悲しい予感を胸に抱いて、アタシたちは江戸の沖田さんのもとへ戻った。調べてきた情報を伝えると、沖田さんは迷いのない顔をして、スッと立ち上がった。
「情報ありがとう。ボクも流山に行くよ。ちょっと待ってて。準備するから」
そして、おもむろに寝巻の腰紐を解き始める。
「ちょ、ちょっと沖田さん、いきなり着替え始めないでください! こんなシリアスな場面にそういうサービスシーン、いりませんっ!」
ラフ先生がケラケラと笑い出した。
「というか、今さらなんだけど、最近の沖田、ずっと寝巻姿だったろ? これ、下着と同じようなもんなんだぜ。二十一世紀に置き換えて考えてみな。けっこう赤面モノだろ」
「ややややめてください! 沖田さんストップ! ああもう、だから腰紐解かないでくださいってば!」
するすると、腰紐が畳の上に落ちた。寝巻の前がはだけかける。のど仏と、鎖骨、色白だけど筋肉の付いた胸板。割れた腹筋……が見えかけて、アタシは回れ右をした。
ファサッと布が落ちる音がした。沖田さんがクスクス笑っている。
「見られても減るもんじゃないんだけど。それにしても、やっぱり、ここ何ヶ月かで一気に貧相になっちまった。前はもっといいカラダしてたのにな」
「さっさと着替えてください! そもそも、この演出、何なんですか? ピアズでの着替えなんて、装備品のボックスを開いてチェックを付け替えるだけでしょう?」
アタシの態度がおもしろいんだろう。ラフ先生は手なんか叩いて実況中継し始めた。
「やせて貧相になってもそれかよ。十分すげぇじゃん。無駄な肉が完全に落ちてるぶん、腹筋の形がクッキリだし。あー、後ろ姿、色っぽい。きわどいところに、ほくろ発見。CG細けぇな」
やめてください。いろいろ想像してしまいます。
そもそもアタシ、BLもちょっとたしなむほうだから、無防備に脱いでいる沖田さんと、実況したり着付けを手伝ったりするラフ先生のやり取りが……ああもう、恥ずかしすぎる!
やがて、沖田さんの声が聞こえた。
「着替え終わったよ。ラフ、手伝ってくれてありがとう。ミユメ、こっち向いて大丈夫だよ」
「……ほんとですか?」
「疑い深いなぁ」
沖田さんがアタシの正面に回り込んだ。キリリとした袴《はかま》姿だ。すでに腰に環断《わだち》を差している。
「久しぶりにその格好ですね」
「うん。背筋が伸びるよ。グズグズしていられない。すぐに出発しよう。おいで、ヤミ」
沖田さんは、足下にすり寄るヤミを抱き上げた。アタシは、思わず沖田さんの手をつかんだ。
「ヤミのチカラを借りたら妖に近付くんですよね? 大丈夫なんですか?」
「でも、ヤミがいなきゃ動けないから。ボクは大丈夫だよ。妖になったとしても、理性を保ってみせる。近藤さんたちと一緒に最期まで戦いたい。この気持ちがある限り、ボクは闇に呑まれないよ」
にゃあ、とヤミが鳴いた。沖田さんがヤミを抱きしめて、ヤミが沖田さんの内側に溶け込んだ。沖田さんの姿が変化する。黒猫の耳と二股の尻尾が生えて、微笑んだ口に小さな牙がのぞく。目は金色に輝いた。
アタシたちは屋敷の外に出た。
江戸の町は、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、戦火を免れた。でも、やっぱり完全に平穏というわけじゃない。新政府軍は、旧幕府軍の残党を取り締まっている。もちろん新撰組も狙われていた。
アタシたちは新政府軍を避けながら先を急いだ。途中でときどき町の人の噂話を聞いて、情報を仕入れる。
ある男が言った。
「板橋ってぇ町に、新政府軍の基地があるんでさあ。処刑場が作られて、罪人の首をはねるのが見世物になってやがる。にぎわってるみたいですぜ」
ラフ先生が、ただならぬ反応をした。慌てて男に詰め寄って、舌の回転が間に合っていない。
「い、板橋? おい、オマエ、今日の日付わかるか?」
男はのんびり答えた。
「えーっと、四月の、何日だったかなぁ? とにかく四月に入りやしたよ、旦那」
「四月、慶応四年の四月か」
「へい、さようです、旦那」
ラフ先生は呆然としたように表情を消した。うめいて、ため息をついて、つぶやいた。
「……史実なら、沖田は知らずに済んだのに、ここではそういう流れになるのか」
沖田さんがラフ先生の肩を叩いた。
「どうしたの? とにかく、先に進もうよ。日光街道沿いに進めば、板橋を通らずに流山へ行ける。新政府軍の基地を迂回できるんだよ」
「いや、あのさ……このフラグの立ち方は、すげぇイヤだ。怖いよ」
「板橋に何かあるんですか?」
「……言えねえ。ストーリー、進めるしかねぇよな。沖田の言うとおり、とりあえず板橋を迂回しよう」
沖田さんを先頭に、新政府軍が駐屯していそうな宿場町を避けつつ、流山を目指す。
駆け足の沖田さんの後ろ姿に、二股の黒い尻尾が揺れている。アタシが速度を上げても追い付けず、沖田さんが振り返らないから表情もわからない。
焦っているんだろうか。
早く早く、仲間のもとへ。その儚い命がついえる前に。
アタシは知っている。日本はまもなく明治時代に入る。政治にも社会制度にも改革が起こって、新撰組のような武士はこの世から消える。
じゃあ、新撰組は最後の武士なんだ。
滅びてしまうんだ。
この先、どんなふうに戦っても、どれだけ一生懸命になっても、誠心誠意を貫いても、新撰組は滅びて消えてしまうんだ。
アタシは、思わず叫んだ。
「お願い、待って! 沖田さん、待ってください!」
沖田さんが立ち止まる。ラフ先生も足を止めて振り返った。
「どうしたの、ミユメ?」
いきなり悲しくなってしまったのだということを、どうすればうまく伝えらえるだろう? 時間を進めてしまうのが怖い。この残酷なストーリーの先にあるものを知るのが怖い。
アタシは気付けば口走っていた。
「逃げましょう。もうイヤです。沖田さんに戦ってほしくないし、新撰組の時間が終わるのがイヤです」
沖田さんがアタシのほうへ手を伸ばした。その手がアタシの頬を包んだ。
現実のアタシは、自分で自分の頬に触れてみた。違う。沖田さんの手はもっと大きくて、もっと骨ばった形をしている。
優しい仕草と裏腹に、沖田さんの言葉はこわばっていて厳しかった。
「先に進むよ、ミユメ。人生の大半の時間を使い切った今のボクにあるのは、最期の戦いに身を捧げたいっていう思いだけだ。キミも一緒に来て、一緒に戦ってよ」
沖田さんの手が、アタシの頬から離れて、アタシの手を握った。沖田さんに引っ張られて、アタシの足が再び動き出す。
アタシたちは再び流山を目指した。そこから先は、さほど長く走らなかった。
突如。
ハッとして、沖田さんが足を止めた。腕を広げて、アタシとラフ先生にもストップをかける。
街道脇の大木の陰から一人、黒っぽい服を着た誰かが刀を手にして現れた。覆面をして、目元しか見えない。
一瞬の緊張感。
そしてそれが緩む。
「なんだ、斎藤さんか」
沖田さんが笑顔になった。斎藤さんは、刀を収めて覆面を外した。目を丸くしている。
「どうして沖田さんがここへ? 体の具合は?」
大木の陰から、あと二人、見知った人たちが出てきた。
オーロラカラーのロングヘアを揺らす華奢な戦士と、サラサラの長い銀髪に緑色のローブの魔法使い。
「シャリンさん、ニコルさん! よかった、合流できましたね」
「待ってたわ。ここで両サイドのストーリーが一本になるみたい」
「すみません、お待たせして。先に進めるのが何だか怖くて、ちょっとぐずぐずしちゃったんです」
「わかる気もする。こっちもいろいろ悲惨だったから。ワタシは逆に、AIじゃない人間のユーザに会いたくなって、先へ先へ、ストーリーを走らせてしまった感じ」
「甲陽鎮撫隊、負けたんでしょう? 話はだいたい聞いてきました」
ニコルさんがあごをつまんで、考える仕草をした。表情が冴えない。
「じゃあ、甲陽鎮撫隊出撃の意図は知ってる? 勝海舟が何を目的に、新撰組を甲州へ送ったのか」
「いいえ、そこまでは調べられませんでした」
「そうだろうね。教えてあげるよ。それとも、一くん、キミが自分で伝える? 永倉新八くんを激怒させた、あの話を」
斎藤さんは、ポツリと答えた。
「オレが話す」
ひどく素直で、ひどく無力な声音だった。いつもの斎藤さんと、どこか様子が違う。低く落ち着いているはずの話し方が、今は妙に頼りない。
シャリンさんはそっぽを向いている。にこやかなはずのニコルさんは厳しげな無表情を貫いている。
ラフ先生は頭を抱えた。
「やっぱ、そういう流れか」
アタシと沖田さんだけ、状況がわからずに、戸惑いながら斎藤さんの言葉を待っている。斎藤さんはそれでも、迷うように沈黙していた。アタシは焦れた。
「斎藤さん、話してもらえますか?」
観念するように、斎藤さんは目を伏せた。
「オレは、勝海舟に情報を通じていた。ずっと昔から、オレたちが京に入るより以前からだ。勝にとって、オレも新撰組も、放し飼いの犬のようなものだった。いつか使い捨てるためのコマに過ぎなかった」
「勝海舟さんの、捨てゴマ? 勝さんは何のために斎藤さんを動かしているんですか?」
「勝の目的は、簡単に言えば、日本人同士の争いを避けることだ」
「新撰組が倒幕派と戦うようなことは、勝海舟さんは避けたかったんですか?」
「あれは勝にとって戦闘のうちに入っていない。もっと規模の大きな争いを回避するために、小競り合い程度は黙認していた」
「小競り合いっていっても、命懸けでしたよ?」
「鳥羽伏見の戦いのような大戦闘を、江戸に持ち込ませないこと。勝の頭にあるのは、そういう規模の話だ。日本全土でああいう大戦闘が立て続けに起こったら、軍事力を持つ欧米諸国に、日本という国はたやすく奪われてしまう」
アタシは、後ろからガツンと頭を殴られたような気分だった。
そうか。外国というものの存在を完全に忘れていた。新撰組という組織の身近に起こる出来事だけで、頭がいっぱいだった。
幕末の日本を取り巻く状況は、京の町の治安維持がどうこうという小さな範囲では、確かに説明も解決もできない。
開国を迫る欧米諸国との関わりの中で、徳川幕府の古い体制のあり方が問われて、日本じゅうが新時代へのうねりに呑まれている。これは、そんな時代なんだ。
「勝は、欧米諸国に対抗できる国力を、日本の中に育てようと考えている。だから、今は国内で戦をしている場合じゃない。国内の混乱を収められるなら、どんな手段でも使うし、誰とでも手を結ぶ。それが勝の行動原理だ。勝の頭の中に、新政府と旧幕府の区別はない」
沖田さんが眉をひそめた。
「でも、斎藤さん。新撰組は、会津の殿さまの刀だったはずだ」
「オレは、会津の殿さまが嫌いじゃない。感情の上では、あの人の刀だった」
「でも、キミは勝海舟の意図も知ってた。そうでしょ?」
「……オレは、勝のコマの一つだ。腹心でも何でもない。掃いて捨てるほどいるコマの一つであって、勝の考えのすべてなんて、わかりようもなかった」
沖田さんは斎藤さんに詰め寄った。
「すべてはわからなくても、いろんなことを察していたんじゃない? だって、斎藤さん、ひどく物知りで事情通だよね。土方さんの間者だからだと思ってたんだけど、違ったんだ。勝海舟に教わってたんだね?」
「両方だ。土方さんに、あれを探れ、これを探れと命じられて」
「探ったことを勝海舟にも報告していた? あの白いハトを飛ばして、勝海舟が新撰組というコマを動かしやすいように?」
「……否定はしない」
「今回の甲州への出撃は? 負けるってわかっていたんだろう? 何のために新撰組は負け戦に向かわなきゃいけなかった?」
沖田さんの金色の目に、赤黒い光が躍っている。牙が、爪が、ギラリとした。斎藤さんは言い訳するように、揺れる声で告げた。
「行き先が甲州である必要はなかった。新撰組が江戸からいなくなればよかった。勝と西郷が会談をする間、新撰組という火種を新政府軍から引き離す。それだけが勝の目的だった。負け戦によって力をそがれたのは、勝にとって一石二鳥の、ただの結果だ」
近藤さんが言っていた。新政府軍から江戸の町を守らねば、と。近藤さんは新政府軍と戦う気まんまんだった。しかも、新政府軍は、新撰組を目の敵にしている。両者が鉢合わせたら、争いは避けられない。勝海舟にとって、新撰組の存在は邪魔でしかなかったんだ。
沖田さんが斎藤さんの胸倉をつかんだ。その右手の甲に、赤黒い円環が完全な姿を現している。
「甲州で負けてから、新撰組はどれくらいの犠牲をこうむった? 誰かがケガをして、誰かが脱落して、誰かが死んじまったんだろう? 全部ちゃんと教えて。答えてよ、斎藤さん!」
観念する様子で目を閉じた斎藤さんが、言った。
「近藤さんが死んだ」
沈黙。
空白。
斎藤さんの言葉が、アタシには理解できなくて。
コンドウサンガシンダ。
沖田さんが、だらりと腕を落とした。斎藤さんが後ずさる。疲れ切ったような斎藤さんの横顔に、その見開かれた目に、涙が光っている。
誰も何も言わない中、斎藤さんの唇が動いた。
「甲州から退却した後、新政府軍に情報が洩れた。甲陽鎮撫隊は新撰組かもしれない、と。指揮官は出頭せよと命令が来て、近藤さんは一人で、板橋にある新政府軍基地へ出向いた。偽名を使っていた。うまくすれば、別人だと言い張れた。でも、身元がバレた」
「なぜバレたんですか……?」
アタシは呆然と尋ねた。だって、写真のないこの時代の検問では、指名手配されてもシラを切れる。そんなふうにラフ先生と話したことがあった。偽名を使うという単純な嘘でも、効果は十分だったはずだ。
斎藤さんはアタシの疑問に答えた。
「新政府軍に、近藤さんの顔を知ってるヤツがいた。新撰組の元隊士だ。伊東さんの一派だったヤツが、新政府軍に流れてた。伊東さんや藤堂さんの仇討のために、それまで敵対していた新政府軍に自分の身を売ったヤツがいたんだ」
「あ……そんなことって……」
沖田さんが斎藤さんをにらんだ。静かな声が怒りに震えている。
「板橋って言ったね。近藤さんは今、板橋にいるの? 死んだって、嘘だよね?」
斎藤さんは激しく首を左右に振った。子どもっぽいくらいの仕草だった。ギュッとしかめた顔は、ほとんど泣き出しそうだった。
「嘘じゃない。本当だ。近藤さんは死んだ。罪人として首をはねられて、死んだ」
沖田さんの髪がザワリと逆立った。縦長の猫の瞳が糸のように細くなる。歪められた口から、とがった大きな牙がのぞいた。
「罪人として、首を? ボクたちの新撰組局長、近藤勇が、罪人?」
「オレがこの目で見てきた。シャリンとニコルと一緒に、見てきた。近藤さんを救いたくて板橋へ行って。でも、ダメだった。死なせてしまった」
スラリ、と音がした。刀が鞘から引き抜かれる音だ。
白刃が光った。沖田さんの手に、抜き放たれた刀がある。その切っ先は、斎藤さんの眉間に触れている。
「キミは知ってて、止めなかった。新撰組が捨てゴマとして使われていると、知ってたくせに、黙っていたんだな?」
斎藤さんが沖田さんを見た。血が一筋、つっと流れ出す。斎藤さんは、静かで透明な表情をしていた。
「知っていた。大きな悲劇の予感だけを抱えながら、時司として繰り返し生きて、何度も後ろめたい生き方をして。甲州で負けた後、もう耐えきれなくなった。近藤さんと土方さんに、勝のことを話した。なのに、近藤さんは、自ら判断して板橋へ行ってしまった」
沖田さんの両眼が赤黒い光に染まっていく。その顔には微笑みの影もない。敵を斬りながら浮かべていた笑みすらない。
赤黒い光は、狂気的な憎悪だ。
「どうしてだよ。何で守れないんだよ。このチカラがあるのに、ボクは……何で、みんな奪われてしまうんだっ!」
沖田さんは環断《わだち》を地面に投げ付けた。斎藤さんの顔に浅い傷が走る。
絶叫。あるいは咆哮。沖田さんが吠えた。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
紋様が燃え立った。赤黒く揺らめく輝きが沖田さんの全身に広がっていく。
何、これ? どういうこと?
沖田さんの右手が変化する。五本の指が一つになって、細く長く伸びて、銀色にきらめいて、刀になった。
黒猫の耳と尻尾と牙と、赤黒くらんらんと光る目。
獣の咆哮が響き渡った。それはもう、沖田さんの悲痛な絶叫ではなかった。
パラメータボックスが騒ぎ出す。
WARNING!!
敵襲を告げる赤い文字。ボス戦用のバトルモードへと、操作画面の仕様が切り替わる。
アタシは身動きが取れなかった。
「沖田さんと、戦うの……?」
サムライと黒猫と刀が混じり合った姿の、妖としか呼びようのないものが、また吠えた。噴き上がる気迫が衝撃波を生む。アタシの全身に、ピシピシと小さな傷が走った。
シャリンさんが呆然とつぶやく。
「嘘でしょ。最悪……」
頭が追い付かない。理解できない。わかりたくない。これから何が起こるのかなんて。
ラフ先生が叫んだ。
「ストップ! ちょっと待て、とにかく止まれ!」
朝綺先生がポーズボタンを押したんだと思う。情景が静止した。BGMが消えた。あたしは、自分がゲームの中にいることを思い出した。肩で息をしている。
ニコルさんの声がスピーカから聞こえた。
「そうだね。残り時間も少なくなってるし、今日はここで止めよう。明日のログインで、この続きを……」
「イヤです」
拒絶したのは、あたしだ。
聞きたくなかった。怖くて、悲しくて、苦しくて、声が震えた。
ディスプレイの中で静止している沖田さんの顔は、憎悪に歪んでいて、見たこともない顔をしていて、恐ろしくて、それでもその絵はゾッとするほどキレイだった。目をそらせなかった。
戦いたくない。倒したくない。
「あたしは、イヤです……」
朝綺先生が沈んだ声で告げた。
「とりあえず、ここでセーヴする。今日はログアウトしよう。つらけりゃ、沖田戦は見なくていい。ただ、テスターの規約上、バトル後には合流してもらいたい。そのへんが妥協ラインだ。じゃあ、明日も午後八時で」
機械的に言い渡して、朝綺先生はログアウトした。ラフ先生のアバターがフィールドから消える。ニコルさんも、続いてログアウトした。緑色のローブの魔法使いが姿を消す。
「ミユメ、聞こえる?」
シャリンさんがあたしに呼びかけた。あたしはうなずいて、それだけじゃ返事になっていないことに気付いて、声を上げた。
「聞こえています」
「無理しないで。でも、できれば来て。ワタシも押しつぶされそう」
「シャリンさん……」
「大人のくせに感情移入しすぎてバカみたいって思われるかもしれないけど、悲しくて仕方ないの。沖田と戦いたくない。それ以上に、斎藤を戦わせたくない。アイツ、背負いすぎだって思わない? アイツを見てると、本当につらい」
シャリンさんの繊細な言葉に、あたしはもう、涙を抑えておけなくなった。
「明日……インできれば、します……」
それだけ言うのが精いっぱいで、あたしはログアウトした。
呼ばれた気がして、顔を上げた。
鏡の中に、あたしが映っている。キュッと結い上げた黒髪は、姉に手伝ってもらって、自分で整えた。
漆塗りの姫鏡台の前から立って、あたしはそそくさと玄関へ向かった。
あたしを呼んだのは沖田さんだ。あたしの姿を見るなり、一瞬だけ驚いた表情をして、屈託なく笑った。
――優歌、その色、やっぱり似合うね。
音も声もない。だから、あたしは気付く。これは夢だ、と。
昔から、熱を出すと、長い長い夢を見る。そんな日の夢には、音も声もない。日常的なストーリーをなぞる夢だ。目が覚めても、クッキリと覚えている。
あたしは幸せな気持ちだった。今日は一日じゅう、沖田さんたちと過ごせる。夢でいい。現実では出会えない人たちだから。
着物のそでを広げてみせながら、あたしは少し調子に乗って、くるりと回る。
浅葱《あさぎ》色の生地で、すそのほうに白い花模様が散りばめられている。沖田さんがこの着物を選んでくれた。流行りの色や柄はわからないけどって、ちょっと言い訳しながら。でも、優歌に似合う色ならわかるよ、なんて言って。
あたしは沖田さんと一緒に、家を出た。玄関の外に、斎藤さんがいた。チラッとあたしを見て、かすかに微笑む。あたしの桜色の帯は、斎藤さんが選んでくれた。ガラス細工の帯留めも一緒に。
沖田さんと斎藤さんはいつもの格好だ。こざっぱりした袴《はかま》姿で、腰には刀。にぎわう江戸の町を歩き出すと、あたしと同世代くらいの女の子は必ず振り返る。沖田さんも斎藤さんも、凛とした立ち居振る舞いがカッコいいから。
つい昨日のこと。花見に行こう、と新撰組の面々に誘われた。近藤さんに場所を言われたのだけれど、江戸の町に不案内なあたしはわからなかった。
――じゃあ、ぼくらが迎えに行くよ。
沖田さんが名乗りを上げてくれた。ぼくら、と言いながら、斎藤さんの肩を抱いていて、斎藤さんが目を丸くした。
――どうして、おれが?
沖田さんは無邪気に笑いながら、一言。
――優歌のこと、気に入ってるでしょ?
――まあ……嫌いじゃないが。
――それ、好きって意味だよね?
斎藤さんはそっぽを向いて、あたしと目を合わせてくれなかった。騒ぐのが好きなみんなにからかわれて、ふてくされた顔になっていたけれど、今日はちゃんと迎えに来てくれた。
通りを歩きながら、あたしはあちこちに目を奪われてしまう。
小間物《こまもの》屋さんが背負子《しょいこ》を下ろして、赤い毛氈《もうせん》の上に商品を広げた。くし、かんざし、おしろい、口紅。かわいいものがたくさんある。女の子たちが集まっていく。
歩みが緩んだあたしに、斎藤さんが気付いて、あたしの背中をそっと押した。見てくればいい、と無言であごをしゃくる。
沖田さんが数歩先で足を止めてあたしの様子を見て、仕方ないな、と笑った。
うん、わかっています。見るだけですから。
あたしは小間物屋さんのところにしゃがみ込んだ。あたしだってお年頃なんだけど、小柄なせいで、子どもっぽいと言われてしまう。口紅なんて、きっとまだ似合わない。だから、買うつもりはない。ただ、少し手に取ってみるだけ。
口紅が入った小さな白い陶器には、牡丹の花が描かれていた。ふたを開ければ、大人の紅色。いいな。キレイ。でも。
憧れと未練を振り切って、あたしは小間物屋さんに口紅を返そうとした。
その手を、つかんで止められる。カサリと硬い、左の手のひら。斎藤さんだ。黙ったまま、斎藤さんはあたしの手に口紅を握らせて、小間物屋さんに代金を支払った。
ありがとうございます、と、あたしは慌てて言った。
――別に。
斎藤さんは陶器のふたを外すと、左手の薬指で、紅をすくった。目を合わせてはくれない。 斎藤さんの薬指が、あたしの唇に触れる。紅が塗られる。正確なはずの左手が、かすかに震えている。
男の人の指先に付いた紅色が、とても色っぽい。
あ、ありがとう、ございます……。
ドキドキしながら頭を下げて、斎藤さんを見上げたら、急いで目をそらされた。
――鏡が、ないから。
自分では塗れないだろう、と。
沖田さんが斎藤さんを肘でつついた。
――隅に置けないな。
沖田さんはあたしに、いたずらっぽい表情を見せた。じっとしててね、と。
うなずいたあたしは、沖田さんの左手に、あごをつままれる。ああ、沖田さんって背が高いなと、真っ白になった頭で考えた。
沖田さんの右手には、かんざしがある。青い石が一つだけ付いた、とても上品な雰囲気の。あたしの結い髪に、かんざしが差される。
――大人っぽくなったよ、優歌。
ニコリとした沖田さんが満足そうに言う。沖田さんの指が、あたしのあごから離れていく。お礼を言いながら、あたしは少し寂しい。
江戸の町を歩いていく。
子どもたちが沖田さんを見付けた。じゃれついてくる子どもたちと、ひととおり遊んでやって。
――じゃあ、今日は用事があるから。
沖田さんが笑顔で手を振った。はぁい、と小さな子どもたちは聞き分ける。でも、おませな女の子が一人、口をとがらせた。あたしを指差して、不満そう。
違いますよ? あたしは沖田さんにとって、ただの……ただの、何だろう?
まごまごするあたしを横目に、沖田さんは楽しそうにクスクス笑っていた。
一方、斎藤さんはずっと子どもたちから離れていて、落ち着かなげだった。
――接し方がわからない。
本当は遊んであげたいんですか? あたしが尋ねると、斎藤さんは小首をかしげた。少し考えてから出された答えは、はいでもいいえでもなかった。
――いつか、おれに子どもができたら、どうしよう?
純粋そうな目で困ってみせる斎藤さんに、あたしも沖田さんも、ついつい笑ってしまった。斎藤さんはちょっとむくれていた。
にぎわう通りを抜けて、川べりに出て、穏やかな流れを見下ろしながら土手を歩く。
きらびやかな屋形船が一艘、着飾った芸子さんたちを乗せて、川を下っていく。芸子さんたちは、白い手をひらひら振った。あら、いい男たちねぇ。そんな黄色い声が聞こえてきそう。
沖田さんと斎藤さんは、顔を見合わせた。
――土方さんじゃあるまいし。
沖田さんが苦笑いして、あたしの手を引いた。斎藤さんは川と反対のほうを向いた。手を振り返すくらい、してあげたらいいのに。芸子さんたちの嫉妬の目がちょっと怖い。
だって、と沖田さんがあたしの顔をのぞき込む。
――浮気者はイヤなんでしょ?
うん。本当は、優越感が胸をくすぐっている。あたしのことだけを大事にしてくれるのが、すごく嬉しい。
川べりを離れて、小高い丘を上る。ああ、見えてきた。丘のてっぺんに桜の木があって、その下にもうみんなの姿がある。
近藤さんが真っ先に気付いてくれた。大きく口を開けて笑って、こちらへ手を振る。
土方さんは、紙と筆で両手がふさがっている。桜を見上げて、俳句を考えているみたい。
ニコニコ顔の源さんが、重箱のお弁当や桜餅を広げている。源さんのお手製かな。
さっと桜餅を奪った藤堂さんが、子犬みたいに駆けてくる。山南さんは、小鳥にえさをやりながら目を細めている。
春のそよ風。舞い散る桜の花びら。
沖田さんが走り出す。振り返って微笑む。
――早く行こうよ。
あたしも駆け出そうとした。でも、腕を引かれた。
――まだ、そっちじゃない。
斎藤さんに腕を引かれて、引き寄せられて。
急に、ふわりとあたしの体が浮いた。さーっと、かすかな音を立てて、情景が切り替わっていく。
あたしは白い褥《しとね》に横たわっている。彼はそのすぐそばにいて、あたしを見下ろしていた。右手であたしの額に触れる。
彼って誰? 沖田さん? 斎藤さん?
あたしは横たわっているの? 見下ろしているの?
少しひんやりした手が額に触れている。
「さいとうさん……」
声が出た。眠りが浅くなっている。イヤだ。夢を見ていたい。
あたしは彼の右手をつかまえる。大きなその手に頬ずりをする。
右は、斎藤さんの利き手じゃない。斎藤さんがあたしに触れるときは、口紅のときもそうだったけど、左手のはず。
ううん、ここにいるのは斎藤さんだ。だって、沖田さんは先に行った。あたしを引き留めたのは、斎藤さんだった。
あたしは再び夢に沈む。白い褥《しとね》の幻が消える。
額に、柔らかな感触があった。目を上げて、ビックリする。斎藤さんの唇が、あたしの額から離れていったところだ。
なまなましい、優しい感触だった。斎藤さんがあたしを見つめている。
――時が流れるさだめは変えられないが、こうして夢を見ることはできる。かりそめの平穏に過ぎなくても、人はときどき、優しい夢にすがらずにはいられない。
まなざしから流れ込んでくる切なさに、あたしは微笑んでうなずいた。斎藤さんは、壊れやすそうな笑顔を見せた。
桜色が舞っている。うららかな日差しの中で、あたしたちにひととき訪れた休息。
それは、まもなく醒める淡い夢。