いつもの笑顔でお客さんにメニューを見せながら話しかける。
長蛇の列ができているので注文を円滑に取るために中村渉は次々に簡易版のメニューを渡す。代官山にあるカフェ。扉が解放されていて中の様子がすぐに目に入るから、前を通りかかるだけで店内の雰囲気を感じてもらえるから渉はカフェをすごく気に入っている。
百七十五センチほどの身長に黒のショートヘア。でもワックスで髪の毛で遊べるように前髪を残して、襟足も長めに残してある。少しワックスつけて七三に分けるだけだけど、渉なりにオシャレをしているつもりだ。
現在二十七歳で大学を卒業してすぐここのカフェに正社員として入った。もう勤務して五年。去年から店長を任されている。業務的には流れ作業で立ち仕事だけど、嫌にはならない。こうやって同じことを繰り返している方がいい。渉はこのぐらいの方が一番合っていると思っている。毎日来てくれるお客さんと話したり、新しいお客さんと話すのもとても楽しい。人からの刺激もたくさんもらっている。気軽に『わたる』とか、『中村君』とか呼んでもらえるからすごく嬉しい。
朝番の勤務を終えた。時刻は午後四時過ぎ。渉は行きつけのカフェに出かけた。職場のコーヒーの独特の匂いのついた白いシャツのままだけど、今から向かう先もカフェだからそこまで気にしていない。リュックサックを背に姿勢良く歩いていく。ワクワクして早足になる。まだ見ぬ世界を目指して向かうようだった。
カフェにたどり着くと、いつものオレンジジュースを頼んで、いつもの大きな長テーブルのカウンター席に着いた。『空いていて良かった』と、渉は胸を撫で下ろす。席にすごくこだわりがあるわけではない。でもできればという気持ちがある。
タブレットを取り出して文章を書き始める。渉は小説を執筆している。四ヶ月ほど前から書き始めて、もう第三章まで書き上げたからこれから第四章に入る。ストーリーのクライマックスの部分だ。前はパソコンで書いていたけど、持ち運びが面倒になってタブレットに変えた。電車の待ち時間や空き時間にも書けるから気に入っている。これが完成したら、プロの人に見てもらうためにどこかの出版社が主催している新人文学大賞に応募しようと思っている。それでみんなに読んでもらって、映画にしてほしい。キャスティングも決まっている。もちろん渉が勝手にその人たちを思い浮かべて書いているだけだ。主題歌も決まっている。女性シンガーがリリースしたアルバムの中の一曲を選択した。何度も聴いているうちにその曲にただならぬ哀愁を感じ、その中にも思いやりが感じられる歌声がストーリーに合っていると感じてそれにしようと思った。
もちろんそんな妄想は打ち砕かれることぐらいは分かってる。どれもこれも渉の都合のいい世界だということは。映画にしてほしいなんて、叶うわけない。新人文学大賞も一次選考でも通過すればいいほうだって分かっている。でも何もやらずに終わってしまうのが何より嫌なだけだった。やってみてダメだったらそれでいい。諦められる。心の片隅に置いておきたい。無理だって思っていても、片隅に置いておきたい。それが渉を突き動かす何かになるなら。
渉が小説を書こうと思ったのは大学三年生になりたての春だった。経営学部で勉強していた渉は二年生まで真面目に頑張ったおかげで必要な単位が取れていて、卒論と就職活動に入ろうとしていた時だった。
春の匂いがするある日、当時付き合っていた彼女と、新作映画の完成披露試写会に出かけた。人気グループの歌手で俳優業もこなす成瀬亮太が主演を務めるからって渉を連れ出した。渉はそこまで興味はなかったけど、彼女がその子の名前を連呼するから付き合ってあげることにした。そこで彼女は言うまでもなく成瀬亮太に魅せられ、渉は大きなスクリーンに映し出された予告映像に心を奪われた。
渉の目の前に羅列された問い。
役者の遠くを見る切ない目。
すべてを支配する映像スピード。
哀愁を置き去りにする音楽。
渉はスクリーンから突如現れた使者に無理やり引っ張られて物語の世界から帰れなくなった。もうここで生きようととも思ったぐらい。そして我に戻って、出演者や監督の作品への思いも聞いた。一つの作品を作り上げることの苦労と素晴らしさ。渉にもできるかもしれない。渉にしか書けない世界があるかもしれない。だから本を書こうと思った。
もう別れてしまったけど、きっかけをくれた彼女には感謝している。彼女は夢と生きる希望を残して去っていった。あの時が分岐点となったことは間違いなかった。それから渉は名のある作家の小説を読み漁った。大学の日程にも余裕があったから、読書に集中することができたからタイミングもバッチリだった。
書き始めた頃は、渉の体験談をもとに物語を展開させていたから、経験不足でうまく書くことはできなかった。社会人になって時間を過ごすにつれてなんとか形になるようになってきた。書いているうちに分かったことだが、普段考えていることや思っていることを小説に交えて書き出すことで心に蓄積されたものを解消しようとしていた。毎日の生活で感じたことを物語にするのが渉の執筆スタイルだ。みんなからしたらただの青くさい話かもしれないけど、別に気にしてない。中途半端な気持ちで書いてないから。渉なりにテーマを持って書いていたから。
オレンジジュースが喉を潤す。書く前に綿密に計画を立てて書いたから次々に言葉が出てくる。集中力が高まって周囲の音が聞こえなくなる。タブレットの充電がどんどん減っていく。携帯用の充電器を取り出して電力を与える。書きたい時、言葉がすぐに浮かぶ時に書けないとすごくストレスになるから充電器を携帯している。ページ数はどんどん増えて終わりに近づいてくると共に目の輝きが増す。
渉が手を止める。完成した。椅子に静かにもたれて手を休める。大きく息を吐いた。
「再会」「告白」「対立」「未知」の全四章からなる小説。
タイトルは「心づくし」。ペンネームは春井俊太。
渉の夢は広がる。これが最初で最後の作品になるだろう。
長蛇の列ができているので注文を円滑に取るために中村渉は次々に簡易版のメニューを渡す。代官山にあるカフェ。扉が解放されていて中の様子がすぐに目に入るから、前を通りかかるだけで店内の雰囲気を感じてもらえるから渉はカフェをすごく気に入っている。
百七十五センチほどの身長に黒のショートヘア。でもワックスで髪の毛で遊べるように前髪を残して、襟足も長めに残してある。少しワックスつけて七三に分けるだけだけど、渉なりにオシャレをしているつもりだ。
現在二十七歳で大学を卒業してすぐここのカフェに正社員として入った。もう勤務して五年。去年から店長を任されている。業務的には流れ作業で立ち仕事だけど、嫌にはならない。こうやって同じことを繰り返している方がいい。渉はこのぐらいの方が一番合っていると思っている。毎日来てくれるお客さんと話したり、新しいお客さんと話すのもとても楽しい。人からの刺激もたくさんもらっている。気軽に『わたる』とか、『中村君』とか呼んでもらえるからすごく嬉しい。
朝番の勤務を終えた。時刻は午後四時過ぎ。渉は行きつけのカフェに出かけた。職場のコーヒーの独特の匂いのついた白いシャツのままだけど、今から向かう先もカフェだからそこまで気にしていない。リュックサックを背に姿勢良く歩いていく。ワクワクして早足になる。まだ見ぬ世界を目指して向かうようだった。
カフェにたどり着くと、いつものオレンジジュースを頼んで、いつもの大きな長テーブルのカウンター席に着いた。『空いていて良かった』と、渉は胸を撫で下ろす。席にすごくこだわりがあるわけではない。でもできればという気持ちがある。
タブレットを取り出して文章を書き始める。渉は小説を執筆している。四ヶ月ほど前から書き始めて、もう第三章まで書き上げたからこれから第四章に入る。ストーリーのクライマックスの部分だ。前はパソコンで書いていたけど、持ち運びが面倒になってタブレットに変えた。電車の待ち時間や空き時間にも書けるから気に入っている。これが完成したら、プロの人に見てもらうためにどこかの出版社が主催している新人文学大賞に応募しようと思っている。それでみんなに読んでもらって、映画にしてほしい。キャスティングも決まっている。もちろん渉が勝手にその人たちを思い浮かべて書いているだけだ。主題歌も決まっている。女性シンガーがリリースしたアルバムの中の一曲を選択した。何度も聴いているうちにその曲にただならぬ哀愁を感じ、その中にも思いやりが感じられる歌声がストーリーに合っていると感じてそれにしようと思った。
もちろんそんな妄想は打ち砕かれることぐらいは分かってる。どれもこれも渉の都合のいい世界だということは。映画にしてほしいなんて、叶うわけない。新人文学大賞も一次選考でも通過すればいいほうだって分かっている。でも何もやらずに終わってしまうのが何より嫌なだけだった。やってみてダメだったらそれでいい。諦められる。心の片隅に置いておきたい。無理だって思っていても、片隅に置いておきたい。それが渉を突き動かす何かになるなら。
渉が小説を書こうと思ったのは大学三年生になりたての春だった。経営学部で勉強していた渉は二年生まで真面目に頑張ったおかげで必要な単位が取れていて、卒論と就職活動に入ろうとしていた時だった。
春の匂いがするある日、当時付き合っていた彼女と、新作映画の完成披露試写会に出かけた。人気グループの歌手で俳優業もこなす成瀬亮太が主演を務めるからって渉を連れ出した。渉はそこまで興味はなかったけど、彼女がその子の名前を連呼するから付き合ってあげることにした。そこで彼女は言うまでもなく成瀬亮太に魅せられ、渉は大きなスクリーンに映し出された予告映像に心を奪われた。
渉の目の前に羅列された問い。
役者の遠くを見る切ない目。
すべてを支配する映像スピード。
哀愁を置き去りにする音楽。
渉はスクリーンから突如現れた使者に無理やり引っ張られて物語の世界から帰れなくなった。もうここで生きようととも思ったぐらい。そして我に戻って、出演者や監督の作品への思いも聞いた。一つの作品を作り上げることの苦労と素晴らしさ。渉にもできるかもしれない。渉にしか書けない世界があるかもしれない。だから本を書こうと思った。
もう別れてしまったけど、きっかけをくれた彼女には感謝している。彼女は夢と生きる希望を残して去っていった。あの時が分岐点となったことは間違いなかった。それから渉は名のある作家の小説を読み漁った。大学の日程にも余裕があったから、読書に集中することができたからタイミングもバッチリだった。
書き始めた頃は、渉の体験談をもとに物語を展開させていたから、経験不足でうまく書くことはできなかった。社会人になって時間を過ごすにつれてなんとか形になるようになってきた。書いているうちに分かったことだが、普段考えていることや思っていることを小説に交えて書き出すことで心に蓄積されたものを解消しようとしていた。毎日の生活で感じたことを物語にするのが渉の執筆スタイルだ。みんなからしたらただの青くさい話かもしれないけど、別に気にしてない。中途半端な気持ちで書いてないから。渉なりにテーマを持って書いていたから。
オレンジジュースが喉を潤す。書く前に綿密に計画を立てて書いたから次々に言葉が出てくる。集中力が高まって周囲の音が聞こえなくなる。タブレットの充電がどんどん減っていく。携帯用の充電器を取り出して電力を与える。書きたい時、言葉がすぐに浮かぶ時に書けないとすごくストレスになるから充電器を携帯している。ページ数はどんどん増えて終わりに近づいてくると共に目の輝きが増す。
渉が手を止める。完成した。椅子に静かにもたれて手を休める。大きく息を吐いた。
「再会」「告白」「対立」「未知」の全四章からなる小説。
タイトルは「心づくし」。ペンネームは春井俊太。
渉の夢は広がる。これが最初で最後の作品になるだろう。