よくある高校-school-の相談業務-counseling-



   1.ボクは保健室の先生が好き


 ボクは保健室の湯島(ゆしま)(ルイ)先生が好きだ。
 好き、では語弊があるかも知れない。
 憧れ……?
 そう、憧れもある。
 泪先生は四月から、ボクが在学する私立朔間(さくま)学園高等学校へ赴任して来たばかりなんだけど、ボクは彼女を一目見た瞬間から心を奪われた。
 先生は可愛い。かつ妖艶だ。
 年齢は二〇代後半。小柄かつ華奢な双肩は思わず抱きしめたくなるし、滝のように腰まで流れる黒髪は一日中撫で回しても飽きそうにない。小顔な目鼻立ちはボクたち高校生と大差ないくらい若々しい。指先のか細さと言ったら、白魚(しらうお)なんて比較にもならない。
(保健室の先生……正確には『養護教諭(ようごきょうゆ)』って言うんだっけ?)
 養護教諭とは保健室で待機し、生徒たちの怪我や病症を診る職業だ。
 その際、保健室で処置しきれないときは専門の病院など医療機関への連絡も行なうし、生徒のみならず教員たちの健康を診ることもある。
 加えて『保健主事』という管理職を兼任することも多く、校内の水質調査、空気調査、日照調査と言った、環境や衛生の状況把握と維持を担っている。
(うちの高校って、ちょうど去年、前任だった養護教諭が定年退職したんだっけ。おあつらえ向きに泪先生を雇う余地が出来たわけだ)
 朔間学園は中高一貫で、それぞれの校舎に養護教諭が配属されている。
 ボクはこの采配に感激したね。おかげで泪先生に巡り会えたから。
 まさに、この世の春。
 今は四月だけに、春。
 ちなみにボクは当年とって一七歳の高校二年生。実は先月、春休みに嫌なこと(・・・・)があったんだけど、泪先生と知り合ってからは少しずつ元気を取り戻すようになった。
 どんなに鬱気味でも、保健室で泪先生に接すれば元通りになる。
 我ながら単純だね。
 恋の力って凄いな。
「今日も気分が優れないから、保健室へ行こう。早くしないと気が滅入る……吐き気がする……お腹も痛い……体がだるい……足取りが重い……」
 だからボクは、今日も今日とて教室を抜け出す。
 心因性のストレスが云々(うんぬん)って言われているけど、別に治らなくても構わない。だって、治ったら泪先生に会う口実がなくなるじゃないか。
 とはいえ、最初は本当に学校が苦痛だったんだ。僕は春休みに『トラウマ』を抱えるほどの衝撃的な体験をして、通学が辛くなった。そこで保健室に駆け込んだのが馴れ初め。
「失礼します」
 ボクは学校指定のジャージ姿で、保健室の引き戸を開けた。
 ジャージの方がベッドで横になりやすいからね。ファスナーも全開にした楽な格好で、僕は勝手知ったる足取りで敷居をまたいだ。
 見慣れた内装が眼前に拡がる。白いリノリウムの床、白い壁紙、白い天井、白いカーテンで仕切られた白いシーツのベッドが二台。スチール製の本棚に収納された医学書やら学校指導要領やら作業書やらが壁際にある。窓際には執務用のデスクと椅子が見えた。
 そこに座る、背の低い美女。
 白いブラウス、黒いタイトスカート、白いニーソックス。その上から白衣を肩に引っ掛けている。今日も綺麗だなぁ。眼福、眼福。
「湯島泪先生」
「ん? あ、また君か~。今日も体調が悪いの?」
 泪先生の心地良いソプラノボイスが、室内に染み渡る。
 福音だ。外見が可愛ければ声も可愛い。
 ボクは天にも昇る幸福感に満たされたけど、それを気取(けど)られるのも恥ずかしいから平静を装って――多分バレバレだったと思う――、おぼつかない挙動でベッドに進んだ。
 二台あるベッドのうち、手前にあるベッドはボクの特等席みたいなものだ。
 最近はほぼ毎日、ここで休ませてもらっている。
 泪先生もボクの到来に慣れ切った様子で、黙認してくれている……と思う。もしかしたら、裏でブラックリスト入りしているかも知れないけど。本当に具合が悪いのか、サボりなのか、教員に報告するのも養護教諭の仕事らしいからね。
 目が合うと、泪先生は微笑んでくれた。
 ああ、やっぱり優しい。
「君、いつもジャージ姿で保健室に来るのね~」
「だって、制服でベッドに寝たらシワが付いちゃうじゃないですか」
「あはは~、保健室で寝ること前提なのね」
「あっいや、そういうわけじゃないんですけどっ……」
 ボクはベッドの前で振り返り、ファスナー全開のジャージを揺らしつつ頭を下げた。
 泪先生はちょっとだけ目を丸くしてから、ボクを手で制するんだ。
「かしこまらなくても良いわよ~。校長からも、君の扱いは丁寧にって頼まれてるし~」
「そうなんですか?」
「ま~ね。春休みに嫌なもの(・・・・)見ちゃったんでしょ? みんな同情してるのよ」
 意外だった。だから頻繁に教室を抜け出しても、お(とが)めなしだったのか。
 いや……単に腫れ物に触るのが嫌で、ボクを泪先生に押し付けているのかも知れない。
「君さ~、春休みに『トラウマ』が出来ちゃったんだっけ?」
 泪先生はくるりと椅子を回転させて、ボクと正対した。
 ああ、真正面から眺める泪先生は本当に均整の取れた美人だなぁ。しかも足を組んで座っているから、その、細い脚線美が強調されて、目のやり場に困る。
「はい……ボクは自分が思っていた以上に軟弱で、心がもろかったみたいです」
「その口調も、無理して精神を取り繕ってるように聞こえるね~」
「え?」
 ボクが目を見開くと、泪先生は試すような眼光をボクに差し向けて来る。
 見透かすような、心を覗くような。
 ボクの本性を丸裸にするような。
「君の喋り方、かなり無理してな~い? ボク(・・)っていう一人称も、すごく堅苦しい言い方になってるよ? 本来は別の一人称を使ってたんじゃな~い?」
 この人、凄い。
 読心術でも身に着けているのか?
 ボクは柄にもなくドギマギしてしまった。
 せっかく憧れの泪先生に見つめられているのに、目を合わせられない。しどろもどろに視線を泳がせてしまう。ああ、もったいない。
 ――確かにボクは『僕』でも『ぼく』でもなく、カタコトで無理やり発したイントネーションの『ボク』と名乗っている。
 それは虚勢であり、自己暗示だ。
 そうやって自分をカモフラージュしないと、心の重圧に押し潰されそうだったから。
「あ、あの、ボクはっ」
 ボクは身振り手振りで語り出す。そのたびにファスナー全開のジャージがゆらめいた。
 泪先生はやんわりと頬骨をゆるめ、黙って聞いている。
「ボクは、春休みに大切な友達を、幼馴染を(うしな)って、それでっ」
 ボクはベッドに座ることも忘れ、いつの間にか泪先生との距離を詰めていた。
 接近して、肉迫して、顔が近いのもお構いなしに、必死の訴えを、懇願を、心にわだかまっていた鬱憤の一切合財を、吐き出そうと発奮した。
 でも――。
「は~いそこまで。ちょっと落ち着こうね」
 泪先生が人差し指を一本立てて、ボクの目の前に持って来る。
 ぐっ……まるでお預けを喰らった犬みたいに、ボクは口をつぐむしかない。
 泪先生はときどき、とても意地悪だ。
「君の悩みがとても深いことは伝わってるよ~」
「だったら――」
「だから今日は私じゃなくて、もっと専門の人を頼ってみない?」
「え、専門?」
 ボクはまぶたをしばたたかせた。
「そ」人差し指をくるくる回す泪先生。「君は仮病でもサボりでもなく、本当に心を痛めてる。となると、私の診察では手に余るの。しかるべき専門家と連携を取るべきよ~」
 専門家って誰だろう?
 ボクには見当も付かなかったよ。
 生徒の健康を司るのは保健室じゃないのか? 事実、ボクの心は泪先生に会うと癒されるんだ。ボクにとってはここが天国なのに。
(まさか、医者を紹介されるのか?)
 保健室では手に負えない病状の場合、病院や専門機関へ運ばれることがある。
 うーん、困ったぞ。それだと泪先生に会えなくなってしまうじゃないか。単にボクのわがままだけど。
「君も付いて来て~」
 泪先生は起立した。軽やかな足取りで保健室を出て行く。
「どこへ行くんですか?」
「だから、専門家の所よ~」
「校内に居るんですか?」
「そ~よ」あっさり頷かれるボク。「君の症状は精神的な体調不良だもん。ならそれは、週に一度学校を訪れる『心の専門家』――スクール・カウンセラーに診てもらうべきね」
「スクール……カウンセラー?」
 何だっけ、それ。
 ボクは呆然と立ち止まり、置いてきぼりを喰らいそうになった。
 泪先生は構わず廊下へ出て行く。ま、待って下さいよっ、泪先生~っ。

   *

 スクール・カウンセラーとは、学校におけるメンタル・ヘルス・ケアを担当する、いわゆる『お悩み相談室』だそうだ。
 この高校にそんなものがあったなんて……認知度が低すぎる。
 少なくともボクは知らなかった。他の生徒たちだって似たような認識だろう。
 実際、利用者はまだまだ少ないのが現状のようだ。毎日常駐する養護教諭と違って、スクール・カウンセラーは週に八時間しか出勤義務がないらしい。
 週に一日ぽっきりだ。
 道理で馴染みが薄いわけだ。
 おまけにスクール・カウンセラーの配置は公立校における文部省の方針であって、私立校への配備は後回しにされた歴史がある。
 当然、私立朔間学園は公立校より遅れて導入された。生徒側も不慣れで、他人に悩みを打ち明けるのは勇気がいる。
 どんなに相談内容を守秘すると言っても、スクール・カウンセラーには学校側へ報告義務があるだろう。悩みの原因がイジメや教師のパワハラなど学校問題に直結する場合は、間違いなく報告される。
 プライバシーなんて守られない。
 なおさら利用が億劫になる。
 週イチしか来ないカウンセラーと、信頼関係なんて築けっこない。
 また、泪先生がおっしゃるには、スクール・カウンセラーは非常勤扱いだから本職を他に持っている人が大半らしい。
 本職……精神科医だったり、臨床心理士だったり、大学で心理学を教えたり、各種研究機関に携わったりなど。
 ゆえにカウンセラーは片手間だ。本腰入れて相談に乗ってくれるとは思えない。
「君は運がいいよ~。ちょうど今日から、私と仲良しのスクール・カウンセラーが覇権されることになったの。もはや運命よね~」
 案内する泪先生は、いつもより心なしか声が弾んでいた。歩調もスキップと見まがうほど浮かれている。
 何がそんなに嬉しいんだろう?
 スクール・カウンセラーとやらが、それほどまでに傑物なのか?
「さ、着いたよ~」
 職員室のさらに奥、校舎の片隅にあてがわれたその部屋は、ぽつねんと入口のドアを一つ設けていた。
『心理相談室』
 という表札が、雑な手書きで申し訳程度に提示されている。
 ここか……。
 こんな場末じゃ、一般生徒はまず気付かないよ。大半の人は、手前の職員室までしか足を踏み入れないからね。とにかく存在感が希薄だ。
 ボクはジャージの襟を正して、泪先生に向き直った。
「ここに、心の専門家がいらっしゃるんですか?」
「安心して。その人は公認心理師、臨床心理士、心理学博士号まで持ってるから~。いつもは大学で教鞭をとってるんだけど~、私のお願いでここへの派遣を即諾(そくだく)したのよ!」
「はぁ」
「即諾って凄くない? 二つ返事よ、二つ返事! 神よね、神神。きゃ~、私のお願いを即座に了承してくれるなんて、これってやっぱり運命だわ~、きゃ~」
 ……な、何を言っているんだ……?
 泪先生、急に一人で舞い上がり始めたぞ。両手で頬を覆うと、くねくねと腰を振っている。
 妖しい匂いがする……。
 もしかして、そのカウンセラーって人は、男……なのか?
 泪先生がここまで惚れ込むほどの人物。
 だとしたら、別の意味でボクの心が病みそうなんだけど……。
「あの人も速攻で校長にかけあって、スクール・カウンセラーの手続きを組んだわ。そしたら今日、さっそく出勤したってわけ! あ~ん、これで週に一度、あの人と同じ職場で同じ空気を吸って暮らせるんだわ~。幸せだよぅ」
 あ……駄目だ。
 泪先生、ここではないどこかを幻視している。み、見なかったことにしよう……。
「失礼しま~す、やっほ~来ちゃった~!」
 泪先生が飛び込んだ相談室内は、十畳に満たない空間だった。
 応接用のソファとテーブルが中央に置かれ、正面奥にはデスクとアームチェアがあるばかりだ。
 ウッディな本棚もあるにはあったけど、収納されている文献は少ない。あまり利用されないせいか、閑散としているのも合点が行く。
「やぁ、来たね」
 アームチェアから、人が立ち上がった。
 なぜか左手にステッキを持ち、軽やかにこっちへ歩いて来る。
 よく見ると、左足首が機械音の伸縮を伴っていた。
(あれって……義足(ぎそく)か?)
 その人は案の定、男性だった。ボクは心の中でカチンと来る。ズキンとも痛んだ。
 男性は、泪先生と同じ二〇代後半くらいで、顔立ちの似た眉目秀麗な御仁だった。身長は高くない。その代わり少年のようにしなやかな体躯と、透明感のある声が、ボクを清涼感で満たそうとする。
 何だこれ……油断すると呑まれそうになる。
 彼の庇護下に入れと、空気が訴えている。心を許し、ゆだねろとオーラが出ている。
「君が相談者だね? 僕は湯島(ナミダ)。普段は大学で心理学講師をやってるよ」
 ――()
 とても自然な『僕』。
 堅苦しい『ボク』ではなく、使い慣れた自然な言い回しの発音だ。
(ん? この人も『湯島』って名乗ったぞ……泪先生と同じ苗字(・・・・・・・・)を!)
 苗字が同じってことは、まさか、け、結婚…………しているのかっ……?
(夫婦なのか、この二人?)
「うわ~い、会いたかったよぉ」
 泪先生が、ボクとカウンセラーの合間へ割り込んで来た。カウンセラーの手をギュッと掴んだかと思うと、あまつさえ手繰(たぐ)り寄せて熱い抱擁(ハグ)を交わしたじゃないか。
 だ、抱き合っている……!
 ガーン。
 これはもう、決定的なのでは……。
「こらルイ、あまりくっ付くんじゃない」
「だぁって~、私の(すす)めでカウンセラーを引き受けてくれたことが超絶嬉しくてたまらないの~。私もう興奮しすぎてイキかけちゃったわ。すりすり。えへへ~」
 も、物凄い甘え方だ。
 男性も『ルイ』って気安く呼び捨てているし……。
 間違いない……これは夫婦だ……。
 いけない、ますます気持ちがへこんで来た。
 ボク、もう帰ろうかな……。
「君、どこへ行くんだい?」
 退室すべくジャージのすそを翻したボクに、カウンセラーが声をかけた。
 うるさいなぁ……と思った瞬間、今度は泪先生がボクの眼前へ回り込んだ。さっきまで男と抱き合っていたのに、変わり身が早すぎる。
「帰っちゃ駄目よ~? 君に逃げられたら私の面目が立たないでしょ~?」
「心配する所、そこですか」
「あ、つい本音が~……ってのは冗談だけど、とにかくこの人に相談すれば絶対確実に心の闇を払って解決できるから! 私が保証するから! ね?」
「はぁ……」
 盲信的な勧誘に、ボクは内心引いていた。
 何にせよ、言われるままボクは座るしかない。逃げ場はもうない。
 ここまで来たら腹をくくるしかないか……あ、このソファ柔らかい。気持ちいい。
「信用してないみたいだね」
 テーブルを挟んだ向かいのソファに腰かけたカウンセラーが、ボクの思惑を見抜いたようなことを呟く。
 確かに信用してないけど。
 初対面の相手を信用しろっていう方が、普通は無理だと思うけど?
「警戒心が強いのは賢い証拠だ。かと言って、人見知りでもないようだ。君はとても利発だし、思慮深いし、頭の回転も速い方だね。成績は上位で、人付き合いも狭くはない。ただ、運動は苦手かな? 頭で考えるタイプだから、咄嗟に体が動かないし、自制心が強すぎて口調もぎこちない。違うかい?」
「な、なんで判るんですか! ボクの喋りがぎこちないことまで……」
「簡単な心理分析だよ。君の仕草や態度、身振り手振り、視線、口調、語彙……目は口ほどにものを言うけど、目だけじゃない、人は全身で心理を体現する生き物だ。心理学の統計や傾向から推察し得る、最もよくある性格パターン(・・・・・・・・・・)を選出してみたんだよ。警察はそれを『プロファイリング』として犯罪捜査に利用してるね」
「大体当たっています……でも、ますます怖くなりました。話しづらいな」
「無理もない。悩みを吐露するのは抵抗があるものだ。最初の一言を切り出せず、尻込みしてしまうのはよくあることさ。あるある」
「けど、ボクは――……」
 などとボクが言い淀んでいると。
「じゃ~お二人さんごゆっくり~。ちゅっ」
 泪先生がひらひらと手を振って――ついでにカウンセラーへ投げキッスして――相談室から出て行ってしまった。
 え。じゃあ今から、ボクとカウンセラーの二人っきり?
 ますます居心地が悪いんだけど……。
「遠慮せず話してごらん」身を乗り出すカウンセラー。「君が全てを告白したとき、あらゆる心の負荷が軽減されることを約束しよう」
「ボクは……ボクは……」
「この世の全ては心理学で説明が付く。なぜなら、森羅万象は『人の心』が観測することで意味を成すからね。当然の帰結だろう? うん、あるある」

   *


   2.ボクは春休みに男の娘と泊まる


「まずは君の氏名から伺おうかな」
「ボクは……渋沢(しぶさわ)(しみる)です」
「しみる?」
「さんずいに心、と書きます。胸に()みるとか、心に訴えかけるという意味です」
「良い名前だ。心の機微を感じ取れる優しい人になりますように、っていう名付け親の気持ちがあるね。あるある」
「そうかな……」
 ボクはあからさまなお世辞に首を傾げた。
 名前の由来という他愛ない日常会話から話を広げて、徐々に打ち解けようとしているに違いない――。
「さっそく本題に入ろうか」
 ――あれっ?
「君は先月の春休みに、心の傷を負ったと聞いてるよ。思い出すのは辛いかも知れないけど、あらましを聞かせてくれるかな? もちろん、出来る範囲で構わない」
「ず、ずいぶんストレートに訊きましたね」
「僕が回りくどく雑談するだろうと君は予測して身構えたので、逆を突いたのさ」
「……ボクの心が読めるんですか?」
「読んでるわけじゃないよ。分析してるんだ。あるある」
 どう違うんだ、それ。
「虚を突かれると、人は心がほぐれるのさ。警戒がゆるんで、思わずポロッと心境を述べやすくなる。よくある話術(・・・・・・)だよ」
「ってボクに教えちゃったら意味ないじゃないですか」
「ま、無理に話さなくてもいいよ」あっさり身を引くカウンセラー。「今日中に解決する義務はないからね。気の向くままにやろう。君のように強情な相談者は珍しくないし、そういうときの対処やマニュアルも心理学にはあるんだよ。あるある」
「さっきから手の内を暴露しまくっていますけど大丈夫ですか?」
 ペラペラと口が軽い人だな。
 全ては話術、マニュアル通りだなんて、幻滅だよ。
 相談者はもっと親身に話を聞いて欲しいんだ。なのに、マニュアルに書かれた機械的な対応だと言われたら、失望してしまう。
(あるいは……相手がボクだから?)
 ボクのようなひねくれた人間には、逆に手の内をさらした方がフェアなんだろうか。
「普通のカウンセリングは『傾聴(けいちょう)』と言って、相談者に寄り添って話を伺うんだけど、僕はそんなやり方はしない。相手の心を覗き、さらして、解決策を直接えぐり出すんだ」
 ええー……理解できない。
 このカウンセラーの意図が、素人のボクには理解できない……。
「相談者との距離感や親密度なんて、どうとでもなるからね」
「そうなんですか?」
「そもそも僕は、ルイからすでに君のことをある程度聞きかじってる。正直、よくある不幸(・・・・・・)だと思ったよ」
「なっ!」
 それはボクの逆鱗に触れるか触れないかの、ギリギリの線を攻めて来る暴言だった。
 ――『よくある不幸』だって?
 ボクにとっては一大事なのに、そんな軽々しく断じるなよ!
 ていうか、泪先生を呼び捨てにするなよ……。
「学校側も、君の春休みに起きた一部始終は知ってたから、情報を提供してくれたよ」
「ぷ、プライバシーとか個人情報の守秘義務とか、ないんですか」
「ある程度の情報共有は容認されるべきだからね。スクール・カウンセラーは週イチしか出勤しないから、普段の様子を知るために担任教師から生徒のことを聞いたり、養護教諭と意見交換したりするのは日常茶飯事(よくあること)だ。あるある」
「~~~~~~……っ」
 言いくるめられた気がしなくもないけど、言いたいことは理解できた。悔しい。
 判った、判ったよ。
 ボクの負けだよ。
 ボクは肩を落としながら観念した。盛大に溜息をつく。
「仕方ない……話すだけ話しますよ……それで良いんでしょう?」
 この人に従って、本当に胸のつかえが取れればめっけもんだしね。
 駄目で元々だ。今回は泪先生の紹介に免じて、カウンセラーに乗っかってやろう。
「ああ、お願いするよ」
 にっこりと好青年風に破顔したカウンセラーが、ちょっと癪に障った。

   *

「あたし、四月から引っ越すことになったの。親の仕事の都合で」
 ――春休みの、悲しい知らせ。
 近所に住む幼馴染・沼田洸(ぬまたひかる)ちゃんが、突然こんなことを切り出したんだ。
 ボクは心臓が飛び出るかと思ったよ。
 その子とは家族のように仲良しだったから……。
 洸ちゃんは昔から学区外の進学校へ通っていて、学園生活の様子は知らないけど、休日は頻繁に顔を合わせていたし、よく遊びに出かけていた。
 この子と離れ離れになるなんて、青天の霹靂以外の何物でもない。
「いきなり急すぎるだろう」うろたえるボク。「じゃあ高校はどうするんだ?」
「転校すると思う。実は転入試験も受けて来たばかりなの。で、問題なさそうだから、沁にも教えようと思って――」
「冗談じゃないっ。ボクたちは一心同体だったのに! そうだ、あいつは? 重治(しげはる)は何て言っているんだ?」
(しげ)くんにも言ったよ。そしたら、家の事情なら仕方ないって理解してくれたわ」
「そんな……あいつめ!」
 ボクは一人で歯噛みした。
 ボクと、洸ちゃんと、重治――水城(みずき)重治――は、大の仲良しだった。学校も性別もバラバラだったけど、ボクらには性差なんて関係なかった。
 重治はボクの隣家(りんか)に住む、同い年の偉丈夫だ。男らしい体格と言動がリーダーにふさわしくて信頼していたし、彼もボクや洸ちゃんに目をかけてくれた。
 重治とボクは、小学校から高校までずっと同じだ。登下校も二人で通学しているし、話題も洸ちゃんのことが多かった。
「じゃあ洸ちゃん、久し振りにウチ来なよ。泊まりにさ」
 ボクは居ても立ってもいられず、口からこぼれた。
 洸ちゃんは一瞬だけまごついたけど、すぐに表情を明るくし、手を叩き合わせる。
「わぁ。沁ん家でお泊まり会、昔はよくやってたよね」
 洸ちゃんも覚えていたようで何よりだ。ボクたちは近所だから、互いの家へ泊まりに行くなんてしょっちゅうやっていた。
 さすがに近年は、みんな部活だのアルバイトだの塾だので都合が付かなかったけど、決してお泊まり会に抵抗があったわけではない……と思う。多分。
(となり)()の重治も呼んで、騒ごう。最後の思い出作り……ってわけじゃないけど」
「あはは、沁ったら大袈裟。別に二度と会えないわけじゃないよ? ちょっと遠くに離れるだけ。夏休みとかの大型連休には、また遊びに来るし」
 洸ちゃんは屈託なく笑い飛ばした。
 その明るい相貌に、ボクや重治は幾度となく救われて来た。この子は三人のムードメーカーだったし、ボクたちのかすがい(・・・・)的な役割でもあった。
 帰宅したボクは、さっそく隣人の重治にスマホで電話した。
「もしもし、重治? 実はさ……」
『――あ? 高校生にもなってお泊まり会とかガキかよ』
 電話越しの重治は、とても高校生とは思えない胴間声(どうまごえ)の持ち主だった。
「そう言うなって重治。洸ちゃんの転居は聞いているだろう?」
『聞いてるけどよぉ、今どき男女が同じ屋根の下で寝食をともにするなんて――』
「意識しすぎだってば。ボクらは幼馴染だろ? 親だって気にしないよ」
『そ、そうか……ま、洸ちゃんとは最近あんまり話せてなかったしな。ちょうどいいか』
 お、喰い付いた。
 重治なら判ってくれると思ったよ。
「最近は三人全員の都合が合うことも少なかったからね。改めて親睦を深めておくのも悪くないよ」
『そんじゃあ、コンビニで食いもん調達して来るかぁ。今夜、お前ん家でだよな?』
「うん。待っているよ」
 話の段取りは、呆気なく整った。
 ボクと、洸ちゃんと、重治の、最後のお泊まり会。
 幼馴染の新たな門出。
 ――そうなる予定だったんだ。

「やっほー沁、来ちゃったよー」

 夕刻になって、洸ちゃんが我が家を訪れた。
 背中にかかる黒髪を後ろで結び、ノンスリーブのセーターにアームウォーマー、風になびくロングスカートをまとった春らしい装いが、ボクの目を癒してくれる。
 玄関口に立った背丈はとても小さく、肩も細い。腰なんて、今にも折れそうだ。
 あとで気付いたけど、華奢な雰囲気が泪先生に似ている。
 ボクがあの先生に魅かれるのは、洸ちゃんの面影を見出しているから――?
「おう、お前ら早ぇな」
 隣家の垣根越しに声をかける重治が、かろうじて見えた。
 そりゃあ近所だからね、ものの数分で集まれるさ。
 重治に食料の仕入れを頼み、お金を渡してから、ボクと洸ちゃんは二階へ上がった。
 二階は三部屋あり、一つは親の寝室、一つはボクの個室で、残り一つは空き部屋になっている。昔はこの空き部屋を客間代わりにして、洸ちゃんを泊めていたっけ。
「あたしの荷物、ここに置かせてもらうね」
 洸ちゃんは、着替えやコスメ用品を詰め込んだバッグを両手で抱えながら、勝手知ったる所作で客間に滑り込んだ。
 客間はベッドと文机が置いてあるばかりの簡素な内装だ。
 窓の外は、隣に建つ水城家がすぐそこまで迫っている。
 向かい合う窓も、重治の個室だ。今はカーテンが引かれて室内を拝めないけど、重治らしい武骨かつ殺風景な内装なんだろうな。
 なんてことを考えていると、階下から重治の大音声(だいおんじょう)が轟いた。
「うーっす! お邪魔しまっす、水城重治でーっす! あっどうもオバサン、俺のことはお構いなく! 沁は二階っすかね? 上がらせてもらうっす!」
 ずかずかと階段を登って来る気配が察せられた。
 重治はいつも賑やかだなぁ。そんな直情的な率直さが、好漢の理由なんだけどさ。
「ほーら飯買って来てやったぞ! 騒ごうぜ!」
 両手いっぱいのコンビニ袋を掲げた重治が、宴の開催を宣言した。
 洸ちゃんも「おーっ」と手を挙げると、ボクの部屋に移動してお菓子を開封する。
 ボクの部屋は、重治から笑われるほど少女趣味で、宝塚のポスターが貼ってあったり、本棚の漫画も『リボンの騎士』とか『桜蘭高校ホスト部』とか『花盛りの君たちへ』と言った少女漫画が並べられていたりする。
 テレビゲームやトランプ、ボードゲームなどでひとしきり盛り上がったあと、テレビ番組を観たり、雑誌を読んだりして思い思いの時間を過ごした。好きなようにダラダラ過ごせるこの距離感が、三人のパーソナル・スペースなんだ。
「あ。あたしそろそろお風呂借りてもいいかな?」
 洸ちゃんがふと、体のあちこちをポリポリと指で掻きながら尋ねた。
 見れば、さっきからしきりに肌へ爪を立てている。
 場所によっては掻きむしりすぎて、うっすらと引っ掻き傷が残っているほどだ。
「ああ、いいけど」眉をひそめるボク。「どうしたの、それ?」
「んー。最近、体がかゆいのよねー。別にアレルギーだとかハウスダストとかじゃないんだけど。心因性のストレスかな。ムズムズして、落ち着かなくて」
 体がかゆい?
「引っ越しのストレスとかか?」
「判んない。でも、そうかも」
 ああ、やはり洸ちゃんも、本心ではこの町に(とど)まりたいんだ。
 ストレスが原因で体を掻きむしってしまう例は、聞いたことがある。落ち着かずに体がうずいたり、蕁麻疹(じんましん)が出たりして、無意識のうちに爪を立てるんだとか。
「おいおい、大丈夫なのかよ!」目くじらを立てる重治。「本当にアレルギーじゃねぇのか? さっき食べた菓子ん中に変なもん入ってなかったか?」
「それは平気よ。その程度はあたしも心得てるし」
「な、ならいいけどよ。気が気じゃねぇな、洸ちゃんに万が一のことがあったら――」
 重治の奴、思い詰めた顔をしている。
 へぇ……もしかして重治って、洸ちゃんのことを……?
 いや、だとしたら、幼馴染でありながら一線を越えることになるし、ちょっと重大な問題点(・・・・・・)を抱えることにもなるけど――。
 洸ちゃんが着替えを携えて風呂場へ降りて行くと、重治はボクに弱音を吐いた。
「あーくそ。やっぱ辛ぇわ。表面上は笑って送り出してぇのに、別れたくねぇよ……」
「重治、やっぱり君は洸ちゃんを――」
「好きだぜ。あんなに可愛いし、昔から俺に懐いてたら、惚れるに決まってるじゃん」
 うわ……やっぱりそうなのか……それはマズイ(・・・)な……。
「重治、そのことなんだけどさ」
「あぁん? 何だよ?」
「洸ちゃんは確かに、そこら辺の女子より女の子らしい外見しているよね。身なりやお化粧にも気を遣っているし、言葉遣いも垢ぬけた女の子っぽく振る舞おうとしているし」
「? 何が言いてぇんだ沁? そんなの、女の子なら当たり前――」
 女の子なら。
 ――でもボクは、一度も洸ちゃんが女性だとは明記していない(・・・・・・・・・・・・)
「女の子じゃないからこそ、女の子らしく振る舞って、コーディネートして、化粧して、補おうとしていたらどうする? 今は女装用メイクだって発達しているんだ」
「はぁ? お前、何言って――……」
 ……重治の台詞が途切れた。
 ざわつく予感。ボクのさり気ない助言で気付いた事実。
「ヒカルって名前は、男性にも女性にも名付けられることの多い、中性的な響きだよね」
「ま、さ、か!」
 重治が部屋を飛び出した。
 しまった、速い。ボクが止める暇さえなかった。
 重治が階段を駆け下りる音。
 風呂場の脱衣所から轟く、叫び声。
「洸って男だったのかよ!」
 我が家を、重治の絶叫がつんざいた。
(洸ちゃんは『性同一性障害』で、性別を偽る『男の()』だった)
 だから洸ちゃんは、学区外の学校に進んだのだ。
 男女を明確に区別される制服がない、私服の学校を探していたらしい。そういう所はジェンダーにも理解があるしね。
 お泊まり会は一変して、辛気臭くなった。
 重治は逃げるように隣家へ撤退し、電話にすら出てくれない。
 相当ショックだったようだ。
 まぁ、無理もないか……ボクのせいかなとも省みたけど、二人の幼馴染として言わずには居られなかったんだ。
 洸ちゃんだって勘違いされたまま過ごすのは嫌だろうし、重治だって性別を誤認したまま恋心を引きずるのは、禍根を残すに決まっている。
「沁、どうしよう。あたし重くんに嫌われちゃった?」
 廊下の片隅で、泣き腫らして真っ赤になった瞳をこすりつつ、洸ちゃんはボクに助けを求めた。
 風呂上がりの寝巻き姿も、本物の女の子みたいで可愛らしい。
「洸ちゃん、今日はもう寝よう。明日になれば、重治もいくらか落ち着くだろうし」
「でも――」
「冷却期間が大事だよ、今は」
 ボクは洸ちゃんを客間に連れて行く。不服そうにしかめ面をかたどる洸ちゃんだけど、今はどうしようもないことを悟ったのか、おずおずと室内へ引っ込んだ。
「この部屋の向かいの窓って、重くんの個室よね?」
「そうだけど、呼びかけても無駄だと思うよ。無論、窓伝いに押しかけるのもね」
「わ、判ってるよぉ……聞いてみただけ……お休みなさい」
「お休み」
 ボクは客間を出た。静かにドアを閉める。
 そして僕も、自室にこもって溜息をついた。
(ボクも寝よう……もう疲れた)
 ――その後、事件は起こったんだ。
 夜は更け、やがて明けて、日が昇る。
 ボクは雀の鳴き声で目を覚まし、自室から出ると、迷わず客間をノックした。
 ……返事がない。
「洸ちゃん?」
 ドアを押し開けると、中はすでに無人だった。
 バッグは置いてあるけど、ベッドから洸ちゃんの姿が消えている。
 びゅうっと風が吹き込んだので、ボクはそっちを振り向いた。
(窓が開いている!)
 重治の部屋に面した窓だ!
 妙な胸騒ぎに見舞われたボクは、窓際へ飛び付いた。
 重治の部屋の窓は閉まったままだけど――。
 ごくり、と息を呑み、窓の下を覗き込む。

「洸ちゃんが転落している!」

 隣り合う水城家と我が家との隙間――敷地の側庭(そくてい)だ――に、洸ちゃんが倒れていた。
 窓から真っ逆さまに。ゆうべの寝巻き姿のままで。
 頭を強打し、首の骨を折って、出血を地面ににじませながら。
 大急ぎでボクは廊下へ戻り、階段を駆け下り、裸足のまま側庭へ回り込む。
 洸ちゃんはすでに息を引き取り、死体は硬直し、肌には死斑(しはん)が浮き上がっていた。

   *


   3.ボクはカウンセラーに魅入られる


 相談室で、ボクはカウンセラーにあらましを語り終えた。
「洸ちゃんは夜中、どうしても重治と話がしたくて、隣家の窓へ飛び移ろうとしたか、あるいは重治の窓を叩こうと身を乗り出した際、誤って転落したようです」
「隣家との隙間はどれくらいあるんだい?」
「一メートルくらいです。だから窓から目一杯手を伸ばせば、重治の部屋の窓を叩けるし、窓が開いていれば飛び移ることも出来ます」
「なるほど。つまり洸ちゃんは重治くんの部屋へ窓から入ろうとしたんだね。けど、重治くんの窓は閉ざされたままだったので、何度もアプローチするうちに、うっかりバランスを崩して、側庭へ転落してしまった。ありがちと言えばありがちだなぁ」
「ありがちなんですか?」
「追い詰められた人の心は、突拍子もないことを平気でやらかすものさ。洸ちゃんは言ってたんだろう? 重治くんの窓がすぐそこにあるって。窓をひょいと渡れば彼に会って釈明できると短絡的な考えが浮かんだのかも知れないよ。うん、あるある」
 そ、そんなものかなぁ……。
「それで警察はどう処理したんだい?」
「警察は事故死と断定しました。今説明した通り、窓へ手を出そうとして落下したと」
「重治くんは何も覚えがないのかな?」
「はい。夜はぐっすり眠っていたそうです。物音一つ気付かなかったと。あ、でも――」
「でも何だい?」
「翌朝、重治の右手の爪に、うっすらと血の跡が付いていたような。ボクが指摘すると、指先をドアに挟んだとか言って、慌てて手を洗いに行ってしまいましたけど」
「へぇ……指先に血痕か。あるある」
「どういうことですか?」
 ボクは顔をしかめざるを得ない。
 このカウンセラー、いちいち思わせぶりな相槌を打つし、発言にも含みを持たせてばかりだから、どうもスッキリしない。
 この人には、何が見えているんだろう?
 ボクが述懐した通りの内容ではなく、全く別の光景が浮かんでいるんじゃないかって、ときどき不安になる。
「君のお話で『性同一性障害』が登場したけど、それは本当かい?」
「あ、はい。洸ちゃん本人がそう名乗っていました」
「興味あるなぁ。あるある。心理学や精神疾病でも、性同一性障害は関心の高い分野だ。それはフロイトやユングも提唱していた心理属性『アニマ・アニムス』にも密接な関わりがあると僕は考えてる」
「アニマ・アニムス……?」
 知らない単語なので、ボクは思わず聞き返してしまった。
 カウンセラーはまるでボクがそう呟くのを予見していたように、深く頷いてから滔々(とうとう)と解説を始めるのが悔しい。
 さながらボクの反応を先読みして、誘導しているかのようだ。
 いや、恐らく実際に心を分析しているんだろう。忌々(いまいま)しいことに。
「アニマ・アニムスは、各人の心に秘めた『女性像(アニマ)男性像(アニムス)』という意味だよ。人が誰しも胸中に思い描く、模範的な異性像……理想の異性とでも言えば判りやすいかな」
「理想の異性……」
「人はみんな好みがあり、それによって浮かべる異性像もさまざまだ。理想像に最も近い人物と交際したがるし、異性に自分の願望を押し付けようとする心理がある」
「アニマ・アニムスは、洸ちゃんの中にもあったんですか? あの子が思い描く理想像を自分に投影して、可愛い女の子になりきろうとしたとか?」
「君は賢いね。飽くまで僕の仮説だけど可能性はあるよ、あるある。その子は、肉体的には男だった。男から見た異性像は女性像(アニマ)だ。彼は女らしく振る舞おうと、理想の女性像を自らに課した。同時に、それは重治くんの好みにも合致してたんだ。ありがちな話さ」
 洸ちゃんは気立てが良く、線も細くて、放っておけない女の子を装っていた。
 もともと骨格も華奢だったんだろう。食生活にも気を遣っていたと思う。
「男性は誰でも、自分を頼ってくれるか弱い女の子には目がないからね。あるある」
「それが重治をますます勘違いさせてしまった、と?」
「性同一性障害も、今では『性別違和』と呼ぶ意向があったりして、取り巻く環境が変わりつつある。染色体の性分化疾患の症例で、心と体の性認識が必ずしも一致しないことが科学的に判明してるし、いろいろ根が深いんだよ。性転換手術や同性愛者の結婚など、世界各地で法整備が物議をかもしてるね」
「ボクは洸ちゃんの個性を認めて、受け入れていましたよ? 重治も、最初はショックだったかも知れないけど、時間が経てばきっと判ってくれるはず――」
「君たちの場合、それはまた別の感情かも知れないね」
「別の感情?」
 ボクが眉をひそめると、カウンセラーは言葉を慎重に選ぶように、思案げに天井を見上げた。
 つられてボクも天井を仰いだものの、特に何もありはしない。
「君たち三人は、昔からの幼馴染で、実の兄弟のように親しかったそうだね?」
「はい。それが何か」
「ブラザー・コンプレックスやシスター・コンプレックスという俗語がある」
「え?」
「有名な言葉だから聞いたことはあるだろう? うん、あるある」
「いわゆるブラコン、シスコンですよね? 兄妹や姉妹に劣情を抱くっていう」
「重治くんの感情はそれに近いんじゃないかな」
「……ああ、そういうことですか」
 確かにボクたちは、兄弟さながらに仲睦まじかった。
 ボクたちが重治を慕っていたのも、頼れる『兄貴』分としての一面が大きいのは否定できない。同い年だけど。
 つまり重治も、洸ちゃんを想う気持ちは、可愛い『妹分』の面倒を見るような感覚だったのかも知れない。
 となると、いささか話が変わって来る。
 洸ちゃんが女ではないと判明した以上、重治は『妹分』への気持ちを抱けない。騙されていたという恨みだけが残存しかねない――。
「それを、思春期ならではの『異性像』への投影と重ねてしまったんじゃないかな? 実際、この手の報告はよくあるんだよ。僕の身近にも一人、ブラコンと異性像を倒錯してしまった実例が居るからね」
「身近にも?」
 誰だろう、それは。
 ボクの知らないことを話されても困る。
 とにかく、カウンセラーの能書きは簡略的ではあったけど、大筋は理解できた。
 重治は、洸ちゃんへの恋心を裏切られたことに衝撃を受けたのではなく――。

 ――重治の心理的欲求だった異性像とシスコンという『自己概念の投影先が崩壊してしまった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)』ことに傷付いたんだ。

 それによって洸ちゃんもまた傷付くという、負の連鎖が発生した。
 洸ちゃんは夜も眠れず、こっそり窓から隣家へ押しかけようなんて無茶な独断専行をやらかした挙句、しくじって転落死した。
 ボクたちの心に刻まれた溝は消えないほど深く、回復も見込めない。
 はぁ……やっぱり鬱だ。
 結局、気分は晴れないままだよ。ボクの胸は締め付けられるほどに痛い。
「ボクは、どうすれば良いんですか」
 だからボクは訴えるんだ。
 ボクは辛い。
 苦しい。
 さぁ、このカウンセラーはどう癒してくれる?
 泪先生の肝いりで雇われたカウンセラーなら、ボクの悩みなんてお茶の子さいさいに解消できるんだろう?
「性別誤認や詐称って、推理小説(ミステリー)ではよくあるトリックだよ。あるある」
「え?」
 このカウンセラー、突然あらぬ方向から話を切り出した。
 小説の話なんてどうでも良いんだけど……?
「男キャラだと思わせて実は女だったとか、その逆もしかりだね。いわゆる叙述トリックの一種だけど、そうやって読者を騙し、勘違いさせて、真相を隠す手法だ」
「あの、それが何か?」
「近年パッと思い付くだけでも――内容に抵触するから嫌な人は耳を塞いで――殊能将之のハ○ミ○とか、本多孝好のチェ○ン○○ズ○とか。反対に、最初から性別誤認を明言した逆トリックもあるね、麻耶雄嵩の『螢』はいきなりバラしてるから問題ないだろう」
「だから、それがどうしたって言うんですかっ」
「君は、真実を求めてるだろう? 君はあの晩起こったことが信じられず、警察の見解では納得できないから、今も心を痛めてるんだ。ならば、警察とは『別の真実』を導き出して、君の心を鎮めるしかない」
「べ、別の真実ぅ? そんなもの、あるんですか?」
「あるよ、あるある。真実が一つだなんて誰が決めた? 真実は人の心の数だけある(・・・・・・・・・)。心の観測次第で、いくらでも真実なんて出来上がる。だったら、君の溜飲が下がる『真実』を探そうじゃないか。僕のカウンセリングは、そうやって相談者を治すんだ」
「…………!」
 どきりとした。
 心臓を握られたような衝撃だった。
 こんなカウンセラー、見たことない。
 カウンセラーは人によって手段も語り口も異なると言われるけど、ここまで型破りなことをぬかす輩は、他に居ないんじゃないか?
「ある意味で、重治くんは、性別誤認の被害者と言えるかも知れない。それが引き金となって、一転して洸ちゃんを拒絶し、忌避するようになったんだ」
「重治が、洸ちゃんを憎むようになったと言うんですか?」
 嫌な予感がする。
 何をほざくつもりだ、この人は?
 この人は全くもって破天荒だ。支離滅裂すぎる。
 ボクの頭が悪いのか? それとも、ボクがこの人を認めたくないだけなのか――?

「この件は事故死じゃない。重治くんが加害者(・・・・・・・・)だよ」

「ええっ……?」
 ボクは、開いた口が塞がらなかった。
 言うに事欠いて、とんでもない暴言だ。
 人をからかうのも大概にして欲しい。警察が事故死と断定したものを、非常勤カウンセラーごときが偉そうに引っくり返して良いのか?
 何より、重治に失礼じゃないか。人殺し呼ばわりなんて。
 カウンセラーは悪びれず淡々と言い放つ。
「一見すると事故死だから、警察も面倒臭がって深入りしなかったんだろう。あるある」
「そんな、失礼ですよ!」
「現実の警察なんて、そんなものだよ。警察は多忙だ。大きなヤマでもない限り、手短に済ませるのさ……僕も警察に知り合いが居るけれど、強行犯の捜査主任はそそっかしいし手抜きだし、話にならないね。あと、本庁勤めのキャリア組も居るけど、あっちも詰めが甘くて官僚としての出世コースが望み薄で苦労してると聞いたよ」
「いや、あなたの知人とかどうでも良いんですけど」
「とにかく、僕の考えはこうだ……と言ってもこれは僕の推測でしかないし、証拠も何もない個人の邪推だと前置きしておくよ」
「大言壮語した割に、急に予防線を敷くんですね」
「洸ちゃんは客間の窓から身を乗り出し、隣家の窓を叩いた……就寝中の重治くんを起こして窓を開けてもらうためにね」
「でも重治は寝ていて気付かなかったと――」
「いや、彼は起きたのさ」
「えぇ?」
「物音に気付いて、窓を開けたんだよ。そしたら、洸ちゃんが窓を飛び移ろうとして来たわけさ。重治くんはびっくりしただろうね」
 そりゃ驚くだろう。
 会いたくないと拒絶して自宅へとんぼ返りしたのに、その元凶である洸ちゃんが窓越しに肉迫しようとしたんだから。
「重治くんは、洸ちゃんが男だと知って顔も見たくなかった。しばらく洸ちゃんを忘れたかったはずだし、忌み嫌ったはずだ。そんな洸ちゃんが、窓から身を乗り出して来た……彼にとっては恐怖だね」
「重治は、洸ちゃんに抵抗した?」
「洸ちゃんを追い返したはずさ。窓に迫る洸ちゃんを払いのけ、押し戻し、突き飛ばしたりもしただろう――」
「! じゃあ、そのとき重治が、洸ちゃんを突き落とした(・・・・・・)……?」
「ご名答。それしかないよね。仮に事故ならば、いくら洸ちゃんが焦ってたからって、窓も開いてないのに重心を崩すほど身を乗り出すはずがない。重治くんは夜中に目を覚まして、窓を開けて、洸ちゃんと対峙したんだよ。そこで揉み合いになって、転落させた」
「証拠もないのに、よく断言できますね!」
「状況証拠なら、一つだけあるよ。あるある」
「あるんですか?」
「重治くんは翌朝、指先に血の跡が付着してたらしいね」
「それが何か?」
「洸ちゃんと揉み合った際、洸ちゃんの肌を引っ掻いたんじゃないかな」
「引っ掻き傷ってことですか? じゃああれは、重治自身の血ではなく、洸ちゃんの返り血だった?」
「しかし運悪く、洸ちゃん自身も体を手で掻きむしる癖があった。ゆえに、重治くんが引っ掻いた傷もその一つだと勘違いされ、見過ごされた。木を隠すなら森、これもまたトリックでよくあるパターンだね。あるある」
 確かに洸ちゃんは、引っ越しのストレスで体がムズムズして、爪を立てていた。
 そのせいで、重治が付けた引っ掻き傷が埋もれてしまった?
 そうでなければ、被害者の死体に刻まれた傷を警察が無視するはずがない。
「じゃあ今からもう一度、重治の指先と死体の傷跡を一つ一つ照合すれば――」
「それは僕の仕事じゃない。僕は一介のカウンセラーであり、本職は大学の講師だ」
「警察に今の説、話さないんですかっ?」
「所詮、僕の想像だからね。スクール・カウンセラーを引き受けたのも、本業で准教授に昇格するまでの下積みになると思っただけだし」
 あからさまにぶっちゃけ過ぎだろ、このカウンセラー。
 ここまで話しておいて、自分の胸の内にとどめておけって言うのか?
 そりゃあ一度解決した事件を蒸し返すのは、気が引けるけど――。
「この先は、君が考えるんだ」
「えっ」
 カウンセラーは居住まいを正して、ボクの顔をじっと見据えた。
 人の心を見えない糸で操るような、からみ付く視線だった。
 この人は、ボクに何をさせたいんだ……?
「君の心は、君自身が納得させるしかない。カウンセラーは飽くまで、その背中を押すことしか出来ないよ。僕は今、心の道筋を整備した。あとは君が道を進めるかどうか、最初の一歩を踏み出せるかどうかさ。うん、ありがちな台詞だね我ながら」
「ボクは……ボクが進むべき道は……」
「警察より先に、話すべき相手が居るんじゃないか?」
「……重治!」
「彼は同じ高校なんだろう?」
 ああ……誘導されている。
 本人と話をして来いと、カウンセラーが推奨している。
 ボクは歯を食いしばった。
 躊躇できない。
 尻込みしては居られない。
 真実を確かめなければいけない。
 ボクの心のわだかまりを治すために。
 ボクの『春休み』を終わらせるために。
 ボクは一礼して、相談室を飛び出した。目指すべきはただ一つ、あいつの元へ。
 あいつと話を――。

   *

「何だよ沁、俺をこんな所に呼び出して?」
 高校の屋上。
 フェンスに囲まれた、ビル風吹きすさぶ無人の空間に、ボクと重治はぽつんと立っていた。空はすでに暗い。夕暮れ時すら超過している。下校時刻だが、関係ない。
「重治……腹を割って話そう。最後の謎解きをしたいんだ」

   *


   4.ボクは最後の真実を暴く


 真実を知らない限り、ボクの悩みが解決することはない、とカウンセラーは告げた。
 真実を求めることでのみ、ボクの心は晴れるのだと、カウンセラーは述べた。
 ならば、それを実践するまでだ。
 ボクを導いてくれた、彼ならではの荒療治を。
「おい沁、こんな所で何する気だ?」
 重治は、屋上の強風に煽られる髪を手で撫で付けたり、バサバサとはためく制服のすそを押さえたりしている。
 かく言うボクも、ファスナー全開のジャージが翻るのを必死に手で押さえた。この荒れた天気は、今のボクらを象徴しているかのようだ。
 見た目は綺麗な黄昏なのに、とにかく風が煽り立てる。
 胸騒ぎ。
 心の不安。
 ざわめき。
 どよめき。
 動揺。
 ない交ぜにされたグチャグチャな感情の渦が、ボクらをなぶる。逆撫でする。
 見栄えだけ整えても、それは所詮、臭いものに(ふた)をしただけに過ぎないんだ。
 その内実を、ボクは暴く――。
「重治が洸ちゃんを殺したのか?」
 ――ボクは単刀直入に質問した。
 そう、これは質問だ。
 追求でも糾弾でもない、単なる問いかけだった。
 とにかく真実を聞きたかったから。決して重治を咎め立てするつもりはない。
 ボクは重治を慕っている。敵視はしない。責める気もないし、仮に彼が自分の罪を認めたとしても、警察に行くかどうかは重治次第だ。
「ははっ。沁、何寝言ほざいてんだよ」
 一笑に付された。
 ちょっといつもと違う、引きつった表情だったけど、重治は一笑に付した。
 こめかみに青筋が浮かんでいたけれど――。
「本当に違うと言い切れるのかい?」
 ボクはさらに詰問する。
 重治、もっと普段通りの笑顔を見せなきゃ安心できないよ。
 そりゃあ君だって、あの晩のことを思い出すのは酷かも知れない。洸ちゃんの素姓や死亡があって、君自身も辛かったに違いない。
 ただ。
 だからこそ。
 君がそんな、後ろめたさをごまかすような薄ら笑いを(たた)えるなんて、見て居られないんだよ。やめて欲しいんだよ。
 隠し事をしているようにしか見えないじゃないか。
 ボクと重治が何年付き合っていると思っているんだ? 君の心情や仕草、癖、態度、物腰、一挙手一投足がありのまま、君の感情をボクに伝えて来るんだよ。
 ボクの心に、()みるんだよ。
「違うに決まってんだろ沁。なんで俺を疑ってんだよ。何度も聞くな、しつこいぞ?」
 重治はちょっと苛立たしげに、ボクを睨み返した。
 ああ……。
 ボクは小さくかぶりを横に振る。
(これは駄目だ)
 それは重治が嘘をついて虚勢を張るときの身振りじゃないか。
 威勢の良い性格を利用して声を荒げ、眼光をたぎらせて威嚇する。そうやって相手の言論を封じ込める。
 君の悪い癖だよ。
 確定――か。
「重治。あの晩の出来事は、些細な事故だったとボクは思うよ。警察も一顧だにせず、事故として処理したからね。世間的には何でもない些事なんだろう……けど」
「ならそれでいいじゃねぇか、掘り起こすなよ」
「けど、ボクたちや洸ちゃんのご両親にとっては、人生を変える一大事だった。それでいい、なんて到底言えないよ。今のは重治の台詞とは思えない。ボクの知っている幼馴染の台詞じゃない。何かを隠している、言い逃れの欺瞞だ」
「何だとこの――」
「だからボクはこの一ヶ月、ずっと心を痛めたし、心理相談もして来たんだ」
「心……理? よく判んねぇな、何が言いてぇんだよ沁」
 いよいよ重治が不快感をあらわにした。
 違う違う違う。
 怒らないでくれよ重治。
 図星を指されて逆上する君ではなく、事実無根だと明朗にいさめる君が見たいのに。
 風が一段と強さを増した。
 ボクの肩まで伸びた髪の毛が乱れる。
 ファスナー全開のジャージが翻る。
 もう手で押さえるのも面倒臭かった。
 一歩ずつ、ボクは重治に歩み寄って行く。話を終わらせるために。
「重治は翌朝、指先に血の跡が付いていたよね? あれは洸ちゃんを窓から突き落とした際に、洸ちゃんの皮膚を引っ掻いたんじゃないか?」
「何ぃ?」
「恐らく君の爪には、洸ちゃんの皮膚片もこびり付いただろうね。ボクに指摘されてすぐ洗い落としてしまったから、今となっては確認しようもないけど」
「ハッ。誰の入れ知恵なんだか」肩をすくめる重治。「あれは夜中に俺がドアへ指先を挟んで出た血だって説明しただろうが! 朝になるまで気付かなかったんだよ!」
「君の指に血はあったけど、傷跡はなかった気がするよ?」
「お前が見逃してただけだろ!」
「おかしいよ。重治は夜中、ぐっすり熟睡していたんだよね?」
「!」
「熟睡しつつドアに指を挟んだのかい? 不思議な寝相だな」
「それは……っ」
 重治の呂律(ろれつ)が乱れた。
 痛い所を突かれて罰が悪いときの顔をしている。
「重治の証言には矛盾があるんだよ。つまり、嘘をついている……ドアに指を挟んだのも嘘、夜中ずっと熟睡していたのも嘘。自分の罪をごまかすために取り繕ったら、こんな些末な矛盾点があぶり出されてしまった」
「そ、そんなもん言葉の綾だろ! 熟睡してたっつっても、トイレに起きるくれぇはするだろうが! そんときは窓の外にゃ気配なんてなかったし、事故死だって知る由もなかっただけで――」
「何とでも言えるよね。証拠はほとんどないんだから。でも、君の指先と、洸ちゃんの死体の引っ掻き傷を照らし合わせたらどうだろう?」
「は?」
「警察に行けば、洸ちゃんの死体写真が残されているはずだよ。死体そのものはもう火葬に出されてしまったけど、画像ならまだ保存されているだろう。重治の爪が、洸ちゃんの死体写真にある傷跡の一つと合致すれば、それが証拠にならないかな?」
「おいおい。警察に出頭しろって言うのかよ? いよいよ笑えねぇ冗談になって来たぞ」
 重治の目が据わっている。
 ああ、ますます駄目だ。
 重治、それは的を射ていたときの反応じゃないか。
 君はどんなに侮辱されても、それが虚実なら歯牙にもかけない大物だっただろう?
 真に受けて怒り出すのは、事実を言い当てられた対応なんだよ……。
「沁、誰の差し金だ? 誰にそそのかされた?」
「差し金だなんて、とんでもない。さっき言った通り、ボクはスクール・カウンセラーに相談しただけだよ」
「カウンセラーだと? ふざけやがって、何吹きこまれたか知らねぇが、俺たちの長年の絆よりも、仕事で耳を貸すだけの大人を信用するのかよ!」
「長年の絆があるからこそ、重治の態度が嘘だと判るんだよ、皮肉にもね」
「…………!」
 重治は何も言わなくなった。その代わり、今までボクに向けたことのない、鬼のような形相でこっちを見ている。
「翌朝、窓から転落死した洸ちゃんが発見されたけど、あの子は普段から体中を手で掻く癖があったから、重治の引っ掻き傷もその一つだと思われて、ろくに調べられず事故死だと断定された、というあらましだ」
「ざっけんなよ沁。お前まで俺を裏切るのかよ」
「裏切る? 違う、そうじゃない。ボクは真実を知りたいだけだ。ボクは自分の心さえ安定すれば満足なんだよ」
「黙れよ畜生。俺がどれだけ、お前らに目ぇかけてたと思ってんだ? どいつもこいつも俺の興を削ぎやがって。人をたばかって(あざむ)いてコケにして楽しいか? あ?」
「待ちなよ重治。洸ちゃんは決して欺こうとなんか――」
「欺いてただろうが! 実は男でしたぁ? ふざけんなっつーの! あいつの外見は俺好みな妹キャラだったんだよ! だから優しく接してやったんだよ! 幼馴染三人で両手に花(・・・・)、それが俺のステータスだったんだよ!」
 両手に(・・・)……?
「そうか、重治……そんな目で、君は見ていたのか。それが君の真実(したごころ)か……」
 強風が吹き抜けた。
 ファスナー全開のジャージがはためく。
 友情じゃなかった。
 絆じゃなかった。
 最初から、重治は『異性像』として見ていたんだ。
「俺は、沁のことも好きだったぜ? 洸はオカマ野郎だったが、沁は違う(・・・・)もんな」
「…………ボクは」
 全開のジャージが風でまくれ上がり、ボクの膨らみかけた胸(・・・・・・・)(あらわ)になった。

「沁はずっとジャージ姿で判りにくいが、れっきとした『女』だもんな?」

 そう――ボクは女(・・・・)だ。
 制服姿ならまだしも、ずっとジャージだったからね。
 肩まで伸びた髪も、自室に宝塚のポスターを貼るのも、男装の麗人(・・・・・)の少女漫画ばかり読むのも、ボクが女でありつつも内なる男性像(アニムス)を抑えきれず、混濁していたからだ。
 男女共用のジャージでうろつくのも、制服で性別を決め付けられるのが嫌だからだ。
 初対面のナミダ先生に「口調がぎこちないね」と指摘されたのも、ボクが無理して男っぽく(・・・・)喋ろうとしていたからだ。
 実際『ボク』という一人称が慣れず、泪先生に「堅苦しい言い方」だと見抜かれた。
 性別が逆なだけで、洸ちゃんと同じ構造――。
(と言っても、ボクは女であることを自覚している。障害というほどではなく、単にボーイッシュなだけかも知れない……)
 それに、ボクは洸ちゃんと約束したんだ。
 あの子は男なのに女っぽくて、よくイジメられていた。染色体異常、性別違和。だからボクは、洸ちゃんを守るために――あの子の気持ちを分かち合うために――率先して洸ちゃんを守る『男』になろうと決意したんだ。

 ――沁、あたしっておかしいのかな?
 ――そんなことない! 君が女なら、ボクは男になるよ。誰にも文句は言わせない!

 それが、きっかけ。全ての始まり。
 一人称を『ボク』と名乗り、男っぽくなった発端だ。
「沁、俺は好きだぜ? 男勝りなボクっ娘(・・・・)、いいじゃねぇか。中学以降、制服でスカートを穿き始めたときは笑っちまったが、なかなか似合ってたぜ? また着てくれよ」
「からかうなよ。ボクは君を見損なった。重治がそんな目でボクたちを見ていたなんて、心の底から見下げ果てた」
「なんでだよ? 思春期に男女が異性を意識するのは当たり前だろ? 俺はお前を妹のように(・・・・・)可愛がってやったんだぜ?」
 シスター・コンプレックスか。
 結局、カウンセラーの言い分通りに帰結するのか。
「悪いけど、重治との付き合いはこれっきりにさせてもらうよ」
「あぁん?」
「ボクは女だけど、性格は男っぽいし、重治を異性としては見られない。そもそもボクは今、保健室の湯島泪先生が好きなんだ」
 体が女でも、心が男性像(アニムス)を投影するから。
 ボクは異性に奥手なんだ。
 同性を好きになってしまう。
 いや――憧れてしまう?
 自分が女になりきれない分、きちんと女性をまっとうしている姿に、惚れてしまうんだろう。
 ボクは踵を返した。
 ジャージの中で胸が弾む。
「おい、待てよ――」
 重治が大股で追いかけて来た。
 床越しにズカズカと振動が伝わり、すぐそこまで迫る。
 ボクが屋上のドアノブを握ろうとしたとき、肩を掴まれた。強引に言い寄られる。
「重治、離せ」
「ふざけんな、逃がすかよ――ふがっ!」
 凄んだ重治が、最後まで言い終えることはなかった。
 眼前のドアが内側から押し開かれ、誰かが屋上へ躍り出たんだ。開いたドアは重治の顔面を痛打して、みっともなく引っくり返らせる。
「やぁ、無事かい?」
「……カウンセラーさん!」
 現れたのはスクール・カウンセラーで、左手のステッキをくるくると振り回しながら、左の義足で重治を踏み付けた。
「おっと、気付かなくて踏んでしまったよ。よくある、よくある」
 いや、わざとでしょ、それ。
 抜群のタイミングで登場してくれたけど、狙っていたのかな?
 というか、ずっとボクらの様子を観察していたのか?
「君の帰りが遅いから、探してたのさ。もう日も暮れて、みんな下校する時間だからね」
「本当ですかぁ?」
 訝るボクの視線も、カウンセラーは涼風のように受け流してしまう。
 足蹴にされていた重治が、ふらふらと上体をひねり起こした。
「こ、この野郎、いきなり何しやがん――んぎゃっ!」
 立ち上がった瞬間、今度はカウンセラーのステッキが重治の足をすくい上げる。
 棒術……いや、杖術(じょうじゅつ)か?
 ステッキを支点に、てこの原理で再び転倒させられた重治は、のたうち回った挙句に今度こそ戦意を失った。がくりと脱力したかと思うと、その場で白目を剥いている。
「か、カウンセラーって強いんですね」
「ちょっとした護身術さ。義足の生活に慣れて久しいから、ステッキが宝の持ち腐れにならないよう、いろいろ試行錯誤してるんだよ。あるある」
 いや、ないよ。普通ないよ。
 何なんだこの学校は……。
 ボクは足下の重治と、そばに立つカウンセラーとを交互に眺めて、今後の苦労を思い描いて溜息をついた。

   *

 ――よし。
 事件が一段落した所で、ボクは泪先生に気持ちを告白しようと決心した。
 何せ、屋上で重治と対峙したときに、言ってしまったからね。
 ボクは保健室の湯島泪先生が好きなんだ、って。
 奴のことだから、ボクの秘めたる想いを言いふらすなんて姑息な真似はしないと思うけど、何かの間違いで泪先生の耳に入ってしまう危険がなくはない。
 なら、先手を打つしかない。
 当たって砕けろだ。
 どのみち、もともと勝ち目なんてなかったんだ。まだ泪先生と知り合って一ヶ月も経っていないし、教員と生徒の間柄だし……すっぱりフラれて後腐れをなくした方が良い。
 傷は浅いうちに消しておくべきなんだ。うん。
 それに――。
(それに、恐らく泪先生はノーマルだしなぁ。同性から告白されても嬉しくないだろう)
 そんな負い目も、もちろんある。
 性別の壁。
 ボクも洸ちゃんも、このことを真剣に悩んでいた。でも重治はボクたちに目をかけてくれたと信じていた……それはとても幸せだったのに、彼の本音は、ボクを落胆させた。
 重治に裏切られ、泪先生にフラれることで、ボクは生まれ変われる気がする。
 過去の自分と、決別できる気がする。
 新しい人生をスタートできると思うんだ。
「失礼します」
 保健室の引き戸を、ガラリと開けた。
 見慣れた保健室、リノリウムの床と薬品の匂い。
 デスクに向かう泪先生。
「ん~? また来たのね、渋沢沁ちゃ~ん?」
 泪先生が、椅子を回転させてボクに向き直った。
 ち、ちゃん付けですか……。
 何か恥ずかしいな……。
 ボクは敷居を恐る恐るまたいで――今日はジャージではなく制服(スカート)のすそを押さえながら――泪先生の眼前まで一直線に歩く。告白には正装で臨むべきだろう?
「あら、制服姿に戻ったの~?」目を丸くする泪先生。「何か重大な用事でもあるの?」
「告白したいことがありますっ」
「ガチガチに固まっちゃってるよ~? 何、何?」
「えっと、あの、その、同性で気持ち悪いと思われるかも知れないんですけど、ボクは体こそ女だけど、心は男っぽくて。だから、泪先生のことが好きなんです。保健室に通い始めた瞬間から、ずっと心を魅かれていました」
「あ~、うん、そういうことかぁ」
 泪先生が苦笑している。
 ああ、やっぱり困っている様子だ。どうしよう、どうしよう……。
「きっと沁ちゃんは『ディアナ・コンプレックス』なのかもね~」
「はい? ディアナ?」
「ディアナはギリシャ神話に登場する、狩猟の女神なの。女性でありながら男性顔負けの腕前だったから『男性的に生きようとする女性の心理』という意味で使われるわね~」
 泪先生も養護教諭なだけあって、心理学の基礎知識はあるみたいだ。
「ボクが……ディアナ……」
「性同一性障害ほど深刻じゃないけど、男勝りな性格だったり、異性に奥手で独身を貫いたりと言った事例が多いわね~」
 なるほど、確かにボクっぽい。
 もともとボクは洸ちゃんのために『男の振り』をしただけだから、本格的な障害ではなかったんだ。
「じゃあ、ボクの告白は――」
「あいにくだけど~、私は駄目よ」
 案の定、爆死した。
 玉砕完了。
 残念だけど、スッキリしたよ。
「はい……駄目な理由、出来れば教えていただけますか」
「駄目と言っても、それは先生だからとか同性だからとかじゃなくて~……もっと別の理由があるのよね~」
「別の理由?」
「私には先約が居る(・・・・・)からね~」
 先約?
 ああ……あのカウンセラーか。
「|ナミダ先生のことですか? あのスクール・カウンセラー……苗字が同じ『湯島』でしたもんね。やっぱりご夫婦なんですね」
「ファッ? 夫婦っ? えへへ~、そう見える? ね、やっぱりそう見えちゃう~? きゃっ、夫婦だって。きゃっ」
 唐突に一人で黄色い声を上げ始めた泪先生に、ボクは違和感を覚えた。
 何だ、このリアクション?
「ん? 違うんですか、泪先生?」

「だって私たち、双子の兄妹(・・・・・)だも~ん」

 …………。
 …………。
「え? ええええええええっ!」
 たまげた。
 ぶっ飛んだ。
 のけぞって、たたらを踏んで、引っくり返りそうになった。
「は? 兄妹? だから苗字が同じ(・・・・・)だったんですか!」
「そゆこと~」
 ボクの勘違いだったのかよっ。
「で、でも、兄妹にしてはスキンシップが激しかったりして、仲が良すぎませんか?」
「そりゃそ~よ。私は、お兄ちゃん大好きな『ブラザー・コンプレックス』だもん」
 あ、ああ……。
 ここにも居たのか、ブラコンの心理を持つ者が。
 というか、ここの伏線だったのかよ、ブラコンって。
 ナミダ先生がぽつりとこぼした『身近な例』って、泪先生のことだったのか。
 あの人も、いろいろ背負っているんだな……。
「私ね、高校生の頃、車に轢かれそうになったことがあるんだけど~……そのとき颯爽とお兄ちゃんが現れて、身代わりになって助けてくれたの」
「へぇ……それで、ナミダ先生に愛情を抱くようになった、と?」
「そ~なの! お兄ちゃんはその事故で左足首を欠損(・・・・・・)しちゃったのよ~。だから、あの義足は私にとって勲章であり象徴なのよ! お兄ちゃん大好き!」
「義足には、そんな秘密があったんですね」
 ボクはようやく納得できた。
 合点が行った、と言うべきか。
 ナミダ先生の義足に秘められた経緯は、泪先生が惚れるに足るものだ。体を張って家族を守る……そんなの、ボクなんかじゃ逆立ちしても勝てっこない。
「だから~、私はお兄ちゃんの正妻にはなれないけど~、内縁の妻って自称してるの!」
「自称、ですか」
 とてつもなく虚しい自己主張に、ボクは憐憫を禁じ得ない。
 でも、そこに宿る『想い』は理解できた。
(――みんな、叶わぬ恋に身を()がしている)
 報われぬと知りながら、それでも一途に想いを伝えようとしている。
 世間的には異常でも、それを(こいねが)う理由がある。重みがあるんだ。あるある。
(心って、複雑だな)
 でも。
 だからこそ、心は面白い。
 なんてことを胸に()みつつ、ボクのちょっぴり歪んだ新学期が幕を開けた。

   *

――第一幕・了


・使用したよくあるトリック/性別誤認トリック
・心理学用語/アニマ・アニムス、ブラザー・コンプレックス、シスター・コンプレックス、性同一性障害、ディアナ・コンプレックス



   1.ボクは友達と彷徨(さまよ)い歩く


 五月病という言葉によれば、ゴールデンウィーク明けは気力が衰えやすいらしい。
 しかし、ボク――私立朔間(さくま)学園高校二年の渋沢沁(しぶさわしみる)――は、連休を終えた今日という日を一日千秋の思いで待ちわびたものさ。
(学校が始まれば、保健室の湯島(ゆしま)(ルイ)先生にまた会える!)
 泪先生には以前フラれたけど、それでも生徒として温かく接してくれるし、何より身体的な悩みを持つボクは歓迎されやすいんだ。
 でも。
 五月病の言葉通り――。
「保健室、混み過ぎ!」
 ――ボクは正直、(あき)れたね。いや、人のことは言えないけどさ。
 放課後の保健室は大盛況だった。男女問わず来訪者でごった返している。
 これじゃ、おちおちベッドにも入れないぞ。泪先生と楽しい歓談も出来そうにない。
 生徒たちは口々に症状を訴えている。そんなに大挙したら、泪先生だって対応しきれないだろうに。
 曰く、
「何か、気分が乗らなくて……」
「頭がボーッとしてて……」
「熱っぽくて……」
「嫌いな授業になるとお腹が痛くなって……」
 好き勝手言っているなぁ。
 泪先生も手際良く訪問者を(さば)くけど、それでも追い付かない。あまつさえ、診察ついでに世間話をしたがる輩も潜んでいるから、どうしても回転が悪くなる。
(四月からの新生活に疲れ、ゴールデンウィークで息抜きすると、そのまま気力が戻らず腑抜けた心理状態が続いてしまう……それが五月病だっけ?)
 五月病について、雑学程度の浅い知識を脳内検索する。
 加えて五月の陽気や気候なども影響するって聞いたなぁ。
(ま、そういう話は『心の専門家』の方が詳しいだろうけど)
 ボクは泪先生を眺めすがめつ、別室に居るスクール・カウンセラーを思い出した。
 スクール・カウンセラーは心理学関連の本職を持つ、非常勤の相談業務員だ。週に一度しか出勤しないけど、今日は連休明け初日ということもあって顔を出しているはずだ。
「は~い次の人、どうぞ~」
 泪先生が順番待ちの列を消化して行く。
 綺麗な声だなぁ。もう二〇代後半なのに、中高生のような若々しい声色だ。外見も高校生と寸分たがわない童顔で、化粧も決してケバくなく、身長も低いし線も細い。
 長い黒髪がお人形さんのようだ。思わず触って()でたくなる。
「先生……またお世話になります」
 泪先生の前に座った生徒が、弱々しく呟いた。
 今にも消え入りそうな、陰鬱な女子だった。身を(ちぢ)めて、首をすくめて、常にうつむきがちで、もじもじと足をゆすっている。
 耳が隠れる程度のショートボブな頭髪は決して目立たず、制服も標準通りに着用した、清純だけど地味なシルエット。
(あれ? この子って)
 ボクは見覚えがあった。
 同じクラスの浅谷(あさたに)水河(みか)ちゃんだ。
 大人しい性格で、クラスでも影が薄い。ボクと選択科目が一緒で、その成績はお互い上位だから、授業の前後には言葉を交わしている。
(いつも暗く沈んでいるのは、具合が悪かったから?)
 だからボクは制服のすそを翻し、生徒の列に並ぶ振りして聞き耳を立てたわけ。
 水河ちゃん、どんな容態なんだろう?
「君もすっかり保健室の常連さんだね~」
 泪先生が、水河ちゃんに笑いかけた。
 えっ、そうなの?
 ボクも人並み以上に保健室を出入りしているけど、水河ちゃんと鉢合わせたのは今日が初めてだ。訪問する時間帯が違っていたのか?
「えっと、はい……また、ちょっとゴタゴタしちゃって、気分が優れなくて……」
 水河ちゃんは舌足らずな口ぶりで一生懸命、言葉を紡ぐ。
 小動物が懸命に訴えているようで可愛らしい……もっとも、泪先生の方が小柄だけど。白衣を羽織っていなかったら、どっちが大人だか見分けが付かないね。
「心因的な症状ね~。嫌なことがあると気分が悪くなってサボりたがるとか、暴力や八つ当たりで気を紛らわすとか、他の雑事や掃除にかまけて逃避するとか、幼児退行して知らんぷりするとか~。適応機制っていう心理作用の一種なのよ」
「適応機制、ですか……」
「嫌なことがあって体調を崩すのは、典型的な例だもん。今日は何があったの?」
「はい……私の両親が離婚してだいぶ経つんですけど……その、最近また、別れた父親のことで揉めちゃって……」
 水河ちゃんの声量が、どんどん尻すぼみになって行く。
 周りの目を気にしているんだろうか。それとも、悩みごとを話すこと自体が気おくれするんだろうか――うん、そんな感じだ。
(泪先生が水河ちゃんの熱を測ったり触診したりする間に、悩みも聞き出す……水河ちゃんにとって、具合の悪さは二の次なんだな。ここで会話するための名目でしかない)
 頭痛や腹痛は、いわば保健室に行くための免罪符だ。
 それを建前にして、学校生活の悩みや家庭のトラブル、教師への愚痴などをぶちまける場として、保健室は使われやすい。病院なんかでも、老人患者が診療にかまけて雑談しに来ただけ、ということは多いそうだ。
「保健室は生徒の駆け込み寺だからね~」
 うんうんと頷いていた泪先生が、やにわ起立した。
 ん、と室内の全員が泪先生を仰ぎ見る。
 目の前に居た水河ちゃんも、何事かと先生を見上げたものさ。
「よ~し、君には別室の専門家を紹介してあげる!」
「え? え?」
 泪先生は彼女の手を握って、強引に保健室を出ようとした。
 いいなぁ、手をつなげるなんて……って、ボク個人の感慨はどうでもいいか。
「あ、沁ちゃん……」
 水河ちゃんがボクとすれ違う。
 げ、気付かれた。
 まぁ仕方ないか。泪先生に連れ去られる彼女を、ボクは追いかけることにした。声をかけられたから大丈夫だよね? 付き添いを装って、さり気なく追従してみよう。
「ちょ~っと席を外すから、みんな静かに待っててね~?」
 泪先生は室内にそう言い残すと、戸口をぴしゃりと閉めた。
 みんながポカンと立ち尽くす中、ボクも急いで引き戸を開け、廊下へ飛び出したんだ。
「水河ちゃんっ! どうしてここに?」
「……沁ちゃんこそ、ここに通い詰めてたのね」
「あ~ら、二人ともお友達?」
 泪先生が廊下を先導しつつ、ボクらを肩越しに一瞥する。
 あ、その睨まれ方、すごくイイ……。
「クラスメイトなんです」
「ふ~ん。なら沁ちゃんも同行者と見なしてあげよ~」
 ボクの同伴はあっさり許可された。
 おかげでピンと来たよ、泪先生がどこへ向かっているのかを。
「行き先って、心理相談室ですよね?」
 泪先生は当校のスクール・カウンセラーと仲が良い……というか兄妹だ。生徒の相談を受けやすい養護教諭は、スクール・カウンセラーと連携を取ることも数多い。
「そ~だけど、今日は違う部屋よ~」
「え?」
 泪先生は、相談室へ続く廊下の角を、なぜか逆方向へ曲がった。
 そこには階段があり、ひょいひょいと登り始める。え、どこへ向かうんだ?
 ボクも水河ちゃんもどこへ連れ込まれるのか気が気でない。
 着いたのは校舎の三階だった。多目的会議室があり、引き戸に貼り紙が見て取れた。
『スクール・カウンセラーの定例保護者会』
 保護者会?
「五月病の発生しやすい時期って~、親御さんを対象にした講演会を開いて、自己啓発させると良いんだって。校長やPTAの意向にもよるけど、カウンセリング活動を宣伝できるメリットもあるし、保護者の悩みごとも拾えるから好評みたいよ~」
 手広くやっているんだな。これもカウンセラーの仕事の一環か。
 事実、保護者会は需要が高いらしい。学校生活の内情を聞けるし、思春期や反抗期の子供たちにどう対応すれば良いのか、親の悩みも後を絶たないから。
(カウンセラーは生徒だけでなく、保護者や教師など、学校に関わる全員が顧客なのか)
「保護者会、そろそろ終わる時間ね~……は~い失礼しま~す。お兄ちゃ~ん!」
 勢いよく戸を開けた泪先生は、ズカズカと室内に突入した。
 片手で水河ちゃんを引っ張り、さらにボクが追尾する。
「ん? ルイ?」
 教壇に立っていたナミダ先生が、闖入者(ボクたち)を訝しげに振り向いた。
 ――湯島(ナミダ)
 本業は大学の心理学講師。
 春物のカーディガンとポロシャツ、スラックスを着て、上には白衣を羽織っている。
 上背はさほどない。男性の平均身長よりやや低い程度だ。
 泪先生も小柄だから、湯島家は代々そういう遺伝子なんだろう。
 その代わり、ナミダ先生は中性的な顔立ちが美しく、密かに人気だそうだ。教室に集まった保護者の大半が主婦で、年甲斐もなくキャーキャーと黄色い声を上げている。
「む。まだ続いてるの~? そろそろ終了だと思って、生徒を連れて来たのに~」
 泪先生がほっぺを膨らました。プニプニしていて可愛い。
 水河ちゃんを連れて来たのは、単にお兄さんと会いたかっただけか……ボクは水河ちゃんと複雑な面持ちで見合わせた。
「保護者の悩みに応じるのも、カウンセラーの業務だからね。あるある」
 ナミダ先生がこともなげに返答した。
 つれない態度に、泪先生はますますへそを曲げてしまう。お兄さんが主婦たちにもてはやされているのが、気に食わないらしい。ブラコンここに極まれりだね。
「あら……水河じゃないの!」
 その主婦層から、水河ちゃんを名指しで呼ぶ者が居た。
 水河ちゃんの母親だ。楚々とした地味な佇まいと、黒を基調としたシックな服装が個性を押し殺している。なで肩にはストールをひっかけて、さらに辛気臭い雰囲気だ。
「ママ……私、ちょっと悩みごとがあって、保健室の先生に引率されて来たの……」
 水河ちゃんが困ったように視線を床へ落とした。
 まぁ戸惑うよね、親と対面したら。家族には内緒にしたい相談かも知れないし。
 けど、母親もここに来たということは、この人も悩みがあるということだ。
 浅谷家には何かがある――?
「そろそろ時間ですから、お開きにしましょう」主婦たちに一礼するナミダ先生。「本日はありがとうございました。この後は、事前に受け付けた個別の相談がありますので、予約者は一階の心理相談室までどうぞ」
 惜しむ声が主婦層から囁かれる中、ナミダ先生は颯爽と踵を返し、白衣をはためかせて教室を去った。
 ていうか今、個別の相談があるって言ったな。
 それじゃあ水河ちゃんは後回しか?
「最初の予約はわたしです!」
 水河ちゃんの母が、諸手を挙げた。
 ナミダ先生の背後をぴったり追いかける。
 水河ちゃんの母親が相談……?
 すると泪先生まで電光石火の早さでUターンし、ナミダ先生に付きまとった。
「お兄ちゃん、奇遇だね! ちょうど浅谷さんの娘さんも、心の悩みがあるのよ~! 親子そろって相談に乗ってくれない? ね~ね~」
 め、めちゃくちゃなこと言い出したぞ……。
 いくら親子でも、同席するのは強引じゃないか? 別々の相談かも知れないのに。
「そう……水河も相談に……」
 母親が声を押し殺す。
 水河ちゃんは視線をさまよわせた後、相槌をこくり、と打った。
「うん……私も家のことで悩んでて……多分、ママと同じ相談内容になると思う……」
 一緒なのかよ!
 ボクの思惑が外れてしまった。ま、その方が都合は良いけどさ。
 同じ相談内容。同じ悩み。
 親の問題かな? そう言えば、さっき保健室で「両親が離婚して~」と話していたな。
「なら相談室で、親子一緒に(うかが)いますよ」
 ナミダ先生は階段を降りながら、にこやかに応えた。
 惚れ惚れするくらい爽やかな笑顔だ。営業スマイルだなぁとボクは思ったけど、水河さんも母親も、彼の美貌にすっかり頬を染めている。
 やばい、このカウンセラーは天然のタラシだ。
 なまじ心理学で人心掌握に長けているから、なおさら(たち)が悪い。
 ふと見たら、泪先生が嫉妬の炎で全身を燃やしていた。こっちはこっちで怖いな!
 一階に到着し、職員室を素通りして、心理相談室の前で立ち止まる。
「じゃあボクはここで――」
「待って……沁ちゃん」ボクの(そで)を掴む級友。「不安だから……そばに居て欲しいの」
「え? でも」
「お願い……」
 水河ちゃん()のプライバシーに関わるから遠慮したかったけど、ここまで頼まれてはやむを得ない。
 水河ちゃんの母親は邪魔そうにボクを睨んだけど、娘じきじきの申し出だからと引き下がった。
 泪先生がぴょんぴょん飛び跳ねて、自分をアピールし出す。
「じゃ~私もお兄ちゃんと同席――」
「ルイは保健室に戻りなさい」
「……ぶ~ぶ~」
 ナミダ先生に諭されて、がっくりと肩を落とす泪先生が可愛い。
 かくして、ボクは再び巻き込まれた。
 友達の家庭を巡る『相談業務』に――。

   *


   2.ボクは青い鳥を見失う


「実は……学費を滞納してしまって、困っているのです」
 先に切り出したのは母親だった。
 娘の水河ちゃんはずっとうなだれて黙りこくっているし、付き添いのボクが口を挟むわけにはいかないしで、自然と口火を切るのは母親に絞られた。
 浅谷流水(るみ)――それが母親の名だ。
 幸薄そうな容貌は親子共通だ。いつも表情に影を落とし、陰気そうに振る舞っている。
「滞納ですか」
 カウンセラーのナミダ先生は、合いの手を入れるように繰り返した。
 それはきついな……公立校より私立校の方が高く付くのは、今も昔も変わらない。
 いろいろな補助制度もあるにせよ、それでも手が回らないんだろうか?
「滞納の原因をお聞かせ願えますか?」
 やんわりと先を促すナミダ先生に、浅谷親子はホッと胸を撫で下ろした。
 おどおどした態度は残っているけど、空気が和らいだのは確かだ。このカウンセラー、本当に百戦錬磨のタラシだな。
「わたしは夫と離婚し、娘の養育費を毎月もらっていたんですが……今年に入ってから、振り込みが途絶えてしまったんです……」
「ほう」身を乗り出すナミダ先生。「支払いをバックレたわけですか。よくある話だ」
「学費は養育費から捻出していたので……学校側からも結構せっつかれていて……」
「私、退学になっちゃうんですか……?」
 水河ちゃんもいたたまれなくなったのか、喉から声を絞り出した。
 顔を両手で覆って、前のめりに上体を伏せる。か細い肢体がさらに小さく見えた。
(それがストレスの原因か)
 せっかく入った高校、しかも私立の進学校だから、辞めたらもったいない。
 かく言うボクも、血反吐を出す思いで受験に合格した記憶があるよ。
「元・夫は……いい加減で、不真面目で、不誠実を絵に描いたような駄目亭主でした」
 母親の愚痴が堰を切った。
 一度火が()くと止まらないっぽい。心の奥底に不満を溜め込んでいた反動かな。
「元・夫は娘の育児放棄、ときには暴力を振るっていました。そのせいで娘は夫に(おび)えてしまって……おまけにろくな定職にも就かず、ふらりと旅に出て連絡をよこさず、たまに家へ戻って来ても、なけなしの貯蓄を奪ってまた家を空ける……の繰り返しでした」
「ありがちなパターンですね。あるある」
「なので、弁護士を立てて離婚を成立させたんです……」
「へぇ、弁護士を」
「貯蓄をはたいて雇いました……今でもわたしたちを気にかけてもらっています」
「なるほど。その旦那さんは育児放棄(ネグレクト)家庭内暴力(D・V)、お二人は被虐待症候群の向きがありますね、あるある。虐待が常態化すると反抗心を削がれ、甘受してしまう症状です」
「ネグレクト……ひぎゃくたいしょうこうぐん……?」
「旦那さんは恐らく酒、タバコ、ギャンブル好きで、睡眠時間は短く、夜型。時間もルーズで、約束を守らない、忘れっぽい、気が短い、語彙力も低い。定職に就かないのではなく、就けなかった(・・・・・・)と見るべきですね。外見も気にせず、だらけた身なりが浮かびます」
「ど、どうして判るんですかっ?」
 浅谷親子がそろって目を剥いている。
 ナミダ先生は、何てことなさそうに肩をすくめた。
「心理学の統計と分析ですよ。よくあるパターンを選別するとこうなりました」
「凄い……」
 あ、水河ちゃんが喰い付いた。
 ボクも以前、ナミダ先生に性格を分析されて、彼のペースにハメられたことがある。この人はそういう手練手管が本当にうまいな。
「もう一つ付け加えると」指を立てるナミダ先生。「旦那さんは『青い鳥症候群』です」
「青い……鳥?」
 何それ、と浅谷親子は首を傾げた。末席のボクも同様だ。
 青い鳥って……有名なメーテルリンクの?
「メーテルリンクの『青い鳥』にちなんだ心理学用語です。本当の自分とは何か、理想の青い鳥を求めて自分探しの旅に出たまま戻らなくなる、フラフラした心理です。安定した生活を(うと)み、定職にも就かず彷徨い歩く、困った状態ですね。あるある」
「元・夫がまさにそんな症状でした!」
 母親が何度も強く頷いた。
 定職に就かないのなら、お金を振り込めなくなるのも無理ないか。その日暮らしで糊口をしのぐから養育費も途絶えたんだろう。
「わたしは弁護士に頼んで、元・夫との連絡を取ろうとしました……弁護士によると、元・夫は現在、市外の田舎町に転居し、町工場で日雇い従業員をしているそうです」
 一応、働いては居るらしい。
 さすがに住所不定無職ではなかったか。青い鳥だから油断は出来ないけど。
「私……弁護士さん好き」
 水河ちゃんがぽややんと夢見がちに相好を崩した。
 は? 弁護士が好き?
 いきなりノロケたぞ、この子。弁護士が何歳だか知らないけど、水河ちゃんにしては大胆発言だな。引っ込み思案で大人しい子なのに。
「そう言えば水河さん」現実に引き戻すナミダ先生。「君は心因性の体調不良を訴えてたね。父親との軋轢が要因だとして、それ以外に悩みごとはないかな?」
「……というと?」
「女性特有の心の病や症候群もあるからね。心当たりがあれば早めに絞り込みたい」
「はぁ……」
「例えば、シンデレラ・コンプレックス。これは自分をシンデレラに見立てて、白馬の王子様を待ち望む依存症だ。今言った弁護士さん、まさしく君たちに親身な王子様だね」
「えっ。そんなこと、な、ないですよぅ……」
 顔が真っ赤だぞ水河ちゃん。
「シンデレラに似た症状として、男性に依存しつつも内心では反発し、破滅させたくなるユディット・コンプレックスなんてのもあるね。あるある」
 いや、めったにないよ、そんな歪んだ気持ち。
「ユディット? んー……私には判りません……ごめんなさい」
 水河ちゃんは困ったように頭を下げた。
 ナミダ先生も人が悪い。矢継ぎ早に専門用語を連発して、水河ちゃんを試したんだ。
 室内が静まり返った隙に、母親が割り込んで話の矛先を戻す。
「わたしたち、今度の週末に、弁護士を伴って元・夫に会いに行く予定なんです。その前に何かアドバイスをもらえればと思って、カウンセラーを頼ったんですが……」
 週末に?
 父親の住む田舎町へ?
 弁護士が場をセッティングしたのかな。会う直前に蒸発されなければ良いけど。
「現時点では何とも言えませんね」あごに手を当てるナミダ先生。「弁護士に交渉を委託して、黙って見守るのが最善かと。駄目なら役所で母子家庭の援助を申請しましょう」
「うーん……それだけ、ですか?」
 母親は不服そうだった。もっと具体的に、養育費を全額払わせる必勝の心理誘導とかを教われると期待したんだろうか?
 当たり障りのないナミダ先生に、水河ちゃんも拍子抜けしている。
「何か……普通ですね。沁ちゃんが以前お世話になったらしいから、起死回生の助言が聞けるのかと思ったんですけど……」
「いやぁ。カウンセリングは通常、何日もかけて対話を重ねて解決するものだから」
「……沁ちゃんの悩みは即日解決したって聞きましたけど?」
 うわ。今それを言っちゃうのか、水河ちゃん。
 いくら友達でも、ちょっとボクはカチンと来た。あの件は繊細な問題だからね。
「仕方ないだろ、水河ちゃん」
「……沁ちゃん?」
「スクール・カウンセラーは週にたったの一日しか出勤しないんだ。そんなわずかな時間で手とり足とりご教示できる時間があると思う? しかもカウンセラーは本業を他に持っているんだぞ。ナミダ先生がどれだけ身を粉にしていると思っているんだ?」
 ボクはいつの間にか、ナミダ先生の肩を持っていた。
 このカウンセラーには恩があるからね。あれは確かに即日解決したけど、極めて特殊な例なのは想像に難くない。
 すると母親が鼻を鳴らした。
「ふん……本業を他に持っているですって? 週に一日だけ? だから片手間な返答(・・・・・・)しかよこさないんですね……見た目は格好良いのに、とんだ肩透かしでしたわ」
 か、片手間な返答だと?
 ボクは柄にもなく熱くなってしまった。
「何だとあんた――」
「やめるんだ、沁ちゃん」
 僕の暴走をなだめたのは、ナミダ先生ご自身だった。
「でもナミダ先生……」
「いいんだ、よくある批判だよ。勤務時間は文科省の規定だから、どうしようもない」
 そう語ったナミダ先生は、虚しく空笑いした。目が笑っていない。
 ――スクール・カウンセラーの問題点。
 それがついに顕現した格好だ。
 短い時間でノルマをこなさなければならないため、混雑時はどうしても面倒を見切れない。特に今日は、保護者会で他にも相談者が控えているしね。
 しかし、相談者はもっと突っ込んだ話がしたいはずだ。せっかく心の悩みを打ち明けるんだから、真摯に接して欲しいんだ。
 その齟齬。すれ違い。
 スクール・カウンセラーを取り巻く環境は、改善すべき課題がまだまだ多い。そこを突かれたら反論できない――。
「また来週、僕は出勤しますので、そのときに結果をお聞かせ願えますか? 今週末に旦那さんと話し合うであろう報告を」
「ふん……気が向いたらね。帰るわよ水河」
「……はい」
 二人は立ち去る。彼女たちにしては乱暴な歩調だった。
 ボクが所在なげにまごつくと、ナミダ先生は「君も帰りなさい」と温和に諭す。
 はぁ……やむを得ないか。ボクもすごすごソファから腰を上げた。
「やっと、お話終わったのね~」
 廊下に出るや否や、泪先生の声が降り注いだ。
 えっ、どこどこ?
 見回せば、相談室の壁に聞き耳を立てている泪先生が居た。コソ泥ですか貴女は。
 彼女の視線は、一足先に退室した浅谷親子を捉えて離さない。向こうも泪先生の奇行に驚いて、廊下で立ちすくんでいる。
「浅谷親子!」ビシッと指差す泪先生。「私のお兄ちゃんを、あんまり馬鹿にしないでくんない?」
 うっわ、超ドスが利いた声だ。
 泪先生、こんな怖い声も出せるのか……相当ハラワタが煮えくり返っているようだ。
 母親も売り言葉に買い言葉で、こめかみに青筋を立てた。
「はぁ? カウンセラーのみならず、養護教諭まで減らず口を叩くつもり? 最低ね!」
 思いっきり泪先生を侮蔑して、さっさと廊下を退散して行く。
 水河ちゃんはときどきボクを振り返ったけど、母親にたしなめられて遠ざかる。こりゃボクの方も軋轢が生まれそうだなぁ。
「泪先生、良かったんですか?」
「あとで吠え面かかせてやる」ふんぞり返る泪先生。「一つ、予言するわ。あの親子は来週、必ずここに戻って来る。自分たちの過ちに気付いて、泣き付くわよ」
「そ、そうですかね」
「当然よ。お兄ちゃんが今まで人を救えなかったことって、ある?」
 いや、知りませんけど……。

   *

「助けて下さい、カウンセラーさん……!」
 かくして泪先生の予言は実現した。
 翌週、再び相談室に顔を出した浅谷親子。
 そして案内人のボク。
 って、なんでまたボクが付き添わなきゃいけないんだ……。
 理由は単純、水河ちゃんに頼まれたからだ。先週、あんな大見得を切って相談室を出て行った手前、ボクを仲介役に挟まないと、再訪問する勇気が湧かなかったらしい。
 どうやら父親に会ったものの、話がこじれたようだ。
 あらましを泣きながら話す親子が痛々しかった。
「元・夫は、田舎の町工場で、電卓やパソコンのキーボードに使うボタンカバーを生産していました。それ以外はろくな産業もない辺鄙な場所で……最寄りの駅も無人。周辺は田園とあぜ道ばかりで、喫茶店が一軒あるきりでした」
「金欠だと、物価の安い過疎地へ引っ越すしかないんですよね。あるある」
 ないんだかあるんだか。
 このカウンセラー、内心ニヤニヤしながら親子を観察しているだろ絶対。
「本当は、弁護士さんの車に乗せてもらって行く予定でした……」はにかむように呟く水河ちゃん。「けど……当日、弁護士さんは事務が立て込んで遅くなるらしくて、現地集合することになって……私とママだけ、先に電車で無人駅へ着いたんです」
「へぇ。それで弁護士さんは?」
「事務を済ませ次第、車を飛ばして現地に駆け付けるとのことでした……駅前の喫茶店で待ち合わせをしました。ああ、弁護士さんの助手席って憧れますよね……」
 おい水河ちゃん、話が脱線しそうだぞ。
 そんなにぞっこんなのか。どんなイケメンなんだ? それともナイスミドルなのか?
「午後〇時頃……駅へ着いた私たちは、父親に電話を入れる予定だったんですが……」
 水河ちゃん、大事そうに自分のスマートホンをひけらかした。
 マイナーなキャリアだけど、最新モデルの機種だ。
 ん? 学費も払えない赤貧の彼女が、最新モデルを買う余裕があるのか?
「以前は違う機種だったんですけど、奮発して弁護士さんと同じキャリアに変えました」
 どんだけ弁護士に惚れているんだよ、この色ボケ女子高生。
 ボク、この友達を素直な目で見られなくなりそうだ……。
「それが誤算でした」トホホと嘆息する母親。「そのキャリアは、過疎地の電波をサポートしていない『圏外』だったんです」
「うわ、あるある。マイナーなキャリアは特に、強い地域と弱い地域があるんですよね。都市圏は全域カバーしてるけど地方都市はからっきしとか。ありがちな話です」
 ナミダ先生がしきりにあるある頷いた。
 それが口癖なのは判ったから、もっと本筋の話をしましょうよ。
「だから私、スマホの代わりに……無人駅にあった公衆電話を使いました」
「公衆電話を」
「はい。私、生まれて初めて使いました……!」
 普通はスマホさえあれば、わざわざ公衆電話なんか触らないもんなぁ。
 かくいうボクも、電話ボックスに入ったことないや。どうやって電話をかけるのかも知らないよ。
「十円を入れて、プッシュボタンを押して……公衆電話ってパソコンのテンキーと同じなんですね、慣れない機械だったので緊張しました……ああ、怖かった」
 やおら水河ちゃんは、自分の肩を抱いて震え始めた。
 自分を虐待した父に電話をかけるなんて、さぞ嫌だっただろうなぁ。
「私……頑張りました。ここで逃げちゃ前に進めないって、弁護士さんにも言われましたし。ママが代わろうとしたんですけど、私の手で電話しました」
「番号はあらかじめ知ってたのかい?」
「父の電話番号はスマホに登録してあったので、それを見て電話しました……」
「僕も見て良いかな?」
 ナミダ先生はスマホの画面を要求した。
深川(ふかがわ)渓三(けいぞう)/自宅030・72731・4989
     /携帯090・18197・4323』
 深川というのは、父方の苗字だろう。現在は離婚したから、水河ちゃんは母方の姓を名乗っているわけだ。
「父の自宅に電話したら……物凄い怒鳴り声で、威嚇されました」
 そりゃそうだろうなぁ。もともと仲が悪かった上に養育費をせびりに来るなんて、歓迎されるとは思えない。
「父は怒りのあまり、何を叫んでるのか聞き取れないくらい発狂してて……ううっ」
「水河……大丈夫?」
 ソファにうずくまる水河ちゃんを母親が手でさすった。
 少しずつ落ち着きを取り戻した水河ちゃんだけど、父との対話は想像以上にトラウマをえぐったようだ。
「すぐに電話は切れちゃって……仕方なく、弁護士さんの到着を待ちました……」
「駅前の喫茶店で、弁護士と合流したのは午後一時過ぎでした」代弁する母。「わたしたちは、軽く腹ごしらえをしてから車に乗り、元・夫の家へ向かいました……」
 歯切れの良くない語り口だ。
 どうにも億劫な、話したくなさそうな唇の重さだった。
「わたしたちは……山ふもとの古びた一軒家に着きました。すると、家の玄関が開きっ放しで……屋内は家具が倒れ、荒らされて……空き巣か強盗が入ったような惨状でした」
 え?
 ちょっと待って、不穏な気配がするぞ。
「怪しんだ弁護士さんが先頭に立って、恐る恐る中へ進みました……廊下を抜け、リビングに入り、奥の台所に差しかかった所で……死体を見たんです」
「死体?」

「元・夫の刺殺死体(・・・・)です……うっすらと死斑も浮かんでいました!」

「え!?」
「元・夫は、娘が電話してから到着するまでの間に、強盗被害に遭ったんです……! 家からなけなしの現金と財布、通帳などが奪われて……彼の手許には免許証と携帯電話くらいしか残されていませんでした」
「そんな――」
「犯人はまだ見付かっていません……わたしたち、どうすれば良いのでしょう? 何より死体を見たショックが大きくて、日に日に心は荒む一方……嗚呼、カウンセラーさん。助けて下さい……治して下さい……!」

   *


   3.ボクは公衆電話を使わない


「行きずりの強盗事件に巻き込まれた、か……ありがちと言えばありがちだけど」
 ナミダ先生が独り言を呟いている。
 まぁ、よくある事件と言えばそうかも知れないけど、遭遇した本人たちにとってはたまったものじゃない。
「台所の包丁(ほうちょう)で、父は刺されていました……」肩を抱きすくめる水河ちゃん。「父は工場で夜勤が多いらしくて、昼間は家で寝てるそうです……きっと強盗は、空き巣狙いで侵入したものの、父が在宅中で鉢合わせ、咄嗟に台所の包丁を手に取ったんじゃないかって、警察が言ってました……」
 あまつさえその日は、浅谷親子が訪問する予定もあったから、父は起きていたという不運も重なった。寝ていれば殺されずに済んだかも知れないのに。
「なるほど」ポンと膝を叩くナミダ先生。「あなた方は、養育費の悩みだけでなく『死体を目の当たりにしたトラウマ』も新たに植え付けられたんですね」
「ええ……元・夫の家から紛失した金品などからも、強盗と見て間違いなさそうだと警察に言われました」
 母親がやる瀬なく唇を噛みしめた。
 途方に暮れるのをこらえている挙動だ。ギリギリで自我を保っている。
 本当は気が滅入って寝込みたいだろうに――。
「……死体発見後、すぐに一一〇番通報したんですけど、みんな携帯電話が圏外なので、やむを得ず家の電話を借りました」
「仕方ないですね。指紋が付いてしまいますが、警察もそこは了承してくれるでしょう」
「ええ……田舎なので駐在の警官が駆け付けるまで、結構な時間がかかりました。所轄の捜査一課が来るのも遅かったと記憶しています」
 初動捜査の遅れか……のどかな田舎町だからこその落ち度だなぁ。
「通報は弁護士さんがしてくれました」胸をキュンキュンさせる水河ちゃん。「怯える私たちの代わりに、全て弁護士さんがやってくれました。頼りになる人です……素敵」
「じゃあ家の電話には弁護士さんの指紋が付いたんだね。普通のプッシュホンかい?」
「はい……どこにでもあるコードレスホンです」
 水河ちゃんってば、血の気を引いたり恋する乙女の顔色になったりと、ころころ表情を様変わりさせている。感情豊かで忙しいなぁ。百面相かよ。
「その後も、警察の捜査に協力して……弁護士さんのおかげで、目撃証言とかもスムーズに済みました」
「電話は他になかったのかい?」
「父のケータイが、死体のそばに落ちてましたけど……さすがにそれを手に取って通報するのは、弁護士さんも避けてましたね……」
「そばに落ちてた、か。屋内でも常に持ち歩き、殺された拍子に転がり落ちたのかな」
 ナミダ先生が物思いにふけった。ぼーっと天井を眺めている。
 どうしたんだろう? 何か引っかかるのか?
「水河さんが無人駅で公衆電話を使ったとき、父親の自宅に電話したんだよね?」
 ナミダ先生、やたら電話にこだわっているな。
「そうです……父の自宅にかけるよう、弁護士さんから頼まれてたんで……」
「ケータイを肌身離さず持ってる人なのに、自宅の電話へ?」
「そんなに不思議ですか……? 家に居るから家の電話にかける、普通のことだと思いますけど……」
 水河ちゃんがにわかに警戒の色を濃くした。
 あたかもナミダ先生に詮索されているようで、気分を害したのかも知れない。
 悩み相談から一転して、殺人事件の聞き取りみたいになっているのも空気が悪い。
「現場検証もやりましたよ……警察と一緒に、公衆電話も確認しましたし……」
「異状はなかったのかい?」
「特には何も……ねぇ、ママ?」
「そうね……あ、でも」
 母親がポンと手を叩き合わせたので、ナミダ先生が視線を細めた。そんな熱視線に母親はほだされたのか、ついペラペラと饒舌に語り出す。イケメンって便利だな。
「わたしの勘違いかも知れませんけど、公衆電話のプッシュボタンの並びが初見と違っていたような……上段が①②③、中段が④⑤⑥、下段が⑦⑧⑨でした」
「え? 逆じゃなかった?」
 水河ちゃんが母親に反論した。
 おいおい、記憶違いが生じているぞ。
「わたしの見間違いかしら。大して気にしなかったから、警察には言わなかったけど……気が動転して混乱しているだけかも知れないわね」
「そうですか。では、父親の死亡推定時刻は?」
「え……なんでそんなこと」
「電話したときは生きていらしたんですよね?」
「はい……無人駅に着いたのが午後〇時で、娘が公衆電話を使ったのも同時刻……そのとき元・夫と通話したので、彼が殺されたのはそれ以降ですね……弁護士との合流が一時過ぎ。昼食をとり、車で夫の家へ向かったのが二時半頃でしょうか……」
「つまり午後〇時~二時半の間。死斑が浮かぶ時間差も考えると二時前まで絞れるか」
 またもや天井を見上げるナミダ先生は、心ここにあらずだった。
 脳内でめまぐるしい思考が展開しているんだろうけど、ボクには理解が追い付かない。
「水河さんが公衆電話をかけたとき、弁護士は車で移動中だったんですよね?」
「はい……事務を終えて田舎へ向かう途中だったようです」
「証明できるものってありましたか?」
「あります!」挙手する水河ちゃん。「弁護士さんは〇時頃、田舎に向かう途中の国道沿いにあるコンビニで、飲み物を購入したそうです……レシートが警察に提出されました」
「別の場所に居て、田舎に行く最中だった、と。アリバイ成立か」
 アリバイって、不在証明とかいう意味だっけ?
 これまた物騒な単語が出て来たな。
 事件と違う場所に居たので、犯行とは無関係だと立証できるわけだ。
「怪しいなぁ」
 ところがナミダ先生は、丸っきり信じていなかった。
 ボクも、水河ちゃんも、母親も、思いがけない発言に耳を疑ったよ。
「先生、私の弁護士さんを疑ってるんですか…………あっ」
 RRRR。
 そのとき、水河ちゃんのポケットからスマホが着信音を奏でた。
 抗議を邪魔されて機嫌を損ねた彼女だったけど、面倒臭そうに通話へ応じる。
「もしもし……え、警察の方ですか? 強盗事件のことで質問? ……はい、私は公衆電話から父の自宅にかけましたが……は、違う? ケータイ(・・・・)にかかってた、ですって?」
「え?」
 母親が娘を二度見した。
 水河ちゃんも混乱のあまり、目をぐるぐる回している。
「私は父の自宅にかけたつもりでした……え? 着信履歴ではケータイにつながってたんですか? じゃあ私、見間違えたのかも。父の自宅とケータイ番号、並べてメモしてたんで……どのみち父にはつながったので、気にしてませんでした……はい、失礼します」
 通話を切った。
 意外な情報が飛び込んで来た。
 折しもこんなタイミングで、(はか)られたように。
 ナミダ先生が口角を持ち上げた。
「心理学において、人の記憶は全て『普遍的無意識(ふへんてきむいしき)』に貯蔵されると言われてる。その無意識に精神を接続すれば、そこに蓄積された記憶や情報が『共有』され、計ったようなタイミングで提供されるよう働きかけることも可能となる……」
「は? ナミダ先生、突然どうしたんですか?」
 ボクは思わず突っ込んじゃったよ。
 何言ってんだ、この人?
「その結果、こうして新情報がもたらされた。水河さんは電話をかけ間違えた(・・・・・・・・・・・・・・)、ということにされた。でも、果たしてそれは本当だろうか?」
「一体、何を疑っているんですかナミダ先生?」
 ボクがしびれを切らして問う。
「電話に細工がされてたようだね。あるある――」
 ところがナミダ先生は聞く耳すら持たず、相変わらずしれっとした面相で持論をのたまうんだ。

「――僕の仮説だけど、加害者は弁護士だと思うよ」

「はぁっ?」
 室内の全員が、寝耳に水どころか濃硫酸でもぶちまけられたように飛び跳ねた。
 弁護士が加害者って……犯人ってことだよね、それ?
「浅谷さん。あなた方は、父の死体発見によるショックで精神を痛めてます。ろくでもない男だったとはいえ、彼の養育費を当てにしてたのも事実ですからね。その心の傷を癒すためには、事件を解決する必要があります、あるある」
 心を癒すために、事件の真相を暴く。
 それが、ナミダ先生のカウンセリング方法。
 心理的な見地から、物事を照らし出す客観視と洞察。
 事件の『真相』とは、心の『深層』でもあるんだ。
(ボクのときも、このカウンセラーは事件を紐解いてくれた。心の在り方を、心理の道筋を示してくれたんだ)
「これは、ありがちなアリバイ・トリックです」
「アリバイ・トリック?」
「推理小説によくある趣向です、あるある。犯行をごまかすために、別の場所に居たという偽証を用意すれば、警察には疑われません。例えば、自分そっくりの肉親に協力してもらい、別の場所で目立った行動を残せば、犯行当時はそこに居たと主張できます。もしくは死体の発見を遅らせたり、化学薬品や冷凍保存で腐敗速度をごまかしたりして死亡推定時刻を狂わせることで、その時刻に他の場所でアクションすればアリバイを作れます」
「き、聞き捨てなりません……!」
 水河ちゃんが立ち上がった。
 激昂している。
 大好きな弁護士を犯人呼ばわりされたから、本気で血相を変えている。般若の面みたいだ。そこまで惚れているのか。
 まぁ母子家庭で辛い状況の中、親身に協力してくれる男手というのは魅力的に映るんだろうけど……。
「水河さん、座りなよ」
 ナミダ先生が命令した。
 でも、彼女は座らない。
 水河ちゃん、完全に怒り心頭だよ。きちんと説明されるまでは収まりそうもない。
 ナミダ先生はやれやれと溜息をついてから、諦めてそのまま話を続けた。水河ちゃんに見下されたまま。
「恐らく、弁護士は事務なんか立て込んでなかった。そう偽って、単独で父親宅に先行したんだと思う。ありがちありがち」
「先行……? なぜですか!」
「そりゃ父親を殺すためさ。死体に死斑が出始めるのは死後数十分からで、徐々に色濃くなって行く。個人差はあるけどね。午後〇時以降に殺されても余裕で発生するけど、少しさかのぼって午前十一時とかに殺されても、死斑の色合いは誤差の範囲だろう」
「そんな……だって私は、生きてる父と電話したんですよ?」
「それが弁護士のトリックなのさ。午前中に、弁護士は車で父親宅をこっそり訪ねた。そして父親を殺害し、強盗の仕業に見せかけるべく家を荒らし、金品を奪った。山中を探索すれば、捨てられた金品が発見されるんじゃないかな。うん、ありそうだ」
「ぜ、全然、私の解答になってませんよ! 弁護士さんはなぜ……」
「弁護士もまた、君にご執心だったんだ。弁護士も君を見捨てた父親が憎かったのさ。だから殺して、金品とケータイを持ち出した」
「ケータイ? 父のですか?」
「ケータイを奪った弁護士は至急、車で引き返し、午後〇時に国道沿いのコンビニへ駐車した。その時刻は、君たちが電車で無人駅に到着する時間でもあったね」
「弁護士さんは時間を見計らってたんですか……?」
「そうなるね。そして君たちのスマホが圏外で、公衆電話を使うと予測した。いや、そう仕向けたのかな? わざわざ電波の悪いキャリアに変更させたそうじゃないか」
 キャリア変更……! それも仕組まれていたのか!
「そして君は案の定、公衆電話から父に電話した。しかしそれは、弁護士が持ち出した父のケータイにつながった」
「え、意味が判りません……」
「君は自宅に電話したつもりでも、実際はケータイにつながった。弁護士は父の振りをして(・・・・・・・)怒鳴り散らし、すぐに電話を切った。長話したらバレる恐れがあるからね」
「えぇ……?」
「君は父親のD・Vに(おび)える被虐待症候群だったから、怒声を反射的に父親だと思い込んだ。おかげで父親は午後〇時までは生きてたことになり、弁護士のアリバイも成立する」
「私が電話をかけ間違えたのは、偶然ですよ……?」
「違うね。午前中に弁護士が田舎へ先回りして、公衆電話のボタンに細工したんだ」
「ボタンに細工を……?」
「君は、公衆電話のボタンがパソコンのテンキーと同じだと言った。テンキーは上段が⑦⑧⑨の並びだ……そんな馬鹿な! 公衆電話は家の電話と同じく上段が①②③だよ!」
「ええっ?」
「プッシュボタンの上に、薄いプラスチック製のボタンカバーを造ってかぶせれば、並びのあべこべな電話を偽装できる。君たちは公衆電話を使ったことがなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)から、ナンバーの並びが逆になってても不思議に思わなかったんだ」
「た、確かに……気付きませんでした」
 水河ちゃんはおろか、母親までもが意気消沈している。
 何しろ初めて使うんだから、公衆電話のボタン配置に疑問を抱く余地すらなかったに違いない。ボクも知らなかった……。
「電話のボタンを細工するのは、昔からよくあるトリック(・・・・・・・・)なんだよ、あるある」
「そうなんですか?」
「うん。電話機がまだ一般に浸透してなかった時代は、シールやカバーで数字を上から貼り替えてもバレなかったんだよ。プッシュホンが初登場したときも同様だ」
 そうか。馴染みが薄いものは、疑いようがない。細工に気付かないんだ。
 ちょうど今のボクたちみたいに……。
「当時の推理モノや二時間ドラマで、この手口を見た人も多いんじゃないかな? 模倣しやすいトリックだから、注意を呼びかける人も居たと思う」
「へぇ~……」
「無論、電話が広く認知されてからは一気に廃れたけどね。みんな番号の並びを知るようになれば、配置が違ったら一発でバレる」
「確かに……」
「でも現在、再びこの手のよくあるトリックが通用するようになった。今は携帯電話で事足りるから、公衆電話を知らない世代が増えた(・・・・・・・・・・・・・・・)んだ。昔の電話機が珍しかった頃と同じ状態さ。時代は繰り返すね、あるある」
 時代を超え、期せずして公衆電話に不慣れな人口が増え始めた。
 つまり……ボタンの誤認トリックがまかり通ってしまう!
「このようにして、水河さんは上段の⑦⑧⑨をプッシュしたつもりでも、実際は①②③を押してたわけだ。同じように、下段の①②③を押したつもりが、実際は⑦⑧⑨を押してたんだ。偽装カバーのせいで、まんまと一杯食わされたんだよ。あるある」
「一体どこからそんなカバーを……」
「君の父が工場で造ってるのは、各種機械のボタンカバーだったよね?」
 ああ!
「そこで密かに電話用のボタンもこしらえた。かぶせるサイズを調整して、こっそりと」
「父が……!」
「弁護士はずっと前から、君の父をそそのかしたんだろう――『あなたの妻と娘が養育費をせびりに来ますよ。でも俺に従えば、訪問されずに済みますよ』ってね。父は弁護士に言われるまま、職場でこっそりボタンカバーを製造した。製造機械の設定をちょっといじれば可能だし、CAD(キャド)オペで製図知識があれば、3Dプリンターでも簡単に造れる」
「父の自宅番号は030・72731・4989……でもボタンの上段と下段が逆さまだったから……」
「そう。君は自宅にかけたつもりでも、実際は①②③と⑦⑧⑨が反対に入力されてた。すなわち――」

 030・72731・4989(自宅の番号)
  ↓  ↓↓↓↓↓  ↓↓↓
 090・18197・4323(携帯電話の番号)

 父親のケータイ番号じゃないか!
「だから私、自宅にかけたつもりが、父のケータイにつながったんですね……」
「弁護士は父の振りしてケータイに出て、無人駅に着いたあとは公衆電話のボタンカバーを回収し、喫茶店に入った。人の居ない田舎だから、公衆電話の細工なんて誰にも目撃されなかった」
「ううっ……」
「そして君たちと合流し、父親の家に向かった。そこで死体を発見し、混乱に乗じてこっそりケータイを死体のそばに返却した(・・・・・・・・・・)。もちろん指紋などは拭き取ったはずだ」
 うん。つじつまは合う。
 合ってしまう――。
「ですが……自宅とケータイの番号が、プッシュボタンを入れ替えたら一致するなんて偶然、あり得ますか……?」
「もちろん弁護士が父親をそそのかした際、番号を変えるよう打診したんだろう」
「弁護士さんが、そこまで私たちのために動いてくれるなんて……」
「きっと正義感あふれる人なんだろうね。あと、君が弁護士に入れ上げるのと同様、弁護士も若い女の子に慕われて悪い気はしないだろう。君たちを酷い目に遭わせた父親が憎くて、いっそ殺してしまおうと決意したのはあり得るよ、あるある」
「信じられません……! 本当にそれが真実なんですか?」
「真実は、人の心の数だけあるよ」胸に手を当てるナミダ先生。「心は全ての源だ。なぜなら、あらゆる物事は人の心が起こす(・・・・・・・)ものだからね。心理学で説明できないことはないのさ。うん、ないない」
「じゃあ……私はどうすれば」
「弁護士と話をしよう。彼から直接聞くのが一番じゃないかな? 君だって思い当たるフシがある(・・・・・・・・・・)だろう――?」

   *


   4.ボクは板挟みの心を思い知る


「もしもし、溝渕(みぞぶち)弁護士事務所ですか? あ、溝渕さん……私です、浅谷水河です。はい……そっちは営業時間、終わりましたか? 私も今から下校する所なので、迎えに来ていただけませんか? お話したいことがあって……」
『ああ、もちろんさ! 君の頼みとあらばどこへでも!』
 水河ちゃんが電話で呼び出した弁護士――溝渕というらしい――は、実に軽いフットワークだった。
 まぁいくら高尚な弁護士といえども、平日は暇な事務所なんてザラにあるからね。日がな一日、相談の電話を待ちぼうけして終わるなんて普通らしいし。
 その代わり、ひとたび顧客が来れば着手金やら成功報酬やらで大儲けだそうだけど。
 それにしても、二つ返事で送迎に来るなんて、仲が良いにもほどがある。単なる仕事上のクライアントではなく、プライベートでも親密なのがありありと伝わる。
(水河ちゃんが弁護士に惚れているのと同じく、弁護士もまた彼女に惚れているのは間違いない)
 なんてことを思いつつ、ボクは水河ちゃんとともに待ち呆けた。
 場所は、校門前。
 暮れなずむ夕焼けが目に毒だ。何もかも真っ赤で目が痛い。まるで血の色だよ。
 そこは、他にも車を待つ生徒がちらほら見受けられた。親の車で習い事に出かけたり、恋人の車でデートに行ったり……なんて人も居る。
 水河ちゃんの横には母親と、ナミダ先生も並んでいる。まるで獲物がかかるのを待ち伏せする狩人のように、虎視眈々と遠くを見据えていて少し怖い。
「やぁお待たせ! 少し遅れてしまったよ――」
 果たして現れた弁護士は、黒塗りの高級外車に乗って来た。
 左ハンドルだ。これ見たことあるぞ。あんまり車は詳しくないけど、ドイツだかどこかの超有名メーカーだ。
(見た感じ、まだ二〇代の男なのに……弁護士って儲かるんだなぁ)
 スーツも仕立ての良いブランドものをまとっているし、アクセサリーやカフスボタン、タイピン、腕時計に至るまで、一個何十万円もするような値打ちものばかり身に着けている。
 人当たりの良さそうな甘いマスクと上背が、いかにも女性受けしそうだ。そりゃモテるよなぁ。美男子、金持ち、若くて地位もある。完璧超人かよ。
 こいつが浅谷親子にご執心なのは、半分くらい水河ちゃん目当てじゃないだろうか。幸薄くて可愛い女子高生なんて、いくらエリートでもそうそう手を出せないからね。
「おや? その人たちは誰だい?」
 下車した弁護士は、ボクとナミダ先生をめざとく睨んで、水河ちゃんに向き直った。
 ついでに母親にも気付いたようで、戸惑いながらも挨拶する。
「これはこれはお母様まで。俺はてっきり水河さん一人だとばかり……」
 ふん。どうせ夕食にでも誘おうとしたんだろうけど、あいにくだったね。
 ナミダ先生がステッキを打ち鳴らしながら、義足の音も軽やかに進み出た。
 背の高い弁護士を見上げるように凝視すると、校門前から少し位置を外して、路上駐車の近くに陣取った。
「僕は本校のスクール・カウンセラーを勤める湯島涙と申します」
「はぁ」
「今日は、こちらの浅谷さん親子から相談されまして、先週起こった強盗事件の話を聞くことになったんです。よくある事件ですよね、あるある」
「何をおっしゃっているのやら……え、事件のことを他言したんですか?」
 弁護士はますます狼狽して、水河ちゃんと母親に苦笑を浴びせた。
「溝渕さん、聞いて」
 それでも水河ちゃんは、引くことなく訴えた。おどおどした物腰だけど、精一杯顔を上げて声を喉から絞り出す。
 弁護士はそんな彼女をなだめにかかる。腰に手を回したり、肩を抱き寄せたり、頭を撫で回したり……馴れ馴れしいな、こいつ!
「ええと、さっぱり判りませんよ水河さん。どういうことになった(・・・・・・・・・・)んですか?」
「溝渕さんが、父をあやめたんですよね……?」
「なっ」
 弁護士の奴、絶句しちゃったよ。
 ビックリし過ぎてあごを外しそうになっている。せっかくの美貌が台なしだぞ。
「こ、ここでそれを言う気……あ、いや、どうしてそんな妄言を?」
 弁護士がごにょごにょと言葉に詰まっている。
 なぜ自分を追い詰めるのか見当も付かない、と言った風采だ。
 怪しいな。やっぱりこいつが黒なのか?
「溝渕さんでしたっけ」
 ナミダ先生が、横から声をかける。
 母親も隣で見守っている。下手な言い逃れは出来ないぞ、弁護士。
「あなたは浅谷親子へ感情移入し、正義感に燃えました。きっと根は品行方正なエリート弁護士なんでしょう。その年齢で事務所を構えてるのは立派ですよ」
「それはどうも。で、どういう了見ですか? カウンセラーだか何だか知らないが、水河さんに変なことを吹き込んだんじゃないでしょうね?」
「人の心は千変万化します。ましてや『女心と秋の空』って言いますよね。あるある、昨日まで濃厚な愛を囁いても、次の日に別れ話を切り出せるのが女心です。よくある」
 女心と秋の空……女性の気持ちはころころ変わって(ぎょ)しがたい、という格言だ。
「失礼だな君は! 大体、別れ話なんてそんな、俺は――」
「あなたは浅谷親子に情が移るあまり、水河さんへ懸想した。ずぼらな父親に立腹し、義憤はやがて殺意に変わった……ありそうありそう」
「俺が殺したとでも言うのか? なぁ水河さん、こいつを黙らせ――」
「溝渕さん……そういうことになった(・・・・・・・・・・)んです」
 水河ちゃんはなおも断言する。
「!」
「お話、していただけませんか?」
「そんな……馬鹿なことが……」
 弁護士がのけぞり、よろめいた。
 自分の車に背をぶつけ、もたれかかって、あちこちに視線を泳がせている。
 この人、なまじ成功者なだけに、逆境に立たされると打たれ弱いんだな。
 ナミダ先生が間合いを詰める。ステッキの音と義足の駆動音が耳に馴染む。
「あなたは父親に養育費を請求しても応じてもらえず、手段を変えましたね? 一転して父親に取り入った振りをして、父親の信頼を勝ち取った」
「お、俺は……」
「父親をそそのかし、ケータイ番号を変更させましたね? また、彼の工場でボタンカバーをこっそり造らせ、公衆電話のプッシュボタンにかぶせる準備も整えたんですね」
「お、俺は、その――」
「溝渕さん……お願いです、認めて下さい」
 水河ちゃんがじっと弁護士を見据える。
 いつになく強い眼差しだな、水河ちゃん。
 好きになった相手に――さっきまでぞっこんだったのに――こうも冷徹な態度を取れるなんて、やはり『女心は秋の空』なんだろうか?
 相反する感情が混じり合い、水河ちゃんの心理を揺り動かしている。
「私はずっと待ってますから……諦めて、白状して下さい」
「くっ、判りました……俺が犯人だ」ナミダ先生に告げる弁護士。「あの父親は頭が弱くて、金策をいくつかアドバイスしたら簡単に俺を信じたよ。そのまま奴に取り入って、養育費の請求が来なくなる作戦だと嘘をつき、電話番号の変更とボタンカバーを用意させた……実は貴様を殺すためだとも知らずにね。つくづく馬鹿な父親だった」
「浅谷親子のキャリアを変更させたのも、あなたですね」
 ナミダ先生が指摘する。
 弁護士は言葉を詰まらせたけど、水河ちゃんに促されて、観念して一回頷いた。
「過疎地で圏外になるキャリアに変えて、公衆電話を使わざるを得ない状況にしたんだ」
 予想通りだった。母親が頭を抱えている。
 全幅の信頼を寄せていた弁護士が殺人を犯すなんて、絶望感が凄いだろうな。
「だ、だが、これは――」
「溝渕さん!」遮るように抱き着く水河ちゃん。「もう諦めて……全てあなたの独断(・・・・・・)でやったこと。私たちのためを想ってしてくれた正義感……なんですよね?」
「お、おう……」
「私はそんな溝渕さんが大好きです……どんな罪を犯そうとも……」
「水河さん……」
 しばし懊悩していた弁護士だったけど、水河ちゃんが情熱的に密着したため、勢いに呑まれて認めてしまった。
「俺は自首します。すみませんでした」
「私はいつまでも、あなたの帰りを待ってますから……」
 外車に寄りかかってうなだれる弁護士に、水河ちゃんがそっと唇を重ねた。
 夕暮れの陽光が眩しくて、接吻の瞬間はよく見えなかった。

   *

 その後。
 弁護士の証言通り、田舎町の山中にて、父親宅から奪われた財布や通帳、金目の物などが発見された。
 強盗の仕業に見せかけただけなので、中身は一切手を付けられていなかった。
 もともと弁護士は裕福だから、はした金なんて見向きもしないだろう。
「偽装したボタンカバーも、彼の家から見付かったそうですよ。もう確定ですね」
 ボクは保健室に立ち寄って、水河ちゃんから聞きかじった後日談を、うるわしの泪先生に話したものさ。
 いつも綺麗だなぁ。特に今日は一段と黒髪ストレートが輝いているよ。ただでさえ天使の泪先生が、蛍光灯を浴びて頭髪に天使の輪を描いている。
 なのに――。
「あるある、実行犯には必ず物証が付きものだからね。絶対ある」
「その通りよね~お兄ちゃんっ」
 ――なのに、傍らにはナミダ先生が居座っていた。邪魔だ……。
 放課後、カウンセラーと養護教諭が情報交換のために会談しているんだ。この二人は生徒のケアに近しい職業だから、互いの業務連絡が必須なんだよね。
 くっ……ボクは泪先生と二人きりで過ごしたいのに!
「沁ちゃん、ちょうど良かった」
 ナミダ先生が、そんなボクを手招きした。
 いや、呼ばれても困るんですけど。ボクは泪先生へのほのかな憧憬を満たしたいだけであって、ナミダ先生は眼中にない――。
「君に話があるのさ、あるある」
「……何ですか?」
 ボクは近付かずに立ち尽くして、話だけ伺うことにした。せめてもの抵抗だ……ってボクはツンデレかよ。我ながら子供っぽいな。
「君は気にならなかったかい? 弁護士が水河さんの言い付け通り(・・・・・・・・・・・)に、まるで罪をかぶせられたかのごとく自首した件について」
「は? だってそれは、弁護士が実際にやったからでしょう? そして、互いに好き合っていた水河ちゃんに諭されて、改悛の念にかられた……」
 違うのか?
 ボクはてっきりそう思っていたけど。
 そのとき、泪先生が薔薇のごとき紅い唇を開閉させた。
「あの子ね~、自首する弁護士の私財を寄付されて、学費を(まかな)ってたわよ」
「へ?」
「弁護士に愛を誓うことで、お金を引き出したみたいね~」
「び、美談じゃないですか。恋人の出所を待つ彼女と、その彼女のために有り金をはたいた彼氏…………って、あ!」
 背筋が凍った。
 手玉に取られた。
 今さらそのことに気付く。
 弁護士も、ボクも、母親も、先生たちも。
 水河ちゃんのてのひらに――!
「これは僕の仮説だけど」義足で床を踏み鳴らすナミダ先生。「真の黒幕は水河さんだ」
 真の黒幕!
 言ってしまった。
 ナミダ先生が、看破してしまった。
「弁護士に自首を迫ったのも、愛をほのめかせて学費を立て替えさせたのも……そもそも弁護士と仲良くなった(・・・・・・・・・・)のも、水河さんの計算だった。よくある悪女だね」
「ちょっと待って下さい、ボクの理解が追い付きません」
「実行犯は弁護士だけど、立案者は水河さん。弁護士はうら若き恋人のために、全ての罪をかぶったんだよ」
「水河ちゃんが、そんなことを思い付くとは思えませんけど……」
「水河さんは父にネグレクトされ、早々に離婚したため、父性を知らずに育った。暴力を受けた女児は、男性不審や男性恐怖症になりやすいんだけど、彼女は違う症例を発症したのさ」
「違う症例?」
「ユディット・コンプレックスだよ」
 先週の相談室で、ナミダ先生が御託を並べていた心理学用語だ。
 あれも伏線だったのか……!
「ユディット・コンプレックスは男性へ強い愛情を抱く反面、その男性を破滅させたくもなる矛盾した心理だ。父性を知らない水河さんは、男性への好奇心が人一倍強かったものの、虐待されたトラウマも根強く残っており、男性への憎悪が潜在してた」
 愛情と憎悪。
 相反する感情が同居している。
 ――まさにユディット・コンプレックスじゃないか!
「男性にすがればすがるほど、彼女の中では憎しみも増す。せめぎ合う複合心理。愛する男性を忌避するという矛盾した心理。まさに水河さんだろう?」
 そうだ。
 水河ちゃんは弁護士に依存する反面、父殺しの罪をなすり付けて自首を勧め、輝かしい弁護士人生を破滅させた。
 見事に符合するじゃないか!
「ちなみに~、ユディットは旧約聖書に登場する女傑の名前よ~」指を立てて補足する泪先生。「ユディットは故郷を捨てて敵将に取り入るんだけど~、結局はその敵将を愛しきれずに抹殺しちゃうの。好きだけど殺しちゃう、複雑な板ばさみの女心よね」
 怖いなその人!
 あいにく、男性的なボクには共感できない感情だよ……。
「弁護士に愛を囁きつつ、父殺しの汚名を着せて社会的に殺した。水河さんは現代のユディットだね…………そこに居るんだろう、水河さん?」
「!」
 やにわ保健室の入口へ声をかけたナミダ先生が、双眸をすがめた。
 声色も心なしか険しくなっている。
「ああ……バレてました?」
 本当に居た。
 戸を開けて入室したのは、紛うことなき浅谷水河その人だった。
「水河ちゃん、立ち聞きしていたの?」
 ボクが制服のすそを翻して相対すると、水河ちゃんは肩をすくめてみせた。
「うん……尾行してたの。ごめんね」
「なんで」
「私も保健室の常連だから……」
 なんて呟いた後、水河ちゃんはナミダ先生をじっと見つめた。
 視線と視線がぶつかり、せめぎ合う。
 横から泪先生がムッとした形相で割って入ったせいで、中断されたけど。
「は~いストップ。私のお兄ちゃんを気安く眺め回すんじゃないの!」
 そこかよ。
 突っ込む所、そこじゃないですよ泪先生……。
 ナミダ先生はそんなボクたちを無視して、水河ちゃんにこう語る。
「ここに来たということは、認めるということかい?」
「そうですね……正直、感心しました」もじもじと体をくねらせる水河ちゃん。「父との面会を提案したのも私……溝渕さんにアリバイ・トリックを持ちかけたのも私……田舎の環境を逆手に取って、スマホの変更を発案したのも私です」
「目的を果たせて満足かい」
「はい……けれど、私がやったという証拠はありませんよね? 今のも、単なるおふざけの発言ですって言えば意味ないですし」
「うん。僕は君を裁けないし、弁護士は単独犯を主張し続けるだろう。ありがちだ」
「やっぱりカウンセラーさんって凄い……達観してて素敵です」
 水河ちゃんは胸を弾ませて、黄色い声を上げた。
 隣で泪先生がみるみる剣幕を彩っているんだけど、大丈夫か? これはボクの知っている泪先生じゃないぞ。
「私、溝渕さんなんか捨てて、カウンセラーさんのこと好きになっちゃいそう……ポッ」
 ポッじゃないよ。
 何だよこの尻軽女は。
 まさに悪女そのものじゃないか……こんな水河ちゃんは見たくなかった。
「ははっ。簡単に男を鞍替えしたね。女心と秋の空とは、よく言ったものだよ」
「えー……私、本気ですよ?」
「遠慮しておくよ。僕の相手は、きっと誰にも務まらない。ましてや、移り気の激しい君ごときには、ね」
 ナミダ先生は辛辣に吐き捨てて、憂鬱そうに椅子から立ち上がった。
 義足を動かし、ステッキを振ってボクらを払いのける。
 悠々と保健室の真ん中を突っ切って、廊下へ退室してしまった。
 うわ、置き去りにされた格好だ。
 ボク、水河ちゃん、泪先生という非常に気まずい組み合わせなんだけど……。
「浅谷水河さ~ん?」
 泪先生が事務的な口調で語りかける。ただし顔が笑っていない。
 ボクは泪先生のそんな形相、見たくなかったですってば……。
「はい、何でしょう……?」
私の(・・)お兄ちゃんにツバ付けようとしたら、ただじゃおかないわよ」
 私の、をやたら強い語気で主張する泪先生が、実に必死だ。
「はいはい……話が聞けて良かったです。では失礼します……沁ちゃんも、さようなら」
「えっ」
 最後に水河ちゃんは、ボクにも会釈をした。
 逃げるように彼女は退散してしまう。
 お別れの言葉……?
 そうか、こんな本性をさらしてしまったら、もうボクとはまともに会話も出来なくなるよね……。
(相反する女心。ころころ変わる女心。ボクたちもまた、変わらざるを得ないのか)
 ボクは泪先生と二人きりになった。
 でも、それは心に隙間風が()み込んで、ちっとも楽しい空間ではなかった。

   *

 ――第二幕・了


・使用したよくあるトリック/アリバイ崩し、公衆電話トリック
・心理学用語/被虐待症候群、適応機制、ユディット・コンプレックス、ネグレクト、青い鳥症候群