凛子が小声で言い、さっと室内を覗いた。一度顔を引っ込め、「誰もいないわね」とつぶやいて、玄関に入る。
「ごめん、あとで掃除して」
 凛子は小声で言って、パンプスのまま室内に入っていった。犯人がベランダに隠れている場合を想定してのことだろう。
 翔平はフローリングに薄く残る靴跡を見ながら、小さくため息をついて彼女に続いた。凛子はベランダに面した大きな窓の横に体をピタリとつけ、慎重に窓の外を覗き見た。そうして翔平の方に顔を向け、首を横に振る。
「三〇二号室に行ってみましょう」
 凛子がさっさと室内を戻って外に出た。翔平は鍵をかけて、先に立って共用廊下を戻る。探偵事務所の前を通って、管理人室の横にある階段へと凛子を案内した。
「狭いのでお気をつけて」
 翔平は言いながら階段を上った。一階には撲殺犯はいなかった。そうなると、空き部屋になったままの三階に潜んでいる可能性が高まってくる。
 翔平は大きく息を吸って、額の汗を拭った。
 さっきより蒸し暑さが増したような気がする。探偵事務所を開いて半年になるが、こんな凶悪事件に直接関わったことはない。面倒だという理由で素行調査や浮気調査も引き受けず、犬探しや徘徊している家族を見つけ出す程度の仕事しかしていないのだ。
 チラッと振り返ったら、凛子はいつになく緊張した面持ちだった。
「どうぞ、こちらです」
 翔平は一〇五号室と同じように部屋の鍵を開けた。ドアを開けた瞬間、凛子が翔平を押しのけて室内にさっと目を走らせた。そして無言のままベランダに近づく。翔平はすぐさま凛子に続いた。凛子がベランダを覗き、誰もいないのを確認して窓の鍵を開けた。
「ほら、うちには隠れてなかったんだよ」
 翔平は安堵の交じった声で言った。しかし、凛子は張り詰めた表情のままだ。
「あれはなに?」
 凛子が右下を指差した。翔平はベランダに出て首を伸ばし、凛子の指の先を見る。その下は裏庭で、凛子は隅に置かれたクリーム色の四角い物置を示していた。
「ああ、あれは物置だ」
「鍵はかかってるの?」
 凛子の問いを聞いて、翔平の顔色が変わる。
「いいや」
「不用心ね」
「掃除道具しか入ってないから、鍵は必要ないと思ったんだ」
「なにか普段と違うところはある?」
 翔平は物置をまじまじと見たが、とくに変わった様子は見られない。