(序) 母の物語


 一旦帰国して。シングルマザーとして産む道を選んだ。

 なぜなら彼女の祖国は、単親(ひとりおや)に優しく。
 養育費用は支給されるし、保育施設も無料で使えるし。
 育児中でも短時間の仕事がみつけやすいし。
 そして、『欠損家庭』への差別や蔑視や攻撃などもなく。
 何より治安と経済が安定していたからだ。

 そうでもなければ。
 誰が好き好んで。

(あくまでも、今のところはまだ内縁の、ではあるが…)
 夫であり、最愛の恋人であり半身ですらあるひとを、置いて。
 一年だけ。のつもりとはいえ。ひとりで帰国したいなどと…
 考えるだろうか?

 しかし他国である日本にいたまま。
 単親を装って産むには色々な差別と経済的なハードルが高過ぎて。

 そして、父親の所在をしつこく追及されたとして。
 その彼が。
 滞在ビザ無しの。
 結果として不法就労中の存在であることを。

 知られるわけには…
 いかなかったのだ。

 彼女自身の心のなかでの名前は、すでにとっくの昔に人妻であり。

 『ヴェルドゥエラ・ラーディイー・デ・マーチャンドック・グリュエル=島田』

 というのが『正式な』フルネーム。
 のつもり。ではあったが。

 あえて『独身時代の旧姓』である『ヴェルドゥィユ・ラーディイー』だけのパスポートのままで。

 日本での研究職には『産休』を申請して。
 マタハラすれすれの厭味を言われながらも、なんとか受理されて。
 妊娠五ヶ月のおなかを抱えて。

 なんとか、帰国した。


     *


 そして母国で無料の産院のお世話になって。
 無事に生まれて。
 おかげで息子は欧州国籍のみを得て。
 徴兵制のある日本の戸籍には、編纂されずに済んだ。

 昼間は無料の保育施設に子どもを預けて普通職のパートタイムで働き。
 むろん短時間労働といえども正規社員と同等の時給を稼いで。
 いくらかの貯蓄もできて。

 これでまた物価は安いが治安も悪い、落陽国家である日本に。
 あえて戻って、愛する夫と共に、暮らせると…。

 新千歳空港で。
 迎えに来てくれた最愛の夫にしがみついて。

 お互いに泣いて泣いて…
 笑って。

 涙と鼻水まみれのままで、熱い篤い…濃厚な…

 キスを交わして…

 そしてまた。
 共に暮らし始めた。


     *


 夫『グルージー・マーチャント°ック・グリューエル=ロウデァー=島田』は、離れ離れのあいだ。

 気が狂うほどに心配で心配で…
 淋しかったが。

 妻(内縁の)が科して出発した課題、

「名前は日本語で考えてちょうだい! うんとムズカしいカン字で!
 そうしたら私、日本語の書道にチャレンジするわ! その字がすらすら書けるようになるように!」

 という難題に。

 うんうんう~ん…??
 …と、頭を悩ませているうちに。

「無事、誕生!」の報せが届いて。

 まずは一安心!と、…胸をなでおろした。

 送られて来た画像はとてもキュートな…??

(…えッ??)
 真っ赤っか~で…!
 黄色い粉をふいた。…!?

 まるで、ポテトの煮崩れたような…
 ものすごい…
 モンスターのような…
 御面相で…

 哭き喚いていて…!!!?

 思わず心配になって!
 周囲の子どものいる家庭に見せては相談してまわったが…

 親たちはけらけらと笑って。
「一ヶ月もすれば、ちゃんと人間に見えるようになるから大丈夫!」と、
 保証して、くれた。

 矢継ぎ早に、妻と妻の親戚や共通の友人たちから送られてくる画像は。
 妻が満足そうな笑顔で順調に授乳できており。
 モンスターは日ごとに地球人らしい美男子に成長しつつあると。

 絶え間なく知らせてくれていたので。
 やっと安心して。

 考えに考えて、周り中をまきこんで、大騒ぎして決めた…
 名前を。
 伝えた。

『 瀧人(ターキシュテ)・マーチャント°ック=ラージィイー・グリュエル=島田 』

「日本語式だと『 島 田 瀧 人 』(しまだ・たきひと)だよ?
 わかる? 読める? …書けるように、なれるかな…??」

 添付メールで拡大して送った。
 その『 瀧 』という画像の。
 漢字の画数のあまりの多さに!
 遠い異国の地で妻は大笑いして。

 それから大げさに泣きまねをして、叫んだ。
『なにこれ! イジメですか~~~ッ?』
『自分で難しい漢字にしろって言ったんじゃないか!』

 そんな痴話喧嘩をしているうちに。
 息子はすくすくと元気に育ってくれて。

 地元の…
 空港で。

 ようやく!
 家族が!

 初対面と!
 再会と…!

 また、揃った…!!!!!!!


     *


 それからの暮らしは順調とは… 言い難かったが。

 妻は職場復帰後の厭味の嵐と閑職左遷に耐えねばならなかったし。
 日本の公的保育園は、働く外人女の。
 高給取りシングルマザーの子どもの受け入れを拒否したし。

 様子を診に来た地域の保健師には、危うく実の父親が。
 不法就労の脱法難民だと、ばれそうになったり…!
 したし。

 子どもは順調にぐずるし暴れるし怪我するし病気もするし夜泣きもするし…

 色々と大変では、あったが。

 それでも爆睡する赤ん坊と添い寝のまま寝堕ちする少しやつれた妻の姿を。
 すぐ間近に眺めれば。

 離れ離れで暮らす日々に比べれば。どれだけ幸せか…と。

 安い缶酒を毎週末に一本だけ、と。
 自分にささやかすぎる贅沢を許して。

 グルージーは。
 幸せをかみしめた。

 もはや、自分の元々の国籍や。
 血縁者がどこの誰なのかも分からなくなってしまった…
 複数種族難民間記録欠落混血孤児、と呼ばれる。

 生まれながらにして無国籍者の。身にしてみれば…

 家族。というのは。
 ただ、この小さな宝箱のなかの…

 広い天蓋のしたに。三人だけ。

 だったので…


     *


 平穏な日々は。
 しかし長くは続かなかった。
 天地鳴動して大震災が起こった。
 家屋は潰れたが、家族は無事だった。
 職場は崩壊したが、命と身体は無傷で済んだ。

 …よし!
 きっと! また!
 幸せに…! なってみせるぞ…!!

 夫婦は寄り添って赤ん坊を温めて。
 臨時の避難所の寒い片隅で、
 眠った。


     *


 避難所レベルでは。
 躊躇なく、受け入れられた。

 夫婦ともに日本語はぺらぺらだったので。
 意思の疎通には不自由がなかったし、

 なにより赤ん坊!を連れているという一点で。
 少子高齢化が深刻すぎる状況の、過疎の寒村においては。

 歓迎来臨!というジジババの勢いだったからだ。

 避難所に滞在している総人数と、性別や年齢や健康状態やを調べに来た、
 役場の人間だけが、いささか困惑した。
 名簿に記入しろ、とペンと紙を突き出した瞬間に。

 夫が真っ青になって冷や汗を書き、突然、
「わ… ワターシ、ニッポンゴ、わっかりませーーんっ …ねっ?」
 と。
 明らかに日本で生まれ育ったと知れる、流ちょうな日本人なまりの。
 典型的な『ニセ外人』ぶりで…
 叫んで、回れ右して。
 脱兎のごとく逃げ出した…からだ。

「…ワタシハ、欧州人デース。大使館ニ!連絡シテクダサーイ!」
 その妻と思しい人物も、かわいらしい赤ん坊を、きつく抱きしめたまま。
 …いざとなったら…

 夫を護って闘う!

 と。
 敵意を満々とたたえたキツイ眼をして睨んでくる。

「…いや、え~と。あの…」
 役場といっても戸籍担当ではなく、保健所の人間であったので。
 そしてこの北の涯の海際の土地では、実際「よくある話」であったので…。

 海の向こうの大陸を割拠していた、昔日の幾つかの大国では。
 相次ぐ人災や天災や戦災やによる、
 各国からの大量に流入して来る国際避難民たちと。

 深刻な旱魃や森林火災や水害や冷害による不作で。
 都市へ『出稼ぎ』に流れ出た、
 大量に過ぎる無届けの国内移民たちと…

 独裁的な政治に『反抗した』思想犯たちと。
 治安が悪化の一途をたどる中で次々と逮捕され裁判の暇すらない、
 大量の刑法犯罪者たちと。

 さらには『劣等人種』と勝手に烙印を捺され
『民族浄化』の対象と定められてしまった、
 少数民族や、先住民族たちを。

 それぞれ、ろくに区分することもなく。
 ごった煮のぎゅう詰めにした『収容所』という名の『強制労働所』で…

『過酷な環境下で、死ぬまで働かせる』という。
 緩慢して残虐な。『労働死刑場』にて。

 まさに。『飼い殺し』にしていた。

 そんな場所で。
 親の国籍も判らず片隅に生み捨てられる『混血児』たちや。
 親に死に分かれて自らの名まえも分からぬ、幼い孤児たち。

 名簿に載らないその人数を、攫い出して来ては。
 何やかやの目的で『売りさばく』組織や。

 あるいは自力で逃げ出して、ボロ船を盗んで。
 命からがら、こちら側の島国の海岸に流れついて。
 言葉もわからぬままに…

 ひたすらに。
 怯えて。

 ただ、拾われたら、その場所で。
 衣食住と、安心?…さえ。
 与えられれば。

 給料など、
 権利や休日など。
 要求しもせずに。

 無給の無休で。
 よく働く。

 …そういう、
『激減した若年労働力を補うための』
 ナイショの。

 働き手。が…

 あちこちの。
 へき地の牧場や、寒村の、漁港に。
 なかば公然と、点在しているのは…

 役場も。
 黙認してきた…

 からだ。

 そしてそういう者たち同士のあいだで。
 さらに子どもが生まれて。
 それがまた大人になり、親になる。

 そういう、時代になっていた。

 日本で生まれて日本のことしか知らない。
 日本で働いて、日本で買い物ををしている。
 けれど。
 日本の戸籍がなく。
 世界のどこにも、居場所がない…

 そういう、子ども。たちが…


     *


 今ではそういう人たちを。
 捕まえたり罰したり、『本国』に強制送還したりという。
 悪しき習慣は。無くなりつつあってはいたのだが。

 それを説明する前に逃げ出した夫と。
 もはやすでに戦闘態勢の、妻を見て。
 小役人は、やれやれとため息をついて。

 一覧表には自分でこう書き込んだ。
「ことばの通じない外国人旅行者一家」(夫妻+乳幼児一名)と。

 それが、この家族が残した、ささやかな。
 唯一にして最後の。公的な記録となった。


     *


 役人が。
 へたくそなウィンクをして。
 笑顔で手を振って。

(名簿に書きこんだ内容をちらっとだけ見せて)
 立ち去って行ったので。

 夫妻は安堵して、避難所でのサバイバル生活を続けた。


     *


「…とぁー…… ッき! っとぉ!」
「え~違うぞ? おまえの名まえは、タキヒト。っていうんだぞ?」
「とあーきっと!」

「タキ、だってば。」
「とぁーき!」

「トァじゃなくて…タ!」
 むきになって修正させようとする夫を、妻は笑って止めた。

「どうもまだうまく『た』って言えないみたいなのよねー?」

「トアキじゃないよ~ぅ!」
「そのうち言えるようになるわよ~う!」

「トァー…キ…タ! …ック!」

「それ全然違うから!
『 瀧人(ターキシュテ)・マーチャント°ック=ラージィイー・グリュィーエル=島田 』だから!」

「まだ無理よ~ぅ…(笑 」

 そんな、日々だった。


     *


 記録的な大暴風&豪雨が襲った。

 避難所は、山々に囲まれた、山裾の。扇状台地の奥端に建っていた。
 とっくの昔に廃校になった、歴史的木造建築の、小学校の、旧校舎だ。
 続く震災で倒壊が危ぶまれたので、避難民は校庭にテント村を張ってそこで寝起きしていた。

 幸い、雨漏りはさほど酷くはなかったが。
 狂風で飛ばされたテントや、怪我人がいくらかは出た。

 雨が止んで。
 各所の土砂崩れで道路が寸断され。
 車では救援物資が運べないと、無線で連絡が来た。

 壮健を誇る農業や漁業や土木建築業で働いてきた男たちや女たちが。
 それではと。
 それぞれに、使いこんだ背負子やリュックを担いで。
 山越えの道をえぃやっと。
 歩いて。
 荷を受け取りに行った。

 夫グルージーも勇んで出かけて行った。

「待ってろよ、トァーキ! 美味いモンもらって帰って来るからなー!」

「んまー!」

 それが、最後になった。


     *


 避難所は、山々に囲まれた、山裾の。
 扇状台地の、奥端の。
 頑丈な岩盤が削られた、川床の。

 すぐ傍らに…
 建っていた。

 記録的な大豪雨が止んで、翌々日のことだった。
 ふと誰かが気づくと、谷筋を流れる小川の流量が。
 極端に、減っていた。

「…えッ …上流で、土砂崩れが… あったってじゃないべか…?」

 続いて。
 濁った泥流が…
 ひたひたと…
 谷底を…溢れんばかりに!

「山ッ! 崩れんでねぇべかッ?!」

 騒ぎが起こるより速く。

 どーーーーーーーーーーーん!

 …と。
 いわくいいがたい、巨大な轟音が。響いた。

「…崩れるッ!」
 そんな映像は。
 ニュースで何度も視ていた。


     *


 母は洗濯物を放り出して走った。
 走った。奔った!

「…ヤマツナーミ、てんでんこー! 」

 走りながら、まだ気がついていない人たちに。
 それだけ叫んで、伝えたつもりになるのだけが、精一杯。だった。

 校庭のはしの自分たちの天戸に駆けこんだ。

 ベビーサークルの真ん中で、赤ん坊は元気にひっくり返ってた。
 おむつは替えたばかりだ!

 とっさにひっつかんだゴミ入れ用の大きなビニール袋に。
 子どもを放り込んで。

 頭だけ出して、ぐるっと首のところで縛って。
 それをしながらとにかく駆けだして。

 扇状地からは、横に逃げないと!
 脇の山に、登らないと…!

 しかし。

 恐ろしい勢いで。

 山がひとつ丸ごと崩れたか。
 ひとつと言わず、ふたつみっつの山がまとめて崩れ落ちたのか…

 そうとしか思えない、大量の土石流が。
 すぐ。背後から。

 ものすごい高さで… 迫ってきていた!


     *


 母は走った。
 走った。
 奔った。

 子どもを抱えて…

 心臓が、破れるほどに!

(…あそこだ…! あそこなら…!)

 扇状台地の、真ん中に。
 一カ所だけ。高く突き出した、岩山と。
 元の一本松の、今は枯れて折れた…
 枝のついたままの、…高い、切り株がある。

(あそこだ…!)

 母は走った。
 奔った。
 奔った。

 何度も転んで。泥まみれになって。
 追いかけてくる泥流に、腰まで埋まって。
 必死で子どもを高く抱えて。

 走れなくなって…
 もがいて…
 泥の中を、
 泳いで…!!

 岩山の裾に!
 ようやく!
 辿り着いた!

 泥が胸まで届いた!
 すぐに首まで埋まった!

 高く!
 高く!

 子どもを… 差し上げた!

 届いて!
 届いて…!
 届いてぇェ…ッ!!!!

「お願い…! お願い…ッ!!」

 子どもに着せたビニール袋を。
 なんとか。

 松の枯れ木の…
 その…
 枝に…ッ!!!!!

「お願いーーーーーーぃぃぃぃぃ…ッ!」

 涙ながらに。

 口元まで、泥に埋まりながら…

 叫んだ。


「 おねがいーーーーーーーーーーッ! 」


 …その、時。


「 … わかった … 。」


 誰かの声を。

 母は。

 たしかに、聴いた。


 一陣の。
 にわかな…突風が。

 吹いて。

 とっくに折れて枯れて、
 固く、干乾びていたはずの…
 松の、枯れ木の枝が。

 ぐいんと。
 しなった。

 赤ん坊の首に結んだビニール袋の
 結び目を。

 枝が。
 ぐいんと。
 引っかけて…

 上へ。
 引いた。


     *


 泥は、もう、母の。
 目を覆うばかりの。
 高さに来ていた…

 母は。
 そのまま。
 流されて…
 埋もれた…

「元気でね! トァーキ!
 元気でねぇぇぇぇぇえ……ッ!!!!」

 それが。
 赤ん坊が。
 覚えていた。

 青い…空の。

 母の。
 最期の…。


     *


 最愛の半身である妻を喪った夫でもある父が。

 失われた息子と。

 遠く離れた場所で。

 再会を、果たすのは…

 それから、長い長い…

 歳月が。
 過ぎた後の。
 話になる…。


     *


 号泣の彷徨と。
 困窮の流浪の。
 果てに…

 一枚だけ。

 家族三人の。

 あらたまった笑顔の…
 画像がのこる。

 でかい眼で、にぱりと笑っている。
 片方の前歯がようやく生えかけたばかりの。
 ぽやぽやした褐色の淡い柔らかいクセ髪の。
 肌の色も(日本人のなかにいると)
 やや薄めの赤ん坊と。

 大事そうに胸に抱く母は。
 渦巻く豊かな黒髪を腰まで長く伸ばして。
 少し古風な、民族風の衣装を身につけて。
 印欧アフリカ&アジアの複雑に入り組んだ混血のもたらした、
 奇跡的なほどに美しく整った、卵型のなめらかな骨格の。
 明るい笑顔の。
 浅黒い肌に、緑褐色にきらめく理知的な大きな瞳。

 その肩に腕をまわして、大事そうに抱く、夫は。
 中央アジア独特の、薄い色素の髪と眼に。
 蒙古系との混血を示すなめらかな顔立ち。
 ユダヤかアラブの血もひくらしい、特徴的な鼻の線。

 幸せそうに…
 妻の髪に、頬を寄せて。

 笑っていた…


 懐かしい。

 昔の、話だ。