桃香たちがトイレから去ったのを確認すると、萌葱さんは鞄からタオルを一枚取り出し、そっと梨華に差し出した。
「夏でも風邪ひきますよ」
「……ありがとう」
浅葱色のタオルを受け取る。柔軟剤だろうか、不思議と安心するにおいがふわりと鼻を掠めた。
教室に鞄を置いたままにしておいて良かった。荷物までずぶ濡れになっていたら、もっと大変だった。
「保健室に行けば替えの制服やジャージが置いてあります。取ってきましょうか?」
「あ、大丈夫。そこまで濡れてないし、今日はもう帰るだけだから」
「そうですか」
中学生なのに同級生に敬語を使う子は珍しいな、と梨華は漠然と思った。桃香たちの仕打ちがあまりに恐怖だったのか、ショックを通り越してどうでもいいことばかり考えてしまう。
梨華が萌葱さんと話すのは初めてだった。いつも窓際で小さな本を静かに読んでいる印象が強い萌葱さんは、人と話すところをあまり見たことがない。今日の配役決めでも、確か裏方の担当に決まった気がする。
どうして人気のないこのトイレに来たのだろう。どうして助けてくれたのだろう。
なんせ一人で静かに過ごしている萌葱さんだ、あまり正義感を表に出すようなイメージがなかったので梨華は純粋に疑問に思った。
「ところで、どうして濡れているのですか?」
「えっ?」
梨華は素っ頓狂な声を出してしまった。
女子複数人に囲まれて、バケツの転がった横でずぶ濡れになっている梨華を見たのだから、てっきりいじめられているのを助けるために声をかけてくれたのかと思った。いや、普通気付くでしょう。
萌葱さんはよっぽど鈍感なのか、それとも天然なのか。表情を見る限り、本当に真意を分かっていないようだった。
「……何で濡れたんだろうね」
梨華はそれしか言えなかった。うまい説明が一つも思い浮かばなかった。
萌葱さんはそれで納得したのか、それとも理由なんてそれほど気にしていなかったのか、もう一枚タオルを出して制服を拭いてくれた。
間近で見るとお人形さんみたいな顔立ちだ、なんてやっぱり呑気なことを梨華は考えてしまった。
「帰りましょう、遅くなると危ないですから」
「……そう、だね」