きみと駆けるアイディールワールド―赤呪の章、セーブポイントから―

 一般生徒の立ち入りが禁止された黒曜館の地下に温室があることを、あたしは入学以前から知っていた。明精女子学院の卒業生である母親がメールで書いて寄越した情報の一つだった。
 母親が高校生だったころ、地価の温室は、憧れを込めて「秘密の花園」と呼ばれてたらしい。学長の特別のお茶会が開かれる場所とか、世界でここにしか咲かない花がある場所とか、噂の宝庫だったそうだ。
 でも今は、極端に甘い花の香りと、血の匂いと、腐った匂いと、生ゴミみたいな匂いが、むっとするほど立ち込めている。死に満ちた退廃の花園だ。
 小さくても強力な人工太陽のせいで、ひどく蒸し暑い。
 まともに花が咲いている花壇はほとんどない。雑草が生い茂っていたり、黒い土がむき出しになっていたりと、荒れ果てている。
 いちばん奥の花壇にだけ、白いユリの花が咲き乱れている。
 あたしは、まっすぐ伸びる遊歩道を進んだ。植物の残骸。虫の死骸。壊れた机や椅子。ちぎれたぬいぐるみ。かつては動物だったはずのモノ。こんなふうに庭を荒らした人間は、正気の沙汰じゃない。
 鳥肌が立っている。呼吸をするたびに、毒素が肺に染み入ってくるみたい。
 あたしが一人で過ごす場所は黒曜館だった。窓のない小部屋も北塔も、この庭の上にある。
 こんな地獄絵が床の下に広がっていたなんて。こんな地獄絵の上で呼吸をしていたなんて。想像もできなかった。
 むせ返りそうなほどに甘い香りのユリの花の真ん中に、ベンチが置かれていた。万知はベンチに寝そべっていた。ベンチの脚で踏み折られたユリが、土に汚れている。
 万知がくすくすと笑った。
「花の中で横たわるって、なかなか気分がいいよ。メルヘンっぽいっていうか。うっとうしい害虫も出ないし。ここは中庭と違って、きちんと駆除されているからね」
 万知はベンチから身を起こして、立ち上がった。枕代わりのボロっちい何かがずり落ちた。その正体はたぶん、校門のそばの残骸の片割れだ。ほんの一日か二日前まで、イヌだったはずのモノ。
 吐き気がした。口を押さえる。
 ユリを踏み倒して、万知があたしのそばへやって来た。
「足を運んでくれてありがとう、風坂。ようこそ、わたしの秘密の花園へ。本当はもっと早くお招きしようと思っていたのだけど。座って話さない?」
 万知はユリの中のベンチを指した。
 あたしは首を左右に振る。一拍遅れて、ようやく言葉が出る。
「お断りよ」
「じゃあ、このままでいいや」
 三日月型に笑った唇を、万知がは舌でなめた。
 話をしなきゃいけない。こいつを止めなきゃいけない。悪は上手に活用されなきゃいけない。コントロールされなきゃいけない。
「一ヶ月くらい前、だったっけ? あんたが編入してきたのは」
「うん。大学院の研究機関から所属を外すことになってね。何もしないんじゃ暇だし。調べてみたら、明精に特異高知能者《ギフテッド》がいるらしい。その子のことが気になって、ここに入ると決めた」
 万知のターゲットは最初から、あたしだった。
「あんたは、あたしを知ってたのね」
「存在そのものはね。だけど、なかなか近付けなかった。意外と機密に厳格なんだ、この学校。担当教官を落として言うことを聞かせるまでに、時間かかっちゃった。風坂はずいぶん特別扱いされてるんだね。ちょっと嫉妬する」
「どうして、あたしを?」
「話したかったの」
「話す? 真理に近付いてみた? なによ、それ?」
 万知は長い髪を掻き上げて、声をたてて笑った。
「大学院を離れて正解だったよ。この学校のほうが、自由で楽しい。飽きてたんだ、研究室でネズミいじるのにも。なかなか死なない品種、作っちゃった。今度、見せてあげようか。本当に死なないから」
「いらない」
「冷たいな。そんな怖い顔してないで、笑ってよ。風坂はわたしに会いに来てくれたんだろう?」
 そうね。あたしはあんたに会いに来た。あんたの真理が殺戮の中にあるんなら、その論理をへし折りたくて来た。
「なんのために殺すの?」
 万知は声を弾ませた。
「嬉しいね。話していいんだ。普通の人間の頭脳じゃあ到達できない理論だからさ、風坂だったら理解してくれるかなって期待してる」
「あんたは理解されたいの?」
「もちろん。無条件の理解と愛情が、わたしはほしくてたまらない」
「都合のいい話ね」
 万知の舌先が、ゆっくりと、赤い唇をなめる。
「自分の不幸について、ずっと考えてきたんだよ。わたしはなぜ、この世界に見合わない身の丈を持って生まれてきたのか? わたしは孤独で不幸だ」
「自分が特異高知能者《ギフテッド》だってことを言ってるわけ?」
「どんな特別を用意されても、わたしの能力には追いつかない。わたしは満足できないの。この閉塞感と鬱屈を、どうやったら表現できるんだろう? 罪は誰にもないよね。だからこそ、やるせない」
「前に言ってた話と違う」
「見栄を張ってみただけ。風坂ってさ、からかいたくなるタイプだから。ほんと、不幸な表情が似合うよね。自分の存在を否定したいんでしょ? でも、プライドが高いから、できないの」
「……そんなの、なんで、あんたが……」
「なんでわたしがわかるかって? そりゃわかるよ。わたしは特別に頭がいいもの」
 あたしの前に立った万知が、あたしの両肩に手を掛けた。ゾクッとする。動けない。
「あんた、一体、なんなのよ……」
 得体の知れない存在。あたしの頭脳では測れない相手。
 気味が悪い。
 ぬるりとして、すり抜けてしまう議論。会話がねじ曲げられていく違和感。
 万知が迫ってくる。キスをせがむみたいな、甘い声。近すぎる顔。
「風坂なら、わかってくれるかな? わたしが発狂しそうなほどにこの世界に恋をしていること。風坂ならわかってくれるよね?」
 体から重心が消えた。
 次の瞬間、背中を地面に叩き付けられた。衝撃が内臓を突き抜ける。
 息が止まった。胃がひっくり返りかける。
 ユリの花が耳のそばで揺れた。
 万知があたしに馬乗りになった。重い。苦しい。身動きできない。
「風坂の不幸そうな顔が好き。ほんとに大好き。正直で、うらやましい」
 必死で声を絞り出す。
「あたしは……不幸なんかじゃ、ない……」
「不幸だよ。中途半端でさ、どこにも居場所がないんだ。できそこないの、迷子の神さまだ。ねえ、わたしと同じ」
 万知があたしの首筋に唇を寄せた。ゾワッ、と全身が寒くなる。
「……や、やめて」
「やめない。興味があるんだ。初めてだから」
「は、初めて……?」
「そう。人を殺すのは初めて」
 万知は体を起こした。微笑んで、あたしを見下ろす。らんらんと光る、本気の目。
 ……い、イヤ……っ。
 声が出ない。体が動かない。
 違う、動かないはずはない。こんなに震えているのに。
 熱っぽい万知の手のひらがあたしの首筋を包んだ。
「わたしは孤独だよ。わたしの真理は、わたしにしか到達し得ないレベルにあるんだ。万人と共有できるのは、ごく原始的な事象における真理だけ。でもね、だからこそ、わたしは万人に理解させてあげたいの。この不条理な世界にも、揺るぎない真理があるってことを」
 万知は、くつくつと笑いを漏らした。
 あたしの息が切れ始めている。万知の体重がお腹を圧迫して、苦しい。あたしを見下ろしながら、万知はサラリと言った。
「揺るぎない真理。たとえば、そう。『あらゆる生物は殺せば死ぬってこと』とかね」
 万知の目に、暴走する知性と崩壊した理性が、光っている。
 つかまれた首筋が、いきなり、強烈に圧迫された。
「殺せば、行き着く先はみんな同じ。死ぬんだよ。こんなに不条理でバラバラな世の中で、あらゆる存在が同じ結末を迎える。すてきなことだと思わない? わたしのこの手が死という真理を生み出して、どんな愚か者でさえそれを理解し、共有することができるんだよ」
 痛みが来て、痺れが来て、苦しさが来た。
 頭蓋骨の中身が膨れ上がっていくような感覚。すぅっと、浮かび上がりながら沈んでいくみたいな、消えてしまいそうな意識。
「愛してるよ。愛してるんだよ。わたしは、わたしを孤独にするこの世界のすべてを。ねえ、だから、早く認めてよ。わたしは神に等しいって、早くわたしを愛してよ!」
 助けて……と、誰かが叫んだ。
 助けて!
 あたしだ。叫んでいるのは、あたしだ。
 必死に動かす指先に、何か硬いものが触れた。あたしはそれを握り込む。
 まだ、生きていたい……!
 渾身の力で、こぶしを振り上げた。振り回した。手応えがあった。
「うっ……」
 万知が呻いた。ガクリ、と万知の体が降ってくる。
 あたしは万知を押しのけながら、体を起こした。右手から、レンガの破片がこぼれ落ちた。立ち上がりかけて、バランスを崩す。頭を振って、めまいをはね飛ばす。咳が出た。
 万知は髪を乱して、ユリの中に倒れていた。背中は、規則正しく上下している。生きてるみたい。
 怖かった。愚かしいとも思った。
 葉鳴万知、あんたは結局、寂しいだけなの? それとも本当に、人間じゃない存在なの?
 神に等しいだなんて思わない。直感的な倫理が通じない相手なら、それは、悪魔って呼ばれるんじゃないの?
 あたしはあんたとは違う。あたしは人間だから。でも、人間としての普通になれないから。だから寂しい。それ以上でも、それ以下でもない。
 生きた花の香りが、狂気と荒廃の花園を満たしている。
 あたしは立ち上がった。ポニーテールの歪みを直す。ブラウスが汚れてることは、鏡を見なくてもわかった。
 でも、ブラウスの汚れなんて、どうでもいい。もう二度と、こんなブラウスを着ることはないから。
「すがすがしいほど絶望的ね」
 家に帰ったら、一生、引きこもって過ごそう。あたしはもう、外の世界に期待なんてしない。どうせ絶望にしか出会えない。
 砂浜に祭の炎が上がる。天空の星屑に届きそうなくらい、高々と。夜の真っ暗な波間に炎が映り込めば、それはまるで紅蓮の宝石。
 炎のそば踊ってるのはヒイアカだ。アタシたちにとってはステージガイドの彼女だけど、このホヌアという世界にとっては、神の血を引く踊り子なんだって。
 ひらめく手のひらは、可憐な恋の仕草。踏み出すつま先は、ふと、大人の色気をかもし出す。腰をくねらせれば、豊かなバストが揺れる。
 太鼓を叩くのはヒイアカの婚約者、ロヒアウ。太陽みたいに明るい笑顔と、堂々とした体格のイケメンだ。ヒイアカとはお似合いね。
 アタシは波打ち際に膝を抱えて座ってる。祭ににぎわうフアフアの村の人々を遠くから眺めて、ため息。
 人混みに入っていく気がしない。これがゲームだってわかってても。あそこにいるのは人間じゃなくてAIなんだって知ってても。
「よう、お姫さま」
「なによ?」
「ずいぶんご機嫌斜めだな」
 ラフが双剣を砂の上に置いて、アタシの隣に腰を下ろした。
「ナイスバディのヒイアカの踊り、目の前で見てなくていいの?」
「問題ねえよ。ニコルが最前列でムービーを撮ってるから。後で、サイドワールドの映像館で、たっぷり観賞する予定だ」
「バカよね、あんたたちって。うらやましいわ」
「お姫さまの『バカ』は誉め言葉だろ」
「うっさいわよ」
「はいはい、失礼しました」
 ラフの声は繊細だ。少し硬くて、少し高めで、どことなく少年っぽさが残ってる感じ。
 この声の持ち主はどんな顔をしてるんだろう? どこに住んでて、どんな生活をしてるの?
「ねえ、ラフ」
「ん?」
「……やっぱり、別にいい」
「なんだよ? 気になるだろ」
「気にしないで」
「お姫さま、言ってみろよ」
 ラフはアタシの隣から立って、アタシの正面に回り込んでひざまずいた。きらめく黒いまなざしが、まっすぐにアタシを見つめた。
 ほのかな影をまとったラフの顔は、肌の浅黒さも右頬の傷も、暗さにまぎれてしまう。貴公子みたいに端正な顔立ちだ。
 ただのCGなのに。
 その瞳がとても信頼できるように見えるから、アタシはラフから目をそらせない。言葉が、アタシの口からこぼれた。
「どうでもいいこと訊いていい?」
「なんだ?」
 こぼれる心が、止まらない。
「あんた、何者? ほんとにそこにいるの? 実在するのよね? 生きてる人間なのよね?」
 沈黙が落ちた。美形キャラのCGが「アタシ」を通して「あたし」を見つめる。
 ラフ、何か言って。アタシに答えて。不安にさせないで。そこにいるんでしょ?
 今、アタシたちはアバターの姿で、虚構の世界を生きてる。時間制限の中で、ひとつの冒険を共有してる。顔も名前もわからない「アンタ」との人間関係が、今の「あたし」にとって、限りなく尊い。
 ラフの手がアタシの頭をポンポンと叩いた。アバターの表情は変わらない。本当のラフは、どんな表情をしてるんだろう?
「お姫さまこそ、そこにいるんだよな? オレの声を聞いて、オレと同じ景色を見て、オレの隣でミッションをやってる。そうだよな?」
 いつになく低い、かすれがちな、ラフの声。
「いるわよ。アタシはここにいる。コントローラを握って、リップパッチを着けて、アンタに声を届けてる。アンタを見つめてる」
 焦れったい。言葉を重ねても、アタシが存在するってことを十分に証明できない。隣にいるなら、手を握るだけでいいのに。
「ラフがオレならいいのにな」
「どういうこと?」
「逆か。オレが本当にラフならいいのに。アンタが本当にお姫さまならいいのに。ここでこうして出会うことが現実なら……いや、やめとこ。らしくねーよな」
「それがアンタの本心?」
「言わねーよ。オレってば照れ屋だから」
「なんなのよ、それ」
 ラフは再び、アタシの頭に手を乗せた。その手の重みとぬくもりを想像してみる。おにいちゃんの手のひらと、どっちが大きいんだろう?
「お姫さまが沈んでたんじゃ、こっちも調子が狂っちまう。現実のほうで、なんか困ったことでもあったか? オレが聞いてやるから、話せ。聞くことしかできねえけどさ」
 ここでラフに話しても、アタシの生活は何も変わらない。話したって無駄だ。不要な労力。
 それなのに、話してみたくなってしまうのは、どうしてなんだろう?
「うらやましい世界よね、ここって。キャラクターはみんな特別待遇」
「特別? どんなところが?」
「存在してていいんだもの。なんの根拠もなく、ただ存在するための場所が用意されてる。殺されても死なない。ハジかれても戻れる。ほんとに都合がいい世界」
「シャリン。ほんとに、何があったんだよ?」
 まじめな口調。久しぶりに名前を呼ばれた気がする。
「そうね。次のうち、どれが事実か当ててちょうだい。一、引きこもりになってる。二、殺されそうになった。三……三、生きてる意味、わかんない……」
 あたし、何を言ってるんだろ? どれが事実か、だなんて。どれも事実なのに。
 ラフの手がアタシの頭から離れた。
「ひでえな」
 アタシはラフを見上げた。
「さあ答えはどれでしょう? どれも答えじゃないかもね」
「もっと気の利いたクイズを考えてくれ」
「気が利かなくて悪かったわね」
 ふっ、と、ラフは小さな息を吐いた。たぶん、ユーザがほんの少しだけ笑ったんだ。吐息みたいな笑いをリップパッチが集音した。アバターの表情は動いてないけど、アタシはラフの笑顔を感じた。
「お姫さま、アンタはそのまんまでいい。お上品に黙りこくってないで、下手な言葉を投げて寄越せよ」
「下手って、なによ」
「しゃべってくれよ。どうでもいい話でかまわないんだ。しゃべってくれなきゃ、アンタがそこにいることを確かめられない。現実の世界で面と向かって話してるわけじゃない。顔色も表情もわからない。だから、しゃべってくれ。オレの目の前にいるんだって証明してくれ」
 ラフの言葉は熱っぽい。はぐらかしたり、からかったりするばかりの普段とは、違う。
 今のがラフの本心? ラフは、アタシに存在しててほしいと思ってるの? 大切だって思ってくれてるの?
 戸惑いが胸の中で膨らむ。心臓がドキドキ、駆け出している。
 アタシは今、どんな顔してる? アバターのシャリンは? ウィンドウに自分の顔を表示……なんてできない。
「ふ、不公平よ。アタシにしゃべれって言うなら、アンタもしゃべりなさいよ」
 アタシだって、アンタの存在を確かめていたい。
「わかったよ、お姫さま。そのうち、必ずな。お、一曲終わったみたいだ」
 ラフが祭の炎へと視線を向けた。太鼓のリズムが止んで、喝采が起こっていた。
「おーい、二人ともー!」
 ニコルが手を振りながら砂浜を駆けてくる。ラフは小さく手を挙げて応えた。
 炎のそばのヒイアカが両腕を満天の星へと差し伸べた。波が引くように、喝采が静まる。次の曲が始まるみたい。
 ニコルがアタシたちのところに合流した。
「お待たせ! ようやくオートカメラの設定ができたよ。手こずっちゃったなあ。昔と操作法が変わってるんだもん。しかも、悪い方向に。ピアズも、メンテ入れたほうがいいツールが地味に多いよね」
「ご苦労ご苦労。そんな様子じゃ、ゆっくり見れなかっただろ?」
「全然。まあ、ちゃんと撮れてることは確認したよ。後のお楽しみだね」
「これから別の演目か? さっきのと雰囲気が違うな」
「さっきのダンスは、神話時代の恋物語をモチーフにしてた。で、今から、このフアフアの村の起源を歌とダンスで表現するらしい。今日の祭のメインになるダンスだって」
 二人の会話に、アタシは口を挟みそこねた。
 ラフの「中の人」はエンジニアかもって思ってたけど、ニコルもずいぶんピアズに詳しそう。少なくとも、アカウント登録から四ヶ月って感じの話し方じゃなかった。
 と。
 ヒイアカの澄んだ声が歌を紡ぎ始めた。

  昔語りを いたしましょう
  神代の名残 人の子は
  土の恵みを まだ知らず
  海の気まぐれ 恐れては
  飢えぬ未来を 祈るのみ
  名もなき村の 乙女ヒナ
  これは彼女の 恋の歌
  恵みと別れの 恋の歌

 ヒイアカのまなざしがハッキリとこっちに向けられた。ミステリアスな目をして、ヒイアカは微笑んだ。

  捜しに行っては くれまいか
  時の流れの その向こう
  夢路をたどりて 預けたる
  下弦の月は 海死神《カナロア》の星

 いきなり。
 ぐらり、と足下が揺れた。
「きゃっ」
「なんだこれ? ワープかよ?」
 エコーのかかったヒイアカの声が告げた。
「皆さま、どうぞお気を付けて行ってらっしゃいませ。時をさかのぼり、悲しき海の戦士のもとへ。彼の持つホクラニは『海死神《カナロア》の星』。ワタシのもとへお戻しくださいますよう、お願いいたします」
 アタシたちは、時空の歪みの中へ放り込まれる。
「あーちょっと待って。食材を入れたバッグが宿なんだけど」
 ニコルの抗議にも、問答無用。祭の夜の風景が遠のいていく。
 アタシたちは折り重なるようにして砂浜に倒れてたらしい。朝、村人たちが漁に出るとき、アタシたちを見付けたんだって。
 すぐさま、村の巫女、ヒナが呼ばれてアタシたちの正体を占った。
「見慣れぬ風体のかたがたですね。ですが、村に害を及ぼす存在ではありません」
 だから、アタシたちは長の家へ運んで介抱された。武器も所持品も取り上げられずにすんだ。
 ストーリーを進めることにする。
 ニコルはお芝居みたいなお辞儀をした。
「皆さまのご親切、本当に感謝します」
 相手はAIなのに、わざわざこんなことするのよね。変なヤツ。
 長は、髪も髭も白いおじいさんだった。とはいっても、筋肉ムキムキで、足腰もしゃんとしている。
 長の隣に控えた男は、カイと名乗った。長の末息子だって。ガッシリ系の、まあまあイケメンキャラ。タイプじゃないけど。
 ラフとニコルがきょろきょろして、村の様子を観察した。
「なんか、雰囲気がものものしいな」
「そうだね。戦でも始まるのかな?」
 村の男たちの顔や体には、紋様が描かれてる。フアフアの村の人たちもそうなんだけど、紋様はホヌアの呪術に欠かせないもので、神々《アクア》の力を呼び込むため、体じゅうに描いたり刻んだりしている。
 男たちはみんな、木とサメの歯を組み合わせた武器を持っていた。そして、南国の青空に似合わない沈んだ顔をしてる。
 カイが進み出て、アタシたちの姿を上から下まで観察した。
「オマエたちも武人か? 腕は立つのか?」
「はい、そうですよー」
「ならば、手合わせ願えるか?」
「おう、やってやろうじゃん」
 カイは満足そうに笑った。長である父親に向き直る。
「父上、彼らの腕を見たい。彼らが村の者よりも強いならば、クーナ退治にはオレと彼らで当たりましょう」
 村の男たちがどよめいた。三十人くらいいるけど、長やカイと違ってやせ型で弱そうだ。そのうちの一人、カイの友達っぽいキャラが口を開いた。
「よそ者にヒナの命運を預けて、アンタは納得できるのかい? そりゃあ、オイラたち漁夫じゃあ戦力なれないよ。でも……」
「よそ者だろうがなんだろうが、戦士がここにいる。これは天地万物の神のご意向、祖先の御霊の思し召しだ。ヒナのために、必ずクーナを討ち取らねばならない」
 やせた男たちは顔を見合わせて、うなずいた。
 ニコルがアタシとラフに確認した。
「次のセリフをスクロールさせたら、バトルスタートみたい。ザコキャラ三十人、任せちゃっていい? ここでスタミナ消費したくないから」
「おう、任せとけ。な、お姫さま?」
「そうね。殺しちゃったらペナルティよね? 素手でやるわ」
 村の広場がバトルフィールドだった。
 久々にこんなザコと戦ったわ。感心するくらい弱かった。アタシとラフが強すぎるって説もあるけど?
 三十人全部を倒したら、カイがアタシたちに敬礼した。
「お三方の腕前、しかと拝見した。どうかお力をお貸しいただきたい。もちろん、報酬は用意させていただく。この名もなき村で用意できるものなど、たかが知れているが」
 バトルでは何もしなかったくせに、ニコルが真ん中に立った。
「お引き受けします。この村のトラブルを解決しなきゃ、もとの時代に戻れないんだろうし」
 現実の世界だったら絶対に避けるリスクでも、ゲームの世界だから、むしろ望んで引き受ける。困ってる人がいて、ユーザがそれを助けるヒーローになって、そうやってストーリーは進められていく。
「ピアズの世界は、非現実的にお人好しな展開の話ばっかりよね」
 ラフは、傷のあるほっぺたで笑った。
「古典的なRPGはそういうもんだからな」
「知ってるけど。でも、お人好しすぎるストーリーを演じてると、やっぱり、ときどき違和感を覚えるわ」
「お姫さま、今日、冷めてないか?」
「別に」
 ニコルはおかっぱの銀髪をサラッと揺らして、小首をかしげた。
「先、進めるよ?」
「いいわよ」
 カイの話によると、村は今、危機的状況らしい。
「巫女のヒナがさらわれてしまう。そうなっては、村は道しるべを失うんだ。潮の満ち引きも、天気の移り変わりも、災害の訪れも、巫女なくしてはひとつもわからない」
 アタシたちはヒイアカの呪術で古代に飛ばされてる。フアフアの村はリゾートっぽく、にぎわってた。ネネの里でさえ農業をやってて、暦や文字を持ってた。ここ、「名もなき村」は全然、文化レベルが低い。カロイモやバナナみたいな主食すら見当たらない。
 名もなき村はつねづね、「荒くれ者の海精クーナ」という存在におびやかされてるらしい。
 たとえば、クーナの機嫌が悪いときに村人が漁に出たら、嵐を叩き付けられて、舟をひっくり返される。巫女が禁忌《カプ》だと言い渡した日に海に近付いたら、禁忌《カプ》をおかす者を高波がさらっていく。
 村の巫女である「月の美少女ヒナ」はある日、祈りの庵でおぞましいお告げを受けた。
「次の下弦の月が上るころ、海精クーナが巫女ヒナをイケニエとして連れ去るであろう」
 クーナは、下弦の月の晩には「海に落ちた星のような石」を抱いて、必ず姿を現す。その石っていうのが、つまり、ホクラニのことだ。
 ただでさえ強大なクーナが、下弦の月の晩にはさらに凶暴になる。ホクラニがクーナに神の力を授けるんだ。その力を使って、巫女ヒナにまで手出しようとしてる。
 お告げを聞かされたカイは、我慢の限界だった。クーナ討伐を決めた。
「そういうわけで、オレたちの協力が必要になったってわけか」
「頼む、旅の戦士たちよ。クーナを倒し、ヒナを救いたいんだ」
 必死な顔。まあ、要するに。
「ヒナって子のことが好きなのね?」
「お、オレとヒナは、お、幼なじみなんだ。ヒ、ヒナは巫女で、けがしてはならない存在だから……そ、そう、ヒナは村に必要で、皆に慕われていて……っ」
 ふと、少女が一人、しずしずと歩いてくる。
 青みがかった銀色に輝くストレートヘア。大きな目も、髪と同じ色。月の光にも似た髪と目と対照的に、肌は日に焼けている。不思議な雰囲気の美少女だ。
 華奢な体に白い服を着た彼女は、ふわっと微笑んだ。
「初めまして、旅のおかた。ワタクシはヒナと申します。カイに呼ばれて、こちらへ参りました」
 ラフはノーリアクション。ヒナはキレイな子だけど、胸がないから。
 ニコルが単刀直入に尋ねた。
「アナタはイケニエになるのが怖い?」
 青白いはずのヒナの両目に、真っ青な星がきらめいた。ほっぺたと唇が、ほんのりと染まった。生き生きとして、かわいくなった。
「怖くはありませんわ。ワタクシの身と引き替えに、海精は村の安泰を約束しているのですから」
 カイとヒナの話を聞いた後、アタシたちは、思ったことや感じたことを交換し合った。
「ヒナは絶対、何か嘘をついてるわ」
「一方で、カイは単純な男に見えるぜ」
「海精クーナって、やっぱり手強いんだろうね」
 方針を話し合う。予言された下弦の月の夜は、明後日だ。
「下弦の月まで待たなきゃいけないのかしら?」
「ホクラニ発動より前に敵と戦えたら、設定上、だいぶ楽なんだよな」
「うん。で、これからボクたちはどう動こうか?」
「アタシはヒナの様子を探りたいんだけど、アンタたちは?」
「オレはカイの腕試しを受けることになってる」
「じゃあ、ボクは村の食事事情その他を調査してくるよ」
 一時間後に再集合することにして、いったん解散。
 休憩用に貸し与えられた小さな掘っ立て小屋を出て、アタシは海に向かった。
 夕日が水平線に落ちていく。世界じゅうがキラキラした橙色に染め上げられている。寄せて返して砕ける波は宝石みたい。一瞬で砕け散る、儚い宝石。
「夕日って、どうしてあんなに大きく見えるのかしら?」
 いつ見ても、不思議になる。その錯視のメカニズムは今でも解明されてないから。
 人類の進化なんて、きっと、とっくに止まってる。人間は、賢いと勘違いして発展しすぎた未熟な生き物だ。たくさんのものを見落としながらここまで来たんだと思う。
 簡単で便利なものに価値が与えられる世界だから、難しくてめんどくさいアタシは居場所を持てない。それはたぶん、平和な世の中のカタチだ。平和で、だけど最低なカタチ。
 ピアズは現実よりマシなカタチをしてる。だって、アタシはここにいる限り、そのままのアタシでいられるから。
 言葉が出てこない苦しさを、こっちの世界では味わうことがない。アタシにとって、それはとても大きな驚きだった。嬉しい驚きだったんだ。
 こっちの世界の匂いって、どうなんだろ? 海には、どんな匂いがあるんだろ? よく動き回るラフは、やっぱり男っぽく汗くさいの? ニコルの作る料理の匂いは、きっと食欲を刺激するのよね?
 歌が聞こえた。
 わらべ歌みたいだ。おばあさんと小さな子どもたちが、波打ち際で網を修理しながら歌ってる。

  海のまやかし 青い色
  波の下から 牙をむく
  ねんねしない子 どこにおる
  早く寝なされ 寝なければ
  ねんねしない子 さらわれて
  青い夢見て 海の底

 ちょっと悲しげなメロディの、素朴な歌だ。初めて聴くのに、なんとなく、なつかしい。ラフやニコルも村のどこかで聴いてるかしら? 悪くない歌よ、って伝えてやりたい。
 アタシは夕日の風景の中を、ヒナの住む庵へ向かった。