最近は土曜日に出勤する会社は減ってきたらしい。
今日は俺も休みなので久しぶりにゆっくりできる。
もっとも、高三なので受験勉強真っ盛り、姉貴のように寝ている訳にはいかない。
朝八時には起きて、勉強を始める。飯は、姉貴と一緒にすると決めた。
自分で言うのもなんだが、勉強はなかなかできる方で、模試でも全国トップ100に入るレベルだ。
先生からも、こっちの方に関しては心配されていない。
むしろ心配されているのはこの家庭環境のほうだ。
そりゃそうだ。逆に心配しない方がおかしい。
先生には、もう高校生だし、姉貴もいるから心配ないと言っているのだが、
何かあったら学校にすぐ連絡するようにと耳にタコができるほど言われている。そういうところ、何かとまめな先生である。
だから、みんなに好かれるんだろうな。
「おはよう。」いきなりの声に現実に引き戻される。
「おはよう、姉貴、今日のブランチ、何がいい?」
ここら辺は俺の対応を褒めるべきだろう。まあ、17年間一緒にいたから当然と言えば当然なのだが。
「んー、なんでもいい。」
「あの、そういうの俺が一番困るんだけど。俺も姉貴が起きるまで待っていた訳だし、なんかあるだろ?」
一瞬、姉貴の顔に笑みが浮かんでいた気もするが、また元に戻り、
「じゃあ、オムライス。」そう言って洗面所に消えていった。
うっ、またずいぶん手のかかる料理を、と思うところだが姉貴と一緒に飯を食べられるのならそんなのは苦でも何でもない。
「さあっ、今日は気合い入れて作りますか。」
にしても今日の姉貴もおかしい。仮に機能の姉貴なら、「自分で考えろ」ぐらい言ってもおかしくはない。
まあ、反抗しないのでありがたいにはありがたいのだが、なんだろう?
さっき見た感じでは覇気がないというか、うまく言葉に表せないがそんな感じがした。
ひとつ言っておこう。中学校から磨いてきた俺の料理スキルをなめてはいけない。すでに母親からのお墨付きをもらっている。
姉貴のことを考えている間にさっと作り上げる。
振り向くと、姉貴もちょうど着替えて出てきたところだ。
「はい、一丁上がりー」
そういって俺と姉貴の分を並べるが、姉貴からの反応はない。
絶対、今日の姉貴は何かがおかしい。
「いただきます!」
「いただきます」やっぱり、元気がない。
一口食べてみる。よし、我ながらなかなかの出来栄えだ。
これなら姉貴もきっと・・・
「姉貴?」
なんで、なんでそんな顔しているんだよ。俺は、姉貴の笑う顔が見たかったのに。
「姉貴、気に入らなかったら悪かっ、」
「違う!本当に違うから!」
そういって上にかけあがって行った。
「なんで、なんでだよ、俺の作戦大失敗じゃんかよ・・・」
だけど、まだこの時の俺はまだその程度にしかこの事態を捉えていなかった。
俺は姉貴の後を追うようにして二階に上がっていった。

私は部屋に一人こもる。
海音に、海音にだけはあんな姿を見せたくなかった。
海音には、笑っていてほしかったのに。
今頃海音はどんな表情で私のことを見ているだろう?
こんな私を許してくれるはずない。
だけど、私にも何が起こっているか分からない。本当に。
ごめんね、こんなお姉ちゃんで。

姉貴の部屋は俺の部屋の隣にある。
小さい頃、と言っても俺が小学生の時ぐらいまでは、この部屋にも頻繁に出入りしていたものだが、高校生となった今ではさすがに入ることはなくなった。
もっとも、今は意を決して入るしかない。
ドアノブに手をかける。おかしい、開かない。
この部屋に鍵はついていなかったはずだ。ということは・・・
「姉貴、開けてくれ!」
「この変態!さっさとどっかに行って!」
変態に関しては特に何も思わないが、さすがにその次の言葉はさすがにグサッとくる。
「じゃあ開けなくてもいい。ただ、俺の話を聞いてくれ!」
反応はない。それを俺は肯定と受け取る。
「最近の姉貴は、何かがおかしい。昔の姉貴はもっと優しかったのに、今は、今の姉貴は何かに苦しんでいるように見えるんだ。笑っているのに、心がずっと泣いているような感じが。教えてほしい。姉貴に何が起きているのか。
少なくとも、姉貴のことを一番知っているのはこの俺だから。」
姉貴がどんな状態なのか分からないけど、俺は姉貴を待つ。
意外にも、答えが返ってくるのは早かった。
「味を、感じないの。」
「えっ」
「昨日まではちゃんと味を感じてたのに。コンビニ弁当だろうが何だろうがちゃんと感じてたのに。今のオムライスを食べたとき、すべての味を感じなくなってた。海音がせっかく作ってくれたのにね。本当に、ごめん。」
味を、感じなくなる?そんなことが本当に起こるのか。
「だけど、きっとこれは罰なんだよなって、今になって思ったの。」
「そんな訳、」ないという前に姉貴が言葉を継ぐ。
「海音のことを放っておいた私への。」
「違う!姉貴は、俺にとっての心のよりどころだから。姉貴がいるだけで俺は今日も頑張ろう、って気になれた。だから罰なんてそんなことありえない!」
ドア越しでも姉貴が泣いているのが伝わる。頼むから、泣かないでくれ。
「とりあえず病院に行こう。病院に行けば何か分かるかもしれない!」
数秒の沈黙が、俺にはすごく長く感じられた。
「分かった。」この涙ぐんだ姉貴の声を、俺は二度と聞きたくない。
「じゃあ、準備できたら下に来てくれ。」
あくまで、平静を装う。ここで動揺がばれたら姉貴の不安が増幅しかねない。
下に降りようとドアから離れようとする。
次の瞬間、俺の後ろから誰かが抱きついてくる。
「海音、海音、私を、助けて。」今では、その意味を理解するのに時間はいらない。
「もちろん。」
外の大雨が、少し引いた気がした。

「これじゃ全部海音に丸投げじゃない。」
昔からそうだった。基本的に新しいことは全部海音に丸投げ。
これじゃどっちが年上なのか分からない。
だけど、同時に私はうれしかった。
海音が、私のことを考えてくれている。私を忘れないでいてくれている。
それだけで、一人じゃないと思えた。「ありがとう」と思えた。
さっきだって、「姉貴がいるだけで俺も頑張ろうって思えた」って、その言葉だけで私が泣くこと分かって言ったとしか思えない。
本当、どこまでいいやつなんだよ、海音は。
やっと涙と準備が終わった私は下に降りていった。

病院には自転車で行けば五分で着くのだが、残念ながら外は大雨だ。
まあ、歩いて行ってもそこまで遠くないので歩くことにする。
それに、その時間で姉貴から話も聞きたい。
そう思いながら俺は二人分の傘を用意する。
この傘、俺の母親が買ってくれた数少ないもののうちの一つだ。
俺には青、姉貴には赤、つくりもシンプルで、色もありきたりだがそんなことはどうでもよかった。これだけで母親が近くにいる気がするから。
「ごめん、待たせた?」
化粧をしていてもかつてのようなかわいさは感じない。
これも、味覚がなくなったからなのか?
「いや、俺もさっき終わったところだ。じゃあ、行こう。」
俺は赤い傘を姉貴に渡す。
いつもの姉貴ならここで、「ありがとう」を言うのだが、珍しく今日はそれがない。
思えばそうだった。最近は、姉貴から「ありがとう」を聞いていない。
これも何か関係があるのか?
「早く行こう。」見ると姉貴もヒールを履きおわったところだ。
「あ、ああ」考え事をしていたせいで声がちょっとぶれる。
しかし、姉貴は気にした様子もなく、俺とともに家を出た。

これが病気なのかどうか私には分からない。
だけど、きっと私のせいなのだろう。
海音は否定してくれたけど、私の職場で思っていた怒りを海音にぶつけていたことは事実だし、私だってきっとそれでストレスを感じていたんだと思う。
外は相変わらずの大雨。いくら梅雨だって言ってもこれでは私の心の中を暗示しているようなものだ。せめて曇りにしてほしかった。
「姉貴、大丈夫か?」まただ、また海音に心配をかけた。
「あ、うん、大丈夫。」
「ならよかった。うつむいているからよっぽどショックだったのかなって。」
ショックじゃないはずがない。だけどそれを出すと海音が心配する。
海音のそういう顔は、私が好きじゃない。
「ううん、ちょっと考えことしてただけ。」
「大丈夫だって、病院行ったら治るよ。」
本当、海音は的確に私の急所を突いてくる。その言葉をかけてくれるだけで、私の心もいくらか和らぐ。
「なあ、姉貴。」海音が深刻そうな表情で私に声をかける。
笑って、と言いたいところなのだが、当の私がこういう状態なのだからしょうがない。だけど、やっぱり見たくない。海音のそういう表情。
「ん、どうしたの?」聞かなくても分かっている。海音のその表情を見ただけで。
「姉貴は姉貴の生きる道がある。そこに俺が干渉する権利なんてない。だけど、もし辛いことがあるなら俺に言ってくれないか。俺は、姉貴を助けたい。だから、まずは姉貴のことをもっと知りたいんだ!」
まさか海音が私のことをそこまで心配しているとは思わなかった。
いくら姉弟とはいえ、社会人と高校生だ。
だけど、海音がそこまで心配しているなら私も応えなければならない。
私は、海音に助けを求めた身なのだから。
「私、たぶんストレスを抱えているんだと思う。そのせいで、海音にもきつい態度とったりして、本当にごめん。」
違う。海音が求めているのはこんなことじゃない。
分かってはいるのに。また涙腺が崩壊しかける。
雨が傘や地面に打ち付ける音だけが聞こえる。
本当は私が話さなければならないのに、このままじゃまともに喋れそうにない。
この静寂を破ったのは海音だった。
「泣きたいなら思いっきり泣けばいい。つらかったこと、悲しかったこと、今まで姉貴が心の中に押しとどめてきたこと、全部、全部この雨と一緒に隠してしまえばいい。そうすればきっと楽になれる。
これが、今の俺に言えるただ一つのことかな。」
バカ、私の涙腺崩壊させないでよ。
「ごめん、海音、だけど、もう私、」
そういって地面にしゃがみ込む。もう、持たない。
「うっ、うっ、うっ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ひたすら泣きじゃくる。まるで幼子のように。
だけどこんな私を、海音は何も言わずに後ろからさすってくれた。

どれだけ時間がたったか分からない。一分かもしれない、一時間かもしれない、ただ、姉貴はひたすら泣いていた。
泣き終わった後の姉貴の容姿はひどい以外の形容詞が思いつかない。
化粧にいたっては型が崩れ、しない方がよかったのでは、と思うほどである。
だけど、間違いなく顔はよくなった。
俺がが恥をしのんで行ったセリフが少しでも役に立ったのならよかったと心の底から思う。
これで逆効果だったら助けるどころか絶望のどん底に突き落とすようなものだ。俺は戦犯になっちまう。
ただ、まだ姉貴の根本的な部分は解決できていない。
だけど、そこは医者が解決してくれる。そう信じたい。
「ありがとう、海音。」見ると、姉貴が立ち上がっていた。
「とりあえず、その化粧を直さないとな。」
「やっぱ、そんなひどい?」
「それは、鏡を見てのお楽しみということで。」
姉貴から笑みがこぼれる。やっぱ姉貴は笑っている顔が一番だ。
「あれ、もうこんなところまで来てたんだね。」
見ると、もう病院の裏側まで来ていた。
「本当だ、良かったじゃん、鏡が近くにあって。」
「ねえ、本当に教えてよ。」
思わず笑ってしまう。姉貴があまりに無邪気すぎるから。
それを見て姉貴も笑っている。良かった、元気で。
その姿を見ただけで俺も安心する。
「じゃあ、ひとまず戻ろうか。」
そういって俺たちはもといた道を引き返していった。
もっとも、俺はこの道を通ったのか覚えていないけれど。

家に帰ってから私は化粧を直す。
思わず見た時には「これ本当に自分」と疑ってしまった。
それくらい酷かった。
にしても海音が笑っているところを久しぶりに見た気がする。
それだけで私の心も和らぐ。というか、今日は本当に和らげられすぎだ。
だけど、まだ根本的には解決していない。
早く、これを直して海音の心から笑う姿が見たい。
また、海音と一緒においしいご飯を食べたい。
そんなことを願いながら、私は洗面所を後にした。

さすがに涙の後は取り切れなかったようで、少し目を凝らしてみてみるとまだ涙の線が見える。
だけど、前に家を出た時よりかは顔も良くなっている。
「何、なんかついてる?」
姉貴の口調にも、元気が戻ってきた気がする。
「いや、何も。」
「そう、ならいいわ。」
「じゃあ、改めて行こうか。」
そういって俺たちは外に出る。
だけど、外はまだ大雨だった。

今度の道のりで交わされるのは他愛もない会話。
海音が意識していたのかもしれないし、私が意識していたのかもしれない。
だけど、私が社会人になってから海音とはあまり話せていなかったので、この時間でさえも、私にとってはうれしく感じられた。
だが、その時間も長くは続かない。
「あっ、もう病院が。」
「じゃあ前はこのあたりで泣いていたことになるのかな。」
「やだ、結構人通り多いじゃない。」
「もしかしたら、近くで誰かが見ていたかもしれないねー。」
みるみる顔が紅潮していくのが自分でも分かる。
いまさらになって恥ずかしい。
「ハハ、冗談だよ。通りかかっても凝視する人なんて誰もいないって。」
「ちょ、それどういう意味よ。」
ちょっぴり意地悪だがその口調からは悪意のかけらも感じられない。
本当、憎めない性格。
「ほら、もう着いたよ。」
「次は私ががんばる番ね。」
「まあ、実際頑張るのは医者のほうだけどな。こんな珍症状、医者にとってはありがた迷惑だ。」
「やっぱ海音、最低!」なんか悔しいので言い返しておく。
「がんばれよ、姉貴。」
急の応援にびっくりする。
「うん。」
海音に力強く言いながら私たちは病院の自動ドアを潜り抜けていった。

姉貴の検査はすべて終わった。後は信じるだけだ。
また、姉貴と温かい飯を食べられると。
「水無月さーん、お入りくださーい。」
妙に間延びした看護師の声が俺たちの耳元に響く。
「いよいよね。」
「大丈夫だって、姉貴なら。」
そういって俺は姉貴を見送ろうとする。
「あのさ、」
「どうした?」
「あの、一緒に、来てくれない?」
まさか姉貴からその言葉が出るとは思わなかった。
「いや、そうすれば幸福も二人で分かち合えるし、、万が一ショックだった時も、悲しみが半分で済むからさ。やっぱ、ダメ?」
「いいよ、俺は姉貴を助けなきゃいけないからな。」
ありがとう、とは言わずに姉貴はドアを開ける。
まるで「ありがとう」の五文字を忘れてしまったかのように。
そこだけが俺にとっての気がかりだった。
まあ、気にしすぎというやつだろう。俺は姉貴の後を追う。
見ると、気難しそうな医者が気難しそうな表情をして座っている。
全く、笑顔を知らないのか、この人は。
「あの、診断結果はどうだったんですか?」
耐え切れず、俺は聞いてしまう。
「味覚忘却症です。」
「えっ、」俺と姉貴の声がはもる。
聞き間違いであってほしい。しかし、その願いは届かない。
「残念ながら彼女の、水無月文音さんの病名は、味覚忘却症です。」
俺と姉貴から絶望があふれ出す。
「聞いてお判りでしょうが、主症状は名前そのまま、味を感じられなくなること、原因はおそらく日頃のストレスでしょう。今のところ、解決法は見つかっていません。すぐに緩和療法を始めますが、文音さんの場合、早急な入院手続きが必要です。すみませんが、生活に必要最低限なものをとってきていただけませんか?」医者が淡々と読み上げる。
なんで、なんでこうなっちまうんだよ。
俺の目から涙が流れ落ちる。
「さあ、あなたはこちらへ。」
看護師に連れられて姉貴は部屋を後にする。
その顔からは涙こそないが、絶望の色がとめどなく溢れている。
きっと、俺が見た中で最悪の顔だ。
「あの、よろしいでしょうか?」
もう、答える元気すらない。
「両親は外国にいらっしゃるんですよね?」
俺は首を縦に振る。今は、声を出せそうにない。
「だとすると、あなたに説明するしかなさそうですね。本来、味覚忘却症というのは、甘い、しょっぱい、すっぱい、苦いなどの感覚のうち、一つをわすれてしまう病気なんです。しかし、あなたのお姉さんの場合、そのすべての感覚を忘れてしまっているんです。私も長いこと医師として患者を見ていますが、こんな症状、見たことないでんです。。もし、彼女の症状の原因に心当たりがあるのなら、今でなくてもかまいません。ここまでご連絡ください。私は常にここにいますので。」
年にしては相当高い声で、その医者は言ってのけた。
横には、別の看護師がティッシュを持ってくれていた。

私は、もはや泣くことすら忘れていた。
ただ、現状が信じられないだけだ。
心の奥底では「もしかしたらこうなってしまうかも」程度には考えていた。
だけど現実として突きつけられたら話は違う。
頭が、絶望でフリーズしてしまった。
「ごめん、海音。また、心配をかけちゃって。」
しかし声にはならない。
「今はつらい大丈夫よ、また検査して、直して、またあの優しい弟のところへ行ってやりなさい。」
仕事柄慣れているのだろう。それにしても笑顔が絶えない隣の看護師には感服である。
「とりあえずここがあなたの入院する部屋ね。」
306号室、何の思いいれもない部屋。
とりあえず、海音に送っておこう。そう思ってスマホを取り出す。
「ごめんなさい、ここスマホ禁止なの。使いたいなら下に行ってね。」
「あ、すみません。」
何の悪気もないのは分かっているが、ちょっとむかつく。
まあ、下で聞けば分かるはずだから、海音には悪いけどここは省く。
今日からここで過ごすのか、そう思うと嫌気がさす。
「じゃあ、もうちょっと経ってから来るから、待っててね。」
周りにいるのは老人ばかり、話し相手なんて見渡す限りいない。
かといって今ここから動く気もしない。
「海音、本当に、助けて。お願い。」

外に出ると雨は来た時よりさらに強くなっていた。
俺は体に任せて傘を開き、外に出る。
雨が跳ね返って、傘をさしていてもすぐに全身が濡れる。
行きは、こんなこと気にならなかったのに。
俺のそばには、いつだって姉貴がいた。だけど、今は・・・
これが、神が望んだ結末だと言うのか?
だったらこんなストーリー、最悪だ。
そうだよ、俺は姉貴のいない生活なんて考えられないんだ。
だから俺は、絶対姉貴を助ける。
いつの間にか着いていていた家で、俺は体に任せて準備を始めた。

スマホは禁止、本はない。話し相手もいない。こんなの、嫌だ。
やっぱ私は海音がいない生活なんて考えられない。
だけど、自分ではどうしようもない。
果たして、こんな私に意味はあるの?
このまま、一生迷惑をかけ続けるならいっそこのまま落ちた方がいいのかもしれない。
だけど、私は死にたくない。海音と一緒にまた二人でご飯を食べて笑いあってはいけないのだろうか?
昨日と同じようなことを気づいたら願っていた。
「君が水無月さんでいいんだね?」
見るとさっきの人とはまた違う人が立っている。どこか儚げな顔だ。
「あっ、はい。」
「バイタルは?」どうやら看護師に聞いたようだ。
「体温36.4度、血圧上115の下50、SpO2,98パーセントです。」
私にはよく分からないことを言っている。特に最後。
「じゃあ、点滴入れていくよ。」
そう言って、私の腕に針を刺した。
痛くはなかったが、強烈な眠気に襲われた後、意識がなくなった。

またこの病院に来た時には、日が傾いていると分かるほど空は暗かった。
準備に思ったより時間がかかってしまったようだ。
「姉貴、すまない。」心の中でそう思いながら自動ドアをくぐる。
「すみません、今日はもう診察は、」
「あの、荷物を届けなければならないのですが、水無月文音さんの部屋はどちらでしょうか?」
「あっ、すみませんでした。えーと、水無月さんのお部屋ですね。
306号室になります。」
「ありがとうございます。」
そう言って俺はカウンターを後にする。
姉貴、俺が、必ず助けるから。
306号室の前のプレートに「水無月文音様」と書かれていて改めて現実を突きつけられる。
「姉貴ー、入るぞー。」
返事はない。俺はそれでも入っていく。
見ると、姉貴は寝ていた。点滴付きで。
「君が荷物を届けてくれたのか。ありがとう。」
「うわっ」
いきなり後ろから声をかけられ、思わず身構える。
「はじめまして、佐藤と申します。」
「は、はじめまして。」
「君は彼女の弟、でいいのかな?」
「はい、あの、姉貴、いや文音の容態はどうなんですか?」
点滴がついている、それだけで不安になってしまう。
「彼女の容態は安定しているよ。そこに関しては問題ない。ただ・・・」
たしか佐藤と言ったはずの医者の口がよどむ。
「ここから先は覚悟して聞いてほしい。君に、その覚悟はあるか?」
姉貴を助けると俺は誓ったんだ。とっくのとうにそんなもの、できている。
「はい、お願いします。」
「そうか、彼女の容態は安定している。それは伝えたとおりだ。ただね、味覚を忘れてしまっているというのは結構大変なことなんだよ。通常の症例なら緩和療法でそこそこ良くなるし、普段の食事も味覚として感じられるものを中心にすればいい。ただ、君も知っている通り、彼女な場合はすべての味覚を忘れてしまっている。こうなると、どのような食事を用意しても、彼女が受け入れてくれることはないと言わざるを得ない。。」
一瞬、今日の朝のことが脳裏をよぎる。
「その表情を見る限り、君にも心当たりがあるようだね。」
「君も、ってことは佐藤さんにも心当たりがあるんですか?」
「ああ、まえいた病院で一人だけね。さらにその時担当したのは私なんだ。その人は何かに悩んでいるように見えた。だけど、結局私はその理由を知ることはなかった。彼女は、衰弱してしまったんだ。」
懸命に言葉を選んでいるのが俺にも伝わる。
だけど、だとしたら姉貴も・・・
目がどんどんぼやけてくる。
「だけど私はもう二度とあのようなことは起こさないと誓ったんだ。今だって、君のお姉さんにとりあえず点滴で栄養は送っている。それに、この事態はこれが初めてじゃない。私は最善を尽くす。だから、君も教えてほしい。彼女が、ここに行きつくまでどうなったのかを。」
「俺も、できる限りのことはしていくつもりです。だけど、最近は話す機会がめっきり減ってしまったんです。大学生までは、本当にお互い隠し事がないんじゃないっかってくらい、互いのことは知っていたんです。だけど、社会人になって少ししたら、姉貴、人が変わったように話さなくなって。最近は、何かにイライラしてしているような、辛いような、そんな感じがしました。」
「そうか、ありがとう。私もいろいろとアプローチをかけてみるよ。」
そういって去ろうとする。
「あ、あの」
「なんだい?」
「関係あるかはわからないんですけど、最近姉貴の口から、ありがとうがなくなった気がするんです。」
「なるほど、それは気になるな。いや、本当に今日はありがとう。」
そういって佐藤と言う医師は去っていった。
俺は、姉貴のそばで起きるのを待つことにした。
外はすっかり暗くなっていた。

私は実は起きていた。途中からだけど、二人の話も聞いていた。
「そうか、私、このままだと死ぬのか。」心の中でそう思う。
これは、私の問題なのに。海音に迷惑かけっぱなしな自分を呪う。
悔しい、本当に悔しい。何もできない私が。
気がつくと、腕を目にやっていたようだ。
「起きたか、姉貴。」嬉しそうな海音の姿がぼやけて目に入る。
「私、死ぬのかな。」
何で第一声がこれなの。もうちょっと言うことあるでしょ。私のバカ。
「そんなわけ訳ないだろ。何言ってるんだよ。姉貴。」
本当に悲しそうな、それでいて説得するような顔をしている。
「だって私、何も食べられないんだよ。」
「大丈夫、俺が助けるって約束しただろ。」
「それに私、ありがとうって言えてなかったんだね。」
「やっぱ、聞いてたのか?」
「ありg、ぅ、・・・」なんで、なんで言えないの?
「大丈夫か、姉貴!」
「ハァ、ハァ、ごめん、海音。」
海音の前ではこんな苦しい表情、見せたくなかった。
「姉貴、とりあえず休んでて。」
「呼ばなくても大丈夫だから!」
「なんで・・・」
「後、今日は帰って。海音に、もうこれ以上苦しい姿を見せたくないから。」
「姉貴・・・」
「ごめん、海音。だけど・・・」
「姉貴、もし死のうとしたりしたら俺も後を追うから。姉貴のいない生活なんて考えられないから。だから、生きてくれ。」
足音が、病室から遠ざかって行った。
「これじゃ、死ぬに死ねないじゃない。」
一人で、泣いた。その時の涙の味すら、私は感じられなかった気がした。

外は六月とは思えないほど寒かった。
「とは言ったものの、俺は一体どうすればいいんだ!」
結局医者に頼るしか、いや、訂正しよう。佐藤さんに頼ることしか俺にはできないのか?いまさらになって自身の無力さを痛感する。
そういえば、俺は飯を食べることすら忘れていたようだ。
腹が悲鳴を上げている。俺自身は不思議と腹は減っていないのだが。
家に着くと、朝の残りのオムライスを取り出す。
今まで食べてきた飯の中で、最悪の一人飯だ。涙の味しかしない。
気が付くと、俺は泣いていた。
「姉貴、俺は・・・」どうすればいいんだ。
結局この日、俺の寒さが収まることはなかった。いろいろと。
やっぱこんなストーリー、最悪だ。