その真実に瞳が揺れた。
やり場のない感情は、まるで誰かに心臓をねじ曲げられたようで、背筋に冷気が襲った。
娘の相手に一段落した男が家から出て来て、まなみさんを優しく連れ帰る。
その後ろ姿を呆然と眺めながら、私はナガトが去っていった道につま先を向けた。
「ナガト……」
思わずその名を口にする。次の瞬間、私は走り出していた。
ドレスを着て、髪型も整えられた女が、服装を間違えた陸上選手のように全力疾走する。
パンプスのヒールが弾け飛ぶように、コンクリートを殴った。
「待って……。待ってナガト!」
どこに行ったのかもわからないナガトを、無我夢中で探す。
ナガトが行ったであろう曲がり角のずっと先には、開けた道があった。
車が往来し、先程の閑静な住宅街とはまるで違う雰囲気を醸し出す。
まだ夏の蒸し暑さが残る日の元で、道路の先に見えるものを確認しに走る。
体も心も、何も感じなくなっていたはずのに、やはり私は生きているようで、公共機関も使わずに歩いた足が悲鳴をあげていた。
久々に走ったことにより、呼吸が激しく乱れる。息をする度に、横腹が痛くてたまらない。
道路の端に立つと、横断歩道の向こう側に何があるかハッキリとわかった。
赤くなった太陽の光を、これでもかというほど反射させ、それ自身の流れも加わり、煌びやかな情景を作り出していた。
「……川だ」
何故だかそこに進んだ。
子供が信号待ちをする前を、堂々と渡る。
赤信号にゆっくりと死にかけの足を進める私に、クラクションと脅威の視線が刺さる。
なんとか止まった車から、罵声が浴びせられるも、私の脳内には響かなかった。
ただひたすらに、行かなければという最後の信念で、息を切らした私は歩いた。
川のほとりに彼はいた。橋の下ということもあり、他より少し暗い中に佇む姿は、私に真実を告げているよう。
小さな堤防のように斜めったコンクリート上で、ナガトは私に気がついた。
瞬間、視線と体の向きを反対に移動させ、赤の他人であるように歩き出す。
「ま、待って……!」
二人の間にある数メートルの距離を走り、私は手を伸ばした。
ナガトの黒いジャケットから出た、骨ばった手を目掛けて掴む。
───はずだったのに。
その時だけ時間が止まったようだった。
私の指先は、確かにナガトの手に届き、ナガトがその瞬間を横目で見た。
掴んだはずで、そこにあるはずの温もりは、半透明になってすり抜けていたのだ。
「やめろ!!」
ナガトは私の手を振り払う。だが、私の手には当たらない。叩かれる痛みもない。伸ばした場所から動くこともなかった。
「な……ナガト……」
ナガトは恐怖の表情を身に纏い、走った訳でもないのに大きく肩を揺らして息を切らしていた。
地面に視線を向けるナガトは、もっと地下深い別の場所を見ているよう。
「やめろ……やめろやめろ!! 違う! 俺は死んでない! 生きてるんだ、ずっとこうやって人として人生を歩んでいる最中なんだよ!!」
誰に話しているのか、わからなかった。取り乱したナガトは、自分に言い聞かせるように指を立てた手で頭を抱え込む。
「ナガト、大丈夫……」
「やめてくれ、やめてくれよ! 一番見つけたくなかったものを見つけて、探していたものを何も見つけられなかった! 俺は……俺は生きてるんだよ……!!」
まなみさんの話とナガトの心の悲鳴が、私の中で細い糸で繋がる。ナガトの叫びは、世界を歪ませるほど強い引力を持っているように感じた。
「ナガトが探してたまなみさんは……見つけられたでしょ?」
怖かった。私だって、まだ現実を受け入れることができていない。目の前に広がる光景は、私の知るナガトではなく、燃え盛る地獄の釜の中で、助けを求める死者そのものだった。
「まなみ? 俺がまなみを探していただって? 違うね。まなみ本人を探していたんじゃない」
私を睨むように笑う彼は、私が朝見た鏡の前の自分のようだった。
「どういうこと? まなみさんを探していたって……」
「俺の探し物は〝生きている証拠〟だ」
その言葉にハッとした。トンカチで頭を殴られたような衝動に駆られる。
ナガトの見つめる先は、自身の手のひらだった。
私が、ナガトの探し物を壊したのだ。
ナガトは死んでいると、すり抜けた手が証明してしまった。
だから彼は、こんなにも取り乱してしまったのだ。
「まなみに会えば……今も変わらず生活している姿を見れば、俺が生きていることを証明できた。なのに……まなみの時間は進んでいて、知らない男と結ばれて、子供が出来て、育っていって……」
それを見たくなかったから、まなみさんのお腹の膨らみを見た一瞬で判断し、その場を立ち去ったと。死んでいる証は見なければいい。信じなければ自分は生きているのだと、彼は言った。
そうだ。初めからナガトはそうだったじゃないか。
子供を助けなかったんじゃない。助けられなかった。
触れることで、自分が死んだということを認めてしまうことになる。そもそも触れること自体が出来ないのだから、助けられるはずもない。
それに、私が『今日死ぬから』と話した時、周りの視線が集中しているように感じたのは、周囲の人が話の内容を聞き取ったわけではなく、姿の見えないナガトに向かって一人で話す、私に驚いていたのだ。
食事をしないのもそうだ。触れられないから食べられない。お腹がすいていないというのは事実か、定かではないが結論は同じだ。
「でもまなみさん、ナガトのことをずっと探してたよ。今もずっと、苦しんでる」
「……え?」
ナガトの壊れた心臓も、まなみさんの引きずる過去も、私が結んであげなければならない。
それが私の、最期の使命なのかもしれないと、心のどこかで悟った。