「一組の山之内君ってかっこいいよね。どこか大人びてさ、気品があって」
「そうそう、入学式の時に見たときから思ってた。すでにたくさんの女子達が狙ってるみたいだよ。まだ高校一年が始まって入学したばかりなのに、女子達の噂はあっと言う間に広がって、すでに有名人だよ」
 一年二組の教室の端っこで、女の子達が休憩中に話をしていた。
 たまたまそこに私もいたんだけど、とりあえず聞いているふりだけはしておいた。
「ちょっと、倉持さん、もしかして影ながら山之内君狙ってるんじゃないの?」
 いきなり話を振られてしまって少しびっくりしてしまった。
「そんな訳ないでしょ」
 否定はしてみるも、ちょっとドキッとはしている。
 というのも、山之内君を全く知らないわけでもないし、一応接触があっただけに、その事を彼女達に言ってしまうと、絶対に嫉妬されてしまうから。
 だけどあれはただの偶然で、まさか同じ学校の生徒だとは思ってもみなかった。
 
 私、倉持真由はこの春、高校一年生になったばかり。
 春麗らかな柔らかい日差しを受け、期待に胸を膨らませて高校生活をスタートさせたところだった。
 事の発端は、ほんの少し遡った、入学式を待ちわびる春休みの時のことだった。
 外に出かけようと家の玄関を開け、すぐに空の様子を見上げた。
 それは空一面を覆う灰色の雲が広がり、今にも雨が降りそうでどんよりと重たい。
 だから迷わず傘を手にして、家の門を開け、駅に向かおうと歩きだしたその時、待ってましたのようにすぐに雨が降り出した。
 やっぱり来たかと、傘を差せば、その雨はすぐに激しさを増してくるようだった。
 天気の悪さに気をとられていたので周りを気にしてなかったが、視線を動かすと、ふと電信柱が視界に入り、そこに重なるように人が居たことに気がついた。
 その時は、見知らぬ人で誰だか全くわからなかったけど、それが女子達の話している山之内君だった。
 傘を持ってないのか、突然の雨に慌てている様子だったから、私は自分の傘を咄嗟に彼に差し出した。
「良かったら、これ使って下さい。まだ家に傘があるので、私はまたちょっと取ってきます」
「いや、別に、いいよ。これぐらい濡れても平気だから」
 てっきり遠慮していると思ったから、私は傘を無理やり彼の手に持たせてやった。
 そして素早くまた家に戻り、新たな傘を手にした。
 再びその傘を差して外に出たとき、彼は私の家の前で居心地悪そうに突っ立っていた。
「あ、あの……」
「あっ、その、気になさらないで下さい。遠慮はいりませんし、家がここなので、使い終わったら、適当にこの門にでも引っ掛けておいて下さったらいいですから。それじゃ私、ちょっと急ぎますので」
 条件反射で頭を下げ、早足でその場を去ろうとして、背中を向けたその直後、「ありがとう!」と声が返ってきた。
 また私が振り返ると、彼は私に笑顔を向けた。
 とりあえず再び頭を下げて、お愛想程度にそれに答えたけど、実際どうしていいのか戸惑いながらも、うやむやにその場を濁して私は早足に先を急ぐことにした。
 貸してから傘が赤色だったことを思い出し、あれでよかったのだろうかとぼんやり考えながら、腕時計で時間を確認すると、それどころじゃなくなり、足が急に慌てだした。
 その時は彼に関してはなんとも思わず、後に傘を貸した事も忘れてしまった。
 夜、家に戻ってから、彼が律儀に傘をその日のうちに返しに来たことを母から聞いて、また思い出した程度だった。
 母はニヤニヤしながら私に質問する。
「なかなかかっこいい男の子だったけど、知り合い?」
 かっこいい?
 雨と傘に気をとられて、あまり彼の顔を見ていなかったのであやふやなイメージしかなかった。
 でも入学式の時、山之内君の顔をチラリと見て、どこかで見た顔だと不思議に思っていたそのとき、傘を貸した人だと突然脳裏に蘇った。
 まだ面と向かってお互い顔を見合わせた事はないけど、きっと山之内君もまさか傘を借りた本人が同じ学校にいるとは思ってないだろうし、私の事には気がついてない様子に見えた。
 隣のクラスだし、滅多に会うことも話すこともないから、不意に廊下ですれ違っても傘を貸したという記憶は薄れてしまって、結局はお互い面識がないような感じだった。
 その方が私も楽。
 変に話をしたり挨拶したら、あれだけ目立つ人だから女子からは意地悪されそうだし、こっちも変に気を遣って疲れそう。
 かっこいい人だとは思うけど、私には関係ないと思うところがあった。
 でも、そう思い込もうとしてたかも──。

「だけどさ、山之内君って寡黙な人そうだよね」
「もうすでに何人かは山之内君に告白したみたいだけど、全て振られたんだって」
「まだ知り合って間もないのに、早い。それは断られるわ」
「だけど、シャイかもしれないじゃない。あまり女性になれてないのかもよ」
「一体どんな人がタイプなんだろうね」
 皆は好き好きに喋っていながら、時折うっとりとした目になっている。
 自分が山之内君のタイプじゃないかと、どこかで願っているような様子だった。
 そう思いたくなるのも分からなくもないけど、確かにあれだけかっこいいと気にはなるかもしれない。
 どこか周りの男子達と違って、しっかりとした大人びた表情が特に印象的だった。
 自信が溢れていて、落ち着いた優雅さがあった。
 その雰囲気だけでも気品があって、余計にかっこよさが目立っている。
 中から表面に滲み出てくるものがあるから、自然に精悍さが現れているのかもしれない。
 私も傘を貸したことで、正直意識してしまうけど、本人はすでにあやふやになってるだろうし、今更傘の話なんてできないところがあった。
 思春期の男女って、見てみぬふりで、ぎこちないもんだと思う。
 
「あーあ、なんかまた雨降ってきたみたいだよ」
 誰かが言った。
 窓を見ればポツリポツリと水滴がついていた。
 雨といえば傘は付き物。
 その組み合わせは珍しくもないけど、私にはふと時々記憶を刺激されるときがある。
 雨の日に傘を持って、登下校しているランドセルを背負った子供達を見ると特に思い出す。
 私もかつてはあんな感じだったのだろうが、あの当時の事をぼんやりと思い浮かべてしまう。
 夢だったのか、分からないままに、今では曖昧に記憶が残っている感じ。
 小学一年生の時に起こったことだから、記憶が薄れても仕方がない。
 ただ衝撃だけは覚えていて、子供心ながら『えっ!』とびっくりしていた。
 それは突然、頬にキスされたからだった。

 思い出せる範囲で話をすると、雨の日の下校中、傘をすっぽりと被るようにして学校の校門をくぐった。
 周りには何人かいて、多分皆で一緒に帰っていたのだと思う。
 皆、傘をさして、金魚が泳ぐように好き勝手に動いては無邪気に歩いていた。
 その時、私の後ろで誰かが囃し立てるように騒ぎ出した。
 私が立ち止まって、後を振り向いたとき、黒いランドセルを背負った男の子が近づいてきた。
 傘で顔が良く見えなくて、半ズボンだったし男の子ということだけはわかった。
 その近づいてきている男の子の向こう側で、他の子供達がなにやら揉めていて、騒がしい雰囲気だった。
 激しい雨ではなかったけど、傘の先から雫がゆっくりぽたりと落ちていく。
 その時、近づいてきた男の子は持っていた黄色い傘を放りだした。
 傘は開いたまま反対向けに私の足元にころがって、まるで大きなコマのようにみえた。
 それに気を取られていると、私の傘の中に男の子の顔が入り込んで、気がついたら、頬に何か触れたように感じた。
 なんだかわからないままに、ぼーっとしていると、足元に転がっていた傘がまた持ち上げられて、その男の子は後に居た子供達の下へと駆けて行った。
 一瞬のことで、自分が何をされたのかわからず、騒ぎ立てている子供達を眺めていた。
 無意識に何かが触れた頬を触って、そこで初めて自分はキスをされたのではとはっとした。 
 それに気がついたとき、私は驚いて走って逃げていった。
 その後はどうしたのか、すっかり記憶が抜け落ちているけど、そのことだけはぼんやりとして残っている。
 今となってはどこまで信用できる記憶なのかわからない。
 口ではなかったのが不幸中の幸いだったけど。

 外はいつしかどんよりとした暗さに包まれて、雨は次第に強まって行く。
 これで桜が散って行くのだろうと、なんだか寂しくなるが、雨を見るとまた思い出す事が増えたかもしれない。
 山之内君に傘を貸したということが、また何年か後に雨と共に思い出される記憶となるのだろう。
 傘を貸したときはなんとも思わなかったのに、友達が山之内君の噂をしただけで気になるなんて、結局私もかっこいい人に弱いってことなのだろうか。
 妙に山之内君のことになると意識をしてしまうようになった。
 
 そしてその日の放課後。
「倉持さん」
 自分の名前が呼ばれた。
 顔を上げて、その声の方向を見て、私はビクッとしてしまった。
 教室のドアのところで、今一番ホットな話題の山之内君が立っていたからだった。

 周りの女生徒たちも驚いて私と山之内君を交互に見ていたが、名前を呼ばれた私ですら、何事かと椅子に座って暫く固まったままきょとんとしていた。
「倉持さん?」
 すぐに反応しない私に落ち着かなかったのか、山之内君は確かめるようにもう一度私の名前を呼んだ。
 その時の山之内君の目はずっと私を捉えていた。
 帰る準備をしていた女子達もじっとその状況を見ていた。
 側にいた友達がいち早く状況を察知して、気を利かして背中を押される感じで私は立ち上がったが、机の脚に躓いてはよたつきながら山之内君の側に向かった。
「あの、何か?」
「雨が降ってるね」
「はい、そうですね……?」
「一緒に帰ろう」
「はい?」
「もしかして、何か用事があった?」
「いえ、べ、別に用事はないですけど」
「だったら、一緒に帰ろう」
 この状況はなんだろう。
 山之内君はいつ私の名前を調べたのだろう。
 傘を貸した事を覚えていて、あの時家の表札をみたのだろうか。
 しかし、あれから日数は経ってるけど、一度しか会ってないのに、この馴れ馴れしさはなんだろうか。
「それじゃ、下駄箱で待ってるから」
 山之内君は先に行ってしまった。
 彼が見えなくなったあとで、友達がわらわらと近寄って私に根掘り葉掘りきいてくる。
 それは好奇心と嫉妬と罵倒もはいってるような修羅場な感じだったかもしれない。
 私としても何が起こってるかわからないだけに、答えようもないのだけれど。
「ちょっと、真由、あんた山之内君と付き合ってるの?」
「付き合ってないって」
「じゃあ、なんであんなに親しく真由を誘ってるのよ」
 みんなの目つきが怖い。
「だから、私もわからないのよ」
「いいな、真由」
 自分でも訳が分かってないのに、そんな風に言われても困る。
 でも皆が山之内君の事をカッコイイと囃し立てるから、私もなんだか急に興味をもってしまったのは事実だった。
 羨望の眼差しと、納得いかないきつい目つきの中、私は鞄を持って教室を去った。
 廊下に出ても、他のクラスの女の子がこそこそと話しては私を見ていた。
 全然知らない女の子達にまで変な目で見られて、私は居心地が悪くなった。
 一体なんでこんなことになったのだろう。
 とにかく、山之内君としっかりと話さないといけない。
 それによって、今後私は学校に通えなくなるかもしれない危機感を抱いていた。
 
 隣のクラスなので、一組と二組の下駄箱は近かった。
 山之内君はすでに靴に履き替えて、外の雨の様子を見ていた。
 私もさっさと靴を履き替えているとき、山之内君は振り返った。
「雨、止みそうもなさそうだね」
 別に雨の話はどうでもいい。
 靴をしっかりと履いて、私は山之内君に近づく。
「あの、どうして私なんですか?」
「えっ、何が?」
「何がって、その一緒に帰るって」
「だって、家が近いし、この間傘を貸して貰ったから借りがある」
「はい?」
 家が近い? しかも、傘貸したことちゃんと覚えていた。
「借りがあるっていっても、私、傘もってますよ」
 山之内君は笑っていた。
 ここは笑うところなのだろうか。
「別に、君に僕の傘を貸したいとかそういう意味じゃないんだけど、雨が降ったから、僕のこと思い出してくれるかなって思って。だって、僕と会っても倉持さんは 全然反応がないからさ。なんかこっちが声掛け難くて。雨も降ったから、あの時の事思い出してくれるかなって思って、勇気を出してみた。あの時のお礼もちゃんといいたかった」
 こんな鬱陶しい雨の日ですら、それを吹き飛ばすくらいの爽やかな笑顔がどきっとした。
 まじかで見て気がついたが、背も高く、すらりとした姿が制服のブレザーを着こなしていた。
 男っぽいのに、それとは対照的に笑ったときの山之内君の顔はとても無邪気に見える。
 すごく親しみやすくて、ついじっと見てしまった。
「僕の顔になんかついてる?」
「えっ、いえ、その、笑顔が素敵だなって思って」
「はははは、嬉しいな。倉持さんにそんなこと言われて」
 今度は陽気に笑い出した。
 素直に褒め言葉を受け取って、物怖じせずに堂々とした態度だった。
 傘を貸したときは、おどおどとしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
 つい、山之内君のペースに乗せられてしまったが、ハッと周りをみたら、私達を見ている人たちが大勢いたことに驚いた。
 会話も聞かれていたんだろうか。
「雨の日って、なんか物悲しくって、こんな日はやっつけたいって気持ちになってくる」
「雨をですか?」
「そんな考え方するのって変かな?」
「別に変じゃないですけど」
 みんなの視線を感じているだけに居心地が悪くなってくる。
 それに気がついたのか、山之内君は鞄から折りたたみ傘を取り出した。
 私もそれを合図に、用意していた傘の留めていた部分を外して開く準備をした。
「その傘だよね、この間、僕に貸してくれたの」
 そういえば、そうだった。
 山之内君に貸した傘。
 彼もじっとその傘を見つめて、そしてまたニコッと微笑を返してくれた。
「じゃあ、帰ろうか」
「は、はい」
 私達二人が外に一歩足を踏み出したとき、赤と黒の傘が花のように開いた。
 雨の中、傘を持って並んで歩く。
 傘があるお陰で、私達の距離は少し離れても違和感がなかった。
 だけど私がちょっと恥ずかしくてあまり近くに寄れなかったところがあるけど……。
 緊張感が続いたまま、私はぎこちなく山之内君の隣を歩いていたときだった。
 彼が私に振り返り呼んだ。
「ねぇ、倉持さん」
 目が合って私はドキッとしてしまった。

「雨の日って傘を持たないといけないから、荷物が増えたみたいで不便だよね。僕は傘持つのあまり好きじゃないんだ」
「でも、持たないと濡れちゃいますよ」
「傘を持つくらいなら濡れた方がいいって思うところがあるかも」
「山之内君って変わってるんですね」
「変わってるっていったら、倉持さんの方が変わってるよ。同じ年なのに敬語で僕に話しかけるなんて。もっと砕けて欲しいな。僕、敬語苦手なんだ。もしかして、倉持さんって国語得意?」
「あの、その、国語は好き…… ですけど、えっとその、母国語だからまだ勉強しやすい感じ……」
 なんだか話しづらくなってしまい、『です』をつけるかつけないかで葛藤しては、変な喋り方になってしまった。
 でも最後は『です』をつけるのをやめた。
 これでいいのだろうか。
 山之内君の顔がまともにみられない。
 山之内君の反応が返ってくる間、傘から垂れる雨の滴が静かに滴っていくのを見ていた。
 ドキドキとぽたぽたが同じリズムのような気がしてくる。
「それじゃ好きな科目は何?」
「英語…… かな」
「英語か。僕も好きな方かな。いつか一緒に勉強しようか」
「えっ、あっ、はい」
 健全で高校生らしい会話ではあるが、一緒に勉強するなんて果たしてできるのだろうか。
 一緒に肩を並べて帰るだけでも息するのも必死というくらいなのに。
 また暫く会話がなくなって歩いていた。
 車通りの激しい道にさしかかり、そこに出ると前方に駅が見えてくる。
 同じ制服を着た沢山の生徒が色とりどりの傘を差しながら、駅をめがけて歩いていた。
 私達もその中の二人だが、友達同士で楽しく帰っている人たちとは何かが違っているように思えた。
 どこかよそよそしいというのか、意識しすぎて肩の力が抜けずにこわばっている。
 でもそれは私だけだった。
 山之内君は余裕タップリにリラックスしていた。
「倉持さんって、出会ったときとなんかが違うね。傘貸してくれたときはすごく積極的だった風に思えたけど」
「あの時は、その、雨が降ってたから……」
 自分でも間抜けな答えだと思っていたが、上手く言えないであたふたしてしまう。
 山之内君はそれを楽しむような笑いを私に向けた。
「今も、降ってるけど」
「そうじゃなくて、その濡れたらいけないなんて思ったから、傘を渡すのに必死だったってことなんだけど」
「そっか、じゃあ、こうしよう」
 山之内君はいきなり自分の傘を閉じた。
 まだ雨は降り続いているのに、まるでシャワーを浴びるかのように顔を上げて雨に濡れる事を楽しんでいる。
「山之内君、濡れちゃうよ」
 思わず私はびっくりして、彼の頭に傘を覆った。
「はい、相合傘となりました」
 突然奇妙な事をして、愉快に笑ってる山之内君が、何を考えているのか全く掴めない。
 私が唖然としたままでいるのに対し、山之内君は愉快に笑っている。
 そして私が持っていた傘を分捕って、山之内君が変わりに私の傘を差してくれた。
「あっ」
 驚いて、口がポカーンと開いたままになってしまう。
 雨の中、傘についた沢山の滴も戸惑うように傘から滴り落ちて行った。
「こういうのもいいね。雨も悪くないかも」
 無理やり一つの傘を二人で使う。
 山之内君との距離がぐっと近くなってしまった。
 駅はすぐそこに迫ってたから、相合傘もすぐ終わったけど、一体山之内君は何を考えているのだろうか。
 私は驚きすぎて、暫く黙ったままになってしまった。
 それでも山之内君はペースを乱さずに、何事もないように普通に歩いている。
 時々視界に入ってくる、傘を持つ山之内君の手。
 握った時に浮き出てくる骨がゴツゴツしていたのが男っぽく感じてしまう。
 山之内君のペースに乗せられ、目にする光景全てに意識しすぎて、私の中の感情も高まって行く。
 雨もそれに合わせて激しく降っては、心乱れるように傘から滴がどんどん落ちていった。
 駅の中に入ると、私の傘をしぼめ、そして返してくれた。
「こうでもしないと、倉持さんと近づけないような気がしたんだ。そんなに僕のこと敬遠しないで欲しいな」
 私は傘についた雫を控えめに落としながら、傘を纏めていく。
「敬遠してないけど、初めて話すからその、どうしていいのかわからなくて」
「初めて? えっ、そんなことないだろ。全く知らない仲じゃないじゃないか」
 傘を貸したときに言葉を交わしたけど、あれくらいではやっぱり知らない仲だと私は思っていた。
「倉持さん、僕の顔をしっかり見て」
 山之内君は腰を曲げて私の顔のまじかによってきた。
「ちょ、ちょっと近づきすぎ」
 思わず仰け反ってしまったが、山之内君はちょっと困った顔をしていた。
「なんか自信なくすな。僕の顔をほら良く見てよ。倉持さんこういう顔どう思う?」
「どう思うって」
 そんなのかっこいいに決まってるじゃない。
 だけどストレートに言ってよいものか、つい言葉につまってしまった。
「まあ、いいや。どう思われても。とにかく、僕は倉持さんとこうやって話したかったし、近づきたかった」
 これは一体どういう意味なのだろうか。
 傘を貸したばかりに、なんでこんな展開になるのか。
 山之内君は相変わらず無邪気に笑っている。
 その笑顔が私のツボにはまってしまった。

 ホームで電車を待っている間も、山之内君の側にいることが落ち着かず、視線は向かいのホームで電車を待っている人たちに向けていた。
 自分達と同じ制服を着た生徒が、友達同士で固まったりしてるから目立っていた。
 私も向こうのホームから誰かに見られているのだろうか。
 山之内君と二人で並んでいたらどのように思われているのか、想像したら正直ちょっと優越感みたいなものが少し湧いた。
 自分でもバカバカしいと思っていても、やっぱりトキメキが狂わせてしまっているようだった。
 雨は相変わらず止まずにしつこく降り続いている。
 全てのものが雨に濡れたせいで、辺りの色をより一層濃くして暗さが深まっているように見えた。
 湿っぽく、そこに冷たい空気が混じると、肌の体温を奪われて、少しだけ肌寒く感じてしまう。
 傘の柄を持つ手先がひんやりとしてかじかんで、山之内君の隣にいたから益々緊張して強張っているように思えた。
 山之内君も静かに線路に降り注ぐ雨を見ている。
 架線からは雨の滴が休むことなく滴り、しとしとと降る静かな雨の音が聞こえてくるようだった。
 電車の案内をするアナウンス、そして軽やかなリズムを持ったメロディが流れると、周りの乗客たちは乗り込む準備に入ってそわそわと動き出した。
 私も「電車がきたね」と山之内君と顔を合わせた。
 山之内君は静かに口元を上向きにして愛想良く応えてくれた。
 電車がホームに到着しドアが開くとまばらに客が降りて、その後を山之内君が先に乗った。
 私は山之内君の少し濡れた肩を見つつ、ついていった。
 暫くしてドアは閉まり電車がゆっくりと動き出す。
 毎日乗っている電車だと言うのに、この日は違ったものに見えてしまうから不思議だった。
 電車の中は学生と一般客が交じり合って、そこそこ混み合っていた。
 座るところがなかったので、私達はつり革を持って並んで立っていた。
 濡れた傘を誰もが持ってるせいで、電車の床は傘から垂れる雨の滴で濡れている。
 人も持ち物も雨で湿っぽくなっていた。
 山之内君の前髪も、少し濡れているが、こういうのは雨に滴るいい男というのだろうか。
 その前髪を指先で少しはらい、山之内君は前方の窓から見える景色を見つめながら言った。
「この辺りは、新しいビルやマンションが建ってるね。昔はもっと寂れて田舎っぽかったのに」
「あれ、山之内君ってこの辺りに詳しい人なんだ」
「そんなに詳しくもないけど」
「でも私の近所には最近引っ越してきたんでしょ」
「どうして? なぜそう思う?」
「だって、昔から近所に住んでたら小学校や中学校は同じだったと思うから」
「僕の家は昔からずっと倉持さんと同じ町にあるけど」
「あれ、そしたら学校は私立かどこか違うところだったの?」
「まあ、そういう事になるのかな」
 山之内君は何気に視線を私からそらし、窓からの流れる景色をじっと見つめていた。
 私も同じように前を見る。
 窓には雨の滴が横殴りに激しく流れて行くのが目に入った。
 不意に黙り込んだ山之内君とその流れて行く雨の滴が少し不安にさせる。
 その先はあまり聞かれたくないのだろうか。
 それを察して私もその話はしなくなった。
 会話が途切れたことで少し落ち着かなくなり、違うことを聞いてみる。
「山之内君は高校生活に慣れた?」
「うーん、まだちょっと慣れないんだけど、でも入れてよかったと思う」
「もちろんそうだよね。私もそれは思う」
 高校に入るまではそれなりに受験勉強をしたし、一応進学校として知られているから、難関を突破した方だと思っていた。
「何か部活とか入る予定はないの?」
「部活?」
「山之内君だったら、背が高いからバスケとか、バレーボールとか」
「そうだな、できたらフットボールとかやってみたかったかも」
「フットボール? もしかしてラグビーのこと? でも私達の高校ではやってないみたいだね」
「そうだね。山之内さんは何か部活する予定あるの?」
「私は自分の時間が欲しい方だから、考えてないの。時間があったら本が読みたいし、あとは英会話とかにも通いたくて、ちょっと考えているところ」
「そっか」
 山之内君は笑っていた。
 その笑顔を見て、ほっとなった。
 その後は、どんな本を読んでるのか聞かれたけど、恋愛ものが好きともはっきり言えずに、適当に最近読んで、尚且つ一般でも良く知られている有名作家のベストセラーを出しておいた。
 山之内君は知らなかったのか、タイトルを聞いてもピンとこなかった感じだった。
 あまり読書には興味がないのかもしれない。
「僕も本を色々と読んだ方がいいかも。読解力つけなければ」
「そんな難しく考えることないと思うよ。好きなものを読むのが一番いいと思う。時間を忘れさせて惹きこんでくれるような本だと、ほんとに読んでて楽しいし」
「なんかお薦めある?」
「『新世界より』っていうのがすごく面白かった。持ってたら貸してあげたいんだけど、私、図書館で借りちゃって」
「そっか、そしたら僕も今度読んでみる」
 無難に本の話題は助かった。
 本は結構よく読む方だし、好きな本の話をするのは楽しいし、それを人に薦められるのも嬉しい。
 山之内君は本の話をしっかり聞いてくれて、時々突込みまで入れて、少し打ち解けた感じだった。
「山之内君はどんな本が好き?」
 私も質問してみた。
「僕は、あまり読まなかったから、よくわからないんだ。これから頑張って色々読んでみるよ。読むのって結構苦手なんだ」
 もしかしたら、私の話に無理に合わせてくれていたんだろうか。
 私ばかり、好きな話題だから、つい喋りこんでいたかもしれない。
 自分がでしゃばったことで、山之内君は気分を害してないだろうか。
 いちいちこういうことでも気になってしまう。
 恐る恐る顔を覗き込んで見れば、山之内君は笑顔になって向き合ってくれた。
 山之内君の笑顔を見るのは好きだし、その顔にどこか親しみを感じて、昔から友達のようなリラックスした気分になっていくようだった。
「もっと君の好きな本教えて欲しいな。話を聞いていたらとても楽しい」
 そういう風に言われると、益々心が軽くなって、自然と笑みがこぼれていく。
 山之内君と話していることがすごく楽しく感じられた。
 一度電車を降りて、そして乗り換える。
 住んでる街が同じなので、そのままずっと山之内君と肩を並べて歩く。
 自分達の町の駅に着くまで、ずっと一緒だった。
 同じ駅で降りた沢山の人たちに紛れて、私達も改札口を出ていく。
 駅周辺は少し広々とした空間に、石でできたベンチが数個ポツポツと置いてある。
 正面は大通りに続く道が伸び、その左右には小さなお店が並んでいる。
 こじんまりとはしているが、町の玄関ともいえる賑やかさは少し備えていた。
「僕の家はこっちの方なんだ。ここまで自転車で通ってる」
 私とは反対方向を指差していた。
 駅のすぐ隣にある駐輪所に山之内君は自転車を預けている。
 ここまで自転車で通っているところを見ると、結構駅から遠い感じがした。
 私は徒歩10分くらいなので、いつも歩いてこれる。
「雨の日は、自転車だと大変だね」
「まあね。多少濡れても気にしないけど、よほどの雨のときは母に車で送り迎えしてもらうよ。さすがにずぶぬれになったら困るからね」
 私と家が反対方向と知ったその時、ふと私はなぜ山之内君が自分の家の近所を歩いていたのか気になった。
「そういえばあの時、どこへ行くつもりだったの?」
「えっ、あの時?」
「私の家の前で会った時」
「ああ、あれは、その……」
 山之内君は言うのを躊躇っている感じだったが、その時後から「よぉっ」と馴れ馴れしく誰かが声を掛けてきた。
 その声に咄嗟に反応して、私が振り返ると、見たことのあるような男の子がニタニタとしたわざとらしい笑顔を見せて立っていた。

「やっぱり、そうだ。なんか久し振りだな、倉持」
 自分とは違う制服。
 やや下がり気味のズボンにネイビーカラーのブレザーを着た、茶髪の男が自分を見ていた。
 崩れた着方をしているところがちゃらちゃらした軽さが出ている。
 見たような気がするが、私が思い出せないできょとんとしていると、露骨に顔を歪めだした。
「ちぇっ、しかとかよ。やっぱその制服を着ている奴らは頭がいい事を盾にお高くとまってるんだな」
 嫌味っぽいその言い方は、性格が悪そうに思えた。
 その男の子は山之内君もチラリとみて「ケッ」と小さく吐き出していた。
「お前、勉強できるくせに、記憶力ないってどういうことよ。俺のこと思い出せないのか、小学1年の時に同じクラスだっただろ」
 小学一年の時に同じクラス?
 そんなのぼんやりとしか覚えてないし、あの時、担任の先生が事故で怪我して数週間入院となり、一時期早急措置として他のクラスに振り分けられた事があった。
 すごくバラバラになって、クラスに誰がいたのかごっちゃになって、あまり覚えてない。
 でも確かに見たことはあるような顔だった。
「池谷瑛太だよ。中学も同じだったのになんで覚えてないんだよ」
 そういえば、なんとなく思い出した。
 クラスは違ったし、話したこともなかったし、どうして今更声を掛けてくるのかわからずに、きょとんとしてしまった。
 同じ学校に通っても、私には全く関係なかったから、池谷君に声を掛けられてもピンと来ない。
「まあ、いいけど」
 口ではそういいつつも納得行かない不満さを隠せず、池谷君は軽く舌打ちをした。
 そこでまた山之内君の事をちらっと一瞥していた。
 私が山之内君と一緒にいるのを気にしているように思えた。
 山之内君も居心地悪いのか、突然現れた池谷君に対して様子を見るような顔になっていた。
「なんか俺、邪魔したみたいだな」
 別に邪魔ではなかったが、池谷君が声を掛けてきたことの意外性が強くて私はどう受け答えしていいかわからなかった。
 私が上手くその場を仕切りきれなかったばっかりに、山之内君もどうしていいのか分からず居心地悪くそわそわしていた。
 そこを面白がるように池谷君は初対面にもかかわらず、山之内君に近寄ってわざとらしく顔を突き出してじろじろと見つめた。
「ちょっと池谷君、それ失礼でしょ」
「別にいいじゃん、じろじろ見たって、減るもんじゃなし」
 山之内君はそれに耐えられなかったのか、かなり落ち着かず後ずさりをした。
 そして突然我に返って言った。
「ぼ、僕、それじゃこっちだから、また明日学校で」
「や、山之内君!」
 私が呼び止めるも、山之内君は手を振って、そして傘を差さずに雨の中を隣の駐輪所まで走っていってしまった。
 もしかして、なんか誤解しているんじゃないかと思うと、池谷君の登場がすごく不快になった。
「倉持、もしかして今の奴と付き合ってるのか?」
「そ、そんなんじゃない。ただ一緒に帰ってきただけ」
「そっか、それならよかった」
「何がいいのよ」
 ついつっけんどんになって答えてしまった。
「おっと、なんか怒らしちまったようだな。まあ、こうやって話をするのも久し振りだから、なんか懐かしい」
「何が懐かしいのよ。私、池谷君と話しなんてしたことなかったけど」
「だから、小学生のときに」
「そんな大昔のこと覚えてないわよ」
「なるほど、そうだろうな」
 池谷君は急におかしそうにして笑い出した。
「何がおかしいのよ」
「すまない、ちょっと思い出し笑い」
 私はなんだかとても腹立たしくなってしまう。
 一刻も早く帰ろうと、傘を開きかけた。
「この雨、鬱陶しいな。俺さ、傘持ってないんだよね。途中まで入れてくれよ」
「今日は絶対雨が降るって天気予報でもいってたのに、なんで傘もってないのよ」
「実は、帰りの電車の中に忘れてきちまってさ」
 見るからにだらしのないイメージがしたが、その話を聞いて私の中で池谷君を見下してしまう。
 高校生活が始まったばかりなのに、茶髪にしてすでに制服を着崩しているところは高校生活を舐めているようだった。
 私が呆れてため息をつくと、池谷君はいきなり私の傘を奪った。
「ちょっと、何するのよ」
「傘に入れてもらうんだから、俺がもってやるよ」
「ちょっと待ってよ」
 池谷君は傘を開いて、顎をしゃくって来いと命令している。
 先に歩かれると、後をつけないわけにはいかない。
 それ、私の傘だから!
 納得がいかないまま、私は池谷君と一つの傘の中で歩くことになってしまった。
 いくら小学校、中学校が同じでも、あまり話した事がないし、いきなり名前を呼ばれて声を掛けられるなんて私の中ではありえないことだったのに、どうしてこんなことになるのか、さっぱり訳がわからなかった。
「倉持って、高校生になって、一段とかわいくなったな」
 私が機嫌を悪くしているから、お世辞を言っているだけにしか聞こえない。
「お前さ、昔から結構モテてたよな。でも頭いいし、お高くとまってる感じがして、俺の周りの友達はなかなか声を掛けにくいって言ってたぜ。それに勇気を出して告白した奴は全て振られてるから、益々高嶺の花だとか言ってたな」
「そんなの知らないわよ」
「さっきの男もお前を狙ってるんじゃないのか」
「だから違うっていってるでしょ」
「でも、すげーカッコイイじゃないか。男の俺の目からみても、あれはイケメンだ。倉持と同じ制服着てたし、もちろん頭もいいんだろうな」
「あのね、山之内君とはただ訳があって、話をしてただけなの」
「なんだよ、訳って」
「それは池谷君には関係ないことなの。ほっといてよ」
「倉持ってなんか性格きつそうだな」
「はいはい。なんとでも言って下さい」
「お前さ、もう少し、俺に優しくできないのか。俺って結構健気でいい奴だぜ」
「自分で言ってたら世話ないよね」
 私はよくも知らない相手とこんな事を言い合いしているのが不思議でならない。
 腹も立っていたこともあり、どうしても攻撃的になっていた。
 傘が一つしかないので、仕方なく隣を歩いているが、距離感も近いこの状況で自分の感情をむき出しにするのも違和感があった。
 池谷君の顔を見れば、見上げるくらいのその身長の高さに圧倒される。
 山之内君も背が高いと思っていたが、池谷君の方がひょろりとして細いだけに余計に高く見えた。
 かっこつけて笑う池谷君に見下ろされると、私の頬は攻撃をされて身を守るふぐのように膨らんでしまう。
「その、山之内って奴には、俺なんかと違って優しく喋るんだろ。山之内が騙されてないといいけど」
「何を一体騙す必要があるのよ。山之内君から一緒に帰ろうって誘われただけで、今日初めて話したくらいなんだから」
「でも俺の顔見て、慌てて帰っちまったな。なんか俺にビビって逃げた感じにも見えた。もしそうだったらなんかちょっとショックかも」
 何がショックだ。
 実際いちゃもんつけそうな態度で迫っていったくせに。
「池谷君って、茶髪だし、制服も着崩れしてるからかかわりたくなかっただけよ」
「おいおい、外見で勝手に俺のこと決め付けるなよな。俺だってそれなりに精一杯生きてんだから」
 少しむっとしたように、怒った目つきを私に向けていた。
 それから暫くは言葉なく、黙って歩いていた。
 雨は細い糸を散りばめるくらいに弱くなっていた。
 私の家まであと少しのところでふと気がついた。
「池谷君の家ってこっちだったの?」
「うーん、ちょっと遠回りなんだけど、こっちからでも帰れないことはないから」
「それって、私の家がどこにあるか知っててわざとこっち歩いてたってこと? なんで私の家知ってるのよ」
「ふふーん。なんでだろうね。結構俺、倉持のこと知ってるぜ。よく図書館に通ってることや、近所のスーパーに買い物いくこととか」
「ちょっと待ってよ。それってもしかしてストーカーしてるの?」
「ストーカー? そういう訳じゃないけど、良く見かけるってことさ。あっ、もしかして、俺が倉持に惚れてるって思った?」
 私は答えに詰まった。
 自惚れていたわけではないが、突然声を掛けられ、相合傘まで無理やりされて、自分の情報を知られているとなると、普通そう考えてしまう。
 顔を歪めてはいたが、私は何も言えなかった。
「ふふーん、やっぱりそうか。だったらさ、俺たち付き合っちゃおうか? 俺、結構尽くすタイプだぜ」
「ちょっと、待って。それはお断りします」
「ちぇっ、つれないな。でもいいや。俺何度でも倉持にアタックしちゃおう。そのうち俺に惚れてくれるかも」
「そんなことあるわけないでしょ」
 雨は知らずと止んでいた。
 もう少し進んだ先の角を左に曲がればすぐに私の家があった。
 その手前にも左右に分かれる道がある。
 丁度その場所で、池谷君は立ち止まった。
「ラッキーなことに雨も止んだし、傘返すよ。ありがとうな。俺、こっちだから」
 開いたままの傘を私に押し付け、池谷君は右の道を指差していた。
「そうそう、折角知り合ったから、山之内君とやらに今度三人で遊ぼうぜって、宜しく言っておいて」
 自分の冗談を楽しんでいる軽いノリで、息が漏れるようないたずらな笑いを添えていた。
「なんで池谷君が入って、一緒に遊ばなくちゃならないのよ」
「遊びがダメなら、勉強でいいや。二人とも頭がいいんだから色々教えてもらえると嬉しいぜ」
 その時一瞬見せた思いっきり笑う表情は、小学生の時の面影を思い出したような気になった。
 私は肩で傘を支えながら池谷君をじっとみていた。
「そういえば、なんか思い出すな」
「何をよ」
 池谷君が面白そうにクククと笑う。
 何がおかしいのかと首を傾げていたその時、不意をついて池谷君が腰を屈めて私に近づいてきた。
 その後は一瞬の出来事で私を覆っていた傘の中に顔を突っ込み、私の頬に軽く彼の唇が触れた。

「ちょっと、何すんのよ」
 私はびっくりすると同時に腹が立って、無意識に片方の手が上がって今にも突っかかりそうにキーっとにらみつけた。
 池谷君は、咄嗟の私の反撃に驚き、お手上げと言わんばかりに両手を前に出して及び腰に仰け反った。
 それでも余裕でヘラヘラと笑っているところが、益々腹立たしくなる。
 辺りは民家が並ぶ、人も車もごっちゃに行き来するような道路で、人通りがなかったことだけが唯一、不幸中の幸いだった。
 こんなことを近所の誰かに見られていたらどんな噂が立つかわからない。
 私は辺りをキョロキョロして人がいないことを確認する。
 そしてハンカチをポケットから出して、何度も頬を拭いた。
「おいおい、まるでばい菌扱いだな。俺、これでも結構女にはもててるんだぜ。割とイケメンだって中学では評判だったの知らないのか?」
「知るわけないでしょ。池谷君のことなんて全然眼中になかったし、全く記憶にありません」
「そこまでいうか。まあ俺のこと男として見ていないから、俺、倉持のこと結構好きなんだよね。周りに左右されずに自分の意見が言えるというのか、気が強い ところとかも。他の女は猫被ったりしてさ、俺がちょっとしゃべるだけで目の色変えて気があるなんて思って舞い上がるから、やり難くてさ」
「池谷君って見た目通りにチャラチャラしてるのね」
「もしかして、俺のこと蔑んで見てるんじゃないの? 俺、こんな制服着てるからどこの高校かも分かってるんだと思うけど、一応そんなに悪くないぞ。結構普通な方だと思うぜ」
「別にどこの高校行ってたって、そんなの関係ないわよ。ただ、無理やり頬にキスするなんて酷いじゃない」
「何を今更。俺、倉持にキスしたの初めてじゃないぜ」
 その時、私は「ん?」と一瞬声が詰まった。
 そして思い出したように、思いっきり「えー」っと嫌悪感タップリに声を上げてしまった。
「あっ、もしかしてそのことは覚えていてくれた? 小学一年生の時、雨の日に俺がキスしたこと」
「うそ、あの時、私にキスしたのって、池谷君だったの?」
「うん。そうそう。俺!」
 ニコニコとした笑顔を池谷君は振りまいていた。
 曖昧だったあの時の記憶はやはり本当に起こったことだった。
 今まで誰にも話した事がなく、私しか知りようのない過去の記憶を、池谷君も知っている。
 それはまぎれもなく、池谷君が真実を述べているということだった。
 私は言葉を失い、口を開けてただ驚いた顔を池谷君に向けていた。
「俺たち、結構昔からすごい仲だったってことさ」
 胸を張って、口元をかすかに上向きにして、堂々と言い切っている。
 かっこつけていうような台詞か。
 軽々しく、生意気に、私を見下ろしている池谷君とは対照的に、私は体を強張らして固まって見上げている。
 ショックもあるし、これが現実に起こっていることだとは信じられなくて、どこかで否定できる要素を探していた。
「おいおい、難しく考えないでもいいじゃんか。俺たちただ仲良くしてさ、時々一緒に時間を過ごして楽しもうっていうだけじゃないか」
 私は池谷君の目をじっと見ていた。
 でもその目はどこか落ち着かず、瞳がぐらついたように泳いでいる。
 私が何を言うのか不安になっている様子にも見えた。
 だけど、その目からは私を真剣に思う気持ちなど微塵も感じられず、これはからかわれているとなぜかそう感じ取った。
「池谷君。起こってしまったことは仕方がないけど、池谷君は私のこと本当に好きじゃないんでしょ。ただ遊びでからかってるだけなんでしょ」
「あれ、なんでそう思うかな。まあ、結構自分の気持ちを表現するのは下手くそだけど、俺は本当に倉持と付き合いたいなって思ってるんだけど。倉持ももっと柔軟になった方がいいよ」
「お断りします。それと、もう二度と私に近づかないで」
「あれれ、それは無理だわ。俺はもっと倉持に近づきたい。しかし、今日のところは帰る。俺諦めないから。そんじゃね」
 池谷君は手を振って、そして走って行ってしまった。
 私は一人取り残され、すでに雨はやんでいるのに、いつまでも傘を差していた。
 頭の中はただこんがらがるばかり。
 山之内君に誘われて、ドキドキとしながら帰ってきたら、今度は池谷君が現れて付き纏われ、そして頬にキスされた。
 混乱を招いている中、一つだけはっきりしたのは、過去のあの出来事が実際に起こったことで、その犯人が池谷君だったこと。
 それでも、今更そんなこと言われても、やはり困惑の何ものでもなかった。
 私は力果てて倒れそうになるくらい、フラフラとしながら歩いていた。
 雨が止んで、空が明るくなりだし、それでもまだ傘をさしたままだった。
 傘に日が当たると透けて見えるが、そこにいくつもの水滴が影を作って、水玉模様に見えた。
 陽の光にはっとして、傘を閉じれば、雨の雫が下に向かって流れて行く。
 ぽたぽたと傘の先から落ちるのを見れば、自分もなんだか泣きたくなってくるようだった。
 泣くほどのことではないが、この日の事をまた忘れたいと強く思う。
 しかし、山之内君に声を掛けられて一緒に帰ってきたことまで忘れるのは少し勿体無かった。
 なぜそう思うのか。
 山之内君はすでにアイドルとなって学年では人気があるから、そんな人に声を掛けられて優越感が発生したのかもしれない。
 自分もミーハーだと思うと、ふっとため息が出てくる。
 でも山之内君を見るとなんだか、ピピピと感じるものがあるというのか、私の好みってことなのかもしれない。
 私は、気を取り直して、空を見上げた。
 そこには薄っすらと消え行きそうな七色の光が浮かんでいた。
 住宅の屋根が密集していて、それが視界の障害となって、全てが奇麗に見られなかったが、虹が顔を出してくれたお陰で、幾分かそれに励まされ、前向きに考えてみる。
 池谷君とは近所だけど、学校が違うからそう会う事もないはず。
 無視すればいいだけ。
 高校生活は始まったばかりなのだから、こんなことで負けてはいられないと、私はさっさと歩き出した。
 家に入る前にもう一度、虹を見ようとしたが、密集して立っている建物が邪魔で、虹が出ている空は見えなくなっていた。
 その代わり、電線にはたくさんの雫がついていて、それがぽたりと落ちたのが見えた。