「わからないな。物置を使うのは通いの清掃員さんだけだから」
「そう」
 凛子は共用廊下に戻り、ポケットからスマホを取り出した。通話がつながるやいなや、後輩刑事に応援要請をして、すばやくポケットに戻した。続いてバッグから懐中電灯を出し、右手に持って翔平を促す。
「物置に案内して」
 翔平は凛子とともに一階に下りた。いったん事務所に入って、部屋の隅に立てかけてあるフローリングワイパーを武器代わりに握る。事務所のドアを閉めたら、凛子はもうマンションの外に出ていた。翔平は慌てて彼女を追いかけ、並んで裏庭に回る。撲殺犯が潜んでいないことを願いながら、足音を忍ばせ物置に近づいた。レンガの敷かれた歩道に、最近人が歩いた形跡は見られない。
 しかし、万が一ということもある。
 翔平が凛子を見ると、凛子は右手で翔平に下がるよう合図をした。そうして一呼吸置いてから、物置のドアを勢いよく横に開けた。
「動かないで!」
 凛子がかざした懐中電灯の光の輪の中に、左手で顔を覆い、右手にナイフを持った男が座り込んでいた。ジップアップのミリタリージャケットに黒のジーンズを着た、痩せぎすの三十歳くらいの男だ。防犯カメラの男と背格好が似ている。男の横には、血のついたレインコートが丸めて置かれていた。よくよく見ると、黒い猫がくるまれていた。猫はピクリとも動かない。もう殺されてしまったのか。
 翔平は下唇を噛み、フローリングワイパーを握りしめた。
「ナイフを捨てなさい!」
 凛子は大きな声で言って一歩下がった。男は凛子を凝視していたが、相手が構えているのが懐中電灯だと気づいて、ニヤッと笑った。そうしてゆっくりと立ち上がる。
「動かないで!」
 しかし、男は威嚇するように何度もナイフを突き出した。翔平が凛子を見ると、彼女の顔は青ざめている。頬の傷の原因となった出来事を思い出しているのだろうか。
 翔平は男の顎に三本の細長いひっかき傷があるのに気づいた。フローリングワイパーを下ろして男に一歩近づく。
「な、なんだ、おまえ!」
 男はナイフを両手で持って、切っ先を凛子と翔平に交互に向けた。
「あなたは下がってて!」
 凛子の強い言葉に構うことなく、翔平はゆっくりと男に近づく。
「その傷はその黒猫にやられたのか?」
 翔平は左手の人差し指で自分の顎をなぞった。
「う、うるせぇっ」