3.ボクは二つの死体の狭間にさいなむ
「嘘でしょ? 滝村先生が自殺?」
ボクは即座に呑み込めなかったよ。
だって、担任教師が唐突に死んだと言われても、現実味がなさ過ぎる。
ボクが呆然と立ち尽くす間、隣の泪先生はやけに落ち着き払った様相で、じっと相談室内を見渡していた。
凄いな、泪先生。死体発見現場を物怖じせず観察できるなんて。
こんな血みどろの惨状を目の当たりにしたら、悲鳴の一つくらい上げそうなのに。もしくは青ざめて絶句するとか、膝が笑って動けなくなるとか。
「ふ~ん。戸締まりは万全ね」
なんてことを冷ややかにこぼしているんだ。
泪先生、場慣れしているなぁ。もしかして過去にも流血沙汰に遭遇したことがあるのかな? または、ナミダ先生の義足とかで血は見慣れているとか?
「今日は雨だから~、相談室の窓はぴっちり締め切ってるわね~。となると、出入口はドアしかないんだけど、う~ん。自殺かなぁ?」
「……何をブツブツほざいている……! 早く警察に通報を……!」
ノッポの霜原が、腰の抜けた体を引きずって、必死に訴えた。
血の臭いでむせ返る中、その声で我に返った他の教師陣が、おぼつかない挙動で一一〇番をかけに職員室へ引っ込む。
「滝村先生って常にポシェットを持ち歩いてたわよね~」
泪先生が気にせず呟く。
死体のそばに転がっている小物入れ。
そこから取り出されたとおぼしきカミソリ。
他は何の変哲もない化粧道具ばかりだ。携帯用カミソリだって特に異質ではない。さっきも言った通り、ムダ毛やウブ毛を剃るのに常用するからね。
しかし、そんなものを首筋にあてがって自殺するなんて、衝動的にもほどがある。
なぜこんな場所で、しかも霜原との相談中に命を絶ったのか、ボクの貧困な想像力では補え切れないよ。
「本当に自殺なのかな~?」
泪先生が繰り返し、霜原の長身を見上げた。
一五〇センチくらいしかない小柄な泪先生と、一九〇センチを超えているであろうノッポの霜原とは、実に頭二つ分ほども身長差がある。
やおら傾けられた嫌疑に、霜原はこめかみをピクリとうずかせた。
自身の証言にケチを付けられたと思ったんだろう。
「……自殺しか、あり得ない……誰も手を出せる状況では……なかった」
「ふ~ん?」
泪先生はジト目になって、試すような上目遣いで霜原を眺め続ける。
あ、いいな。その詮索するような視線。羨ましいぞ霜原。ボクも泪先生から一心不乱に見つめられたい。
「警察が来るまでに情報を整理しておきたいわね~」
なんて言い出したかと思うと、泪先生はつらつらと状況を再確認し始めた。
うろたえたのは霜原で、探偵じみたことをぬかす泪先生に腹が立ったようだ。拳を握りしめ、廊下の壁を支えに無理やり起き上がると、彼女の進路を遮った。
「……勝手に……室内へ入るんじゃない……現場が乱れる……」
「何よ~。見られたら困るものでもあるわけ?」
「……そうじゃない、単に現場保存のためだ……滝村先生は自殺で間違いない……なぜなら、相談中にかなり思い詰めていたからだ……」
「やけに断言するじゃない。根拠は?」
「……滝村先生は燃え尽き症候群だったそうだが……アドバイザーやソーシャルワーカーの手で状況を改善すれば、解決できる内容だ……それを知った彼女は少しだけ元気を取り戻したが……その反面、役に立たなかったスクール・カウンセラーに失望し、あんな奴に悩みを打ち明けてしまった自分を恥じた……」
「はぁ? お兄ちゃんのこと馬鹿にしてたわけ?」
泪先生が筆舌に尽くしがたい形相で霜原をねめつけた。
ソーシャルワーカーとカウンセラーのアプローチは根本的に異なる。どの手法が相談者に合うのかは人によるし、破天荒なナミダ先生が苦手な人も居るだろう。でも、だからって悪しざまに罵るような言動は、ボクも聞き捨てならないな。
「……本当のことだ……」にべもない霜原。「……滝村先生は今日、カウンセラーの言い付け通り化粧を変えて来たが、たった一日では効果も薄く、ますます鬱を強めていた……化粧道具をひけらかし、何が悪かったのか首をひねっていた……」
「そんなの言いがかりでしょ~。一朝一夕で解決するわけないのに、いきなり自殺なんて飛躍しすぎ!」
「……滝村先生は完璧主義者だ……きっちりと服を着こなし、化粧も決め、厳しい態度で教員を勤めていた……そんな毅然とした彼女が、恥を忍んで悩みを相談したのに、カウンセラーの助言は役に立たず、今日は出勤すらしない……失望するのは当然だろう」
「仕方ないでしょ、大雨でバスが遅れて――」
「……理由など関係ない……高校に奴が現れない、それが全てだ……教師の悩みを、汚点を、勇気を出して相談した結果がこの体たらく……自分の暗部をホイホイ話してしまった彼女は死ぬほど恥ずかしかったんだ……」
「ふざけんじゃないわよ、お兄ちゃんが無能だって言いたいわけ? あんたこそ横からしゃしゃり出て手柄を盗むなんて、みっともないと思わないの?」
「……論点をずらすな……完璧主義の滝村先生は、湯島涙に自分の悩みが知られてしまったことを嫌悪した……クールに教職をこなすイメージが崩れないかと危惧し、鬱をより一層強めたんだ……」
霜原は、滝村先生が死ぬ寸前まで相談に乗っていた相手だから、きっとそれは本当なのだろう。
滝村先生は自分の内面を他人に握られている状況を厭い、完璧な自分が壊れると感じ、耐えがたい苦痛を覚えた。
霜原はボーッとした間抜け面を、初めてニヤリと動かした。
「……このことが広まれば……湯島氏は失脚するだろうな……相談者を救うどころか自殺に追い込んだ……彼のカウンセリングは異端であると糾弾せざるを得ない……彼を准教授に推薦する話もなくなるだろうな……そして、彼が師事する汐田教授の名にも傷が付くだろう……ざまぁみろだ」
それが本音かよっ。
そうだった、こいつはナミダ先生の恩師である汐田教授を恨んでいる。自分を捨てた父親が許せないらしい。
泪先生が噛み付かんばかりの勢いで霜原に詰め寄った。
「あんたカメリア・コンプレックスじゃないの? 助けるはずの女教師が死んで悲しむどころか、お兄ちゃんへの風評被害を垂れ流すなんて、いい度胸じゃないのよ」
「……もちろん悲しいさ……だからこそ、元凶である湯島氏を憎まずには居られん……」
「何ですって~!」
「……全ての女性を救いたい気持ちは変わらない……滝村先生を救済したかった……だから誰よりも早く相談に乗りたかった……!」
無念そうに吐露する霜原は、嘘をついているようには見えなかった。
(霜原はカメリア・コンプレックスだから、滝村先生を殺す動機はない、か?)
ボクは思考を巡らせる。
仮に滝村先生が自殺ではなく、実は他殺だったとしたら――犯人はノッポの霜原しかあり得ない。
この人しか相談室に出入りしていなかったからだ。
仮に第三者が殺害するとしたら、霜原がトイレに行ったという隙を突いて何者かが入れ替わりに突入し、滝村先生のカミソリを奪って殺したことになる。
「特に怪しい者は見かけませんでしたよ」
廊下に詰めかけていた教師陣の中から、証言が飛び出した。
なぁ、と周囲に同意を求めると、先生たちは次々に頷く。
「確かに居なかった」
「職員室の窓から廊下を見通せるけど、不審者が通ったとは思わなかったなぁ」
「相談室へ向かう廊下は、トイレを行き来する霜原さんしか往来してなかったはず」
どうやら霜原しか目撃されていないらしい。
第三者の線は途絶えたか……。
霜原に滝村先生を殺す動機がない以上、やはり自殺なのか?
無論、これから来る警察がどう判断するかは不明だけど――。
「あれ? 何の騒ぎですか、これ?」
――ナミダ先生ご本人が出勤したのは、このときだった。
ナミダ先生! うっわ、何という間の悪さ。
職員用通用口で上履きに履き替え、雨に濡れた衣服をハンドタオルで拭きながら近付く姿は、霜原から全力で侮蔑された。
他の教師たちも、滝村先生の死因となった無能なカウンセラーというイメージを刷り込まれたせいで、どう挨拶すべきか戸惑っている。
いや、それだけじゃない。
ナミダ先生のさらに背後から、わずかに遅れて清田のヒラメ顔までもがひょっこり出現したじゃないか。
そうか、この二人って同じ大学に居たから、ここに来るのも重なってしまったんだ。清田がナミダ先生の尾行をしていたせいかも知れないけど。
「おんやぁ? どうにも騒がしいですねぇ!」
そらっとぼけた能天気な清田が、とても腹立たしい。
おどけた舌鋒は明らかに浮いていたし、一同の神経を逆撫でした。
ナミダ先生も、金魚の糞みたいに付いて来る清田が疎ましいようだ。横目で軽く一瞥したあと、ボクと泪先生のもとへ足早に歩み寄る。
「何かあったのかい?」
「あっ駄目ですナミダ先生、相談室は今――」
ボクが止める間もなかった。
ナミダ先生は眼前の惨状を一望してから、こわばった相貌で廊下に向き直った。視線を泳がせる。ボク、泪先生、教師陣、そして血まみれの霜原に目が移り――。
「君がやったのかい?」
「……とんでもない」
――一触即発の空気になった。
ナミダ先生もどちらかと言えば短身だから、ノッポを見上げる格好だ。
睨み合う両雄を引き剥がすようにして、泪先生が兄に抱き着いた。いいなぁ。
「お兄ちゃ~ん、私怖かったよぉ。しくしく」
わ、わざとらしい……。
さっきまで全然怖がっていなかったじゃないですか。冷静に室内を観察していたし。
でもナミダ先生は、そんな妹を抱き留めて、頭を撫でてやった。
「よく頑張ったねルイ。よくあるんだよなぁ、相談患者がある日突然命を絶つことって。悲しいけどあるある」
「……それは貴様らカウンセラーが不甲斐ないからだ」のうのうと述べる霜原。「……心理学など……実は全く科学的ではない……同じ言葉でも聞き手によって意味の取り方が変わるように……心は不確かで捉え所がないんだ……そんな世迷言で相談者をそそのかし、惑わせ、自殺に追い込んだ……湯島氏が滝村先生を殺したも同然だ……!」
「あっはっは!」
さらにヒラメ顔の清田まで入り込んで来た。
声こそ笑い飛ばしているけど、顔面はちっとも笑っていない。ヒラメ顔にしわを寄せて干物みたいになっている。
「んー、スクール・アドバイザーの自分から言わせてもらえば、その言い分には反発したくなるけどねぇ。自分も心理学・精神医学を修めているんでね、ええ」
「……余計な口を挟むな、アドバイザー……」
「まぁそうツンケンしなさんな」バンバンと背中を叩く清田。「で、あの女性教師、死んじゃったんですね、お可哀相に。ふー、合掌合掌っと。いやぁ残念だなぁ、教職員の相談はアドバイザーの専門だったのに。自分なら死なせることなく解決できたのに、一体誰が彼女を追い詰めたんですかねぇ?」
「……そこのカウンセラーなのは間違いない……」
霜原が改めて指差した。
おいおい、ナミダ先生ったら到着早々、周囲から非難されまくりじゃないか。
(まずいな。まだ断定されたわけでもないのに『ナミダ先生のせいで教師が自殺した』という風潮が形成されつつある)
まるで、場の空気が誘導されているかのようだ。
集団の『心理』を意図的に操られている。
場の環境作りをソーシャルワーカーが、心理誘導をアドバイザーがコントロールしているようにさえ思えた。ナミダ先生を陥れるために。
「ま、自分としては手間が省けちゃいましたけどね! いやぁ残念だ!」
ヒラメ顔の清田が、再び呵々大笑してみせた。
手間が省けた、だって?
さすがにボクも聞き捨てならなかった。
「何の手間が省けたんですか?」
「んー? いやぁ、ここだけの話、自分は女教師を癒す振りして挫折させ、湯島さんのせいにして失脚させたかったんですよ、これがまた」
「何ですって~!」
泪先生が真っ先に反応した。
ナミダ先生本人より早いぞ。どれだけお兄ちゃんラブなんだよ。
「お兄ちゃんを失脚させるってどういう了見よ!」
「ほら、自分って大学で湯島さんと対立する学部なんですよ。だもんで、そこの教授に命令されて、湯島さんの邪魔をして来いって頼まれましてね」
やっぱり刺客だったのか! 黒幕は渦海教授だっけ?
ナミダ先生の准教授推薦を阻止すべく、課外活動であるスクール・カウンセラーに茶々入れして、実績にケチを付けようとしたわけだ。
「だからアドバイザーの皮をかぶって、この学校に入り込んだんですよ。湯島さんの手腕に泥を塗れば、推薦も取り消されるでしょ?」
「下らない足の引っ張り合い、あるある」忌々しく頭を掻くナミダ先生。「だから大学でも僕を嗅ぎ回ってたんですね。尾行バレバレでしたよ」
「はっはっは、以後気を付けますとも」ちっとも悪びれないなこいつ。「でもね、くだんの女教師は自主的に亡くなってしまわれた! 自分が手を下す必要がなくなったんですよ。正直、ホッとしてます」
「ホッとしてる、だと?」
「だってそうでしょう? 恩師の渦海教授には逆らえない、かと言って女教師を陥れて湯島さんのせいにするのも気が引ける。良心の呵責にさいなまれていたんですよ! でも、もう自分は何もしなくていい! 勝手に目的が達成されたんですから!」
「なるほど、あなたはオレステス・コンプレックスですか。下らないけどありがちだ」
ナミダ先生がフン、と鼻を鳴らした。
オレステス?
「語源は、エゴと利害の狭間に悩むギリシャ神話の英雄さ」ボクに語るナミダ先生。「父親と母親が意見を対立させて揉めたとき、子供はどっちの味方をしても片方に遺恨が残る……そこから転じて、逆らえない目上の人物からの重圧と、それとは別の呵責に懊悩し、進退窮まった心理状況を指すようになった」
へぇ……この場合は、清田の恩師である渦海教授の命令と、滝村先生の救済が対立軸かな? 上司の命令には逆らえないけど、滝村先生を陥れるのも気が引けたんだね。
「そうそう! それですよ!」
清田がナミダ先生の手を握った。
あいにく即座に振りほどかれたけど。
「いやぁ、社会人はこうした去就に悩まされることが多くて困ります。自分は滝村さんに恨みがない、湯島さんにも恨みがない、心理学部の汐田教授にもない! なのに命令で動かざるを得なかったんですよ、ほんと参った参った」
「なるほど、全て上司の命令だったと認めるんですね、あるある」
ナミダ先生が心底幻滅した様子で、小さく息を吐いた。
そんなことのために業務を妨害しに来るなんて、本当に馬鹿馬鹿しいね。
清田も葛藤していたんだろうけどさ。
「三種の職業が入り乱れた弊害だね」ナミダ先生の私見。「学校の相談業務はただでさえ煩雑なのに、管轄の異なるアドバイザーやソーシャルワーカーが過当競争を引き起こしたせいで、さらに現場が混乱した……お役所仕事によくある失敗さ、あるある」
スクール・カウンセラーの新たな問題点。
これは実際の教育現場でも日々発生し、しばしば報告されているようだ。
各職の管理団体が足並みをそろえず、その場しのぎで導入した結果、本来なら互いを補完し合うはずの三職がぶつかり合い、能率を下げてしまった。
結局、教職員や生徒たちが割を食わされるんだ。
その縮図を今まさに体験して、ボクは頭痛に襲われたよ。
「……だから何だ……湯島氏が滝村先生を自殺に追い込んだのは疑いようがない……」
RRRR。
「あ、僕のスマホが鳴ってる。ちょっと黙っててもらえますか?」遮るようにスマホを取り出すナミダ先生。「何だ、大学からか」
うまい具合に霜原の口をつぐませた。
ナイスタイミングだなぁ、まさか狙ったわけではないだろうけど。
ナミダ先生は廊下の隅に移動しながら、一言二言、電話口に応答した。
すると――。
「ええっ! うちのポスドクが、大怪我を?」
何やらキナ臭い出来事が、向こうでも起こったらしい。
瞠目するボクたちを尻目に、ナミダ先生がスマホ画面に唾を飛ばす。
「あの、先に帰ったポスドクさんが、帰り道で倒れてた? どうして……え、ナイフですか、お腹を一突き? 大雨で視界が悪い中、人っ気のない暗がりで……通り魔事件でしょうか? あるある……」
人が刺された?
そう言えば、泪先生と電話してたとき、雨の中を帰宅するポスドクさんが居たっけ。その人が被害に遭ったのかな?
「どういうことなんだ」
ナミダ先生が珍しく思案に暮れている。他のみんなも、人の不幸に驚愕を隠せない。
大学の同僚が事件に巻き込まれたから当然だけど、こんなに狼狽するナミダ先生は初めて見たよ。
のっぴきならない彼の姿を、さも心地よさそうに見守る清田や霜原が、とてつもなく憎たらしかった。
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