「ちょっと早いけど、客席をディナー仕様にするよ。卓布とメニューの交換を君に頼む」
厨房に顔を覗かせてそう言ったのは、穂積(ほづみ)
黒いベストとズボン、蝶ネクタイ姿で働く、ホール係の責任者だ。
三十六歳の彼は従業員宿舎ではなく、山を下りきった住宅地で妻子と暮らしている。
二寸ほどの長さの黒髪の、前髪から全てをポマードで後ろに撫でつけて、身嗜みにはいつも気を配っているようだ。
左門までとはいかずとも、なかなかの美青年でもある。
「はい」と返事をした大吉は、早速その仕事に取り掛かる。
時刻は午後三時五十分。
あと一時間ほどすると、ディナー客がぼちぼち訪れることだろう。
昼間は比較的値段の安い料理を提供しているのだが、夜はメニュー表を取り替える。
高額な飲食代を頂戴する分、もてなしの質も高水準でなければならず、テーブルにかける白い卓布には一点のしみも許されないのだ。
厨房からホールに繋がる通路には壁収納があり、その引き戸を開けてテーブルの数だけ卓布を取り出した大吉は、ディナーメニュー表と共にワゴンにのせて運ぶ。
ホールには、ひとりだけ客がいた。
窓際のふたり掛けのテーブルで、静かにライスカレーを食べており、女性のひとり客とは珍しい。
歳は二十代後半に見え、山吹色の花亀甲模様の訪問着に、波打つ髪を額から両側に流して耳を覆った、“耳隠し”と呼ばれる流行(はや)りの髪型をしている。
卵型の顔に優しげな目をした、なかなかの美人である。
(ひとり優雅に早めの夕飯といったところだろうか。いい所のお嬢さん? いや、年齢を考えれば、結婚していると思った方がいい。とすると、旦那の稼ぎがいいのだろう)
自分の未来の妻にも、そのくらいの贅沢をさせてやりたいと、大吉は夢みる。
夫婦の習慣として、週末はレストランで食事をするというのも良い。