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そして、高校に入っても、その影響力(呪い?)は俺に及んでいるというわけだ。
俺が消しゴムを拾い上げている限り、左利きの姫君のご機嫌は麗しく、学校生活は安泰のはずだ。
だが、その平穏な生活を引っかき回そうとする人物がいた。
他ならぬ左衛門真琴様ご本人だ。
放課後、鞄を持って帰ろうとした俺にタイミングを合わせたかのように、姫君が先を制して立ち上がったのだった。
「優一郎殿」
この呼び名もなんとかしてほしい。
武士かよ。
「今日からわたくしは名探偵になろうと思います」
はあ?
メイタンテイ?
なる?
名探偵って、今日からなれるものなのか?
しかし、俺は無表情を装わなければならない。
なにしろ姫君のおっしゃってることだ。
そこには必ず意味がある。
対応を誤れば俺はこの学校にいられなくなり、この街で生きていくこともできなくなる。
こういうときほど忠実なる下僕を演じるのだ。
「名探偵。ああ、いいですね」
自分でも間抜けな返事だとは思うが、他になんと言えばいいのかさっぱり分からない。
「ええ、名探偵です。わたくしにふさわしい役柄だとは思いませんか」
「はあ、そうですね」
全然そうは思わないけど、ご機嫌を損ねてはいけない。
俺は波風を立てない程度に、あまり興味はないですよという空気感を醸し出そうと努力していた。
姫君はそんな俺の気持ちなど理解しようともせず、話を続ける。
「さっそくですが、事件を見つけてきなさい」
事件?
この平凡な公立高校に事件ですか?
これだからお姫様は困る。
事件がコンビニに売ってるとでも思っているんだろうか。
むしろ、できれば売っていてくれた方が楽でいい。
百均とか、ドンキとかヴィレヴァンとか、なんならカルディでもいい。
『お湯を注ぐだけで本場のトリックを再現! 別添えの血糊ケチャップは洗えば落ちます!』なんて、店員さんの手書きポップがついていて、三個セットでコスパのいいやつとか、お願いですからどこかで売ってくれませんか。
「ええと……、事件ですか、俺が?」
「そうです。わたくしはあなたに話をしているのです」
まあ、そうだ。
他の連中はとっくにドーナツ状に距離を置いている。
この高校でも姫君の子守りは俺の役目なのだ。
しかし、気まぐれで困るよ、お嬢様は。
名探偵とか事件とか、よっぽど退屈なのかねえ。
「どんな事件ですかねえ」
俺は考えているふりをしながら相手の反応を探っていた。
「名探偵にふさわしい事件です」
だから、それはどんなのだよ。
心の舌打ちがばれないように俺は頬の筋肉を総動員して彼女に微笑みを向けた。
「名探偵にふさわしいとは?」
「そうですね」と彼女は左手の人差し指を立てた。「やはり難解な密室トリックとか、孤島の殺人事件でしょう」
俺は即座に答えた。
「この教室には鍵がかからないようになっているし、盆地の田舎町に孤島なんかありませんよ」
俺の返事に対し、自称名探偵殿は鷹揚にうなずいた。
「ならばあなたが作るのです。災いを招き寄せるのも助手の立派な仕事です」
ええと、それはつまり、鍵を買ってこいということですか?
いくら左衛門一族の姫君の命令だとしても、教室に勝手に鍵なんか付けたら、さすがに先生に怒られるだろうな。
それじゃ俺に災いが降りかかるだけじゃないかよ。
ていうか、いつ俺が名探偵の助手になったんだよ。
困っていると、ちょうどうまい具合に横の下から声をかけられた。
「ねえ、マコっちゃん、何してんの?」
もう一人の高橋、高橋萌乃だ。
こいつは中学一年生の時から背が変わらないから、いつも気がつかないうちに忍び寄ってくるのだ。
左衛門家のお嬢様を気安く『マコっちゃん』呼ばわりできるのは萌乃くらいのものだ。
こいつも同じ高校に進学したけど、クラスは隣で、こうして登下校時にだけ顔を出していくようになっていた。
俺はこの気まぐれな名探偵殿を引き取ってくれないかと期待したのだが、そんな希望はご本人の一言であっさりと打ち砕かれてしまった。
「あら、萌乃さん。今日は用事がありまして、ご一緒できなくてすみません」
いや、ない。
そんなものありませんって。
しかし、もう一人の高橋も何らかの空気を察知したのか、「ああ、そうなんだ。じゃあね、ごきげんよう」とニヤけながら教室を出て行ってしまった。
逃げ足の速いやつだ。
後ろ姿だけはまるで華麗な女怪盗じゃないか。
萌乃の背中に向けて呪いの視線を送っていると、自称名探偵殿が俺を手招きしながら廊下に顔を出して様子を探り始めた。
「尾行です」
はあ。
「探偵といえば尾行も重要な役目でしょう」
地味だな。
しかも、探偵の尾行って、よくポストにチラシが入ってる浮気調査とかだろうに。
まさか、あいつ不倫とかしてないよな。
ていうか、あいつにカレシなんかいたためしがないか。
「今日のところは萌乃さんをターゲットとして、尾行の訓練をおこなうことにいたしましょう」
姫君はすました顔で壁伝いに歩きながらもう一人の高橋を追い始めた。
すみません、興味ないです。
できれば俺は遠慮させてもらいたいんですけど。
しかし、俺が教室の出口で突っ立っていると、お嬢様が振り向いてこちらをにらみつけた。
わかりましたよ。
行けばいいんでしょうよ、行けば。
どうせ帰宅部なんだし、高校生活の安泰がかかっているのだ。
お嬢様の御機嫌取りにつきあってみるとするか。