揶揄して、わざと皮肉るように言った。
「俺、今出ていったら殺されるかもね?」
できることなら笑ってほしかったが、やっぱり真実さんに今そんな気持ちはないらしい。
「そうかもね……」
寂しく答えられて、息が詰まった。
(ひょっとして……本当はあの男のことを嫌ってるわけじゃない……? ただ、今は少しうまくいっていないだけ? そんなこと……ないよな……?)
かなり自虐的な想像まで、むくむくと胸に湧く。
俺はこらえきれずに、真実さんに問いかけた。
「……どうしたの?」
ここで「私やっぱり……」なんて切り出されたら、傷つくのは自分だ。
もうどうしようもなく落ちこんでしまうに、決まっているのに。
わざと自分を追いこむようなこんなやり方だけは、俺はどうしても改めることができない。
手を引くのなら、早いほうがいい。
――その思いがいつだって、俺にギリギリのラインを見極めさせようとする。
なのに真実さんは、俺が恐れる、いや本当は望んでいるのかもしれない答えを返すことは決してない。
否も応も答えずうやむやのままにしておかれるのが、俺にとって一番都合がいいと、まるでわかってくれているかのように。
左肩に彼女のぬくもりを感じながら、考え続ける俺の耳に、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンの音が聞こえ始める。
自分が警察に通報した旨を、彼女に語っていた俺は、誇らしく胸を張った。
「ほら、来たよ」
わざわざ明るい調子で言った言葉に、あきらかにビクリと真実さんの肩が震えた。
瞬間的に――ヤバイ――とわかった。
「真実! 真実!」
叩かれ続けるドアを見つめる真実さんの目は、深い悲しみに覆われている。
けれどそれは決して嫌悪の思いばかりではない。
どれだけかの期間、楽しく過ごしたこともあるあの男を、真実さんはすっかり憎んでいるわけではないのだ。
複雑な彼女の感情が垣間見える。
すっかり暗くなってしまった部屋の中だったが、肩を寄せあって座っている俺には嫌というほどによく見えた。
ふっと立ち上がって、今にもドアの向こうの男のほうに行ってしまいそうな真実さんの雰囲気に、俺はたまらなく嫉妬する。
(こんなにひどい目にあっても、傷つけられても、それでも真実さんは……!)
思わず声が出た。
「駄目だよ。真実さん」
正義感ぶって、俺は彼女を諭した。
「真実さんが今ここであいつを許してしまったら、何も変わりはしないよ」
胸が痛んでたまらない俺の本音を、彼女に押しつけた。
「俺は忘れないから。真実さんがあいつにどんな目にあわされたか……絶対に忘れないし、許さない」
絶対に言うつもりはなかったことまで、口にしていた。
そうまでして、俺から離れてあの男のところに行こうとしている真実さんを引き止めたかった。
「真実さん。俺が来なかったら、またあいつにドアを開けてたね。そう思ったから俺は来たんだ」
胸が痛い。
心臓なんかじゃないもっと奥のほうが、叫びだしてしまいたいほどに痛い。
「心配でずっと外で見てたけど……本当は真実さんが一人で戦ってるのを、黙って見守ってたかったけど……真実さんがまたあいつに流されるのは、俺だって絶対嫌なんだ」
伸ばした両手で、隣にいる人を抱き寄せる。
もしも抵抗したいなら――この腕から抜け出してしまいたいなら、そうできるだけの余裕を残して、恐る恐る真実さんを抱きしめた。
「ごめん……ごめんなさい。海君……」
俺の胸の中で真実さんは小さく嗚咽し始める。
(ゴメン、そうじゃなくて……泣かせたかったわけじゃなくて……)
言い訳するかのように、背中に廻していた腕に、俺は少し力をこめる。
「来てくれてありがとう……」
思いがけない感謝の言葉に、もし涙が零れたりしても絶対に彼女に見られないようにと、背けていた顔を、ハッと彼女の上に戻した。
真実さんは俺の腕の中で、真っ直ぐに俺を見上げていた。
その瞳の中に、何にも代えがたい愛しさの色が見える。
身震いするほど嬉しいことに。
俺にはそんな資格などないのにと申し訳なく思うほどに。
――確かに俺に対する彼女の特別な想いが見えた。
(俺のほうこそ……ありがとう)
長い長い息を吐いて、俺は真実さんの肩にそっと額をつけた。
息をひそめてパトカーの到着を待つ間に、真美さんの体からは次第に力が抜け始める。
寄り添うように座る俺には、その感触が嫌というほど直に伝わってくる。
大きな瞳は閉じたり開いたりを頻繁にくり返した末に、ピッタリ閉じて、呼びかけても開かなくなった。
(まいったな……)
苦笑しながらも、まんざら悪い気分ではなかった。
隣にいても安心して眠れてしまう相手。
恋人としてはどうかと思うが、決してそうなることができない俺にとっては、かなりの好ポジションだ。
(でもなぁ……)
男としてはどうなのかとも思う。
これは真実さんが俺を男だなんて思っていないことの証拠なんじゃないだろうか。
(だったら真実さんが俺に言った『好きだよ』はいったいどんな意味なんだ……?)
考えれば考えるほど、情けない答えしか浮かんでこない。
でも、こんな他愛もないことに悩む時間は嫌ではなかった。
すっかり俺に身を任せきっている真実さんのぬくもりを、隣に感じているのならば尚更――。
(やっぱり夕食はいらないのメールだけは、忘れないようにしないと……)
目をむいて怒るひとみちゃんの顔が頭に浮かんだが、今はそれすら、笑顔で想像できた。
それぐらい、真実さんがあの男より俺の隣にいることを選んでくれた――そのことは、俺にとって偉大だった。
カンカンカンと高い音をさせてアパートの外階段を上って行った真実さんが、盛大に手を振りながら自分の部屋に帰るまで見届けてから、俺はゆっくりと電話をポケットから取り出し、自分の耳に押し当てた。
「もしもし……?」
「遅いっ!」
開口一番、怒鳴りつけてくるのはひとみちゃんの声。
「家に帰ってくるのも……電話に出るのも……どっちも遅すぎるっ! 夕飯、ちゃんとうちで食べるのか。それともいらないのか。聞いてみろってお母さんが言ってるんだけど……!」
「ごめん。すぐ帰る。だからご飯も家で食べます……」
「わかった」
言うが早いか、用件はそれだけだと言わんばかりに、電話はブツリと切られた。
ひとみちゃんらしいといえば、実にひとみちゃんらしい。
本当は自分が俺のことを心配だったのに、叔母さんをダシに使ったんじゃないかという疑いは、とりあえず伏せておく。
俺は小さく苦笑しながら、携帯をもう一度胸ポケットに戻した。
夏が目前に迫り、日が長くなりつつあるとはいえ、あたりはもう薄暗い。
ここから一時間の道のりを、いつものように歩いて帰るか、それともタクシーでも拾うか、少しの間考えた。
考えながら、アパートの一番手前の真実さんの部屋を見上げる。
小さな灯かりが灯っていた。
今日初めて、彼女と繋いで歩いた手を握りしめる。
胸がざわめき、自然と頬が緩んだ。
(やっぱり歩いて帰ろうかな……今すぐ家に着いたら、今度は『なんなのよ! そのニヤけた顔は!』ってひとみちゃんに怒鳴られそうだ……)
そんなことを思いながら、寄りかかっていたガードレールから俺が身を起こした時、目の前に大きなブレーキ音をさせて、黒い車が突っこんできた。
「うおっ!」
撥ねられそうになるほど危なかったわけではないが、かなり驚いたのは本当だった。
あまり丁寧とは言えないハンドルさばきでアパートの前に横づけされた車から、大きな男が下りてくる。
ガンガンガンと大きな音をたてて階段を踏み鳴らしながら上った男が、真実さんの部屋の前に立つ姿を目にした瞬間、ぐらりと俺の視界が歪んだ。
湧き上がる激情に、目が眩んだ。
(あいつ……! まさか!)
今すぐ走りだそうとした足を意志の力で止めるのは容易ではなかった。
ドンドンと真実さんの部屋のドアが叩かれる音と、体中に響き渡る俺の心音。
どちらがどちらかわからないくらいの大音量で、耳に響く。
(落ち着けっ! ……落ち着け!)
ここ最近では一番ヤバい状況になりつつある心臓を庇って、胸を押さえながら、俺は逸る呼吸を整えようとした。でも――
(無理だ! ちきしょう!)
ポケットから取り出したピルケースの中の薬を、早目に口に放りこむ。
これまでの経験から、薬が効いて普段どおりに動けるようになるまで、かかる時間は数分間。
その数分間に無理をしたことは、これまで一度だってない。
でも今は、そんな悠長なこと言ってられない。
「真実! 真実! いるんだろ!」
ドアを蹴破りそうな勢いで叩き続けるあの男を、このまま放っておけるはずがない。
部屋の中の真実さんは、今どんな思いでいる。
きっとあの蒼白な顔になって、――ひょっとしたら泣いているかもしれない。
そう思ったら、切り裂かれるように胸が痛んだ。
胸ポケットにしまっていた携帯を取り出して、110番をコールする。
すぐに応答してくれた緊張感のまったくない声に、事情を説明しながら、俺は胸を押さえたままのろのろと歩きだす。
胸の鼓動はまだ落ち着く気配さえなかったけど、それはあえて無視した。
重たい足を引きずるようにして、男のいる外階段とは反対側の、アパートの南側へと回りこんだ。
一つの部屋に一つだけある掃き出し窓には、それぞれ小さなベランダがついていた。
真実さんの部屋の窓を見上げながら、なんとかあそこまで上れないかと周りを見渡す。
「うるさいぞ! 静かしろ!」
非難の声を上げているのが聞こえたところを見ると、どうやら真実さんの隣人は在宅のようだ。
だがベランダ同士は隣接しているわけではない。
(隣の家の塀によじ登って、そこから懸垂の要領で上ることだったら、できなくはないんじゃないか……?)
一瞬、そこまでしなくても良いんじゃないかという思いが頭を過ぎる。
警察はすぐに来てくれると返事してくれたし、とりあえず先日つけ替えたばかりの真実さんの部屋の新しい鍵は、じゅうぶんにその役目を果たしているようだ。
しかし――
(ドアを叩く音や、自分を呼ぶ声を聞きながら……真実さん、どうしてる? ……何を思ってる……?)
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
(もし万が一……耐え切れなくなって……諦めて……真実さんがドアを開けてしまったら……そしたら、どうなる?)
さっき、否応なく脳裏に焼きついてしまった男の後ろ姿が、鮮明に頭の中に甦る。
(きっと、あの男に連れて行かれる……そして……!)
初めて会った日に真実さんの体のあちこちに残っていた傷痕と、腫れた頬と、この間も腕に残っていた指の跡。
そして怯えたような、あまりに悲しげな瞳。
――すべてが俺の脳裏にフラッシュバックした。
自分でも気がつかないうちに、俺は走りだしていた。
(嫌だ!)
誰にも渡したくない。
触れさせたくもない。
――俺のわがままと。
これ以上真実さんを傷つけたくない。
守ってやりやい。
――彼女を思う気持ち。
(この思いだけは譲ったらダメだ! 真実さんが好きなら……絶対に諦めたらダメなんだ!)
無我夢中で、俺は彼女の部屋の窓まで、よじ登った。
「真実さん」
呼吸を整える暇さえもどかしく、俺は窓に向かって呼びかける。
建物の反対側では、まだあの男が叫びながらドアを叩いている。
俺の小さな呼び声が、真実さんに聞こえるとはとても思えない。
でも大声を出すわけにはいかなかった。
だからせいいっぱいの思いをこめて、もう一度呼びかける。
「真実さん」
決して大きくはない声。
――それなのに、窓の向こうには人影らしいものがふっと現われる。
窓を開けようかどうしようかと、ためらう素振りを見せるその小柄な人影に、俺はできる限りいつもどおりを心がけて、心をこめて呼びかけた。
「真実さん。俺だよ」
スッと開いた窓の隙間から、大きな黒目がちの瞳が見えた瞬間、泣きたいような衝動に駆られた。
大丈夫かと尋ねるよりも先に、恐かっただろうと労わるよりも先に、手が出てしまう。
まるでかき抱くかのように、俺の両腕は彼女の頭を自分の胸に抱き寄せた。
震える体がほうっと大きく息を吐いたのが、俺の体にも伝わってくる。
真実さんが震えているのがよくわかる。
かなり無茶してここまで来たが、どうやら無駄ではなかった。
――そう知って、心底ほっとする。
まにあって良かったと、心から思った。
建て前も言い訳も捨てて、思いのままに真実さんを抱きしめたこの腕を、本当はもう二度と解きたくなんかなかった。
真実さんの部屋に招き入れてもらって、その上二人で寄り添うようにして息を殺していると、どうしたって緊張の思いが大きくなる。
そんな動揺を決して真実さんには知られたくなくって、こんな時だと言うのに、俺は必用以上におどけてしまう。
「凄いね、あの人」
いまだにドアを叩き続けている叫び声を揶揄して、わざと皮肉るように言った。
「俺、今出ていったら殺されるかもね?」
できることなら笑ってほしかったが、やっぱり真実さんに今そんな気持ちはないらしい。
「そうかもね……」
寂しく答えられて、息が詰まった。
(ひょっとして……本当はあの男のことを嫌ってるわけじゃない……? ただ、今は少しうまくいっていないだけ? そんなこと……ないよな……?)
かなり自虐的な想像まで、むくむくと胸に湧く。
俺はこらえきれずに、真実さんに問いかけた。
「……どうしたの?」
ここで「私やっぱり……」なんて切り出されたら、傷つくのは自分だ。
もうどうしようもなく落ちこんでしまうに、決まっているのに。
わざと自分を追いこむようなこんなやり方だけは、俺はどうしても改めることができない。
手を引くのなら、早いほうがいい。
――その思いがいつだって、俺にギリギリのラインを見極めさせようとする。
なのに真実さんは、俺が恐れる、いや本当は望んでいるのかもしれない答えを返すことは決してない。
否も応も答えずうやむやのままにしておかれるのが、俺にとって一番都合がいいと、まるでわかってくれているかのように。
左肩に彼女のぬくもりを感じながら、考え続ける俺の耳に、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンの音が聞こえ始める。
自分が警察に通報した旨を、彼女に語っていた俺は、誇らしく胸を張った。
「ほら、来たよ」
わざわざ明るい調子で言った言葉に、あきらかにビクリと真実さんの肩が震えた。
瞬間的に――ヤバイ――とわかった。
「真実! 真実!」
叩かれ続けるドアを見つめる真実さんの目は、深い悲しみに覆われている。
けれどそれは決して嫌悪の思いばかりではない。
どれだけかの期間、楽しく過ごしたこともあるあの男を、真実さんはすっかり憎んでいるわけではないのだ。
複雑な彼女の感情が垣間見える。
すっかり暗くなってしまった部屋の中だったが、肩を寄せあって座っている俺には嫌というほどによく見えた。
ふっと立ち上がって、今にもドアの向こうの男のほうに行ってしまいそうな真実さんの雰囲気に、俺はたまらなく嫉妬する。
(こんなにひどい目にあっても、傷つけられても、それでも真実さんは……!)
思わず声が出た。
「駄目だよ。真実さん」
正義感ぶって、俺は彼女を諭した。
「真実さんが今ここであいつを許してしまったら、何も変わりはしないよ」
胸が痛んでたまらない俺の本音を、彼女に押しつけた。
「俺は忘れないから。真実さんがあいつにどんな目にあわされたか……絶対に忘れないし、許さない」
絶対に言うつもりはなかったことまで、口にしていた。
そうまでして、俺から離れてあの男のところに行こうとしている真実さんを引き止めたかった。
「真実さん。俺が来なかったら、またあいつにドアを開けてたね。そう思ったから俺は来たんだ」
胸が痛い。
心臓なんかじゃないもっと奥のほうが、叫びだしてしまいたいほどに痛い。
「心配でずっと外で見てたけど……本当は真実さんが一人で戦ってるのを、黙って見守ってたかったけど……真実さんがまたあいつに流されるのは、俺だって絶対嫌なんだ」
伸ばした両手で、隣にいる人を抱き寄せる。
もしも抵抗したいなら――この腕から抜け出してしまいたいなら、そうできるだけの余裕を残して、恐る恐る真実さんを抱きしめた。
「ごめん……ごめんなさい。海君……」
俺の胸の中で真実さんは小さく嗚咽し始める。
(ゴメン、そうじゃなくて……泣かせたかったわけじゃなくて……)
言い訳するかのように、背中に廻していた腕に、俺は少し力をこめる。
「来てくれてありがとう……」
思いがけない感謝の言葉に、もし涙が零れたりしても絶対に彼女に見られないようにと、背けていた顔を、ハッと彼女の上に戻した。
真実さんは俺の腕の中で、真っ直ぐに俺を見上げていた。
その瞳の中に、何にも代えがたい愛しさの色が見える。
身震いするほど嬉しいことに。
俺にはそんな資格などないのにと申し訳なく思うほどに。
――確かに俺に対する彼女の特別な想いが見えた。
(俺のほうこそ……ありがとう)
長い長い息を吐いて、俺は真実さんの肩にそっと額をつけた。
息をひそめてパトカーの到着を待つ間に、真美さんの体からは次第に力が抜け始める。
寄り添うように座る俺には、その感触が嫌というほど直に伝わってくる。
大きな瞳は閉じたり開いたりを頻繁にくり返した末に、ピッタリ閉じて、呼びかけても開かなくなった。
(まいったな……)
苦笑しながらも、まんざら悪い気分ではなかった。
隣にいても安心して眠れてしまう相手。
恋人としてはどうかと思うが、決してそうなることができない俺にとっては、かなりの好ポジションだ。
(でもなぁ……)
男としてはどうなのかとも思う。
これは真実さんが俺を男だなんて思っていないことの証拠なんじゃないだろうか。
(だったら真実さんが俺に言った『好きだよ』はいったいどんな意味なんだ……?)
考えれば考えるほど、情けない答えしか浮かんでこない。
でも、こんな他愛もないことに悩む時間は嫌ではなかった。
すっかり俺に身を任せきっている真実さんのぬくもりを、隣に感じているのならば尚更――。
(やっぱり夕食はいらないのメールだけは、忘れないようにしないと……)
目をむいて怒るひとみちゃんの顔が頭に浮かんだが、今はそれすら、笑顔で想像できた。
それぐらい、真実さんがあの男より俺の隣にいることを選んでくれた――そのことは、俺にとって偉大だった。