4.ボクは黒幕との決別を看取る


 ナミダ先生、怒っている。
 その声色、荒い口調、息遣い。
 ありありと、怒号がボクたちの耳に伝わって来た。
 建物を穿つ怒気。
 力強い靴音。片方は義足だけど。
 空気がピリピリと緊張する。
 暴漢どもが尻込みしているのが見て取れた。無理もないか、いくら人質を取っていると言っても、つい先刻にナミダ先生の手でコテンパンに叩きのめされたんだもんね。それも余裕綽々と。鎧袖一触とばかりに。
 そんな先生が憤慨のあまり本気を出したら、一体どんな目に遭わされるのか……もしかしたら本当に命を失いかねないんじゃないかって、暴漢どもは今さらのように青ざめ、戦慄しているんだ。
 こいつらは、決して触れてはいけない竜の逆鱗に触れてしまった――。
「出て来なよ、黒幕も居るんだろう?」
 ナミダ先生が、さらに猛る。
 旧校舎の門前から呼びかけている。
 空室の一つから彼を見下ろすボクたちだったけど、やがて教授がしびれを切らし、暴漢のリーダー格に「行け」と命じた。
 暴漢はゴクリと息を呑み、数秒ほど逡巡したものの、引けまくった腰を叩かれて飛び上がり、仲間たちを伴って廊下へ出て行く。
 室内には縄で縛られたボクと、それを見下ろす教授、あとは護衛の雑兵が二名残っているのみとなった。
 それ以外は皆、出陣する。
 ナミダ先生を迎撃すべく、入口で対決する。
「見ているがいい」
 教授がボクにあごをしゃくった。
 ガラスのない窓枠から、入口の外に立ったナミダ先生を俯瞰できる。
 ここは廃屋の二階だった。ナミダ先生がボクを助けるには、並み居る暴漢どもを薙ぎ倒し、旧校舎に入ってここまで登って来なければならない。
「よく一人で来たもんだな!」
 暴漢のリーダーが入口から声をかけた。
 ナミダ先生の正面に立ち、数メートルほどの距離を保って、せいぜい威嚇している。
 リーダーの左右には手下たちも整列し、決戦に備えて目を血走らせていた。中には及び腰の奴も散見されたけど。
「一人で来いという君たちの要望があったからね、あるある」ドスの利いた声で答えるナミダ先生。「そして、僕はこの通り現れた。人質を解放してくれないか?」
「やなこった」
 唾棄する暴漢のリーダーが憎たらしい。
 ナミダ先生も眉根を寄せ、嫌悪感をあらわにした。
「てめぇをボコボコにするまで人質は利用させてもらうぜ。抵抗するなよ? 刃向かったら人質がどうなるか判るだろ?」
「ありがちな三流悪役の台詞だなぁ。情けない」
「何だと!」
「知能が低いと言わざるを得ないね。今日び、もっと考えてモノを言うだろう。感情のまま、気の向くまま声を発すると、こんなにも理性からかけ離れるんだね。そういう意味では君、とても典型的なサンプルだよ」
「サンプルだぁ? 人を馬鹿にするのも大概に――」
「だから、それが愚かな三下だと言ってるんだよ。君たちは本当に博士(ドクター)か?」
「!」
 博士(ドクター)
 ずばり明言した。
 ナミダ先生はこいつらの素姓を探るべく、かまをかけている?
「医学部の博士号といえばエリート中のエリートだ。世界中から引っ張りだこだろうに、なぜ大学の椅子にこだわるんだい? いつまでも研究室にくすぶってるなんてあり得ないだろう? うん、ないない」
 ナミダ先生の物言いに対し、暴漢どもがざわつき始めた。
 困惑している。
 外に居た連中だけじゃない、部屋でボクを見張っている教授と手下二名までもが、きょとんと顔を見合わせる始末だ。
「おい、何を言い出すんだ、湯島の奴?」
「もしかして、俺たちの正体を勘繰(かんぐ)ってるのか?」
 こいつら全員、戸惑っている。
 ボクはあいにく部外者なので、彼らの事情は何とも言えないけど。
「僕の所属する心理学部や、他の学部ならまだ話は判るんだけどさ」大手を振って語るナミダ先生。「博士号を取得した後、大学や研究所で任期制の職に就いた人をポストドクターと呼ぶ。そこからさらに助教・講師・准教授・教授へと出世できる者は、非常に限られる。想像を絶する狭き門だ。当然、競争や駆け引きが生じる」
「…………!」
 暴漢どもが歯噛みする仕草を察せた。
 何か心当たりがあるんだろうか?
「統計では、ポスドクが大学で生き残れる確率は一〇パーセントにも満たない。離職率ダントツだね。途中で解雇される人は、年間に千人単位で存在する。大半の人は、外部の研究施設へ働きに出ないと食って行けない」
 千人単位?
 生存率一〇パーセント以下?
 博士の世界は厳しい。学者の世界は金にならない。
 人材の犠牲の上に成り立つ世界。雇用の安定とは程遠いブラック中のブラック。
「湯島てめぇ、何が言いてぇんだよ!」
「医学部のエリートには判らないだろうけど、ポスドクは報われない。博士号はイバラの道。世間によくある評価はおおむねこうだ。君たちはどんな挫折をしたのさ? なぜ僕を闇討ちしようとした? エリートが嫉妬するとも思えないけど?」
「や、やかましいっ!」
「あまつさえ脅迫して、僕を出世から辞退させようとまで試みた。どうもおかしい。つじつまが合わない。人間の短絡的な攻撃機制は、余裕のあるエリートには発生し得ない」
「攻撃機制だぁ?」
「人間の心理で、嫉妬や欲求不満を抱えたとき、八つ当たり・暴言・暴力的な行動を起こしてストレスを解消しようとする……それが攻撃機制さ」
「…………っ」
「他にも、代替品や第二志望で満足する『代償』、幼児退行して現実から目をそらす『退行』、憧れの人物になりきって現実逃避する『同一化』などがあるね、あるある」
 おおー、心理学の講釈が始まったぞ。
 こんな状況でもスラスラと能書きが出るなんて、ナミダ先生、ちゃっかり冷静沈着じゃないか? 怒っているのは見せかけだけか。
 暴漢のリーダーが歯を食いしばって反論した。
「だから何だってんだ! 俺たちの素姓なんかどうでもいいだろうが! 湯島、てめぇさえ蹴落としゃ、教授が俺らの面倒を見てくれるんだよ! 教授の言葉に一縷の望みを託すしか、もはや大学で生き残る手段はねぇんだ――」
「教授、ね」
「――あ!」
 しまった、と暴漢が口をつぐんだけど、もう遅い。
 一度発した言葉は決して引っ込まない。
 教授。
 そいつが首謀者だ。
 今、ボクの隣に突っ立っている男性こそが――。
「馬鹿だなぁ君たちは。一体何をやらかしたらそこまで追いつめられるのさ。君たちの面倒を見るだなんて、黒幕の方便に決まってるだろ。よくあるパターンだよ」
「うるせぇ! 貴様らに落伍者の心情が判るか! 実績のねぇポスドクは首を切られたら路頭に迷うしかねぇんだよ!」
「ポスドク? 君たちが?」
 ――違和感。
 ナミダ先生の顔に暗雲が立ち込めた。
「君たちは精神医学部ではない(・・・・)のかい? 前述した通り、医学部のエリートなら行き場がないなんてあり得ないんだけど?」
「てめぇも言ったよな、離職率ダントツ、ブラック中のブラックだと。その通りさ。給料だって研究室の予算にもよるが決して高いとは言えねぇ。学振で高給取りも居るっちゃ居るが全員じゃねぇ。博士課程を出た人材は潰しが利かねぇ……お先真っ暗だ!」
「僕の質問に答えろ! 君たちは何者だ(・・・・・・・)!」
 高学歴どうしが言い争っている。
 何だ?
 何が起こっているんだ?
 こいつらはナミダ先生の心理学部に敵対する『精神医学部』じゃないのか――?
「君たちの首謀者は誰なんだ?」
 ナミダ先生は一帯を見回してから、旧校舎の二階に焦点を定めた。
 そこに居たボクと、ばっちり目が合う。
 ボクが捕まっている部屋を察知したんだ。
 まぁ、この部屋だけ電灯で明るかったから、見当も付きやすいだろうけどさ。
 ナミダ先生はひとしきり、ボクを心配そうに望遠してから顔を横に振った。
「僕を敵視する教授と言えば、精神医学部の渦海(うずみ)教授だと思ってた。心理学部との確執でね。あるある」
 うん、ボクもそう思っていた。
「でも、それにしたって教授どうしの(つば)ぜり合いだ。研究員が律儀に付き合う道理なんかない。よほど大恩や弱みを握られてるとかでない限り」
 うん……その通りだと思うよ、ボクも。
「そうなると、いよいよ暴漢たちの実態が掴めなくなる。渦海教授の傘下で、僕の邪魔をしたがる人種とは、一体どこのどいつ――」

「知りたいかね、湯島くん?」

「――だ?」
 そのときだった。
 ボクの横に居た教授が足を進めて、窓際に顔を出したんだ。
 ついでにボクを手で引き寄せ、人質として並ばせる。
 痛いなっ。そんな乱暴に引っ張るなよっ。
「見るが良い、湯島涙よ。このワタシが誰なのかを」
「なっ……」
 言葉に詰まったのは、広場から部屋を見上げるナミダ先生だった。
 豆粒みたいに遠く離れているけど、ナミダ先生はボクと教授を視認している。
 ボクを見て安堵したのも束の間、続けて目の当たりにした教授の尊顔に、愕然とあごを外しそうになっていた。
 ナミダ先生も、あんな顔をすることがあるんだ……。
(何を驚いているんだろう?)
 ナミダ先生は、黒幕が渦海教授だと踏んでいた。そこに疑問の余地はないはずだった。
 そう――『はずだった』んだ。
 実際はそうではないってこと。
 まさか、この『教授』は、渦海ではない(・・・・)……?
「あなたは――」
 ナミダ先生が喉を震わせた。

「あなたは――汐田(・・)教授!?」

 え?
 は?
 はああああああああ?
 ボクは耳を疑ったね。
 教授を見つめる。
 彼方のナミダ先生にも目をやる。
 二人は遠くから睨み合い、火花を散らしている。愕然と、あるいは凛然と。
「汐田教授……!」
 ナミダ先生が、推理を外した。
 呆然と立ち尽くしている。
(汐田って、ナミダ先生の恩師だよね?)
 ボクも聞いたことがある。
 この人がナミダ先生を准教授に推薦したという、正真正銘の『味方』のはずだ。ほとんど内定していたらしいから、大学の人事にも承認を取り付けたんだろう。
 それをやっかんだ敵対勢力の精神医学部教授・渦海が、息のかかったスクール・アドバイザーをけしかけたと(もく)された。
 それなのに――渦海はブラフで、ナミダ先生の恩師が『黒幕』だった?
 渦海は今回、関係なかったのか!
 信じられなかった。あってはならなかった。
 だって、味方に裏切られた格好じゃないか!
「汐田教授! なぜあなたたちが!」
 ようやく発するべき言葉を見付けたナミダ先生が、あらん限りの金切り声で問う。
 眼前の暴漢たちに対しても、瞳を潤ませる有様だ。
(あの暴漢どもは、心理学部のポスドク(・・・・・・・・・)たちか! 敵対する精神医学部ではなく、ナミダ先生と同門の仲間たちが妨害工作をしていた?)
 仲間たちが、ナミダ先生に毒牙を――。
 ポスドクは出世に必死だ。例え同門だろうと、ナミダ先生の昇進に嫉妬したのか。
(真相は学部の対立ではなく、内輪もめ(・・・・)だった……!)
 覆面をかぶっていたから、ナミダ先生も気付かなかったんだ。
「色彩心理学において、黒は全てを包み隠す没個性の象徴だ。みんな一様に黒衣と覆面で外見の判別を付かなくさせ、同門だとバレないよう振る舞ってたのか……!」
 それを指示した汐田教授も不可解だ。ナミダ先生を推薦した張本人じゃないのか?
 傷心するナミダ先生に、今度は汐田教授が声を張り上げる番だった。
「ワタシはもう四〇代後半だ。君とは一九歳違いだったかな? 期せずして、フロイトとユングも一九歳違いだったな。いやはや皮肉なものだ。ワタシはユングになりたかったのに、君はワタシをフロイトに見立てていたのだから」
「僕にとってはまさにフロイトでしたよ! ――『フロイトは私の出会った最初の真に重要な人物であった』――ユングがフロイトに抱いた有名な第一印象です。僕は汐田教授にそれを感じました! なのに……なのに……!」
「――『ユングはワタシの跡継ぎ息子だ』――フロイトがユングに放った有名な言葉がある。君はこれを夢見ていたのかね?」
「そうです、あなたは僕の師匠であり、フロイトでした。ユングではなく!」
「いいや。ワタシがユングだ。フロイトはむしろ渦海だ。同じ心理学の道を志しておきながらワタシと対立した奴こそが、ワタシにとってフロイトの見立てだ!」
 な、何か知らないけど下らない言い合いをしているなぁ……。
 フロイトとユングの見立て、だって?
 人の立場によって、見立ては変わるものだ。相談室の交換殺人事件のときも、渦海教授と汐田教授の関係を『さながらフロイトとユングばりに(たもと)を分かちました』って比喩されていたからね。
「ワタシはユングになりたかった。ワタシの人生はユングと瓜二つなのだ。誕生日は同じ七月二六日。子供の頃から『ファウスト』を愛読し、二〇歳で父を亡くし、八歳下の幼な妻と結婚し、教え子や相談者と浮気もした。ああ、まさにユングだ」
「いいえ、あなたはユングじゃない。ユングは浮気をしても、妻と別れることはありませんでした。ですが、あなたは別れた(・・・・・・・)! ユングになり損ねたんです!」
「何だと……!」
「人間の適応機制に『同一化』というのがあります、あるある。憧れの人物を自分と同一視し、なりきることで、辛い現実から気を紛らわせる逃避の心理です」
 あ、それさっきも聞いたぞ。伏線だったのか。
 確かに汐田教授は、ユングになりきる(・・・・・・・・)ことで現実を乗り切ろうと焦燥し、テンパっているように見える。
 失敗しているけど。
 放蕩三昧しても家庭を維持できたユングと違い、汐田教授は離婚している。ユングになり損ねたんだ。そのせいで、別れた妻の息子・霜原から恨まれもした――。
「ワタシはそれでも、元・妻と息子を愛していたんだ!」血眼になる汐田教授。「ワタシが二四歳のとき、一六歳の嫁と学生結婚した。当時の民法は一六歳で結婚できたからな。生まれた息子も今年で二四歳、現在は大学を出て社会福祉士に就職している……ワタシは離婚後も息子を気にかけていたのだ! 愛する息子に殺されるなら、それはワタシの自業自得だ。甘んじて受けよう……だが、それを邪魔する者が居た!」
「僕ですか?」
「そうだ! 湯島くん、君は息子の罪を暴いた! 息子は警察に逮捕され、輝かしい人生を台なしにされたのだよ! 愛する息子(・・・・・)によくも泥を塗ってくれたな!」
「それが、教授の動機ですか……」
「君のような恩知らずを准教授に推薦したことを、ワタシは後悔した!」窓から身を乗り出す教授。「とはいえ、すでに学内人事で話が進み、君の昇進がほぼ内定しつつある。これを取り下げるには、君が失脚するか、辞退するしかないのだよ」
 だから今回、脅迫と誘拐を実行したのか。
(精神医学部とはまた別の、異なる陰謀だったんだ。てっきり同じ黒幕の計略だと思い込んでいたのが、ボクたちの落ち度だ)
 それにしても、ひどい。
 汐田教授の我がままじゃないか。自分のエゴでナミダ先生を翻弄しただけだ。
 霜原が逮捕されたのは、犯罪を犯したからだ。ナミダ先生のせいじゃない。逆恨みだ。
「そんなの勝手すぎませんか?」
 だからボクは口を挟んだ。声を荒げて裏返るほどに。
 久々に女らしいソプラノボイスを叫んだ気がするよ。
「ひどいじゃないですか。ナミダ先生は悪くないのに、あなたの勝手な思い込みで出世を揉み消すなんて、あんまりですよ。あなたも恩師なら、最後まで責任を持って面倒見たらどうなんですか!」
「知ったことか。ワタシは湯島涙を排除する」
「大人の都合のくせにっ」
「黙れ小娘!」
 汐田教授がボクをはたいた。
 痛っ。
 横っ面を平手打ちされたボクは、よろけて転倒してしまった。
 この野郎、ぶちやがったなっ。
 心は男だから怒りが湧いたけど、体はか弱い女なので力が入らず、へなへなと床にくずおれた。腰が抜けて動けない。
 くそっ、肝心なときにボクは……!
「生徒に手を出すな!」
 ナミダ先生が吠えている。
 それは遠吠えだ。
 ここには手が届かない。
「さぁ湯島くん、辞退せよ」息巻く汐田教授。「ワタシが急に推薦を取り消したら不自然だからな。君が辞退するのが一番収まりが良いのだ」
「やめろ。やめて下さい汐田教授――」
 ナミダ先生の声が先細った。
 失望と絶望。
 敬愛する師が、まさかの怨敵に成り下がる悪夢。
 そんな奴にお願いしなきゃいけない屈辱。
 ナミダ先生から戦意が抜けて行く。棒立ちになり、隙だらけになり、暴漢どもが間合いに寄って来ても身構えない。
 彼の持つステッキだって、今にも手放しそうなほど、力が入っていない。
 フロイトとユングが決別したように、汐田教授とナミダ先生も別れようとしている。
(こんな結末、嫌だよ)
 ボクは首を振る。
(そんなナミダ先生は見たくないよ。ナミダ先生はいつだって不遜で、自信家で、人を食ったように心を見透かして、小馬鹿にしつつも思いやりがあって、相談者を励ましてくれたじゃないか。心が挫けたナミダ先生なんて、先生じゃないよ!)
 元気出してよ、ナミダ先生。
 いつものように暴漢を蹴散らして、偉そうに心を見破って、能書きを垂れて、勝ち誇ってみせてよ……!
「単身でここに乗り込んだのが運の尽きだ」窓の外を見下す汐田教授。「所詮、君は独りなのだ。味方など居ない。足を欠損して引きこもっていた頃と同様、君は孤独――」

「いやぁ、そんなことはないですよ、っと!」

「――だ!?」
 やおら。
 部屋の外から、第三者が主張した。
 場にそぐわない、ひょうきんな軽口だ。
 ギョッとして教授が振り返る。つられてボクも体ごと向き直る。
 そこには、冴えないカーキ色のコートに身を包んだ、三〇代半ばくらいの小柄な男性が立っていた。
 あれ? この人、どこかで見たような――。
「何者だ……ぐあっ!」
 部屋に残っていた二名の暴漢が睨みを利かせたけど、雑魚も同然だった。
 男性は空手のような構えを取って、一人をカウンターパンチで叩き伏せ、もう一人には柔道さながらに懐へ飛び込むや、背負い投げで一発KOしてのけた。
 見事な秒殺だった。
「不肖、この浜里漁助(はまざとりょうすけ)にかかれば、下郎(げろう)などお茶の子さいさいだ! 現場の叩き上げで警部に成り上がったノンキャリアを舐めるなよ!」
 浜里……?
 あ、思い出した!
 確か、ナミダ先生と知り合いだっていう、強行犯係の警部じゃないか!
「湯島さん! 侵入成功! 人質は保護しましたよーっ!」
 窓の外を見下ろして、浜里さんが呼びかけている。
「浜里さん……遅いですよ、危うく挫折する寸前でした」
 ナミダ先生も少しだけ覇気を取り戻した。
 苦笑いしているのが、この距離からも判別できた。
「一人で来たのではなかったのか!」
 汐田教授が部屋の隅へ後ずさりする。
 浜里さんはボクの拘束をほどきながら、チッチッと舌を鳴らして口角をゆるめた。
「そりゃあ、警察と一緒に来ましたーなんて馬鹿正直に話す奴なんか居るわけないでしょうに。湯島さんはその点、人の心をたばかるのが上手ですからねぇ」
 警察も動いていた。
 そう言えば、水面下では調べているって、ナミダ先生も話していたっけ。
「ま、警察としては非公式だから、不肖・浜里漁助の単独行動ではあるけれども、こうして現行犯を押さえた以上、もはや言い逃れは出来ないですよ!」
「うぐぐっ……小癪なああああ!」
 逆上した汐田教授が、やぶれかぶれに浜里さんへ突進した。
 ボクを介抱する浜里さんは、両手が塞がっている。おいおい、完全に油断しているじゃないですか……警部のくせに詰めが甘いですよ。確かに非力そうな汐田教授が牙を剥くなんて予想しにくかったですけど。
 浜里さんはボクをかばうのが精一杯だったようで、無防備に体をさらけ出した。あっ、まずい、このままじゃやられる――。

「えいっ♪」

「ぎゃふっ!」
 ――あれ?
 横から瓦礫が飛んで来て、汐田教授に命中したじゃないか。
 見れば、部屋の入口に新たな人影が立っていた。その可愛らしい声と外見は、大いに見覚えがある。
「泪先生!」
 こ、この人も来ていたのか……。
 憧れの女神ともいうべき養護教諭・湯島泪先生が、小さな体と胸を張ってキリリと屹立していた。
 泪先生は足下の破片を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返し、堅実に汐田教授を打ちのめして行く。よ、容赦ないなぁ……。
「えへへ~。私も役に立つでしょ? 浜里さん?」
「あなたが付いて来ると言って聞かないから、黙認していただけですよ!」
 浜里さんが嘆息しながら現場の鎮圧を淡々とこなす。
 石をぶつけられた汐田教授を羽交い絞めにしてから、ボクを束縛していた縄を再利用して教授を捕縛する。手際が良いなぁ。
 泪先生はそれを尻目に、部屋の窓枠から半身を乗り出した。
「お兄ちゃ~ん、私すっごく事件解決に貢献したよ~! 後で抱っこしてね!」
 両手を振って、階下の兄へ自己主張を忘れない。
 うーん。泪先生が居ると、どんな緊迫した場面もお花畑みたいになっちゃうな……。
「……はは。まさか浜里さんやルイに元気づけられるとはね」
 ナミダ先生が、旧校舎入口で踏ん張った。
 足腰に力を込め、義足を奮い立たせ、相貌に凛々しさを蘇らせた。
 近付く暴漢どもを、眼光だけで立ちすくませる。
 あとはもう、先生の独擅場だ。
 暴漢どもが逃げ腰になったのは言うまでもないね。
「ひいっ!」
「やめろ、来るな!」
「俺らが悪かった!」
「助けてくれ……勘弁してくれ!」
 人質という後ろ盾がなくなった連中に、もはや勝ち目はない。
 あっさり観念して平伏する奴まで出たから、さすがにナミダ先生も苦笑したよ。
「あるある。自分の立場が危うくなると途端に命乞いする三流悪役、よくある」
 ――そして、先生の無双が開幕した。
 ステッキを振りかぶり、横に薙ぎ、すくい上げ、突き出す。
 左の義足を軸にして、円を描くように立ち回り、敵をいなして行く。
 そのつど暴漢が一人ずつ地に伏し、宙を舞い、横倒しにされて、泡を吹いて気絶した。
 流麗な演武でも見ているかのような、素敵な杖術だった。
 まるで舞踊だ。
 暴力の血生臭さはそこになく、ナミダ先生の美しさと猛々しさだけが、この舞台を構成する全てだった。
(かっこいい…………って、あれ?)
 ボクはいつしか、ナミダ先生に見とれていた。
 おかしいな。ボクは体こそ女だけど、心は男勝りで、同性の泪先生が好きなのに――。

   *

・使用したよくあるトリック/見立て、叙述
・心理学用語/適応機制、攻撃機制、同一化、リビドーの変容と象徴、モーゼと一神教