3.ボクはカウンセラーに魅入られる


 相談室で、ボクはカウンセラーにあらましを語り終えた。
「洸ちゃんは夜中、どうしても重治と話がしたくて、隣家の窓へ飛び移ろうとしたか、あるいは重治の窓を叩こうと身を乗り出した際、誤って転落したようです」
「隣家との隙間はどれくらいあるんだい?」
「一メートルくらいです。だから窓から目一杯手を伸ばせば、重治の部屋の窓を叩けるし、窓が開いていれば飛び移ることも出来ます」
「なるほど。つまり洸ちゃんは重治くんの部屋へ窓から入ろうとしたんだね。けど、重治くんの窓は閉ざされたままだったので、何度もアプローチするうちに、うっかりバランスを崩して、側庭へ転落してしまった。ありがちと言えばありがちだなぁ」
「ありがちなんですか?」
「追い詰められた人の心は、突拍子もないことを平気でやらかすものさ。洸ちゃんは言ってたんだろう? 重治くんの窓がすぐそこにあるって。窓をひょいと渡れば彼に会って釈明できると短絡的な考えが浮かんだのかも知れないよ。うん、あるある」
 そ、そんなものかなぁ……。
「それで警察はどう処理したんだい?」
「警察は事故死と断定しました。今説明した通り、窓へ手を出そうとして落下したと」
「重治くんは何も覚えがないのかな?」
「はい。夜はぐっすり眠っていたそうです。物音一つ気付かなかったと。あ、でも――」
「でも何だい?」
「翌朝、重治の右手の爪に、うっすらと血の跡が付いていたような。ボクが指摘すると、指先をドアに挟んだとか言って、慌てて手を洗いに行ってしまいましたけど」
「へぇ……指先に血痕か。あるある」
「どういうことですか?」
 ボクは顔をしかめざるを得ない。
 このカウンセラー、いちいち思わせぶりな相槌を打つし、発言にも含みを持たせてばかりだから、どうもスッキリしない。
 この人には、何が見えているんだろう?
 ボクが述懐した通りの内容ではなく、全く別の光景が浮かんでいるんじゃないかって、ときどき不安になる。
「君のお話で『性同一性障害』が登場したけど、それは本当かい?」
「あ、はい。洸ちゃん本人がそう名乗っていました」
「興味あるなぁ。あるある。心理学や精神疾病でも、性同一性障害は関心の高い分野だ。それはフロイトやユングも提唱していた心理属性『アニマ・アニムス』にも密接な関わりがあると僕は考えてる」
「アニマ・アニムス……?」
 知らない単語なので、ボクは思わず聞き返してしまった。
 カウンセラーはまるでボクがそう呟くのを予見していたように、深く頷いてから滔々(とうとう)と解説を始めるのが悔しい。
 さながらボクの反応を先読みして、誘導しているかのようだ。
 いや、恐らく実際に心を分析しているんだろう。忌々(いまいま)しいことに。
「アニマ・アニムスは、各人の心に秘めた『女性像(アニマ)男性像(アニムス)』という意味だよ。人が誰しも胸中に思い描く、模範的な異性像……理想の異性とでも言えば判りやすいかな」
「理想の異性……」
「人はみんな好みがあり、それによって浮かべる異性像もさまざまだ。理想像に最も近い人物と交際したがるし、異性に自分の願望を押し付けようとする心理がある」
「アニマ・アニムスは、洸ちゃんの中にもあったんですか? あの子が思い描く理想像を自分に投影して、可愛い女の子になりきろうとしたとか?」
「君は賢いね。飽くまで僕の仮説だけど可能性はあるよ、あるある。その子は、肉体的には男だった。男から見た異性像は女性像(アニマ)だ。彼は女らしく振る舞おうと、理想の女性像を自らに課した。同時に、それは重治くんの好みにも合致してたんだ。ありがちな話さ」
 洸ちゃんは気立てが良く、線も細くて、放っておけない女の子を装っていた。
 もともと骨格も華奢だったんだろう。食生活にも気を遣っていたと思う。
「男性は誰でも、自分を頼ってくれるか弱い女の子には目がないからね。あるある」
「それが重治をますます勘違いさせてしまった、と?」
「性同一性障害も、今では『性別違和』と呼ぶ意向があったりして、取り巻く環境が変わりつつある。染色体の性分化疾患の症例で、心と体の性認識が必ずしも一致しないことが科学的に判明してるし、いろいろ根が深いんだよ。性転換手術や同性愛者の結婚など、世界各地で法整備が物議をかもしてるね」
「ボクは洸ちゃんの個性を認めて、受け入れていましたよ? 重治も、最初はショックだったかも知れないけど、時間が経てばきっと判ってくれるはず――」
「君たちの場合、それはまた別の感情かも知れないね」
「別の感情?」
 ボクが眉をひそめると、カウンセラーは言葉を慎重に選ぶように、思案げに天井を見上げた。
 つられてボクも天井を仰いだものの、特に何もありはしない。
「君たち三人は、昔からの幼馴染で、実の兄弟のように親しかったそうだね?」
「はい。それが何か」
「ブラザー・コンプレックスやシスター・コンプレックスという俗語がある」
「え?」
「有名な言葉だから聞いたことはあるだろう? うん、あるある」
「いわゆるブラコン、シスコンですよね? 兄妹や姉妹に劣情を抱くっていう」
「重治くんの感情はそれに近いんじゃないかな」
「……ああ、そういうことですか」
 確かにボクたちは、兄弟さながらに仲睦まじかった。
 ボクたちが重治を慕っていたのも、頼れる『兄貴』分としての一面が大きいのは否定できない。同い年だけど。
 つまり重治も、洸ちゃんを想う気持ちは、可愛い『妹分』の面倒を見るような感覚だったのかも知れない。
 となると、いささか話が変わって来る。
 洸ちゃんが女ではないと判明した以上、重治は『妹分』への気持ちを抱けない。騙されていたという恨みだけが残存しかねない――。
「それを、思春期ならではの『異性像』への投影と重ねてしまったんじゃないかな? 実際、この手の報告はよくあるんだよ。僕の身近にも一人、ブラコンと異性像を倒錯してしまった実例が居るからね」
「身近にも?」
 誰だろう、それは。
 ボクの知らないことを話されても困る。
 とにかく、カウンセラーの能書きは簡略的ではあったけど、大筋は理解できた。
 重治は、洸ちゃんへの恋心を裏切られたことに衝撃を受けたのではなく――。

 ――重治の心理的欲求だった異性像とシスコンという『自己概念の投影先が崩壊してしまった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)』ことに傷付いたんだ。

 それによって洸ちゃんもまた傷付くという、負の連鎖が発生した。
 洸ちゃんは夜も眠れず、こっそり窓から隣家へ押しかけようなんて無茶な独断専行をやらかした挙句、しくじって転落死した。
 ボクたちの心に刻まれた溝は消えないほど深く、回復も見込めない。
 はぁ……やっぱり鬱だ。
 結局、気分は晴れないままだよ。ボクの胸は締め付けられるほどに痛い。
「ボクは、どうすれば良いんですか」
 だからボクは訴えるんだ。
 ボクは辛い。
 苦しい。
 さぁ、このカウンセラーはどう癒してくれる?
 泪先生の肝いりで雇われたカウンセラーなら、ボクの悩みなんてお茶の子さいさいに解消できるんだろう?
「性別誤認や詐称って、推理小説(ミステリー)ではよくあるトリックだよ。あるある」
「え?」
 このカウンセラー、突然あらぬ方向から話を切り出した。
 小説の話なんてどうでも良いんだけど……?
「男キャラだと思わせて実は女だったとか、その逆もしかりだね。いわゆる叙述トリックの一種だけど、そうやって読者を騙し、勘違いさせて、真相を隠す手法だ」
「あの、それが何か?」
「近年パッと思い付くだけでも――内容に抵触するから嫌な人は耳を塞いで――殊能将之のハ○ミ○とか、本多孝好のチェ○ン○○ズ○とか。反対に、最初から性別誤認を明言した逆トリックもあるね、麻耶雄嵩の『螢』はいきなりバラしてるから問題ないだろう」
「だから、それがどうしたって言うんですかっ」
「君は、真実を求めてるだろう? 君はあの晩起こったことが信じられず、警察の見解では納得できないから、今も心を痛めてるんだ。ならば、警察とは『別の真実』を導き出して、君の心を鎮めるしかない」
「べ、別の真実ぅ? そんなもの、あるんですか?」
「あるよ、あるある。真実が一つだなんて誰が決めた? 真実は人の心の数だけある(・・・・・・・・・)。心の観測次第で、いくらでも真実なんて出来上がる。だったら、君の溜飲が下がる『真実』を探そうじゃないか。僕のカウンセリングは、そうやって相談者を治すんだ」
「…………!」
 どきりとした。
 心臓を握られたような衝撃だった。
 こんなカウンセラー、見たことない。
 カウンセラーは人によって手段も語り口も異なると言われるけど、ここまで型破りなことをぬかす輩は、他に居ないんじゃないか?
「ある意味で、重治くんは、性別誤認の被害者と言えるかも知れない。それが引き金となって、一転して洸ちゃんを拒絶し、忌避するようになったんだ」
「重治が、洸ちゃんを憎むようになったと言うんですか?」
 嫌な予感がする。
 何をほざくつもりだ、この人は?
 この人は全くもって破天荒だ。支離滅裂すぎる。
 ボクの頭が悪いのか? それとも、ボクがこの人を認めたくないだけなのか――?

「この件は事故死じゃない。重治くんが加害者(・・・・・・・・)だよ」

「ええっ……?」
 ボクは、開いた口が塞がらなかった。
 言うに事欠いて、とんでもない暴言だ。
 人をからかうのも大概にして欲しい。警察が事故死と断定したものを、非常勤カウンセラーごときが偉そうに引っくり返して良いのか?
 何より、重治に失礼じゃないか。人殺し呼ばわりなんて。
 カウンセラーは悪びれず淡々と言い放つ。
「一見すると事故死だから、警察も面倒臭がって深入りしなかったんだろう。あるある」
「そんな、失礼ですよ!」
「現実の警察なんて、そんなものだよ。警察は多忙だ。大きなヤマでもない限り、手短に済ませるのさ……僕も警察に知り合いが居るけれど、強行犯の捜査主任はそそっかしいし手抜きだし、話にならないね。あと、本庁勤めのキャリア組も居るけど、あっちも詰めが甘くて官僚としての出世コースが望み薄で苦労してると聞いたよ」
「いや、あなたの知人とかどうでも良いんですけど」
「とにかく、僕の考えはこうだ……と言ってもこれは僕の推測でしかないし、証拠も何もない個人の邪推だと前置きしておくよ」
「大言壮語した割に、急に予防線を敷くんですね」
「洸ちゃんは客間の窓から身を乗り出し、隣家の窓を叩いた……就寝中の重治くんを起こして窓を開けてもらうためにね」
「でも重治は寝ていて気付かなかったと――」
「いや、彼は起きたのさ」
「えぇ?」
「物音に気付いて、窓を開けたんだよ。そしたら、洸ちゃんが窓を飛び移ろうとして来たわけさ。重治くんはびっくりしただろうね」
 そりゃ驚くだろう。
 会いたくないと拒絶して自宅へとんぼ返りしたのに、その元凶である洸ちゃんが窓越しに肉迫しようとしたんだから。
「重治くんは、洸ちゃんが男だと知って顔も見たくなかった。しばらく洸ちゃんを忘れたかったはずだし、忌み嫌ったはずだ。そんな洸ちゃんが、窓から身を乗り出して来た……彼にとっては恐怖だね」
「重治は、洸ちゃんに抵抗した?」
「洸ちゃんを追い返したはずさ。窓に迫る洸ちゃんを払いのけ、押し戻し、突き飛ばしたりもしただろう――」
「! じゃあ、そのとき重治が、洸ちゃんを突き落とした(・・・・・・)……?」
「ご名答。それしかないよね。仮に事故ならば、いくら洸ちゃんが焦ってたからって、窓も開いてないのに重心を崩すほど身を乗り出すはずがない。重治くんは夜中に目を覚まして、窓を開けて、洸ちゃんと対峙したんだよ。そこで揉み合いになって、転落させた」
「証拠もないのに、よく断言できますね!」
「状況証拠なら、一つだけあるよ。あるある」
「あるんですか?」
「重治くんは翌朝、指先に血の跡が付着してたらしいね」
「それが何か?」
「洸ちゃんと揉み合った際、洸ちゃんの肌を引っ掻いたんじゃないかな」
「引っ掻き傷ってことですか? じゃああれは、重治自身の血ではなく、洸ちゃんの返り血だった?」
「しかし運悪く、洸ちゃん自身も体を手で掻きむしる癖があった。ゆえに、重治くんが引っ掻いた傷もその一つだと勘違いされ、見過ごされた。木を隠すなら森、これもまたトリックでよくあるパターンだね。あるある」
 確かに洸ちゃんは、引っ越しのストレスで体がムズムズして、爪を立てていた。
 そのせいで、重治が付けた引っ掻き傷が埋もれてしまった?
 そうでなければ、被害者の死体に刻まれた傷を警察が無視するはずがない。
「じゃあ今からもう一度、重治の指先と死体の傷跡を一つ一つ照合すれば――」
「それは僕の仕事じゃない。僕は一介のカウンセラーであり、本職は大学の講師だ」
「警察に今の説、話さないんですかっ?」
「所詮、僕の想像だからね。スクール・カウンセラーを引き受けたのも、本業で准教授に昇格するまでの下積みになると思っただけだし」
 あからさまにぶっちゃけ過ぎだろ、このカウンセラー。
 ここまで話しておいて、自分の胸の内にとどめておけって言うのか?
 そりゃあ一度解決した事件を蒸し返すのは、気が引けるけど――。
「この先は、君が考えるんだ」
「えっ」
 カウンセラーは居住まいを正して、ボクの顔をじっと見据えた。
 人の心を見えない糸で操るような、からみ付く視線だった。
 この人は、ボクに何をさせたいんだ……?
「君の心は、君自身が納得させるしかない。カウンセラーは飽くまで、その背中を押すことしか出来ないよ。僕は今、心の道筋を整備した。あとは君が道を進めるかどうか、最初の一歩を踏み出せるかどうかさ。うん、ありがちな台詞だね我ながら」
「ボクは……ボクが進むべき道は……」
「警察より先に、話すべき相手が居るんじゃないか?」
「……重治!」
「彼は同じ高校なんだろう?」
 ああ……誘導されている。
 本人と話をして来いと、カウンセラーが推奨している。
 ボクは歯を食いしばった。
 躊躇できない。
 尻込みしては居られない。
 真実を確かめなければいけない。
 ボクの心のわだかまりを治すために。
 ボクの『春休み』を終わらせるために。
 ボクは一礼して、相談室を飛び出した。目指すべきはただ一つ、あいつの元へ。
 あいつと話を――。

   *

「何だよ沁、俺をこんな所に呼び出して?」
 高校の屋上。
 フェンスに囲まれた、ビル風吹きすさぶ無人の空間に、ボクと重治はぽつんと立っていた。空はすでに暗い。夕暮れ時すら超過している。下校時刻だが、関係ない。
「重治……腹を割って話そう。最後の謎解きをしたいんだ」

   *