「団体客の予約が入っているのは穂積さんも知っているでしょう。厨房はこれから忙しくなるんですよ」
そう抗議した大吉だが、「文句はオーナーに直接言って」と軽くいなされて、鍵を押し付けられた。
左門の屋敷の予備の鍵は、浪漫亭の金庫に保管されている。
それを出して渡せと、穂積は指示されたのだろう。
「森山さん」
大吉が援護を求めて振り向いても、忙しそうに魚を(さば)く森山に「行ってこい」と言われてしまった。
「オーナーと喧嘩しても俺に得はねぇし、お前がいなくても厨房は困らん」
アイロンがけから逃げたくても誰も引き止めてくれず、諦めた大吉は渋々勝手口を出て左門の屋敷へ向かう。
鍵を開けて玄関に上がり、まずは室内履きの草履に履き替えた。
廊下を進んで書斎の横のドアを開けると、そこは衣装部屋。
背広にシャツ、革靴に帽子やステッキなどが何十点も店屋のように置かれていて、初めて見た時の大吉は驚いたものだ。
しかし今となれば見慣れたもので、すぐに指定された立襟のシャツを探しだした。
「アイロンをかけてあるシャツは他にたくさんあるというのに、なぜこれじゃなきゃならないんだよ……」
ぶつぶつと文句を呟いて、アイロン台の前に行く。
アイロンもこの部屋に置かれていて、電気式の最新型である。
大吉の実家にあるのは炭火アイロンとコテで、庶民の多くの家も同じだろう。
電気式は高すぎるし、そもそも昔ながらの古い家には、天井照明以外の電気取り口がない。
大吉は霧吹きで湿らせたシャツに、熱したアイロンを滑らせる。
小さな皺も許してくれない左門なので、真剣に集中してアイロンをかけ、それを終えて衣紋掛けに吊るしたら、玄関の方に物音がした。
帰宅した左門は衣装部屋に顔を出し、「できたか?」と横柄に問う。
頬を膨らませた大吉は、文句の言葉と共に衣紋掛けごとシャツを突きつけた。